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「ベーシック・インカム構想を通して社会政策の課題を考える」

堀田 義太郎 20100308
『インパクション』173号,pp. 197〜
[Korean]

last update:20100311


書評ベーシック・インカム構想を通して社会政策の課題を考える
橘木俊詔山森亮 『貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか』人文書院、2009年)

堀田義太郎

 『貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか』というタイトルと「対談」という形式から予想されるのは、山森氏がベーシック・インカム論者として、そして橘木氏が社会保障改革論者として、それぞれの主張を闘わせるという内容だろう。この点についてはしかし、山森氏も「あとがき」で述べているように、必ずしも山森氏が社会保障改革を否定しているわけではないし、また橘木氏がベーシック・インカムの意義を認めていないわけでもない。じっさい、社会保障改革とベーシック・インカムについての両者の評価は共通点も多い。とはいえそれは、争点がないということではない。
 四章立てで構成される本書は、第三章までは、山森氏が橘木氏の近著のいくつかの論点に対して聞き手として具体的なトピックを選択して議論の流れを作り、それに対して橘木氏が答えるというプロセスを経て、議論が深められていくという形式をとっている。そして、最後の第四章では、第三章までの議論を踏まえた形で、山森氏が既存の諸制度の改革と比較してベーシック・インカム導入の意義と可能性を擁護し、橘木氏がその課題を指摘する形で議論が展開されている。以下、部分的にならざるを得ないが、議論内容を両者の争点に留意しつつ概観してみよう。
 第一章では、橘木氏の『日本の経済格差』での議論を起点として、現在の格差・貧困の源流を探るという形で議論が始められる。1985年の労働者派遣法の成立が現在の状況を生みだした一つの契機として確認され、それを含む80年代から90年代の日本の経済政策のモデルが、レーガン・サッチャーの英米の経済政策にあることが指摘される。80年代〜90年代の英米日の政策の性格――所得税率の累進性の緩和・労働規制の緩和・競争促進・福祉削減――と、それに随行しつつ政策を支えた思想を「ネオリベラリズム」として特徴づける認識は両者に共有されている。ただ、80年代以前の日本社会に対する評価分析については、両者の見解は対立している。橘木氏が、70年代および高度成長期について日本は「平等」で貧困や格差は顕在化していなかったと述べるのに対して、山森氏は「母子世帯」に定位した立場から、それは果たして本当なのか、と疑問を呈している。
 第二章は、前半ではとくに労働政策が、後半では年金等の社会保障給付の選別主義的性格の問題点とその解決方策が議題にされている。前半でとくに議論が活発にたたかわされているのは、「同一価値労働同一賃金」の是正対象の理解と、80年代以前の日本の労働政策の評価である。第一章の争点がここでさらに展開され、明確化されている。まず、同一価値労働同一賃金の意義に関する山森氏の問いに対して、橘木氏が「正規/非正規」の間の格差是正だろうと答えるのに対して、山森氏はそれと同時に、あるいはむしろそれ以上に、男性と女性の待遇の格差是正にあることを強調している。
 この違いは、日本の賃金制度の歴史に対する評価、80年代以前の経済構造の理解――とくに当時の女性の「選択」をめぐる理解――の相違を反映している。橘木氏は、過去の男性正規雇用者を対象とした年功序列賃金制について、結婚出産を理由にした女性の退職の選択を「専業主婦指向」としてまとめ、女性の自発的な選択を、過去の賃金制度維持成立の一つの基盤として位置づけている。同一価値労働同一賃金の主張を、もっぱら近年(およそこの10年間)の「正規/非正規」の格差の顕在化という文脈に位置づける橘木氏の理解は、70年代には格差・貧困はなかったという認識を前提としている。それに対して山森氏は、当時の女性の選択は年功序列賃金制度の基盤ではなく、むしろ逆に、この時代の賃金制度と労働政策によって誘導されていたのではないか、と論ずる。年功序列の賃金制度における正規雇用内部の女性差別とそれを温存する政策が、女性を「家庭に戻す」圧力となった、と。同一価値労働同一賃金の是正対象をもっぱら男女格差だとする山森氏の制度評価は、正規/非正規の格差が顕在化する以前から続く男女賃金格差(および母子世帯の貧困)についての認識が前提になっている。
 第二章後半からは、児童扶養手当受給に対するスティグマの問題を入り口にして、普遍主義的な福祉政策の必要性へと議論が展開され、橘木氏の年金税方式論へと議論が進められる。これを受けて、第三章では、社会保障改革の課題が具体的な政策に即して論じられている。両氏ともに、保険料拠出を条件とした給付ではなく税財源にして給付該当者に給付する方策が望ましいという点では概ね一致しているが、細部についてはいくつかの相違点もある。とくに、モラルハザードを防止するための給付資格や使途の制約に関しては、橘木氏が部分的に制約を肯定するのに対して、山森氏はモラルハザード論そのものにも懐疑的な立場をとっている。
