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石川左門氏インタビュー

2009/07/19

石川左門:http://www.arsvi.com/w/is11.htm

■■石川左門氏インタビュー その1

A:
B:大谷
C:
D:
E:

 現代の老人80超えているのですけれども、福祉から足が抜けられなくて、現在もNPO法人愛燐舎という福祉団体、そこで仕事をしていまして、実体験からいいますけど、もう20年近くやっています。その隣の向こうに建物があるのですけど、これは社会福祉法人創隣会(http://www.sourinkai.com/)というのですけれど、どうも地域の人間がやっているうちに市民運動という社会運動という疾病運動という立場で大きく飛んでいくような変化はできないだろう。これから政策提言ができる市民でも企業でも考えています。そのうちに民間の純粋な市民運動の立場からではなくて、やはり公的個人サービスの充実させたそれぞれの立場で、どのような問題意識を抱え、どんな問題で苦労なさっているのかということを知りたい。そのことで市民自身が、市民のことが仕事によってお互いに連携できているのだろうと。社会福祉法人を立ち上げたのです。そこで、向こうの公的サービスをなさる方々の立場もあるだろうし、そのチャンスにも担っていると思うのだが、親日の問題もあるという受けとめをしながら、政策提案をやっていきたいということで、隣の社会福祉法人のかつての経験です。そんなことが大雑把な疾病運動から難病運動という連合運動へ、それいから今度は地域の圧力運動へというような、いわゆる三段階の運動の経験者です。
 そんな感じのいろんな方々の話の中にあったのですけど、例えば最初の2枚(→◆)は地域運動への勧誘が始まった当時のいろいろと取材に降りたところのあれからコピーを作ったということであります。
 その次は、私が会長だった全国難病団体全体協議会の大会の宣言をしたと思う。本当の私はたまたまその宣言を作ったので、その資料をコピーしてみました(→◆)。それから、それと同時にさっそく更新中の目当ては老人病ですけれども、それがどのような謳い文句で運動したかということの問題提起といいますか、状況内容ということで分かりやすい表現など難病患者家族の悩みということで、そのようなことだったか分かりやすくやるという意味で、閉め出された閉め出される難病患者とか、金の切れ目が命の切れ目だとか、長い殺人のような療養延命とか、逆にできない定期通院、間に合わない救急医療、共倒れ寸前の難病家庭、見通しが立たず保護者亡き後の、それから難病患者までには及ばない保健制度、昔の話になりますので、古くなっていますから、これを謳い文句に運動を始めたということが難病患者、その後は公的サービスができながら、今まで私自身の知っている疾病運動・難病運動は、当事者の運動ですけれども、当事者の運動をやればやるほどですね。例えば自分の抱えている疾病とか障害とかその他の問題の立場からで、その立場の看板を掲げた運動や虚像物を着語る市民はお気の毒だが、なっていてかわしているのですね。お気の毒になったかわし方△でも、あなたがたの問題を生み出した背景を考えたら、これは仕事になって私たち自身の問題でもある。市民的な課題である国民的な取り組んでいく県△の働きということにはなっていかない。いうことから私自身の子供生まれてからケアをやっているのです。
 末期の難病のケアであっても、その例えば治療とかそんなものは特性においた回復をさせる場合には、疾病で緩和ケアをするわけだけれども、介護という問題は全然進展しないという立場から問題がある。全部共通の問題だ。例えば、末期にあたると、どんな立場にあろうと、最期は呼吸不全、死ぬ寸前ということの状態になった。その状態に対する介護の仕方というのは、年々しっかりしてもらえる。法律関係ないですね。そういった意味では、こういうことを自分の子どもの介護からは少なくとも、ですから、そういった意味でそれにこだわらない。むしろ家族の中で看病を書いた人たちとどのような共同生活をする。どんなふうな思いをお互い持ちあっているのかな。本当の意味みたいなそのようなことをヘルパーさんの養成の講座の中でその辺のご家庭の中で、共同生活する方々とは思えないという話を聞いて、頼まれるものですから、そういうことを中心として当事者の方々はどんな思いを持って、自分に様々な自分はなぜ生まれてきたのだろう。自分の人生はどんな生まれてきたって意味があったのでも、厳しい人生の経験の問題に悩んでいるということが、在宅の人たちに、大きな問題。それに対して数がどうで、どのような心のケアをしたらいいのだろうか。そういった意味では、私が教育の場所でもってお話を頼まれる。補助資料として、少しコピーしたのが中に入っています(→◆)。それからそれと同時に市からの疾病運動から始まって難病という難病連合運動へ、難病という連合運動から地域の重い末期患者の運動をやったり、というような感じの運動を展開しています。
 そういったことで少し初めて聞かれる皆様に何か私の経歴みたいなものが書けたらいいかなと思って、私の経歴書(→◆)が入っていますので、資料を見ながら、どのような私が運動をやってきたかということが分かりやすく、御返答できるのではないかと思って、入れておきました。最後にはこの活動について7月号(→◆)ができたばっかりなので、それを参考までに入れさせておくことが、私から今日用意をさせて頂いた資料の概略です。あとは皆さんでそれをどこかの頭の片隅に入れて、参考にしながら皆さんの質問なさりたいこと、丁寧に付け加えていただけたらけっこうかと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 それから教育でいいかどうか△連絡があるかどうか分かりませんでしたが、どうぞご自由に構いませんから、質問をしていただきたいと思います。私たちの方もどんなふうな質問をされるのかというのを同じようにされたいと思いますので、よろしくお願い致します。

どうぞ。どなたか質問の内容から聞くなり、していただければ。

質問1 筋ジスのところから見ているので、一番もし本当にばらばらに言っても、皆さんの意見でも地域という言葉自身がすごく怖くなっています。なぜかと言うと、これだけどういう、どのくらいの広さを示すのか、どういう要素があるのかということが、全く共通認識が得ていないのに使われている言葉を全く共通認識が得てないで使われている言葉はないと思っていて、非常に怖くて、いつもこのあいだも看護の大会に行ったのですよね。そしたら地域看護とかいう題目で、小児看護の人・難病看護の人・ガン看護の人みんな会うのだけれども、みなさんいいこと言われるのですけれども、僕が手をあげて、「すいません。地域といわれるのですけれども、おそらく小児看護とガン看護は違うんじゃないですか。地域の広さもという嘘もそれはゴチャゴチャにしゃべることに何の意味があるのですか」と言って、ひんしゅくを買わなかったのだけれども、「そうですね」と言われた。
 だから僕自身はもし地域という言葉が生きていくならば、何かお祭りをやるような単位というような広さを、もし定義をするなら、という理解をしているのですけど、どうですかね。お祭りで言うと、小学校で言うと2つ・3つ、中学校であると1個かちょっとぐらいですかね。そこに例えれば、コミュニティーみたいなものができて、ケアするところがあって、デイケアがあったりというような組織広さの単位で言えば、お祭りをするようなところという考え方を少しやってきたというほうがいいと思うのですけど、どうでしょうか。


