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「精神障害があるその人と支援者の「対等性」についての考察――当事者と専門家による共同研究を通して」

三野 宏治 20100228
第20回福祉文化学会 発表原稿 於:早稲田大学

last update:20100311


三野 宏治 2010/02/28
精神障害があるその人と支援者の「対等性」についての考察――当事者と専門家による共同研究を通して

はじめに

 精神障害者福祉においても障害者本人と支援者である専門家の関係の対等性が強調されている。しかし、対等という関係がどのようなもので、かつどう体現しているのかはっきりしない。それは「対等」という言葉が、普通でも幾層の意味をもつことに関わる。精神保健福祉士の倫理綱領などのいう「人間として(は)対等である」ということは、とりあえず言えるとしても、専門家の仕事をする/仕事をしてもらうという関係はやはり、「対等」ではない。それは、自傷他害に対する介入時を考えると想像しやすい。
ただ、パターナリズム、つまり専門家の仕事と「対等ではない」ということは、同義であると言えるかというと、それほど単純ではなくかつ整理されていない。
 では、その整理をされていない状況で「対等性」はどのように使われているのか。組織や属する個人は、「対等性」どのように考え対応し解釈しているのか。以上のことを考察する1)。

方法

 発表者は、協力機関である社会福祉法人心生会地域活動支援センターみのり(大阪府交野市)と就労継続B型ミルキーウェイ(同)において、2009年9月から2010年2月までの間に12回に渡り、対等性について自由な意見交換を行った(以下共同研究)。2)その共同研究及び支援関係を記した文献を分析することで、「対等性」がどのように解釈され、「使われている」のかを明らかにする。
 最初に、精神保健福祉士養成課程で使われるテキスト、精神保健福祉士の倫理綱領をみる。次に、協同研究での交わされた意見を、@専門家の立場から A当事者の立場からに分け述べ、倫理綱領などでの表現される「対等性」との比較分析を行う。その結果から得られた、「パターナリズムの戒めとして、その関係性を規定するもの」としての性質もつ「対等性」の使用目的が、どのように実践場面で使われているかについて述べる。
 また、「対等性」を体現化しようとする「共同作業」という“手法”に注目し、その“手法”の可能性と限界について指摘する。
 最後に今後「対等性」を考える上での発表者の課題を延べ終わる。 

1:現状
1-1専門家と当事者の関係――テキスト・倫理綱領から――
 
 精神保健福祉士養成のテキストとしても使用されている『これからの精神保健福祉――精神保健福祉士ガイドブック』3)(以下、テキスト)や、精神保健福祉士の倫理綱領4)では、当事者を、「生活者としての共通の基盤にたっている」や「かけがえのない1人の人間として尊重すること」としている。
 これは、倫理綱が確立する過程のなかで、「精神医療・保健分野の民主化」を説いているものと考えてよい。歴史的な出来事として、当人の同意なしにPSW により強制入院させられたと当事者の訴えである、「Y問題」を起点に倫理綱領が整備されたことからもうかがえる。
 また、共同研究では、「対等性」を考える上で、それを考える立脚点によってその意味するものが変化してしまうことが指摘された。
 つまり、専門家の発言が倫理綱領などにある「同じ人間としての対等」や「地域生活をしているものとしての平等」という立脚点からであるのに対して、「そのような自明なことではなく、もう少し場面を限定したほうがよい」という当事者の見解が述べられたことが端的に示すエピソードであり、それは論点がかみ合わない結果をもたらした。

1-2 専門家と当事者の関係――共同研究での専門家の意見――

「当事者と支援者の対等と言う関係についてどう考えるか」という問いに対し、当初の専門家の意見は、「「人」と「人」に上下はないということか・・・。しかし社会にはさまざまな上限関係があり、同じ人権を有しているは意味では対等です。」や「人間として対等であることは自明であり、考えること自体がすでに対等でない」と答えた。
 しかし一方では「利用者と支援者の望ましい関係とは何でしょうか。またそれは実現されているか、あるいは可能でしょうか」という問に対して専門家は、「互いが立場を知り、理解し尊重し合える関係が望ましい」、「一定の距離を保った関係」、「メンバーの困っていること、負っている課題を一緒に考えられるような関係。けれどそれは、友達のそれとは話しあう内容も細かさも違います」という職業としての支援を意識した回答もみられた。また、実践場面を想定した専門化と支援者の関係についての意見交換では、次のような意見が交わされた。