 最後の第四章で、本書の問いに最も接近する主題、「ベーシック・インカム」が議論の対象になる。山森氏は、現行の社会保障政策のなかでもとくに、完全雇用・社会保険・生活保護という生活保障の仕組みが機能不全をきたしているという認識と、その改善可能性に対する悲観的な評価に基づいて、ベーシック・インカムを擁護している。山森氏によれば、既存の生活保障制度は「働ける人/働けない人」という区別に基づいているが、この区別に日本はこれまで失敗してきたし、漏れなく区別を行うことはさまざまな理由から困難である。働けない人に例外的に生活保護をという仕組みが、給付が必要な人を排除せざるを得ないのだとすれば、区別そのものを放棄して給付が不要な人にも支払うことを許容したほうがよい、とされる。それに対して、橘木氏は、区別を正しく行うことで必要に応じた給付ができる制度改革を目指すという方向性を擁護している。
 ベーシック・インカムをめぐる両者の評価は、第三章までの議論から必ずしも直接的に導出されているわけではないが、もちろん連関する部分も多い。第三章まででは、山森氏が女性とくに母子世帯に定位して家族賃金制度を批判し、失業保険や生活保護の給付対象者の選別のデメリットを指摘するのに対して、橘木氏は家族単位を前提にした雇用慣行が過去に一定の役割を果たしたことを評価し、モラルハザードや「ただ乗り」防止のための給付資格・使途の制約のデメリットと同時にその必要性も認めている。他方、両者に共有されているのは、社会保険制度の限界と普遍主義的制度に対する評価である。
 たしかに、山森氏が述べるように、既存の制度では「制度の狭間」で貧困に陥るような人が必然的に生じてしまうのだとすれば、「ただ乗り」を排除するために貧困を許容するよりも、貧困を解消するために「ただ乗り」を許容するという政策が優先されるだろう。生活保護制度や失業保険の捕捉率向上の可能性に懐疑的ないし悲観的な立場からは、給付に制約や審査をなくす方策が魅力的に見えるだろう。そうではなく橘木氏が主張するように、制度の狭間で貧困に陥る人を生じさせないような政策が可能であるならば、現行の制度改革を追求することに問題はなくなる。生活保護をはじめとした現行制度の改善可能性を追求する立場からは、「ベーシック・インカム」はそのための努力を放棄してしまう安直な方策に見えるだろう。
 こうした距離を保ちつつ、ベーシック・インカムの実行可能性と財源、そして支持層の政治的多様性をめぐる橘木氏の問いに山森氏が答えるなかで、具体的な論点が詰められているのだが、とくにベーシック・インカム支持層の多様性に関する橘木氏の問いとの関連であらためて確認できるのは、ベーシック・インカムは政策としては、それとセットになるべき他の社会政策から切り離して評価することはできない、という点である。たとえば、本書では山森氏は、ベーシック・インカム構想を少なくとも生活保護・年金・失業保険の代替案として提示しているように見えるが、労働者保護法制の完全な代替物としては位置づけていない。むしろ、最低賃金等の規制は「生活賃金」ではなく「公正な賃金」という観点から残されるべきだと主張している(とはいえ、「公正な賃金」の具体的な額はまた別の話だが)。また、同一価値労働同一賃金をめぐる議論が示すように、雇用者に対しては現在よりも厳しい規制が必要だと主張されている。他方、本書でも紹介されているように、ベーシック・インカム擁護論のなかには、生活がベーシック・インカムによって保障されるならば、生活保障を目的とした労働者保護法制は不要になるし、逆に、働かずに生活が保障されることで労働者の交渉力は高まるのだから、後は契約の自由に委ねればよいという主張もある。
 つまり当然のことだが、ベーシック・インカムの評価は――財源調達方法はもちろん――、既存の政策のなかのどの制度の代替物として構想されているかに応じて、したがって他の諸制度や法規制との組み合わせ方に応じて変わる。他の社会政策との関連という観点からすれば、本書で検討されている点以外にも考察すべき課題は多い。たとえば介護や保育などのケアニーズや医療ニーズへの対応方法。これらのニーズも基本的生存権に関わるが、ニーズ判定をその都度行ってベーシック・インカムに加算するという方法は取りにくいだろう。また、福祉サービス提供に対する国家の公的責任を重視する立場をとるならば、この方法はさらに正当化しにくくなる。ジェンダーの視点からは、家族とくに女性にケア役割を委ねる価値観と社会構造の是正も、ベーシック・インカム評価の際に考慮に入れるべき論点になるだろう。
 いずれにしても、本書で両者の忌憚なき議論を通して論じられている諸課題は、さらなる詳細な検討に開かれたものばかりである。社会政策の中心的な諸課題についての歴史的評価に基づいて、今後のあるべき政策構想がその基盤となる理念とともに縦横に論じられる本書は、ベーシック・インカムに関心のある人はもちろん、それに批判的な立場の人にとっても、社会政策をめぐる考察を深めるためのコンパクトだが強力な手掛かりとなることは間違いない。

*作成:堀田 義太郎
UP:20100311 REV:
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