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ホロコーストの表象の可能性――ヘイドン・ホワイトが残した課題

金城美幸 2010/07/05
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20100705
吉田 寛・篠木 涼櫻井 悟史 編 20100705 『特別公開企画アフター・メタヒストリー──ヘイドン・ホワイト教授のポストモダニズム講義』,生存学研究センター報告1,191p. ISSN 1882-6539 ※


1.はじめに
近年イスラエルの民の身の上に降りかかったショアー〔大災厄〕、すなわちヨーロッパに住む数百万人のユダヤ人の虐殺は、エレツ・イスラエル〔イスラエルの地〕にユダヤ人国家を再建することによって、故郷および独立国家の喪失状態という問題を解決する必要性を、新たに明確に示すもう一つの証であった。このユダヤ人国家は、全てのユダヤ人に故郷の門戸を広く開き、ユダヤ民族に、他の諸民族と同様、平等な権利を持つ民族としての地位を与えるものである。
――イスラエル国家独立宣言より

 1948 年、イスラエル国家の建国が宣言された。この宣言のなかで、建国の正当性の根拠とされているのは、ホロコーストを頂点とする反ユダヤ主義に苛まれるユダヤ人には、自らのための独立国家が必要だという点である。しかし、パレスチナに「ユダヤ人国家」を建国するためには、パレスチナに既に住み、多数派を構成していたパレスチナ・アラブ人の「移送」を必要とした。イスラエル建国宣言前後に実行された軍事作戦の結果、パレスチナ・アラブ人は独立国家樹立への道が絶たれ、約75 万人が難民となった。パレスチナ社会ではこの出来事は、アラビア語で「大災厄」を表す「アル=ナクバ」として記憶されている。「アル=ナクバ」から60 年以上経た現在まで、イスラエル政府は、パレスチナ人難民の発生に対する責任を否認し、故郷への帰還や失った財産の返論文還・補償も認めていない。

 このパレスチナ難民問題は、イスラエルとパレスチナ社会の和平交渉において、重要課題の一つでありながら、実質的解決のための議論は進まずにいる。その根源的な理由は、「ユダヤ人国家」という原理を掲げるイスラエルが、パレスチナ難民の要求する故郷への帰還権を承認せずにいるためである。現在のイスラエルは、国内に約20%のパレスチナ系住民を抱えているが、ユダヤ系住民が多数派としての地位を維持できるよう、在外ユダヤ人に対して帰還の権利を認める帰還法の制定など、様々な人口統計学的努力が行われてきた。このようにパレスチナ人難民の故郷への帰還を阻み、他方で国外のユダヤ人の帰還 を奨励する政策を人種主義的政策だとする声も多い。

 このような「ユダヤ人国家」の維持において、ホロコーストの物語はいかなる役割を担っているのか。ホロコーストが「ユダヤ人国家」建国・維持のためにどう利用されてきたかの検討は、近年いくつか行われている。ケナンは、建国以降から1960 年代初めまでのイスラエルの歴史記述のなかでのホロコーストの扱われ方を論じている。彼女は、建国当初にゲルショム・ショーレム、イツハク・ベアらによって形成されたユダヤ研究の「エルサレム学派」の中にあった、ホロコーストに対する沈黙の姿勢を指摘し、エルサレム学派の研究者たちがシオニスト的ユダヤ史の中にホロコーストを位置づけることに困難を感じていた点を論じている[Kenan 2003: XV-XXVII]。また、ナチスからの解放後、新たに避難民(Displaced People)キャンプに収容された生還者たちに対して、イスラエル政府指導者らが消極的な援助しか示さなかったという彼女の指摘[ibid. 19-35]は、セゲヴの議論とも重なるものである[Segev 1999]。セゲヴはとりわけ、50 年代以降、ホロコーストについての沈黙を破り、その記憶を別の形で再創造し、積極的にイスラエルの歴史の中に位置づける政府の取り組みに光を当てた。それはワルシャワ・ゲットー蜂起に見られるような英雄的抵抗の記憶としてのホロコーストの物語の構築であった(1)。また[Zertal 2000]は、ゲットー蜂起の英雄的抵抗の記憶形成プロセスに加え、ホロコーストにおける犠牲を二度と再び繰り返さないよう教訓化するプロセスを分析している。