回答1(石川) ◆私が一番最初に筋ジスの運動に加わったのは、昭和39年。その時に全国組織と都道府県組織ができて、私が東京の代表であると同時に、全国組織の役員をした。その中で、一番最初に取り上げた運動報告というのが、よその存亡を別途拠出△するような疾病団体と同じようなものですけれども、だいたいまず難病の場合だったら、治療がおっかないのだから原因の究明をしてくれ、研究を促進してくれというような回答、その時は公的サービス制度が難病にまで及ばなかったものですから、やはり医療費の負担軽減ということの問題があったわけです。
 医療費といっても、医療保険制度の対象となる医療費みたいな、本当に医療費になるために△ごく一部で持って、我々の生活者としての立場を考えたときに、医療保険で賄う医療費以外の医療費がもっと多い。例えば、定期通院をしなければならないとなると、東京の場合ではタクシーが利用できない。車いすを持ってきて、子どもを乗っけて、タクシーで手を出しても誰も止まってくれない。そうすると、否応なしに手付金を究極的に確保しておくためには、どうしてもやはりタクシー会社に頼んで、ハイヤーを持って、いきなり会社だと介護型タクシーを呼んじゃうものだから、タクシーの最後の頼みである。今度はうちを留守にできないから留守番を頼むことはできない。医療機器以外にも国民機会の医療費が早くから動き、たまたま入院をすれば、昔のことですから、医療、病院の医療費があったときも、あの頃はいわゆる付添者何かにお願いをして、医療費自体の看護不足を補うというようなことをもって、その入院の医療費の問題で付添料の差額が必要になる。そういった負担がかかってくる。医療費の軽減をということに徹すかなと思います。それを医療保険で賄う範囲のことだけではなく、もっともっと生活に役立つような医療費の軽減、というようなことも思い当たる。
 それから末期になると、非常に在宅の介護負担の深刻化がそういう意味で、やはりそういったことの家族の家計との介護には限界がある場合には、どうしても専門的な環境を整えたところの短い命だとか、難病の筋ジスの患者さんであっても、とにかく末期をも風通しが働いてくれるような専門的な施設を建ててくれとか、というようなことがだいたいあの当時の疾病運動の始まりのどこでも掲げるような項目だったのですね。
 その時に、ちょうどそれは厚生省のクリミア運動をやった時にですね。最初は、4・5年は同じことを訴えてもですね、こっちからこっちになっているのですね。5・6年くらいになると、そろそろ真剣に聞いてもらおうかと、具体的にどのような要求を考えていらっしゃるのか。はじめておにぎりを買ってきてくれて、その担当の今度はとても難病だったら、特殊疾病、それから今度難病患者ですね。行政にその正式な話を聞く受け皿の窓口を作ることができた。少し動き出している。
 それからしばらくたってから、今度は使用後の派遣とか医療の専門の問題とか、ならばそのためのどんなふうな医療を考えたらいいか、専門医療にはそれを研究するところの専門委員の大会があると、厚生省の大臣に少し考えることも、そういうことの仕方だったのですね。ところが、気にする場合にはですね、末期の段階の家庭の介護負担だったら、とにかく子どもがどこか一分でも一秒でも延命効果を期待することが親の思いである。今度は掛け替えだけでなく、子どもはとても預けないということから何としてでも子どもは安心して、教育を受けられるような専門施設を建てるときに、施設作りの問題だけは、厚生省はその地域に横並びに強化する。それは厚生省OBの発想がありまして、どういうことかと言いますと、厚生省への請求ぶりを不安△だと分かったのですね。その予算を国立病用の空きベッドに付けた。すると、専門施設と書いてあったら、筋ジスの田村さんも移設する。やらなくて、既存の国立の病養所の空きベッドを利用して、筋ジスの専門施設を作るという発想だったのですね。その裏を考え回していると、分からない。
 ▼あの頃、結核病棟が、結核患者が抗生物質の開発によって、もう短期で社会復帰ができるようになった。そうすると、今まではいったん入った際のズーと一生末梢国立病養所の名に結核病院のお世話になると、どんどん退院患者が増えてきた。そうすると空きベッドができた。その空きベッドをどう埋めるかということになると、とんだ筋ジスの施設づくりを生んだものだから、待っていましたとばかりに、一年という、とても普段の普通の運動じゃ考えられないような短期でもって対応をしてくれたということになる。そこで、ワーと我々が小泉首相も血の通った行政官がいるものだと思ったのですね。喜びをもって子供もいつからでもいい、延命効果がでるようなということをもって、どんと入れた。
 入れてみたところがですね、入れた後どんな生活をしているのかと思うと、親御さんたちが顔を出してですね。そして、どんな様子というところで、どんな小さな小さな声でもって、看護師さんやお医者さんに聞こえないような声で気を遣いながら、「お父ちゃん一緒に帰って。お母ちゃんおうちに帰りたい。」みたいな、そこから初めて子どもの幸せって何。一分でも一秒でも子どもの延命を期待することだけが幸せなのか。本当に子どもは短くてもいいんだし、生まれてきてよかったと思えるようなそういう生活の分で、そんなんだったりこんなんだったりとっても最大な願いというのは、出来れば家族一員として最後まで生きて終わりたい。それが子どもの本音だということが分かったわけです。▲
 ▼そこで、東京だけがですね、あの頃は9割がたいていのことが分からなかったわけだけれども、子どもが生まれてきてよかったということの生活基礎を実現するためには、何でもかんでもとにかく延命効果を期待するだけのその施設の生活・施設づくりであっていいのだろうか。むしろ子どものいない丘のような、できれば条件が整えれば、最後の最後まで子どもが家庭の一員として送れるようなそういう運動こそが本来の子供の幸せを考える運動じゃないかということがあってですね。東京の場合には、国がお子さんを引き取るようなことだけの運動はしなかったですね。
 そうしたところがですね、大問題になってしまう、全国組織の中で。というのはですね、設備と医者がついた。すると、その翌年は出来た予算の額をいかに増やすかということが、第二の運動の目標となると思う。ところが東京のアピールが少し一社にかかっているわけですから、出来た子どもを引き取って、とりあえず頑張るところまで頑張ろうということで、末期の難病を気にする子どもでも、とにかく人間らしい生活をできるようなそういう生活の保障を地域の中で考えることも、一つの大きな大きな親としてのなすべき課題じゃないだろうか。▲
 そうすると私たちは地域のことを考えるときは、大体在宅を中心として、在宅の介護が最後の最後まで全うできるような手続きとは何だろうかいうことが、私たちにとっての親の気持ちだったのですね。それも私たちにとっては、だから地域というと、区市町村なんです。末端の末端の、都道府県というような広域の地域ということではなくて、本当に家庭の日常生活を送るその場を地域と呼んでいます。だからもっと言うと、隣にいるようなでもって、ちょっと手を貸してとかね。お金がなくなっちゃったからちょっと借りに行く間がなくて、お客さんのあれに間に合わないからちょっと貸してという昔の隣組的なそういう範囲を地域と呼んでいます。
 その地域を実践するための運動は何かということが、私が疾病運動から連合運動へ、連合運動から今度は地域運動へと転換をしたという理由で、私たちにとっての地域というのは本当に隣一辺倒での隣人同士の付き合いができる範囲のツーと言えばカーというようなそういう人間関係を維持すると、可能な範囲での距離、それが私たちの言う地域なんです。それが私どもの地域という考え方なんです。
 そのような区市町村の条件を生み出すようなためには、都道府県のような広域の地域の介入するようなところには何でもかんでも耳障りなものを運動というと、国とか都道府県に言ったので、そうじゃなくて、まず地域の中で私たちの在宅の介護を可能にするようなところが、どこまでを対応してくれるのか。たぶん知れないとするならば、知れないことの条件を考えたって、それは都道府県に持っていって、それを都道府県としては末端の地域の中でどのような問題でも解決すると、何をしようとしているのかということをまず住民の人たちが入居に正確な実感された問題意識を持っている。都道府県の連合を。都道府県でも同じような問題があって、すなわちどう初めてお国に持っていこうということが本当の運動じゃないのではないか。だからまず地域の生活を中心にしたところで、それで足ないところは何を都道府県に要求するのかと考えてもらう。どういうふうに利用するのかということの下から上、何からが疾病運動にしろ、いろんな運動というのはすぐ数値を作ると、お国レベルの運動は違うですね。だから一生生活に密着して、サービスが可能になるようなそういう運動をするために、まず自分たちの日常生活の場から市区町村に何をどうするか。それから都道府県に何をどうするか。それからコミュニティーというのが、うまく昔みたいな上から下へというような運動じゃなく、ボタン的に下から上へというようなそういう発想で、もう一度自分に対する福祉運動を含めた全ての運動を見直すべきではないかということが、私が大きな転換をした理由です。
 ですから、いろんな学会で言うのですけれども、あなたの考えていらっしゃる経験発表が、都道府県に向けてのテーマであって、もっと私たちの日常生活の介護の問題も共有したときに、今はどうなっているのですか。今は一生懸命難病問題で地域に生きたいと思っても、医療施設の改革は逆に保健所をつぶすような運動をやっている。だとすれば、あなたがたはそういうふうな方向に対して、ノーというようなことを言わなかったのか。それを私たちは学会で発表を聞きたかったということを、私自身が真の立場から方々の学会に顔を出しているものだから、普通の団体の親父とは違うので、生活者の立場から専門職の担っている問題をどう考えるかということを、逆に聞かしてもらおうじゃないかということが学会にもなく、東京外科歯科の資料研でもやってみたり、慶応大学の看護学部からも発売されています。保健婦さんの現場の集会に私たち親の立場からこの村についてどんな介護があるかというテーマを話すというのをお願いするようになったので、何かよその患者会とはちょっと違ったりするのかなあというふうに、私自身は思っています。
 ◆ですから、地域ということはあくまでも自分たちの家庭の中では患者の中での一緒に共同生活できるようなそういう地域の保健医療基準のあり方、その勉強をどうするのか、医師会にどのようなアプローチをするのか、医師会と病院医療との連携をどうするのか、そんなことが地域という感覚の中からそのことに取り組んでもらわなきゃ意味がないというのが、私自身の感覚論です。よその運動とは違うというのですけれども、それが非常に大きなものでありますから、難病みたいな、私自身難病運動の会長に祭り上げられて、その次に総評という大きな労働組合がありまして、労働組合があって、そしてあの時第一次オイルショックが昭和46年ありました。オイルショックによって主婦たちがトイレットペーパーを行列して買うという大介護△、オイルショックの時代あった。
 その時に国民春闘、つまりその大きな生活の危機のしわ寄せで一番弱くなる弱者がいる。あの時、労働組合の人たちが「じゃ、自分たちは弱者」というように思ったのですね。労働の組合の立場は。だから、国民春闘というのをやって、生活不安のために国民運動を展開しなければならない。中でもどうも労働組合だけじゃ、迫力がでない。それから、うちも弱者と思われているところの難病の団体に呼びかけて、一緒に国民春闘を共闘しようと思って、話だったのですけれども、私はこのときに社会党の生活局長、今社民党、昔は社会党といったのですが、その生活局の局長から電話があって、是非乗っかってくれないか。
 私たちは労働運動のイメージアップのために、私たちは福祉運動に利用されるのはどうも納得できないと言ったのだけれども、私の場合はよその団体の場合には患者さんとか、本人が書誌を作っている。本人が運動を展開する。ところが、筋ジスの場合には子どもが運動の中心になっているのですから、親が運動の中心をやっている。だから私はそれまではこれも順応する深刻な難病になる。仕方がなくなるまでは、商売やっていたのですよ。中小企業でありますけれども、運送会社の経営をやっていて、それをたまたま自分の子供の原因でもって福祉運動に変わってしまう。ですから、何か問題があると、待てよというふうな考え方をする癖がついているのですね。不況になった。この不況で散々問題が起きた。起きた問題について取り組む前に「待てよ」と投げるんじゃなくて、それは別なチャンスになるんじゃないかというようなそういう訓練を受けていたものですから、ほとんど簡単だけれども、「待てよ。」これをいい機会にならないかなと思ったときですね。今まで厚生省は何回言っても、こっちがこれを国民春闘に乗っかっちゃって、それでアピールしたらアピールするチャンスにしたらいいんじゃないかなと思って、一緒にやりましょうということになったので。
 ちょっともう一つはですね、厚生省の厚生行政の原案というのはですね、厚生省が考えたんじゃないんですよ。社会保障制度審議会というのがあるのです。これは厚生省の場合にはちゃんとしたそのような部門があって、あの当時はですね、東大の闘争があって、学生運動をもって追い返された大河内一男という人がですね、その社会保障制度審議会の会長をやっていたのです。そこで厚生行政の原案を作ったのです。だから厚生省の原案そのものに私たちの保健医療に対する切実な要望を持っている。難病患者の当事者がその社会保障制度審議会の中に取り込みたかった。あの当時は社会保障制度審議会の審議の構成メンバーのある行政の立場、それから政治家の立場、それから学者の立場、それから労働組合その四者構成であるため、差別を受ける本人の立場も入っていなかった。だからそれに私は食い込むという発想を持っている。それで、その国民春闘に乗っかって、その要求をして、強引に入っていこうと思ったわけです。そういう野心があったものですからね、乗っかってOKしたのです。
 それで、国民春闘に乗っかったのです。乗っかった時に、いろんな福祉団体には、様々な団体大から小なりいっぱいあるのです。一番できたばっかりで弱い団体というのは、普段は厚生省の丸の内の主任クラスが、話を聞いてくれるのですよ。よく分かりましたと言うんだけれども、こっちからこっちなんですね。もうちょっと力の強い団体は年度末の予算編成のチームだったり、課長が出てくるのです。課長が出てきて、じゃ今年度は皆さん要求事項をちょっと進めておきましょうかと言って、課長が出てくるのです。そうすると、今度は課長でももう何年も何年も特に理解している。その次のもうちょっと力の強い組織力のある会の人数の多いところは、部長折衝ができるのですね。まずおびえ上がる。しかし、部長折衝でもあっちからこっちの代表になる。
 ただ、数が多いというだけで、少しも無視できない。リウマチ、編結性リウマチも深刻なんだけど、数が多いということでもって、数が多いのだけれども、もう大した問題ではない。しかもなお議員さんにとってもこれだということに興味がない場合はですね、部長でもなかなか聞いてくれない。もっと強い団体がある。局長を出している。局長折衝をやっている。もっと強い場合には、傷痍軍人の会だとか、遺族の会だとかね、これが第2次折衝、大臣を呼びつけて、お国のために命を惜しむというような人がいた。その団体を無視するなということなんだけれども、大臣折衝、私ができたばかりの難病患者は、いつも出てくるのは課長折衝の前なんですよ。
 だから私は今年春闘を利用して、部長折衝と号して、局長を呼びやがって、局長折衝をする実現のために乗っかったのですよ。ところがある日、社会党の生活局長が「石川さん。この間石川さんが言っていた折衝のね。やったところのね。業者からね、お礼が出てくるよ」と言うのですよ。そうですか。しめしめと思って、やっぱりうまくいったかなと思ってね、じゃ答えるのやったら、政府進路の中に食い込めるかと言って、じゃどなたでするのですか。局長を通り越して、大臣が出てきたのです。国民春闘に乗っかってよかったと思うのです。
 あの頃は報道関係が難病という言葉を活用すればですね、記事になった時代だったのです。そういう時代があったのです。それまではそれ以前に疾病、リウマチとか近視とかね、筋ジス症とかそういうような疾病別の団体が小さな小さな一握りの数でもって運動したのです。難病という大きな組織になると、もう行政は報道関係を無視できないということになって、国民春闘はしかもどうなっているのだ。もう大々的なスターですね。やはり大臣が出てきた以上はですね。これは簡単な質問じゃすまされない。しっかりと難病の根本的な解決を救うようなそういうお土産をしょってもらわなければならないということを考えたときに、せっかくの大臣折衝だから、じゃ我々は何を要求すべきかということなんですが、全国の参加の難病団体の代表者を全部会ってくれない。それで、あれでまた難病問題はどうだと考えてみようという。そういうことを発展させたのです。
 いろんな問題がある。だいたいどこの問題も同じなんですね。私は思ったのです。例えば、鍵付きで3時間待ち3分診療でね。3時間待つ体力があったら、難病患者じゃない。そうですよ。だから3時間待ちの3分診療ということは、深刻な難病問題になるわけですよね。そのような問題も出てくるわけです。
 それから、短期の退院慣行、難病患者であれだから、じっくりと面倒を見てくれて、退院するときには、しばらくの間これでもって健全な適正な在宅サービスできるようなことが、懇切丁寧な時間をかけた人間を看てくれ。ただし、入院したれ。入院してパッパッパと検査したらすぐ出てくれ、あとがつかえていますよとか、あれも難病患者の疎外というところから考えたらね。あれも無視できない問題である。
 それから継続診療ができない。もっともっと身近なところに専門医療の窓口が欲しいのに、もう地元のお医者さんに頼もうと思っても、地元のお医者さんは専門医じゃないからと言って、主治医になってくれない。主治医になってもらわないと、保険婦さんが面倒見ようと思っても、保健婦さんは電気のないところに保健婦さんが出てきたら、主治医があって初めて看護師の力量が発揮できるのは。それが弟子がいなければ、もう看護婦さんも保健婦さんも儲けようがない。しかも地域の保健医療機関の連携でもって言ったって、何も立たない、私にとってもう考えたくない。すると今度は病院医療とはもっと地域医療が連動してくれる。そして、専門医療と地域の医療とが連動してくれたら、ということが開業医の熱心な人だったら、主治医になってくれるだろう。主治医になったら、初めて今度は看護婦さんの世話になるんだ。というようなことが、そのようなことを病院医療とか地域医療とか問題がいっぱい出てきたのです。
 これを我々は難病問題だということを、みなさんがそれぞれこれこそ資本と我々が、眺めていた問題だと思って、私が聞いたところによると、難病問題になると同時に難病問題を越えた問題だと思うようになった。これは難病問題の疾病の刺激性をPRする、アピールする。私たちはこんなに悩み苦しんでいるのだということを、そういうことを言えば言うほど、長く行政は理解してくれて、政策を進めてくれるだろう。これは難病問題であると同時に、難病問題もこういう問題だという。
 例えば、医療保健制度に問題がある。つまり、現物給付できたら来ないという。医療経営というのは、病院の所得というのは、何かというと、来た患者さんがたくさん薬を取って、たくさん薬を飲んで、それで入院したらたくさん検査を受けてくれて、検査が終わったら、さっさと帰ってくれて、病院のベッドの回転数を高めている。そういう患者さんは良い患者さん。ところが、難病の患者さんというのは、治療もいらないから、検査がいっぱい増えてくれるのだけれでも、長年病院のベッドを占拠してしまうと、病院の経営を考えたら、ベッドを占拠する患者さんは良い患者さん、お得意さんとは言えない。が、一回死んだ後にもうあと注文がないからろくに薬を飲んでくれない。ところが、やっぱり機械上の必ずたくさんお薬を抱え込むように飲んでくれて、薬代を払ってくれる患者さん。これは病院の経営になる良い患者さん。その場合には患者さんと難病患者さんは注文がないから、お薬をたくさん持っていってくれない。すると、これは日本の場合には医療保険証を持ってくれる。
 保険証を持ってくれるのは、自分との改良△に関わろうと、一流の大学病院の先生に面倒見てもらおうと、払うお金を同じとすれば、日本人はどうせ払う医療費が同じならば、みんな地元の開業医のお医者さんに払うけれども、権威がある大学病院の医療に比べたらいいとなっちゃう。そうすると、そこからこれはもう患者の管理室みたいなということは、むしろ病院の経営問題、その経営の背後には医療保険ということの現物給付といったことが書かれている。そういう薬の量と検査の量とベッドの回転率をあげる。そのことの視点から見れば、これはもうまさに医療制度と家の医療保険制度のどう変えるかという問題になります。ところが、疾病の問題じゃないじゃないか。というと、この問題こそ難病問題を生み出す社会的な背景のこの医療保険制度の矛盾にこそ、難病問題を生み出す背景があるんじゃないか。大臣はこういうことを考えている。そのことは疾病別ではなくて、必要な医療を高度な医療を必要な患者さんに恩恵を受けさせるためには、患者になって3年目での患者さんが大病院に行かなくてもいいじゃないか。地元の開業医の医者のほうが十分じゃないか。そうすると、病院の役割り分担と地域医療に与える分担をどう分離していくか。そういうことを国は考えていくべきじゃないか。そういう問題を背負い込んでもらおうと、そういうふうになってきたわけですよ。
 それあんたの問題、医療保険の問題、あんたの問題、病院の経営の問題、あんたの問題、あんたはこの問題を担ってくれというのですね。みんな代表に即座に役割分担をして、私は大臣折衝に臨んだ。ところが、早いこと固い約束をして、役割分担を聞いて決めて、難病問題を生み出す背景にはこういうふうな社会矛盾が、社会的な制度の矛盾がある。そういった矛盾が疾病の問題じゃなくて、本当に大きな国づくりの問題になるんじゃないか。で、その大事な問題もあなたはこの問題を担って、大臣に言っておいて、そしたらこの問題を担って大臣に問題が起きたのですよ。で、それに基づいて大臣折衝に臨んだところなんです。あんな厚生省とやって、みんな自分の団体の短編と思って、そこから私がその会長を3年でやめて、もうこんな運動なんかやってられないかと思って、これが地域の中で変え、自分の子供が珍しい世界を全うできるような人生を送ることだけがそういう街づくりとは何かということを感じました。
 ◆ですから、私の経験の中に疾病運動から難病運動へ、難病運動から街づくりの運動へということを三段階の変化を考えています。そこに大きな医療が突っ立っている。で、この中でもっていて、◆全国の難病連の会長になったわけですから、難病患者とはね、週何回か会ったのです。このように医師会というのは体験してみると、みたいな政治を組んできているので、大臣もよく出来てはいるんだけれども、医師会にしてもらいたいことがある。何ですか。会期末は大臣折衝の問題、私はこれから彼らの運動を疾病後運動と呼んで、今日から手を貸しません。
 まだまだこれが日本の国民性が、文化が違うのですよ。日本とは。このことは石川さんが言うのだけれども、特に石川さんはこの運動はね、もう見るに見かねてひとつお土産をあげよう。どんなお土産ですか。このたいていの声明文を見ると、この中をほじくると、これは正直言ってね。厚生省の各局・各課の全部の窓口に置いてあるわけです。だからこれから難病問題が関わる全ての各局・各課の末端の責任者を全部集める。それからみなさんに各難病の代表者を集めて、官民合同懇談会で聞かれたと思いますよ。それ大臣の大臣官房の大きな会議室の団体がありましてね。一つ一つこの問題については、ここまでは窓口はありますけれど、これ以外にはお隣別な窓口と言われて、ズーと独りでやってくれている。いい勉強だったですね。しかし、わかっただろう。やはりいい勉強になりました。いい勉強になりましたと言うけれど、わかったかというのはこういう意味なんです。
 難病の人たちの担っている根本的な問題を解決しようと、各局・各課にまたがる問題、にもかかわらず、この問題については、だから難病対策課を皆さんの行きたいことだと思う。話は承るけれども、難病の政策に対する決定権を持てない。これが行政の仕組みだと思う。それを一般の団体で、みんな思い込んでいる。自分ともちゃんと他にね、大臣に他に訴えればいつか聞いてくれると思っている。各局・各課にまたがる問題はね、難病対策がこの医療保険の点数をつけることはどうであるかは、病院の医療経営に関わる大きな問題がね、難病対策課が決定権を持てるはずがない。だけど、私は決定権のない対策課に生まれる永遠と訴えてきたわけです。そこに当事者運動の限界があるということを私は感じた。
 で、私はもう一度地域に戻って、地域の中から地域の中で自分のたちの生活にどんな問題があるのか。そのためには医療が問われるためには、保険金の経営がどうあるべきなのか。それから医師会がどう掲げるべきなのか。自分の生活者の立場に立って、地域作りから始めていくべきだと思うのです。しかし当事者は素人です。どうしても専門職はどんな問題を抱えても、専門職なりの問題を間に合っているのか。これを知りたいのです。それは専門者の問題は私自身の街づくりの問題である。私自身の地域の問題でもある。それで、一緒に手を組んでね。政策転換をやっていますよとか、そのような私の理想なんですよ。そういうふうに一度戻ってみたときに、どの学会に行っても、事例研究はあるのです。誰も看護の社会的倫理の高まりだけは、私たちの意地の問題だけが、いつもお医者さんの補佐役みたいな扱い方の制度でいいんですかと言ってくれてもね。看護師さんの学会、わたしは大学になって言っているみたいなことは、面白いの。特になってうれしい話を少し聞きます。けっこう忙しいのですよ。
 で、その時で皆さんもそのようなことの噂を聞きつけて、いらっしゃって来たのかなあと勝手に解釈をしているのですけれど、今私は東京医科歯科大学の看護学科・今度は慶応大学の看護学科、それは昭和通りにあります。ついこないだは、看護学校のためだけの看護学校がありましたので、だから自分は仲間の団体から声がかかるので、専門職とか学校から今度ここ最近は、ヘルパーの養成講師という。養成講座の人の中で自分自身の問題もあるわけです。私たちは主婦であるけれども、これからの時代は外国人ならば、施設に喜ばれるような仕事をしたい。だけれども、人となりのお仕事だけれども、これは子どもの教育がなっていかない。うちの旦那は寝ちゃった。昨今の自由△をもってね。そうすると、生活も守らなければならない。それと、ヘルパーさんに入りたい。入りたいのはやまやまだけれども、もっと良い 収入の低いヘルパーさんの入院をどう考えているか。と、今日本のヘルパーの派遣業務みたいなもの、あそこだけ自分の住居が書いてある。あれもけしからんことですね。住居数にまかしている△。
 しかもなお福祉団体、社会福祉法人みたいなきちんとした福祉団体が担えばいいのだけれど、企業が株式会社の役員をと思うのです。ヘルパーの派遣業務。そうすると、閉じた点でみれば、多量の融資とか公的な押しつけが来るのです。だから皆福祉の技術を持たない事業所の中にどんどんとたくさん事業手当が付く。すると、厚生省は事業所にまかせた方が、質のいい仕事をサービスをすれば、共済にかけるだろう。ということでもって、住居数でもって仕事をさせてもらう。結果あまりにも単価が安いので、いい仕事をして事業許可を得て、勝とうとするのじゃなくて、数でこなして、経営を成り立たせる方向に行っちゃった。だから今最近はヘルパーさんのなり手が少なくなってきた。
 そんなことは一地域だから問題になる。これほど国が担わなければならない問題である。だから地域運動の中で要求をしないと、広域の都道府県で要求する問題と、それを国レベルでもって、これを根本的な政策だということになると、その使い分けが一般の市民運動にはない。こういう問題が出てくる。それと同時に専門職が事例作りとか専門職としてのプライドについ振り回されていく。私たちは社会的な見るものをどうこれからアップしていく。よりよいサービスをするためには、どんなふうな身分保障をやっていくことを、そういう運動を一緒にやろうという専門職の意識がなかなか私の耳に入って来ない。この前やった時には、ヘルパーさんとケアマネさんの仕事で、正規の看護師さんが看護学校を出たときには、自動的にケアマネさんの資格も併せて取れるようなそういう会計を考えてくれ。ケアマネさんが、福祉出身のケアマネさんが残念だけれど、無知なんですよ。医療問題に対して理解というのは、せめてケアマネさんの資格、准看さんの資格のときにお医者さんのカルテを書いて、オーダーをちゃんと受けとめられるようなそういう並びにせめてケアマネさんを取った時には、そういう扱い方にしてくれないかなと、こちらは運動をやったんじゃないかと思う。
 専門職というのは言いようがないですね。運動に弱いですね。私もそういうふうな共感をとにかく専門職との出会いというのは、いい話を聞きましたと言ってくれる方はいらっしゃるのですけれども、じゃ専門職の立場からどんな運動を展開して、どんなふうな連携を市民運動といっしょにやるかということまでやる運動方としていまだ分からない。専門職がいないということは、私のこれ明らかかな。

