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「「近親者による自殺幇助」合法化議論:英国」

児玉 真美 201003 介護保険情報,2010年3月号

last update: 20110517

「近親者による自殺幇助」合法化議論:英国

先月号の当欄で紹介したように、2010年は前日大晦日の米国モンタナ州自殺幇助合法化のニュースとともに明けた。イヤな年明けになったなぁ……と思っていたら、その不穏な予感を裏打ちするような裁判のニュースが英国から立て続けに舞い込んできた。

Inglis事件
Thomas Inglisさん(22)は07年7月に酒の上の喧嘩で怪我をし、病院に運ばれる途中に救急車から飛び降りて脳に重い損傷を負った。生命維持装置と24時間介護が必要な身となった彼は、その後ナーシングホームで少しずつ改善の兆しを見せていたが、母親のFrances さんには息子の状態が「悲惨」としか思えなかった。その「悲惨から解放してやるため」、彼女はヘロインを大量に入手してナーシングホームを訪れ、看護師らの制止を振り切って息子の部屋に立てこもると、致死量を超えるヘロインを息子に注射した。08年11月のことだった。
彼女は裁判で「心に悪意を持って命を奪うのが殺人。私は心に愛を持ってしたのだから殺人ではない」と主張したが、1月20日、「法には“慈悲殺”という概念はない」として殺人罪で終身刑(最低9年)が言い渡された。

Gilderdale事件
こちらは、その1ヶ月後の08年12月の事件。慢性疲労症候群(ME)で17歳の時から寝たきりだったLynn Gilderdaleさん(31)が死にたいと望んだ際、娘を14年間介護してきた元看護師の母親Kayさんは、1時間にわたって説得を試みたという。しかし娘の意思が固かったので、ついに致死量のモルヒネを手渡す。Lynnさんは自分で点滴のチューブに注入したが、死にきれなかったため、母親はモルヒネの錠剤を砕き、空気と一緒に注入して殺害した。
明らかに殺害の意図をもった行為だった(ただし直接の死因かどうかは立証不能)として、起訴の罪状は殺人未遂と自殺幇助だったが、母親は自殺幇助のみを認め、殺人未遂を否定。1月26日、陪審員は殺人未遂の罪状を退け、自殺幇助について1年間の執行猶予と評決した。判事は「こんなに愛に満ちて献身的な母親を起訴したのが、そもそもの誤り」と公訴局を非難し、Kayさんは事実上の無罪放免を勝ち取って裁判所を出た。そして、裁判所の玄関を出た瞬間からKayさんはわっとメディアに取り囲まれて、自殺幇助合法化論の“ポスター・ガール”となった。
翌日から次々にテレビや新聞の取材を受けては、14年間の介護と、死にたいという娘に「張り裂けた」胸の内を語るKayさん――。世論はその献身に感動し、「母の愛と献身を裁くな」「同じ愛の行為なのに一方が終身刑で片方は無罪放免とは」「法に一貫性がない」「愛によって殺す行為は合法に」「法律改正を」と沸きたつ。かねてから合法化を説いていた著名人も相次いでメディアに登場し、現在「近親者の自殺幇助を合法に」との大合唱が巻き起こっている。
一種異様な狂騒状態のような議論には、しかし、誰も指摘しないことがいくつもある。
まず、現在いくつかの国や州で合法化されているのは「一定の条件を満たした人が所定の手続きを踏んだ場合の医師による自殺幇助」であるのに対して、英国の世論が求めているのは「近親者による自殺幇助」なのだ。また、これまでの尊厳死法の多くが「ターミナルで耐えがたい苦痛がある人」に対象者を限定し、幇助の方法も特定しているのに対して、去年9月に出された英国公訴局長の法解釈ガイドライン暫定案は、対象者も幇助方法も曖昧なまま「近親者が愛と思いやりで行うことで、幇助によって利益を得るのでなければOK」と言わんばかり。
そして、今、Inglis事件をも「母の愛による行為」と擁護する世論は、これまでの「死の自己決定権」論を擲って、ついに「自殺幇助」と「慈悲殺」の区別すら、なし崩しにしようというのだろうか。英国では、もはや、殺された人が実際にどういう状態だったかには誰も興味を示さないかのようだ。Thomasさんには回復の可能性があると医師が言っていた事実や、Lynnさんの病気がMEだった事実に目を向ける人はいない。
なぜMEの女性が思春期から14年間も寝たきりでなければならなかったのか。彼女に必要なのは自殺幇助ではなく、その状態から抜け出るための支援ではなかったのか。何故この母娘に14年間も適切な支援が届けられなかったのか――。それを言う人はどこにもいないまま、「殺した母の愛と献身」だけが称揚され、オーバーヒートしていく英国での自殺幇助合法化議論に、私は寒々しく荒涼とした風景を見ている。


*作成:堀田 義太郎
UP:20100408 REV: 20110517
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