専門家:「症状の話だけじゃなくて、私も一人の生活者としてメンバーさんも生活者として悩みとかを聞いたり聞いてもらったりする。お昼食べているとき「それ何?とか前に食べたよとか」というようなことは、友達と話す内容でもあるし。そういう会話って、べつに専門家と言う立場で話していない。」
当事者:「それはだれでもそうでしょう。ふざけるときはふざける。まじめにする時はちゃんとする。会話するときは会話する。でも相談しているときはふざけないし、友たちとするような会話はしない。そういうとこは考えているよね。私たち。」

これらのやり取りは、テキストに書かれた専門家の立脚点と、当事者の立脚点が違うことを表している。そして、専門家が自らの支援を考えたとき、当事者との関係を「生活者とし同じ基盤に立つ者」「一人の人格者としての尊重」という考えが、

1:すなわち目ざすべき関係を言い当てていることにはならない。
2:現実はもう少し複雑であることを理解してはいるが「対等」という関係をどう考える  かはという問いには倫理綱領以上の考えが出にくい

という2点を示している。

1-3 専門家と当事者の関係――共同研究での当事者の考え――

 倫理綱領などでのべられる「同じ生活者としての基盤をもつもの」が「人間はみな対等である」と言うに等しいとするなら、なぜ専門家や支援が必要であるか。以上のような問題が共同研究当初からの1つのテーマであった。
 協同研究では、テキストに書かれている「理想」やあるべき姿と、現実問題としての関係にはずれがあり、それ自体は自明であるにもかかわらず、専門家がずれとして改めて認識することが多くないということを指摘した。
 ここで、当事者は専門家との関係をどのように考えているのかを述べたい。
 地域活動支援センターみのり・就労継続B型「ミルキーウェイ」にて行った意見交換では、「対等性」を望むかという問いに対して、「対等であると困る」や「対等であると専門化の意味がない」、「看板を上げている時点で対等ではない」という考えが多くを占めた。5)
 指示や指導という専門家の仕事が必要であり、その際には「対等であると困る」という。ここでも「対等性」がもつ多義性と立脚点の違いから、専門家との見解の相違がみられた。そして、それは「対等性」と支援の関係が単純ではないことを示している。

1-4 あるべき関係と現実との混同の可能性

 倫理綱領などでの「対等性」は、その成立過程などから「専門家が持つある種の「力」を自覚し、自らを律するための指標」、つまり戒めの言葉としての働きがあることは自明のことである。そして、当事者が、指示や指導という専門家の仕事を望み、その際には「対等であると困る」という立脚手にたつ場合があることも協同研究から分かった。
 テキストや倫理綱領は「対等性」の重要性を説くことで「自らの力を自覚化せよ」というが、「自覚化」を促す前に、「あるべき姿、目指すべき方向」と実際の関係を混同してしまう可能性があることも分かった。それは、「対等性」のもつ多義性と関係が深い。
 これらの結論から、倫理綱領がすなわち「実現可能で望ましい関係」であると結論付けるには、もう少し様々な視点からの考察が必要であこと。加えて、そのあるべき関係は「戒めの言葉」でもあることを分かった上で、自らの持つ「力」の自覚化が進むことという認識も必要と言える。
 次に、「対等性」を具現化する手法である「共同作業」についての言及や実践例を考察についてみていく。

2 「対等」をめざす試み
2-1 「共同する」という“手法”

