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「介助(者)の現在」

前田 拓也・渡邉 琢・高橋 慎一堀田 義太郎安部 彰 2010/02/26
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20100226
安部 彰堀田 義太郎  『ケアと/の倫理』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告11,257p. ISSN 1882-6539 pp. 78-124


U 公開研究企画
「介助(者)の現在」

2009年11月21日(土)
立命館大学衣笠キャンパス創思館4.1・402教室


■企画説明
 
安部彰
(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラル・フェロー)


 本日の企画の司会を務めさせていただきます、立命館大学の安部と申します。よろしくお願いいたします。
 まず本日の企画の経緯と趣旨ならびに進行について、僕のほうから簡単にご説明させていただきたく存じます。
 まず経緯ですが、この企画はじつは多分に僕の思いつきというか、個人的な関心に発している部分があります。といいますのは、まず前田さんと初めてお会いしたのはこの前の9月の障害学会のとき、正確には学会ではなくそのあとの飲み会の席でして。僕の到着が遅くなってちょうど入れ違いという感じでそのときはほとんどお話できなかったのですが、以前より前田さんのことは『社会学評論』の論文や『働きすぎる若者たち』(NHK出版、2007年)における阿部正大さんとの対談を拝読して存じあげてはいました。それでかねてより面白い人だなと思ってたんですが、その飲み会のときにこのたび生活書院より『介助現場の社会学――身体障害者の自立生活と介助者のリアリティ』を世に問われたとお聞きして、これは読みたいぞと思って、さっそく翌日、障害学会の生活書院の出張出店で購入させていただいたしだいです。
 そして渡邉さんとお会いしたのも、そのときの飲み会がはじめてで。というか正確には渡邉さんは覚えておられないかもですが、それ以前にいちどお会いしたことはあったのですが、ともあれ「かりん燈」の方であるというのはかねてより存じあげていて、その活動や思想に関心をもっておりました。
 ごく簡単に以上がおふたりとの出会いだったのですが、そこからこの企画にいたるまでの道のりは、僕のなかではわりと平坦な感じでした。というのは高橋さんと堀田さんは、かねてよりの研究の同士であるとともに飲み友達なのですが、最近酒席で何度か介助の話になって横でふたりの話を聞いていて、とても面白いなと思っていたという、いわば下地が僕のなかにあったからです。つまりかくしてこの4人との出会いと前田本を読んだことが契機となって、僕のなかで点が線になって、本日の企画とあいなったわけです。
 このように、この企画は僕の個人的な興味関心に発する部分があります。また僕じしんはまったく介助経験もありません。その意味では、どこまでも外野でしかない人間なのですが、しかし外もやはり内と、それこそ前田さんも著書のなかで引いているジンメルの『橋と扉』じゃないけど、分離しつつも結びあっているというか、僕の個別的な問題関心もおそらく多くのひとにも届くひろがりと射程をもっているはずだと確信しております。
 ではその確信のありか、すなわち本企画の趣旨にうつりたいと思います。これはいってしまえば、「生存学」のホームページに掲載した企画の趣旨説明(http://www.arsvi.com/a/20091121.htm)に尽きるといえば尽きます。なのでそこに書いたものを甚だ言葉足らずではありますが、そのままくり返させていただきます。

「介助される側のリアリティ」について、もちろん我々はその全貌を知りえたと高を括るつもりはない――それは本来的に不可能性に帰属することがらだ。しかしそれなりに多くのことがこれまでいわれ、明るみのもとへと移されてきたとはいえる。それにたいし、「介助する側のリアリティ」はどうか。それはこれから漸次明るみに移されるべき、その意味では未来によって大いに嘱望されていることがらだといえる。
そこで本企画では、そうした介助者のリアリティへと迫ってみたい。
まず、自らの介助者としての経験、それにもとづく身体障害者介助現場の詳細な社会学的分析――介助に〈おける〉介助者と利用者の相互作用過程の分析――を一書に結実させた好著をこのたび刊行された前田拓也さんをお招きし、そこで開示されたリアリティの内奥へとさらに肉薄したい。とはいえ、リアリティはつねにすでにリアリティ「たち」でもある。そのようなリアリティ「たち」は、諸条件――利用者・地域・組織、そのそれぞれと介助者に「おける」関係――が変わればいかに異なるのか。また異なりとともにいかに重なりあっているのか。それらを知るために、本企画はさらに、それぞれの「場所」でオルタナティブなリアリティを生き/実践している介助者「たち」を「生存学」というアリーナに招聘する。そこでの介助者「たち」の知的乱取りをつうじて、そのリアリアリティを、より複雑で厄介なものとして立ちあらわせたいからである。だがそれは悲観すべきことではない。むしろ福音である。我々はそこに来るべき連帯の手がかりを見出すことができるだろう。

 以上が趣旨です。そこで本日はいま述べたようなねらいのもと4名の、前田さんのいうところの山括弧付の〈介助者〉でもある方々に、それぞれの「リアリティ」を自由にぶつけあいつつ意見を交換していただければと存じます。
またあらかじめ申しあげておけば、本日は何らかの収斂先というか、話の落としどころをみつけようというつもりはありません。むしろある程度紛糾して分散していただいたほうが、意義があるだろうと思ってます。ただそうはいっても、自ずから焦点となりそうな論点はいくつかあると思います。たとえば「ケアの社会化」が、そうした論点になるかと思います。また今回は前田本出版記念合評会をかねて、というのもあり、『介助現場の社会学』における議論や記述をいわばネタにして進めていきたいと思います。そこで、まずは堀田さんに口火を切っていただければと思うのですが、その前に進行について。これは僕のおそらくよくない性格なのでしょうが、あまり形式ばったのは好きじゃないというのがあります。なので対論を基調としつつも、参加者のみなさんにも「ここが乱入しどきだ!」という感じで、適宜コメントや質問などをしていただくかたちで「知的乱取り」に加わっていただければと思います。僕も今日は司会の身分ですが、そんな感じで適宜乱取りに加わっていきたいと思います。以上なんかアバウトすぎますが、また簡単にといいながら前説が長くなりましたが、では堀田さんのほうからあらためまして口火を切っていただけたらと思います。よろしくお願いいたします。


■「介助者になる」プロセス――そこに賭けられているもの

堀田:よろしくお願いします、堀田です。僕は形式ばった話はできないのですが、この本は、介助のかなりミクロな経験を論じていて、おそらくやはり、こういう議論は『生の技法』(安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也編、1990年、増補改訂版1995年、藤原書店)で岡原さんが行っていますが、一冊すべてそういう議論をされているというところがまず新鮮でした。また、文章自体が非常に読みやすくて読み始めたらざっとぜんぶ一気に読んでしまえるというそういう本だと思いました。
 内容については僕がまとめる必要はないのだろうと思うのですが、ただそれでも内容にある程度沿って話をしていく必要もあると思いますので、中途半端になるとは思いますが、僕なりに引っかかった部分というのにポイントを置きながら、簡単に理解した限りで内容をまとめることをさせていただきたいと思います。
 最初に「はじめに」のところで、「多くの健常者にとっていまだ障害者は得体のしれない他者なのだと思う」という文章で始まっている。ある種の断絶というのが最初にある、と。その断絶をどのようにして乗り越えていくのか、障害者と健常者の間に断絶があるという現状認識からはじめて、その両者の出会いの形式というのを考えていく。それを「介助者」の位置に着目して、どのようにして健常者と障害者が良い方向でつながることができるのか。もちろん衝突する場面もあるのでしょうが、そういった形で論じられているのだろうと思います。キーワードはもちろんたくさんあるのですが、「両義性」と「非対称性」ということが一貫して論じられていたのが非常に印象的ですし、そこにこの本で賭けられているもののポイントというのがあるのだろうと思いました。
 第一章ではまず、手段・手足論が扱われます。つまり、健常者の介助者は障害者にとって単なる道具であって「主体性」などというものはまったくそこには必要ないという議論、そういう議論自体がある種の理念型ではあるのだろうと思うのですが、ただそういう議論が一方にあったとして、その限界が指摘されています。介助現場での介助者に主体性を認めることが必要なのではないか、そしてその「主体性を認める」とはどういうことか、そのことを考えるためには介助者の側からの言葉が必要である、という形で二章以下につながっていきます。
 二章以下ではまず「困難」――キーワードのいくつかのうちまず二章で出てくるのは「困難」ですね――があるとされる。ここではセクシュアリティに関わるような、身体接触に結びつく不快感が焦点化され、「健常者性の解体」(編者註1)というものが目指されるべき規範的な目標として「健常者性の脱構築」あるいは「習慣の組み換え」という課題が設定され、不快感を解消する方法はどういうものなのか、という問いを軸に議論が進められています。健常者の社会というのは「無力化する社会」であって、介助者とは、それをまさに自らの感覚を通して経験しつつ、その経験のなかでこの社会の基盤にある価値観と葛藤する存在なのだ、と。
 三章から五章では、いずれも個別具体的な話で、それぞれ非常に重要で興味深いところなのですが、介助者・介助の技法を身につける場所としての「現場」の意義と限界が論じられていると思います。たとえば五章では、「慣れ」というところで、セクシュアルな不快感と排泄行為に関わることによる「不快感」、これを「生理的不快」と呼ぶべきなのか、あるいはそれとも「健常者性」として構築されている価値観や感覚から由来する不快感なのか、このあたりは後で議論になるかもしれませんが、いずれにしても「不快感」があるということが確認される。しかしそれに「慣れる」ことで、この感覚を解消してしまうと、非対称性が隠ぺいされる、というか非対称性を減少させてしまうのだ、として「慣れ」の問題が指摘されています。「非対称性」が一つの重要なキーワードになっていますので、単に慣れればよいという話ではない、と。また、現実的に慣れることができるかどうかと言うと、これにもまた問題があるという指摘がなされています。
 そして六章では、介助の「両義性」という語が鍵になります。ここで、CIL(自立生活センター)の話ですね。前田さんご自身が実際に仕事されているCILのやり方に着目されています。そして、「健常者」と呼ばれる人たちができるだけ多く「介助者」になっていくというプロセスが重要なのではないか、とされて、それを実現するためにはこのCILがポジティブな意味をもっているのではないか、と論じられます。「健常者性を問い直す」というときに有償か無償かという議論もありますが、もちろん有償であることは必要である、と。それに伴う様々な問題もあるのだけれども、その両義性も含めた上で有償でありながら出入り自由であるという「風通しのよい空間」を作っていく。それによって障害者と健常者の断絶を埋める、あるいは「断絶」は厳然と存在するとしてもその「断絶」について考えることができるような、そうした空間が開かれるのではないか、と。
 非常に大雑把なまとめですが、最初に読んだときは、むしろミクロな経験の記述に目が行って、刺激的なことがたくさん書かれているので全体の骨格にはちゃんと注意することができないままに読んでしまったのですが、あらためて読み直してみるといくつかのキーワードを通して一貫した議論が提示されているということ、これはあらためて言うまでもないことではあるのですが、それを非常に強く感じました。
 で、僕としてはいくつか質問と言いますか、気になったところというのはもちろんあるのですが、まず、どういう風にしたらいいのかな、僕が質問して答えて頂くという話ではなくて、まず「こう思った」ということを申し上げさせていただいて、みなさんで議論していったほうがいいのかなと思います。
 あ、その前にひとつ、前田さんが関わっておられるCILの特徴というか特質について、もちろんプライバシーもありますので差し支えないところで、もしよろしければそれを少しお教えいただければと思うのですが。