 本論文は、こうしたイスラエル国家によるホロコーストの記憶の操作・領有のあり方に対する問題意識を背景とした上で、ヘイドン・ホワイトが提起した、ホロコーストの表象をめぐる歴史の方法論の問題を参照しながら、ホロコーストという出来事の表象を、政治的イデオロギーから解放するための可能性を論じたい。ホロコーストに関しては、そのなかで起こったことをどのように記述するのかという問題について、真摯かつ精緻な議論が行われてきた。特に1980 年代後半のドイツでは、ナチズムの犯罪を矮小化・相対化する、「歴史修正主義」の解釈が歴史家たちの関心を呼び、「歴史家論争」へと発展した。この論争の焦点は、ホロコーストという出来事において、歴史的事実がどう構成されるのか、その歴史的事実の解釈のあり方はある特定のコンテクストにおいてどう受容・排除されるのかという点にあった。フリードランダーの整理によれば、この論争には、ホロコーストをめぐって「競合しあう物語が存在するという事実」によって生じる認識論的問題と、「通常は受け入れがたいプロット化の様式とみなされたものに依拠した」ナチズムについての表象についての倫理的問題という、二重の問題群があったとされる(2)。

 ホワイトはホロコーストの表象の限界を論じているが、彼の論じる限界には二つの種類がある。第1 に彼はまず、ナチスの時代や〈最終解決〉といった事件について正しく語ることのできるストーリーの種類には、問題となる事件の性質からして限界があるかどうかと問う。彼の見解では、事件にそもそも内在するストーリーは存在せず、物語は歴史家の言述行為によって形作られるのであり、複数の物語の対立があるとされる。第2 にホワイトは、出来事そのものの現実、その体験を「リアルに」表象することの限界を指摘する。とりわけ、「ホロコーストのような本性において『モダニズム的』である事件」では、リアリズム的な言述観に基づく表象の限界が顕わになるとされている。ホワイトはホロコーストについての2 つの限界を論じてはいるが、その目指しているものはむしろ、ホロコーストの「表象の可能性」にあると言える。ホワイトは特に第2 の限界の脱却の可能性に議論の重点を置き、モダニスト的な表象様式を模索することを提起している。

 本論文は、こうしたホワイトの試みにおいて、言及されていなかった表象の限界を指摘し、その限界をホワイトの論じる「表象の可能性」に照らして再検討したい。本論文で検討する表象の限界は3 つある。まず1 つは、ホロコーストの表象の際に用いる言語の問題を、ホロコーストという出来事を名指す言葉から検討する。また2 つ目に、そうした言語の選択によって、ホロコーストがユダヤ人の経験としてのみしか捉えられないという限界を指摘する。3 つ目に、特異性が強調されるホロコーストについての表象の限界を検討する。

2.ホロコーストの表象とナショナルな言語
 ホワイトは、伝統的な表象様式には、ホロコーストの経験を説明したり、描写する能力すらないという、我々の深刻な感覚を指摘する。これは、リアリズム的な歴史観のもとで使われる言葉によって、出来事そのものが恣意的にプロット化されてしまうことに対する批判である。ホワイトはそれゆえ、新たな文体や態の追求を行うが、その文体がどの言語によって用いられるのかという問いは自明な問題なのだろうか? リアリズム的な歴史意識において知覚される不安を克服するためには、ある態の選択がどのような意味を持つのかと同様に、ホロコーストの表象における言語の選択がどのような意味をもつのかについても、検討されるべきである。

 ホロコーストを表象する際に言語の選択の問題が重要なのは、ホロコーストにおける人びとの経験そのものが多言語的であるためだ。強制収容所へと送られたユダヤ人の多くは、イディッシュ語、ドイツ語、ポーランド語など、出身地や暮らしの場での言語を――多くの場合は複数――用いていた。そして解放後には、彼らは自分たちの出身のコミュニティの破壊に直面した。生還者たちはどのような言語によってこうした経験を語りえるのか。そしてこうした人びとの経験を、歴史家やその経験を眺めるものたちはどのように捉えうるのか。

 私の見るところ、現在のホロコーストをめぐる歴史学の議論では、「ホロコースト」という言葉の代わりに、ヘブライ語の「ショアー」という言葉が、使われる場面が増えてきている。それは、とりわけクロード・ランズマンの映画『ショアー(3)』以降、ホロコーストを生き延びた――あるいはその中で死んでいった――ユダヤ人の、極限に位置する経験に、できる限りより寄り添う言葉で表象しようという試みのもとで使用されている。しかし、当時、ディアスポラのユダヤ人社会において起こっていることが、ヘブライ語で表現されていたとは考えにくい。なぜなら、ヘブライ語は聖書学習や宗教的実践にのみ用いられる神聖な言語として考えられており、日用語として世俗化することは避けられてきたためである。