 「共同作業」を中心にする活動は多い。その多くは「共同作業」の利点を、共通の課題解決を、同じ/違う目線で共に取り組むことが「対等」をめざす手法であると考えることが多いようである。6)
 ミルキーウェイは共同作業所から始まり、「弁当作り」を主な活動としている。そこでの協同研究紹介する。続いて、浦河べてるの家の向谷地と精神科医の小澤勲の対談を紹介することで、「共同作業」と「対等」の関係を考察したい。
 ミルキーウェイでの共同研究でかわされた意見としては、同じ目標(この場合は弁当を時間内作り、いかに売って儲けるか)に向かって一緒に作業をするときは、常にではないがそれは「対等」に近いのではないかというものであった。
 しかし、当事者の意見で多かったものとしては、専門家には管理者や責任者という役割を担ってもらいたいので、対等では困るというものであった。一方、「上司や部下という関係は、社会で多くみられる関係であるので、ここでいう「対等話」にはそぐわないのではないか」という専門家の意見も見られた。7)
 一方、向谷地と小澤の対談で、当事者研究について次のように述べられる。
「精神科医ががっちり入ったなかでの共同作業であり、当事者だけではなかなかそこは深まっていかない。(そして、共同する対象を)トラブルを起こす当事者に振り回されてヘロヘロになった私を私自身がどう助けるかであると同時に、あなたがあなた自身をどうたすけるか、という問題」
とのべ、立場は違うが、解決すべき問題は共同できるというものであった。
 ミルキーウェイの「共同作業」は解決すべき問題は同じであるが、そのあるべき/ある立場については専門家と当事者の間にずれが生じていた。
 一方、べてるの家での「共同作業」は立場の違いを自覚したうえで、解決すべき問題は「共同」できるものとしている。
 向谷地が述べるように「専門家ががっちり入った共同作業」という考えや、ミルキーウェイで当事者の、「スタッフは上司で責任者」という考えからも、「共同作業」がすなわち「対等の体現か」と言えるものではなく、「専門家の力を抑制する手法」としての性格が強いといえる。 
 「専門家と当事者の間には「対等性」など存在しない。」あるいは、様々な手法も「戒めことばありきの実態の伴わないものである」という結論に達することは、先程から述べている「今戒めの効果」という視点から適当な方法とはいえない。だが、「共同作業」のような力を自覚し抑制する手法を開発し続けることは可能であり、それが「対等性」の具現化として万全であるともいえない。

3 専門家の力を使える条件を自覚化すること
3-1 「生活者としての視点」をどのようにとらえるのか。

 ここで、共同研究において出された医師とは違う専門的関わりを求める意見を紹介する。

「1カ月に一回の診察、10分くらいなんですけどね。医者は診察の時に少し話して薬をくれる。私は(みのりの)スタッフには適切なアドバイスを求めているんです。私に合ったアドバイスが欲しいんです。だから、一緒にご飯を食べて、作業をして交流することが大事だって思うのよね」

また、専門家の意見として次のようなものがある。

「地域活動支援センターという場所で、相談や支援やいわゆる施設の職員の仕事をしているのでしょうけど、カラオケしたりレクリエーションしたり一緒に他の住むプログラムに参加しても、まったく対等というか同じ立場というかお友達みたいな感じでは、やはり私はいられない。そこには、観察というか「具合どうだろうか」という専門家の視点が入るんです」

 これらの考えは、「生活者としての視点持つこと」についての解釈を「人間としての対等」といった漠然としたものから、専門家の力(仕事)と限界を自覚したうえで、求められている仕事について述べたものと言える。
 精神障害援助技術論などでは、当事者と「一緒にご飯を食べて、作業をして交流する」事を生活場面とし、面接の場面と分けて説明をする。
 しかし、生活場面と面談は不可分であることは前述した専門家の発言からも分かる。また、そのような関わりを当事者が求める場合があることもわかる。生活場面での接し方と面談場面での専門家あるいは当事者双方の、各々に対する接し方は違う。それら両者を有効に使うことが、医師とは違った福祉専門家の仕事であり、求めている仕事であると言える。
 ただ、専門家の力や限界を常に意識をしていなければ、当事者との信頼関係は築くことが困難であり、生活場面と面談場面といった違った場面を専門家の仕事において使っているという自覚をもって、行き来する振幅の間に信頼関係が生まれると考える。ただ、専門家には「自らのもつ力の自覚化」が求められる。ただ、その自覚化は自己覚知という言葉で広く紹介されており、スーパービジョンなどの方法でその促しがなされている。つまり、先程の述べた“手法の開発と実践”の域を出ない。

3-2 力の行使を可能とさせる場について―文献から考えられること―

ここで、天田城介の指摘を紹介し分析することで「力の行使の自覚化」だけにとどまらない方法についてその可能性を検証する。
 前述した、小澤勲の著作『ケアってなんだろう?』の中で天田は、「当事者の世界を理解することはとても重要だが、専門職がみずからの力をどう行使してしまっているのか、が語られない。」と述べている。8)
 この天田の指摘は、専門職の「力の行使」そのものに対して自覚せよというにとどまらず、その力の行使を可能にしている「場」9)や「社会的な関係」についても自覚的である方がよいとしている。それは、向谷地との対談で小澤が「患者である彼らとつきあうことで金をもらって生成を立てている。現実にはすでにそういう関係があり、社会的な関係を無視して「一緒だ」という気にはなれない」といった考えなどからもうかがえる。10)
 専門家の「力の行使」そのものについての指摘は多いが、専門職がその専門性を発揮する場が、「専門家の土俵」あることについての指摘は多くない。
 「専門家の土俵」は当事者が払う金や、専門家が当事者を評価する仕組みや制度、物理的な物の配置や座る場所などから構成されていることについて、更に詳細な分析が必要であろう。