前田:テンションが高いというのか(笑)、ものすごく「元気」な人たちというイメージですよね。で、そこがまずは面白いというのが大前提です。入ってくる人たちももちろんそれに惹かれて入ってくるのですが、ちょっと明るすぎて分かりにくいところもあるんですよね。それはやはり時間をかけて残っていないと見えてこないところですが、面白いのは面白いですし、ちょっと「無頼」めいた障害者たちがたくさんいるところでもある。「恋をしようぜ」とか、「外に出かけていってお姉ちゃんと遊ぼうぜ」とか、ある意味マッチョというか、そういうノリがあるんですよ。ただテンションが高いというか、どんどん外に出ていこうぜというそういうノリはわかるんですが、この本でも第六章で横須賀さんの論文を引用しましたが、なんかオモロイ奴がいいというか、オモロくないとダメという、そういうノリがある、という風に読める。で、それもわかるんだけど、なんかしんどいというか。オモロない奴はどうすんねんみたいなってのがあって(笑)。その意味では、「元気であかるいはちょっとまずいんじゃないの」っていう気持ちもありますが、いずれにせよそのノリに合わせながら健常者たちもワイワイやっています。入口はそれでよいのですけれども、そこに目をとられてしまうややこしさというのはあるかなと思います。

高橋:堀田さんの質問した意図というのはそういうことでよいですか。

堀田:はい、いいですもちろん。イメージできました。じっさい、僕もこの本には――安部さんもそうおっしゃっていたと思うのですけれども――、やはりいままさに言われた「明るさ」というものを感じました。それはそれで、しかしやはり、書けないようなこともたくさんあったのだろうなとも思いますが、それはまた別の機会にということで(笑)。
 で、僕が気になったところはいくつかもちろんあるのですが、まずやはり一章で言われているところですね、「主体性」についてです。「手足論」というのがそれを否定しているのだとすれば、それはしかし「否定できない部分がある」という言い方と同時に、「否定すべきではないのではないか」というニュアンスにも僕は理解できるところがありました。事実的な可否と規範的な是非ですね。この点が、「非対称性の解消」についてもそうでしたし、「介入」のことについてもそうですし、「健常者性」のところについても思ったのですが、「事実」としてそれを解消したり否定したりすることができるかできないかということだけでなく、できるとしてもしてはならないものがある、というふうにもお考えなのかどうかをお聞きしたいと思いました。僕自身としては「してはならない」と思うんですね。事実としてできたとしても。前田さんは「事実としてできない」ということでしょうか。

前田:はい。私は事実としてできない、「事実としてできないのにしようとするな」という言い方ですね。

堀田:仮に事実としてそれができたとしても、というところはどうでしょうか。

前田:手足論というのは、そもそも「できたとして」という(仮定の)議論ですよね。そうした仮定を置けば、たしかに「すべきでない」という立場になるとは思います。しかし一方で、「できたとして」という枠のなかで議論するのではなくて、前提が違うでしょう、ということで「事実」をもってくる。そういう議論の立て方をしているつもりです。「できたとして」という前提を置くのをやめましょう、という話なのです。

堀田:なるほど。では、「慣れ」についてはどうでしょうか。「慣れ」が非対称性をある種の仕方で「減じてしまう」という指摘があり、だから「慣れは問題なのだ」とも指摘されています。ここはつまり、「慣れる」ことはもしかしたらできるかもしれない、できるとしても、しかし慣れてしまってはよくない、と仰っているように読めたのですが。

前田:「慣れ」に関してはそうかもしれないですね。慣れてしまえるのでしょうか、たしかにそれはわからないと言えばわからないのですが、とはいえ「私の経験で語る」というのがこの本の趣旨であるので、「私は慣れないです」と。「無理です」という前提で話を進めているので、逆に「俺は慣れてるぜ」という前提で語る介助者がいてよいと思いますし、いたら面白いと思います。
 で、「介助者のリアリティへ」という、この第一章は、後で構成して前に持ってきたのではなくて、本当にこの本の一番最初に書いた部分なんです。これを書いた時点(2003年頃)では、「みんなでやろうぜ」という感覚で書いていたところがあったんですね。自分が見えることとか自分が語れることには限界があるし、みんなでちょっと話そうぜ、という勢いで書いたのが第一章です。なのでそういう、みんなでいろいろ語ってみようぜ、という意味では、たとえばさっきの「慣れ」ということについて、「私は慣れないです」と「私が」語ってみている。「まずは私が語ってみますよ」というのでしょうか。慣れていると自分で思っている人、あるいは慣れている人は、それをそのように語ったらよいのだと思います。

堀田:一方で「非対称性」というものがあって、その原因となっているのが「健常者性」でしょうか。「健常者性」が非対称性を作り出している、と。そういう部分もあるのでしょうかね。そのあたりはどうでしょうか。「健常者性」というのは前田さんにとっては「解消」されるべき、あるいは「脱構築」すべきという表現もありましたが、そうするべきものなのでしょうか。

前田:問題化するということとなくしてしまうということとは違って、「なくしてしまおう」とは思っていませんね。「健常者性」と「非対称性」との関係でいえば、これらはやはり相互に補完的なものだと思うので、どっちが先に来るかは言えない。たとえば「健常者性」が非対称性を作り出すとも言えるだろうし、非対称性というものがあって、そこに巻き込まれているうちに「健常者性」を発揮してしまうこともあるでしょうし、いずれも相互補完的なものなので、論理的にどっちが先行するとかいう話ではないのだと思います。

堀田:なくせないのだけれども、それを自分のなかで問い直すきっかけになるものとして、介助者になるプロセスがあって、それが重要である、と。そのプロセスが必要なのかどうかというと、それも微妙に違うのかもしれませんが、いずれにしても介助関係のなかにはつねにある種の「葛藤」がある、と。一方向的な関係の非対称性がつねに現実的にある、ということですね。

前田:そこに困難があるという議論ですね。

安部:それにかんしてなのですが、ホームページでの前田さんの本の紹介をプリントしてお配りした資料で関連するところで言うと、「ケアというおこないがはらむ「困難さ」」というところですが、「では具体的/端的にいって、それはいかなる困難なのか? わかるようで、わからない」と書かせていただいたのですが、いまのお話しのところだなとまず理解しました。で、後続する介助の両義性というところですね、その前に「介助を学ぶ」あるいは「介助者になりゆく」とは、と書いてあるところですが、技術の体得がまずあって、それは介助者自身が健常者性を知るプロセスであると書かれていまして、次の「介助を支障なく行なえている時点で、障害者という他者との距離感の理解は、おそらく、すでに終えているはずである」と言われているところ、ここで言う理解というのは、つまり他者との距離感が解消されるというそういう理解ではなくて、むしろ適切な距離を知ること、つまり他者をきちんと他者として理解する・出会うというそういうことなのだ、と。で、その論点というのが介助の両義性につながっているというか関連しているということではないかと僕は理解しました。
 それで前後するのですが、「健常者が介助者になりゆくプロセス」をこの本では扱うのだとされています。そして、「「介助者になる」ということは、単に「専門性を獲得する」とか、「障害者のニーズを理解する」とかいったことのみを示すのではない」。それは、「介助」めぐる障害者との相互作用をつうじて生じる「自己の立場性やアイデンティティの揺らぎをときに見つめ、ときに疑いながら、それでもなお「現場」にとどまりつづけることによって、障害者との関係性へのフィードバックを繰り返し試みるプロセス」なのだと書かれています。で、このあたりの件というか全般的なことなのですが、これは僕のコメントなのですが、ここはどういう論理になっているのかをちょっと考えてみました。で、こういうことなのだろうかと思いました。つまりひとが介助者になりゆくためには、現場にとどまりつづけることが必要。他方でしかし、介助が有償であることによって介助者の退出可能性が担保されることのよさ、介助関係から「出入り自在」であることのよさ、介助者の「一定の新陳代謝/流動性はあってよく、また、あるべきなのである」とおっしゃっている。この二つはどういう関係になっているのか。これは一見矛盾しているのではないかとも思えるわけです。で、これは僕の理解なのですが、前田さんに合っているかどうか確認して頂きたいと思うのですが、「現場」に一定度とどまる必要があるのは、あるいはそれが「よい」のは、介助者の「健常者性」に反省をせまるものだからである。つまり介助関係において立ちあらわれる「健常者性」と出会い、ゆらぎ、対象化し、相対化するためである(しかしこの過程にはむろん個人差があるだろう)。そうして介助者は「現場」と「日常」を往還し、媒介する(あるいはその境界じたいを曖昧化する)ものとなりゆく。そんな介助者はもはやかつての「健常者」とは「異なる主体」――この言い方は僕はちょっとグッときたんですが――それが前田さんのおっしゃるところの山括弧つきの〈介助者〉なのではないか。そして「出入り自由な場で〈介助者〉を作り出すことは、ひいては「介助現場」を「社会」に拡散していくことである」、だから「よい」のだ、というふうに仰っているのかなというのがぼくの理解なのですが。で、ここから導かれるさらなる論点もあるとは思うのですが、それはちょっと置いておいてですね。いまの部分にかんして、僕の申しあげた理解でよろしかったでしょうか。