質問2 ヘルパー問題というのは、やっぱり単価安いということが一番問題ですね。自由競争が入れないといけないと思っているのです。単価高くして、自由競争をさせることによって、やる人もプライドも出てくるでしょうし、いろんな形態が出てきますよね。

回答2(石川左門氏) それは発想のもの△だからね。格好いいですよ。状況から言って質のいいサービスを提供する。単価が安いから、安すぎると、単価が安くなることは、むしろそっちの方が本音だ。安上がりでもって、いいサービスをしたいという行政の発想なんです。とんでもない話です。

2番目の質問者 本当ですよね。単価を高くするのは自由競争にしたらどうか。

質問3 疾病運動から難病運動へ、そして街づくり運動へといったあたりで、最初は市区町村だと言って下さったとき、私の仕事上もすごく大事なことだなあと思うのですけれども、今日野市で日野市に対しての具体的な街づくり運動というか地域に関わる運動というのは何か。てんかん・難病運動がどうやって地域の運動というのは何か。その辺の話を。

回答3(石川左門氏) お昼頃に。午後、お昼はあるのですか。勝手にしゃべらしてもらいます。

3番目の質問者 とりあえず、これをしゃべっていただいて、お昼ごはんにしましょう。

回答3(石川左門氏) そうですね。これに届くまではもっと疾病運動から難病運動に行く中間にですね。

3番目の質問者 中間はあるのですか

回答3(石川左門氏) ◆あるんです。それはね。スタッフに理由があるのですが、1つには施設が引けない運動をしていた時です。けしからん。全国運動は施設費が、私的要求が実現したら、今度はその次の運動の目標がその額を増やすことだということでもって、思い立った頃が、等級が扱った子供の敷居を取っちゃった。ところが、全国運動の方針に反する。誰も問題がない。私の除名処分が全国総会の動議になった。
 ◆それからもう一つは、地域の中で運動しているときに、一様に遺伝に対する知識がないために、連絡復興症候群という人は、非常に多かった。だから言葉を知らないけれども、必要な人にはやっぱり遺伝に対するPRをしなければならない。遺伝の問題について、会報に出した。そういうことで全国運動が除名処分にできるようになった。
 そのようなことがあって、全国の日本筋ジストロフィー協会から五年間にわたって、全国総会の除名処分になった。東京の人たちが代表を選出したのは俺たちだからね。それを俺たちが選んだ代表を全国総会で除名することは東京を除名処分にあったと認めて、東京を奪還すると言った。私についてきてくれたのです。それがあの有名な三大新聞の記事を見たんです。
 それで、全国運動が厚生省にみんな東京の団体に塞がったわけです。それから負担から解放されたわけではない。今度はしたいことがやはり東京都の、やったのは、地域運動の中で東京に対してどんなふうな地域運動をするのかということだけに、全力投球できるようになったのです。つまり、全国運動の負担から解放されたわけです。そのときに何をしたかということからやっているのは、循環検診それから通院検診、それから宿泊検診、それから病院への出前サービスとしての訪問検診、この検診事業を具体的なサービス事業をした。それが地域の埋蔵金の医療保険の問題に繋がっていった。この運動があるのです。その辺のところを今度午後に。1時なったらまた帰ってきますので、ここから30秒で私の住まいがあります。