  4 終わりに

 精神保健福祉士養成テキストや倫理綱領は、専門家と当事者の関係を規定することで「専門家の力の行使の自覚化」を促すことを狙った。しかし、福祉現場では規定された関係と実際にある関係がそれほど区別されず、倫理綱領の狙いを阻害する結果になる場合があることを、共同研究科から指摘した。
 また「共同作業」が力の行使の抑制の手法であり、それらの多く手法は「力の行使の自覚化」から始まり、同じ地平にあることとその限界についての考察を行った。
 そして、次に分析考察するべきものの一つは、「力の行使」そのものではなく、その「力の行使」が可能な「専門家の土俵の自覚化」であると述べた。面接が専門家の仕事として機能するその要素には、面接を行なう面談質や職員室あるいは施設そのものが、様々な物理的のものの配置や制度によって構成され、それらは専門家・当事者双方にとって都合が良いものであり、その都合のよさが専門家の存在を過剰なものとしている事を指摘したい。
 年長者である当事者、しかも長く自らの病と生きてきた人の依頼に対して、大学を出て間のない精神福祉士がどのような仕事をするのかを想像する時、その専門家の仕事やそれを可能にさせる力が、その専門家が固有に持つ力ではないことは自明である。とするなら、何が専門家に力を付与するのか。
 これら分析考察することは、専門家の専門性や支援の性質、そして当事者の当事者たるゆえんを考えていくうえで重要であり、その間の関係性や「対等性」の持つ多義性を整理していく上で役に立つ視点ではないだろうか。

注)
 1)  発表者は「財団法人大同生命厚生事業団 地域福祉研究助成」を得て、当事者、専門家、研究者による共同研究を行っている。内容としては次の通り。
   「精神障害者福祉においても障害者本人と支援者である専門家の関係の対等性が強調されるようになっている。また、従来の専門家による直接的な支援の他に、セルフヘルプなど本人の力に注目し、その活動へのはたらきかけを重要な支援の方法として捉えようとする考えもある。
     しかし、実際の支援の場面で、例えば授産施設や地域活動支援センターで行われる活動で、本当に「対等」は可能であり、実現されているだろうか。またそれは常に望ましいものだろうか。例えば自他に対して加害的な行為がなされる場合がある。本人たちに委ねる場合より、作業や組織の運営にとって明らかに有益な別の選択肢があることがある。このような場合どうしたらどう考えればよいのか。また、実際には対等でないのに、対等な関係の下でなされているゆえにある対応が正しいとされるなら、その対応は本人に対する加害ともなりうる。
     こうした場面で、組織、とくに「対等」を標榜する組織は、どんな対応をしているのか。また、その対応をどのように解釈しているのか。それを調査する。また議論する。そして、現実的で正直な支援のあり方を考える。
     まず、本人・支援者が幾度か集まり、対等性について自由な意見交換を行い、調査に向けて論点の整理を行う。
     その上で、当事者と専門家の対等性を前提として社会復帰にむけてのリハビリテーションモデルで聞き取り調査と参与観察を行う。対等性について、その困難について、対処について、支援者と本人に聞く。また活動の実際に寄り添い、そこに起こるできごとを記述する。 以上から得られた結果について討議し考察する。」(研究助成申請書より抜粋)
2)  研究計画としては、意見交換ののち論点整理を行い調査・聞き取りを行う。
3)  テキストでは作業所利用と精神保健福祉士との関係を次のつぎのようにあらわしている。
「作業所における援助にあったて、作業所利用者とPSWとは、生活者としての共通の基盤の上の立っていることの認識がまず重要となる。利用者の一人ひとりが独立した人格として尊重され、指示的・指導的な従属関係は排されなければならない。自己決定、個別性の重視といったソーシャルワークの原則が、より強調される。」
4) 倫理綱領おいて以下のように規定される
(1)クライエントへの関わり
   精神保健福祉士は、クライエントをかけがえのない一人の人として尊重し、専門的援助関係を結び、クライエントとともに問題の解決を図る。
  (2)自己決定の尊重
a クライエントの知る権利を尊重し、クライエントが必要とする支援、信頼のおける情報を適切な方法で説明し、クライエントが決定できるよう援助する。
b 業務遂行に関して、サービスを利用する権利および利益、不利益について説明し、疑問に十分応えた後、援助を行う。援助の開始にあたっては、所属する機関や精神保健福祉士の業務について契約関係を明確にする。
c クライエントが決定することが困難な場合、クライエントの利益を守るため最大限の努力をする。

