HOME > 全文掲載 >

講演記録「安心という言葉を求めて――朋の実践をとおして」

於:石川県社会福祉会館
19981103
日浦 美智江


◆『 安心という言葉を求めて 』-朋の実践をとおして-
 1998年11月3日(火) 午後2 時から4 時
 石川県社会福祉会館   主催 : 日浦 美智江さんのお話を聞く会

 
1. 「もう安心よ」という言葉を求めて歩いてきた26年間
 こんにちは。ただいまご紹介していただきました日浦美智江です。
 野間先生のご紹介だとまるでタレントのように東奔西走しているように思われますが、そんなことぜんぜんないんです。施設長があちこちととびまわっているのはあまり良くない、というのと、『朋』が大好きで『朋』にいたくて、県外に出るのは月に一回と決めているのでなかなかお訪ね出来ませんでした。
 私のイメージでは、もっと少ない方々だと思っていたものですから、こんなにお天気のいい日にここに閉じこめられてしまったみなさんに、良い2時間が用意できるか先ほどから不安なんです。
 横浜で26年になりますが、初めて重症のお子さんと出会って、私が歩いてきたのはただただ一本道なんですね。一つの道だけしか歩いていません。でもその一本道を歩きながら、いろんなことを考え、いろんなことをみんなから教わり、そして今まだ、いろんな課題を抱えている毎日です。
 なんとか、そんな私たちの歩みと今の課題とを、みなさんにお伝えできたらと思いますので一生懸命話したいと思います。
 タイトルが「安心という言葉を求めて」だなんて‥‥‥、野間先生の熱意でこんな格好良いことを言ってしまったのです。
 ずっと思ってきたこと、お母さんたちがお父さんも含めて本人のことを一番思い、身近にいて本人がこうありたいと思っているのが、こうあらせたいと思っている一番が親の方であると思っています。その次に私たちがこうあってほしいと思っている。職員または学校の先生がその隣にいる。こうあらせたいという親の方たちの気持ちを、ずっと信じて、ずっと信じてきているから、親の方たちが「もう安心よ」と言って下さったら嬉しいなあ、「まだここがあるのね」「まだここがだめなのよね」というのではなくて、「もうこれで安心ね」という一言が聞きたくて26年間頑張ってきた。まだ安心というところにいっていない、まだ求め続けているし、親の方たちにも体の具合が悪くなれば緊急一時制度もあるが、簡単に「安心」といって欲しくない、「まだあるよ」と言い続けて欲しい。生活の質を求めている。あらゆる制度保障、基本的なものはあるが、でも欲を言えば「もうちょっとここがこうなればね」というところがたくさんある。今それを一つ一つ追いかけている、だからきっと、私たちが「本当に安心ね」というところまでにはまだいっていない。それを一つ一つ追いかけていって見たいし、追いかけなければならないと思っている。ですから一緒にそれをつくって欲しいのです。

2. 四本柱「家族、職員、地域、そして行政」
 『朋』は施設と職員と家族、親の方たちも「一緒にやろう」という言葉をいつも言ってくださる。私は親御さんと一緒に作っていく、仲間であって欲しい、職員と保護者は車の車輪である。そこに地域の人が加わって下さって、柱が3本になりました。
 今、もう一つ横浜市の行政の人たちから「制度がないから無理だよ」と言われたことがない。『朋』が出来たこと自体、素晴らしいことだと思う。横浜は330万人都市で、今頃ベイスターズがパレードをしているエキゾチックな町で、ランドマークタワーもある。日本でも近代化が進んでいる横浜市が一番障害の重い人たちの生活をしっかり見てくれる、私はそれを横浜市民として誇りたいと思います。