前田:はい。

■介助「労働」(者)をめぐって

高橋:まず前田さん本の感想から入るということでよろしかったでしょうか。最近、僕自身も自分の介助経験について書こうとしていたのですが、書きながらなんかうまく書けないなー、と。で、なんで書けないのだろうと思っていて、そんななかで前田さんの本を読んでいたら、書きにくさの原因がちょっと見えてきた気がしました。前田さんの本を堀田さんは「分かりやすい」と言いましたけれども僕は結構読みにくかったんです。ちょっと独特の読みにくさがあって、それってなんでなんだろうと思ってずっと読んでいたら、論述というか文章が流れていくなかで、障害者の経験と介助者の経験が、なんか変に入り混じっていて、主語が結構入れ替わっている瞬間があるんです。たぶん介助経験というのは、それについて書こうとすると、障害者主体を押し出さないとという配慮も働くし、実際に介助の場面では障害者の意思に体をさしだすことが多いので、前田さんの記述も介助者の介助経験や介助の経験を語っていたはずなのに、気がついたら障害者側の経験になっているということがよくある。この主語の不明確さに独特の読みにくさや経験のあり方があると思ったんです。
 でもそれって多分、前田さんが実は本文で書かれている「介助論」そのものみたいなところがあるんじゃないかと思うんです。つまり前田さんが書いている、障害者と介助者が介助技術を一緒に組み立てていくという部屋のなかでのやり取りって、介助者がお仕着せるわけでもないし、障害者が「お前ら手足だからこうやってやれ」ってやり方を教えるわけでもなくて、トイレのやり方をとっても移乗のやり方一つとっても、お互いの体の感覚で「これちゃいますか」って言い合って組み合わせていくということを書いてはるじゃないですか。それは事前に情報として提示できなくて、その場で組み合わせが生まれる言語化不可能なもの。そのことだけがひたすらずっと書かれている本だと思いました。介助経験には、この主体が入れ替わるという不思議な瞬間がたくさんちりばめられているのだと。
 そして次に、前田さんのこの介助経験の記述がどこに向けて誰に向けて書かれているのかというのが気になります。あて先はいろいろあるかと思うんですけれども、ぼくの読みでは、ひとつはやっぱり「障害者運動側」に対して、障害者の自立論と介助手足論だけやったら、ちょっと難しいところあるんちゃうんかっていうのを言ってはると思うんですよね。知的、精神、中途障害、高齢者の場合にあきらかだと思いますし、実際に身体だってそんな強い人ばかりじゃない。よく言われますが、運動が言ってきた自己決定の論理が行政側の自己責任の語りとねじれて符号してきていて、いさぎよい強い主体の運動論は管理しやすい主体を求める自己責任の政治と一致している。自己決定を強く押し出す障害者運動の政治には、その言葉が届かない現場の介助が広がるのを見て愕然とすることがあります。弱い自己決定能力しかもたなくても、一方的に管理されるんじゃない自由な生活を維持できないのだろうかと思います。
 もうひとつは、「行政側」に対してのもの。行政はずっと、資格制度を体系化して介助技術を専門知に従属させていくこと、研修を作っていって、介助者に専門技術を教え込む体制を作ろうとしている。管理技術の強化です。人の体や習慣は固定されている部分もあるけど、時々刻々と変化していて慣れた介助者でも変化を受け入れていく。その未だ不確実な事態を体系的に捕捉して専門職が入ってくる場合に、とくにぐぐっと押さえつけられる感じになる。福祉だけならつっぱねやすいですが、医療が入ってくるとまた難しい。「転倒のリスク」があり、命の危険があり、もしものとき誰が責任を取れるのか、だから本人の自由は制約されても仕方ない場合があると。けれども前田さんは、少なくとも医療ぬきの介助に関しては事前にメニュー化することは無理やということを結構言ってはると思うんですよね。なんでかって言うと、介助技術ってやはり言葉にできないとか教えられないというのがそもそもあるやんかと。そこをきちっと丹念に書いた本やと思うんですよ。それは内容でも書かれているし、叙述のされ方というか書かれ方そのもののなかでも、読みながら経験できる形になっているなというのが読んでいた時の感想です。「運動側」には弱さを否定することなく語ろうよと、行政側には管理するなよと、さまざまな仕方でいっている本と僕は受け止めました。
 しかし、現場で障害者と介助者一緒に介助している経験をもって「健常者性」が壊されていくプロセスだと、前田さんが言ってはる部分が何箇所かあったと思うんですけど、それがどういうものなのかっていうのは分かりそうでいまいちちょっと分からないんですよね。たぶん僕らが毎日の運動でとりくんでいる課題でもあります。そこは前田さんはどういうふうに思ってはるのかなって。たしかに、とあるCILの「明るい本」なんだけれども、そのへんのドロドロしたところはどう考えているのかと思って。健常者性と向き合うというのは、バーンと飛躍して突き抜けちゃうときもあれば、前田さんの本にある介助経験の身体化のように、健常者並みの体のペースを落とす経験、弱い相互決定の経験もある。けれども、それだけでは被差別者としての障害者と向き合うということからはズレるところがあると僕には思える。そんなに明るくも楽観的でもない気の滅入るような、でも必要な関係もあるかと。被差別や自己否定の経験によって蓄積された「怨念」との付き合い方。「非対称性」という言葉はこのような意味でも語られないと厚みがないと思います。
 もうひとつなんですけど、この本って、さっきすごく読みにくいって言いましたけど僕にとって読みやすい部分もあります。前田さんは、僕が介助しているときの介助の仕事の仕方とか関わり方とちょっと近いところがあると思うんですよ。どうしてかっていうと、たぶん前田さんって、自立支援法とか支援費制度ができる前から全身性障害者介助人派遣制度で介助していたじゃないですか。そこから「見なしヘルパー」資格である程度パーソナルアシスタンスに近いかたちをとって働いてはったのかなと思うんですよね。そうした場所で働く人たちっていうのはたしかにけっこう明るい。
 でも、渡邉さんたちがやっていた「かりん燈」の活動を僕が見はじめた2007年の冬くらいには、介助者たちってこんなに明るくなかったと思うんです。すごいもっと凄惨さというか暗さというかみんな目の下にクマ作っていたというか、シンドそうにしていたと思うんですよ。やっぱり自立支援法ができて重度訪問介護の介護報酬単価が切り下げられて介助現場が汲々となっていった。そもそも支援費制度以降に、一部の変態活動家だけじゃなくて、労働者が介護の現場にざっと入ってきました。働き手として。この本でも最後にCILの仕組みの話をされてて、そこでやっぱり介護者の量がたくさん増えてきていろんな人が障害者と関わることになってきたということを肯定的に書いてはったと思うんですけど、そのなかには労働者として介護に従事しはじめた人たち、障害者との関わりのなかでいろいろ揺さぶりをかけられるんだけれども、逆にそれでやはりシンドさというか難しさとか――それはよいことでもあるとは思うんですけど――独特の労働の現場なんだなっていうのはそのときに思ったんですよね。彼らは、たんなる労働者でもなく、たんなるボランティアでもなくという不思議な感覚があったんですけど。それが過重労働と一緒にやってくるものだから、健常者性が壊されるという方向に必ずしも向かわない人たちがいることもありうるし、逆に非正規雇用の労働者として障害者の使用者としての不条理さに怒りを覚え、オフの日には障害者が決して入ることのできないバーにこもったりすることもありうる。前田さんが介助のリアリティって書いてはるところっていうのは「パートタイム」的な介助者でパーソナルアシスタンスに近いかたちで働いてはる人の文章に見えて、別にないものねだりをする必要はないのですが、労働者としての介護者という感覚は薄いのかな、と思ったんです。そこは僕も近いところがあって、だからある意味で前田さんの文章は読みやすかったんです。渡邉さんたちがはじめた「かりん燈」という介助者の要求者組合は、最初は介助労働者としての所得保障を求めていて、自立支援法以降の介助現場のリアリティというとまずはこの労働者として障害者と感情的に対立してしまう経験もぬきにはできないだろうと。

前田:ありがとうございます。先ほどやっぱり、一つ気になったのは「単なる労働者」っていう、わかるんですけどむしろその、私の議論としては、介助を遍在させていくという話を落ちとしてもってきているわけですけれども、そういう意味で言ったら、単なる労働者を入れる、入ってくることを肯定しているんですね。

高橋:じっさいそれがなかったら現場の障害者の自立生活というのは成り立たないですし。

前田:もちろん量としてもそうですけど。量として単なる労働者が入ってこい、っていう話はもちろんあるんですが、いわゆる山括弧の〈介助者〉を増やすという意味で、まず入り口は労働者で構わないわけですよ。単なる労働者として。バイト感覚で入ってきてOKだという立場です。高橋さんはそうではない、という感じでしょうか?

高橋:意図が伝わりにくくてすみません。僕が言っているのは介助現場に労働者が増えることの良し悪しではないです。そうやって入ってきた人たちには独特のリアリティがあるなって普段接していて感じるということです。介助量を確保するために現場で働く労働者たちが健常者性を壊すというのはそんな単純な話でもないなと。お互いの「怨念」をいっそう深めることだってありうる。障害者の自由と労働者の自由は対立する関係にあると思っています。その関係を障害者差別と表現するのか、非正規雇用労働者の搾取と表現するのか。互いの「被害者意識」がぶつかり合うと僕には思えたときに切なさを感じます。この対立の根幹を理解しなくてはいけないと思います。

堀田:今のお話で、これも前田さんに聞こうかなと思っていたことなんですけれども、いま多分関係するかなと思ったので、少しだけよろしいでしょうか。この本では「障害者」と仰っていて、自立生活モデルですよね。そうすると、ただ介助あるいは介護と呼ばれる行為の対象になりうる人として高齢者がいるじゃないですか。そこではおそらく仕事としてやる人がたくさんいて、ここで話されているような理念もないところもある。というか、「健常者性を問い直す」という理念をもたないところの方が多いのではないでしょうか。その点とも今のお話はつながるのかなと思ったのですが。つまり、「健常者性」がどうのこうのとかではなくて、とりあえず仕事でヘルパーの求職があるからという形でヘルパーの仕事をする人たちも介護保険制度のヘルパーには多くいますよね。もちろん、この本の射程とはズレるかもしれませんが、高齢者については、「要介護高齢者も障害者なんだ」という主張も一方ではあります。たしかに、介護が必要であるという身体状態だけを見たら「障害がある」と言える。でも、果たして同じなのかどうか、という論点にも絡むのかなと。

前田:本当に高齢者介護で、変な話、何も考えずにというのもあれなんですが、でも本当に何も考えていないのかというのも難しい話で、何かしらあの人たちにもあるのかもしれないですよね。「あの人たち」という言い方もあれなんですけど。でも、どうやって語らせるかが大事だと思うんですよ。あの人たちに。

高橋:高齢者に?

前田:いや、労働者として入っていく人たちにもおそらくかれらなりの語り口というのはあるわけで。たしかにパッと見、いわゆる健常者性と向き合うとかそういうことは何も考えていないように見えるし、実際そうなのかもしれないけれども、でももしかすると我々の思いもよらない語り口を持っているのかもしれないですよね。それをどうやって引き出していくのかを考えた方がいいのかもしれないですよね。
 で、今日何回も言うことになると思うんですけど、もっとみんな喋ろうよ、もっとみんな語りましょう、という話なわけですよね。

■介助者が語ることをめぐる歴史と困難

渡邉:私は前田さんのその「みんなもっと喋ろうよ」というのはとても共感をもって聞いています。ぼくも実際そう思っているし、みんなもっと喋っていった方がいいと思っています。けど、その喋り方が難しい。安易に喋ってはいけない部分もあって、どういう仕方で喋っていくのか、それをなんか日々模索しています。それで、高齢者系のヘルパーでも何らかの語り方をもっていると思うのですけれども、なかなか一筋縄ではいかない。やっぱり障害者運動の介助と高齢者のヘルパーでは思想も立場も全然違うわけだから。ただ、そのときに僕が思うのは、前田さんの本の中で結構重要なことを指摘していると思うんですよ。それは介助の原点というのかな、そういうところをなんとか抉りだそうとしている部分があるなと思っていて。その原点をおさえるのが、みんなもっと喋っていく上で、とても大切なことなんじゃないかな。それはともすれば日常のなかに埋没しちゃうんですけど、日常の介助労働のなかに埋没してしまうんだけれども、そのときにたえず振り返るべきポイントというのを抑えているのではないかということで、その振り返るべきポイントというときに、高齢者ヘルパーにも有意義なことを言っているのではないかと思っていましてね。その原点とは何かというと、「『他者』と出会えているかどうか」ということだと僕は思っているわけです。自分たちの社会の枠組みのなかで物事を見てその範疇で彼らと出会うというのは、彼らと出会っていないと僕は思ってます。それで、「他者と出会う」というとき、本当に丸ごと彼らと出会うというのは、自分の中にある考え方や感じ方、常識といった枠組みを崩さないといけないわけで、そのときに現れてくる他者とどう出会うかというのが一番重要な、介助者にとって一番重要なことではないのかなとぼくも思っていまして、そういう意味で、他者との出会いを通して「介助者」になる、それが健全者性の脱構築になるというようなことを前田さんは述べておられるのだけど、それにはとても共感しています(注1)。そうしたプロセスは「未完のプロジェクト」とも本の中で述べられていますが、そういうのはやはり「未完のプロジェクト」なんだろうなとも思っています。それはつねにどこにおいても行われていくべきものなのだろうと思っていまして、「未完のプロジェクト」自体はいまのCILのなかでも進行しつつあるのかなと思っております。
 で、話の冒頭に戻るんですけど、今日参加しておられる方で実際に介助に携わっておられる方は少ないんですか? 基本的には。

