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レジュメ「石原俊『近代日本と小笠原諸島―移動民の島々と帝国』第5章・第6章」

松田 有紀子 20100828 第15回歴史社会学研究会

last update:20101219

■文献情報:石原俊, 2007, 『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』平凡社.

□第六章 海賊から帝国へ―占領への道程(一八六九‐一八八六)

◆目的
 主権国家・日本がどのように小笠原諸島を「排他的な法」に巻き込んでいったのかを明らかにする「218」。
◆分析手法
 小笠原諸島周辺の海上実践者、「父島におけるローカルな法の頂点」・ベンジャミン・ピーズに注目。
占領をめざす日本帝国や欧米諸帝国の政治家や官吏たちから、法的介入の焦点とされた人物。記録が多い。
→各方向から書かれたピーズの記録の断片のつきあわせによって、「実践の多面性」を浮かび合わせる。

・石原[2007]による3つの時期の定義
(1)1860年代末-1870年代前半…小笠原諸島をめぐる社会的・経済的実践
(2)1870年代半ば…明治政府、欧米諸帝国の主権的介入
(3)1870年代-1880年代…日本帝国による排他的な法の既成事実化

◆方法論
 一次史料・二次史料の収集・分析。
・大英帝国領事ロバートソンの講演録『小笠原諸島』、大英帝国教会系宣教師チャムリーの記録集
・明治政府官吏の編纂した記録集(『小笠原島誌纂』、『小笠原島新誌』、『小笠原島要覧』など)
・明治政府官吏の手による公文書類(『(大)日本外交文書』、『東京市史稿』、「小花作助関係史料」など)


◆1860年代末-1870年代前半…小笠原諸島をめぐる社会的・経済的実践

1869年:
ピーズ、トマス・ウェブの水先案内で父島に上陸。牧場を開き、西大西洋を航海し交易や売春業に着手。
1873年5月:
イギリス公使パークス、外務少輔に小笠原諸島移住者の管轄を問い合わせ。イギリス籍のウェブが、ピーズに託した土地所有をめぐる抗争の「嘆願書」をもとに、イギリスの先占を主張。他方、フランス籍のルズールはフランス共和国領事に告訴状を送り、ピーズの「海賊ノ所業」からの保護を訴える。
1873年8月:
ピーズ、横浜のアメリカ大使館に訪れ、小笠原諸島の管轄国を問いただす。デロング公使はペリーの領有宣言を追認せず、アメリカ出身者は国民の権利・義務を破棄したと見解。
1874年1月:大蔵卿大隈重信、ピーズの土地所有について、小笠原諸島への「着手」方針を文書で示す[231-4]。
1874年10月:ピーズ、扇浦にて行方不明。明治政府の官吏・小花らは捜査を打ち切り。

・石原による3点の指摘[229-230]
@ 移住者の一部は領事裁判権の介入を求めることで「『法』と『暴力』(の境界)を定義する力それ自体を主権国家に預け始めた」[229]。
A 日本帝国や欧米諸帝国は、移住者の訴えによって小笠原諸島に主権的な介入を試みはじめた。
B 「土地所有をめぐる移住者間の抗争は、当事者自身によって遡及的に、主権的な法言説に翻訳」された[230]。


◆1870年代半ば…明治政府、欧米諸帝国の主権的介入

1875年:
4省(内務・外務・大蔵・海軍)の官吏団が父島に入港。全島戸主に「受書」署名を命じ、全構成員を登録。扇浦に「仮役所」を設置。2日後、イギリスの官吏団が父島入港。領事ロバートソンによる土地抗争の調停に明治政府官吏が同席。
1876年:
 明治政府、欧米16カ国の公使にむけて、小笠原諸島の領有を正式に宣言。外務大臣・寺島宗則、領事裁判権の適用を求めるイギリス公使パークスに、小笠原諸島は法文上「不開港場」であるから、「外国人」とはいえ日本人と同様に扱うと回答。
→出張所には、「(1)警察権を含む行政権、(2)検察権と裁判権を兼ねた司法権が集中させられ、現場の官吏には、主権の強力なエージェントして振る舞う権限が与えられた」[248]