■■石川左門氏インタビュー その2

回答(石川左門氏) 私も自分の子どもが病気であることは知っているのだけれども、どんな病気かということは、なかなか外来の先生はおっしゃってくれないのですね。治療法がなくて原因を考えたら、今は気長にお子さんと付き合って、家庭教育を中心に考えたらどうですかということでもって、どんどん真相をお話しない。
 そういうわけだから、私たち親はどこに行ったら、病気の真相を説明してくれる先生と出会えるのかどうか。転々と東大をはじめ、病院の先生は、これを病気のひとつですよね。話したがらないのには理由があって、私たちはそれが原因で医療不信、医師不信ということに陥ったのですけれども、しかし、先生からしてみればただの発作が短命ですけれども、せいぜい二十歳、せいぜいですけど、微妙になってくる。体が不自由になって、大変な介護負担をやりますよ。そういったことの説明というのが、短時間のうち短分診療、次回土曜の来た患者さんとそんなことまで話せないですよね。だから先生は心を棒にして、真相を言わない。
 ◆言わない割にはその子どもはこっちに隠して、これから小学校で面倒を見てくれるような小学校を探せないのか。養護学校に行くべきか。もう教育の問題にかかっているから、病気は、自治体は配慮しないと思う。ある意味、とにかく病気の実態を早く知って、早期診断・早期療養診療を実現すべきだということで、久しぶりに考えたのは、巡回検診だ。
 これはどういうことかというと、私ども団体の純粋な事業で東京都の後援事業という名前だけ片書きを取りまして、新聞・テレビ・ラジオで報道しまして、何月何日どこそこの保健所で無料の難病検診、あの時は難病という言葉はなかったのですけれども、検診をしました。これこれの自覚症状の方、個体に依ったら、筋ジスであるかもしれないから、おいで下さい。患者会の事業ですから無料です。保険証もいりません。当日は普段外来でお世話になっている大学の外来の先生がゆっくり時間を気にしないで、とことんまで親切に説明をして下さいますよ。質問にも応じて下さいますよ。3時間もお待たせしませんよ。そういう謳い文句をずっと報道していたのです。それから会場が保健所で無料検診をやっているところ、全国からとにかく病気の真相をお医者さんから聞かせられないので、あれってどうしたらいいかなと、親御さんが言ったら、その時に喧嘩した私たちを追い出した東筋協が会員に対しても、こっそりと私の顔をばつ悪そうに見ていましたけども、それで無料の巡回検診、これは早期診断・早期療養診療・適切な診断を早くしようという病気の真相を知ることによって、適切な療養生活をすることによって、まず無料の巡回検診をしましょう。
 その時には、やっぱり通院検診なんですよ。これは継続医療の保障ということには、適性診断を受けて、十分真相がわかったのだけれども、その後の正しい信頼に基づいた、正しい療養はどうしたらいいかということになると、それは診断の話じゃなくて、その病気の進行するに従って、その節目節目でいろんな問題が出てくるだろう。その問題に対して新しい対応をするためには、どうしても9割の外来との専門医療との関係の継続が必要だということのために、やった診療ですけれども、実際問題は通院が困難なんですよ。タクシーが拾えない。経費がかかる。
 私自身がさっき私の商売の話をしましたけれども、運送業の経営であの当時ですね、トラックが100台くらい、従業員が300名、中小企業の経営をやっていたのですけれども、大型免許を持ったものですから、朝日新聞の公共文化事業団にお願いをして、マイクロバスの寄贈をしてもらったのですよ。それで、東京、東大の半分を乗っけまして、今日は城北コース、明日は城南コースというコースを決めて、その場所場所に出てもらって、相乗りをさせて、女子医大、明日は東大、あさっては順天堂とかね、そういうふうに集団通院をして、それで終わったら、また集めて1軒1軒応急して、通院検診という格好になっています。それは私の得意が生きたわけですね。
 その次にやったのは、今度は宿泊集団検診。これは1年に1回、2泊3日。温泉地のホテルを借り切りまして、そして普段外来でゆっくりお話のできない。現在のやっている療養生活の間というのは正しいかどうかということも、指導の繰り返しでもって、普段外来でお世話になっている先生を呼んで、その借り切ったホテルで2泊3日合宿をするのです。そこに病棟の看護師さんが来たり、大きい技師を乗っけて、一緒に合宿をして、参加した患者さんをその現在の状況を診断してもらって、今度先端医療の後援になったり、それから家族同士の情報交換をしたりして、お互いに励まし合うというようなことをする。2泊3日の集団検診。これは大人にとっては勉強の機会になるのですけれども、子どもにとっては1年に1編自分と同じ病気の子どもと会えるというふうなチャンスになると思うのです。非常に喜んで参加しました。これはやっぱり初期である。間違いない。自由な地域の中でこそできる仕事だと思うのです。そんなことが宿泊診断検診、つまり先生を逆輸入、抱え込んじゃって、とことんまで2泊3日合宿して。
 それからその次には専門医療の出前サービス、これ今は訪問診療とか巡回検診とかというふうなことで呼んでいますけれども、私もその時に横文字のハイカラな真っ白なことがあったものですから、病院医療の出前サービス。
 これはどういうことかと言いますと、皆さん通院をしているということは、通院で先生と顔なじみになることによって、万一のときには入院すると便利で、払ってくれるかもということのそういうふうな下心があると思うけど、皆さん通院に励んでいる。ところが、病気が進行するうちに風邪をこじらせたり、病気を併発したり、そういうことが多い。そうすると緊急入院もその期間は出てきてますね。その時に先生風邪をひいて具合が悪いのですけれども、緊急入院をお願いしますと申し込んだところが、病院のベッドは満床で、待ってくれない。ちょっと待ってくれると思った。じゃ待ってくれますかと言って、病院からベッドが空いたから入院しますよと言って、伝令を受けたら、個人は亡くなっていた。すると入院診療代があるにもかかわらず、入院待機をさせられるような患者さんの在宅の問題をどうするかということになる。
 地域の事業になるなら詐欺の問題になってくる。そこで、入院できなくなれば、私はマイクロバスを運転して、専門医の先生と病棟の看護婦さんとその他のパラメリカンたちを乗っけて、そして家庭訪問をしよう。家庭訪問をして、近所のときにはこれこれ症状がこのようなことだったら、パッと緊急対応してもらいなさい。その時にお医者さんに会ったら余計なことになるから、こっちから病院の先生を連れていき、家庭にあった時に、家庭での自分との主治医の人呼んできなさい。一緒に立ち合いで診療してもらって、お医者さん同士で話し合ってもらう。こういう症状があったら、こういう手を打って下さいとか、こうやって心臓悪化になったら医師会の療法とか、そういうようなことを緊急の療法、専門のお医者さん同士の情報交換をやりなさい。それで病院のベッドが空いたら、巡回検診、通院検診、宿泊検診、それから訪問診療。
 この3つを全国運動から足を洗って、地域運動したときのこの4つの事業を骨にして、これから地域で在宅本位の考え方の運動をやるということになったのは、その時私は第2の人生が始まった。
 私が難病会の会長を3年間やった時に、その実績があるものだから、皆さんの団体を見逃してしまったのですよ。で、だから私も東筋協としても東京振興金融の議長を代える。東筋協さんの恩恵に預かりたい。俺たちもそのような地域の検診事業でもって、専門の先生に来てもらいたい。
 ◆それができたのが、1つにはあの当時東大紛争で本当に大学医療の病院の医療もめちゃくちゃだったのです。で、殊に東京の場合には、都市には東大をはじめ、たくさん私立大学交えて専門医療機関がたくさんある。だけど、都区は全然だめだった。だからこれは格差、三多摩格差と言いまして、都心とは違った判例の状況があるということなんですけれども、だからこのことに専門の病院が欲しい。専門医療の窓口が必要だ。こういうふうに東京都のその当時住む核心都政だった美濃部さんという。心臓外科医の都立の神経内科の神経難病の病院の建設運動をしたのです。
 そういう実績があって、建築が完成するまでの間都立の神経の病院の中に、神経外来ということでもって仮に4重ベッド作って、その実績があったから、その診療があったものだから、難病の親玉になったものですから、そういうふうな活動をしたわけです。このことが、こうやっていることが早期診断・早期療養のための巡回診療、それから継続医療を保障するための検診費用、それから適正な療養診療における継続のための宿泊診療、それから出前サービスという言い方をしましたけれども、地域の在宅生活する病院とベッドへの支援活動と結び付けているための地域医療・病院医療のドン・連携・そういうふうなことを実現するにはどうするかということのために、我々患者会は難しい運動料を払わなかったのだけれども、とにかく在宅生活はより豊かなものに、より納得できる生活を送れるために、一つ一つ考えついて、今4つの事業をかなり聞いたら、地域の公的な保障ができるようになった。この最高の成果だと思うのです。その見本を我々は作った。
 たぶんそこに親の立場からより子どもの延命効果を、より家族の一員としての共同生活を長引かせることを、ただそれだけの単純な思いでやったことが、それを客観で見たら、非常に行政の方から見たら、これはすごいことやったなとことを、今までその日本医師会と行政とがうまくやっていたことは全然ない。だから、保健所を利用していると、それから地域医療のあれとは全然連携がない。バラバラです。これは、難病患者はそんな長く持って、地域のことを持とうと思っても、それもいらなくなっている。そっぽ向いている。こんな状況の中で、これをどうしてかと問題解決にしたら、行政ができなかったのです。これを何かの形で行政の事業とすると、これはかかる。だけれど、我々は難病患者の事業というものですから、先生一つ助けて下さいと言うものだから、東大の先生を呼んで来て、保健所を借りて1日朝9時から夕方5時まで診療さしずめで、そしてお手当というのがお昼のお弁当代とあの時3000円だったのですよ。診療方針はよく来て頂くお礼金が今から40年くらい前先生方が来てくれたのです。
 これには裏があるのです。どうしてかと言うと、皆さん、先生が威張っているのですよ。専門医だから、こうやって。だから威張っている病院の先生が威張っているから、地域の先生が開業医になる。もうこうなって、雲の上の存在になっている。だから、病院と地域医療は連携することは無理な話なんです。だから、こっちは患者運動ではなく、どこでも頭下げますからね。地域の先生でも頭下げますからね。病院の先生が頭下げるというのは、税金がかからないですからね。患者にお願いするのです。
 医療手当がなくて、手伝ってやるかと言って、来たってしょうがない。大学の先生は私たちの代表で、地域医療の難病検診が巡回検診がどっちかというと、いったんね真剣なんだけれど、診察できるとね、あとはお薬がないわけだから、毒味の薬のものではない。たまに入院すると、長々と病院のベッドを地域の家庭看護代わりに社員領地になる。会話ないし、患者さんが毎日毎日何百人って外泊に出ている。ところが、私どもの検診、巡回検診に来ると、座椅子がいいのですよ。学会発表もののケースが、いわゆるチャンスがいい。だから表面は、医者は熱心だから、行ってやろうじゃないかというふうに。喜んでいるのです。

A いつですかって、言いましたよね。機械が言っていましたよね。

B 喜んで3000円で来るの?

石川左門氏 そうそうそう。それで、こっちは謝礼金があるからね。もう精々加入だったら、お弟子さん抑えたのですよ。しまいには、東大の先生と女子医大の先生がケースの虜になっている。

B ケースの虜。

A 研究材料ということ。

石川左門氏 そうそう。それは、どうしてかというと、どうしても日曜日に保健所に使ってもらうから、東京都が支援している事業であるということをお墨付きをもらったのです。だから、日曜日に台東区だけ保健所の設備を借りて、貸してくれたのです。これは東京では革新都政だった。だから、保健所のケースも自分はあそこに難病検査あるけれども、自分は看護師・看護婦なものだから、守秘義務になると動けない。だけれども、気にはなっている。ところが、そういうな巡回検診でもって、保健婦さんがケースとかかわって出来れば、主治医があそこで把握できたらいいなあと思う保健婦さんがいたと思うのですが、保健婦さんが無料でボランティアで手伝ってくれているのです。
 そのうちに受付の方で問診は時間が書いてある。保健所の保健婦さんが引き取ってくれる。それで、患者会の事業で教育をしてくれる。そこで、地域の保健婦さんがすごくこの団体のときとはよそとは違う。専門医の先生もおかしかった。それで、自分たちが地域の中でできない臨床経験に立ち合って、一緒に参加することでもっていい変化になる。喜んで例えた。しまいに問診がとれてしまう。わけのわからない。大物の先生が威張って言うのじゃなしに、そういう先生にそういうふうな患者さんを回さないのですよ。あの若い先生が良い意味じゃない。今度このケースだから事に依ったら回さない対人ケースだから回そうと言って、だから保健所の保健師さんが非常に仲良くなる。だから、うちの会員については、何とかかんとか専門医で主治医と連携が取れるものだから、保健婦さんも動いてくれる。

B 今の4つの検診事業というのは、行政は他のまた検査していない。

石川左門氏 その通り。全部自腹だったのです。年に3回ぐらいしか事業がない。それが。

B 最初から自腹で。

石川左門氏  後援事業の免許取って、実績が上がってきて、評判になってくると、これは行政がやるべきなのに、これは民間がやって、行政がやったら行政の事業だと、行政の事業は医者が教育するのだと、なんぼ出すのだと。すると入院検診みたいに聴診器を持って、心音を聞くか聞かないとか分からない。ポンポンと早く。だから、行政の事業としては金がかかって仕方がない。ただ、患者会が一人3000円の降り船しか出さないから、予算は全然違うのです。だから、行政はたぶんこの事業を巡回検診だとするならば、2・300万かかるだろう。地域の根回し・医師会とのオーケーとるとか、保健所の保健師さんを投入するとか、保険師を動かすとか。

B 人件費はどのくらい。

だから、上手とか患者が代わりに予算を出して、患者がやらしたほうがいいのです。しかも地域と病院医療との連携ができる。厳密にできるのです。だから2・3年の実績があったら、それから行政をはじめ検診事業の予算を出している。

A それは患者会に出している?

石川左門氏 患者会に、会員患者事業に。

A 事業費とって?

石川左門氏 そうです。

会場A 患者会に扶助を出す?

石川左門氏 事業扶助です。

A 年間いくら最初は出したのですか。

石川左門氏 最初は200万。

A 最初は年間200万。4つの検診事業に。

石川左門氏 患者会の事業ですからね。民間ですからね。それがそのうちに毎年毎年、今度は割増のようなものを増額しといたほうがこっちは全然運動しなくてもいい。行政の方でもどんどん増やしてくるのです。最後は700万かな。

B それは東京都の。

石川左門氏 東京都の事業です。

B 都から出たのですね?

石川左門氏 都から患者会に逆輸入。委託事業です。委託事業の方が東京の安上がりでしょうがない。一番苦手な医師会と医療委員をつなげるというのは、系統が行政にはできない。それを私がやり出したわけなんですよ。そういう意味では、新聞社がこれはいい仕事やっているなあと言うことでもって、ましてや短い命でこの子たちの患者運動が、マイクロバスにお願いしているものが一遍で寄贈してもらって、それが一台改造しました。マイクロバスを患者会の通院用のバスにしたのです。それで、1000万近くかな。介助費含めて。それを無償で寄付されたのです。それに私は乗っかって、今度集団通院、通院検診に繋がっていったのです。

A 繋がったのね。朝日新聞から言われて、何回。

石川左門氏 4回。朝日新聞がクレーム付けた。その看板も文句も付けない朝日新聞なんですよね。それが循環検診、それからさっき言った通院検診、継続医療ということでもって、当座において乗り合わせて、それでリハビリをやると待たされるから、一日がかりで皆さん待ってくれてね。1軒1軒送ってもらえるわけでしょ。それが今度巡回検診でもって早期診断・早期医療ができたら、今度はそれを継続させるという継続医療に結びつける。その日に今度は、その病気の診断と在宅生活の節目・節目の変化のときにどんな季節の対応をしたらいいかということでもって、宿泊検診がある。それから今度は通院が途絶えちゃって、本当にもう在宅生活をしているけれども、いつ近所の子どもがおったときに、でも何とかなるようにと、入院待機の患者さんのために出前サービス、病院の先生を乗っけて、出前サービス。その時に、地元の先生を呼んで、一緒に立ち合い医療をすることによって、地域医療と病院医療をドッキングする。それでもって、都区の神経病院は私たちの運動で出てきた。専門病院を作ったというのは、患者運動で初めてじゃなかったのかな。

A ◆検診を始められたのは何年からですか。さっき東大とか。

石川左門氏 昭和40年から。

A 昭和40年からで。

石川左門氏 40年でない。昭和39年に患者会ができたわけだけれども、その後はきれいに一変予算が付いたわけじゃないけれども、まわりがずっと継続して、患者のサービスしてくれた。その時私たちはたまたま外泊があったり、ごちそうがあったので、実際に当時、予算が付いたのは昭和42年かな。その前の2年間はしばらくの自腹の実績でもって。