 それにも関わらず、ナチズムの時代のユダヤ人の経験を表す「自然な」言葉として「ショアー」という語を用いるとき、あるいはユダヤ人の経験を表すための「自然な」言語としてヘブライ語を見るとき[Ezrahi 1992: 260]、そこにはヘブライ語を国語として復活させたイスラエル国家という、ホロコーストの後の時代に現れた政治アクターが、我々の想像力に影響を及ぼしている点を指摘せざるを得ない。ホワイトの議論に即して言えば、ある歴史的出来事は、言表する際においても、言語を選択する際においても、多くの表象の可能性を持つのである。しかし、その出来事に対するヘブライ語での名づけを、当事者の経験に寄り添う言葉として普遍化することは、その出来事に対する我々の歴史的想像力を制約することになる。つまり、ヘブライ語の「ショアー」としてのホロコーストの語りには、シオニズムという特定のイデオロギーが提出するホロコーストの歴史の解釈が介在するのである(4)。

 イスラエルにおける歴史記述を見てみると、シオニストたちのイデオロギーのなかで「ショアー」の出来事に歴史的な重要性が付与されている。厳密に言えば、イスラエルでは、元々はヘブライ語の普通名詞であった「ショアー」に、定冠詞が付された「ハ=ショアー」という語が固有名詞として使われ、重要な意味がこめられている(英語でも、普通名詞であった「ホロコースト」に、定冠詞が付された「ザ・ホロコースト」という言葉が固有名詞として使われる)。イスラエルの歴史観のなかでは、ユダヤ人が非ユダヤ人社会に生きる限り反ユダヤ主義が存在するとされ、その頂点としてホロコーストが起こったと捉えられている( 5 )。つまり、ここではホロコーストは今後も起こりうる出来事としてプロット化されているのだ。そのため、シオニズムのイデオロギーでは、ホロコーストを再び繰り返さないために「ユダヤ人国家」が絶対に必要だとされる。

 しかし、ホワイトの論考「歴史の解釈における政治学」に照らしてみれば、こうしたシオニストの「ハ=ショアー」のプロット化は、リアリズム的な歴史観に基づく解釈から生れるものだと言える。この論考においてホワイトは、出来事に内在している生きられた経験が歴史化されるプロセスに対して警鐘を鳴らしている。その警鐘は、多様で豊かな経験を含みこむような「歴史における崇高なもの the historical sublime」が、専門化され、ディシプリン化された歴史研究のルールによって飼い馴らされることで、特定の政治権力や権威を支える言説へと作り変えられていく過程に対して鳴らされている。このプロセスでは、既存の権力に対抗する社会集団は、同様な語りの馴化/歴史化のプロセスを経て、彼ら自身の語りの版を対抗させるしかないというジレンマがあるのだ[White 1987: 78-82]。だが、現状において、リアリスト的な歴史観を乗り越え、経験それ自体へと近づくために使われている「ショアー」という物語は、イスラエルの歴史観にどこまで対抗的であるのか。私には「ショアー」の物語も、政治的環境の影響を受け、リアリズム的なジレンマに陥っているように思える。

 では、「ショアー」としての物語のプロット化を超えて、あらたな態と使用言語の問題を探求することができれば、我々の歴史的想像力は回復できるのだろうか? それも一つの可能性として追求されるべきである。しかし問題はそのような単純なものではない。我々は、第二次世界大戦後、イスラエルをユダヤ難民の主な受け皿にするという国際社会の決定のために、イスラエルでしか生活を構築できなかった人びとの存在を看過することはできない。問題は、ある言述行為において、言語の選択がどのようになされ、それが意味するものは何であるのかを丁寧に眺める必要がある。そしてそれらに対して、歴史学的なものであれ、政治的なものであれ、どのような恣意的な操作の力が働いているかどうかを踏まえたうえで、新たな表象の様式を考える必要がある。

