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紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化曽田 夏紀 ※ MSワードのファイルはこちらからダウンロードできます。ワード・ファイル「紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化」 目次
第1章 はじめに
第2章 序論
第3章 紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化 −教育と雇用の事例から−
第4章 紛争後のルワンダにおける障害当事者運動
付録5 ルワンダ障害者協会(AGHR) 5ヵ年行動計画(日本語全訳)
略語表※(E)は英語表記、(F)はフランス語表記、(G)はドイツ語表記。
AGHR ルワンダ障害者協会
CDF 公共開発基金
DFID 英国国際開発省
DPI障害者インターナショナル
DPO 障害当事者団体
EU ヨーロッパ連合
FACHR ルワンダ障害者アソシエーション・障害者センター連盟
FARG ジェノサイド生存者支援基金
GDP 国内総生産
GER 総就学率
GNI 国民総所得
GTZドイツ技術協力公社
HIMO 高次労働集約
ICIDH 国際障害分類
IDDC 国際「障害と開発」協会
ILO 国際労働機関
JICA 国際協力機構
KIH キガリ保健機構
MINALOC 地方行政・コミュニティ開発・社会事業省
MINECOFIN 財務経済計画省
MINEDUC 教育・科学・技術・調査省
MINISANTE保健省
NER 純就学率
NIS 国家統計局
NHRC国家人権委員会
PDC 障害証明書
PHC プライマリ・ヘルス・ケア
PRSP 貧困削減戦略文書
RDRCルワンダ動員解除・社会復帰委員会
RDRPルワンダ動員解除・社会復帰プログラム
SCF セーブ・ザ・チルドレン基金
SEN 特別な教育ニーズ
TVET 産業技術教育・職業訓練
UNESCO 国連教育科学文化機関
UNICEF 国連児童基金
USAID 米国国際開発庁
WHO 世界保健機構 第1章 はじめに1.1. 論文の目的と構成 2006年12月に国連障害者の権利条約が採択されたことは記憶に新しいが、障害者支援が全国連加盟国にとって主要な議題の一つとして重視されるようになった契機は、1981年の「国際障害者年」とそれに続く「国連障害者の10年(1983〜1992)」の取り組みである。先進諸国やアジア・太平洋地域の発展途上国に対してこれらの取り組みが一定の成果をもたらしたのに対し、繰り返される内戦やHIV/AIDSなどの問題を抱えてきたアフリカでは依然として障害分野の取り組みは後回しにされていた [久野・Seddon 2003 : 128-135] 。 アフリカと同様に障害分野の取り組みが遅れている地域として、戦争や紛争を経験した地域が挙げられる。国際「障害と開発」協会(International Disability and Development Consortium : IDDC)が、アフガニスタン・スーダン・モザンビーク・パレスチナ・旧ユーゴスラビア諸国など約20カ国に及ぶ後紛争地域の障害当事者団体(Disabled People's Organization : DPO)を招聘して2000年にイギリスで行った「障害と紛争」に関するワークショップでは、「開発分野における障害者の権利に関する政策や実践の大半が焦点をあてているのは、平和で安定した状況である」という、後紛争地域における障害当事者からの「障害と開発」に対する批判とも取れる指摘がなされている。彼らは紛争後における障害者支援の重要性を以下のような論拠に基づいて主張している。すなわち、紛争はその地域の障害者数を増加させるだけではなく社会経済状況の悪化によって障害者の生活をより困難なものにしているにも関わらず、紛争後に障害者の権利とニーズは無視されているか不適切に扱われているという点である。そして、そうした現状を引き起こす紛争は今日の世界にとって決して例外的な出来事ではない。[IDDC 2003 : 5-10] ただし、筆者の問題意識は紛争後の障害者支援における取り組みや研究の少なさそれ自体にある訳ではなく、アフリカや後紛争地域において障害者支援や研究が遅れていることが示す現実、つまり「他に優先すべき課題」がある場合、さらに言えば「他に優先すべき健常者の課題」がある限り、障害者支援は「後回し」にされてきたのではないかということにあった。先進諸国が中心となった「国連障害者の10年」が1983年から、「アジア太平洋障害者の10年」が1993年から、「アフリカ障害者の10年」が2000年からそれぞれ開始されたことは、一定程度の社会・経済発展が達成されてはじめて障害者のニーズに対する取り組みが開始されることを示唆するものである。これではいかに「人間の安全保障」といったスローガンの下に社会的弱者支援の必要性が謳われようと、多くの人が「恐怖」と「欠乏」に曝されている紛争後において、障害者はそうしたスローガンの「最後の裨益者」となり続けてしまうのではないだろうか。それは、非障害者が大半を占める社会において「仕方がないこと」として許容され続けてよいのだろうか。これらの問題意識が、本論文で筆者が「紛争後の障害者問題」を取りあげるに至った背景となっている。 本論文の目的は、紛争後における障害者問題について「どうすればよいか」を考える前段階として、紛争後のルワンダを事例に「どうなっているのか」「なぜそうなっているのか」を考察することである。本論文ではテーマを「紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化」に限定し、内戦終結から13年が経過したルワンダの障害者の現状が「どうなっているか」を明らかにしつつ、さらに紛争後における障害者の周辺化が「なぜ」「どのように」生じているのか、という問いを中心に据えて論じていきたい。 本論文の構成としては、まず第2章で序論として障害学における2つの障害モデルを紹介し、本論文におけるそれらのモデルの位置づけ及び筆者の立場を明らかにする。その後、ルワンダにおける障害者の現状を概観するために必要な情報を述べた上で、第3章で教育と雇用を事例として障害者が周辺化されている具体的な現状を見つつ、紛争後における障害者の周辺化要因について分析する。第4章では障害当事者の役割の重要性を述べた上で、紛争後における障害当事者運動の脆弱性という側面から周辺化の要因を論じる。最後に第5章で結論として、本論文の総括と残された課題について述べる。 1.2. 対象国について 本論文の対象国であるルワンダは、1962年にベルギーから独立した後も内戦を繰り返し、1994年のジェノサイドでは約100日間で80万人から100万人とも言われる犠牲者を出した後紛争地域である。またルワンダはアフリカ大湖地域に位置する世界最貧国の一つでもある。1980年代に構造調整計画を実施し経済の再建に努めていたが、内戦が勃発した1990年以降はマイナス成長を続け、1994年のジェノサイドで社会経済が壊滅的な打撃を受けたことにより全国的に貧困が蔓延した。(表1を参照。) その後、農業生産の堅実な回復、ドナー国からの援助、健全な経済政策などにより、1999年までに国内総生産(Gross Domestic Product : GDP)は内戦前の水準に回復した。2006年の世界銀行による調査によれば、一人あたり国民総所得(Gross National Income : GNI)は250米ドル、実質経済成長率は5.3%、物価上昇率は9.1%となっている(1)。 ルワンダ政府は2000年に20年後の経済達成目標を定める「VISION2020」を、2002年には「貧困削減戦略文書(Poverty Reduction Strategy Paper : PRSP)」を策定し、これらの戦略を基軸とした経済政策を実施している。 ルワンダは共和制をとる立憲国家であり、国家元首である大統領は国民の直接選挙により選出され、任期は7年で3選禁止が定められている。議会は上院(26議席)と下院(80議席)の二院制である。ルワンダの地方行政機構は、セル(Cellule : 人口規模1000 人程度)、セクター(Secteur : 同数千人)、ディストリクト(District : 同数万人)、プロヴァンス(Province : 同数十万人)によって構成されている。紛争後のルワンダにおける障害者の現状については、包括的な調査報告書が英国国際開発省(Department For International Development : DFID)から出されているのみで、他の後紛争地域と同様、先行研究はほとんどなされていない。 表 1 : 1985年以降の貧困の推移
出所 : MINECOFIN [2002 : 14](2)をもとに筆者作成 第2章 序論2.1. 障害モデル 「障害とは何か」という問いに対して、ひとつの簡潔な答えを与えることは難しい。その理由は、障害の概念、障害に対する理解や態度は、歴史的、文化的、そして社会的に規定されるものであり、また障害の経験は人により非常に多様で複雑なものとなっているからである。さらに、「障害」や「ハンディキャップ」という用語そのものが、社会背景や文脈によって全く異なった意味を持って使われている [久野・Seddon 2003 : 4 ; 長田 2005 : 8]。このような「障害とは何か」という問いに対し、障害を読み解くための様々な「障害モデル」がこれまでに提示されてきた。本節で紹介するのは、それらの障害モデルの中でも「障害の医学モデル」と「障害の社会モデル」と呼ばれる対照的な2つのモデルである(3)。本論文で、筆者は「障害の社会モデル」の立場から「紛争後のルワンダおける障害者の周辺化」というテーマを論じるが、本論文における筆者の立場および障害モデルの位置づけについては、それぞれのモデルの内容および両モデルの差異を提示した上で、本節の最後に詳述する。 2.1.1. 障害の医学モデル 宗教的または文化的理解に基づき、「障害は運命として変えられないもの」として障害者が保護や慈善の対象とされたり、また逆に「前世の罪」「祟り」「神からの罰」であるなどといった理解によって障害者が排除の対象となる場合がある [中西 2002a] 。このようにして形成された障害の捉え方は障害の「伝統的理解モデル」と呼ばれるものである [Coleridge 1993=1999 : 113]。 しかし、20世紀の初めまでには、障害を「変えられないもの」とする伝統的理解モデルから、「医学的知識によって障害の診断や解決策を考える」とする障害への新しいアプローチが確立されている [Barnes, Geof, and Tom 1999=2004 : 37]。 障害の「医学モデル」または「個人モデル」と呼ばれるこのモデルは、世界保健機構(World Health Organization : WHO)が1980年にまとめた国際障害分類(International Classification of Impairments, Disabilities, and Handicaps : ICIDH)の初版に代表されるものである。(図1) 図 1 : 障害の医学モデル