安部:介助経験がある方でいいんですか。もし差し支えなければ挙手をして頂ければ。

渡邉:いや、どんなふうに話しを進めたらいいかなと思って。議論の前提的な部分も必要かなと思って。
 介助者が喋るということは、実際は現在の少なくともCIL系と言われる団体のなかでは、基本的には行われないんですよ。それはあえて遮断されてきた、あえて「喋るな」と言われてきた歴史的経緯があって、結構しんどいことなんですよ。介助者が独自に喋るということは。もちろんそれは、例えば高齢者系に顕著だけれども、介助者もきっちりと専門性を身につけてチームケアで、お医者さんや看護師と横の連携で、きっちりとその人の体調とかを伝えなさい、と、そういう意味での伝え方というのはよくされるし、また施設系とかどんどんそういう意味で喋りなさいと一種の権威をもった上で喋りなさいという言い方はされるんですけど、そうした権威的な語りや、本人抜きで本人のことを決めてしまうおそれのある語り方を自立生活運動が否定してきていて、私のことはあなた方が決めるのではなくて自分で決めるということで、だからチームケア自体も否定しているわけです。介助者の横のつながりということもないんですよ。基本的には。介助者が横につながるのは恐れられるわけですね。

高橋:介護者は勝手にしゃべらんといてくれと言われる。

渡邉:そうですね。で、少なくとも90年代00年代はそういうような感じできていて。で、前田さんがさっきから仰っている「みんなもっと喋ろうよ」というのは、喋ることができていない状況のなかでこそやはり「喋ろうよ」ということの意味が出てくるんですけど、ただ、歴史的にみると、70年代の健全者運動という文脈のなかでは、実際は健全者はある意味主体性をもって運動に関わるということがあった。そのころのことはほとんど忘れられていて、あまり痕跡も残ってはないのですが、今でも数少ないですが「老舗」の障害者のなかには、健全者にもきっちりと自分の立場を自覚して喋るということを要求する障害者がおられる。要するに、健全者としての立場を自覚したうえで障害者と向き合って喋るということも相当しんどいことなんですよ。やっぱりそれは差別者の立場からいったいいかなる言葉を喋ることができるのかということで、かなり自己反省・自己否定とかを迫られるので、相当の葛藤を経て言葉に出さないといけないので、シンドイですね。ただ、70年代とかの健全者運動とか、「新しい健全者への変革」に向けた運動のなかでは、健全者の主体性と障害者の主体性の構築は同時進行であるということで新しい健全者になるということは同時進行であってどっちがどっちでもあかんのだと。どっちが抜けてもお話しにならないというような議論はされていたんですね。で、それが、この辺のことは山下幸子さんが本のなかに書かれていることですが、それが70年代のことで、80年代90年代00年代になるにつれて、介助者は喋らなくていいと。介助さえやってくれればよい、みたいな立場にだんだん押しやったんですよ。それはIL運動由来の雇用契約という契約概念が入ってきたというのも一つはあるのだけれども、労働者として自分の――障害者からみて自分の――言った通りのことをやってくれたらいい、と。それ以上のことはあえてしないでくれ、と。あえて、配慮はしないでくれ、と。もちろんそこには大きな意味もあって、自分が言ったことをやってもらって、それで失敗したり足りない部分があったら、それが自分の経験として自分でもわかってくるわけで、勝手に配慮されるとそこすら分からなくなる、自分の経験が蓄積しなくなるので、そういう意味で彼らはあえて介助者には言われたことだけやってくれと伝えながら運動をしてきたんですよね。
 で、その立場から、この本の最初の方にも介助者手足論とか出てきていますけれども、喋らなくて言われたことをやる、ただ指示を待つ、基本は指示を待つという介助者像が形成されてきたんですけれども、そうした中で、僕自身も介助に入ったりしているんですけれども、そういう介助者手足論という一種のでかい規範がバンとあるんだけれど。でも実際の介助では、それだけではないなという感覚があって、だけどそれをどう語ってよいかはなかなか難しいですよね。なかなか難しい。もちろん内々では「あれどうなのよ」とか喋ったりすることはあるんですが(笑)、でもそれを意味ある言葉として喋っていく、その意味の立て方自体もやはり難しい部分があって、介助者が喋るということはどういう意味でもって喋るのか――介助するだけだったら喋ることはないんですよ、障害者とペチャクチャお喋りすることはないのだから――、どういうスタンスでどのようなことを意図して喋るのかということも割と悩ましいところですね。
 そういうことについて前田さんなりに、とくに一章ですね。介助者が自覚したうえで、積極的に語っていくことが必要なのだと言われるんですね。その自覚というのが、今大雑把に気付いた点だけでも3点指摘されているわけです。
 まず「障害者の自己決定に関して他者としての介助者が手段の確保というレベルで大きく影響して」いるということ。障害者の側から、この人だったらこれを頼めるけれども、この人だったらこれは頼めないから次の日に回そうだとか、そういう議論をして、それはやはり障害者の自己決定という理念そのものがやはり事実レベルで揺らいでいるわけですが、そういう議論も一つあります。
 それからまた運動論的に、介助者はnobody誰でもない存在としていてはならない、というのが一つあって、それは何でかと言うと、これまで障害者運動というものが健常者性というものを問いなおしてきた。それなのに、「介助者を単なる手足としてのみ語ることは、健常者を「ノーバディーでいられる」という「特権性」から引きずり下ろす営みであったはずの「自立生活」を巡る議論において、介助者を再び「ノーバディー」として位置づけることに等しい」わけで、それはナンセンスであると。70年代の議論では同時進行だと言われていたものがですね、つまり健常者の自己変革と障害者の変革は同時進行だと言われていたこと、どっちが抜けてもあかんと言われていたことが、いまの自立をめぐる主張ではその片方が抜けている側面もある。介助者が問われる立場に立たずノーバディーのままでいられることもできるわけです。でもそこは健常者として、あるいは介助者としてと言ったほうがよいのかもしれないけれども、引き受けるべきではないかという運動論的な意味もありますね。
 もう一つ、いろいろな意味で障害者の自己決定自体に介助者が暗黙のうちに介入してしまっているという側面があるということです。「介助者は現に介助の場において、アイデンティティやポジションをもった「何者か」として「障害者の自己決定」に介入してしまっている。そのことに自覚的であるなら、なおのこと「介助」をノーバディーとして語ることはできない」。無意識のうちに介入しているということをいろいろな面で僕らはおかしてしまうことがある。たとえば部屋が暑いとして、無意識のうちにクーラーを下げさせるように誘導するということだってやっぱりやるんですよね。でもそれはよく考えたら、こちらの都合なんですよね。だけど相手の都合にしちゃっているわけで実際暑いんだったら「暑い」ってはっきり言えばいいんだけど、それを言わずに相手の責任にしているというちょっと狡さがあるんだけれど、そういう意味でも無意識のうちに自分の都合なんだけれど相手の自己決定に介入しているということはあって、そういうことに関しては自覚的になった方がいいんじゃないかということです。で、介助者手足論だとそこの部分に関して、そこら辺いろいろ介入や干渉のグレーゾーン、自己決定をめぐるグレーゾーン、障害者・介助者のどっちが決定しているかわからないようなグレーゾーンがあるんだけれど、そのグレーゾーンをまったくなくして議論されてしまいかねないわけで??。
高橋:それって、たとえば「労働者の安全衛生」といって労働者の権利を求めて事業所や障害当事者と交渉するというのとまた相当ニュアンス違いますよね。
渡邉:うん。その自覚の問題ですね。介助者としての自覚というのはそういう意味でも、ちょっと意識しといたほうがいいんじゃないか。手足論では回収できない部分を、介助者の側から意識的に出しておいてもよいのではないかというのが一つありますね。まあ、いろんな視点で、介助者としての自覚、それに基づいたうえで喋っていく、語っていくっていうのは、いくつかの視点が必要なのだろうなというのが丁寧に語られていて、そこが参考になりました。
 で、ちょっともうちょっと言っていいですか?

安部:どうぞ。

渡邉:で、もう一方で違和感を感じた部分もあります。その「違和感」というのは、前田さんは「介助」というものを「“社会をまるごと経験すること”としての介助」として捉えていて、そこに介助経験の社会的意味というようなものを見ていると思うのですが、そしてこの本は介助をそうした「社会を経験すること」として捉えて論じたところに大きな意義があると思うのですが、こうした側面は確かに重要で、そういう部分をぐぐっと自分のなかに引き寄せてぐぐっと考えると分かってくるのですが、ただ、わりと実際の介助の日常の中では、普通あまりそこまで考えずに、言われたことを丁寧にやるだけでそこまで考えずに済んでしまっているとも思うわけです。で、利用者の生活に関しても、そこまでこちらが考えなくても、とりあえずやっていけれるというところが十分ありますよね。そうした理念や意味合いとは関係なくうまい具合に日常生活を送っている、逆に利用者からしてそうした意味合いが暑苦しい部分だってある。そこまでを介助者に求めない人もいる。
 それで、介助者からしても、最近の介助者の傾向、最近の介助労働者の傾向になるのかもしれないけれど、当然介助の仕事の時間を離れたら自分の時間がまっているわけですね。で、とりあえず障害者のことは忘れちゃおうと、スパッと。で、自分の家は結構バリアフルなところに住んでいてもあまり自覚なしに生きられちゃう。で、「お宅に伺う時」だけちょっとモードになるけれど、それ以外の時間は普通に健全者として過ごすっていう「切り分け」はもう普通にみんなやっていることではないか。「まるごとの経験」ではなく「切り分け」が普通に行われていないのか。健全者性とか、「障害者を無力化する社会」についての自覚なしに大体すませているよな、というのが事実としてはね、規範のレベルではなく事実のレベルではあるな、と思っている。
 それから、無自覚なままでも少なくとも手足論の範疇のなかでは仕事は可能なんですよ。で、介助の現場ではいろんなことがあったり経験したりするけれども、それを「職場の作法」みたいな感じで、「介護の流儀」みたいなことを書かれていたけれど、それもすべてそこの「職場の作法」として切り分けて考えることもできちゃうんじゃないかな、と思っていて。で、それこそ、労働力を「商品化」してしまうこともできる。商品化しにくいことが、感情労働の一つのポイントだって言われることもあるんだけれど。どうしても「ケア」しちゃうっていう意味で。けれど、自立生活運動は「配慮はいらない」と言ってきた意味で、「ケア」や「気付き」は求められない。その意味で介助者は自分の労働力を商品化できやすくはなっていますよね。

高橋:ある意味でCIL型の自立生活運動が求めていたもの。消費者としての権利。

渡邉:うん、そうですね。でその「まるごとの経験」をあえてシャットアウトする、軽くなる。で、これは場合によっては「バーンアウト」燃え尽きを防ぐための有効な手段で、働く側としては。で、どこでもかしこでも重さをぐいぐいと引き受けてしまうと、それは無理になってしまうので。