3. 出来事の当事者――ユダヤ人および非ユダヤ人の経験
 当事者の経験に寄り添ってホロコーストを表象することは、「ショアー」の語りの形成において目指されたものだった。しかし、そこでの語りの可能性がヘブライ語での名づけによって示されたのは、そこで想定されている犠牲者の中心にユダヤ人──とりわけイスラエルに住むユダヤ人──が据えられているためである。それでは、ナチスの手によって犠牲を強いられた非ユダヤ人たちの経験については、どのように考えることができるだろうか。

 一般的に、ホロコーストはヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅、あるいは〈最終解決〉という語と、置換可能なものとして扱われている。その際のアプローチの前提となっているのは、ナチズムの犯罪行為総体ではなく、ユダヤ人問題の〈最終解決〉である。

 確かに、完全殲滅の対象とされた集団は、ナチスが定義した人種的カテゴリーに当てはまるとされた「ユダヤ人」だけであった。そして、ナチスの犯罪を生きのびたユダヤ人は、解放後、ユダヤ人自身のための語りを必要としていた。ナチ支配が終わると、解放された国々はナチが導入した人種法を撤廃し、ユダヤ人の地位を一市民に戻すことを決定していく。しかし当のユダヤ人にとってみれば、彼らが被った損害とはユダヤ人であるために被ったものに他ならなかった。非ユダヤ人たちも戦争の傷を負ったのだが、ユダヤ人にとっては、ホロコーストに直接的/非直接的に関与した非ユダヤ人の戦争での損害と、自分たち自身の損害は、等しいものではなかった。彼らが欲したのは、ユダヤ人であるがゆえに蒙った損害に対する補償なのだった[武井2008: 122]。また、極限の状況を生き延びたユダヤ人たちに、他者にも降りかかったかもしれない破壊を想像せよと要請することは、倫理的困難を伴うものでもある。

 しかし、実際にナチスの犯罪のなかで命を落とした犠牲者には、約六〇〇万人のユダヤ人だけでなく、多くの非ユダヤ人の犠牲者も含まれている(6)。ユダヤ人に対する絶滅政策としてホロコーストが認識されるとき、そのなかで非ユダヤ人の犠牲者はどこに位置づくのであろうか。ホロコーストの犠牲者は、ユダヤ人だけであるのか、それともナチの迫害によって殺されたものはすべて犠牲者として数えるのか?

 これは、ホロコーストの歴史研究のなかで、出来事の悲劇の中心に据えられるのが、もっぱらユダヤ人の経験であることに起因する問題である。ユダヤ人歴史家ピエール・ヴィダル=ナケも、ホロコーストの記憶を歴史へと変容させることの痛みを論じながら、この問題を指摘している。我々は(……)記憶が歴史へと変形されていくのを眺めている。(……)この記憶が消滅すること、あるいはもっと悪いことに、記憶が侮蔑されることに対して戦わねばならないというのは、私には自明のことのように見える。(……)しかし、我々〔ユダヤ人〕のものではあっても、万人のものではない記憶を、我々はどうすればよいのか。(……)戦争が終わったのだということや、ある意味では悲劇が世俗化されてしまったのだということを受け入れなければならない。たとえ、ヨーロッパが大虐殺を発見して以来ずっと、主として我々が享受してきた言説上の特権の喪失を伴うとしても。[Vidal-Naquet 1992: 57-8]

 ホワイトは、ヴィダル=ナケの言葉に「心を揺り動かされ」ながらも、ディシプリン化された歴史に、経験を書き換えようとするものだとして、批判的に捉えている。ホワイトは、そうした歴史化のプロセスは常に既成の政治的権力の中心から教示されるものだと論じる。しかしヴィダル=ナケの提起は、非ユダヤ人の経験も含めて出来事を見直すことも含むものである。歴史のプロット化を乗り越えようとするホワイトの議論に立ち戻れば、記憶が歴史化されるプロセスと共に、ユダヤ人の経験としてのみホロコーストを捉える議論にも検討を促す必要がある。

4.ホロコーストの特異性と比較可能性
 これまで論じてきた、ホロコーストの表象をめぐる問題は、どこまで他の歴史的出来事に適応できるだろうか。ホワイトはこの点についての見解を明示的には論じていないが、少なくとも、彼のホロコーストの表象についての議論では、問題をホロコーストという出来事のみに収斂させないよう、言葉が選ばれている。それはホロコーストが他のいかなる歴史的出来事とも比較不可能な「特異」な事件だとする主張に対する、ホワイトの批判的姿勢の表われと見ることもできる。ホワイトにとっては、ホロコーストの表象をめぐる諸問題とは、出来事の表象一般の問題が表面化したものだと考えることができる。