病気・変調 → 機能障害 → 能力障害 → 社会的不利 出所 : WHO [1980] この図は、病気の結果として機能障害が起こり、その結果として能力障害が生じ、その結果として社会的不利が生まれる、という線形帰結モデル(linear causal model)と呼ばれる一方向の見方をしている。そのため「社会的不利」として障害の社会的な側面を捉えつつも、その原因は機能障害であるという線形帰結モデル的な見方によって、結局は障害の本質を「心身機能の異常」へと帰している [久野・中西2004 : 69-72]。 例えば脳梗塞になり(病気・変調)、片麻痺が生じ(機能障害)、歩けなくなり(能力障害)、仕事につけない(社会的不利)としたら、「仕事につけない」という社会的不利を克服するためには、原因である機能障害を回復するためのリハビリテーションが優先されることになる。医学モデルにおいて社会的不利を克服するために変わるべきとされているのは、社会ではなく障害者個人の側である。 このような医学モデルの論理に基づいた障害者政策を示す一例がある。バリアフリー対策が遅れているハンガリーの首都ブダペストの学校では、「車椅子を必要とする子どもでも、教育を望むならば歩くことができなければならない」という方針が採られていた。そのため街では脳性まひの子どもを歩けるようにするための訓練が熱心に行われていたという。しかし、このような取り組みは障害者への配慮に欠く社会に彼らを適応させようとするものであり、社会によって設置された不平等や差別という障壁自体は是認されているといえる [Coleridge 1993=1999 : 99-102] 。医学モデルが障害当事者から批判され続けた原因は、それが心身の機能にのみ着眼して障害を個人的な問題とみなし、社会の差別的な構造に本質を見いだしていないことにある [長田2005 : 10]。こうした批判をもとに形成されたモデルが、以下で述べる障害の「社会モデル」である。 2.1.2. 障害の社会モデル 国連による国際障害者年(1981年)を契機として1980年代から始まった障害者問題に関する国際的な取り組みは、障害の本質を捉える視点に関して大きなパラダイムシフトをもたらした。つまり、障害者が直面する困難を生み出しているのは「障害者個人の機能障害」ではなく、「社会が作り出している障壁」なのだという認識が生まれてきたのである [長瀬2006 : 10-12]。このような障害の「社会モデル」に基づく認識は、「障害の本質は障害者に対する差別や抑圧である」として闘ってきた障害者の権利運動や自立生活運動を通じて発展してきたものである [久野・Seddon 2003:5]。 イギリス障害学の社会モデルの考え方の基盤を成し、障害者運動の中心的な役割を果たしてきた「隔離に反対する身体障害者連盟(The Union of the Physical Impaired Against Segregation : UPIAS) 」は以下のように障害を定義している。 1970年代における障害者運動の特徴は、このように障害問題の原因を障害者個人ではなく社会に求めていくことであった。障害当事者団体の国際組織である障害者インターナショナル(Disabled Peoples' International : DPI)は1981年の第1回大会にて、「個人の機能損傷としてのインペアメント(impairment)」と「社会的障壁としてのディスアビリティ(disability)」という障害の社会モデルに基づく定義をDPIの「障害」の定義として制定している [杉野 2007 : 52]。 この定義からもわかるように、社会モデルは「障害」をインペアメントという個人的次元とディスアビリティという社会的次元に切り離すことによって、社会的責任の範囲を明示したのである [杉野 2007 : 116] 。つまり、社会モデルにおいて障害は社会の問題として捉え直されており、ここでの課題は個人の機能回復ではなく、インペアメントを理由に社会参加を制限する差別的で不平等な社会の構造や制度、人々の態度そのものを変化させることにある。 また障害の社会モデルが強調するもうひとつの点は、障害者自身の主体性である。医学モデルにおいて障害者は機能的に「健常者」になることで社会に適応することを目指して変わるべき対象とされているため、彼らは治療や訓練を受ける「受動的な」存在として位置づけられている。しかし社会モデルは変わるべき対象は社会であるとし、障害という課題に直面している障害者自身が当事者として社会を変革する役割を担う力を有していると考える [久野・Seddon 2003 : 7 ; 久野・中西2004 : 72-74 ]。この観点は紛争後のルワンダにおける障害当事者運動を扱う本論文の第4章においても重要な視点となる。 表 2 : 障害の医学モデルと社会モデルの比較
出所 : 久野・中西[2004 : 74] 2.1.3. 本論文における「障害モデル」の位置づけ ここまで医学モデルと社会モデルを中心にそれぞれの内容と両モデル間の差異を詳しく述べてきたが、以下では「障害とは何か」という問いに対する本論文における筆者の立場、および本論文において障害モデルを組み込んだ議論を行うことの意義について述べておく。 後述するが、本論文の対象国であるルワンダは世界の最貧困国の一つであるだけではなく、繰り返される内戦と1994年のジェノサイドの影響によって、現在でも機能障害のための基礎的なサービスが決定的に不足している。そのため、長田[2005]や久野・Seddon [2003 : 7-8]が、そもそも機能障害のためのサービス基盤を持たない途上国において障害者は機能障害のためのサービス不足と社会的差別どちらの問題にも直面しており、それら両方に対する取り組みが必要であるとして、医療やリハビリテーションなど基本的なサービスが整備されている先進諸国で発達した社会モデルのみを途上国の現状に適用する問題を指摘していることは、本論文においても最初に考えておかなければならない点である。 社会モデルに対しては「障害の社会的責任を一方的に追及することは行き過ぎではないか」といった批判や「障害概念を二元論的に分解することは本来一体的なものを無理やりに分解している」という批判は、途上国への社会モデル適用という文脈に限らず、これまでにも存在してきた。杉田はこうした批判に対し、「インペアメントとディスアビリティは不可分のものである」という主張を承知の上で「社会が悪い」と声を上げることの重要性を説いている[2007 : 116-118]。杉田はそうしなければ社会的責任は曖昧なままになり障害者の受け入れは努力目標に終始することや、「障害は個人の不幸や不運」と考える障害者自身の自殺や障害児家族の無理心中を止めることはできないことを指摘し、そこに「障害原因を徹底的に社会に帰属させていく概念モデルの政治的重要性」を見いだしている。そして、そのためには障害概念を「インペアメント」と「ディスアビリティ」とに二元的に分解することが必要になると主張する。 筆者はルワンダの障害者が抱える「インペアメント」や「リハビリテーション」の問題の重要性を認識しているが、本論文では中心的な論点からそれらの問題を敢えて捨象し、あくまで「ディスアビリティ」の問題を論じていく。それは、紛争後のルワンダにおける障害者問題の中でも「社会の側の責任」をより明確にすることが本論文のひとつの目的であり、そのためには「インペアメント」と「ディスアビリティ」の両問題に関してバランスを取らず、杉田の言葉を借りれば「障害原因を徹底的に社会に帰属させていく」ことが必要だと筆者自身も考えるためである。ここで「社会の側の責任」を明らかにすることが重要であると考える背景には、3章で後述するように紛争後の障害者支援が「医療行為中心」「救済型」といった「個人のインペアメント」への働きかけに偏重した支援になりやすく、そのような障害者支援のあり方が「ディスアビリティ」を作り出している社会の責任を覆い隠してしまっているのではないかという筆者の問題意識がある。これらの理由により、本論文ではあくまで紛争後のルワンダにおける「ディスアビリティ」の問題を中心に論じていくことを予め明らかにしておく。 2.2. 「インペアメント」と紛争の関連 カンボジアの地雷被害者などが紛争に起因する障害者としてメディアなどで頻繁に取り上げられるように、紛争による「インペアメント」の発生は「障害と紛争」の相関関係を考える際に最もわかりやすい側面であると言える。前述したように本論文では「障害と紛争」の問題を「インペアメント」ではなく「ディスアビリティ」の視点から取り上げることを目的としているため、序論の中で「インペアメントと紛争」の関係を整理し、「ディスアビリティと紛争」のそれとの違いを明確にしておきたい。 紛争によるインペアメントの発生要因は、直接的要因と間接的要因に二分することができる。直接的要因としては、戦闘・地雷・建造物破壊などによる外傷がある。また紛争中に受けた精神的なショックや性的暴力などによって精神障害を抱える場合もこれに含まれる。間接的要因としては、紛争中の保健医療サービスの崩壊、食料不足、難民や国内避難民の発生などが挙げられる。医療施設の破壊、薬品や機材の不足、医療スタッフの死傷や国外流出は保健医療サービスの崩壊を招くが、それに伴うマラリアや結核などの治療の遅れ、ワクチン接種の不備によるポリオ感染などは、人々がインペアメントを負う要因となる。また紛争下における食料不足は乳幼児や妊産婦の栄養障害、難民等の発生は下水処理等の不備による感染症拡大などにつながり、同様にインペアメントの原因となることがわかっている [青山2006 : 8]。このように、紛争は平時においてインペアメントの原因となるような栄養障害や感染症(図2を参照)に対しても影響を与えており、「インペアメントと紛争」の関連性は外傷等の直接的関連に限定される訳ではないと言う事ができる。 表 3 : インペアメントの発生に対する紛争の影響
出所 : 筆者作成 図 2 : インペアメントの原因(グラフを表にまとめました)
出所 : DFID[2000 : 3]より筆者作成(4) 2.3. ルワンダの障害者に関するプロフィール 本節の目的は、3章で本論に入る前にルワンダにおける障害者の状況を概観しておくことである。まず障害者に関する統計について紹介し、次にルワンダにおける障害者観について述べていく。これは、対象国の障害問題を扱う上で、まず「障害または障害者がどのように捉えられているのか」を把握することが不可欠だからである [長田2005 : 8]。 本節で述べるルワンダ社会の観念的障壁(5)や障害者に対する特別なサービスの欠如による物理的な障壁は本論文における論旨の中心を成すものではないが、ルワンダ社会における障害者の周辺化につながるような社会参加を制限する要因であることに違いはないため、序論として位置づけられる本章にてはじめに述べておく。 2.3.1. 障害者統計 2002年に国家統計局(National Institute of Statistics : NIS)によって実施された調査によれば、ルワンダでは全人口の約5%が障害を持つとされている [Thomas 2005a : 4]。 しかし、一般的に途上国における障害者数把握のための調査では、家族がその存在を隠していたり調査員からインペアメントを見過ごされるなど、「過少記入」に関する様々な問題があるとされるため[2002b : 中西]、5%という数字も実際より少なく見積もられている可能性が高い。またルワンダでは精神障害者は文化的に「障害者」とみなされない(6)という問題もある[Rwanda Decade Steering Committee n.d. : 3]。現在まで精神障害者に関する統計は行われていないが、ルワンダにおける成人のPTSD患者の割合は全人口の約20%に達すると言う報告もある [Blaser 2002 : 61]。 ルワンダに限らず紛争の後遺症としての精神障害者やトラウマを抱える患者はしばしば診断も受けず認識されないままであることが多く[Elwan 1999 : 19]、実態が正確に把握されれば5%という数字は大幅に上方修正を迫られると考えられる。障害者の現状が正確に反映されていない統計は多くのニーズを見過ごした法律や政策の策定につながるという危惧から、ルワンダ障害者協会(Association Generale des Handicapes au Rwanda : AGHR)などの障害当事者団体が中心となって、障害種別まで含めた調査の実施を計画している。ルワンダ全体の開発政策の中でどのように障害者支援が位置付けられるかという点においても、全人口における障害者の割合等に関する数字は大きな影響力を持つと考えられる。また障害者のデータが整備されることでドナーが支援を行いやすくなるという側面もあるため(7)、正確な統計調査が早期に実施されることが望ましいと言えるだろう。 2.3.2. 