B 今はどうなんですか。

石川左門氏 今は誰かこれをやったのだけれども、この仕事は元来地域で保障すべき公共性の高い仕事であろうということでもって、地域が中心になってやるようなそれを今度我々がノウハウをお手伝いをするという地借交代を、ある時はこれこそ医師会がやるべき社会的責任のある仕事であってもいい。医師会が主たる事業をするようになったりと、その時に私は都から皆様に対してのこの予算を患者会だけが使う。そういうふうな地元でやっていくだけなら、その応援をしましょう。そのお医者さんの塩だけを出さして下さいということでもって、地域と患者会との共同作業でもってするわけです。そういう実績があるから、難病問題をやった時には私のようなまだ東京在住の患者会の会員が300名・400名足りなかった。にもかかわらず、年間何百万もの委託事業を受けた。それは除名処分をさせていただいて、東京都の地域運動にガラッと変わった。
 ◆それで、とにかく途中から私が難病の代表になったということがあったもので、東京都が、医政局がこういう発想を持ったのです。難病患者さんが正しい診断にたどり着いて、その後正しい自分の療養生活でもって、どんな終わり方をしたか。その間にどんなサービス支援からサービスを受けたかということを、患者さんの生活の動きを実態調査をしたい。東京都が特殊疾病対策機構研究班という。結局この衛生局に作るという。その時に研究のテーマというのは、3年間ですよね。第1年目が、アンケートによる実態調査、2年目が訪問実態調査、3年目がある地域に限定してその地域の中で徹底的に聞き取り調査をしようということをしたのが、3年間の研究計画なんですよね。今各地域でもって、難病患者さんはどのくらいいらっしゃいますかというと、昔でしたら、難病の患者ではあっても診療点数の取れる患者さんもある。その人は診療点数を取って、取るわけですね。そうすると、そのリスクというのは、福祉事業者である。
 それからもう一つは難病のその前に公益負担の問題にかかったときに、公益負担の理事長については、保健所に行けばどの患者さんのご勝手な公益負担を払っているか分からない。そうすると、福祉事務所と保健所との両方のリストを合わせて、私たちの地域の実態がこうですよということを、そんなふうな現実離れした報告しかできない。だけれども、患者さんで保険本人の人が、直接保健所でもって各病院とか医療の窓口にかかるわけだから、事務処理が地域の中で全然資料が残らない。それがみんな残っちゃう。だからそれを含めてある地域を限定して、地域の中で徹底した実態調査をしたい。その時に私が全患連の会長であったと同時に、私のところだけが、そういう意味でユニークな検診事業というものをやったものだから、まず実態調査には患者さんのリスクが高まる。協力してくれなかったらと頼まれて、私が研究班の班員に選ばれた。
 国立公衆衛生委員の当事者のシュウマキイチゾウ という力学の先生が班長さんで、気にすることは東京都がやる。そこに医師会から看護師へ専門職、それから保健所の人たちとか、その人が関係者の専門職の人たちとか、たった一人私だけが素人。素人が訳がわからなくて、とにかくリストが欲しいと言われて、調査したいと言っているのだから、便宜を図る程度で私は終わりだと思った。私の研究班ですね。隣に東京医師会の理事が座っていたのですよ。そうしたら、何だよ。患者会のような張り紙があったらね、団体の隣がなぜ医師会の私が座らなくちゃいけないのよ。こんな大喧嘩。出ていけと言われたのですよ。私もこれはそうなんですけど、あの頃は市民運動というのは障害者の運動としてのイメージとして一番強かった。
 その中で一番コウイシバという先鋭化した団体がいて、国立療養所の結核病棟の中で俺たちの食生活の解放をしなければ、もう座り込みだった。これ以上に後ろから出して、座り込みしたような先鋭化した団体イメージがあるものだから、患者会もその方と思って、患者会の訳のわからない仕事なんかね。席とか隣でして、メンバーなりたくない。怒っちゃった。
 〔※ 「青い芝」? 「府中療育センター」のこと? だとして、青い芝の会と府中療育センター闘争とはいちおう独立。 結核療養所にみとける運動はもっとずっと前…〕
 だけれども、患者会のリストが利用できなければ、調査にならないわけで、苦心に参加したと思うのですが、何とか行政の衛生部長が口説いた。私の地域から出てきた女医の主治医だけが間に合わない。やっぱり医師会だけでやるって、医師会だけがそういうことを専門の医療間との連携がなきゃ、私たち再び難病患者との在宅の生活の介護問題はない。だから、付きいっちゃいけないと思って、無理して専門医療を急ぐように勉強して、話の分かる程度のことを受け答えしたのです。その時にやっぱり3年間も一緒にいると、向こうもこの辺りはこの団体はちょっと違うというような印象を持ったらしくて、協力的になっている。それが私と医師会との出会いの動機づけなんです。
 3年目になって、今度ある地域を限定して、東村山市というところがあるのですが、そこを限定して徹底してしっかり調査をしようということで、そういうことの研究事業ですから、地元の医師会も動く。正式に公的な事業活動に参加する。それから医師会が動くと、保健所も動く。そうすると、保健婦さんも今度胸を張って医師会が共催だから、医師会も協力しているから、堂々と出てくれる。そうすると、診察しているときの相談があるだろう。神経内科なんか手帳で通れますからね。そうすると、市の福祉委員との連中も出てくる。何とか地域から医療福祉、保健の連携が連携しようというメンバーが全部共通したものでもって、参加できたのですよ。その時の地域の現実的になってくる。本当にお局・谷間になる患者さんについては、東筋協やっている難病検診を地域に限定してやったほうが、いいじゃないか。
 ところが研究班が足りなくなっちゃった。それは患者会が委託事業でもっていますから、衛生局から恩給△がある。限定した地域に予算を持ち込んだ。いいとオーケーさえあれば、動きますよ。言ったら、予算は患者会が出す。それから研究の中身は東京都がやる。東京が動いたから、地元の保健医療福祉の関係が全部参加した。そういう発展でバーと広がったのです。大成功した者が、幸せである。幸せ者だから、東京都の研究仕事をして、やったのだけれども、どうしても私はその時固辞したかった。幸せでない者が成功例であるのだから、こっち医師会にも、というものはまず巡回検診がどうかと言って、はじめて私たちの患者会の事業が、地域の施設が来るようになった。なら突破口になる。それから都下の方にそのころちょうど都立の神経病院の原型の神経内科がばっかりでもって、専門めいた40気症△できたのだけれども、とにかくその専門医療の窓口が都下にできた。
 で、都下の巡回検診ができた専門医が東大からたくさん初めてすれ違ったわけですから、その先生方に検診は都下の前にお願いした。そしたら今度は都下の場合には、1か所でしょ、府中の神経病院だけが1か所ある。都心の周りには東大をはじめたくさんな公立・私立の病院があるから、そこで次はどうしたらいいのだろう。ひとつ大学の先生にしぼって診療してもらった方がいい。それともちゃんと公平に参加するそれとも関わっていて、日頃の患者会のお世話になるところの専門病院の先生がそれぞれ集めたらいいか。違った病院の医者が集めるのは、恐怖関係にある。患者が一歩一歩ですよ。そんなことでもって、都心でどうやっていいかということがあった。その時に私はどこから都心へ1回1回どこかで成功させたい。それを起源にして、それを普遍化していきたいと思う。それで、東村山へは東村山の保健部長が渋谷の保健所に移って行った。その時に、君ね、父親の医師会は優秀だよ。で、父親を持っていきましょうということで、渋谷の都心に初めて医師会の先生を同じこう見ながら、医師会の先生と一緒になって、専門医の先生と一緒になって診療をやってくれる。そういう話をつけに行った。
 その時に受けてくれた医師会の会長が、その後の日本医師会の会長になっている。ムラセトシオ先生が、それで今度日野の地元の医師会長が日本医師会の副会長で、タケミタロウの片腕と言われた先生ですね。他は、私は各医師会に患者会にも行って、今度このおたくの地域で謹慎させといて、医師会が来たなと、フリーパスですよ。それから私たちのやる検診医療が専門医療機関とそれから地域への医師会と医師会と地域の保健所が全部協力している。それから他にも福祉にも協力している。それが今の医療保険制度のやっている仕事の原型になっています。1回こんなことがありました。資料室でもって、難病検診つまり巡回検診をやっている。厚生省の大谷さんという局長が見学に来て、それから2・3回は勧められている検診事業を参考にしました。そしたら今度厚生省の事業として、地域の難病の検診、難病相談事業という格好でもって、保健所の事業にしちゃった。それがそもそも失敗だったのですね。
 患者会ができて、日曜日に家族の手がある時に、検診ができるわけです。しかもなお患者会が今度医師会を無料でもって、ボランティアでもって、当日放置してきた。ということは、そこに参加すれば、自分の出身校の大学の先生と仲良くなれる。そうすると、これから自分が地元で診療やっているときに、ちゃんとした紹介ができる。ということだから、喜んで日曜であるにもかかわらず、医師会の先生の参加費見て下さい。そこで、専門医療と地域医療ができて、それから保健所の連携、福祉事務所の連携ができてきた。というのは行政がやっているわけですね。行政の事業だから、俺たちは手伝ってやる。医師会が難病を予防するというのは、乳児検診と同じような活動になっている。しかもなおウイークデイには、出てくる先生というのは、昼間の往診を犠牲にして出てくるわけだから、医師会こぞって参加というわけにはいかなくなる。
 だから私は良い事業であっても、行政がやるべき範囲と行政が予算を出して民間にさせたほうがいいという事業と2つあるということが分かった。そういうことを非常に勉強になりました。それで勉強で私が東筋協で患者さんが代表をやるときは、私がもう70才になったら、もうやめようということで、それも10年前ですか、10数年前になりますか。そこからもうやめたから、そのことが地元事業になった。医師会の事業になったことがあるので、30か所、その当局との区市町村の半分は循環検診だった。そのおかげで昨日は私の子どもの出身地であることでもって、一党最初に難病患者さんの末期を地元の医師会に支えられて、地元の保健所に支えられて、末期を終わった。一党最後の10日間だけがあの時のまだ人工呼吸器の貸出制度がなかったものだから、最後の10日間だけは呼吸介護を頼み、府中病院に入院をさせた。とことんまで末期を終えた。見送ることができたということの実績まで昨日の場合には、言葉がなくなった後、医師会と地元の市民団体とが一緒になって、石川正一君を偲ぶ集いといううちの亡くなった子どもの集会をやってくれました。

C 松江にいるときに、島根・鳥取・広島中央で延べ1000人いたと思います。だから今の医療だと巡回じゃなくてちゃんと検査のために2泊3日くらいの均質ドック、ドックなら保険が伴わないから。

石川左門氏 今の石川先生の資料室にパンフレットがあるのですね。医師会が先生のところに持っていって、何枚かのちに死の大会議室を作って、石川正一君を偲ぶ集いにしますから、市民の皆さんに来て下さいと言われて、偲ぶ集いというものだから石川正一君というのはいい子だった。筋ジスをやって、程度のそういう偲ぶ会ということだということだと思った。そうじゃなくて石川正一君は、我々がこれから高齢化社会を迎える我々にとってすばらしい地域の介護問題の現況△を残してくれた。あの石川君の残した心の遺産を残して、我々も彼の示した目標に向かって、頑張ろうというそういう市民集会だったのですよ。これもそれからもう一つは待っている病院も誰からも願いが10回・十数回から会談の会から、かなり夜中も寝る間もなく介護していた。

A いいえ数回。20数回。

石川左門氏 [※ この辺りは所謂医療的ケアの関連で重要だろう]◆それぐらいのことで、このままいったら彼が倒れたら、一家賭けようかな△ということになって、せめて医師、新米に2時間か3時間でも仮眠を取ってもらって、夜頑張れた。その仮眠を昼間にとってもらう間、仮眠の間の介護の負担を肩代わりしてくれるためのボランティアを担ぎ△ませんかということで、話を追っかける△のですよ。
 ところがたまたま社会福祉協議会でボランティアセンターの窓口ができたのですよ。お願いしたところなんですよ。大学で週のはじめかな。薄汚い部屋だけどね。うちの子どもが部屋に来て、びっくりしちゃったのは、持ってきてね。何かを言ってあげた。痛々しく器官切開をして、お母さん、痰よと言って、吸引機持ってきて、子どもの対応みたいなあんな機械を持って、カテーテルを持ってシューとかけて痰を取るようなことを見たら、ボランティアがびっくりしちゃってね。
 お母さんのやっていることは看護師さんの仕事、親権者だから黙認されたと思うのだけれども、あれは私たちじゃできないわ。意思確認して、他人ができない。看護師さん主治医が選ぶような看護師、昔じゃ素人の私がお母さんの体にはできないわ。だけれども、手を出さなかったら、おっかさんが昼間仮眠を取れないというのを考えると、昼間寝ないと夜介護ができない。私たちは介護の肩代わりをすれば、可能だけれども、できない。そしたら、お母さんはどうなるのか。
 それからボランティアセンターの人たち、医師会に物申したわけですよ。これこれ石川さんのお宅に行って、おばあちゃんの様子を見たとか、お母さんがやっていることは看護師さんの仕事だと、私たちはできない。できないからと言って、手を引いていたら、お母さんは夜頑張れない。この矛盾を医師会はどう考えるのか。医師会に対して、問題提起になる。これが日本医師会の異常に対する考え方が、あっと変わる新しい歴史の1ページになったのです。
 ◆その時の日本医師会の副会長が自治会という感じだった。医師会としてはしばらく考えて、分かりました。おやりなさい。法律というのは人間の生存権・生活権を守るために法律の実力がある。にもかかわらず、それを形式的に守ろうとするのですよね。管理人の生きる権利、生活権利を疎外するとすれば、本末転倒な話である。おやりなさい。ただし条件があります。それは医師会が支援をする看護婦さんから徹底して家庭の看護・介護の訓練を受けなさい。訓練を受けて、医師会が認めたボランティアの方だけお母さんの介護の肩代わりをしてもいいでしょう。ということで、我が家の家庭崩壊を免れちゃった。それが不可変化して、今は介護保険の制度の問題となって、ヘルパーさんのところまで看護師さんの協力に立ち入られるか入られないかということを問題の法とされているけれども、少なくとも家族が信頼を置いて、しかもなお主治医がオーケーを取っていて、それでその患者会の下にやる限りにおいては、それをやっていいということがある。そういうのを新しいジャンルの1ページになるということです。
 渋谷区の私の紹介、日本医師会会長になるだろうという人が、石川さん、都心でもってするときは1保険以上、1医師会この地域からやりなさい。医師会が複数あろうが、話は難しいよ。俺のところにまず先に持っていかなかったという井戸端会議を、保健所は板挟みになって、動きようがない。まず、1医師会・1保健所、それが渋谷オーケー、その次は荒川に行きなさい。その次は江戸川に行きなさい。そうやって行く先々まで教えてくれて、話をつけてくれる。それから患者会が巡回検診をもうフリーパスですよといういきさつがありますので、日野市もそういうふうなお土産ができた。そういう経緯があったのですね。その仲介には患者会としての検診事業のモデルがそこからそれで行政が目をつけて、うまく利用する。我々もその代わりでもって、経済的な問題がないままで事業を広げている。それが今各地域の行政とか医師会がバトンタッチするようになった。