3. 障害の重い人を守ろうという横浜市の姿勢
 横浜では『生活安心センター』という人権擁護機関を作りました。10月1日から始まっています。これは将来的というか介護保険の問題がどこでも課題になっていますが、介護保険の導入には人権問題がかかせない。本人が意思を言いにくい人たち。言葉がしゃべれない、意志をくみ取ることが難しい人たちのために人権擁護センターがかかせない、それを横浜市は作りました。横浜市の社協が運営を委託されていて、そんな人権擁護センターを作っていく時に私をその委員に入れてくれました。私はその中でいつも「重症の人はそこんとこ難しいよ」とか「その場合は重症の人たちの気持ちをどこでくんでくださるんですか」とかいう話しをしてこれました。
 そのセンターは、ただ財産管理だけでなくて、法律用語では身上監護というのだそうですけれど、いわゆる生活の質をきちんと見ていこうという、この二つを押さえよういう、財産管理だけではないという二本柱で動いている。それが出来上がった時に、その判定委員という委員がいて、その能力を判定するというか「このかたの場合はこうですよ」特に痴呆症のお年寄りの場合が大きくクローズアップされています、それで、今度は委員の人たちの役割を、またもうひとつしっかりみなければならない。委員の人たちが「困っちゃたよ」と言う時は、「いやそれはこういう風に考えようよ」ということでもうひとつのところで、委員の業務を見るという委員会ができている。その委員会にやっぱり私にも入れと言ってくれました。ということは、私はいつも重症の人のことを言っているわけですよね。その人間に入れということは「そこはおさえるよ」ということだと私は思いました。
 ですからすごく近代化の進んでいる大都市が、一方で一番弱い一番厳しい病気になりやすくて、そしてなかなか自分のことを言葉でしゃべれない人たちの生活を、一方で守ろうとしている。市長さんに聞いて言っている訳ではなく、私がそう解釈してそれで行政に「ありがとう」と言っている。私たち職員、施設と親の方たちと地域の方たちもう一つ行政の柱が一つ増えてきている。柱が増えて行くほどみんなの生活がしっかりしてきますよね。

4. 『朋』は希望する人を断らない
 安心を築くにはまずハード面、建物のこと、それに関わる人の問題があります。私共の施設は通所なんですけれど、今、運営費は随分多くなりました。48名が入ってきているのですが、40名が定員です。8名は"重症心身障害児通園事業"というのを受けておりましてプラスαで人を受け入れたんですね。というのは、『朋』は希望をする人を断らない。朋を希望している人は、気管切開をしている人、チューブ栄養の方だったり、そんな方たちです。だから、うちが断ったら、他に行くところがないわけですね。だから絶対断れない。職員もすべてそれを承知している。
 希望がでたらそれをどうやって受けようかといつも考えます。そういう所ですから法定施設で、"精神薄弱者更正施設"でとおっていますので国から頂くお金は少ない。人件費として措置費といいますがそれは6000万円、横浜市はそれでは足りないからと、一億近いお金を『朋』につけてくれる。そういう財政的な援助というものはとても大きい。朋を作る時に、一番私たちが困ったのはどういう形で作ろうかということでした。
 『朋』に通ってきている人達は、みんな重症心身障害者‥‥この"者"と言う言葉は本当は法律にはないんですよね。"重症心身障害児"という言葉は児童福祉法の中にある。でも重症心身障害児の場合は児者一貫ということで「児童福祉法」が大人になっても適用されることになっているんです。 
 その児童福祉法の中にある"重症心身障害児(者)"という人達の生活の場というのは、"重症心身障害児入所施設"それしかない。重症心身障害者が通う施設はどこにもない、どの法律にもない。その人たちが力がなくて通うところがいらないのか、こちら側がその人達に通う場を必要としないと解釈してしまったのかどちらなのか。