障害者観 ルワンダでは障害者に対する否定的な態度は非常に強いとされている [Thomas 2005a] 。現地での聞き取り調査や文献調査から、否定的な態度の背景には「伝統的・文化的な障害者観」と「経済的価値観に基づく障害者観」の大きく分けて二つの障害者観があると考えられる。まず前者に関してキニヤルワンダ語(8)で「障害者」を指す表現として「イキムガ(iki-muga)」というものがあるが、これは直訳すると「価値が無い壊れた壺」という意味であり、ルワンダ社会における否定的な障害者観を反映していると言える(9)。 また障害の原因は先祖や家族の過去の悪行や罪であるとされているために、障害を持つ子どもが生まれると存在を周囲に隠すべくその子どもを軟禁する家庭も多く、障害者に対する偏見が強い農村部では今でも嬰児殺しが行われているという。女性障害者は「障害を持った女性は不妊であるか、妊娠しても障害を持った子どもしか産むことが出来ない」とう言い伝えのために結婚することは難しく、さらに「不妊である」という言い伝えに加えてルワンダの文化では「障害を持つ女性と性交渉をすると幸運がもたらされる」という言い伝えが存在するために、女性障害者に対するレイプや性的暴力が多発し問題となっている(10)。このように、障害者に対する否定的な態度や行動には、ルワンダにおける文化的な障害者観を反映したものがある。 障害者に対する否定的な態度の背景にあるもうひとつの要素は、経済的価値観に基づく障害者観である。ルワンダ社会は家庭経済に貢献することを非常に重視する社会であり、その貢献度によって家庭内の地位や資産相続までが決められている[Thomas 2005a : 25-26] 。ところが3章で詳述する通り、障害者は労働市場から排除されており物乞い等を余儀なくされていることが多いために家庭経済に貢献することが難しいだけではなく、様々な形で経済的負担を強いる「重荷」としてその存在を疎まれている(11)。家庭への貢献度が重視される文化は女性障害者の結婚において再び大きな障壁となっており、ある女性障害者は「ルワンダにおいて女性は労働力とみなされています。だから水を汲んできたり、農作業を手伝ったり、子どもをおぶったりすることができない女性の障害者が結婚することは、この国ではとても難しいのです。」と語っていた(12)。 ルワンダでは障害者は「何もできない」「無能である」「役に立たない」といったスティグマを付与されているが(13)、これはルワンダ社会が家庭内に限らず「経済的に貢献すること」を重視するためだと考えられる。 例えばコミュニティ内における障害者への否定的な態度の背景にも、「障害者はコミュニティに貢献していない」という考えがあると推測される。以下の表4は、コミュニティ単位で行われる共同作業の内容である。 表 4 : コミュニティで行われている主な共同作業とその内容
出所 : 国際協力機構 [2005b : 79] や現地での聞き取り調査を参考に筆者作成 これらの作業のうち、ウムガンダで作業の内容によって軽度障害者が参加している場合を除いては、クグリザニャや共有地労働において、障害者は「何も出来ないから」参加していないとのことであった。農村部に住むある女性障害者は、「障害者はコミュニティにとって生産的な存在ではないと思われている」と語っていた(14)。 さらに、紛争による全国的な社会・経済状況の悪化(15)についても考える必要があるだろう。Barnes, Geof, and Tom [1999=2004 : 32]は家族への経済的圧迫の高まりが障害者を隔離する傾向を生むことを指摘しているが、特に内戦の影響で人々の生活が悪化したルワンダにおいて「経済的貢献ができず」かつ「経済的負担になる」とされる障害者の存在は、家庭やコミュニティにおいて障害者への否定的な態度をつくりだす背景になっていると考えられる。ルワンダ「アフリカ障害者の10年」実行委員会が作成した報告書の中でも「ルワンダ社会が障害者の問題を考慮しない一般的な理由」として、「障害を持った子どもが生まれることは不幸とされる文化である」という文化的な理由に加えて、「非障害者でさえ生きるのに精一杯である」「障害者の面倒を見ることは重荷だと考えられている」という経済的な理由が挙げられている[Rwanda Decade Steering Committee n.d. : 6]。このように、文化的・伝統的な障害者観に内戦による経済的状況の悪化も加わり、障害者への否定的な態度が家族やコミュニティといった障害者にとって最も身近な社会において形成されていると考えられる。 2.3.3. 障害者に対する特別なサービスの現状 途上国ではリハビリテーションを必要とする人のうち3人に1人しかサービスを受けることができていないと言われている[Boyce 2000 : 17]。 本論文の対象国であるルワンダにおけるサービス提供は非常に脆弱であり、本来政府が担うべきサービスの多くを紛争後に活動を開始した国際NGOや宗教団体の慈善活動に依存している状態である。以下はThomas[2005a]の報告書と筆者が行った現地調査をもとに、障害者が必要とするサービスに関する現状を簡単にまとめたものである。 (1) 身体障害者に対するサービス(理学療法・義肢装具など) 高い技術を持つ理学療法士はルワンダにほとんど存在せず、理学療法士の育成はキガリ保健機構(Kigali Institute of Health : KIH)及び、国際NGOの ハンディキャップ・インターナショナル(Handicap International)やドイツのキリスト教系NGOであるCBM(Christian Blind Mission)などが行っているのみである。義肢装具士に関しても、ハンディキャップ・インターナショナルと現地NGOのムリンディジャパン・ワンラブプロジェクト(Mulindi Japan One Love Project)にその育成を依存している状況である。専門的なリハビリテーションはキガリ大学病院、ブタレ大学病院といった大病院やいくつかの地方病院、ガタガラセンター(Centre de Gatagara)(16)において受けることが可能である。しかし障害者が定期的なリハビリテーションを受けるためには移動手段の不在、交通費の負担、さらに国民保険制度(Mutuelles de Sante)がリハビリテーションや補助具に必要な費用を保険適用外としているために生じる経済的制約など、様々な問題が待ち受けている。実際にガタガラセンターでリハビリテーションを受けている患者の多くは、PDC(Permanent Disability Certificate)と呼ばれる障害証明書の提示によって治療費が無料となる除隊兵士や、ジェノサイド生存者支援基金(Fonds d'Assistance aux Rescapes du Genocide : FARG)から医療補助金を受けているサバイバーが多いという。このような医療補助を受けていない一般の障害者にとって治療費の負担は大きく、ある下肢障害の男性は、リハビリテーションが必要だと診断されたが経済的な余裕がなかったために診察のみで済ませ、使用を勧められた杖も購入することができなかったと語っていた(17)。こうした社会保障制度の脆弱性も障害者が必要なサービスを受けることを妨げる要因となっている。 こうした状況を受けて、現地NGOのムリンディジャパン・ワンラブプロジェクトは義肢装具・補助具を製作し、必要とする障害者に無料で提供している。またヨーロッパ連合(European Union : EU)、ハンディキャップ・インターナショナル、ルワンダ障害者アソシエーション・障害者センター連盟 (Federation of Associations and Centers of Handicapped People in Rwanda : FACHR)(18)の3者は、貧しい障害者の補助具購入やリハビリテーション費用の支払いに役立てる目的で「互助基金」(Fonds de Solidalite)を創設した。将来的には政府が自立してこの基金の代わりとなるような社会保障制度を整備するべきであるというドナー側の意向により、意図的に準政府団体であるFACHRがパートナーとして組み入れられており、基金自体も3年で打ち切られる予定である。また前述のムリンディジャパン・ワンラブプロジェクトでも製作費の6割は政府負担になっており、サービス提供をドナーに依存している政府に対して内発的な取り組みを促進するための工夫がなされているといえる。 (2) 視覚障害者・聴覚障害者・盲ろう者に対するサービス 視覚障害者のためのサービスは国際NGOであるCBMが中心となって行っている。2002年の保健省(Ministere de la Sante : MINISANTE)の調査によれば、約6万5千人の視覚障害者のうち約3.6%が外科手術や治療を必要としているが、彼らの多くは様々な制約から治療を受けることができずにいる。CBMが海外から外科チームを招聘し訪問治療を実施しており2001年には400例の白内障手術が行われた。聴覚障害者のためのサービスはほぼ存在せず、特殊学校で手話を学ぶことは可能であるものの国内で標準化された手話というものは存在しない。また盲ろう者のためのサービスは皆無である [Thomas 2005a : 37]。 (3) 精神障害者・知的障害者に対するサービス 精神障害者に対する施設やサービスも、その他の障害者と同様に非常に脆弱である。首都キガリにある国立神経精神病院を中心に精神障害者へのサポートを提供するセンターは国内に7つあるが、そのうち6つはキガリに集中していることから農村部のニーズには対応出来ていないと考えられる。統計に関する部分で既に述べた通り、ルワンダでは内戦やジェノサイドの影響でPTSDやうつ病などの精神障害に苦しむ人々の数は多いと推定されているが、現状では精神科医、臨床心理士、カウンセラーといった専門家が圧倒的に不足しておりそうしたニーズには対応できていない。キガリで働くある精神科医は、「特に症状が出やすいのはティーンエイジャーの子どもたちや、女性、元兵士です。彼らの家族は4月が来るのを非常に恐れていますが(19)、それは毎年その時期になるときまって彼らの症状がひどくなるからなのです。このことは、彼らに対してこれまで十分なケアがなされてきていないことの何よりの証拠です。」と語っていた。(20) 知的障害者に関しては、偏見や差別が非常に強く、サービスの必要性すら認識されてないという意見が多く聞かれた。知的障害児の教育支援を行っているガタガラセンターでは、こうした否定的な態度の緩和のために、2007年4月から知的障害児がいる家庭を巡回し、彼らの権利や能力に関する意識啓発を行っている。 第3章 紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化 −教育と雇用の事例から−本章では、紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化の現状について論じる。本論文における「周辺化」の定義は、「社会が人々の権利やニーズを保障できない結果として与えられる差別や不平等の状況」とする。久野と中西は「単に誰が排除され、誰がインクルード(include)されているかを明らかにするのではなく、その排除の過程とメカニズムを明らかにすることがより重要である。それを明らかにすることによって初めて、それを防止する取り組みができるのである。」と述べている[2004 : 111]。本章においても、紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化の現状を明らかにした上で、それがなぜ、どのようにして起こっているのかという周辺化の過程について考えていきたい。 本章ではまず第1節と第2節でそれぞれ教育と雇用における障害者の周辺化の現状について述べる。具体的な事例として教育と雇用に重点を置く理由は、その二つが障害者にとって自身の脆弱性を克服し社会的地位を高めることができる重要な機会であるにも関わらず、現実には差別によって非障害者と障害者の間に決定的な格差を生みだす分岐点となっているからである [Katsui 2005 : 71-84 ]。 