◆1870年代-1880年代…日本帝国による排他的な法の既成事実化
1877年正月:
 扇浦に日本帝国の出先機関として内務省小笠原島出張所設置、所長として小花作助が就任。
1877年2月:
 明治政府の官吏、父島の住民に法の発動を正式に宣言。
1877年6月: 開墾地の私有を認める「島規則」にもとづき、「仮地券」発行。
1877年12月:
外務大臣・寺島宗則「外国人」移住者が帰化しなければ、訴訟の際に「捨て置かねはならぬ」と発言。
1878年6月:
 内務卿伊藤博文、出張所に永住を許可された「外国」出身者の「内地移住」を禁止する「達」を出す。既に日本国籍に「入籍」した「帰化人」も適用対象。内務省小笠原出張所所長・小花、内地出身者とは別に「外国」出身者の中から「外国人世話掛」任命。
同年:内務省、群区町編成法を導入するも、小笠原諸島は伊豆諸島と同様に適用外。

1879年:
内務省、小笠原島地所下渡仮規則を発動し「内地」からの移住者にも無制限の開墾と私有を認める。
→「小笠原諸島で『外国人』として掌握された人びとは、さまざまな例外的措置を介して日本帝国の主権的・排他的な法の下に巻き込まれていった」一方で、「かれらがこの島々を拠点として培ってきた社会的・経済的実践は、現場の官吏が運用するさまざまな例外的措置によって黙認・追認されていく」[244]

→「日本帝国がこの島々の移住者に対して掲げた保護の論理は、あくまでもかれらを主権的・排他的な法の下に組み込んでいく目的のために編み出された」[258-9]。

1880年:
小笠原諸島の管轄が伊豆諸島とともに東京府に移管、出張所は東京府小笠原島出張所に改編された。
1881年:
東京府小笠原島出張所長・南貞助、知事の裁可を得て移住者の代表からなる小笠原会議所を創設。
1882年:
南貞助、永住を認めていた「外国人」全員に、日本帝国の「臣民」になる(=入籍)ことを命じる。以後、小笠原諸島の「外国人」は「帰化人」と名指されるようになった(「国際結婚」を経ない例外的措置)。「外国人世話掛」は「帰化人世話掛」として再設定され、「内地」出身者の世話掛とは別に存続。
1885年4月:
父島移住者100名が総代議員の総辞職を求めて議長の自宅を取り囲む(「小笠原兇徒嘯聚事件」)。警視庁二等警視ほか、十数名を逮捕・拘留し内8名を東京重罪裁判所へ送検。
1885年12月:
父島に公娼制度の導入も私娼は存続。母島では1910年代になっても導入されず。
1886年:
出張所による島司の設置を求める上申書を受け、小笠原島出張所にかわり小笠原島島庁設置。島司に知事の権限が付与される。
1888年:
一般町村編制法を導入も、翌年北海道・沖縄と小笠原諸島含む「島嶼」に分類された地域を除外。
→法文上は日本帝国の「内地」であるにもかかわらず、参政権を保有する臣民(「公民」)として認められず。東京府議会の参政権からも排除され、立法過程に関与することができなかった[250]。

◆小括 「帰化人」という例外的存在
 1885年の上申書より、「帰化人」は日本帝国の臣民に組み込まれた後も、固有の法の対象として認識されていた。
「奈何セン人種同シカラサレバ彼我習慣ヲ異ニシ、内国人ヲ統括スルト自然同轍ニ出ツヘカラサルノ状勢アリ」[263]。
*外交や統治史料の「結果」だけでなく成立にいたる「過程」(思考錯誤)も丁寧に言及している。

◆総括
 第五章・第六章は、幕末期から明治に至る通史。日本帝国の主権が成立し、徳川幕府から明治政府へ移行していく過渡期にあたる。当時の小笠原諸島は、日本のみならず、文明国=帝国と海の移動民たちとの接触領域contact zoneであった。ともにキーパーソンのミクロヒストリーを追うことで、日本帝国の小笠原諸島への干渉が、移動民の生活・交易(実践)のレベルでどのような影響をもたらしたのかを描いている。ミクロヒストリーを社会学的に記述するという分析手法の事例である。
 徳川幕府が移住者を法の中にとり込んでいく手順は、明治政府によってほぼそのまま踏襲された。これには万次郎らの移住者との交渉の成果や経験が、小花の存在によって明治政府の方針に反映されたという経緯がある。小笠原諸島の日本帝国への編入は、欧米諸帝国との緊張関係のなかで成立したものであり、そのダイナミズムはキーパーソンの生に密着することで明らかになった。また第五章では、帝国の主権的な介入を許したのが、当事者である移住民自身だと判明する。移住民の航海や交易など、多様な「実践」を保障するために法的根拠とされたのは、幕府の官吏によって発行した地券である。幕末期の万次郎らの実践は、移住民自身によって実効性をもたされたともいえる。





*作成:松田 有紀子
UP: 20101219 REV:
全文掲載  ◇石原 俊 
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