D いくつか質問があります。皆さん持ってきているので、順番に聞きたいと思うのですけど、今筋ジスの患者系の話はある。生命倫理系の話もあるのですよ。それで先にちょっと聞きたいのですけど、私は筋ジスの病棟に勤めていて、病院の中で患者さんといろいろお話していると、自分で病院を出たいというお話をしていて、でもなかなか出れないというようなことがあって、そこで何人も仲間が死んでいく中、自分もいつか死んでいくから、やろなあと思っていてという話は出たのですよ。でもなぜかそれでいろいろと不思議なことがあったのですけど、まず筋ジスの人たちというのは、自分の病気をどうとらえているのかなと聞くと、告知を受けていない。
 どうしていろいろ先生とそういう話をしたことないのと言ったら、ないという人が多くて、病院にもよると思うのですが、千葉とかいくつかの病院ではそうで、自分の病気について詳しく誰かと話すこともない。家族ともない。ただ家に会報が来て、筋ジスの会というのが子どものときに知ったりとか、筋ジスの病気の人が筋ジスだろうみたいなことは想像している。それで、私はスタッフと一緒にカルテを見ると、器官切開をしないし、心肺蘇生はないと書いています。
 それは本人に聞くと、知らない。ぼんやりとニュースで聞いている。おそらく講座論ではなく、1970代とか80年代前半に入院した人たちというのは今でもずっと病院にいるだけなんですけど、そういうままになっている人たちというのは、それらが続いて、今でもそういう人たちが何人もいるというのはあって、すごく不思議だったのはまずそういうことがあって。
 生活の質も非常に低くて、着替えはまず週に2回しかない。朝と夕方に着替えたりすることもないし、朝ごはん食べれない。食事介助のある人は朝ごはんなしとか、トイレもはしの人から順番にかけていって、始めから順番を取っていくみたいな、しかる座薬を入れて、一斉に排便をしましょうみたいな、感じだったりして、病棟で歩けるほとんどいなくて、三分の二以上はだいたい呼吸器をやってみたいな感じで、すごく重度なんだけれど、10年以上前と今のスタッフの数は変わっていない。そのスタッフの数の決定権は病院の本部が持っているか病院に一切ない。それで、すごく患者会の中でもこの病院は端だから、患者さんの医療をやっているから、お金をスタッフを増やせない。
 だからしょうがなく国ができるという話に何となくなっているのだけれど、それも本当かなという気がして、何人かのお医者さんの書いているのを見ると、筋ジスの呆けはいっぱいのような矛盾点に浸かっていると書いているし、何か取って、どうしてこうなって、こんなことをみんな分かっているのに、筋協が何も動いていないし、一体何なんだろうというような気がすごく疑問に思って。
 今在宅で重度訪問介護をやっていて、ヘルパーを24時間派遣して病院から30年・20何年病院で筋ジスの方または在宅に出向するというようなことを1・2年やってきたのですね。それで病院でやっていた人たちは病院を出たいというのが一番だと思って、この1年・2年くらいの間に30年でということがあって、それで、私がすごく知りたいのは、なぜあれだけ告知をちゃんとされていないし、病院は政策医療では赤字の病院みたいな話になっていて、それに乗っかって、日筋協が動いてなくてというのは、親の会というのが付いているというのが、すごく変な話だと思うし、何かいろいろおかしいなと思うことがあるのだけれど、私は何も分からなくて、その辺を今日は伺いたくて、聞きたいというのですけど。

石川左門氏 ◆最初のこの患者会の組織が入院した時に、患者会のレベルでは、病気の真相をどこ行っても聞かされないということが大きな問題になったので、それでもどんなに親が隠しても子どもが一人前になって物心がつくだろう。その時に自分で自分の病気の進行を必ず体験するわけだから、疑問に思わなければならないだろう。もしも家庭の中でもお父さん・お母さんが、僕が一生懸命に頑張って、次の日は一向に良くならないね。恰好してもちゃんとしていても一向に上向かないね。僕の病気は治るの・治らないのといったときに、親はどう答えたらいいのか。それから病気の原因が分からない、治療法がないということをどんなに隠しても、やがて子ども自身はこのような自分の型を開いたわけか、必ず医師会で思ったことは自分で主治医になってくる。病気の真相が、治療法がないので、原因不明、分からない。何年生きるのだろう。次の問題の疑問に思っただろう。そういう質問を家庭の中でわが子から親はどう答えたらいいか。という大きな問題を背負うことになるだろうということを、予測を生み出す各家庭で出している。しっかりされている。それから治療法がない。原因が分からない。20歳まで生きられないというようなことを言われるのだけれども、短い命と言われて生まれてきて、一生ヘモンの下で過ごす。そういう人生って生まれてきたことに意味が一体何だろう。生きる価値って何だろうかということは、人生論的な疑問を、親が子どもからぶつけられたときに、どうしたらいいだろう。どう答えたらいいだろうということが、東京の場合の各家庭での大きな深刻な問題になったわけです。
 理事長はどうなのだということで、一番先に注文するわけですね。だから私は問題については是非地域の施設につまり公立の施設に入って、最期の最期の五感を施設で終わりたくない。うちで終えたいよという患者さんがこの周りにいるものだから、その親が子どもの思いを考えて、最期だから1年目で引き取りたいと思う。そうすると、私のとき子どもから電話がかかってくるのですよ。理事長に話しただけで、これで施設の中で全ての出来事を様々な問題を何時間でも話す。でも涙を流して、分かった。僕の気持ちわかってくれたかと言って、涙を流して子どもたちは言ったのですよ。
 だからこれは親というのは、徹底して隠して隠して隠し通すということは、実は問題だな。むしろ子どもから質問されたときには、どう答えたらいいかということを考えることだから、これから在宅の家庭教育の問題だなというように考えるようになって、私の家庭ではこういう方法を取ったのです。
 一つには、人間が難病筋ジストロフィーの出尺型の短い命を宿命的に負わされた意味での支援じゃなくて、人間は全ていつかは終わりを迎えがあるという意味での人間の死ということを、気兼ねなく家庭内での話題として、気楽に話せるような人生論的問題として人間の死を語り合おうというようなことを、うちの場合には心掛けた。ですからうちの場合には話をしている、タブー視しなかったものだから、うちの子が14歳のときに、お父さんこれから夜学校の組に入れてもらうのだけれども、もう風呂に入るから男同士裸で付きあいたというのだけれども、これから僕が風呂場でもって、お父さんに質問することがあるけれども、答えてくれないか。これは冗談で聞くのでもないし、好奇心で聞くのでもない。これ僕は明日からどう生きていくかという問題に深く関わるから、お父さんこれに答えて。そういう質問を子どもからしてくれたのです。親に教えたのです。
 だから、それは我が家が、お前の病気がこういう命が短くて終わるのだよという意味での死じゃなくて、人間は全て終わることになっている。それが人間なんだ。だからどう生きるかが問題なんだということの意味を込めて、いつも期待が来る。世の中が親子の間で課されるような死の問題が、扱い方を死語にしておく。だから子どもはそんなつもりでもって、今晩は質問があるから、答えてくれるかということをあっさりと言ってきた。体のどう応えるかと思って、ハラハラして、子どもにじゃお父さん聞くけど、僕は僕の病気治るの・治らないのと答えたら、残念だけど現在の中では原因が分からない。治療法がないんだよ。
 そしたら、子どもはやっぱりそうか。全然顔色を変えてない。子どもにとっては、新品の答えを聞こうと思うときは、自己解答を内在に持っているわけですよ。自己回答の再確認をする意味でもって、おれはどう応えるのかな、おれは僕の人生をどう考えるのかなということをむしろ知りたくて、聞くのですね。それから一般の親が、死の問題・病気の真相の問題を触れまい・見せまい・聞かせまいと、逃げ回って教育をしてきた。だから、子どもは病気の真相を知ることよりもむしろ短い命で終わる親不幸ということよりもむしろ短い命で終わるとするならば、短い命であってもその生きている期間をどう生きていくかということに、生きることに大きな問題がある。その前に大きな問題意識を持っている。そのことを親は知らない。ただひたすら病気の真相を知る問題に触れたくないということで、逃げ回っているという問題がある。子供は聞きたいのだけれども、親がどうも逃げ回っているみたい。まともに聞こうとしても、親が答えるパイを持っていない。しょうがない。聞かない。親父から誰かにポロッと漏らしたのです。話し合いたい人に話しやすい人に。
 それが病院の先生であったり、看護婦さんであったり、ヘルパーさんであったり。でどう答えたらいいかということは、これはその人が専門職であること以前に、自分がどう取り組んで生きているかということの自分自身の人生観を持っていないと、そういうことになっても相手ができないということが、ヘルパーの講座の話でするのですね。ヘルパーさんが自分の専門書を持ってきて、勉強をした知識技術を提供しようと思っても、相手の名が研究された算術の類については、自分自身の側に生きる意欲がなかったら、提供されるサービスはどんと効果が半減されるでしょ。そういうことですよね。
 だとするなら、皆さんは知識・技術の問題なくてむしろ相手方の生きる意欲を促すような義務教育をどうするかということが、専門職である以前の問題として、人間として自分の人生をどう問うていくのかということをはっきりとおなかにしっかりと持っておいて、全部そういう仕事をやって下さいと言う。いつも最後まで言うのです。卒業以上に親も人間になっているのです。だからそうじゃなくて、親もそれはお父さん・お母さんにとって人間として大事でね。これは人類が夏至以来ずっと最初からことによったら今でも解決されていない問題かもしれない。でも真剣にそいつを取り組ながら、長く苦しんで一生懸命生きるということだけは、お父さんたちは考えていない。なら長い・短い間にもどう生きたか、その中身が問われるのだよ。みたいな言い方のタイトルをやって下さいということを、私はよく言うのです。
 だけれども、うちの子どもが風呂場でとんでもない質問をしてきたときに、やっぱりそうだね。せいぜい20歳まで。そうすると、明日がどう生きるかも問題で、ということをひとこと言ったのですね。それで母親に、翌朝母親がシーツを引っ張っているときに、お母さんにちょっと待って。ちょっと考え事があるからと言って、まるまるの中学の会話を頭にあったのですよね。しばらくしてからお母さんもういいよ。ガラッと変わる。ガラッと変わったのです。風呂の会話が。
 どう変わったかというと、もう18年になるのですよ。14歳のときに彼は病気の真相を親父から告げられた。おまえは後6年の命だと言われたに等しい。にもかかわらず、あと6年と分かった時に、誰か猛勉強始めたのでしょうか。普通の一般の親はどうなんでしょう。いや皆無だよ。そのために一生懸命塾に通って、勉強しなきゃいけないのよ。借金してでも塾に通う気持ちがあったら、親は頑張るためにと言って、塾・塾と。それで塾産業が発達していると思うのですが、それで医療とか考えなきゃいけない。いい学校出たものだけがいい就職をするということができるか。どうしていい就職をしなければならないのか。いい仕事をするのにいい就職をするものだけが、マイホームの幸せを手に入れることができるか。そんなことでもって一生懸命勉強をやっているかというと、何か勉強することで、マイホームも手にするためにお勉強する目的があるんだよというみたいなことを暗黙のうちに世の人に教えているんじゃないか。そういう価値観から教育に対する価値観から見たときに、あと6年でとわかったときに何で彼が猛勉強したのか。その猛勉強の意味が問題なんですよ。そういう意味を、私は彼から教わった。本人から。本人はそれだけの力が生きる積極性があるのです。たった短い命であっても、納得して終わるならば本望だ。問題は納得できて生きる、それが何かということを知りたい。命が長い・短いかを知りたいのじゃない。言うことの方が大きな問題である。
 だから、親は死の問題、命の長い・短いことだけを気にして、逃げ回っている。子どもはそうじゃなくて、短いならば短いなりにどう生きるかということの方がむしろ僕にとっては大きい問題なんだ。誰か教えてくれということを無言のうちに周囲に問題提起をしている。それはたまたま親父が率直に反したから、明日からどう生きるかという問題だね。彼は猛勉強したのですね。すると、普通の人は80年生きるとするならば、80年の人生の中身を僕の場合は、20年間に圧縮して懸命に生き抜いてやる。悔いなく生きてやろう。悔いなく生きたものだけが受け入れにくい死を素直に受け入れることになれるだろう。というのは彼の新しい人生観であり、哲学である。それを親子同士話し合えないことにも今の生きる期間がない。
 これは親子の間ではなくて専門医の人たちも自分が専門職としての地域の技術だけを提供するというだけのその人があなたがもう年をとって、人のお世話になって生きなければならなくても、立派に生きることが大事なんだよ。ということを納得させられるような自分自身の人生観を持っているということが、専門職に問われている。
 こんなことがあったのですね。ある保健婦さんが学校卒業して、実習終わったばっかりの保健婦さんにある御老人のところに訪問に行ったのですね。御老人はもう少し良くなれば、外出ができるのにふてくされた。ちょっと私くらいの年配だったものだから、戦前は命をかけてお国を守る。特攻精神に燃えた。戦後になって、必死になって家族を守るために、家族をどう食わしたらいいかということとともに家を建てる。懸命に頑張る。そういうことでもって頑張り抜いてきた。ところがやがて年をとって、自分の子どもが一人前になって、外に出ちゃう。それから自分の連れ合いも亡くなっちゃう。一人ぼっちの孤独になってくる。自分の人生は何だったのだろう。ということで、おへその裏に回っている。けっこう奉じないですね。
 その老人に保健婦さんを使うと分かった。最初は実習で勉強したようにニコニコしてね、逆らわずにおじいさん、今日はお元気そうねと言って、職業の顔を作って、いつも老人は飽きてくるのですよね。若い娘さんのむさ苦しいうちのところには来たくないだろう。悪態をついている。あまりにもだから、つい若い娘さんの保健婦さんにおじいさんのおっしゃるうちにって言っちゃって。うちのおじいちゃんが国元の顔と答えるのかと思ったところに、案外言ってくれるものだから、おじいちゃんのおっしゃる通り。私たち好き好んで来ているわけじゃない。私が来ているのは、おじいちゃんのためじゃなくて、本当は私自身のため。自分自身のため。私自身のため。どういう意味なのということで、おじいちゃんが質問したらね。私はおじいちゃんにああいう終わり方はしてもらいたくない。そういう終わり方をしてもらいたくない。私は私なりに、あのようなかってしたようなおじいちゃんのこういう終わり方をした。私も人間として同じようなああいう終わり方をしてもらいたいというようなことを、私は自分の日常の中に持っている。おじいちゃんがいちびったらしい。いちびったらしい終わり方をしてくれると、私自身の人生は暗くないじゃない。だから、おじいちゃんは私のためにああいう終わり方をしたいというようなああいう年のとり方をしたようなそういう生き方をしてくれる。こんな俺でもまだそういう若いものに対してああいう終わり方をしたいということを、遺言を残すという最後の社会的役割があるのだなあということを、おじいちゃんは気が付いたのですよ。それでも息子たちは則言っちゃって、知らん顔しているのだけれども、お前にそんな私のお墓の前で線香をあげに来てくれるのなら、俺はもう満足であるという。そんなよくない話を聞く。


