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「養育関係内の多文化主義――身体状況の差異によるコンフリクト、畳み込まれたポリティクス」

片山 知哉 20100516
於:日本保健医療社会学会

last update:.20100517

養育関係内の多文化主義
――身体状況の差異によるコンフリクト、畳み込まれたポリティクス――


片山知哉(立命館大学大学院先端総合学術研究科)

<報告原稿>

 こどもをケア=養育することを巡っては、ふたつの政治的問いを提出することができる。ひとつはケア=養育の負担の分配を巡る論点であり、あとひとつはケア=養育自体の内容を巡る論点である。
 この両者ともに、間違いなく論争的な主題であろう。しかし前者の問い、即ちこどものケア=養育の負担を、誰がどのように担うことが公正と言いうるかという問いについては、本日の報告では主題的には扱わない。以下、マーサ・ファインマンによる私事化批判を見てみよう。

 こどもをケア=養育することは、人間にとって不可避の自然的条件を構成している。何故なら人間は、全くの生物学的依存状態の中に生まれてくるからであり、周囲の人間はその依存について責任を感じ、具体的に応答しない限りは生まれてきたこどもは死ぬしかないからであり、そうなれば社会は再生産されないからである。
 したがってこどものケア=養育の責任は、自律した成人間に適用される正義の理論よりも、時間的かつ論理的に先行する。そしてその責任の宛先は社会全体にあるのであり、よってケア=養育を家庭で担う私事とする議論は批判される。

 以上がファインマンの議論であるが、報告者にはこれは充分な説得力を持ち、敢えてこれ以上の説明を要するとは思われない。それゆえ本日の報告では後者の問い、ケア=養育は誰がどのように為すべきかに焦点を絞って検討していくことにしたい。特にその中でも、養育者がこどもに何を教え、伝えるかという点を議論したい。
 さて、こどもに何を教え、伝えるのが公正と言いうるかという問いについても、ふたつの政治的問いを提出することができる。ひとつはこども一般に共通する性質を想定した、伝承内容の適切さを巡る論点が存在する。これには宗教的理由に基づく輸血拒否や義務教育免除を巡る論争、女性性器切除を巡る論争、少数言語話者家庭に生まれたこどもの言語権を巡る論争など多数の例が想起される。
 だがもうひとつ、こどもによって異なる性質を想定した、伝承内容の合致・非合致を問う論点も存在する。こどもの持って生まれた性質=身体状況が、当該社会においてマイノリティである場合を身体的マイノリティと呼ぶこととし、以下身体的マイノリティのこどもが置かれた状況を検討していくことにしよう。

 身体的マイノリティとは例えば、聞こえるという身体状況を持つ人間がマジョリティである社会における聞こえないという身体状況を持つこどもや、性的指向が異性愛という身体状況を持つ人間がマジョリティである社会における同性愛という身体状況を持つこどもを挙げることができる。
 聞こえないという身体状況を持つこどもについて検討してみよう。彼らが自然言語として習得可能なのは視覚言語である手話言語であり、音声言語の習得には限界があることが知られている。ところで、聞こえないこどもの多くは音声言語を第一言語とする聞こえる大人のもとに生まれ、その家庭の周囲も手話言語話者は多くの場合不在である。この事態を所与としてしまえば、聞こえないこどもは手話言語に触れる機会を持ちえず、音声言語環境で育つしかない。
 ここで生じる問題は、以下の三点である。第一に、本来最も自由に使用することが可能なはずの手話言語を、言語習得臨界期までに習得することができず、結果として生涯にわたって手話言語を充分に使えるようにならないというリスク。第二に、かといって音声言語を充分習得することができるわけでもないので、結果的にどの言語も充分使用に耐えうるレベルにまで習得できず、セミリンガル化するリスク、更には思考・人格的発達にも悪影響を与えるリスク。第三に、音声言語中心主義つまり聴能主義や、手話言語・ろう文化への否定的観念の内在化、そして場合によっては音声言語環境や人間関係への愛着が、ろう集団への移行を直接的・間接的に阻害し、結果的に、聴者集団にもろう者集団にも充分に所属できない状態を生じさせるリスクである。

 次に、性的指向が同性愛である身体状況を持つこどもについて検討してみよう。彼らの多くは身体状況が異性愛である大人のもとに生まれ、その家庭の周囲も顕在化したゲイ・レズビアンは多くの場合不在である。更に性的指向が同性愛である身体状況は、外から見て分からないだけでなく、思春期以前には本人にさえ意識的には気付かれないことが多い。するとそのこどもの周囲の大人は、無意識的あるいは意識的に、そのこどもを異性愛であるとして育てることになるだろう。
 この場合、そのこどもは社会の同性愛嫌悪・異性愛主義による抑圧を受けるだけでなく、その抑圧を共有し、その抑圧への抵抗を共に遂行する相手も物理的近傍にはいないことになる。更にそのこどもが同性愛であるという想定がなければ、周囲の大人は同性愛についての情報を与えず、時には否定的情報さえ与えるかもしれないとなると、そのこどもは情報論的にも孤立することになろう。また同性愛嫌悪・異性愛主義を内在化することは、思春期以後に自らの性的指向への気付きや、同性愛についての情報や仲間に対するアクセスを阻害する結果をもたらすだろう。

