last update: 20160218
*2010年7月31日 第20回バクバクの会総会で承認
◆子どもたちの"命と思い"に寄り添って(バクバクの歩み)
「人工呼吸器をつけた子が外出・外泊できる!当初は思いもよらなかった事でした。」
これは、1989 年、『バクバク』創刊号(1989 年5月21 日)の冒頭で、当時、3才で淀川キリスト教病院に長期入院中だった平本歩さんのお父さん(バクバクの会初代会長・弘冨美さん)が記した一行です。
当時、人工呼吸器と言えば、病院据え置き型のもので、人工呼吸器が欠かせない子どもたちは、病院で天井を見ながら一生を終えるしかないと考えられていました。そのような中、子どもたちの生活を少しでも豊かにするために子どもたちを戸外へ、家族のもとへ連れ出すことはできないかと考えた医師たちの提案がきっかけとなり、子どもたちのくらしを広げる試みが始まりました。
その後、ポータブルの人工呼吸器の開発とともに、少しでも子どもらしい生活をさせてあげたいという一致した思いの下、医療スタッフと家族がともに努力や創意工夫を重ねた結果、やがて、子どもたちは、家族と一緒に病院からの外出や外泊ができるようになりました。
これらの取り組みを通して、親として学んだこと、多くの課題や、悩みを共有し、「全国の同じような境遇にいる親にとっての励ましと、人工呼吸器をつけた子どもたちが生きていく上でのより良い環境づくりの一助になれば」と、1989 年、 「バクバクの会」は小さな院内グループとしてスタートしたのです。とはいえ、当時は、「ひとりの子ども」として当たり前に、家族揃って家で暮らすとか、保育園や学校へ通うことまでは、思いもよらないことでした。全国的にみると、養護学校のベッドサイド授業でさえ、拒否されることのあった時代でした。
けれども、外出・外泊の取り組みを通して、親が子ども自身と向き合い、子どもと共に社会の壁や差別にさらされる中で、子どもを「患児」ととらえ彼らの人生を「病院の枠」の中だけで考えるのではなく、「ひとりの子ども・ひとりの人間」として当たり前に「地域で生きること」を考えていかなければならないのではないかという思いが生まれました。しかし、人工呼吸器の在宅使用が健康保険で認められていない、在宅支援制度もない、バクバクっ子が使えるような車椅子も補装具の想定外、何より社会に人工呼吸器をつけた子どもが地域で暮らすという発想さえない、ないない尽くしの状況でした。それでも、日々精一杯生き抜き、成長する子どもたちが、親たちを突き動かしました。
バクバクの会で最初に在宅生活への移行を踏み切った平本歩さんのケースでは、「おうちに帰りたい」という歩さんの思いをかなえるために、両親は非常な努力と創意工夫を重ねました。大型ごみの日に自転車の車輪を拾って来て手作りでストレッチャーを作るところから始まり、700 万円以上という人工呼吸器などの必要な機器や物品の購入費用を捻出するために、自宅マンションを売り払いました。両親は共働きでしたが、介護内容に力仕事が多いことを考慮して、お父さんが介護に専念するために退職をしました。夜中は、両親2交代でケアに当たることで、事故や急変に備えました。それだけでは介護体制が不十分で、安全で、子どもらしい生活は保障できないと考えた両親は、ホームドクターを引き受けてくれる診療所を探しました。また、知人・友人、地域の人たちに協力を呼びかけ、「人工呼吸器をつけた子の在宅を支える会」が結成されました。地域で同世代の子ども同士で育ちあえる環境を求めて、歩さんを受け入れてくれる保育園探しにも奔走しました。
子どもの命と思いを支えようと、病院とも十分に連携をとりながら経験を積み、これだけの準備を重ねての取り組みであったにもかかわらず、小児医療の学会で発表されると「無謀だ」と叩かれたといいます。けれども、報道で歩さんの在宅を知った全国各地の人工呼吸器をつけた子どもの親たちからの問い合わせが相次ぎました。これをきっかけに、子どもたちのよりよい環境づくりを求めて社会に働きかけていこうと、「バクバクの会」は全国組織となります。
