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「障碍者の頼もしい友だちになる」

ナム=ビョンジュン(南炳俊) 20100610
翻訳:山口恵美子 『民衆の声…韓国の代表進歩言論』
PDFファイル 原文記事:http://www.vop.co.kr/2010/06/10/A00000298011.html

last update:20100623

■障碍者の頼もしい友だちになる
全国障碍者差別撤廃連帯ナム=ビョンジュン(南炳俊)教育局長


“障碍者運動が過激ですって? 私たちは誰かを殴ったり、傷を負わせたこともありません。ですからそのような声には同意しません。私たちが地下鉄を占拠して、1時間でも延着したりすれば大騷ぎが起こるでしょう。そうして障碍者を暴力的だというのです。ところで地下鉄を占拠するということがどういうことかわかりますか? 障碍者は地下鉄にちょっと乗ろうと思っても1時間や2時間かかるんです。鍾路(チョンノ)3街3号線から5号線乗り換える時間だけで1時間かかるのですが、こういうことを考えてみたことがありますか?”

◆障碍者ら、闘争のために勇気を出す
全国障碍者差別撤廃連帯のナム=ビョンジュン(43)教育局長は、‘障碍者運動が過激だという見方があることに対してどう思うか’という質問に首を横に振った。
しばらく考えこんだ彼は、言葉を選びながら、障碍者らがどのように闘争するのか話し出した。2006年4月27日、重度障碍者50人余りが漢江(ハンガン)大橋の北端150余メートルの地点で片道3車線を占拠し、ノドゥル島まで這っていく闘争をおこなった。活動補助者サービス制度の導入を要求して39日間座り込みを行った後のことだった。“その日のその闘争をするために会議をしたことが思い出されます。重度の障碍者らが最もいやがることが何かわかりますか? 這っている自分の姿を他の人に見られることです。その会議の時、障碍者の同志らは、断食もやる、やれることはすべてやるが、人の前で這っていくことだけはできないといいました。そんなふうに考えていた障碍者らが漢江大橋を這って行き来したのです。どれほどの勇気を出したことでしょう”
世の中の人々は、彼らが道路を占拠したことを記憶しているが、彼らが占拠するまでの過程はわからない。いや、占拠ということを選択するまでに障碍者らがどんな生活を送ってきたのか、それさえよくわからないのだ。
ナム=ビョンジュン教育局長は、1987年大学に入学し、学生運動に身を投じた。厳酷な独裁政権の時期、大学に入って石の一つも投げたことのない人がどこにいるだろうという彼は、自身が正しいと考えた世の中を作るためにただの一歩も退かない生活を送った。
大学を卒業した後、労働運動の世界に入った。1996年、ある労働団体に入った彼は当時30万名だった縫製工場の労働者を組織することに必死になった。その時期彼とともに行動していた‘同志’らは、結婚や子ども、お金の問題などで、一人、二人と運動から離れていった。
彼の人生が急激に変わったのは2004年だった。

◆人生を変えた正立会館民主化闘争
2004年、正立会館という障碍者福祉館で、障碍者らと労働組合が、会館側に対抗してストライキ闘争を行った。定年で退任した館長が再採用されたことに反発して“会館を民主的に運営してくれ”と求めた闘争だった。当時障碍者らは8か月の間正立会館を占拠して闘争を行った。
会館側は暴力団まで動員した。つらい闘いだった。障碍者らが鉄パイプで殴られる極限状況までうまれた。ナム局長は障碍者らのそばで守った。2005年2月まで障碍者らと一緒に暮らした。闘争がある日には共に闘い、闘争のない日には重度障碍者活動の補助をした。
“障碍者らと親しくなりました。そして彼らからたくさん学びましたよ”
障碍者と一緒に暮らして変わったのは、ナム局長自身だった。8か月の間、自らの運動のやり方を振り返ってみた。“他人のために生きよう”と思っていたのに、自己中心的に運動したことが一つ一つ思い出された。
“結局、運動する人々も効率を中心に生きているんです。速度が遅い人々に対する配慮がないということでしょう。私たちの中でも‘障碍が重い人が何できるのか’、‘あの人は本当にだめだ’という見方がありました。資本の論理をそのまま身につけて生きているんです”
この頃、ナム局長は、自分より2歳若い障碍者の同志に出会った。ナム局長がデモに夢中だった1987年、その障碍のある同志は施設から逃げようと命をかけていた。最初に逃げた日には捕まって、脚が折れた。2度目に逃げて捕まった時は頭が割れた。3度目に逃亡を試みてやっと彼は自由を取り戻した。
“運動をしながら、私が世の中を救うことができると考えていました。そしてそれがとても傲慢な考えだということを悟ったのです。私より2つ若いこの友人は人生をかけて闘争をしていましたが、私はその人の闘争自体を知りもしませんでした。自分がよくやってきたと思っていた運動が、この人にどんな助けになっただろうか。私が考えていた運動が、もっとも苦しいところにいる民衆にどんな意味のある運動なのかを振り返ってみました。いつも私が見ている領域を絶対視していましたが、私が傲慢だったということを悟ることができました”