5. 子どもに通う力がないのか、受け入れる側に問題があるのか。
 26年前、昭和47年に横浜市は全員就学制を取っている。そこに大きな一つの重症の人達の社会がつながる糸口があった訳なのですが、その学級を開かれた先生がまずこう考えられたんですね。みなさんそれまで訪問でした。
 「みんなに学校に通う力がないのかそれとも学校側にその体制が整っていないのかどっちなんだ」「学校にいらっしゃい」と言ってみんなが病気になっちゃったり、入院になったりして、学校に通うことは無理ですよということになればこれはもう訪問です。だけど、こちら側にじゅうたんの部屋がないとか、先生の数が足りないとか、そういうことでみんなに学校に来れない状態を作っているとしたら、それはおかしいよ。みんなの力じゃなくてまわりがちゃんとしていないだけではないのかと、その訪問学級という中の通級ということを考えた先生はそう考えたんですね。

6. 「通級の訪問学級」誕生
 それで一般校の中にプレハブ校舎を建てました。そこに畳を敷き、そしてもうひとつ教室を改造して、そこにもじゅうたんを敷き、みんなが来て「疲れたらそこに寝てもいいよ」と言う場所をまず作りました。それから学校の先生がとてもじゃないけれども、4人5人に1人ということではみんなを見れない。だから少なくとも2人に1人、場合によっては1人に1人になるくらい、学校の先生をつけてくれと教育委員会と交渉した。
 そして全国を歩いて、当時国立大学にも養護学校の資格を取らせる学科が少なかったですね。養護学校の教諭を秋田、岩手、長崎、名古屋など全国から先生を集めてその学級を始めたんですね。
 こちらのそれだけの意識や知識がないために、子どもたちが出てきたのにこれは無理だね、と子ども達を帰してしまったら大変だと言う思いがあったんですね。

7. 同時に、ユニークな「母親学級」も開設
 それともうひとつが親の人達も一緒にやろうよという親への呼びかけでした。特に主たる養育者は母親です。24時間のうち、学校は何時間だけか、その学校で何時間かが家庭とつながらなかったら意味がない。その教育は学校だけで終わってしまう。家庭と一緒にやってこそ、障害のある子どもたちの教育は成果があがるということでお母さんたちにも教育の意味と意義、そしてどういうことを子どもたちに伝え、子どもたちにどういう力をつけさせながら社会に出していくか、ということを学んで欲しい、ということで母親学級が作られた。その担当は教員ではなくソーシャルワーカーがあたること。これも大変ユニークな発想だったと思います。それがたまたま私であったわけですけど。そういう条件をいくつも作られた中での訪問学級スタートでした。

8. どんどん元気になっていった。
 最初は週1回。大丈夫だと週2回、3回、そうやりながら回数を増やしていった。途中リタイヤする人は誰一人いなかった。逆に元気になりました。
 まず生活にリズムをについてきた。あるお母さんが言っていました。「朝起きて、この子と一日何をやろうか」と思っていたのが、「さあ学校行くよ」という母親にも張りがでた。訪問学級は障害のある子どもたちと親が、両方初めて出た社会だったと思います。そこから 出発したんですね。そこで子どもたちはどんどん元気になっていった。それと一人の子ども、障害があるということで、出来ないと言うことを数えるのでなくて、できることを見つけて行こうよ。そしてどんな子どもたちにも可能性があるんだよ、とそのことを本当に考えながら、感じながら関わる先生たち、本当に楽しい楽しい学校生活だったんですね。

9. 卒業を迎えて「進路を選ぶチャンスを下さい」
 でも、学校というのは卒業が来ちゃうんですよね。卒業を目の前にした時、あるお母さんがこうおっしゃったんですよ。「卒業は辛いとか悲しいとかじゃない。恐怖だ」と。「恐怖」という言葉にしんみりしました。ここまでみんなでやってきた力が、それがまた、お母さんお父さん、家族だけの生活に戻っていく。
 特に子どもたちは今から思春期を迎えます。青春時代が待っています。それなのに家でお母さんと二人でいる、それは確かに恐怖だなと思った。そのときに、訪問学級を作った先生の言葉を思い出した。「みんなに力がないのかそれともそこに条件が作られてないからか」そこに体制がないからなのだ。法律をひっくり返しても、重症の人達が通う場がどこにもなかった。私はやっぱりその時、行政に行って「できるできないは本人が決める。決められるチャンスを下さい」と言いました。この人はこういう生き方。この人はこうと誰かが決める。それはおかしいのではないかと思うのです。