高橋:それは専門職とかに求める感情コントロールとかね

渡邉:ああそうだね。
高橋:シャットアウトして仕事しかしないって。一緒に生きるって形になんないんだよね。
渡邉:うん。そうだよね。で、そうそう、そういうことなんだよね。で、これ事実のレベルとしてね、そういう風に生活のために、自分の生活のため、「健全者性の脱構築」という意義をもたずに生活のために淡々と仕事をこなすっていうことは、十分に、実際さっき言った労働者の拡大というのと一緒なんだけれど、そういう意味で普通に行われているんことなんだろうなとは思っていますね。で、たとえば小山内さんの言葉も紹介されていたけど、いろんな利用者がいたとして、「あ、この利用者にはあまり滑らかにやらない方がいいんだな」と、ひとつ情報として仕入れるわけですよ(笑)。

高橋:小山内美智子さんという方が前田さんの本で引用されるんですけど、その人の車椅子を押して、すごい慣れた介護者が介助して電車に乗るときに、そこに小山内さんが「あまりにも滑らかだ、施設職員の手を感じた」って言うんですよね。で、「あなた気をつけなさい」ってその場で介護者に言い添えたっていうエピソードです。

渡邉:そうですね。「あえて滑らかにやらない」っていう情報のもとに介助してしまう。けど、それはなんかちょっと違うよね、とぼくなんかは思うところもある。そういうふうな感覚になってしまうと。やっぱり距離を置いてしまう。障害者は障害者、仕事時間は仕事時間という分け方になってしまうよね。で、社会全般に開いていくという志向ではないし、他者との出会いを大切にしているというわけでもない。でも、他者との出会いを大切にし過ぎると、さっきも言ったようなバーンアウトが起こってしまうかもしれないみたいなことも、やっぱり一方ではありますね。
 で、僕がちょっと思っていたのは、レジュメに「介助者」と〈介助者〉と括弧を変えながら書いたのですが、これは『現代社会の理論』という本で見田宗介が「消費」と〈消費〉って分けて書いていて、「原義」と「転義」の違いを表現しているのを参考にしたものですが、その二つを分けて認識しておくことも必要だと思っています。前田さんの本では、その「原義」の部分の大切さが書かれているように思っていて、それが介助の日常では、しょっちゅう転義に流れる。転義に流れていることが多い。けどその原義の部分が、やっぱり僕もとても重要だなと思う部分なわけで、原義としての「介助者」というのは、「その場その場で行為遂行的に構成される主体」、「関係的概念」であると。原義においては、結局は障害者との出会い、他者との出会いから始まってそこに終わるということ。それはもちろんルーチン化されて固定化する部分、転義に流れる部分も場合によってあるけど、つねにそこに振り返らないといけないポイントっていうところですよね。忘れちゃいけないっていう部分を、ひょっとしたら「障害者」と「介助者」との関係だけではないのかもしれないけれど、いろんな関係が人間相互にあるけれど、そこの部分はやっぱり「一期一会」ではないですけれどもつねに関係的に、相手がいて自分がいる、他者の存在によって自分の存在がある、という言い方をしていいかどうか分かんないけれど、そういう部分は振り返らないといけないなと思う。で、転義って書いた〈介助者〉というのは「固定的な存在」で、「実体概念」としてある。その〈介助者〉っていうのは普通に実体として存在しているので、その労働時間のなかでね。大体は、その都度の新しさというのはナシに僕らは生きているわけですよね。なんか色んなものが沈殿している中で、堆積の繰り返しみたいな感じで、「新しさ」、その場そのときの出会いの新しさという意味ではなくて、繰り返し。それこそアーレントでいう「労働」という文脈ですよね。生命維持の過程という、そういう部分をずっと繰り返しやっているという部分はやっぱり現にあるので、それは捨てられない。それ自体を否定はできないけれども、でもただ、その時その時でもそこに拘泥してしまうのではないというのが大切なのかなと思って、あえて分けて書いてみたんですよね。
 前田さんの本には「我々の暮らしはつねに介助者研修のなかにある。手足のよどみを契機として聞くことへの志向を開き、介助者を研修中の身へと何度も何度も立ち返らせる」とあります。つねに新しい何かを発見していく。で、相手を他者としてつねに尊重する姿勢をもつかどうか、自分には計り知れない人として相手と接するかどうかというところは、つねに気付いていないといけない。振り返らないといけないなと。でそれが最初に言った介助の原点みたいなものなのかなと思いました。で、もう一個は、「CILという場で行われる有償の介助は縁を切ることを前提としており、またそのことは後日、介助者がそこを去っていくことを織り込み済みであることを示してもいよう」と書いてあるんですが。

高橋:なんか寂しいな。

渡邉:(笑)。寂しいのはそうなんだけど、「本当かな」と思ったのは、いや、これ自体意義は分かるんですよ、いろんな流動性を高めて、回転をよくするという。で、それはやっぱ、していったほうがいいとは思うんですね。だけど、思ったのはやっぱり生活の継続、「生活の中心と周辺」という分け方をすれば、周辺部分でそういうのが入れ替わり立ち替わりあってもいいけど、どっかで介護者の側も「責任」というものが、場合によっては付きまとうケースに置かれることがあるわけです。「責任」に関しては、命の問題とか書いてありましたよね。

前田:はい。命にかかわること。

渡邉:そうですよね。で、多くのCILはいったんは、そこまでは責任もたんでいいと言う、障害者の命の責任は障害者自身で考えるので、介助者が考えると過干渉になりがちなので、いったんは介助者が障害者の命のことまで考えるのをシャットさせるわけです。でも、これ、ほんまに自己決定と命というのは難しい問題なんですけれども、大手のでかい事業所とかCILとかだったら介助者が多くいてまだそういうケースは少なくなるんだろうと思うんですが、たとえば、なんだかんだの理由で事業所が縮小したりとか、あるいはもともと人手が少ないと。田舎の村に住んでたりとかだったら、どうしても誰かが介助に入らないとあかんとか、責任をもたなあかんとか、障害者の命を守っていかなあかん、ということはやっぱり言えるので、それは流動性の話だけではやっぱりいかんなと思っていて、でそのときの責任というのかな、それに関しては――今回の本の趣旨は多分そこにはなかったんだと思うんだけれど――そこもやっぱり介助者の意見としては、喋っていく何かがあるのかなという印象を受けました。はい。以上です。

高橋:介助者は何を喋っていけばいいんだろうね(笑)。

前田:ありがとうございました。せっかく違和感を表明していただいたので、そのあたりについてもう少しお答えできればと思います。
 まず切りわけ云々という話なのですが、私もいちおう「自覚しながら」といった言い回しを使っているので、そこで少し混乱させてしまうのかもしれません。私じしんは「事実として切りわけられない」という立場なんです。切りわけているつもりでいるのだけれども本当は混ざっているでしょう、という立場で書いてきている。なので、真の介助者はちゃんと切りわけて家に帰ったら介助のことを忘れて日常に帰ってるじゃないかといま渡邉さんはおっしゃったんだけれど、そうではなくて、こっそり入り込んでいるはずだ、そしてその「こっそり入り込んでいる」さまをその人はどうやって語ることができるか、そのあたりのしかけが大事なんじゃないかなと思っているんです。ただ自覚といってしまったので、そこで意識/無意識という話がまざってきて混乱させてしまったのかもしれないですけれども。ともあれ知らず知らずというところが重要なんじゃないかと思っています。
 それで話をつづけると、いま話しているなかではじめて自分でも気づいたことなんですが、「介助者みんな喋ろうぜ」とさっきからずっといってますけども、やっぱり日常のなかに埋没しているわけですね、日々介助している人のあたりまえの経験というのは。だから「語ろうぜ」といわれても、「じゃあ何から語ればいいんだろう」っていうのがやっぱりあると思います。たとえば私なんかは、ある意味研究として介助をやっているところがあるので、それこそゴッフマンとかを読んでリクツがあって「ゴッフマンが言っていることと現実はどう違うのか?」という、ある種の枠組みだったりだとか、いわば現実を描きだすときの補助線ですよね、そういうものを研究者はもっているので、まだ語りやすいとは思うんですね。で、そうしたときに、じゃあそうではない介助者の人たちに「語れよ」といったところで、「はい、がんばってます!」以上のことは語れなくなってしまう(笑)、語ってもなぜかショボくなってしまうという寂しさもあると思うんですね。で、そういうときに、じつは介助者手足論って語りを引きだすしかけだったんじゃないだろうかって、今日の話を聞いてて思ったんです。むかしの運動のなかで「介助者は手足のようなものだ」と言われたときに、「なんやと?!」と応じる。そうして介助者の語りを(すでに)引きだしている。「介助者喋りおった、しめしめ」っていう、そういう側面があったのかもしれないと。どこから語ればいいのか、そのきっかけとなるしかけとして手足論を評価することができるんじゃないか。そこにおそらく手足論のいちばんの意義があったんじゃないか。そう考えると、介助をはじめた時点で文字どおりに読んじゃった私がバカだったのか、と思いもします。

渡邉:読んじゃった私がバカだったっていうのは?

前田:私は手足論を文字どおり真に受けて介助をはじめたクチなので。それってその初発の時点で、もしかしたら間違っていたのかもしれないな、と。

■介助者手足論の射程と限界

渡邉:介助者手足論って研修過程ではあんまり言われないかもしれませんよね。でも介助者に育っていく過程のなかで、介助者は手足だという主張があったとして、こういう配慮をしていけないとか、ああいう配慮をしてはいけないというのは結構言われるとは思うんですね。多くの場合、最初介助に入るころは間合いとか感覚がわからず、いろいろやらなあかんと思うこともあって、けっこう障害者のペースからすればやりすぎちゃって、それで「先に手を出すな、先回りするな」といったことを言われて、それを言われ続けて正直萎縮していく場合なんかもある気がします。もちろん先回りしたり、やりすぎはいけないんだけど、そこらへんで、手足論の歴史的経緯はとても重要なものなんだけど、いまの状況、介助が社会運動の一環ではなく食ってくための賃労働となっている今の状況のなかでは、手足論が介助者を萎縮させる何かがやはりあるんじゃないかな、とも思いますね。

