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あとがき

安部 彰堀田 義太郎 2010/02/26
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20100226
安部 彰堀田 義太郎  『ケアと/の倫理』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告11,257p. ISSN 1882-6539 pp. 244-257


あとがき

 ふたつの研究企画の記録といくつかの論攷がこうして一書にまとめられるにいたった経緯については「まえがき」に記した。よってここでは、その残余、けれども決して欠くことのできない残余について、幾許かのことを記す。
 「まえがき」同様「あとがき」もまた、そのことがらの性質上、つねに/すでに遅れた視点のもとで書かれるしかないのだが、そうした視点から眺めなおしたとき、本冊子は大きな裏切りに見舞われたとの印象を編者は拭い去れない。その裏切りはしかし、悦ばしいものである。そしてそれは宿命でもあるだろう。予定/予想なるものは生成してきたものによってつねに裏切られるし、裏切られるべきでもあるからだ。裏返せば、あらゆる予定/予想なるものは、さまざまに「豊穣」である「現実」(の他者性)を狭隘な視座のもと先取りした気になってみたにすぎない、そのような営為にほかならないからだ。
 以下では、その悦ばしき「裏切り」の数々について、詳細にわたってたどることはもとよりかなわないけれども、最低限のことは記したい。そうすることで、編者らもかかる「裏切り」にささやかながら加担したいと考える。

 第T部「ケアと生存の哲学」は、企画説明にもあるように「「生存学」を内側から食い破る「何か」」を発見することを課題として企画された。その「何か」の候補はおそらくいくつか挙げることができるけれども、最たるものはやはり「生(命)への信」であるだろう。いいかえれば、「他者」の弱者化への、ならびに「他者」の「屈辱」への感受性であるだろう。
 「生存学」が掲げる理念は「障老病異がともに生きる技法のデザイン」である。そのために「社会」にはいかなる価値やしかけ(制度)が必要であるかを学際的な観点から日々研究している。編者もその理念を共有し、またじっさいさまざまな意味でマイノリティでもある人々(院生)とともに学ぶなかで問題意識を深め、ときに自己の同一性/安定性を揺さぶられつつ研究を進めてきた。しかしこのとき、我々は「他者」のニーズ、その実在を素朴に自明視したケアの必要性を顕揚することで、その「他者」の生(命)がもつ潜在力をむしろ貶めることに荷担してきたのではないだろうか──そう小泉氏は問題提起していたのだと思う。
 もちろん満たされるべきニーズや果たされるべきケアというものはある。小泉氏と堀田氏の議論が激しく切り結び、火花を燦めかせることになったのもまさにこの点にかかわっていた。たしかに生命倫理という峻厳で差し迫ったケースと日々格闘している堀田氏からすれば、小泉氏がこだわる「屈辱」の問題がとるにたらないものに映ったのも故なしとしない。そしてそれは、ときに物理的/身体的な苦痛を抽象的/精神的な苦痛の下位に位置づけがちな、この私たちの素朴な直感にもかなう。しかしそれらは現実には重なりつつもまた別なる苦痛なのであり、真に対照されるべきは、身体・精神のそれぞれにおける、より大きな/小さな苦痛である。そのうえで要請されるべきは、それら総体の解消へと向けた私たちの実践的/思弁的な不断の努力である。そしてこのとき「生存学」は歴史や現実の深奥にあってそれを駆動している欲望をも撃ち抜く射程もまた備えておかねばならないだろう。

 第U部「介助(者)の現在」では『介助現場の社会学』の著者の前田拓也氏を招いて、とくに障害者介助としての「ケア」をめぐって四名の発言者が議論を行った。念頭に置かれているのは自立生活運動に関わる障害者介助である。ここで、この「あとがき」を書いている編者(堀田)が座談会参加者の一人でもあるという性格上、どうしても偏った記述にならざるをえないことをまず断っておきたい。座談会の話題は多岐にわたっており、あらためてまとめることなどできないが、その一つの論点が「ケアする側/される側」という「非対称性」と、障害者を排除する「できなくする社会」の基盤にある価値観・感覚との関係性にあったということは言えるだろう。