10. 自分でする我慢は誇りを持って出来る。
 私と同じ広島県人の杉村春子さんの劇「女の一生」の中の有名なセリフがあります。
「誰が決めたのでもない。自分で選んで歩き出した道ですもの‥‥‥」
 自分で選ぶ、言葉が出ないのでよくわからなくなる時がある。本人にとってどっちが本当にいいんだろう。特にお母さんと意見が右、左にわかれる時がなくはない。そういう時に「本人はどっちなんだろう」と思うことがある。
 そんな時、私のなくてはならない友人(一つ違いの脳性マヒの方なんですけれど)に電話をかける。「どう思う? どっちだと思う?」そうすると彼女は「私だったらこうだな」と言ってくれる。その彼女が「我慢は人にさせられるものではない。自分でするのもだ。自分でする我慢は誇りを持ってできる。だって自分で選んだんだから。だけど人からこうだと決められたことでの我慢は辛い」と言っていました。自分で選んで欲しい、そのためには選べるチャンスをいっぱい作ってあげたい。いっぱいいっぱい作ればいいのですけれど、たった一つ「卒業」ということで家に帰ってしまう。3月31日までは元気で学校に通って行く力があるのに、なんでここから先は卒業しかないの? その当時はまだ作業所も一つ二つ出来ていた頃でしたから、「卒業おめでとう」って、そのおめでとうってどこに行くのか。

11. 教育って何!
 それから教育というのは何なんだ‥‥‥。教育というのは、いつか人間は他人の中で生きてゆく、その他人の中で生きてゆく力をつけてゆく。「その他人の中で生きていく力」をつけるのが教育ではないだろうか。笑顔がでない人が笑顔がでるようになる。これは大きなコミュニケーションですよね。声が出ない人が声が出るようになった。その声もいろんなトーンで出せるようになった。「あ、おこっているな」「今なんだか甘えているな」とか、そういう声が出せるようになった。これも大きなコミュニケーションの力。それを何処でつかむのか。親との関係だけではなくて、他の人との関係の中で使う力をいっぱい作ってきたんじゃないの。卒業したらその場がない、それはおかしいと思いました。
 法律をさっきも言いましたようにひっくり返してもなにもない。
 そこでまた横浜市の職員の人に感謝なんですけどね。「よしこうなったら仕方ない。"精神薄弱者更生施設"を使うか」行政の人から言って下さった言葉なんですよ。「授産施設の方が一名職員が多いけれど、それじゃちょっと制度をごまかしていると思われるから」と。一応ばれたんですけれどね。みんな知的障害も持っているのだから嘘ではない。これはもう手段だったんですね。
 そうすると厚生省の方が「冗談じゃない更生施設は7.5人に1人だ。それでできるわけないだろう」と言ったのに、横浜市は「横浜市ができるだけの人をつける」ということで、書類を県にあげて、県から厚生省にあげて、許可が下りたといういきさつなんです。
 "精神薄弱"という言葉はもう使われなくなります。4月1日から"知的障害"に変わりますけど、その"精神薄弱者更生施設通所"というのは『朋』の何処にも書いていない。社会福祉法人訪問の家『朋』と書いてあるだけ。これはオフレコの話しですが、お金を頂くという点では、どこかの法定施設に入らなければいけない。どこかの種別に入っていかなければならないのですが、それは一つの手段であって、みんなが通ってこれる「場」があればいい。『朋』そこは「どんな人が行っても、いい時間を持てるところだね」という場にしたいなと思いました。だから看板は『朋』としか作らなかったんです。