第3節では教育と雇用における現状を踏まえて、紛争後に障害者が周辺化される要因について考察していく。 3.1. 教育における障害者の周辺化 3.1.1. 復興開発プロセスにおける周辺化 紛争後を生きる子どもたちにとって学校に通うことは普通の生活に戻る大切なステップである。しかし、学校に通う際に立ち現れる様々な障壁によって、障害を持つ子どもたちはそのステップから排除されている[Healthlink Worldwide 2000 : 7 ]。障害を持つ子どもと持たない子どもが置かれている教育環境を比較すると、内戦後13年が経過したルワンダにおいても同様の現状があることがわかる。 まず内戦が終結した1994年以降のルワンダの教育事情について概観してみよう。復興開発過程において教育に重点を置くルワンダ政府は、初等教育の6年間に加え、中等教育の3年間は公立校での授業料を無料化した。2005年に行われた国連教育科学文化機関(United Nations Educational, Scientific, and Cultural Organization : UNESCO)の統計によれば、ルワンダ政府は歳出の12.2%を教育に充てており、初等教育総就学率(21)は120%、中等教育総就学率は14%、識字率は15歳から24歳平均で69.4%である(22)。大学終了者の数は1963年から1993年の間に2,160人であったのに対し、1995年から2000年だけでその数は2,000人を越えている。また1994年から2000年の間に、日本では中学・高校にあたる"ecole secondaire "の数が10校から363校へと30倍になり、生徒数も約3千人から約1万2千人へと増加した。小学校にあたる " ecole premaire "の数も1.5倍に増加し、資格を持つ教師数も53%の割合で増加するなど、内戦後の復興開発の中で教育制度の拡充が進んでいるといえる(23)。 では、障害を持つ子どもに対する教育は復興開発プロセスの中でどのような変化があったのだろうか。「万人に教育を(Education for All)」をスローガンに掲げて一連の教育改革を推し進めている政府は、障害を持つ子どもに対して教育の権利を保障することや、そのために特別な配慮を行う必要性を認識している。例えば2003年に発布された新憲法の第40条では、「国家は障害者のための教育を促進するため、特別な措置を講じる義務を負う」という記述がある [Republic of Rwanda 2003 : 72]。 また教育・科学・技術・調査省(Ministry of Education, Science, Technology and Research : MINEDUC)が2006年に作成した「教育セクター戦略計画 (the Education Sector Strategic Plan) 2006-2010」の中でも、障害を持つ子どもに対する教育支援を拡充していく計画が明記されている[MINEDUC 2006] 。 しかし、そうした政策上の理念や計画は実現されている訳ではなく、現状では障害を持つ子どもが教育を受けられる機会は非常に限定されている。1999年と2000年にMINEDUCが国連教育科学文化機関(UNESCO)と行った共同調査によれば、障害を持つ子どもはルワンダ国内に約40万人いると推定されている [Thomas 2005a : 41] 。そのうち約1500人が特殊教育を行う学校や施設に在籍するとされているが、詳しい数字は不明である。特殊学校における教育の質に関しても、点字板や点字教材の不足、聴覚障害と視覚障害のある子どもを同じ教室で指導する、特殊教育に関する訓練を受けていない教師が教えている等、様々な問題が挙げられている。またルワンダ国内で特殊教育が受けられる20箇所のうち大半は教育よりもリハビリテーションなどの医療行為に重点を置いており、純粋な教育施設は6箇所のみである [MINEDUC and UNICEF 2005 : 9] 。 また特殊教育に関しては授業料の問題もある。前述したように紛争後の教育改革の中で公立学校の授業料は無料化されたが、ルワンダには公立の特殊学校は存在しない。つまり全ての特殊学校は政府ではなく民間の慈善団体等によって私立運営されているために、障害を持つ子どもが特殊教育を受けることを望む場合は高額の授業料を負担しなければならない。さらに特殊学校の多くは首都キガリやその他の大都市に集中しているため、授業料に加えて寄宿費も負担しなければならない場合が大半である。手話教育や点字教育など特殊教育を行っていることで有名なガタガラセンターにおける調査では、生徒の大半が国際NGOやジェノサイドサバイバー支援基金(FARG)から援助を受けており(24)、必ずしも生徒側が高額の教育費を負担しなければならない訳ではなかった。また視覚障害者のための点字教育と職業訓練を行っている国内唯一の施設が首都キガリにあるが、ここでもデンマークやスウェーデンの視覚障害者協会や米国国際開発庁(United States Agency for International Development : USAID)からの資金援助があるため、6ヶ月間の授業料や寄宿費は全て無料となっているとのことであった。 このように、実際に高額の教育費を負担しているのはドナーである場合が多く、私立運営の特殊教育を受けている生徒が公立の通常学級に通う生徒と比べて不当に高額の教育費を強いられているという現状がある訳ではない。しかし、特殊教育の場合は公立校のように「政府によって確立された制度」の中で授業料が無料化されている訳ではないという点は重要な違いであろう。実際にガタガラセンターにいた生徒たちのように教育費を肩代わりしてくれるスポンサーに恵まれるケースは非常に稀であり、キガリにある視覚障害者のための施設においても財政的な制約から受け入れられる人数はわずか45名に限定されている。このことは、高い授業料や寄宿費が障壁となって特殊教育を選択できないでいる障害を持つ子どものニーズの大半は満たされていないままであることを意味している。実際にMINEDUC内で障害を持つ子どもの教育を管轄している「特別ニーズ部門(Special Needs Department)」は、現在の特殊教育システムでは障害を持つ子どもの教育ニーズの約0.5%にしか対応できていないと推定している [Thomas 2005a : 40-41] 。こうした脆弱な特殊教育制度の現状や、特殊学校や施設など社会から隔絶された環境の中で障害を持つ子どもが教育を受けることへの弊害が指摘される中でMINEDUCはインクルーシブ教育(Inclusive Education)(25)に関する政策を作成中である。しかし、現状ではルワンダでインクルーシブ教育を行っている公立学校は1校のみである(26)。 このように、紛争後の復興開発プロセスにおける教育改革の中で、障害を持つ子どもと障害を持たない子どもの格差は拡大していると言える。前述したように「障害を持つ子どもに対しても同様に教育の機会を与えなければならない」という理念自体は様々な政策文書等の中で確認できるものの、そのような理念が現状に反映されているとは言い難い。次項では、障害を持つ子どもたちの教育に対する取り組みが紛争後のルワンダにおいてなぜ実際には進まないのか、政策上の文言と現実との乖離の原因について考えてみたい。 3.1.2. 障害を持つ子どもの教育に対する政策的プライオリティ 2002年にルワンダ政府が作成した「貧困削減戦略文書(PRSP)」の「教育」に関する項目では、ジェンダー配慮への頻繁な言及のみが目立ち(27)、教育の機会から同様に排除される傾向にある障害を持つ子どもに対する言及は特になされていない。女子教育に重点が置かれていることは、予算の分配などの問題を考えると確かに障害を持つ子どもの教育が「後回し」になっている遠因と言える。しかし、ルワンダにおける障害を持つ子どもの周辺化を考える際に「紛争後」という本論文の時間設定を前提とした場合、より重要な要因と考えられるのはジェノサイドの影響による「脆弱な子ども(vulnerable children)」の急増(28)である。紛争後のルワンダにおける「特別ニーズ教育(Special Needs Education : SNE)」の特異性は、そのような子どもの急増が障害を持つ子どもの教育における周辺化の重要な要因となっていることを示す具体的な一例である。以下でSNEのあり方が前項で指摘した「理念と現実の乖離」を生み出す要因になっていることを明らかにしていきたい。 ルワンダでは障害を持つ子どもの教育対策はこのSNEの枠組みの中で扱われており、SNEはMINEDUCの「特別ニーズ部門」の管轄下に置かれている。ルワンダにおけるSNEは、一般的に障害を持つ子どもへの教育を指す「特殊教育(Special Education)」とは異なり、教育において特別な支援が必要と考えられる子どもが全て対象とされている。MINEDUCと国連児童基金(The United Nations Children's Fund : UNICEF)が共同で作成した「ルワンダにおける特別ニーズ教育と関連するサービスの国家計画案(Proposal For a National Plan for Special Needs Education and Related Services in Rwanda)」は、SNEの対象層について以下のように述べている。 SNEへのアプローチは、障害を持つ者以外にも多くの学習者が特別な支援サービスを必要としているという認識と共に変化してきた。(下線部引用者。) 例えば、社会面または感情面で問題がある学習者、学校に一度も在籍したことがない子ども、ドロップアウトした者、ストリートチルドレン、内戦やジェノサイドによって影響を受けた子ども、虐待を受けている子ども、世帯主となっている子ども、子ども世帯主家庭で暮らす子ども、文化的に孤立している子ども、HIV/AIDSやその他の疾病によって苦しんでいる子ども、そして孤児である [MINEDUC and UNICEF 2005 : 5]。 この記述からは、1994年のジェノサイドの影響で教育において特別な配慮を必要とする子どもが急増したために、SNEの対象が障害を持つ子ども以外にも大きく拡大されたことが読み取れる。SNEが対象として認識している子どもの立場は引用からもわかるように様々だが、その中でも特に重点が置かれているのは孤児への教育支援である。2005年の調査ではルワンダにおける孤児の数は約120万人と推定されており、これは子どもの30%、全人口の16%にあたる。またルワンダでは全世帯のうち37%が孤児を養育しているとされておりこれは世界でも最も高い割合であるが、大人の保護を受けずに生活している孤児も多く、子どもが世帯主となっている家庭で暮らす子どもは約10万人いると推定されている [Obura : 2005]。 このような状況を受け、急増した孤児への対策は紛争後のルワンダにおいて高い政策的プライオリティを与えられている。国際NGOハンディキャップ・インターナショナルの特殊教育チームに対するインタビューでは、SNEの枠組みの中では孤児に対する教育支援が予算等の面でまず優先されるため、結果として障害を持つ子どもの教育に対する取り組みが進まないという事情を聞いた(29)。さらに現在ルワンダで進められている公務員削減の一環で、MINEDUCでSNEを担当する「特別ニーズ部門」の職員も以前の3名から現在は1名へと減らされている [国際協力機構 2007 : 17]。このように、SNEは政策の対象を大きく拡大したものの、限られた予算や人員のもとでは全てのニーズには応えられないため、優先順位をつけて問題に取り組まざるを得ない状況になっているのである。そして、つけられた優先順位の中で障害を持つ子どものプライオリティは相対的に低くなっているために、前項で指摘した「理念と現実の乖離」が生じていると考えられる。 3.2. 雇用における障害者の周辺化 3.2.1. 