それと相前後して「在宅人工換気療法」が健康保険で認められ、各地で、人工呼吸器をつけた子どもたちの在宅移行の事例報告が少しずつ増えてきます。歩さんと、次に在宅へ移行した吉岡しほりさんは、地域での保育園生活を経て、当たり前の思いとして、地域の小学校への入学を希望します。両親は教育委員会や学校との話し合いを重ね、ふたりは地域の小学校へと入学します。ふたりの喜びとは裏腹に、報道で全国に紹介された後の風当たりは強く、週刊誌では「美談と偽善の境目」などと叩かれ、無言電話をはじめとする嫌がらせが繰り返されました。統合教育に批判的な教育の研究会でも、これまでの道のりも知らない、ふたりに会ったこともない"専門家"が、医師の立場から"親のエゴ"だと、ふたりの事例を徹底的に批判していました。それでも現場では、親、教育委員会、学校が話し合いを重ねながら、ともに学ぶ取り組みが続けられ、全国各地で、地域の保育園や幼稚園、小学校へと進むバクバクっ子たちが続いていきました。養護学校のベッドサイド授業さえ断られていた地域でも、親たちは、子どものために、ベッドサイド授業や通学を勝ち取って行きました。学校のほかにも、公共交通機関を利用したり、旅行をしたり、スキー、海水浴、プール、登山に挑戦するなど、子どもたちのくらしは広がっていきました。
一方、この頃から、胎内診断の問題や重度障害の赤ちゃんの積極的治療見送りの問題が明らかにされるようになり、バクバクの会の"いのちの問題"への取り組みも始まりました。また、人工呼吸器をつけての在宅移行事例の急増に伴い、十分な退院指導をしない、家庭の状況も本人の状態も考慮に入れない、地域への橋渡しをしないままの、病院都合による"安易な在宅"移行の事例も目立つようになり、バクバクの会は、警鐘を鳴らし、問題提起するようになりました。さらに、在宅医療が進んできたかのようにみえても、人工呼吸器をつけている場合は、サービスの利用を断られるなど、家族だけがぎりぎりの状態で介護を続ける状況は変わりませんでした。教育の面でも、養護学校などでは、熱心な先生や医療関係者によって"医療的ケア"を必要とする子どもたちの教育についての取り組みが報告されるようになっていましたが、あくまで"人工呼吸器をつけた子ども"は除外されており、養護学校、地域の学校に限らず、親の付き添い問題は続いていました。それでも、親たちは、どんな重度の障害があろうと外から与えられた枠の中に人生を押し込められるべきではなく、子どもの視点にたったくらしを選びながら生きていけるような社会を目指して、幾重にも立ちはだかる壁に立ち向かい、子どもたちとともに道を切り拓いて、ひとびとに情報を発信してきました。
◆20年の節目に(新しいスタートとして)
20 年を経て、在宅医療の現場で、人工呼吸器使用者は、もはや珍しい存在ではなくなっています。在宅で暮らす人工呼吸器をつけた子どもの数は、1,000 人以上とも2,000 人以上とも言われています。20 年前のように、わざわざ行政や地域の人たちへ働きかけなくても、それなりに落ち着いた生活を送ることができるようになりました。訪問看護やヘルパー制度も使えるようになりました。特別支援学校には、医療的ケアに対応するための看護師が配置されるようになりました。地域の小・中学校にも看護師を配置する例も出てきています。いろいろな人に聞いて回らなくても、インターネットで簡単に情報が得られるようにもなりました。このように、家族の立場からすれば、バクバクっ子を取り巻く環境は、飛躍的に向上したかのように思えます。しかし、バクバクっ子たちの視点に立つとき、果たして、今の状況は、彼らにとって、夢をあきらめずに自分らしく安心して生きていける状況と言えるのでしょうか。