12. 「これからは、障害の重い人も青春を楽しむ場がいるね」
 今の宮城県知事の浅野(史郎)さんが厚生省の障害福祉課長の時でした。「いったいどんなところだ」って『朋』までいらしゃったのですが、お帰りになる時に、「日浦さん、これからはこういう場所がいるね。障害が重いとか軽いとかそんなことで、こっちの人がこれを体験できて、こっちの人が体験できないというのはおかしい。みんな青春を楽しむ場所がいる。だからいるね」と言って下さった。嬉しかったです。
 で、例の"重症心身障害児通園事業"というのは、浅野さんが障害福祉課長の時に作られたんです。「ささやかだけど予算を取ったよ」とお手紙を頂いて、私はその前に新聞で見て「浅野さん、ありがとう」と手紙を出したのと同時だったと思う、10周年の時に浅野さんがお手紙を下さって「一施設が国の制度を生み出すということはそんなにある事ではない。でも、朋が頑張ってきたということで、全国の重い障害のある人達が通えるところができたという事は素晴らしいことだと思う」というお手紙をいただいて、これは家宝ではなく「朋宝」にしようと思って、のけてあります。
 その浅野さんに、「うちの施設、正式になんて呼べば言い?」と聞くと、彼は頭を抱えて「"重度障害者施設"でいいんじゃない」と言われました。そう、本当にそういう名前とかそんなのいらない。みんな人なんですもの。みんなが思いっきり自分の力を試せる場。青春時代はそうですね。私たちもそうやって青春時代を過ごしたはずです。青春という言葉と挫折という言葉はセットになっているのはそこだと思う。
 私もいろんな夢を持っていました。みなさんもそうだと思います。ひとつずつ自分の力がわかってくる、色々な体験をする中で。そしてもうひとつ言うと自分の大好きなこと見つけたいですね。「これが私には、合っているんだよ」ということを見つけたい。それにはいろいろな体験が必要。そしてその場がなくてはおかしいんです。

13. まわりのひとがどう考えるかに、「障害児(者)の生き方」がかかっている。
 私たちだったら探して何処にでも行ける。でも歩けない人は、動けない人は「じゃあここにいてね」と言うとここから動けない。障害の重い人は、言葉を借りて言えば「一人では生きにくい人たち」なんですね。誰かが、その「生きにくさ」を手伝って、誰かが「出来ないところ」を補う。そういう人が必要です。あるところでは親の人もあなたも誰かに頼らなければなりません。
 私はよく「みんなはどこかで、あなた任せで生きざる得ない。私もあなたもそのあなたの一人です。そのあなたがどう考えるかでその人の生活は違ってしまう。だから私たちが、障害のある人たちをどう考えるか、そこにすべてかかってきてしまう」と職員ともよく話します。

14. いろいろな経験を!
 そうやりながら、日中の活動は『朋』という場所でまず確保しました。
 結構みんないろな事をします。チューブをつけていてもプールに行きます。夜のライブハウスにも行きます。ミキサー食しか食べられない人は、フードカッターを持って桜木町にも行く。ディスコ、マハラジャにも行った。
 その時の職員の格好は笑っちゃいましたけどね。一年に一回、夏に合宿するんです。それは夜を楽しもうというプログラムを組む。職員の一人が「ディスコへ行かせてくれ」と言ってきた。「誰と誰が行くの?」「職員は?」と聞いて許可を出しました。さあ、行くときになってアロハシャツにネックレス、社会福祉法人訪問の家のバスで行ってきた。
 「インドネシア料理を食べに行きたい」という人もいて、そこは踊り子さんがいて、ジャワの踊りと食べるのがセットになっていて、うっとり見て食べてきたそうです。
 「これはこの人に合わないとか」、「だめ」とかいうのはない。朋の職員はみんな若い。採用したときはみんな20代。若い人達の気持ちというのは、私には100%わからない。どうしても親の気持ちになってしまう。「若い者同士やってごらん」と思った。
 「アリーナの桑田圭祐を見に行こう」いつもそんな音楽を聴いていたら「だれかいこうよ」と誘っていく。それだって普通の青年たちの経験の何万分の1である。でもそういう場はなんとか出来ました。