 障害者運動の歴史には、障害者は健常者を標準とする価値観とそれに基づいて作り上げられた様々な社会制度によって「差別」されているのだ、という主張(批判)がある。批判が向けられたのは、健常者に当然のこととして内面化されている価値観や感覚である。健常者の抱く価値観や感覚は「健全者性」あるいは「健常者性」と呼ばれ、それが障害者差別の基盤にある、と批判された。「健常者性」が差別の基盤にあるという批判にとって、健常者性は否定されるべき対象にされた。
 他方でしかし、「できる/できない」というフィジカルな違い(非対称性)は、介助という関係性の前提であるようにも思える。では、この「非対称性」と「差別」の基盤となる健常者性との関係はどうなっているのか。
 冒頭で堀田の質問に答えて前田氏が述べているように、非対称性と健常者性は相互補完的なものである、というのが一つの解答としてあるだろう。もし非対称性が「健常者性」によって構築されているのだとすれば、健常者性は、ある種の関係性をことさらに「介助する/される」という「非対称」な関係として強調するための価値観にほかならず、この価値観がなくなれば非対称性は意識されなくなる、ということになるだろう。また、非対称性は存在しているとしても、そこにたとえば「してあげる側/もらう側」といったかたちで、余計な価値(たとえば「恩恵」等)を付与する態度が「健常者性」と呼ばれる価値観なのだ、という議論もありうる。批判の対象が「社会」に向けられているということは、いずれにしても、「できる」側は──状況に応じて誰に何ができるのかはもちろん変わる──、誰もが当然のこととして自然に、自分自身に対するセルフケアの延長線上で、したがって「仕事」としてなどではなく、非対称性に過剰な意味を付与せずに介助を行うことができるような状況が目指されている、ということになるだろう。あらゆる状況で「できる側」にある者はすべて、つねに当然のこととして介助者になりうるような社会。ある本の表紙に、目が見えない人が車椅子を押し車椅子の人が目の代わりになるという状況を描いた図画があるが、それは(たしかに戯画的ではあるが)この状況をイメージさせる。「できなくする社会」に対する批判を論理的に徹底するならば、このような状況が理念的に設定されることになるだろう。
 もちろん、そのような理想状態の想定自体がナイーブだったのだと却下することは容易である。とはいえ、座談会で渡邉氏が「介助の原点」という言葉で確認していること、そして高橋氏が「健全者性と向き合うというのは仕事じゃない」という発言を通して拘っていることは、どこかでおそらくこの理念に通じていると言えるだろう。そしてまた、それはおそらく、介助経験に内在する「困難」が感受させる「ゆらぎ」に対する前田氏の肯定的な評価の基盤にあって、「人は変わりうる」という安部氏の発言にも共有されているような、他者に対する一つの態度であるとも言えるかもしれない。
 座談会では、もちろんこのような簡単なまとめには収まりえない多くの論点が提示されている。それらはそれ自体、さらなる探求と展開を待つものばかりであり、その意味では、この座談会は問題の所在を遠く指し示してしているにすぎないかもしれない。ただ言えるのは、ここに提出されている諸論点はいずれも、未だまともな答えが与えられたことのない問いを含んでいるということ、そしてしたがって、私たちはそれを手がかりとしてさらに思考を進めることができるということである。