いくら介護支援制度が充実してきたとはいえ、依然、家族介護が前提となっており、子どもや重度障害者の場合は、当たり前にヘルパー制度を利用することができません。医療的ケアや人工呼吸器が必要となればなおさらです。訪問看護にも地域格差があり、利用したいときに利用できなかったり、親の立会いが条件にされたり、何より、居宅内の限られた時間しか利用できません。結局のところ、親が昼夜関係なくほとんどのケアを担わなければならない状況は変わっておらず、親の疲労困憊は安全性の低下に直結し、親が介護できない状況に陥っても、受け入れ先はありません。綱渡り状態の支援体制であることに変わりないのです。さらに、これらの状況は、子どもたちの生活が常に家族の都合や介護力で左右されてしまうこと、自立の機会を奪われることを意味します。小児医療現場の危機的状況は、ベッドの回転率を上げるために、安易な在宅移行をさらに増やし、医療費抑制のかけ声のもとに、在宅療養にあたって、本来なら支給されるべき医療材料、衛生材料を自費購入させられるようになって、経済的にも大きな圧力がかかっています。教育の面でも、地域の保育園や学校に行きたくても、厳しい闘いが必要である状況は変わらず、特別支援学校でさえ、通学や行事に親の付き添いや送迎を求められたり、本人の希望が無視され訪問教育を強要されたりする状況があります。私たちは、このような状況を "しかたない"状況だと子どもたちに説明するので しょうか。私たち自身が、親として、サポーターとして、一歩踏み出すことで生じるかもしれない社会との摩擦をおそれ、重度障害のある我が子を危険にさらし、自立や社会参加の可能性を奪ってはいないかということを、自分たちに問いかけてみる必要があります。
さらに、忘れてはならないことが、"生きる権利"の問題です。私たちは、どんな命も大切にされる社会を目指そうと訴えてきました。けれども、社会の流れは、臓器移植法の改定や呼吸器外しを法的に認めようという動きをはじめとして、確実に、生きる価値のある命と生きる価値のない命を線引きしていく方向に進んでいます。子どもの最善の利益を看板に掲げる「看取りの医療」や「選択的医療(選択的治療停止)」にも、優生思想や効率主義の意図が透けて見えます。欧米の例を見れば、命の線引きの基準がどんどん緩められ、重度障害者の命の切り捨てが拡大しています。もはや、ただ、息をひそめて嵐の通り過ぎるのを待っているだけでは、子どもたちの命を守れない時代に突入したと言って過言ではないでしょう。これまで以上にわたしたちひとりひとりがつながって、生きる価値のない命など決してないこと、子どもの命は子ども自身のものであり、精一杯生き抜く命を支えるために知恵を振り絞ることこそが大人の、社会の役割であることを、粘り強く社会に向けて発信していかなければなりません。
このように、20 年の節目を迎えてもなお、本当の意味ではバクバクっ子たちが地域で当たり前に暮らせる状況になっていないどころか、社会的に命を脅かされる状況に追い込まれていることが分かります。これは、非常に危機的な状況といえます、しかし、危機的な状況は、ある意味、問題提起のチャンスともいえます。
現在、国連・障害者権利条約批准に向けて、内閣府・障がい者制度改革推進本部において、障害者に関する制度の抜本的な見直しが行われています。国連・障害者権利条約が制定される過程で「私たち抜きに私たちのことを決めないで(Nothing about us without us)」という合言葉が繰り返されました。これは、障害者が、社会から何もできない存在、誰かにコントロールされなければならない存在として扱われ続け、自分自身の人生であるにもかかわらず、自ら選び、自ら決める機会を奪われてきたことに対するアンチテーゼでした。現在、内閣府・障がい者制度改革推進本部でも、このスローガンの下に、多くの障害当事者委員が参加し、全国の当事者の声を反映させながら、新しい制度の創設に向けて動き始めています。私たちも、日々のバクバクっ子とのくらしを大事にするとともに、今一度、バクバクの原点に立ち返って、"ひとりの人間・ひとりの子ども"として、バクバクっ子の"命と思い"を大切にしているかと、自らに問いかけながら、真の意味で、バクバクっ子たちが、安心して、自分らしく生きていけるような社会を目指して、新しいスタートを切りましょう。それが、全てのひとびとのいのちの未来と時代を切り開く確かな道筋だからです。