15. お父さんが倒れた!
 で、ある日、お父さんの一人がくも膜下出血で倒れました。さあ大変だ緊急一時保護です。施設に入りました。重症の方です。ですから入った施設が"重症心身障害児施設"です。私は彼女に会いに行きました。彼女はとても存在感がある人で、イエスの時は手をこう握ってくれるんですね。「外に行きたい?」と聞くと手をギュと握るんですね。そういう意志を伝える人なんですけれど。その彼女が施設のどこにいるんだろうか、わからない。「さっちゃん、さっちゃん」と呼ぶと、部屋のすみの方で、一生懸命こっちを見ている幸ちゃんがいて、「さっちゃん」と言いながらそばへいくと、私の手をギュッと握って離さないんですよね。
 彼女はそれまで、『朋』の出店みたいなパンを焼いているところや、缶を集めているグループがあるんですけれども、ふたつの作業所をつくったんですけれど、そこでパンを焼いていたのです。「パン焼きたいの?」と聞くと手をギュッとにぎる。「帰りたいの?」と聞くとまた手をギュッと握り返してくる。
 職員の人達と「私たちって、かっこのいいこと言っていたけど、みんなの地域生活って、全部親の人達におんぶしていたんだよね。あっちへ行った、こっちへ行った、楽しいね、と言っていたけれど、それって親の人達が元気で支えていてくれていたからなんだよね。もし、親の人達の健康がうまくいかなくなってしまったら、そうなったらみんなの生活どうなっちゃうの? 朋どうなっちゃうの? これないんだよね。さあどうしよう。みんなで家を作ろうよ。そして、もしお母さんやお父さんに何かあっても、今のみんなの楽しい生活が続けられるようにしようよ」

16. グループホームをつくろう。
 それで、グループホームをやろうということになりました。
 やろうといっても、今の制度でも、知的障害の人で軽い障害の人たちが世話人さんと暮らしているという制度ですよね。ところが、朋の人たちは全介助です。全部抱えて食事、着替え、トイレなどすべてを一緒にやらなければならない人たちのグループホームなんてないんです。
 まずみんなにグループホームというのがどんなものか、グループホームというのがわからない。だから「こんな暮らし方もあるんだよ」というところからやっていかないと、家からポーンと「こうやって暮らしましょう」といったって、みんなストレスでおかしくなってしまう。だからまずは、こういう暮らし方もあるんだよ、というところから一人ずつグループホームへ遊びにつれていった。そういうところから始めたんですね。
 職員もいっぱい勉強しました。お金も絶対かかる。でもやらなきゃ、前に進まなきゃ、親の人たちが具合が悪くならないかビクビクして待っていなければならない。一方では、親の人たちのストレスを少しでも軽くして、少しでも長く家族と暮らしていける、ということも考えなきゃいけない。

17. まず、親同士でレスパイトケアを
 レスパイトというのをご存じですよね。親の人たちが休養できるレスパイトケアというのもやろうよ。これは国でレスパイトケアという言葉を出す随分前から『朋』では始めています。
 一軒の家を借りて、最初は親の人たちがお互いに助け合うところからやろうということで、たまたま外国へ3年間行くという人がいて、その間お家を空けて行くので「『朋』に何かお手伝いしたいので、3年間この家を自由に使って下さい」とおっしゃってくれて、家賃はもちろん払うのですが、自由に使って下さいというので、そこはもういいチャンスだと思って、親の方たちが借りました。
 最初のレスパイトケアの家になりました。今は4軒目になります。2年間、親の方たちだけでやっていました。その後、親の方たちだけに負担させるのはおかしいのではないか。私たちが考えて、やらなければならないことではないか、ということで、職員が参加して泊まって、みんなをみることにしました。お父さんお母さんは、自分の時間を使って下さい。おじいちゃんおばあちゃんの具合が悪くなってきて、そういう年代に入ってきているのです。最近はしょっちゅうそういうことがおこってきて、今はレスパイトケアは2泊まで大丈夫なんですけれどもね。今はフル回転です。定期的に今はそこを使っています。いつも毎週月・火で二人ずつ泊まっています。金・土でまた泊まります。それは家族の人たちの機能が壊れないための援助ですね。それが一つ。