C 告知をされているのですから、25年筋ジスをやってきましたので、50人以上僕は看取ってきました、患者を。さっき外来は、企図は延べ1000人くらい、重度の専門医に行った。経験から言いますと、ひとつは無知ですよ。親御さんも患者さんも無知。何回も言うけど、この本2001年に出した。第1版を。それが5000部売れた事実、つまりデュシエンヌな人全員に渡った計算になるから、これ絵本なんですよ。見てもらったら絵本を作ります。これをやった事実は全くまさに同じで、全く病気のことを知らない。だからごまかしちゃうのですね。嘘を言わない。それからごまかさないとやらない限り、絶対救われない。そのためには知らないとだめだろうということで、その絵本を作ったのが最初。
 もっとかわいそうなのが筋ジスは実は告知しないでしょ。いつも僕論文に書くのだけれど、僕が彼から専門医について聞いた話だと、告知されないわけでしょ。訓練しろとかいろんなことを言われるわけでしょ。それで頑張るのですよ。まじめだから筋ジスの子って。だけど当然病気進行するわけでしょ。そしたらどんどん機能が落ちるわけでしょ。そうすると、それは僕の頑張りが足りないから、自分を責め続けた。全員いましたよ。精々20歳以上、悲惨ですよ。だから僕はそれも論文に書いて、そんなことがなんでこのようなことが許されるのかということをずっと言い続けてきた。これもみんな言いましたよ。僕はそうやって。だから僕のところに全員来て、広島来て、お前筋ジスだよと言われて、スッとした奴ばっかりですよ。お前筋ジスだよと言いますよ。筋ジスだよ。直に言いますよ。聞かれれば。聞かれたら、そうだよ。聞かれるまでは言わない。筋ジスとはどういう病気って、筋ジスとはこれこれ説明して、治るのと言ったら治らないと言いますよ。全然僕にとっては何のあれもない。だってそれは言わなければどうなっているか見てしまって、聞いてしまっているわけですよ。悲惨ですよ。いまだに起こっていますね。

石川左門氏 いまだに起こっている。

C いまだにいますね。

石川左門氏 日筋協も変わっていないですね。

C 変わっていませんね。

石川左門氏 除名処分には大きな問題がある。

B このまま本人は知らされないわけだから、知らないのだけど、親も知らないということですか。

C 親は筋ジストロフィーと言われたくない人と、それから筋ジストロフィーって言われちゃって、逆に医者の方がいらなくて、何もやることないからまた何かあったら来て下さいと言って、帰ろうとする人までいる。医者に。そう言われると、筋ジストロフィーという病名をその一家で抱える意味を失っちゃうじゃないですか。どうせ何もないのだから。そんなことはないんだよ。ケア医療がありますよ。僕は出しているわけですから。だからやっぱり誰も悪いという言い方はないのだけれど、やっぱり僕は親でもあるわけだから、正直言って。ここは本当に対面してやっぱり探して僕の本でも紹介しますと言って、一緒に絵本なので誰でも読めるように書いています。全部誰でも分かる。全部書いて読んでもらって、やるしかないと思っていますよ。
 僕はいやらしい言い方をすると、すごい天狗になっていて、目を真っ赤に腫らしてこう言います。親心と言ったら、これだねと言って、だから正直言って、ものすごい数が来たから、面倒臭くなってこの本を作った。せめて読んで来て下さい。これに書いていないことを僕が説明する。だからこないださっき言われた東筋協が去年も僕を呼んだのですよ。この本で説明をしてくれ。この本で説明しました。東筋協に。こないだ東筋協に行ってきました。だからまだ病気のことを知らない・知りたくない。逆にさっき言った医者の方を知ったところで、お前ら何も得がないよ。みたいなのがまだあるのじゃないですか。

A 変わらないのです。

C 変わらない。

石川左門氏 私も残したい。

C 僕もそれは本当そう思いますよ。

A 本人は信用できないのでしょうか。

C そうそうそう。

A 本人は完全に分からないのでしょうか。

C 分からない。喪失の連続と、僕は言っていますけど、喪失の連続となるでしょ。だからそれをすごいかっこいいことが言えるよね。困難の進行はするのだよ。彼らに説明するわけ。だけれど、喪失はさせないようにする手立てを打つよと、僕は彼らに説明します。もっと柔らかい言葉で。そういうふうな言葉というか、誰でも持てばあまり告知の問題も何の抵抗もないのじゃないかと思う。もう1回、困難は進行するけど、喪失はさせない。それこそいろんな機器を使っていきますよという言い方をしていくこと、それからその喪失をさせないための主義とか手段を知っておれば、どうしてそんなに告知が難しいのかよくわからない。

D 親から病気を受け入れていないと立ちなんだろうな。批判されていない子供たちというのは、親が受け入れていないというのがとてもそれは不幸で、周りにとってはね。お子さんの病気は親と同様受け入れられないし、痛手も自分と同じ、自分の悩みも誰かに語れないし、苦しいところにいるのだなあと思って、親の気を配っている。思っちゃうのですね。

E 僕の体験なんだけど、白内障という病気で、中学3年のとき、母がほとんど時間の問題で、告知をされたのですけど、それから有名という有名な病院を連れていかれる。死んだのよ。なんで本気で分からない。それこそあの病気について治らないような。即効病院で手術ということで、分かっているのだけれど、親はそういう頑張り、僕にとっては必要はないだろう。僕は盲学校にいて、白内障らしいとすぐ分かっていて、白内障っておかしいと言って分かって、治療をしてくれる団体があるのけれども、母は反対にそういう方を持つ親の会ではないわけなんでね。だからお互いに情報交換して、反対の対応の仕方とかそれこそ治療中の自分の治療を知っているのですけど、親というのはひとりもなくて、なかなか未だに受容できないことが、あるのですよ。親というのはある意味なかなか難しい立場に立たされている。

C そうすると、親の受容を待っていたら、こっちができない。

D 親を誰が教育するかと言うと、教育する人がいない。難しい。

E 石川先生がおっしゃったように、人生観を聞かれたら、東筋協はどういうふに答えるのか、病気のことを聞かれたらどう答えるというのは、まさにうちの親もそう考えていると思うのですね。親も考えていることが、うちでも医者で、自分もよく勉強できたというのがあって、医者になると言ったときに目もまず医者になれないし、医者は自分の人生で留まるかというと、それもたぶん答えが見つからないので、答えが見つかるまでやろうというのが、たぶんロシアのように、あの時代というのはロシアに行けないのですよ。ソ連があったのだけど、それ自体にも力使って、ロシアもボストン病院に行った。だけど、親もそういうものなのかな。

C でも、親しかいないと思う。親しかいない。ここ5年くらい。だって、他の人だって絶対無理で、告知的なこととかもう受容も親ができなければ、悪いけどその子はかわいそうですね。犠牲者だよ。いけないよ。他の人はやっちゃいけないんじゃないか。

D 機能低下とかを苦しんでいるんじゃなくて、そういうことは何よりも苦しんでいるだろうなあと感じるけど、受け入れられない。

C もしあるとするならば、患者会とかやっぱり経験を持ったおじさんたちが、患者さんたちのケアカウンセリングをしてあげるということが、本当は制度として必要かもしれない。

石川左門氏 患者会の役割だと思いますね。それをしないということは、致命的ですね。これは医師会のベッドを作るには、僕は富士と言うから、春の浜辺のようには耐えられない。社会に出て出世する夢が見えない。結婚をして、家庭を持つ夢は見えない。僕には何か別の生きる意味がいる。しかし価値の基準がいる。そういう僕たちには、青春の夢が通用するような人生じゃない。でも生きている限りは、その生きている間だけでも、自分を納得させる生きる意味を知りたいのに、誰か分かってほしい。教えてくれ。そういう矛盾方しているのですよ。そしたら今度親自身も自分の生き方を態度として示す以外にないのですよね。
 だからこれは化粧じゃなくて、これはもう親とか子供とか、先生とか生徒とか、先輩・後輩とか年齢層を超えて、等しく人間が歴史始まっているのを課題として、みんなこの問題を考えてきている。そういった意味じゃお前の私も同じよ。ただ減ることは、悔いなくせめて自分自身に与えた時間が精一杯生きて、受容を悔いなく生きたということを持てるか持てないかが、最後の人生の勝負師だとしている。あれを入れるか入れないかであって、それを態度で示す以外ない。難しい哲学を我々言えるわけでもないけどね。だからうちの子どもも書いています。たとえ短い命でも、生きる意味があるとすれば、それは何だろう。働くための歴史を、ずっと一生を過ごす人生にも生きる価値があるとすれば、それは何だろう。もしも人間が生きる価値が、社会に役立つことで決まるならば、僕たちには生きる価値も権利もない。しかし、どんな人間にも差別なく生きる資格があるなら、それは何を目指そうか。自分にとっては、短い命とか長い命とかそういうのが問題じゃなくて、むしろたとえ短い命であっても、十分に納得のできる生きる意味があり、価値があったとするなら、自分は自分で自分の人生を納得できる。納得できる生きる意味・価値を誰か高めてほしい。教えてくれる。そしたら、せめて教えてやれるかと言われても、一緒に考えるという態度をとる。すると、いい友達、いい出会いがあったということだから、それは人間というのはこういう出会いが素晴らしい、素晴らしい出会いのためにあるのだなあ。やったことが自分の人生を活かしてくれるのだなあということは、子供なりに自分の人生を納得したいという思いを満たせるようなことを考えていく。
 だけれど、それは自分の子どもがそうだったのですよ。私はお金儲けに夢中になって、自分の子どもの真相、病気の真相を知ったときに、工夫したいでもって一晩中枕元に座って、子どもの元で目を見直して、泣いたりしたことがあるのです。そういうようなところがあったのだけれども、夜も白々と明るくなる頃になって、待てよと。親が子供の笑顔を見て泣くのは親の勝手だけれども、子どもはいつぐらいになって物心がついたときに、病気の真相を知ったときに、我が子はどうしたらよいのだろうかということですね。初めてそういう思いでもって、この一言を言ったら、子どもは、ああわかったお父さん、僕はやっぱり生まれてきたという意味なり、生きる価値があるんだねということを納得させるだけの仕事が嫌になったのですよ。で、そこで、ある程度私の残されている意志というのは、もう今までの自分のお金儲けのことはこっちに置いといて、これから子どもの病気の福祉運動のために遮二無二夢中になっている後姿を子供にみてもらったら、子供の生きる心の支えになるだろうと思った方が、43のときに転換した大きな理由だったのですね。今その道に勤めてよかったなあと思います。

A 生活の保障もないとそうでしょ。どうしよって言って。

C 僕は現実に考えている解決策は、もう一つは、僕はその論文に対してすごろくって書いたのだけれど、これ読んだ人から、ある人から情報でライフマップを作ろうという運動が出ているのですね。二分脊椎は出来ている。ライフマップが。それが図書館に行って病気が分かればライフマップあるよと言いたい。自分の親に。僕、是非筋ジスを作ってみたい。残念ながら死亡ですから。最期は。これは国の研究班の幹事をやっていたときに、作りたいと言ったのですね。僕が。研究班の他の幹事は反対。今とすれば僕は作るべきだと思います。
 つまり、女性の方が二十歳で死ぬ事態から38まで伸びた。自分はあの時何ができて、どういう可能性があるかと思って、誰がどう伝えているのか。全然伝えていない。だからあの時に思った疑問なんかは、僕はずっと言って、結局終身刑じゃんと言って、そうなっちゃったわけです。未だにそんなことを言っています。平気で。地域の学校に行くでしょ。高校まで何とか行って、親は、自分は自分の気持ちを晴らしたつもりで、高校になったら無理だ、無理ですよね。実際人生いろんな意味で無理な面があって、国療に入れる。国療に入れたらまま、どこに行くのですか。死ぬまでおるじゃないですか。90何%。これを終身刑と言うんじゃないでしょうか。国療は何をされているのですか。人権侵害をされているのでしょ。いっぱいされているわけです。それがわかった親はいやらしいのを捨てますよね。正直言って。
 養護学校で何を求められるかと言ったら、18で俺は出せと言ったわけです。高等学校を出たのだから、出るようなシステムで教えてくれと言ってくるのです。何もしてくれませんよ。していませんよ。だって、八雲病院だって、介護と看護の区別さえつかないのですよ。それはどうやって自立できます。18で病院入れて。いっぱいおるのだから、あなたたちが下雫病院から引っ張り出そうとしたって、全然社会の仕組みすら何も知らないね。彼らは。それでは出れないですよ。だから社会みんなで親も一緒になって彼らを、終身刑を背負っていこうとしているだけですよ。こんなことを言っているけど。だから僕は出口を作れと言っているわけですよ。出口を作って、出口で成功させてそこに教育が入っていく。中でいろんな考えが出てきてもいいだけで、今出口もないよなあ。出口なくて、筋ジス病棟だけがあるというのは、僕はこれって罪じゃないかと思うのだけど、どうですか。なければ在宅におるわけでしょ。何とか。どう。自分の病棟でコックリいける、すいません。