5)  出された意見としては次のようなものがある。
  「僕が思うには、メンバーと職員の対等性と考えると、どうしても、メンバーは職員のことを責任者と思っている。なんか揉め事があったらすぐ上の人がいないと対処できない ので、その時、スタッフは責任者。だから対等だとちょっと困るんです。一目置いてるというか、上下があったほうがいいと思うんです」
  「「対等」を言葉通りの対等をしたら、僕らメンバーの役割をスタッフがするようになって、スタッフの意味を成さない。何で給料をもらっているのってなる。スタッフというのはメンバーの望んでいる一段高いとこにどうやったらいけるかっていうのを、メンバーと一緒に考えて、一歩先にスタッフは進んでいる状態になってないとスタッフの意味はないんじゃないかなと思います。」
「スタッフと、対等だと思ったら相談できない。スタッフがいて、自分が下から上への目線であるから相談しやすい。」
「困った時にスタッフに話をしている。まあ、でも下から出たほうがしゃべりやすいいときもある。「助けておくれよ」とかお願いする時なんかね。」

6)  テキストからの抜粋
「精神障害者は病気と障害を併せ持っており、生活の上で、さまざまな困難と不利益を抱えている。これは退院して地域に住んでいる場合でも、或いは入院中の人でも同様である。PSWはこうした生活上の困難や不利益の問題を解消する為に、ソーシャルワークの援助方法を用いて、必要なサービスを提供することが主たる業務である。但し、PSWにあってはあくまで障害者が主体的なサービスの利用者として、選択する立場を実践の中心的理念として置いているので、いわば、サービスの利用者である障害者とPSWの"共同作業"というべきであろう」(p15)
7) 当事者が専門家にたいして、どのようにおもっているかについて出された意見
 ・弁当を作ることは、作業や訓練ではなく、僕は仕事だと思っています。給料はすごく少ないけど、衛生面や味や販売の仕方の工夫は、普通の弁当屋と変わらないと思っています。だから、僕はプロだと思っています。
・やっぱり仕事してるので、職員さんは上司という感じですかね。それって内心はいいか悪いか…。いいです、いいです。対等ではないですね、上司ですね。
 一方で、同じ場所で「共同作業」をおこなう専門家が、当事者との関係に述べた意見。
・メンバーさんは、毎日来てる人いたり、時々来る人がいたり、休む人がいたりいろいろです。お客さんの注文とかも日によって変わったりするので、どうしても職員のほうが、「これはこういう話」「こういう注文がある」とか教える立場になるっていうのはあります。けど、それは、別に悪いとは思わない。それは作業に関して教えられる立場があって、ただ、人間として、いろんな立場やったときには対等でありたいというふうには思います。
・私もさっきスタッフAさんが言われたのとほとんど同じです。ここは、お弁当を作ってるといくことでで、皆で同じものをやってると言うのがあるから、私も入りたてのころは人に聞かないと覚えていけなかった。だから、初めて入られた人とか、何をして良いのか分からないって言うときは、これをやってくださいっていう風には、御願いしたりすることはある。でも、それが上から目線では全くなくて、常に対等というのは、そのときの状況とかによるので難しいと思いますが、自分の中では、上からといった意識は全く無いです。
8)  小澤 「なるほどね。当事者研究のビデオを見せてもらっても、向谷地さんはだいぶお手伝いされていますよね。」
向谷地 「そうです。そういう意味で、当事者研究はまさに共同作業なんです。精神科医が   がっちり入ったなかでの共同作業です。当事者だけではなかなかそこは深まっていかないですね。」
小澤  「川村先生がビデオのなかでいろいろお話をなさってましたけれども、「治す」とい  うところから「共同作業として症状と共生する」、つまり対象化しながら共生する方向へと、考え方も治療のやり方も変わってこられたのですか。」
向谷地 「変わってきたと思います。幻聴・妄想のメンバーたちが地域でトラブルを起こしてきたり、私もはがいじめにあったり、警察の力を借りて連れていかざるえない状況になったりと、いろいろな経験をしてきました。そのなかで見つかったのが、「どう自分を助けるか」というテーマなんです。それは、トラブルを起こす当事者に振り回されてヘロヘロになった私を私自身がどう助けるかであると同時に、あなたがあなた自身をどうたすけるか、という問題。そして「その助けあいをお互いに共同する」というイメージができてきました。」(pp50-51)