18. グループホーム『きゃんばす』
 それから本人がお家を出て自分で暮らしてみたいと表現する人もいます。そういう人たちのグループホームを作ろう、ということで作ったのが『きゃんばす』といいます。
 グループホームとしてきちっと動き出すまでには4年かかりました。まず最初、どういうものかわからない。体験で泊まって、毎日にもっていくのに、2年間位は週3日泊まったりしてようやくでした。

19. 親亡き後ではなく、親あるうちに。
 今日ひとつ言いたいのは、よく皆さんは「親なきあと」とおっしゃるんですが、親あるうちに「この子がこうやって生きていく」という生き方を一緒につくって欲しいと思うんですよね。
 『きゃんばす』も親の方が元気だったから出来たんだと思います。土・日は家に帰ってもらっていたんです。すごく疲れるんですよ。他人の中での24時間、どんなに慣れた職員とでも疲れるんですよ。土・日帰るとグーグーほんとによく寝たそうです。最初、一番大事なのは職員と親の信頼なんですよね。親の方たちというのは、ここにたくさんいらっしゃるので言いにくいのですけれど、でも朋のお母さんと、いつもそのことを話しています。親の方たちは「私じゃなきゃこの子はだめだ」と思ってしまう。特にしゃべれない人には「私だから判るのよ。だからここはこうしてもらえないだろう。これも無理だろう」とどうしても思ってしまう。それで「やっぱり無理よね。私がいなければ」とこうなってしまうんですよね。そうじゃなくって委ねられる人を作っていかなければならないんです。

20. やっぱり私でなきゃ。
 最初はグループホームに親の人たちがどういうところにいろいろ文句をいったか、というのは大変面白いんですけれど、「私だったら白い服に紺のズボン。赤のセーターならグレーのスカート。けれど職員のは赤のセーターにグリーンのズボンをはかせた」。それから、「丁寧に洗っていた高級なカーディガンなのに『きゃんばす』に持たせたら、一日でこんなにちぢめちゃって。もうこれだから困るのよ」といういろんなことがでてくる。私はその時に言うんです。「本人の顔を見ようよ。これは姑の考え方だよ。本人がニコニコしてればそれで良いんだよ。あとは自分と職員を比べてどうとかしなくていいんだよ」と言うとそのお母さんは「ハイハイ」と聞いて、あとは「寂しいんだもん」と言ったんですよね。そりゃあ別れは寂しい。親は寂しいものです。それは障害があるとかないとか関係ない。「行って来い」と送り出すのが親であって、「寂しいだもんと言って、こうやって抱いていてどうするの」と聞くと「どうしよう」と言う。「一番不安なのよね、私が倒れたら」と。そう言う人ほど言うんですよね。

21. こんないい60代を迎えられたなんて。
 違うんですよね。委ねられる人を育てなければならない。作らなきゃいけない。これでよしという、子どもの先を見届けなければならない。今、そのお母さん「こんないい60代、こんなに幸せでいいのかなあ」と言ってくれた。みんなたくましいです。