復興開発プロセスにおける周辺化 本節で雇用における障害者の周辺化を論じるにあたり、まず障害者の失業率の高さに影響を与えていると考えられるルワンダの産業構造と全国的な失業問題について簡単に述べておく。ルワンダでは農業部門が長期的に縮小してきたにも関わらず、人口の約9割がなお農村部に居住し、農業部門の就業者数も全労働人口の約9割を占めている [武内2000] 。このように農業部門以外における一般雇用の機会が少ないルワンダでは、農作業に伴う肉体労働には向かない障害者が経済的機会を確保することは非常に難しい。さらに、ルワンダでは障害者に限らず全国的に失業率が高く、首都キガリで19〜20%、農村部では11.4%、全国平均で15.5%と推定されている[Repiblic of Rwanda 2005 : 13] 。ある女性障害者のリーダーは、「この国は障害者に限らず仕事がなくて困っている人はたくさんいるけれど、健常者なら畑を耕せるでしょ?私たちはそうはいかない。装具や杖はとても高いのに(30)、障害者には仕事がないのよ。」と語っていた(31)。 ルワンダ政府は紛争後の復興開発プロセスの中で、農業中心の産業構造と失業問題を解決するために非農業部門における雇用創出の取り組みを進めてきた。例えば農村経済の資本構成を再構築するための労働集約型の公共事業などを通じて、フード・フォー・ワーク(food-for-work)やHIMOプロジェクトなどが実施されている(32)。しかし、障害者は申し込みをしても参加を拒否されることが多く、そもそもそれらの開発プロジェクトに関する情報を初めから与えられていない場合も多い(33)。同様に後紛争国であるアフガニスタンでは、似たようなプログラムにおいてタイムキーパーや監視業務などの業務が障害者のために用意され特別に割り当てられていたが、ルワンダにおいてはそのような配慮は行われていない。また政府が奨励しているマイクロクレジット事業も本来ならば障害者の収入手段となり得るはずだが、障害者は「リスクが高い」とみなされ利用を拒否されることが多いという[Thomas 2005a : 23-25]。このように、障害者は開発プログラムのメインストリームからも疎外され、非農業分野においても参加の機会を奪われている。開発プログラムでの所得創出を諦めてキガリなどの都市部で職を探すとしても、ルワンダでは「身体的資質」を理由に障害を持つ求職者を差別する、また雇用されていたとしても「非障害者よりもパフォーマンスが劣る」といった理由によって低賃金で不当に働かされる、といったことが日常的に行われている [Nkundiye 2007]。ある男性障害者は「筆記試験に受かって面接に行ったら、『君はそれで階段が登れるの?』と言われて落とされたよ。僕は英語だってしゃべれるのに。ルワンダではまだこんな状態なんだ。」と語っていた(34)。 このように、開発プログラムや雇用の過程で障害者は周辺化され所得創出の可能性を閉ざされている。そのような状況に置かれた障害者は、家族や友人からの施しに頼ったり街で物乞いをすることへと生活手段を限定されていくのである。 3.2.2. 障害者の雇用に対する政策的プライオリティ ルワンダ政府はこのような現状を受けて、雇用において障害者に対する特別な配慮を行う必要があることを認識している。就労支援対策として作成された「産業技術教育・職業訓練に係る政策(Policy on TVET : Technical and Vocational Education and Training)」の草案では、技術教育について「特別なニーズを有する者」として障害者に対する言及がなされている [国際協力機構2007 : 17] 。また「国家雇用政策(National Employment Policy)」の草案においても、「全人口の約5%が障害を持つと推定される」というルワンダの状況に触れ、障害者のための特別雇用プログラムの構想も書き込まれている。具体的には、マイクロファイナンスや職業訓練による障害者支援プログラムの実施、所得創出活動のためのアソシエーション形成の奨励、障害者雇用促進のための措置、障害者にとって働きやすい職場環境の整備などである [Republic of Rwanda 2005 : 23] 。しかし、障害者の雇用における現状は前項で述べた通りであり、ルワンダの障害当事者たちは政府が提示する具体的な措置が「紙の上のもの」に過ぎないことを不満に思っている。このような政策上の文言と現実との乖離が生じる背景には、前節で扱った教育と同様の問題があると考えられる。つまり、紛争後に発生した多くの「仕事を必要とする社会的弱者」の中で、障害者の雇用対策は「後回し」にされているという問題である。 雇用の場合、政府が特に支援を行っている対象は女性(特に寡婦)と除隊兵士である。紛争後のルワンダでは、夫が内戦中に死傷した、またはジェノサイドに加担した罪を問われて服役中であるなどの事情で、多くの女性が家長となり収入を得て生活していくことを余儀なくされている。内戦により約100万人が犠牲となり、約11万人が刑務所にいるルワンダでは、1996年の調査で女性の世帯主が34%(寡婦の世帯主の割合は21%)を占めている [MINECOFIN 2002 : 8]。また男性を家長とする家庭の54%が貧困層であるのに対し、女性世帯主家庭における貧困層の割合は62%となっている [国際協力機構2005b : 30]。このような状況を受けて、政府は紛争後の復興開発プロセスの中で生活に苦しむ女性たちに対して経済的機会を保障することを重視してきた。例えばPRSPの中で記されている雇用促進のための公共事業プログラムは、特に女性を対象として実施されることが述べられている。[MINECOFIN 2002 : 43] また紛争後に相続法や財産に関する法律が改正されたことで、女性は土地や資産を所有できるようになった [人間の安全保障委員会2003 : 121]。土地や資産は小規模事業やマイクロクレジットを始める際に担保として重要な役割を果たすため、経済的機会の保障という側面においてもこの法律改正の意義は大きい。紛争後に困窮していた女性のためにこれらの具体的措置を政府が実際に行ったことは、障害者が公共事業プログラムから排除されている現状や、障害者の資産相続が認められない場合が多いという現状が放置されていることとは対照的である。 また元戦闘員の雇用は、一般的に紛争後の社会においてまず重視されるものである [山田2003 : 76] 。戦争に参加することで職を得て貧困状態から抜け出そうとしていた多くの元戦闘員の動員解除にあたっては、平和への政治的、軍事的措置以上のもの、すなわち経済的機会の確保が必要とされる [人間の安全保障委員会2003 : 116] 。ルワンダでもPRSPの「動員解除」の項目で除隊兵士に経済的機会を与える重要性が述べられており、主に二つの支援策が実際に行われてきたことが記されている。ひとつは「セーフティネット」として除隊兵士が生活費や居住費に充てるための特別手当を支給することであり、もうひとつがブタレ(Butare)の退役軍人職業訓練センター(the Veterans Vocational Center)で技能教育を行い、卒業後に事業を開始するための必要な道具一式(tool kit)を提供したり、マイクロファイナンスの実施を支援するなどの支援である [MINECOFIN 2002 : 58-59] 。その他にも除隊兵士で作られるアソシエーションに対しては、事業を始めるための復帰貸付金として10万ルワンダ・フランが提供されることになっている。さらに除隊兵士の社会復帰を促進しているルワンダ動員解除・社会復帰委員会 (Rwanda Demobilization and Reintegration Commission : RDRC)に対してはドイツ技術協力公社(Gesellschaft fur Technische Zusammenarbeit : GTZ) と世界銀行が援助をしており、GTZは除隊兵士のアソシエーションに対してコミュニティに根ざした職業技術訓練や生計向上プロジェクトを行っている[国際協力機構 2005b : 88-89] 。除隊兵士に対してはRDRCを通じて、政府やドナーから多くの支援がなされていると言える。 このように、一般の雇用創出プログラムやマイクロファイナンスから排除された障害者を特定の対象として就労や所得創出を支援する措置が必要だとしても、紛争やジェノサイドが起きたルワンダでは現実として雇用対策は除隊兵士や女性を対象としたものにプライオリティが与えられているという問題がある。 3.3. 紛争後における周辺化の背景 本節では教育と雇用の具体的現状に共通して見られた二つの問題をとりあげ、紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化の背景を分析する。もちろんルワンダの障害者が教育と雇用において周辺化されている要因は、それら二つの問題に限定される訳ではない。なぜなら、例えばアクセシビリティの悪さ、移動のための補助具等の不足、観念的障壁による差別など、序論で述べた通りルワンダ社会には多様なバリアが存在しており、それら一つひとつのバリアが複層的に周辺化を生み出していると考えられるからである。 しかし、本節において筆者がその中でも特定の問題のみを周辺化の背景としてとりあげる理由は主に二つある。第一にそれらが「平時」ではなく「紛争後」に顕著な問題であると考えられることであり、第二にそれらの問題は障害者が周辺化される現状が紛争後の制度や援助のあり方の中で「つくられる」側面を明らかにしていると考えられるためである。これらの問題について考察することは、「紛争後」という設定において障害者の周辺化が「なぜ」「どのようにして」生じてしまうのかを考察する本論文の目的と、社会モデルの立場から紛争後における周辺化は「社会によってつくられた障壁」が原因であることを明らかにするという筆者の本論文における立場とに適うものである。 前節まで見てきた教育分野・雇用分野において、ルワンダの障害者はまず一般の復興開発プロセスから排除されていた。また除隊兵士など政府にとって障害者よりもプライオリティが高い社会的弱者が紛争後は急増するために、排除され脆弱な立場に置かれた障害者に対する具体的措置の実施は後回しにされている現状があった。本節では紛争後のルワンダにおいて障害者の周辺化を維持・継続させているこれら二つの問題について詳しく論じていくこととする。 3.3.1. 医学モデル的な障害観の強化 紛争後のルワンダ社会において教育や雇用の分野で障害者は一般の復興開発プロセスから排除されていたが、障害者が一般の開発プロジェクトにおける裨益者および参加者になることができていない現状は紛争後に限定される問題ではない。そして、この問題はドナー側の社会においても「医学モデル的な障害観」が根強いことと関連付けて論じられてきた。例えば久野は、「障害者が直面しているさまざまな問題の原因は障害者個人の心身の機能障害であり、障害者はまずこの機能を回復し"健常者"となることが必要で、それにより他の課題も解決できるとする『障害の医学モデル』と呼ばれる見方が開発援助機関にも広く受け入れられてきたこと」を指摘した上で、「それは、"健常者"であることを社会参加や平等な機会の前提とする見方を強化し、障害の取り組みを医療の枠組みに押しとどめ、結果として包括的な生活支援を導かず、多くの障害者を一般の社会開発の取り組みから排除してきた」と述べている[2006 : 42 ]。 久野の批判は平時の障害者支援に対して向けられたものであるが、紛争後における障害者支援を考える際にはより有効な指摘となるだろう。なぜなら、平時の開発援助と比較した場合に紛争後の援助はより「医学モデル的なもの」になる傾向があると考えられるからである。序論で述べたように「インペアメント」と紛争の間には明確な相関関係があり、紛争によって急増した障害者とそれに伴って拡大した医療的ニーズは後紛争地域において目に見える形でわかりやすく現れる。このことが、医学モデル的な障害者支援の傾向と「障害=インペアメント」という医学モデル的な障害観の双方を強化していると考えられる。