 では、これまで論じたホロコーストの表象の問題が、ホロコーストに限ってのみ指摘されるものではなく、他の歴史的出来事にも共通する問題であれば、そこで論じられた歴史の方法の可能性を、他の出来事の表象に適応させることはできるだろうか。たとえば、パレスチナ人の被った大災厄(アル=ナクバ)の表象についての問題を、ホロコーストの表象から見えてきた歴史の方法論的問題に重ねて考えることはできるのではないか。

 しかしその議論を始めるためには、解決しておかねばならない論点がある。それはホロコーストの特異性と比較可能性という二項対立のアポリアである。とくに歴史家論争では、ホロコーストという出来事の特異性が問題とされた。この特異性に焦点を当てる議論は、エルンスト・ノルテの議論への批判という形で展開した。ノルテは、ホロコーストと他の事件の比較をつうじて、自国民を自主的な献身の対象として、また西側へのコミュニストの脅威に対抗する防波堤として作り上げる必要性を論じた。そこでは、ナチの犯罪は、原型となる犯罪の派生物ないし模倣だという、形而上的方向での比較を行い、範型となるボリシェヴィキの脅威への先制攻撃だったと示唆した。その結果、「ガス処理をおこなうという技術的手続きただひとつを除けば」、スターリンやポル・ポトなど、他の「階級殺戮」と本質は異なっていないと主張した。このノルテによる比較可能性の議論は、ナチズムと他の体制を比較することによって、ナチズムの犯罪を相対化することを意図したものだった。歴史家論争を担った歴史家たちは、ノルテのそうした意図に対する批判を行なったのだった。[ハーバーマスほか1995]

 以下は、チャールズ・マイアーによる、歴史家論争のなかの歴史学固有の論点を整理(1988 年)したものである。中心となった論点は、ナチの犯罪は特異であって比類なき悪の遺産であり、ドイツ国民という概念に取り返しのつかない重荷を負わせてしまったのか、それとも、この犯罪は他の国民的残虐行為、わけてもスターリン主義のテロと比較可能なのか、ということであった。すでに指摘されているように、特異性はそれほど重要な争点とすべきではなかった。殺害というものは、他の体制が大量殺戮をおこなったかどうかにかかわりなく、身の毛がよだつものだからだ。また比較可能性は本当の無罪証明にはなりえない。しかし、じっさいには特異性がまさに決定的な争点と受け止められた。もしアウシュヴィッツが文句なしに恐ろしいものであるが、ただし、いわゆる修正主義者たちが含意しているように、ジェノサイドのひとつの実例にすぎないという程度に恐ろしいものであるとするなら、ドイツは国民的承認を取り戻すことを切望してもかまわないということになる。だれも、ソヴェト・ロシア〔ママ〕のように同じく大虐殺を犯した者であっても、こちらのほうの承認を否定しはしないのだから、しかし、もし最終解決が修正主義に反対する歴史家たちが強調するように比較不能なものでありつづけるなら、過去は決して「徹底操作」されることはなく、未来もまたけっして正常化されない。そしてドイツ国民は、永遠に毒を盛られつづける者のように汚されたままでいなければならないのだ。[ラカプラ1994: 139-40](下線は引用者による)

 ホロコーストの特異性と比較可能性についての議論を追ったラカプラは、双方の性質が共に異なる役割を果たしている点を認め、両者の二項対立のアポリアをこそ分析するべきだと論じた。その際、ラカプラはホロコーストに歴史的評価をあたえようとする試みは、歴史家ならだれでも直面する極限的な問題だとし、研究対象との転移(7)的な関係をどのように処理すべきだろうか、と問う。ラカプラは、ホロコーストの歴史の表象においては、分析者は、ほぼ不可避に転移の過程を経る点で特異であると述べる。それは、「あまりに極端で、分類不可能であるようにおもわれ、人に沈黙を強いるか、沈黙する気にさせる」点で、ホロコーストは、分析者の主観に大きな影響を与えるだけでなく、多くの人びとが「ナチの犯罪と特別の『生きられた』関係」を結んだという、分析者――とりわけ欧米の分析者がここでの議論の対象である――の出来事への関与にも起因する。ナチスの支配下・占領下に置かれた諸地域の出来事への関与はもとより、たとえナチスに与さなかった社会でも、より直接的には、ユダヤ人からの財産収奪や収容所への移送に協力し、より間接的には、起こっている事態に対して沈黙したり、避難先を求めるユダヤ人難民を自国に受け入れることはなかった。つまり、分析者は、ホロコーストに向き合う際、その出来事への直接的・非直接的関与に起因する倫理的な困難に直面するのだ。