 第V部「ケアと倫理」に収められた論攷のラインナップを一見して、いわゆる「ケア」とは無関係なものが紛れこんでいるという印象を読者はもたれたかもしれない。さらには「ケア」という言葉が無秩序──あるいは無批判──に氾濫しつつある昨今にあって、そのような趨勢に加担する所作にも映ったかもしれない。なるほど、かかる論難はひとまずまったく正当であるといわねばならない。多義的な使用を許す「ケア」を論じるにさいしては、そこでいわれる「ケア」が何かということを明確にしておく必要がある。その「ケア」が(子どもの)「養育(保育)」、(病人の)「看護」、(高齢者や障害者の)「介助」、そのいずれであるかによって──つまりそれぞれの「ケア」の特性とその経済的/政治的/文化(慣習)的な配置によって──、それらの論の射程と妥当性は当然大きく異なってくるからである。だからそのことを承知のうえで、編者があえて禁を破ったのにはむろん然るべき消息がある。それは我々の世界にはかつて/現在もなお考究に値する諸問題があった/あるが、その一端は「ケア」と「倫理」をめぐる問題に連なる系として読み替え可能であること、また読み替えることで新たなる相貌をもって立ち現れることを示しておきたかったからにほかならない。つまりひるがえって「ケア」の膨張を逆用し、善用しようと考えたのである。

 岩間論文は、開高健のヴェトナム戦争体験をジャーナリズム史の観点から精密に跡づけなおし、その新たな読みを拓かんとする意欲作である。その内容は本文に直截あたっていただくこととし、ここではあくまで編者(安部)の観点から、その読みの可能性を開示しておきたい。
 ヴェトナム戦争という「現実」を前にして、開高が選びとらされたのは、透徹──中立──な第三者たらんとし、いかなるアクターの立場にも立たないという「見る者」の態度ではなかった。そうではなく、すべてのアクターの立場に立つ──深く共感/内在する──がゆえに、どの視点にもコミットしない/できないといった「困難さ」を内包する態度であった。
 このような開高の「相手に深く共感/内在してしまう」態度を我々は「ケア」と、そうであるがゆえに「誰の立場にもコミットしない/できない」態度までを含めて「ためらいの倫理」と呼ぶこともできるかもしれないが、いずれにせよここから導かれる興味深い論点が次のようなものであることは疑いない。すなわち人々のあいだの細部の共通性を見ない──あるいはメディアの関心/偏向により見ることができない──がゆえに、我々は多くの場合、容易に大文字の差異(イデオロギー)にばかり目を奪われるのではないか。だからこそ開高は《見る》ことに徹しようとしたのだ、と。
 だが我々としてはさらに、開高のかかる態度にこそ、特定の誰かに深くコミットできる者こそ誰にも深くコミットできるといった逆接──個別的な「愛」の普遍的な「愛」への反転可能性──が兆しているのを読みとるべきだろう。またその同じ態度が現代(思想)にあって、なお敢然と息づいていることも看過されるべきではないだろう──「我々を統べる大きな事柄との比較によってではなく、別の細々した事柄との比較をつうじて我々を分断する特殊で細々した事柄を重要でないと思わせる能力に焦点を向けるなら、道徳的進歩は加速されるだろう」(Richard Rorty Philosophy and Social Hope: 86)。
 片山論文の主題は、ケアと呼ばれる行為のなかでも、とくに子の養育方針と養育方法をめぐるコンフリクトである。
 子の養育は、ケアのなかでも、ケアされる側である子の自律性や意思を前提にできず、養育する側の意向がケアの内容に反映される点が特徴である。子は、自分自身に対する養育方法や方針を選択して養育者に指示することはできない。この点で、子の養育は、障害者がケア提供者(介助者)に対して主張してきたこととは異なる。また、ほとんどの場合、子の養育方針は、その子を実際にケアする人に委ねられている。ケアする側が「よかれ」と思うことが、子にとっても実際に「よい」ことであれば問題はない。しかし、養育者の養育方法と方針が必ずしも子の利益にならないケースもある。虐待や放置などは問題にするまでもないだろう。また、子の身体的安全を直接脅かさないとしても、泥棒一家とか暗殺方法を伝授する殺し屋など、養育方針が明らかに間違っている場合には、養育者を子から引き離してよいという点でほとんどの人の見解が一致するだろう。
 それに対して、片山氏が焦点化するのは虐待などの単純な話でも、養育者の価値観が明らかに間違っていると言えるような事例でもない。片山論文の主題は、養育者と子の「身体状況」が、生来異なっているようなケースである。この場合、養育の方法も方針も「間違って」いないとしても、それが、子にとって「よい」とは言えないような状況が生じうる。子と養育者で身体状況が本質的に異なる場合には、養育者の養育方針にとくに問題があるとは言えなくても、子にとってマイナスの効果を与える場合がありうるからである。