さらに医学モデル的な障害観の強化は障害者支援がより医学モデル的な形で実施されることを意味し、また医学モデル的な障害者支援の実施が人々の障害に対する考え方にも影響を与えるという意味で、両者がそれぞれの医学モデル的な性質を相互に強化しているものと考えられる。(図3を参照) 図 3 : 紛争後における障害観と障害者支援の関係(※画像をうまく処理できないので略してあります) 紛争後の地域において、医学モデル的な障害者観に基づいた支援が行われる傾向を示す例を挙げてみる。例えば障害を負った除隊兵士に対するルワンダ動員解除・社会復帰プログラム(Rwanda Demobilization and Reintegration Program : RDRP)が行っていた支援は、医療支援やリハビリテーション器具の支給に限定されていた[国際協力機構2007 : 5]。また内戦後のレバノンでは、紛争による障害者の急増が「障害に関して何かをしなければならない」という一般的な意識を形成したものの、その結果は高価な医療リハビリテーションセンターへの助成に過ぎなかった[Coleridge 1993=1999 : 289-290]。紛争後の障害者支援では戦闘によって負傷した戦闘員や一般市民、地雷被害者など、紛争によって「インペアメント」を負った中途障害者への支援が中心になる傾向があるが、これも「障害者支援=インペアメントへの対応」という医学モデル的な障害者観に基づいた紛争後の支援のあり方を示唆していると言える(35)。 このように、紛争後の障害者支援は緊急援助の延長として医療分野から始まることが多い [久野・Seddon 2003 : 135]。 しかし、「障害=インペアメント」という医学モデル的な障害観が強化される紛争後においてこそ、「障害者のニーズは医療分野に限られる訳ではない」ということが強調されなければならないだろう。例えばスーダンでは、列に並ぶことができないために食糧配給を受けられない現状に不満を持った障害者たちが当事者団体をつくって自分たちのニーズを訴えた [Healthlink Worldwide 2000 : 11]。また復興開発プロセスにおいて教育や雇用の機会から排除されたルワンダの障害者たちは、障害者の社会・経済的統合を求めている(36)。緊急援助の段階であれば切迫した衣食住のニーズ、復興開発段階であれば教育や雇用などのニーズなど、紛争後においても障害者は非障害者と同様あらゆるニーズを持つ存在である。 このように、紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化の背景には、医学モデル的な障害観が強化される紛争後であるがゆえに、障害者を「様々なニーズを持つ裨益者」と捉える視点を欠いた障害者支援が行われているという問題がある。紛争後における障害者の周辺化を防ぐためには、障害者が医療分野以外においても非障害者と同様に裨益者であり参加者であるという理解が浸透すること、またその前提にたって「インペアメントを持ったまま」障害者の参加が保障されるためには「社会が」どのような配慮を行えばよいか、つまり、どのように「ディスアビリティ」を削減していけばよいか、という障害の社会モデル的な考え方が浸透することが不可欠であると言えるだろう。 3.3.2. 社会的弱者の急増と障害者問題のプライオリティ 紛争後における医学モデル的な障害者観の強化と、そのような障害者観に基づく障害者支援のあり方が周辺化のひとつの要因であることを述べたが、本項では教育や雇用の例から明らかになった「紛争後の障害者支援」におけるもう一つの問題点について考察する。それは、紛争後に急増した社会的弱者の中で、政府が障害者に対して与える優先順位がその他の社会的弱者と比べ相対的に低くなっているという問題である。 教育や雇用に関する箇所でも述べたように、障害者がルワンダ社会における社会的弱者層の一つを成していること、また障害者のニーズや権利を保障するために特別な配慮が必要となることは様々な政策の中で確かに認識されている(37)。しかし、現実問題としてルワンダ政府の限定的な予算では紛争後に急増した全ての社会的弱者のニーズに応えることは出来ないため、社会的弱者の中でも政府にとってプライオリティの低い障害者への対策が「後回し」になっているという現状が生じていた。実際に紛争後のルワンダでは障害者と比較してその他の社会的弱者、特に寡婦と孤児が相対的に優先されている現状があり、地方行政・コミュニティ開発・社会事業省(MINALOC)が国と地方を通じて配分している社会的弱者向けの予算はほとんど障害者向けには使われていない[Thomas 2005a : 29]。 社会的弱者向けの予算のうち5〜10%を障害者向けに特別に割り当てるべきだというThomasの主張は、予算が一括で扱われている限り障害者が恩恵を受けられない現状に基づいてなされているものだと言える。 このように、紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化要因として「社会的弱者が急増する後紛争地域において障害問題のプライオリティは相対的に低くなる」という問題がある。平時における障害者支援についても、途上国で政府や国際機関によって策定される開発計画全体において障害は低い優先順位を与えられる傾向にあることをColeridgeが明らかにしている[1993=1999 : 106-107]。そして、「人が『普通』でなければ他のすべての人が得るのと同じチャンスを得る資格がないことを暗示する社会進化論の否定しがたい影響」を指摘し、「多数の子どもがいずれにしても下痢のような原因で一歳の誕生日を迎える前に死ぬとき、障害は優先事項ではない。最初に幼児の死亡率を低下させたら、そうしたら我々は障害のような事柄について考えることができる」という、開発の立案者が障害を取り扱わなければならない時に使う論点を批判している。 Coleridgeがいう「社会進化論の否定しがたい影響」のようなものがあるかについてはここでは扱わないが、障害問題が途上国や後紛争国において優先事項になり得ない現実にはいずれにしろColeridgeが指摘するような開発の立案者の価値判断が影響を与えているという問題を認識する必要があるだろう。そして、障害者の後回しによる周辺化を防ぐためには、誰が、どのようにして、その価値判断に対して変化を促すことができるかを考えていかなければならない。それは、医学モデル的な障害者支援への偏向がそれ以外の分野における障害者のニーズを軽視しているという前項で指摘した問題に対しても同じことである。次章では紛争後の障害者支援に対する社会のあり方を変える必要があるとする本章での結論を受けて、ルワンダにおける障害当事者運動の問題点を明らかにするが、これは社会の中に変化を起こすにあたって障害当事者自身の声を重視する社会モデルの立場にたつものである。 第4章 紛争後のルワンダにおける障害当事者運動3章では紛争後のルワンダにおいて教育と雇用の分野で障害者がどのように排除されているかという現状を分析し、周辺化の要因として紛争後における医学モデル的な障害者観の強化や障害問題の相対的なプライオリティの低さといった問題を指摘した。本章では紛争後のルワンダにおける障害当事者運動について論じるが、その理由は、障害者の周辺化を解決していくためには障害当事者がそのような問題を抱えた社会に対して変革を迫る力を持つことが不可欠だと筆者が考えるためである(38)。しかし、現状では紛争後のルワンダにおける障害当事者運動は非常に脆弱であり、政府へのロビー活動や偏見や差別を緩和するための社会に対する意識啓発は効果的に行われていない(39)。そのため本章では、周辺化の現状を改善していくために重要となる障害当事者運動がなぜ脆弱になっているのかという点について考察していきたい。 障害当事者運動の脆弱性要因を3章とのつながりで考えれば、例えば教育の機会がなく非識字であるために情報が得られず権利意識が低いこと、経済的機会がなく生きることに必死である障害者が多いため政治運動に対する協力や理解が得られないことなど、様々な要因を挙げることができる。しかし、それらは紛争後のルワンダに限らず平時の途上国においても共通して見られる問題である(40)。 そのため本章では「紛争後」における障害者の周辺化要因を分析する本論文の論旨を踏まえ、数ある要因の中でも紛争後のルワンダで生じた「障害者間の二分化」の問題に焦点をあてて考察していくこととする。 まず第一節で紛争後の障害当事者運動の意義について論じた上で、第二節で「障害者間の二分化」が生じた背景である「障害者間格差」について述べる。最後に第三節で「つくられた二分化」が障害者間の連帯を阻み運動体としての脆弱性につながっていることを指摘し、紛争後における障害者の周辺化を継続させる一因となっていることを指摘していきたい。 4.1. 紛争後における障害当事者運動の意義 障害の社会モデルは、障害者自身の役割を強調する。医学モデルでは、障害者は機能的に「健常者」になることで社会に適応することを目指して「変わるべき対象」とされており、治療や訓練を受ける受動的な存在として位置づけられている。しかし社会モデルは、「変わるべき対象」は社会であり、障害という課題に直面している障害者自身は当事者として社会を変革する役割を担う力を有すると考える [久野・中西 2004 : 73-74] 。このような障害当事者の役割は、以下のような理由において紛争後にはさらなる意義を持つだろう。 第一に、紛争後における障害者支援のあり方は3章で指摘したような「インペアメント偏重」の医学モデル的な障害者支援になる傾向とあいまって「救済型(relief model)」の援助になる傾向がある。実際にそうした援助を経験した後紛争地域の障害当事者たちは、紛争後に特有の「救済型」障害者支援のあり方が障害者に受動性を植え付けるとして批判している [IDDC 2003 : 35 ] 。「救済型」の障害者支援は、障害は「インペアメント」を被った「個人の悲劇」であると捉える医学モデル的な障害観に立脚していると言えるが、このような障害観が強化されれば、障害とはインペアメンを持った人たちに対する「社会の抑圧」であり「変わるべきは社会である」とする「障害の社会モデル」的な見方が紛争後の社会に浸透することは難しくなると考えられる。 後紛争地域におけるこうした特性を考えると、「救済型」障害者支援の中で受動的な存在として捉えられがちな障害当事者が、社会変革を担う能動的な主体として「変わるべきは社会である」と声をあげていかない限り、障害者が周辺化され不利益を被る現状は容認され継続していくだろう。Barnes, Geof, and Tomは、ディスアビリティ理解の転換に伴って政治への取組みが進んでいる場合、従来のような障害者の「ための」組織によってではなく、障害者自身が決定権をもち運営している障害当事者運動によって変化が引き起こされているという点を強調している[1999=2004 : 14]。 また紛争後のルワンダでは地方分権化のプロセスが進められており、「弱者対応(孤児、寡婦、障害者等)」については企画、実施、モニタリング、事後評価までを郡が行うことになったが、この点もルワンダにおける障害当事者団体の役割を考える上で重要である。この地方分権化プロセスにより、2002年から県(Province)は独立した予算を与えられ郡(District)も前年度収入の1.5%を経常予算として受け取ることになっている。また中央から分権化された機構へのこうした資金の流れの増加に加え、公共開発基金(Common Development Fund : CDF)という基金によって、郡が抱える住民、貧困、開発プログラムに沿った資金の再配分も行われることになった [国際協力機構 2005b :13]。このような状況のもとで重要になるのは、 地域ごとの障害当事者がその地域の現状に応じて自らのニーズや権利の保障がされるように声を上げ、地方行政機構に対して権利擁護活動やロビー運動等を行っていくことだろう。中西と上野は、「当事者は変わる。当事者が変われば、周囲が変わる。家族や地域が変わる。変えられる。