 ラカプラの議論は、この転移の不可避性を論じる一方で、ホロコーストという過去を「徹底操作」する必要性も指摘する。ラカプラはこの点を、転移の過程を通じて構築される焦点の中心性と徹底操作の関係を、第三帝国像の政治的領域に焦点を当てるフリードランダーの見解を引きながら論じている。フリードランダーの政治の優位という観念は、第三帝国像に焦点をあてるさいに、アウシュヴィッツとそれが象徴するものすべての中心性を内包している。この点で、わたしは、この場合の中心化はたんなる形而上学的残滓と理解する必要はない、と補足したい。それは歴史的事件の表象における優先事項の明確な評価と意識的かつ批判的に関連づけられるときに、もっとも責任ある形でおこなわれる機能的必要と理解されるかもしれないのである。……しかし、どんな主要な焦点でも、絶対化したり、あるいは永遠なものとして提示することはできない。そして、アウシュヴィッツがそれなりに満足のいくかたちでほんとうに「徹底操作」されていくにつれて、ある説明のしかたが正当にも中心性を失っていくのかどうか、あるいはどのように失っていくのか、という問題は未決である。……現在のところは、中心点としてのアウシュヴィッツが、「中心化」を批判する者たちが意義を唱えるような誤った慰めや労せずして得られる安全を提供することに奉仕することがないよう、注意して見守るだけで十分である。[ラカプラ1994:160-1]

 ここでのラカプラの立場も、先に述べられていた特異性と比較可能性の二項対立のアポリアと連関している。それは、巨視的には徹底操作というパースペクティヴに立ちながらも、転移の過程を経ながら分析を行うことによって責任ある形での歴史の表象をめざすという態度である。つまり、先のメイヤーの引用と同様、ラカプラも、徹底操作に至る道として比較の方法を捉えているのだ。また、歴史において比較が果たす決定的に重要な役割のひとつは、類似性だけでなく顕著な差異を明らかにすることでもある[ラカプラ1994: 144-5]。

 しかし、ここで重要となるのは、比較という過程がどう生じ、いかなる機能を果たすのかという点である。ラカプラが警鐘を鳴らしているのは、比較の行為が、ノルテの議論がそうであったように、ある犯罪を相対化する機能を担うべきではないということである。「バランスのとれていない状況について一見バランスの取れた評価をあたえることが――とくに歴史における恐怖の分配を公平にしめそうとして比較にうったえることが――、特有の方法で否定のメカニズムとしてコード化されるのは当然である」。そこで、バランスのとれていない状況をどのように表象するのか、そうした表象がどのように出来事が絶対化される過程をうちくずすのか、こうした問いが追求されるべきものとなる。

5.終わりに
   ホワイトの議論では、ある出来事における事実を語るプロットは、出来事の性質によって内在的に規定されるものではないことが指摘され、またリアリズム的表象に基づく言述行為自体の限界が論じられている。これらのホワイトの主張に加え、本論文では、出来事を表象する際の言語の問題と歴史に記述されていない当事者への眼差しの重要性を指摘した。その上で、歴史家論争において浮上した、ホロコーストの特異性と比較可能性のアポリアを整理した。本論文は、ホロコーストの表象の諸問題を再設定し、検討しながらも、多くの未決の問いを残している。

 今後は、これらの問いに取り組むと共に、現在のイスラエル国家のホロコーストの記憶の操作・領有のあり方を再検討し、イスラエルにおけるホロコーストをめぐる言説が、パレスチナ人の大災厄の語りをどのように排除しているのか、その議論の構造を読み解くことで、ホロコーストの表象についての新たな視覚を提供したい。