 以上、身体的マイノリティのこどもが直面する事態を具体例をふたつ挙げて検討した。ここで確認された構造は、周囲の大人が無意識的に伝承する内容、具体的には聴能主義と同性愛嫌悪・異性愛主義だが、それとこどもの身体状況との非合致により、こどもの側に大きな不利益を生じさせ得ること、更にそうしたコンフリクトが養育関係という最も私的とされる場で生じることが特徴と言える。
 では、こうした養育関係内多文化状況とでも呼ぶべき事態に対して、どのような解決策が考えられるだろうか。ふたつの方向が考えられるだろう。ひとつは既存の養育関係それ自体は変更しないまま、養育者の養育能力の幅を広げようとすることである。具体的には身体的マイノリティに関する知識を広く流布させ、養育者の意識を変容させ、言語・文化的能力の増大を狙う。あとひとつは養育の場を拡大あるいは代替することであり、例えば拡大里親制度などが考えられるだろう。
 しかしここから理解されることは、養育関係内多文化状況としてのコンフリクトは、養育関係の外部である社会において政治的に解決される必要があるということである。と同時に、養育関係内部で生じていた抑圧が減ずればその分だけ、ゲイ・レズビアンやろう者は集団としての安定性が増し、政治的解決も容易となる。身体的マイノリティを巡る多文化状況は、養育関係の内部と外部で相互に影響しあうわけである。

 こうした二重の意味での多文化状況に対して、我々は何を為すべきだろうか。報告者はこの問いに対し多文化主義を、より具体的には多様性包摂と多民族併存の両者を組み合わせた政策としての多文化主義を、解として提示したい。
 それは第一に、身体的マイノリティのこどもの権利保護という観点からである。まず、養育関係内コンフリクトの黙認は、身体的マイノリティのこどもに許容できないほど大きな不利益をもたらす。だが、養育者の養育能力は格差が大きく、常にこのコンフリクトを解決できるとは考えられない。更にこどもは未熟な存在であり、養育者と対等に対峙し、時には退出できるような存在ではない。この状況で養育者に全てを委ねることは、こどもの権利保障を運を天に任せることでしかなく、公正とは呼びえない。
 また第二に、匡正的正義の観点からである。聴能主義や同性愛嫌悪・異性愛主義は、聞こえる人間や異性愛の人間に有利に働き、彼らもまた社会の構成員である聞こえない人間や同性愛という身体状況を持つ人間に危害を与えている。その意味で単に文化的に非中立的であるだけでなく、平等や非危害という原理にも反している。多文化主義政策はこれらを矯正する上で欠くことができないが故に、採用されなければならない。
 だが、こうした不正義はイデオロギーの水準だけでなく、イデオロギー伝承を可能たらしめる諸制度の水準にも存在する。一例を挙げるなら、生物学的な意味での親がこどもの養育を原則的に担うという家族法は、その一見したところの文化的中立性とは裏腹に、聞こえないという身体状況や性的指向が同性愛である身体状況を持って生まれたこどもに対して構造的不利益をもたらしていることを我々はすでに確認した。こうした不正義もまた、その実現方法は別に検討するにしても、矯正されるべき対象なのである。

 残念ながら本日の報告では時間が限られているため、問題の構図を指し示したところで終わらざるを得ない。だがこの短い報告の中からだけでも、こどもをケア=養育することは政治的な討議の対象なのであり、ケアを非政治的なものとして示すことはそれ自体が構造的不正義を隠蔽している、ということは明らかになったと思われる。

<主要参考文献>

Althusser, Louis, 1995, Sur La Reproduction, Presses Universitaires de France.(=2005, 西川長夫・伊吹浩一・大中一彌・今野晃・山家歩訳『再生産について――イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』平凡社)
Fineman, Martha Albertson, 2004, The Autonomy Myth: A Theory of Dependency, The New Press.(=2009, 穐田信子・速水葉子訳『ケアの絆――自律神話を超えて』岩波書店)
Kymlicka, Will, 1998, Finding Our Way, Oxford University Press.
Kymlicka, Will, 2001, Politics in the Vernacular: Nationalism, Multiculturalism, and Citizenship, Oxford University Press.



*作成:片山 知哉
UP: 20100517 REV:
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