 片山論文は、生得的な身体状況の差異と後天的な獲得物、たとえば言語教育などの差異とを区別し、子に日本語を教えるか英語を教えるかといった違いとは別の水準の問題を抽出している点で、社会構築主義批判にもなっていると言えるだろう。社会構築主義とは、たとえば、養育者側が自然に獲得した言語が日本語であるか英語であるかの違いと、音声言語であるか手話言語であるかの違いを同列に並べて、両者の違いは相対的なものだと主張する立場のことである。それに対して、片山論文では、これらの違いは「身体状況」という生来の差異に由来する本質的なものだとされている。
 たしかに、社会構築主義が指摘するように、一方で、たとえば健聴者も自然に手話を体得できるような文化は、かつて規模は小さいが存在した。いまでは健聴者が手話を自然に体得している状況は(CODAのような例以外には)ほとんど考えられないが、仮に健聴者も手話を自然に体得している状況があるとすれば、健聴の養育者と聾の子との間でコンフリクトは起こらない、と言えるかもしれない。聾の子が音声言語を習得できないことは、健聴の養育者が手話言語を継承することができれば、とくに問題にならないのではないか、と。
 しかし、片山氏が指摘する通り、またCODAの例が示唆するように、健聴者が純粋な手話言語環境で育った場合には手話を習得できるのに対して、聾者が純粋な音声言語環境で育ったとしても「音声言語の習得には限界がある」。つまり、身体状況における非対称性が存在するのも確かである。
 こうした身体的な非対称性を肯定する議論は、従来はあまり評判がよくなかった。それは、マジョリティとマイノリティとの本質的な違いを肯定することが、マイノリティに対する不利益を正当化する議論へとしばしば横滑りしてきたからである。身体が違うのだから一方が不利益を受けるのも仕方がない、と。「本質主義」という言葉がそれだけで批判になったような時期は過ぎたが、それでも本質主義的な立場に対する漠然とした忌避感は根強い。だが、じつのところ、本質主義に対する批判もまた、別の意味での本質主義を前提にしている。本質主義批判とはつねに、本質的な差異の肯定が一方の「不利益」ないし「害」を正当化する機能を持ってきた、という批判だからである。そして、この「不利益」や「害」についての理解はもちろん本質主義的である。
 片山論文でこの点に対応するのは、「メディア」としての「文化」が「行政」から「友人」まで、ほぼ生活と生存全般に関わるという前提である。文化習得に関わる身体的差異が重要なのは、「文化」が、生存を支える相互行為への「アクセス」の基盤だからにほかならない。以上を前提として、片山論文が問題化する状況とは、養育者が習得している文化が、子にとっては習得不可能であり、しかも、子は養育者の文化を習得できないことで被る「害」がきわめて大きいという状況である。さらに加えて、養育者は、その子に合う文化を新たに習得し直して養育することが容易でなく、養育者の習得を待つこと自体が、子が身体に適合した文化習得の機会を失わせてしまう。つまり、養育者が子に合う文化を習得しておらず、また子に合う文化を学び直そうとしても、それが子の身体状況に「追いつかない可能性」が高い状況である。養育者が子に追いつかないと、子が自らに合った文化を適切な時期に習得できなくなり、さらに大きな害を被る。このような状況に対して片山論文が提示するのは、子の身体状況に適合した文化をすでに習得した養育者によって、養育役割を分担するという方策である。
 たしかに、単にケアする/されるという非対称性に加えて、ケアの「内容」に関わる本質的な身体的差異がある場合、それに対応する能力自体が偏在している状況が生じうる。そして、身体的差異に対応できる能力をすべての者が習得できるような「新たな文化」を創造するのを待っている時間がない場合、できる者で分担するしかないと言えるかもしれない。いずれにしても、「養育関係内」に差異がある状況は「できる/できない」という非対称性が二重に存在するケースであり、片山論文は、この非対称性を解消するための負担の分担という問題に、時間的な制約という論点を加えることで新たな問題領域を切り開いている。