■注
(1) イスラエル政府、および当時の支配政党マパイ(後の労働党)がまず着手したのは、「ホロコースト記念日」(1951 年)の制定である。これによってマパイは「ホロコースト」の犠牲者への追悼の姿勢を見せたが、この追悼は極めて限定的であった。それはワルシャワ・ゲットーでの蜂起に表れる「勇敢な」ユダヤ人を追悼するための記念日として定められた。このため記念日はワルシャワ・ゲットー蜂起の日におおよそ近いユダヤ暦のニサン(第7)月27 日に定められ、その正式名称も「ホロコーストおよび勇敢さを記憶するための記念日」とされた。ここで追悼されるユダヤ人の対極には受動的で消極的な犠牲者たちが置かれ、シオニズム運動に関わることもなく抵抗も行うこともなかったとされる彼らに対しては追悼が語られることはなかった。
(2) ラカプラの総括では、歴史家論争において見られたのは、ネオナショナリストが再起をはかろうとしている兆候で、この兆候が現れているのはドイツの「積極的」・肯定的アイデンティティを提供するためにナチスの過去を書き換えようとする保守の側であると述べられている[ラカプラ 1994: 138]。
(3)この映画は、ナチスの犯罪を相対化する、あるいは否認する「修正主義者」に対して、その出来事の歴史的現実を、膨大な証言の力によって再構成することを試みたものである。この作品は、出来事の現実を提示しようという、監督のリアリズム的な試みによって作られたが、そこに映された証言には、証言者自身の言述行為における困難と痛みを見ることができる。
(4)ギリシャ語から作られた「ホロコースト(「焼き尽くす」という意味)」という用語が、ナチズムの時代のユダヤ人の経験を表象する原初的な言葉であると考えることはできない。この用語が広く使われるようになったのは、1970 年代後半のアメリカ・テレビドラマ「ザ・ホロコースト」が登場した後のことである。それまでは、国際法における犯罪カテゴリーとしての「ジェノサイド」という言葉の使用がより一般的であった。
(5) この点に関して、英語とヘブライ語では、定冠詞が限定する意味が異なっているのではないだろうか。英語における「ザ・ホロコースト the Holocaust」は、特殊で他のどの事件とも比較不可能な出来事としての意味がこめられている。一方、ヘブライ語の「ハ=ショアー」は、ユダヤ史――少なくともシオニズム的解釈によるユダヤ史――のなかで、規模においては特殊ではあっても、その性格においては特殊な事件ではない。そのため「ハ=ショアー」は今後も起こりうる出来事と見なされているのだ。
(6)非ユダヤ人の犠牲者には、ポーランド人、スラブ人、ロマ人、戦争捕虜となったソ連兵、身体・精神障害者、同性愛者、反戦活動家などが含まれる。この点が想起させるのは、ピーター・ノヴィックが「600 万」対「1100 万」論争と呼んだものである。「1100 万」という数字は、ユダヤ人の犠牲者600 万と非ユダヤ人市民の死者数500 万を合わせたものである(この500 万というはサイモン・ヴィーゼンタールセンターから借用されている)。ノヴィックはその正確さに疑問を付しつつ、「もちろん問題は数そのものではなく、「ホロコースト」を話題にするときにわれわれが何を意味しているか、何のことを言っているかである」と付け加えている。しかし彼の結論では、ユダヤ人の犠牲者のみを追悼するという考えを支持する立場が示されている。
(7)精神分析で、患者がそれまでの生活歴のなかで知った人物たちにたいする感情や観念を分析家の上に置き換える過程、あるいはまた、この過程によってつくりだされる心的状態を「転移」(trasnference)という。この精神分析用語からの借用である。[ラカプラ1994: 19]

■参考文献
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Kenan, O. Between 2003, Memory and History: The Evolution of Israeli Historiography of the Holocaust, 1945-1961. New York: Peter Lang Publishing.
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White, H. 1987,“The Politics of Historical Interpretation: Discipline and De-Sublimation.” In The Content of the Form. Baltimore and London: The Johns Hopkins University Press, pp. 58-82.
──── . 1992,“Historical Emplotment and the Problem of Truth.” In Prob-ing the Limit of the Holocaust: Nazism and the “Final Solution. Cambridge and Massachusetts: Harvard University Press, pp.37-53(. =1994 ソール・フリードランダー編 上村忠男・小沢弘明・岩崎稔訳「歴史のプロット化と真実の問題」『アウシュヴィッツの表象と限界』57-89 頁 未來社)
Zental, I. 2005, Israel’s Holocaust and the Politics of Nationhood.Cambridge: Cambridge University Press.


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