9) 「専門職が、あるいは専門職として行使してしまう力を、どう自覚化するか。さっき先生が言われた物語として読み取ることの傲慢さも、「どう自覚化するか」が裏にありますよね。そこが機能しないと物語を読み取ることが自己目的化してしまう。たとえば最近デイサービスセンターや宅老所などでは、「むかし大工の棟梁だった鈴木さん」とかと言いつづけたりするところがあるんですね。
[……]
物語がその人の生活を覆うわけではなくて、いくつもの錯綜する物語が田中さんをつくっている。むしろその錯綜したことを読み解いて、そして読み解いたことの傲慢さを自覚することが大切なんだと思います。いま当事者論みたいなところで専門性も全部語られてしまって、「専門職はみずからの限界性と落とし穴を自覚せよ」と言えない雰囲気がありますね。当事者の世界を理解する、当事者が語るということはとても重要なのですが、専門職がみずからの力をどう行使してしまっているのか、が語られない。」

10) 小澤:「私も自分の家にしばらく患者さんを泊めたりしていたのですけれどもね。……ただ、どうですかね。おっしゃる意味はよく分かりますが、でも、やっぱり関西人風に露骨に言うと、われわれは彼らとつきあうことでお金を儲けているし、生計を立てている。彼らはお金を払っている。距離を自分がとるかとらないかというよりも、現実にはすでにそういう関係がありますよね。だから、社会的な関係を無視して「一緒だ」という気にはぼくはあまりなれない。逆にいうと、その社会的な関係を自覚する言葉でしかないと思いますよね、距離っていうのはね。」(pp59-60)

天田 「ケアの世界では、「こういうケアをしたらお年寄りがひじょうに生き生きしました」とか、けっこういいことがたくさん言われているのですが、「専門職がいかに力を行使しているか」はなかなか言われないのですね。それに対して先生は立ち位置としての医者のポジションをつねに自覚化されていて、「専門職っていったい何なの?」と問いつづけている。これがもう一つの反精神医学のエッセンスだったとぼくは思うんです。そこを全部とっぱらって、「同じ人間だから向き合おうね。台所でご飯を一緒につくりながら一人ひとりを生活者として見つめましょうね」というのは、嘘っぽいというか欺瞞的に見えてしまいます。」
小澤 「ぼくは関西人だから露骨にいうと、一方は金を払って利用してくれている。一方は金をもらって生業としているわけだから、平等であるはずがない。その両者のあいだに権力関係をなくすわけにはいかない。「デイケアだと一日一万円以上の介護報酬をいただいているわけだから、一万円あれば世の中ではどれだけ上等の食事、サービスを受けられると思ってるんだ。それでも利用していただけるようなサービスを提供しなければいけないよ。そういうことをいつも考えているに違いないレストランやバーに負けるな」と言いつづけていました。」

(参考・引用文献/URL)
三野 宏治 2009 「日本におけるクラブハウス言説の潮流についての研究」『Core Ethics』vol.5:315-326
三野 宏治 2010 「精神障害者クラブハウスモデルの仕事を媒介にした相互支援の考察――その仕組みと
その発想」『福祉文化研究』Vol.19.
三野 宏治 2009「アメリカ合衆国:社会福祉の現状,W地域精神保健福祉」『世界の社会福祉年鑑2009』pp190-200,旬報社.
日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会 編 1998 『これからの精神保健福祉――精神保健福祉士ガイドブック』 へるす出版
小澤 勲 編 2006 『ケアってなんだろう』,医学書院
田中 秀樹 2001 精神障害者の地域生活支援――統合的生活モデルとコミュニティソーシャルワーク』 中央法規
寺本 晃久・岡部 耕典・末永 弘・岩橋 誠治 2008 『良い支援?――知的障害/自閉の人たちの自立生活と支援』,生活書院
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 HP
http://www.arsvi.com/ (2010年1月30日アクセス)
社団法人日本精神保健福祉士協会WEB
http://www.japsw.or.jp/ (2010年1月30日アクセス)

*作成:三野 宏治
UP:20100311 REV:
全文掲載  ◇福祉文化学会
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