安部:堀田さんはどうですか、いまの話? なんかこのアリーナ/議論にいまにも躍りでてきたくてウズウズしているような、そういう印象を僕はもったんですけれども(笑)。

堀田:いえいえ(笑)。手足論についてはどうなんでしょうね。いまの話を、たとえばケアという言い方で、つまり障害者介助に限定しない「ケア」全般へと広げるかたちもあるのかなと少し思ったんですが。というのも、たとえば保育も含めて手足論で語れるのか、というと明らかにそれは違いますよね。そこはだから、やはり区別したほうがいいかもしれませんね。障害者の場合、高齢者の場合、というように議論するときにわけたほうが。たとえば、保育で手足論が通用するのかどうか。明らかに手足論や配慮の禁止が主張される場合には自立生活障害者、障害者のなかでも大人であるとか、そういう限定があるんじゃないか。また、高齢者と中途障害者との違いも含めるとなかなかむずかしい。「要介護高齢者」も中途ですが、じゃあその高齢者が「健常者性」を問い直すというのはどういうことなのかとか。いろいろ細かい話があると言えばある。
 また、責任の話としても、安部さんが最初に飛ばしたところにももしかするとかかわるかもしれませんが、すべての健常者が自覚をもってという規範的な意味での責任ということが、いったいどこまで言えるのか、という話はあると思います。
 たとえば安部さんのお話だと、ケアの義務化、社会化についての議論ですが、労働市場では別に介助職につきたくないと思う人はつかなくてもいいわけです。そうすると一部の人しか介助に携わらない。逆に、みんなが介助職についたらほかの仕事がなくなっちゃって、それはそれで生活が成り立たなくなってしまうわけで分業は必ず必要なんですけれども。ただ、ある一定期間介助に従事することで、「健常者性」に気づく瞬間というのを人はもったほうがよい、あるいはもつべきだ、という考え方もありえます。では、そう言えるのかどうか、と。そういう話にもつながるのかなと思います。これがひとつです。
 もうひとつは、これは規範的な話になりますが、「責任」は言うまでもないですが能力の範囲内ですよね。簡単にできるのにしないのはダメだろう、と。だから、前田さんの本に出てくる事例もどうしても分類してしまうんですが、たとえば「爪切り」とか「風呂介助」とかは当然の要求で、つまり要求自体には問題はない。それが、介助者側の能力の問題でできないということであれば、それはおそらく介助者側に責任がある。しかしたとえば、性売買に行く、あるいは本に出ていた例では「デリバリーヘルスを呼ぶ」という話になるとかなり微妙になる。なぜならそれは健常者においても誉められたことではないからです。また、極端なのは自傷などですが、それを他人の手を使って行うことを正当化できるかというと、難しい。と言うか、できないと思います。その意味では、コンタクトレンズとか泥酔状態で車椅子で移動することを安全に100パーセントできる能力を介助者に求めることが果たしてできるかという問題は、風呂などとは違う話だと思います。泥酔状態の車椅子といっても、もちろん距離や道の状態にもよると思いますが、そこまでの要求をできるかといえばやはりできないだろう。だからその責任が介助者にあるかと言われれば、ないと思います。
 要するに、事実として「できる/できない」に関する知的・身体能力がまず前提となっていて、できる範囲が要求してよい範囲になり、その範囲内で責任が課される。その責任の範囲内で要求に応えることができるのに応えないのは「良くない」と言えるけれども、逆に同じように、範囲を越えたところではむしろ要求するほうが「良くない」ということになる。できないこと、困難なことを要求するのは、障害者に対するリハビリの強制と同じだからです。もちろん複雑なのは、「かりん燈」でも議論になっていることだと思いますが、介助者だっていつも100パーセント能力を発揮できる状態にあるとは限らないという点もあります。体調が悪かったりして、普段はできることができない状況もありうるわけですね。そのときの責任の範囲はなかなかケースバイケースで難しい問題でしょう。
 ただ、いずれにしても、事実問題と責任問題つまり規範的問題は当然リンクしていて、どこまでが過剰な要求なのか――それは介助者側の要求が過剰な場合もあれば、障害者の側の要求が過剰な場合もあるのですが――、どこまでが正当な要求なのかというところが、やはり気になります。そのあたりの線引きについて、ケースが出てくると「これはこうだ」というふうに考えちゃうんです(笑)。
 その点で、話を戻すと、さっき高橋さんが言われた「障害者と一生つきあう覚悟」とか、仕事時間以外にも「バリア」に思いめぐらすとか、はたしてそれらを要求できるのか、あるいは要求して良いのかどうか、ということにも関わると思います。あるいは、すべての人に20歳になったら介助できる部分でやりなさいと強制することはどうなのか。これについてはみなさん、三人とも意見が違うとは思うんですが。

■介助の義務化をめぐって

安部:ありがとうございます。では堀田さんからの問題提起を受けてつづけていただきたいんですが、その前に少し関連するところに差し戻すというか、差し挟みたいんですけれど、さっき省略したところですね。先ほど前田さんの(A)と(B)の論点の関係がいったいどうなってるんだという話をしましたが、ここから導かれる論点があるんじゃないか、と。
 くり返しになりますが、つまり先ほど確認されたのはこうでした。「現場」に一定度とどまる必要があるのは、あるいはそれが「よい」のは、その経験が介助者の「健常者性」に反省をせまるものだからである。つまり介助関係において立ちあらわれる「健常者性」と出会い、ゆらぎ、対象化し、相対化するためである(しかしこの過程にはむろん個人差があるだろう)。これが(A)ですね。そうして介助者は「現場」と「日常」を往還し、媒介する(あるいはその境界じたいを曖昧化する)ものとなりゆく。そんな介助者はもはやかつての「健常者」とは「異なる主体」──すなわち〈介助者〉──なのではないか。そして「出入り自由な場で〈介助者〉を作り出すことは、ひいては「介助現場」を「社会」に拡散していくことである」から「よい」のである。これが(B)で、このように両者は結びあっていた。
 そのうえで、だとすればここから導かれるさらなる論点があると思うわけです。それは「介助労働の義務化」という論点である。というのも(労働ではなく)金銭を介して介助を支えている(あるいは間接的に介助にかかわっている)かぎり、それら(多くの人びと)は「健常者」をそのまま安置することになり、つまり前田のいう「よさ」の外部にあるからである。あとこれに関連して、この間「生存学」(先端研)の院生たちの研究にふれてわりと大事なことだと思うようになったのですが、これはすこし意地悪ないいかたになりますが、というか、うえのような「規範」に照らしたとき、同じ介助「関係者」でも、つまり介助「界」において、「有償でも無償でもあまり介助にはいらない人たち」(つまりあまり出会わない人たち)や、「介助ではなく補助的な役割を努めている人たち」「事業所で働く事務方のみなさん」(つまり直截出会わない人たち)の位置づけはどうなるのだろう。この点は研究としてもおそらく未踏の領野であるわけで、より包括的な「介助現場のリアリティ」を描出していくうえで重要な課題なのではないか。
 いくつかいいましたが、まとめます。前田さんの言い方でいうと、障害者と出会うことによって、我々はこっそりと(自覚せずに)健常者性のゆらぎを密輸入している。これをさっきの堀田さんの言い方でいうと、我々には潜在的ではあるが事実として出会える(ゆらげる)可能性があるともいえるわけです。だとすればそこから、不可能性はたしかに義務を解除するけれども、我々は潜在的に出会う(ゆらぐ)ことができる(出会う能力がある)というように事実性を押しひろげることができるならば、「(可能なのだから)出会う(ゆらぐ)べきだ」とのように規範論的にもいいうるわけです。
 そしてこれはもちろん大きな問題で、この間ではたとえば市野川容孝さんや堀田さん、立岩真也もおそらく気にしている介助労働の義務化をめぐる議論、ここでの義務化は全員が直截介助労働にかかわるという意味ですが、たとえば堀田さんであればM・ウォルツァーを引きながらしている議論ですね(「ケアと市場」『現代思想』2008年3月号)。この論点にかんして、僕を含めて四人四様の見解があると思うのですが、このあたりってどうでしょうか? ちょっとデカイ問題提起で申し訳ないですが(笑)、もし何かあればコメントしていただけばと思います。
 〔「それは社会制度としてケア(介助)労働というものを分担していく仕組みをつくっていくことにかんしてどう思うかという問いなのか」との参加者の発言を受けて〕ちょっと補足します。僕はご存じのように、いわゆる制度論者(政策/制度を現実にどうしていくかに関心を寄せる真面目な人たち)ではないので(笑)、そのあたりはあまりしっかり考えてないんですよ。システムとしてどうするかとか、細かなfeasibilityの問題も含めて。ただイメージとしては、徴兵制みたいな感じですね。たとえば18歳になったらみんな一年間介助にいくとか、たとえばそういう。あとこれは僕の記憶に誤りがなければですが、7月だったかな、この前「生存学」の企画で市野川さんがいらしたときに、介助の義務教育化みたいな話がたしか最後にちょっと出て、市野川さんが「悪くないんちゃうか」といったニュアンスのことをおっしゃった気がするんですが、要は健全者全員が――例外はあれども基本的には――障害者に出会えるんだから出会っていく、出会うべきなんじゃないかという議論ですね。これは『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』におけるイグナティエフの権利言説/福祉国家批判にも接合されうる論点ですが、お金(税金)を出すという、いわば「出会わない」かたちでケアを支える、そのことの是非論ですね。だからラディカルな主張なわけですよ、これはもちろん。だからふつうは誰もがそんなの無理あるいは無体だろうと??。

堀田:賃金高くしたらやる人出てくるんだからいいじゃん、とかね。

安部:そうそう、そういう話で落ちるんですね、ふつうは。そのうえでそこを落とさないとしてというか、それこそ別に規範の話をしなくてもいいんだけど、事実として私たちは出会えるとすればというか、ここは僕じしんの研究関心でもあるのですが、僕もじつはそういうふうにじつは思っているところがあって。つまりさっきの介助が終わったら介助のことを忘れてしまうといったオンとオフの話ですが、僕たちのあり方というのはいまはAでそれが終わったらBというふうに反転するというのは極端なあり方だけれども、そういったあり方をしていないと僕は思っていて。つまり自己のうちには複数の自己があるというか、公私においてその自己たちがないまぜになっているというか、それが前景化したり背後に退いたり、それこそ他者との関係性において複数の自己たちが立ち現われたり隠されたりするわけで。その意味では前田さんのいう事実としての出会いの可能性というのは、僕はただし「事実」とまでいえるのかは留保で直観的にはたしかにそう思うのですが、いずれにせよ議論の前提としてはいいなと思っていて。これは規範論をするときにも。というような感じで、その「事実性」を介助労働の義務化という、あえてハードなラインでつなげていくといったいどういうふうに考えられるのかな、と思ったんです。これが質問の意図です。さらにいえば僕じしんははじめに申しあげたように介助の外野というか、現場のハードな抜き差しならなさみたいなものを知らない、その意味では暢気な規範論論者だと思うので、そのあたりをご存じであるみなさんの見解をぜひお聞きしてみたいなと思ったわけです。

堀田:じゃ僕から。僕はいずれにしても過剰だと思います。過剰というか、言い方として一般化するのは難しいと。いずれにしても、と言うのは、ひとつは、ケアに関わっている人は生活の全場面において同じく障害者の生活について思い巡らしているべきだというのも過剰だし、他方ですべての人、全員が、全員というかできる人が何かすべきだ、というのもなかなか過剰な感じがします。ただ、とはいえ同時にそこで主張されたことのなかには単純に否定できないというか考えるべき重要な要素があるとも思います。「できる範囲」をめぐる問題は不可避なんですが、たとえば、人は部分的には健常で部分的には障害があると思うから、その意味では、障害者もできる範囲で介助すべきだという話になるでしょう。たとえば目が見えない人は手足を使ってとか、手足を使えない人は目を使ってとか、そういう話にもなる。でもそれは何か過剰な感じがするんですよね。「べき」の言い方によるのかな。

安部:そこね、そうなると、『現代思想』で立岩先生が堀田さんにからみついたというか、有償/無償をめぐる話がありましたが、堀田さん的には立岩先生のあの落としどころはどうなんですか? 立岩先生はあれで落ちたと思っているはずなんですよ、たぶん。あのオチは過剰じゃないですよね?

堀田:うん、現実的ですね。

安部:堀田さん的にはその後というか、その先の展開はというかというか、そういう意味では、あの話はあれで終わった感があるんですか?