◆障碍者運動をしながら知った障碍者らの現実
2006年からナム局長は本格的に障碍者運動に飛び込んだ。障碍者運動の現場でみた障碍者の現実は、思っていた以上に悪かった。
2008年水原(スウォン)にある華西(ファソ)駅でリフトの墜落事故が発生し、障碍者1人が死亡する事件が発生した。障碍者差別撤廃連帯ではそれ以前から“事故がおきるかもしれないので障碍者たちのためにエレベーターを設置してくれ”と要求していたが、いつも返ってくる返事は“構造的にエレベーターの設置は不可能だ”というただ一言だった。
結局障碍者1人が死んだ。そうしてやっとエレベーターが設置された。
安全要員もなしに障碍者らが車椅子にからだを任せたまま地下鉄に乗ったり降りたりすることは、戦争のようなものだった。曲線のあるホームの場合、乗降の位置によって列車とホームの間隔が30cmも広いところがあったし、列車の高さとホームの高さが10〜20cm も合わない駅もまだまだ多かった。障碍者らはいつも事故の危険の中で生きてきたのだ。
この間、何よりも最近障碍者らの間で問題になったのは、障碍者らが街を占拠しながら作った障碍者活動補助制、障碍者年金制度であった。審査が厳格になっていき、支援を受けていた障碍者が受けられなくなることもあった。このため、国家人権委員会に障碍者らが直接陳情に行くことあった。
このように一つ一つ発生する問題を把握し、解決策を見出すために闘争をして、イ=ミョンバク政府とぶつかった。初めから障碍者予算を十分に策定しておけば、すべての障碍者福祉問題は解決することができた。
“障碍者らが闘争の末に作った法律も、イ=ミョンバク政府になって一度にみんな持って行ってしまいました。私たちは保健福祉部にも会おうとしましたが、結局はイ=ミョンバク政府、ハンナラ党とどのように闘うかにかかっていました”
この頃の彼の悩みは、自分の運動から‘新しいエネルギー’を得ることだ。運動をするようになって20年をはるかに越えたナム局長は、自身の表現のどおりだとすれば、毎日毎日が危機だ。今日も集会、明日も集会、今日も会議、明日も会議という状況で、いつからか‘やらなかったらと考える日’が増えた。“どうせ行っても同じ話が出るだろうから、いっそ雨でも降ったらいいのに”と考える自分自身に気づく瞬間が危機だと考えた。
それで彼は日常の中に変化を探し始めた。同じ会議資料を作るにしても字体を変えたり、集会の司会者をいつもしていた人の代わりに新しい人に任せる。こういう小さい変化の中からエネルギーを得て、新しい想像力を探そうとする。

◆障碍者が韓国社会を変えることができる
“労働者というとどんなことが思い浮かびますか? たくましい腕、そんなことを考えませんか? ところで腕がたくましくないとしたらどうですか? 少し体がのろければそれはどうですか? 労働が生産品1つをどれくらいの早さで作るかよりも、労働を通じて人間の関係を結ぶことがより重要だと考えるならば、障碍者の労働も当然の権利です。教育も同じことです。英語の単語をどれくらい早く覚えるのかが教育ではなく、教育を通じて関係を結ぶことを学び実現することが重要ならば、障碍者は非障碍者と共に教育を受けることができます。そのような日がくれば、入試のための競争教育も崩れるのではないでしょうか? 私が障碍者が韓国社会を変えられると考える理由です”
障碍者に会うことから自らの人生を振り返り、新しい社会を夢見るナム局長は、活動家の運命を持って生まれた。ナム局長が願う世の中は、誰でもが人間らしく生きる暖かい社会なんだという考えがふと浮かんだ。
ナム局長が夢見る新しい社会が現実になる瞬間、その変化の真ん中で障碍者らと肩を組んで明るく笑っている彼の姿を期待する。


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UP:20100623 REV:
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