地域が変われば、地域と当事者との関係が変わる。当事者運動は、自分たちだけでなく、社会を変える力を持っている。」と述べている[2003 :148]。これは先進国日本における1970年代からの障害当事者運動を通じて、地域、そして社会に変化を起こしてきた実績を背景にした言葉であるが、途上国においても社会変革のプロセスはまず障害者から始まることを、多くの障害者が証言している [Coleridge 1993=1997 : 61]。 また中西と上野は、「当事者とは、『問題を抱えた人』と同義ではない。問題を生み出す社会に適応してしまっては、ニーズは発生しない。・・・・・・ 私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、初めて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。ニーズはあるのではなく、つくられる。ニーズをつくるというのは、もうひとつの社会を構想することである」と述べている[2003 : 2-3]。3章までに述べたようなルワンダにおける障害者の現状を社会に対して訴え、見過ごされている自分たちのニーズを顕在化させていくことは、ルワンダの障害当事者たちにとっても周辺化の現状を打破していく上で重要なことであろう。このような紛争後における障害当事者運動の意義を踏まえた上で、次節では紛争後のルワンダにおける当事者運動の脆弱性の背景にある障害者間格差の問題について詳しく述べていきたい。 4.2. 紛争後のルワンダにおける障害者間格差 社会の周辺に置かれている障害者の中でも、例えば女性障害者や重度障害者、農村部に居住する障害者などは二重、三重に参加の機会を奪われていると考えられる。障害者間における格差は、連帯した障害当事者運動を目指す際にも障壁となるものである(41)。 こうした障害種別や性差による格差の問題は紛争後のルワンダにおいても生じているが、本節ではあくまで紛争が要因となって生じた障害者間格差に焦点をあてて論じていくものとする。 紛争後の復興支援では紛争中の対立構造や格差を解消する形での支援を行うことが重要とされているが、それは障害分野においても同様である。例えばニカラグアでは1996年に障害のある退役軍人、そのうち何人かはかつてのコントラ(ニカラグア反政府ゲリラ)のメンバーでありまた何人かはサンディニスタ(民族解放戦線・政府側)のメンバーだったが、互いの共通点に目を向けることで共に行動を起こすようになった [Armstrong and Len 1999=2003 : 179] 。またスリランカでも、シンハラ人とタミル人のコミュニティが共同でCBRのトレーニング受け、対立構造を反映したリハビリテーションサービスの枠組みが生じる前に、予防的にこうした対策が行われていた [Boyce 2000 : 19]。 ジェノサイドを経て民族間の融和が国是とされているルワンダでも、ツチ族かフツ族かといった区別によって格差が生じるような障害者支援のあり方は当然なされていない。しかし、紛争の原因となった国内の対立構造や格差の解消に重点が置かれる一方で、紛争後のルワンダでは「障害を持つ除隊兵士」への優遇によって「一般の障害者」との間に大きな格差が生じるという別の問題がある。そしてこの格差が、ルワンダにおける障害当事者運動が二分化され脆弱になっている要因であると考えられる。本節ではこの問題を論じるにあたり、まず両者の格差が最も顕著に現れている法律と社会保障について比較をし、具体的な格差の現状を考察する。 4.2.1. 法律における格差 2007年1月20日にルワンダ国会を通過した障害者に関する法律は、「一般の障害者の保護に係る法(以下、障害者法)」(Loi Portant Protection des Personnes Handicapees en General) と「障害を持つ除隊兵士の保護に係る法(以下、障害を持つ除隊兵士法)」(Loi Relative a la Protection des Ex-Combatants Handicapes de Guerre)の二つである(42)。ルワンダ動員解除・社会復帰委員会 (RDRC) が障害を持つ除隊兵士の権利に関して別個に法案を設置しようとすることに対してルワンダ障害者アソシエーション・障害者センター連盟 (FACHR) は強く反対していたが、結果として障害者の権利を保護するための法律は対象別に二つ存在することになった[Thomas 2005a : 31]。 両法律間にみられる最も顕著な差は、具体的措置の有無である。障害者法には、教育、医療、雇用、文化スポーツ活動などにおいてそれぞれ障害者の権利が保護・促進されることが明記されているものの、そのための具体的な措置に関しては何も述べられていない。その一方で、障害を持つ除隊兵士法には、医療費や交通費に対する補助金制度、生活困窮者を対象とした特別手当制度など、障害者法には見られない具体的な支援措置が明記されている。例えば医療費に関しては、1−2級であれば政府が全額負担、3−4級であれば政府が医療機関に補助金を出すことで患者の負担は軽減される(第8条)(43)。さらに、1−2級の障害を持つ除隊兵士に対しては、学校や保健センターの近くに住居を提供すること(第16条)、裁判や書類手続きにかかる費用の免除(第12・13条)なども保障されている。 また重要な相違点として、障害を持つ除隊兵士法については実施・監視を目的とした特別機関を設置することが定められているが(第5条)、障害者法についてはそのような機関の設置は予定されていないことが挙げられる。そもそも障害者法には具体的な措置が書き込まれていないため実施や監視を行うこと自体が難しいとも言えるが、法律の実効性を担保する役目を果たす実施・監視機関の有無という差異が障害者の生活における実質的な格差へとつながる可能性は高い。 4.2.2. 社会保障における格差 社会保障制度においても、障害を持つ除隊兵士か、それ以外の一般の障害者であるかどうかによって、受けられるサービスの内容には大きな違いがある。障害と貧困の相関関係は広く認められているところだが(44)、ルワンダには障害者年金など障害者のための特別な社会保障制度は存在しない。紛争後のルワンダにおける社会保障制度の脆弱さは一般の障害者の生活を困窮させ、必要なサービスを受けることを困難にしている一因であると考えられる。 その一方で、障害を持つ除隊兵士に対しては様々な手当が用意されている。ルワンダ動員解除社会復帰委員会(RDRC)によると、約6万人の除隊兵士のうち約8千人が障害及び慢性病を抱えており(45)、 RDRCが2003年に「医療リハビリテーションプログラム」を作成して彼らに対するスクリーニングを実施している。このスクリーニングを通じて「障害証明書」(Permanent Disability Certificate : PDC) が政府から発行されると、障害の程度に応じて一回限り、一括払いで特別手当が支給される。その額は30%以下の障害の場合で10万ルワンダ・フラン(約200米ドル)、90〜100%の障害の場合は50万ルワンダ・フラン(約1000米ドル)となっている [Thomas 2005a : 30] 。またこうした特別手当に加え、PDCの提示によって障害に関連する治療費は無料になる。さらに通院コストを考慮して、RDRCの医療リハビリテーションプログラムは国内17の病院および全国の薬局と契約を結んでいる(46)。 このように障害を持つ除隊兵士に対しては充実した社会保障制度が整備されており、経済的な理由によりリハビリテーションや必要な補助具などのサービスを受けられない一般の障害者との格差は拡大していると言うことが出来る。次節では、このような障害者間格差が障害当事者運動の二分化へとつながっていく問題について論じていきたい。 4.3. 紛争後のルワンダにおける障害当事者運動の脆弱性 4.3.1. 障害当事者運動における連帯の重要性 政府や社会に対して効果的なロビー運動や意識啓発を行うためには、障害当事者運動が様々な立場の障害者によって散発的に行われるよりは、紛争による対立構造や障害種別の壁をなくした連合体による活動が望ましいと考えられている(47)。例えば内戦終了後のアンゴラでは、「戦傷者の団体」といった形で個々の立場を明確にした障害当事者団体が無数に設立されたが、それらの障害当事者団体は国際NGOから慈善を受け取るだけであった。後紛争地域の障害当事者たちはこのように障害当事者団体が個別的に分断されている問題を指摘し、有効に運動を行うための連帯と協働を学ぶことが障害当事者団体の能力強化につながると述べている [IDDC 2003 : 38] 。障害者間の連帯に関するグッド・プラクティスとしては、紛争後のボスニア・ヘルツェゴビナにおける障害当事者運動の発展が挙げられる。IDDCの報告書においては、2000年の時点ではまだ障害種別ごとの当事者団体が相互に連携することなく独立して存在しており、それぞれが慈善事業に頼って紛争後の短期的な物質的ニーズを満たすことを中心に活動をしている様子が記されている [IDDC 2003 : 26] 。しかしその後2005年に出されたUSAIDの報告書では、国内全ての障害当事者団体が連帯して障害者統計を行い、ワーキンググループを作って政府に働きかける運動が開始された様子が記されている。その結果として効果的な障害当事者運動が可能になり、「専門的リハビリテーションと障害者の雇用に係る法」の制定や、障害者の医療・社会保障・健康保険・教育などに関する一連の法律の改正も実現した [USAID 2005 : 39]。こうした例からも、障害者を周辺に追いやる社会を変化させていくためには、障害当事者団体の連帯による効果的なロビー活動が重要な要素であると言うことができるだろう。 4.3.2. 障害当事者運動の脆弱性:格差と二分化 前項で障害当事者間の連帯が効果的な政治運動にとって重要であることを述べたが、紛争後のルワンダでは「障害を持つ除隊兵士」と「一般の障害者」との間にある「障害者間格差」によって障害者は意識の上でも運動の上でも「二分化」されており、障害者間の連帯が妨げられているという問題がある。一般の障害者は、自らを"handicapes civils"(文民障害者)、障害を持つ除隊兵士を" handicapes militaires"(軍人障害者)と呼んで区別して話す傾向があり、「ルワンダの障害者には『軍人』と『文民』の2つのカテゴリーがある」と話す障害者もいた。一般の障害者は同じように障害を持っているにも関わらず「除隊兵士」という立場の障害者のみに特別な措置が与えられていることに対して不満を持っており、ジェノサイドで片足を切断されたある男性は、「国のために戦って障害を負ったのだから、彼ら (除隊兵士) が国から優遇されることはわかる。だけど、僕だって戦争の犠牲者だ。」と語っていた(48)。 様々な障害種別の当事者を含むクロス・ディスアビリティ(cross-disability)の団体として最も歴史が古くルワンダ国内でも代表的な障害当事者団体(Disabled People's Organization : DPO)であるルワンダ障害者協会(AGHR)(49)は、「自分たちは文民のDPOであるから、AGHRには除隊兵士のメンバーはいない」としている。その一方で、障害を持つ除隊兵士に関してはルワンダ動員解除・社会復帰委員会(RDRC)が中心となって運動を行っている。このように、障害者間の「二分化」意識は当事者運動にも反映されており、効果的な障害当事者運動に必要な連帯や協働を阻害していると考えられる。また政府によって満たされている実質的なニーズの差はそのまま障害者当事者団体が政府に対して要求する内容の差に反映される。このことは、「不満」「嫉妬心」といった意識的な側面とは関係なく、運動が別個に行われる現実的な要因になっていると考えられる。 このように、紛争後のルワンダにおける障害者間の「二分化」が障害当事者運動の連帯に与える負の影響は明らかである。