堀田:そう言われるとやはり違うんですが(笑)。立岩さんの話としては、あれはあれでという感じかな。

安部:なるほど(笑)。

堀田:〔ケア労働を市場で、あるいは金銭的インセンティブを高めて調達することの限界についての参加者の質問を受けて〕限界がどこにあるか、ということですよね。事実として限界があるということではないんです。ただそれが、人が足りないなら賃金上げれば集まるしそれでいいじゃん、とかそういう話ならば、その発想はイヤなんですよ、僕は。逆に言えば、この類の発想との距離でこの話を考えていないとすればそれはつまらない。僕は、賃金向上なら向上だとして、その正当化が、その類の「人材調達論」流の発想であるとするならば、それは違うという感じがする。それだけでは、さっきの高橋くんの言葉を借りるなら「寂しい」。

安部:堀田さん、そこはあえてカント主義者になっても悩ましい感じなんですか? やはり過剰だ、と(笑)。

堀田:いや、ぜんぜん過剰じゃないでしょう(笑)。
安部:そりゃ、カントの場合はそうなりますね(笑)。でもそのあたりの観点も挿入すると、この話はまだやっぱりつまってない感じがするな。

堀田:はい。難しいのは規範をどこまで重視するかだと思うんですよ。一方で、20歳になったら全員に何らかのかたちでケア――介助だけでなく保育も――を強制するといっても、それは一定期間になりますよね。みんな一生かけてケアしてたら、ほかの仕事ができなくなっちゃうから。それにニーズ的にも明らかにそうする必要もないでしょうし??。
 〔「なぜ(税金などではなく)労働を提供せねばなければならないのか」という参加者の発言を受けて〕実際のケア労働の意義というのは、前田さんも指摘しているとおり「健常者性」の問題と関わるのではないか、と思うからです。そして、そういう主張をした人たちが実際にいたし、その主張は重要なことを提起していたと考えるからです。ケアの義務化の実効可能性は法律をつくれば可能なわけだから問題にならないとして、効率性による批判もおそらくあたらないでしょう。何を基準に効率性という言葉を使うかですが、使い方によっては義務教育も不効率だという話になるので。とすると残る問題は、今日の話に即すなら、やはり健常者性の問い直しという価値をどのようにして共有できるか、すべきかという話になるのではないでしょうか。

■障害者介助と高齢者介助の重なりと異なり

堀田:〔社会運動における障害者と高齢者の連帯についての参加者の発言を受けて〕高齢者の場合は介護保険という制度が先にあってという経緯があるんですが、高齢者も障害者みたい運動すべきだということでしょうか? 〔「運動もしたらいいと思う」という参加者の発言を受けて〕 それは、制度を高齢者も自立生活障害者みたいなものにするということなのでしょうか。高齢者は今のままでいい、という言い方でもできるし、それもひとつの立場としてはありえますよね。
 〔「それは制度の中身にもよると思います」という参加者の発言を受けて〕なるほど、実際のサービスの内容がということですね。では、ここで議論しているようなスタンスを高齢者に対しても取るべきなんでしょうか。実際のサービス内容をもっと手厚くした方がいいというのは、その通りだと思うんですよ。現実があまりに低レベルなので、時間が少ない人はもっと多くした方がいい。でも、いまのはそういう話とは少し別で、自立生活系、さっきの渡邉さんの話も含めて、そういう健常者性を問う側に高齢者が入っているのかどうか。僕はむしろ高齢者は問われる側ではないか、自らの身体に問われているのかもしれないですが、問う側には含めなくてもいいと思うんですが。

高橋:切りますね、そこ。

堀田:いや、入れるなら入れるで、子どもとかも入れるのか、という話も出てくるのではないかと思うんです。健常者性を問う、と言うときの問いの射程の問題なんだと思うんですが。

渡邉:なんかね、障害者と健全者という枠組みで語っちゃうからむずかしく感じるんだけど、たとえばいま65歳を超えたら障害者から高齢者に移行するんですけれども、じっさいやることは一緒なんですね。で、そのときに健全者性という言葉を使うのかどうかはわかんないんだけど、じっさい80歳までピンピンしてた人でそれから要介護状態になってしまった人がいたとして、意識はぜんぜん違うとは思うんですけど、ただ基本的な人との接し方というのは、単純な手足論的な規範論では決して語れないことなんですけれども、僕は変わらないと思うな。

堀田:ただ、「人の接し方」というところまで「健全者性」を緩めてしまうと、それは障害者の介助を通じて突きつけられるべきものと言えるのでしょうか?

渡邉:突きつけられるべきというのか??それは強い言葉としてパンと出てくるものではないと思いますね。ただそういうケースに出くわすことはいくらでもあると思いますね。

堀田:子どもはどうですか? 保育とか。

渡邉:子どもか??。

堀田:というのも、どこかに線があるんじゃないかと思うんですね。どこかで線を引いているんじゃないか、と。あるいはぜんぶ一緒でいい、という立場もありうるとは思います。さっき強制の話が出ましたが、みんな等しくするなら話としてもすっきりしていていいとは思うんですが。

健常者性とは何か、それを問いなおすとはいかなることか

堀田:〔介助の義務化論への違和感についての参加者の発言を受けて〕これは僕に言っていただいていると思うんですが(笑)。さきほど言わなくて申し訳なかったのですが、義務というときにまずは区別はしているつもりです。いろいろなダーティワークのなかで、これは強制した方がいいなと思うもののなかに、たとえばゴミ収集があります。ゴミ収集だったらゴミはとりあえず蹴っ飛ばしてでも何でもとにかく片づけておけばいいけど、これが人間相手(介助)だとイヤイヤながらやるのはもちろん顔にも出たりして相手にもよくないことが起こりそうだ。それはもちろんおっしゃるとおりです。先ほどの話も仮想的というか、この理念を追求するんだったらこういう話になるんじゃないか、というそういう話ですね。もちろん、そうするといろんな問題が起こってくるだろうというのも、わかっているつもりです。
 ただその上で、前田さんも強調されていることだと思いますが、仮に義務化されて強制されたとして、その中で変わることもあるだろうし、逆に好きでやっているからといって、それがつねに相手にとってよいとは言えないとも思います。
 おそらくこれにも関連すると思うのですが、僕は「健常者性を問う」ということの内容がわからない。「健常者性を問うべきだ」と言えるとして、前田さんの本では慎重に「べき」という表現は使われていないと思うのですが、先ほど渡邉さんがお話しされたような歴史をみると、かなり強い要求だったように思えるんです。そうするとやはり、その要求の範囲は誰なのか、たまたま障害者介助に関わった人だけでいいのか。同じ一人の人でも「いつ」なのか。生活の全時間なのかそうではないのか。その強度はどの程度のものなのか、といった問いが出てくるのではないでしょうか。「健常者性を問う」ということそれじたいについて、ここでまた議論しておいてもいいのかなと思うんですが。

前田:うーん、どういうことなんでしょうね。むずかしいな。こういうことだっていえないですよね。さんざん書いておいてわかんないというのもどういうことなんだって感じですが(笑)。健常者性にかんしては、当惑する「私」というところで論じているんですよね。気持ちわるく感じてしまうとか、「手足のよどみ」という言い方で。そのことじたいが健常者性がゆらいでいる。そのことを描いているというか、ディティールを積み重ねていくというか。だから「こうなると、あなたは健常者性がゆらいでますね」とか「脱−健常者性を達成しましたね」とか、そういうことではもちろんないですし。他方で、障害者の側から「あなたは健常者性をしっかり反省してますね」といわれるのももちろん違うわけだし?…。

安部:なんなんだろうってのはもちろん思いますよね。ただ僕は「健常者性」という言葉がこの本のなかで定義されていなくても読めたわけですよ。それはディティールの積み重ねが折り畳まれるかたちで指し示されているという部分もあるでしょうけど、何よりその言葉の定義がわからないのになぜ僕はこの本が読めたのかというところにこそ健常者性がある、つまり健常者性がこの僕のなかに実在していることの証左だと思うわけですよ。つまりそのつどそのつど、この本にかぎらないですが、そうした言葉や事象にふれるときにいわば行為遂行的に指示――強化ではなく――されるというか、現成してくるというか。だからもちろん学者としては「健常者性」というのを定義したいという欲望みたは一方でありつつも、しかしというか??。

前田:うん、いってることはわかります。

安部:そこがミソかなって感じがするんです。

前田:言葉のうえでの定義という話ではなくて、ということですよね。

安部:というのも、そのことと、さっきの気づかないけどつねに/すでにゆるがされている、こっそり出会ってしまっている感というのは結びついているんじゃないか、という気がするんです。普遍性というのはそういうかたちで事実性と通底してくる、みたいな話だと思うんですよね。それこそ、うまく言語化できませんが。

堀田:前田さんは健常者性を変容させることが「よい」と書かれていますよね。介助は負担だれども「よい」と。この「よい」は規範的な「よい」ですよね。

前田:どう変わったから「よい」というわけではなくて。いわゆるそのことじたいが、プロセスを積み重ねることじたいが「よい」という感じですね。

堀田:すべての人が必ずしも介助に関与する必要はない、という感じでしょうか? それは、すべての人が健常者性を変容させなくてもよい、ということにもなるのでしょうか。たしかに、介助ニーズを満たす人手というところだけからみれば、もちろんそんな必要は全然ありませんよね。

前田:逆にいえば、まったく健常者性をなくせるのかというと違うだろうし。ただ、健常者性が健常者性として残り続けるのだとしても、問いなおすことで、いうなれば少しレベルのズレた〈健常者性〉とか、そういう別のかたちのものになるのかもしれない。変化することじたいに価値があるというか。だからこうなればいいという何かを想定して私は論じているのではなくて、それこそまさに関係的なものとしてあるというか。

堀田:〔「できなくさせる社会」についての参加者の質問を受けて〕「できなくさせる社会」の構成員は健常者で、その社会の根底にあるのが「健常者性」だという話ですよね。「できなくさせる社会」に問題があるのだ、という批判について気になっているのは、その批判が誰に向けられていて、どの程度のことを求めているのか、ということなんです。かつて、たとえば「できなくさせる社会」の価値観が障害者自身のなかにもある、「内なる優生思想」を問い直さなければならないといった議論もありましたが、それは、批判がすべての人に及ぶということではないでしょうか。すべての人の価値観に向けられた批判だったのだともいます。
 そしてそれが、感覚的・感性的な部分、たとえば「手足のよどみ」とかにどう関わっているのかが問題になるのではないでしょうか。健常者性の解体のためには、何らかの実質的な関係性、たとえば介助する/される経験が必要だとすると、「すべての人が??」という話にならないのかどうか。あるいは、その解体に介助関係の経験など不要だ、という前提もありえますね。身体的な負担とか不快とか、それと健常者性をめぐる話との関係も??。

安部:それはザックリいっちゃうと、ハビトゥスみたいなものじゃないんですかね。それこそ教育の産物、教育による刷りこみ=身体化っていうか。

前田:うん、僕もそういうものを念頭に置いているんですけれども。〔「介助者−被介助者という関係性がそもそも障害者の存在を前提としている、健常者性とはその暴力性のことで、そのことを自覚することが問い直しではないか」という参加者の発言を受けて〕それが構造としてあるというのは私も認めるとろころです。で、そこをわかりつつ、では次にどうするのという話をしましょうというのがあるんですね。〔参加者の発言を受けて〕あとオンとオフについては、オンとオフを切りわけた方がいいという話と、オンとオフが事実としてあるという話は別だということですよね。そのへんはいわゆるポスト・フォーディズム的な状況のなかで、どこまでが労働かわからなくなってくるみたいな話とかかわっているのかもしれないですけど。それこそ感情労働みたいな話とも重なってくるのかもしれない。

高橋:でもやっぱり健全者性と向きあうというのは仕事じゃないからオンとオフって話じゃないと思うんですよ。カネもらってやることじゃないと思うんですよ。逆にカネもらってやっちゃいけないことなのかもしれない。僕はカネじゃそんなものは売らない。

堀田:それは自分じしんの価値観みたいな感じなのでしょうか?