 ケアする側/される側の非対称性は、一方の他方への暴力に転じてしまう事例が残念ながらある。その最も極端な事例に、背景状況も踏まえつつ詳細な分析を加えているのが、仲論文である。仲氏が明らかにする事件は、「ケアと暴力」といった一般的な表現を与えること自体が憚られるような残虐さを示している。
 仲氏の論文はそのタイトル通り、日本の精神病院で精神障害者に対して為されてきた暴虐を、大阪の大和川病院事件を具体的な対象として追尾している。そこで詳細に記述されている事件の内容に、読者は驚愕を禁じえないだろう。大和川病院で精神障害者に対して為されたことは当然のことながら「ケア」などと言うには程遠い、むしろその逆の単なる「暴行」でしかない。だが、仲論文が指摘するように、それを一部の悪者が行った例外的な残虐行為として片付けるとすれば、それもまた安易である。たしかに、大和川病院事件のようなことが二度とあってはならないということは明らかだし、余りにも酷すぎるのも誰もが分かっている。しかし、その背景にある価値観と制度的問題は──ナチスの優生主義を例外扱いすべきではないように──、残念ながら現在の社会にも通低している部分があるからである。
 仲論文が指摘する背景的な諸問題は、すべてさらに詳細な分析と考察を要請する重要な論点であるが、ここでは「家族」の位置に留意してみたい。精神障害者が大和川病院のような悪徳病院──と端的に言おう──に長期入院させられる背景には、家族に大きなケア負担が課され、処理できない負担を抱えた家族が、精神障害者を病院に委ねざるをえない、という状況が存在しているからである。
 これはかつて身体・知的障害者が施設で劣悪な生活を強いられた状況にも重なるし、現在では要介護高齢者の処遇にも無関係ではないだろう。過度のケア負担が家族に押し付けられることで、家族は精神的にも物理的にも負担に耐えられなくなり、そのケア負担を引き受けてくれる側に依存せざるをえない状況に追いやられるという構造である。そのプロセスで、負担を集中的に負わざるをえない状況に置かれた家族は往々にして、負担を負わせる側、仲論文の場合には精神障害をもつ者が家にいなければよいのに、と思うようになる。このような状況で、負担を肩代わりしてくれる場所が少ない場合、それがたとえケアを受ける側にとって悲惨な場所であったとしても、ケアする側にとっては、負担回避の利害関心が勝ることがある。ここでもまずは明らかな非対称性が前提である。もちろん、精神病院については縷々指摘されているとおり、入院がたとえばいわゆる「薬漬け」等によってさらに状態を悪化させケアに対する必要性が増す、という悪循環が存在したこともたしかだし、また現在でも存在しうる。
 とはいえ、ケア負担の分担のあり方を考察する上で、仲論文が精神衛生法第22条を対象として指摘する点は現在的な問題としてつねに認識すべき点だろう。家族を保護義務者として位置づけ、過度な負担を集中させておいて、その負担に耐えられなくなった家族が「強制入院に加担」せざるをえない状況は、いまでも解決されていないからである。
 第U部「介助(者)の現在」でも何度も確認されていることだが、この非対称性はケアの前提である。「非対称性」がなければケアは不要である。もちろん、第T部の「ケアと生存の哲学」で、ケアが本当は「必要ない」者に対する心理的圧力が話題になっているように、ケアニーズなるモノがじつは「構築物だ」という批判はつねにあるし、また実際に不要な場合も存在する。とはいえ、「できる/できない」という非対称性そのものを否定することはできない。もちろん「できる/できない」という行為(doing)の面での非対称性が、できない側の身体的生理的な状態(being)に何も害や不利益を与えないならば別によい。そうでなくて、ある程度の良い状態(well-being)を達成するために、誰かが何かをしなければならない場合、それを果たして誰がどこまでどのような媒体を通して担うべきであり、また望ましいのか、そしてその理由は何か。当然と言えば当然かもしれないが、片山論文と仲論文を貫いているのもこうした問いであると言えるだろう。