22. お医者さんの協力‥‥ドクターが体を守る。
 ストレスというのは体に現れるんですね。一人の人は尿が止まるということが起こりました。一人の人はさかんに失禁をしてしまう。いろんな事が言葉には出せない人は体に表れてくるんですよね。それくらい、本人たちも親を離れて生きてゆくということは大変な事なんですよ。それで私は診療所を作りました。
 青春時代というのはある意味では大変難しい年なんですよね。それから障害の重い人たちは軽くは(障害が)軽くはなってきません。だんだん厳しい状態になってゆく。その時にわたしたちが思いだけでかかわったら、命を粗末にする。ドクターが「これ以上やるとこの人には苦痛だよ」「ここはここで止めていこう」ときちっと言ってくれる人をサポーターとして欲しい。
 その時にお医者さんに言いました。医療がイニシアティブを取るのではなく、その人の健康を管理し、どうやったら出来るかということを共に考えるパートナーとしていて欲しい。お医者さんはそういう体質を持っていない。病院の中では一番トップで、指示を出す立場です。ですからどうしてもお医者さんは「こうやりなさい」と言い、計画がでてきたときは「それは無理です。だめですよ」と言いがちなんです。

23. 指導員はみんなの生活を守る。
 「お医者さんに言われたからこの計画やめます」と言ったら私は怒りました。「それでいいの?」「それでいいの? そんな簡単な計画だったにの? それで納得するの? 何で計画をしたいと思ったのか。じゃ、どうやったらこの計画が出来るのか、もう一度先生に聞いてくる。それくらいしつこくしないと。先生がだめですと言ったら全部計画をひっこめるというのはおかしいよ。あなた達は何を守るのか。お医者さんは健康を守る、私たちはみんなの生活の質を守る。この二人三脚をやっていかなければならない。その時にそれをちゃんと伝えられる人間にならなければならない」そういう形でお医者さんとのやりとりは何度も何度もありました。

24. 障害の重い人の地域生活を守るために
 今、私は本当に、私自身も幸せだと思うのは、どうやったらみんなの生活が豊かになれるか。医療職はそこにどう関わればよいか、本当に真剣に『朋 診療所』所長を引き受けて下さったドクターが考えてくれる。そういうパートナーを得ることができたということです。グループホームはいまだにトラブルが起きます。その時は必ずナース、ドクターが連絡を取って、場合によってはナースがすぐグループホームへ行くという、そういう流れを今作っています。そういう医療と、私たちの生活の質を守るということ、それが組んでいないと重い障害を持つ人の地域生活は難しいんですね。

25. 本当に一生懸命、自己実現できた生涯のために、みんなが力を合わせて・・・・・
 で、そのお医者さんが何に心を動かされるかというと、やっぱり家族の言葉だそうです。
 家族の方が「この子の一生できる限り、障害が重い、軽いではなく、できる限りこの子が命をまっとうし、充実して自己表現できた生涯をどうやっておくれるかということを、本当に一生懸命心を砕いているお母さんお父さん、その力になりたい!」と思うと先生はおっしゃっていました。
 グループホームのみんなもたくましくなりました。首がすわっていない小学1年の時の彼が、グループホームで生活できるようになるなんて思ってもみませんでした。今、彼は言葉がでません。今でも首はすわっていません。イエス、ノーは足で表すその彼が、一生懸命貯めたお金で背広とチケットを買って、舟木一夫のディナーショーへ行ってきました。
 沖縄に行きたいという彼女は2泊3日で行ってきた。言葉はあまりうまくでないけれど、今でも沖縄へ行ったということは彼女にとって大きな宝です。
 それからもう一人は、ランドマークタワーのホテルで夜景を見ながらワインを飲む。世界地図を見るのが好きでオリンピックが好きな彼は長野オリンピックへ行きました。
 グループホームを最初に作ったときは不安だったのに、6年目に入って大きな可能性を見せてくれました。一人は体調がすぐれなってきました。いつかグループホームで無理だなというときがくると思いますが、その何年間か、そういう体験をしたということは、彼女にとって病院に入っていっても、大きな財産として持っていってくれると思います。


*作成:
UP: 20091107
全文掲載  ◇障害児と学校  ◇難病/神経難病/特定疾患
TOP HOME (http://www.arsvi.com)