ただし注意しなければならないのは、この「二分化」が「ツチ」「フツ」のように内戦の対立構造を反映して「自然発生」したものではなく、法律や社会保障の面において「障害を持つ除隊兵士」と「一般の障害者」の間に格差が設けられたことによって「つくられた二分化」であるという点だろう。次項では戦争後や紛争後における他国の障害者政策との比較を通じて、「制度が生む格差」と「つくられた二分化」という問題の考察を進めていきたい。 4.3.3. 紛争後における格差問題の比較 障害を負った元戦闘員が一般の障害者と比較して相対的に優遇される現象は、ルワンダに限らず戦争後・紛争後においては一般的な傾向である。例えばカンボジアでは「国のために自らの命を投げ打った者たち」である退役軍人と公務員のみを対象とした障害年金制度等による支援策が2004年に打ち出されている[Thomas 2005c : 36] 。またアメリカにおける最初の職業リハビリテーション施策は、第1次世界大戦の帰還兵を対象として1918年に導入されており、民間人へと対象が拡大したのは1920年のことである[杉野 2007 : 175]。半世紀前の戦後日本の障害者政策については花田が、身体障害の認定基準が切断を対象として策定され麻痺性疾患が軽視されていたことは一般の疾病による障害者よりも戦傷による傷痍軍人がまず念頭に置かれていたことの何よりの証拠であると指摘した上で、「一皮剥けば、傷痍軍人には国のために障害を負ったのであるから、一般の障害者と一緒にされてたまるものかという意識があり、一般障害者にはそんなことで置いていかれてたまるものか」という「意識の対立めいたもの」があったことについても言及している[1991 : 121]。 このように、紛争後は傷痍軍人への対策が意図的に優先されることで障害者間格差や障害者の二分化といった問題が生じているならば、その格差が生じないよう配慮することで除隊兵士と一般の障害者の「二分化」を緩和することもまた可能なはずであり、実際にそのような取り組みは各国で行われてきた。例えばパレスチナではインティファーダによって障害を負った者のみが以前は優遇されていたが、不平等であるという理由で優遇措置が見直されて障害者間の格差が緩和した [Boyce 2000 : 17]。また第二次世界大戦後の日本では、連合国総司令部(General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers : GHQ)が「社会救済(Public Assistance)に関する覚書」の中で、「無差別平等の原則」を日本政府に求めたことで、傷痍軍人優先の保護施策に終止符が打たれた。この覚書を受けて1949年に制定された身体障害者福祉法は、占領政策により全国の病院関係施設に放置されていた大量の傷痍軍人を早急に援助することがその契機ではあったが、対象を身体障害者一般に拡大した普遍的な福祉サービス法として成立させられたことに意義があるといえる [星野 1998 : 181-183]。 その一方で、紛争後に傷痍軍人と一般の障害者の間にある格差を緩和せず逆に強化してしまっている場合も多い。国際労働機関( International Labor Organization : ILO)はアフガニスタン・アンゴラ・ボスニアヘルツェゴビナ・カンボジア・モザンビーク・パレスチナなどの後紛争地域で障害者のための職業訓練プログラムを行っているが、その中で特に対象とされている裨益者は「障害を持つ除隊兵士」である [ILO 2003 : 2]。また現在ルワンダで行われている国際協力機構(JICA)のプロジェクトも障害を持つ「除隊兵士のみ」を対象とした技能訓練プロジェクトであるが、そのことに対して一般の障害者は不満を持っているようであった(50)。 各国の例は、戦争・紛争後の障害者支援では共通して傷痍軍人が優遇される傾向にあること、またそれによって生じる「障害者間格差」が政策や援助のあり方ひとつで緩和されたり逆に強化されることを示している。効果的な障害当事者運動が社会のあり方を変えていく力を持つことは、各国の当事者運動の歴史が明らかにしてきたことである。当事者運動の発展を妨げるような障害者間格差を緩和すべく、紛争後の障害者支援においても努力を重ね続ける必要があるだろう。 4.4. 小括 本章での議論を整理すると、紛争後のルワンダにおける障害当事者運動の脆弱性が障害者の周辺化要因となる過程は以下のようにまとめることができる。まず、紛争後に障害当事者が自分たちを周辺化する社会を主体的に変えていくこと、そのためには障害者同士が連帯して効果的なロビー運動を行っていくことが重要になる。しかし、ルワンダでは紛争後に政府や援助機関が障害を持つ除隊兵士を優遇したことで障害者間に格差が生じ、そのことが意識や運動の面で障害者の二分化を招いていた。そして二分化による障害当事者運動の脆弱性は、変革を迫るために十分な声の不在を意味し、障害者の周辺化を継続させる一因になっていたと言うことができるだろう (次頁の図4を参照)。 また、障害当事者運動の二分化と脆弱性へとつながる根本的な原因として指摘した障害者間格差の問題は、傷痍軍人優遇という形で以前から多くの後紛争地域に共通して見られることも述べた。同時に、傷痍軍人優遇によって生じた格差に対する各国の対応策の違いから、格差を緩和し効果的な障害者運動へとつながるような障害者支援のあり方が重要となることを主張した。障害当事者を主体とみなすことの重要性は認識されており、障害者個人のエンパワメントや個々の障害当事者団体・自助グループ等のエンパワメントを目的とした障害者支援は政府や援助機関によって行われるようになってきている。これらのレベルでのエンパワメントが効果的な当事者運動によって制度や社会に対して大きな変化をもたらすことへとつながり、本論文で扱ったような周辺化の現状に実質的な変化をもたらすパワーとなることが重要である。本章で指摘した紛争後の傷痍軍人優遇などによる障害者間格差や二分化も社会が作り出しているものだということを強く認識し、支援のあり方を再考していく必要があるだろう。 図 4 : 紛争後のルワンダにおける障害当事者運動の脆弱化の過程
障害を持つ除隊兵士の優先 出所 : 筆者作成 第5章 結論本論文では、紛争後のルワンダを事例として障害者が「どのように」「なぜ」周辺化されているのかについて述べてきた。序論でも述べた通り、ルワンダ社会における障害者に対する根強い否定的な態度、情報やコミュニケーション手段の不備、アクセシビリティの問題など、本論文では中心的にとりあげなかった様々な要因によっても周辺化は発生し強化されているが、本論文ではその中でも「紛争後」という文脈に限定した場合に考察すべき周辺化の要因として、主に以下の問題があることを述べた。すなわち、(1)紛争後における医学モデル的障害者支援(2)紛争後における障害者支援の後回し(3)紛争後における障害当事者運動の脆弱性、という3つの問題である。またこれらの周辺化要因自体にも、紛争後に医学モデル的な障害観が強化されること、紛争後は社会的弱者が増加するにも関わらず政府のリソースは不足すること、紛争後には障害を持つ除隊兵士が優先され障害者間格差が生じることなど、「紛争後」に特有の状況が背景としてあることを論じた。 障害者の周辺化が紛争後という状況において「どのように」「なぜ」起こっているのかを考察したあとに残る問題は、「どうすれば」そのような周辺化を阻止することができるかという問いである。しかし、その問いに対して具体的な解決策を提示することは容易ではない。なぜなら、本論文で指摘した問題群の解決のためには、社会の中にある医学モデル的な障害観そのものや「障害者は後回しでよい」といった価値判断を抜本的に変えていくことが求められるからである。さらにルワンダの事例からもわかるように、紛争後において変化を求めていかなければならない相手、つまり紛争後にディスアビリティを作り上げている社会は、緊急援助や復興開発において重要な役割を果たしている国際機関、各国の開発援助機関、国際NGOなど、外部のアクターをも含めた「社会」である。これらの点を考えると、本論文で提示した問題群の解決には息の長い努力が必要とされることは想像に難くない。 しかし、それでも「紛争後」という困難を極める状況において障害者が周辺化されないための具体的な取り組みを本気で行う姿勢があるかどうか、それは、先進国も含め障害者に対する差別や不平等が未だに残されているそれぞれの社会の意識を問う一種の「ものさし」である。人間の安全保障委員会は、「紛争後の状況は、変革を進め、社会・政治・経済の権力基盤を根本的につくり直すための良い機会である。疎外されていた人々を参画させ、分断されたものを回復し、不平等をなくす機会なのである。しかし一方で、あらたな不安定を生み、差別や排除を助長する可能性もある。」と述べている[2003 : 111]。紛争後に変革が進むのか、それともあらたな差別や排除が助長されてしまうのか、そこで問われているのは社会を作り上げている私たち一人ひとりの「障害者」や「障害者問題」に対する意識である。紛争後に障害者が後回しにされる現状について「緊急時においてはそうなっても仕方がない」ともし私たち一人ひとりが考えるならば、たとえ各国で法整備やサービスの拡充が進み障害者の参加や平等が実現してきているとしても、それぞれの社会に差別性が残ることは認めざるを得ないだろう。
紛争・災害・不況など、余裕がない時に障害者を省みることができない社会によって、またそうした社会を受け入れている私たち一人ひとりによって、紛争による心の傷に加え障害があるという理由だけで辛い思いをしなければならない人たちが生まれている。出来る限り取り入れた障害当事者たちの生の声も含め、紛争後のルワンダにおける障害者の現状を示した本論文がそのことを提示するひとつの材料となることを願っている。そして、筆者自身も少しでも小さな「変革」を起こしていくべく問題意識を持ち続け、今後も具体的な取り組みに関わり続けていきたい。
謝辞大学時代の総大成である卒業論文の主題に障害者問題を選んだことは、母親が重い障害を負い、また自分自身も病気で下肢に不自由を抱えることになった5年間の学部時代を振り返ると、自然なことであったと思います。本論文を通じて積極的に障害分野に関わるようになったことで、私は障害を持つ仲間や、障害者問題に真摯に取り組む人々との出会いに多く恵まれました。そしてそれは、障害や病気を抱えて生きることについて、私の中に大きな力と変化をもたらしてくれたと思います。そのことに関して、本論文の謝辞として初めに心から感謝の意を表したいと思います。 本論文の執筆、特に3週間の現地調査を兼ねたルワンダ滞在にあたっては、本当に多くの方々からご協力を頂きました。心から御礼を申し上げます。特に、現地NGOのムリンディジャパン・ワンラブプロジェクトの皆様、インタビューに快く協力して下さったルワンダの障害当事者の皆様、国際協力機構ルワンダ駐在事務所の皆様、一人ひとりのお名前を挙げることはできませんが、一人ひとりの方に心から感謝しています。またアフリカ平和再建委員会の小峯茂嗣先生、アフリカ日本協議会の斉藤龍一郎さんには、ルワンダ滞在にあたって貴重な助言を、帰国後にはセミナーや原稿の形で報告の機会を与えて頂きました。本当にありがとうございました。また指導教官として温かく丁寧なご指導を続けて下さった遠藤貢先生、「障害と開発」の分野における勉強を学内外でサポートし続けて下さった中西由起子さんにも、改めて格別の御礼を申し上げます。 最後に、特別の感謝の気持ちを、自分を支え続けてくれた家族と友達に対して表しておきたいと思います。私は様々な不安よりも将来に対する希望をより多く抱えて卒業できる自分で今いられることをとても幸せに感じますが、それは私が一人で絶望的な気持ちにならずに済むよう、どんな時も温かく傍で見守ってくれる家族や友達に恵まれていたからです。皆に対する感謝の気持ちを決して忘れることなく、学部時代の全ての経験を土台として、これからも一生懸命に国際協力・障害問題に取り組んでいきたいと思います。 本当にありがとうございました。
付録1 一般の障害者の保護に係る法 (原文 英語版)
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