 大谷論文は、犯罪被害(者)とその救済というアクチュアルかつ繊細で扱いづらくもあるテーマに果敢に取り組んだ野心作である。同論攷は「試論」と位置づけられてあるように、なお荒削りな箇所も散見されるが、今後のさらなる議論の精緻化と展開を大いに嘱望したい。
 同論攷の独創性は、被害の構造をWHAT(何が被害か)とHOW(どのような被害か)という重なりつつも異なる水準を峻別し、後者の(論理的/因果的な)前提でもある──その意味で基底的でもある──前者に照準を当て考察した点にある。またその考察の過程で、犯罪被害(者)の救済(論)および二次被害・PTSDの歴史を丹念に跡づけたものである点も、同論文の特長として特筆されてよい。ここではその考察のプロセスは本文に譲ることとし、大谷氏の提示する結論を概観しておきたい。
 犯罪被害(者)の救済においてこれまで忘却されてきて、しかしそれに不可欠であるものとは何か。それは「支援に携わる人の姿勢・態度」という意味での「ケア」である。より正確には、「被害を意味づけする過程にいる被害者の在り様そのものに配慮する姿勢・態度」である。大谷氏がかかる「ケア」を要請する理由は、ひとつには被害(経験)のままならなさであり、いまひとつには他ならぬ支援者(の存在)が相手を(支援を受けるべき)被害者という位置に揺り戻してしまうからである。いいかえれば、「被害者」でもあるその人を「被害者」として排他的に還元してしまうからである。かくして大谷氏によれば、支援者は被害者にさらなる〈被害〉を課すものとしてある。だがそれは裏を返せば、ほかならぬ被害者もまた支援者にケア(配慮)負担を課すという意味で、(支援者にとって)加害者であるということでもある。大谷氏はこうして、支援者と被害者の双方がその関係性において加害者でもあり被害者でもあることを自覚することをつうじて相互に配慮しあう契機に「救済」──原初の加害−被害関係からの退出──の可能性をみいだす。それはたしかに、新たな加害−被害関係をとり結ぶことではあるかもしれない。しかしその関係性は、暴力的で偶有的なものとして招来した(と感受される)原初の加害−被害関係とは異なる。すなわち少なくとも被害(経験)のままならなさ──それは暴力性と偶有性に起因するのだった──が脱臼された関係性である点で「救済」につながる可能性を有しているはずである。
 編者(安部)はかかる結論、結論にいたる途上で、被害経験にふれるたびにその〈傷〉を我が身にも刻みつけてきた著者ならではの呻吟と祈りにも似た叫びをいくども聞いた。その意味では、これは「論文」という体裁をとっているけれども、被害者(でもある人)を宛先とする「手紙」にほかならない。そのことがらの本質上誤配は避けえないにしても、いや誤配の恐怖と悲痛をその熱量とともに飲み下し焼け爛れた「声」を絞り出して著者は「呼びかけられた者」としての応答責任を果たそうとしたのだと思う。

 第W部「ケアの倫理」に収録した有馬論文は、道徳的判断と感情の関係、とりわけ後者による前者の正当化(の是非)という倫理学においていまなおポレミカルな主題を、ケアの倫理(ethics of care)の批判的吟味をつうじて考察したものである。ここではその要諦を若干の補足を付しつつ紹介したうえで、ごく簡単なコメントを付しておきたい。
 まずこの論攷でケア倫理がとりあげられるのは、それが感情移入──他者の苦しみへの共感──を道徳的判断の基準とするからである。正確には、感情移入が「道徳」の主題となるのは、「気づかいたいという欲求が生じないにもかかわらず相手を気づかうべきである」という規範的要請がともなったときである。そしてこの要請は、多くの場合「見知らぬ他者」への道徳的要請として現出するだろう。気づかいたいという欲求が「自然に」生じにくいケースは、ひとつにはその相手に愛着をもてない場合だからである(もうひとつは、極度に疲弊したりしていて相手の気づかいへと向かえない場合であるが、この論文ではこちらのケースはひとまず問題ではない)。