高橋:価値観っていうか、じっさい事実として売り買いはできないじゃないですか。「じゃあ君は僕に愛を貨幣と交換に差し出してください」っていって、事実として自発的にしか発揮できないものは売り買いできないと思うんですよ。賃労働などの契約関係で自分から切り離しやすい能力の一部とか、強制されてさせられるものと違って。自発的なものはふと湧いてくるものだし、自分でもコントロールできなくて、「与える」しかないと思うんですよ。愛と正義を否定した後にもまだ残っている愛なのかな?
 〔「ケア労働にあまりに自発性や善意がもとめられるとハードルが高くなって労働の絶対量は減る」という参加者の制度論者的な懸念を受けて〕介助労働に差別と向き合うということが含まれるかというと、健常者性を落とすことを含めるかというとちょっと違う。賃労働と、町で一緒に障害者と生きていくというのをイコールみたいな感じで語られていると思うんだけど、なんか違うと思うんですね。もちろん介助労働でもそうなったらよいことだなと思うんですが。たしかに介助っていうのは、賃労働かどうかは別としても、健全者がぜんぜん振り向かない障害者の世界に健常者が身体をつきあわせてペースをおとしてリズムをおとして、そこで一緒にいるっていうそういう特殊な場面だと思うんですね。でも、それは介助労働者と障害者だけの間ではなく、もっともっと日常の中にあふれていたほうがよいと思います。たとえば町で道端でなんかやってる、なんか買おうとしている障害者に会ったら、お店のおばちゃんが障害者と触れたことがあったら10分ぐらいかかっても言葉を聴こうとすることってやっぱりありうると思うんですね。そういうペースのおとしかたっていうか、ほっといたら振り向かない健常者を振り向かせるっていうか。僕はやっぱりそのあたりにこだわりがある。この健常者を振り向かせる、健常者がペースを落として振り向くという経験は、強制されてどうこうというものではない気もする。身体障害者福祉法とか自立支援法などの法律で国とか地方自治体とか国民とかに義務づけて、サービス提供させるものではないと。

堀田:健常者性への問いを共有すべきだとして、それは「あなたにも共有して欲しい」といった、弱い呼びかけみたいな感じでしょうか。

高橋:そうですね。

安部:ただ義務って、もちろん強制はよくないけど。これはそれこそ僕の思想みたいなものもはいりますけど、よくある批判は人間の変容可能性を軽く見積もっている感じがするんですよね。というのも「ずっとイヤだ」っていうのが前提でしょ。つまりはじめはイヤだと思うことがその後もずっとイヤでありつづけるということを自明視した議論なのが気に入らないんだよ、僕は。出会ったら、かかわったら人って変わることっていっぱいあるでしょ。たとえば食えなかったもの食べれるようになったり、むしろそういうことだらけだと思うんだよ、この世界ってのは。
 あるいは必要悪としての強制によって、我々のボランティアスピリットっていうか、愛だよ愛が、そんなことぐらいで損なわれるって何をいってるんだって思うわけですよ。だからそういう意味でも僕は前田さんのメッセージにはものすごく共感するし、さっきからくり返しいってるのもそこなんだけど。そうだし現に、それこそ事実として人って変わるじゃないって僕はわりと思うんだけどね。なんか「無理!」とかってすぐ言うけど、若い子とか。彼女/彼らに、「無理ってのがどういうことかわかるか?」って僕はいいたいんだけどね。「××が無理」っていうときには、すでにその「無理」な××が対象化できているわけでしょ。でも対象化できないことを「無理」っていうんだよ、本当は、と。正確には、それはもはや「無理」という言葉によって指し示すことのできない「何か」なわけだけれども、本来はそのようなもの/ことこそが無理=不可能なもの/ことであるはずなんです。ともあれそのあたりのことを制度論者も含め、人間をどういうふうに考えているんだって、そこがムカツクわけ。ただ制度的な底上げはもちろんできるでしょうし、その意味では制度論って一括りにするのはもちろん語弊がありますが。

■さらなる「リアリティ」の究明に向けて

安部:時間も迫ってきましたので、急旋回的になりますが、僕から最後の質問に移らせていただきたいと思います。本日お配りした資料、つまりHPに掲載した文章にも書かせていただいたことなのですが、前田さんのこの本というのは、おそらく多くの人が意表をつかれたと思うんですが、妙に「あかるい」本なんですね。で、そのあかるさというのは前田さんの経験した「リアリティ」だけに由来しているのかというとそうではない、と僕はこの本を読みました。つまりここで二つの問いが立つわけで。一方で、単にそういうコンフリクトがなかったのか、つまりそれは前田さんのいた介助「場」の、いわば幸福な「リアリティ」なのか。他方で、もちろん抜き差しならないコンフリクトという「リアリティ」がじっさいあったんだけど、あえて書かれなかったのか――こうした問いが立つ。そのうえでこれは僕、乱暴な言い方になるのは承知のうえで言いますが、介助関係っていうのも人間関係のひとつじゃないですか。もちろんケースケースで抜き差しならなさ加減っていうのは当然程度があるんだけれども、でもそういう抜き差しならないものとして表象されることが多いと思うんですね、この介助という関係というのは。こうして介助関係における抜き差しならなさや厄介さというのが学問的にも焦点化されていくという流れがあって、もちろんそれは考えられねばならない重要な問題としてあるんだけれど、そうした「語り」にたいして前田さんはあえて――これは「幸福なリアリティ」が真のリアリティだという意味ではなくて――この本をつうじてパフォーマティブなメッセージ(アンチ・テーゼ)を提出されていたんじゃないのかというのが僕の読後感なんです。ここはどうなんでしょうというのが一点目です。
 二点目は、この本って今後の課題的なことをまとめて記すような記述になってないじゃないですか。その点について、前田さんは今後どのような方法へと研究の歩みを進めていくんだろうか、というのをお訊きしたいなと。

前田:はい。まず一点目の「あかるい」ということについては意識的にやってます。指摘にあったように、介助関係というのは抜き差しならない関係として表象されることが多いということをまさに意識して書いている。というのは、「しんどい、しんどい」ばかり言われているわけですが、そしてこの本でももちろんしんどいことも書いているわけですけれども、違う書き方でしんどさを言うというか、そういうことは意識して書きました。なのでそういうふうに読んでいただけたのは非常にありがたいと思っています。「抜き差しならない」というのがどういうことを想定しておっしゃっているのかわからないんですけれども、この本に書かなかったことはたくさんあります。 当たり前のことなんですけど、私じしんの取捨選択があるわけです。書けないと判断した部分もあるし、本をつくるうえで必要ないと判断した部分ももちろんあるだろうし、わからない、意識していない部分も当然あります。ただ、面白くというか、できるかぎり遠いところから書いてみるということを私じしんは意識しながら書いてましたね。第四章の冒頭のエピソードとか、遠いところからというのは読者にとって近いところから書きはじめるというのは意識してましたね。そこから語らないと、いずれ抜き差しならないコンフリクトを描くとしても読んでいる人には届かないだろうというそういうポリシーのもとで書かれています。
 で、今後なんですが、ないというか、いまは空っぽなんですよ(笑)。またいちから地べたを這いずり回ってフィールドワークをするのか、これをもとにしてまた違う何かをするのかというは模索中です。じつはこの研究会に呼ばれたので、数日前にやっとこの本を読み返してみたのですが、「きついなぁ」と(笑)。恥ずかしいというのも含め、まだこの本と距離をとれない、この本に巻きこまれているという感じなので、次というのはしばらく時間がかかるかもしれません。

安部:なるほど。ありがとうございました。いちおうシメ的な感じになってしまったのですが、まだ少し時間がありますので、どなたか何かありましたら。

山下幸子さん(注2):では、感想というかたちでお話をさせていただければとても嬉しいなと思います。あの、基本的には私は前田くんと本当に同じような、時代の取りあげ方は違っていても、健常者性というものをどう考えていくか、健常者性を介助者自身も知って引きうけて相手に向かっていくことの大切さというようなことを私もすごく思っていて、その意味では本当に同じような感覚をもっているなというのがまずあります。
 さっき健常者性とは何でしょうかということが話題として出てきてたんですけれど、私は1970年代の障害者運動というのをフィールドにして考えてみたときに、健常者性自体はやっぱり障害者との関係でしか語れない話、その意味ではつねに関係性のなかで健常者性というのがどう立ち現れてくるのかということがいえるんだろうな、というのがまずひとつです。もうひとつは、前田さんの本の14ページにもあったんですけれども70年代の文脈でいえば、やっぱり健常者中心のできなくさせる社会のなかで自分がのんびり過ごしてこれたということにたいする驚きや違和感から出発してきたというのがあるかと思います。それはやっぱり出会わなければ気づかなかったことで、そこからも関係性、健常者性っていうものが何かっていうことが関係性に規定されているところかなという印象をもっています。もちろんそこのなかに細かくみていけば、できることっていったいなんだろうとか、スピードがはやいってどういうことだろうとか、うまいとヘタってどういうことだろうとかいったことをめぐっての価値判断というのもあるんだと思いますが、健常者性っていったときには、健常者がそういった障害者がいないところでこの社会は構成されているということにまったく無自覚に生きてこれたということにも大きく関係するかなと思います。
 それで私は、そういった健常者性を自覚するしかけというのを、今どういうふうにつくっていけるのかっていうところがすごく気になっているところです。
 70年代にはやはり意識的にそれをすごく青い芝の人たちは訴えてきたし、それにこたえるかたちではじめて健常者も気づけた。呼びかけがあってそれに応答することで、はじめて健常者性というものに気づいていけたというのがあると思うんです。そこには障害者も本当にたくさんコストをかけていたし、健常者のほうもそれにこたえるだけの、月並みな言い方になりますが、感性もあったと思います。でもそれをいま、2000年代とかの、介助が有償化して、事業化されてきてというなかで、当然障害者だって変わってくる。必要な介助さえやってくれればそれでOKという人もいるだろう。そういうふうな状況のなかで、健常者性を自覚していけるようなしかけってどうつくっていけるのかなってところが、前田さんにはがんばって欲しいなというところです(笑)。私もがんばりますが。以上です。

安部:どうもありがとうございました。ということで前田さん、よかったじゃないですか。次の課題がみえてきましたね(笑)。
 では定刻になりましたので、このあたりで終わりたいと思います。本日はみなさん長時間本当におつかれさまでした。そしてありがとうございました。


◆編者註
(1)この対論では、「健全者」「健常者」という語は互換的に用いている。
(2)山下幸子さんは淑徳大学教員。著書に『「健常」であることを見つめる――一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(生活書院、2008年)がある。



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ケア研究会  ◇生存学創成拠点の刊行物  ◇テキストデータ入手可能な本  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK

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