ことほど左様にて、だからこの問題は、「見知らぬ他者への道徳的要請」の正当化をめぐるグローバル・エシックスのひとつのバージョンであり、普遍主義ではなく個別主義に立つケア倫理に固有の問題でもある──なお普遍主義にはまた別種の問題がある──のだが、ノディングスはこの課題に「自己が描く理想的な人間関係の達成(への欲求)」をもって応えようとする。しかし有馬氏によれば、この解決策は道徳的相対主義に陥る。いかなる人間関係を理想とするか/達成したいか──家族主義者でありたいか世界市民でありたいか──は、その個人によって異なるし、その「理想」が見知らぬ他者とも気づかいできる関係であるとして、それもやはり個人の努力──倫理的自己へのケア──にゆだねられているからである。こうして個人の欲求/主観にケア(感情移入)の道徳的根拠をみいだすノディングスの試みは不発に終わるのだが、実証的・客観的観点をそれに付加することでケア倫理を相対主義から救出しようとするスロートの試みもまた挫折を余儀なくされる。その消息は本文では周到に跡づけられているが、約言すれば、スロートが導入した「成熟した感情移入の力」という基準もまた、「成熟する能力」が個人(個体)によって異なる以上、相対的とならざるをえないからである。かくしてノディングスもスロートも「なぜケアすべきなのか」という問いと「どこまでケアすべきなのか」という問いの双方に応えること──その道徳的正当化──に失敗する──これが有馬論文の結論である。
 以上が有馬論文の──きわめて粗い──要諦であるが、そこから我々が考えるべきことを指摘しておきたい。そのさい論点をA)感情移入、つまりケアできない他者への対応の問題とB)身近な他者と見知らぬ他者のあいだにおける道徳的葛藤の問題に区分して検討することは、有用である以上に必要なことであろう。
 まずA)についての具体的なケースとしては、本文にも登場した猫をいじめる子どものケースが挙げられよう。この子どもは、果たしてインモラルなのかアモラルなのか。それによって我々の対応は当然にも異なってくる。すなわち前者のばあい、この子どもは猫をいじめることが道徳的非難に値すると知っているにもかかわらず、そうするのであり、おそらくその行為から何らかの快を引きだしていると考えられる。このとき我々の(常識的な)「道徳」的な対応は、この子どもの性向を異常なものとみなし、何らかのサンクションを加えることであろう。他方で、後者のばあいには、我々がとるべき(常識的な)道徳的な対応は、猫が──われわれ人間と同様──受苦的な存在者であることを教えることであろう。
 他方、B)について我々は苦境にある愛着のある身近な他者を、苦境にある愛着の薄い見知らぬ他者よりも──条件が等しければ──優先することを──あくまで個別主義に立つケア倫理内在的に評価するなら──容認するだろう。しかしながらたとえば同じく苦境にみまわれているといっても、その条件/内容が異なるばあいには、話は変わってくるはずである。つまり軽症のわが子と重症の余所の子の手当てのどちらを優先すべきかというケースでは、後者を優先すべきだと考えるはずである。そのうえでむろんここでも、愛着のある他者を優先することはその人の個人的な善の構想にかなっているのだから、それを非合理だと難じるこことは不適切である。しかしながらスロートが述べるように、その行為を「心ない(heartless)」と評することは許されるように思われる。そのうえで最後に編者は読者にこう問うておきたい。「合理的だけど心ない人だ」、「非合理だが心ある人だ」、〈あなた〉にはどちらの非難が「効き」ますか?

 諦念から嘆息まじりにではなく、何事も不十分であるしかない。この「あとがき」もまた、かかる「世界」の事実牲から逃れることはできないが、以上をもって生存学研究センター報告にきわめて重要な一書として本冊子があらたに加えられたという「事実」が決して誤認ではないことが証明できたとすれば、編者として望外の喜びである。


 2010年1月
安部彰×堀田義太郎



UP:20100305 REV:
ケア研究会  ◇生存学創成拠点の刊行物  ◇テキストデータ入手可能な本  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
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