D 筋ジスのケアには何が一番、筋ジスのケアを病院がいいのか在宅がいいのかという、何か私は分からなかったのですけど、周りの人が在宅でちゃんと看てくれる人もいるというのは、筋疾患の人には複数で少数の介護者が複数の人を看るというのではなくて、マンツーマンで手足になってあげる介助者がいるが、いいケアができるのかなと思ったのですよ。それが、病院ではそういうのは難しくて、在宅の方が当人の思い通りには動きやすいのかもしれないと思って、それから出るときにその子が話していた病気のことで、2才から病院に入った人と、7歳から病院に入ったから、病気の話をした方が無難だったのだけれど、在宅だと医療が技術的に減るわけだから、死ぬかもしれないし、自分の体を自分でコントロールしないといけないようにすごく病気の話をすごくしなければならない。それで、出る出ないの決心をして出ていったのだけれども、その話をしたことがまず習っていったら、決断ができたとつかんだんじゃないかもしれないし、自分にとっていいケアとは何かというときに、病療の場所として病院でナースコールを押してからの流れで40分、だいたい平均で20分、それでは自分は危ない。ケアはなされていないということで気が付いているというアプローチはあったのですけれど。


C すごい恐ろしいことを言うと、記録されちゃうけど。今の国療って、国療ですね、今からどんどん状況が悪くなると、僕は思っています。そうなったときに、さっき言った最低限入所した方がいいよという医療がこっちの方が確実だからと言えなくなっているのじゃないかと。逆にすごい怖いことで、当然自由はなくなりますけど、服も週2回という形になりますけど、せめて生命のあれに関しては、安全だということで国立療養所で病棟があったなら、それすらなくなってきているので、状況になってきちゃったら、もう正直言って存在価値がなくなっちゃうのですよ。不自由だけど医療的には安全だから、国療に入院していたものが不自由だし、医療も決して安全ではないという状況になったときに、どうなったのだということになっちゃうのね。どうなったのかという結論は、それを悪いけど僕みたいな小児科出身だと、やっぱお母さんたちが家に帰ってもらっちゃ困るという考え方が、今度また支配してしまうならば、また子供たちも本当にかわいそうになっている気がして、僕はだから彼女とつるむみたいになっているのは、そのすごい危機感を感じていて、非常に危なくなっていると思うのですよ。国立病療所というのが。医療だけは確実にいいのだということでもなくなってきている。人手不足でアラームやったって、来なければ在宅だったら救われたのに、ひょっとしたら病院で死んじゃったということが起こりうるわけでしょ。そうなってくるということが、凄い怖くて。

D 伊藤さんのことにつながる質問を持っていて、こちらは国療で在宅の医療の中で私がすごく興味があるのは、正一さんのケアのときにチーム医療、医療の方とボランティアの人が一緒になってケアを行ってきたということがあって、正一さんも中学校のときに作文の中で不幸というのは人間にとって自分の心を打ち明けて話を聞き合ったときに、対話のない孤独な社会だからだというようなことを書いてらっしゃって、今伊藤さんがあのことを一生懸命話し合ったというというのは、専門職であるけれども向き合って、心を話し合ったということが起こった。でも正一さんたちの時代には、ボランティアというそこに何の有償とか何の利害関係のない中でも関わりというか、そういうものがすごく豊富にあった。だから今どんどんそういうふうに国療のそういう大きな施設ですから、小さいというものになっていて、どんどんボランティアじゃなくてやっぱり有償のそういう所で、はっきりと手当されていかないと、ちゃんとしたケアを受けられませんよという流れにどんどんなってきていて、ボランティアじゃ駄目だという流れが多くなっているのだけれども、その辺りで有償の問題・無償の問題ということとその正一さんが言って、その人との交わりがそういうふうな部分について、石川先生はどういうふうに考えているのかなあということも、私は今日聞きたいと思って。

石川左門氏 うちの子供たちの場合には、人間らしく生きて終わりたいのは、やっぱり施設というのか閉鎖的な中にも家庭の中では、地域の一市民として生き抜いて終わることだろうというようなこと、その思いをどうしたら叶えられるかということを私の運動だったのですよね。そんなときにやっぱり彼が末期になっても頑張って生きている姿を見て、いろんな人たちが自分の石川正一君と会えてよかった。石川正一君と会ったことが、自分の人生を大きく転換させることができたといういろんな人間関係が出てくるのですよ。その部下がいないし、短かったかもしれないけど、こんな素晴らしい人と出会えてよかった。そういう満足感を持って、彼は終わったということの意味では、やはり選択の自由はありながら、本人がこういうふうな生き方を選択したいのだということを、環境を提供できるようなということが社会的な再帰したいだろうなと思いますね。
 母子家庭であろうと、父子家庭であるとか、経済力のない家庭では、最低必要な施設も必要だろう。しかし、何とか普通一般の家庭の中でもって何とか家族がこういうしっかり家族を支える主人たちも、お隣さんがその気になればやっぱり地域の中で生きているなと呼ばれることが本人にとっても一番幸せだったということが、私は思いますよね。だって、それをどう叶えるのかということが町の病院であるだろうと。そういう単純な考えだったのですけどね。

C 先生言われるのは、結局地域で生きるということだと、有償なり無償なりのボランティアが関わることと相反してしまうということでしょ。可能性が出てきちゃう。

B そうです。

C 地域に生きようとすると、地域という言葉があれだけれど、コミュニティーで作ってつなぐかが、そのボランティアの人がすごく重要な役目を、僕は当然担うと思いますよ。いろんな意味でボランティアであっても、直接介護するボランティアでなくても、それがもしもっと偏狭なこういう資格持った人でしかできないよという雁字搦めにしていくということは、逆につつがなくなっちゃう。というふうになっちゃう。ずっしりとなかった。病院だってどうやっても赤字になるのは当り前で、国家資格がある人ばかり、企業作っているわけでしょ。いつも僕言うことは、例えばこう運命が、全ての人が引き受ける意思を絶対被って赤字だよと、いつも僕病院見て言うのですけど、それと同じことを病院でされているわけだから、人件費は下げようがないわけですから、絶対病院が黒字になるということはまずあり得ないわけですよね。だから資格のある人がやるのが病院になっていくということですよね。

B その最後のところで関わって話をするというところは、なかなか制度の中で成り立たなくなってきているって、国療がそういう形でなかなか受け皿として、収容所ぽくなっていく。同じように、最初の理念は在宅でということで、こういう通い合うような会合と思っていたのが、だんだん制度の中で成り立たなくなってきた今度の末が、主婦の人たちとか時間がある人たちのボランティアみたいなもので、補填されなきゃ回っていかなくなっていくという現実になっちゃうじゃないかな。でもそこで何かどんどん形骸化されていくと、そういう悩みというのは、どうしても出てくるのじゃないかなというふうに思います。

C これは千葉のケースでは、親御さんが会ったよね。引きずり出すときの片棒を担いでいたときに、あの時の親御さんはどういう態度なんだろう。出会おうとしたら、止めていたわけでしょ。出るな。出るな。止める側に入ったわけでしょ。

D 病院側ですか。

C 病院じゃない。

B 親御さん。

D 親が?

C 止める側がですよ。

B それって、親御さんはだから、つまり親御さん自身がさっきの話じゃないのだけど、無知で出たらとても生きられないという前提から一歩も抜け出れないから、出て自分が支える側には到底回れないだろうという恐怖もあるから、知ろうとしない。出られる仕組みを仮にこれから作り出すことを、可能性があるにしても、それを知りたくないというところなのか。どうなんでしょう。

D 親が違うという問題か。自分が病院から1回出ると、病院ってとても縛りがきついので、もう戻れなくなることが嫌で。嫌で。そうなった時に、すぐ出た人が有償ボランティアと一緒に出た。だけども、無償のボランティアさんたちと出て、自立生活を始めた経験があって、成り立たなくなってしまった。本人のいろんな問題があって。在宅で家にいる。妹さんが今度出るとなったときに、こういうふうになって、また親のところに戻って来られても、おったら面倒見れない。というのが大きくあって、それで反対をしていますね。

C でも出しちゃったわけでしょ。

D でも、今はボランティアが危ないらしいというか、だから止められないというか、そこの経済が発展しているので、その人に関わっているなので、お金になるので、そうするとそれの介護やりたい人たちがいて、だからそれなら今のところは問題だと。人手が足りないのではなく、何とか生きてきてやってきたというのがあって、それはボランティアでないからできるかもしれない。実際には退院を支援するということはボランティアであって、退院してからやることは有償になっていくのですけど、そうするとそこで経済が発展するなら、かもしれないのですけど、それでも別に何というか、いいサービスはできるし、お金もあるし、訪問サービスというのは絶対的に効果もある。本人が生きることがたくさんあって、非常に。

B そうすると、ひょっとしたらその先の話ね、親告知をするのに当たって、やっぱり親だろうと言ったときに、患者会がその親を支えるとか、そういう形になっていないということですかね。

C もちろんです。いやだから僕は日筋協に必ず一番驚いたのは、先程言ったような結核△を、結核△というのは失礼だけど、自分のお子さんを亡くしている人たちが全然経験とか伝えていないことに関して、驚きましたよ。僕、当然追って意見を筋ジス協会に、脱退された。それで入った。でもよく使われるお医者さん、日筋協と言われるくらい、僕いっぱい本を書いて、あそこでビデオを作ったりしているのだけど、驚きましたよ。もうちょっと当然伝えてやってくれるかと、ドスンと僕らも楽だなあと思って、そうするとそれはない。本当それはないと思いますよ。東筋協の話しか知らないのですけど、本当それないのですね。
 だからなんでこんなないだろうと、逆にすごく疑問を持っていたのですけど、なんでなんだろう。それで一番何か自然的で分かりやすいじゃないですか。経験をお母さんたちにお母さんが関わってくれば、やはり僕らが専門職で、その時と10年経って医療の大学も変わったからね。ここは違うよという話で、入っていける余地があるのに、そういうことって全くない。ありますか。ないですね。

石川左門氏 私が代表をしていた時は、そういうことも明けても暮れてもやっていた。次の段階でできるのだけれども、私がこの年だから、おばさん達の話の中に加わっていた。

C システムとしてはないよね。

D 東筋協はいろいろ出てきますけど、反対が出てきます。いろんなことが、どれだけ大反対、患者さんたちの絶対の筋協、まず入らない。そういう状況で、どっちかと言えば、私は東筋協の人に近いので、まだそっちに入れる患者さんはいる。親は。

C 情報を操作されているのかな。確実に。

石川左門氏 やっぱり東京の会場がちょっと違ったのかな。意識がね。

C そう思いますよね。最初からさっき違う考えを言ったけれど、本当今でも通用されているこんなに昔から逆にずっと言っていたのかな。いったい何やっていたのだろう。

B それはないよね。

C 2001年に野中先生が自分が出したかったと書いているわけでしょ。なんで出さないのと、僕は思っていたわけ。俺釈放されたと言っていたけど、2001年にようやく病気のことが優しい言葉で絵も円つづりで書いて、ようやく出た。筋ジスの。2001年ですよ。それまでないのですよ。それも驚きでした。だからやっぱり驚きでなかなかソリューションを作らなきゃいけないのだけど、ライフマップ運動みたいなやつと一回絡みたいなあと思っている。

E ライフマップ。厳しいなあ。

C かも俺に直接的かな。筋ジスみたいな。ALSみたいな。二分脊椎は最後結婚で終わっていますよ。だからハッピーエンドで作っているマップだけど、こっちは、二分脊椎はできている。子供の頃はとても泌尿器の問題と帳尻を合わせたら、病院に書き換えなさい。それはどうなのかなあ。ライフマップ作っちゃうと、親御さんたちもそこでのそのそと動きぽくなるのかなあ。またそれを見せんような運動をする。

E ライフマップというのは、例えば親が育てているアトリエで、いろいろ参考にもなるわけです。

C そうです。そうです。だから、ライフマップ運動が最初に書いてあるのは、とにかくさっき言った親御さんの経験、だれでも病気になったり、病気のお子さんを持つというのは、初めてなんですよね。普通はそうすると誰もが初心者から、スタートするのはもったいないというところから入っていく。でも、その通りじゃなくて、だいたいこういうものがあるから、それに対してどう味付けするという意味では、ナラティブみたいでそれを助けるということになるのかなあという意味で、どうもやっているみたいですね。僕もどうもある種紹介されて、ちょっとホームページを見ていたら、今でも出ますよ。二分脊椎のホームページに入っていますけど、二分脊椎は出来ている。

E 二分脊椎というのは、脊椎の病気ですか。

C 脊椎の、生まれながら脊椎の病気で歩けなかったりして、おしっこが。

E そういう人たち。

C そういう人たち。だから。

D 湿ってくると、しなくていいと思うのですけど、私は病院でしか生きられませんという人がけっこうベッドの上に入院しているのですよね。そんなことはない。その辺の情報がないということをどういうふうに、そういう情報はあまりにも少ないかなと思う。

C 何か解決していきたいなあと、僕は思っています。このままでは、今のうちから、聞いた話だと、まだ続いているの、まだ全然、自然に告知されたという。自然とは何か。国療に入ったら、隣のベッドで死んでいくわけでしょ。それ自然?なんで?どこが自然なの。それを自然ではないじゃない。ものすごい残酷な一番残酷な告知の仕方でしょ。

E 最初のがんの告知の仕方もがんというのは、どうなんでしょうか。

C すぐ。

D がんはもう。告知している。

C ALSは問題あるでしょ。

D でも告知はしていない。

C ALSはすぐに告知。

B 今でも本当に子供だってインターネット使うから、知っています?知っていますよね。告知されなくたって知ってしまうわけで。

D 病気のことは知っているのだけれど。

C そうそうそう。どうなるかという。

D どういう生き方をするかという。

C そうそうそう。

B それが分からない。

C 余計不安になっちゃう。病名わかっちゃうから。

B 告知までしか分からない。

D だから告知するだけになっちゃう。嘘の情報があったり。

C 残酷です。残酷。だから。

D 怖いという。

C そうするとなくさないというということを、こちらからどんどんこうアイディアを出していかないかんわけですよ。こういうことできるでと。歩けなくなったら、電動車いすで漕ぐことできるでというふうにやっていくべきである。そうすると、楽させていけば、それは自信もなくしていきますし、だからしつこいのだけれど、地域の学校に高校まで入れるというのは反対なんですよ。ものすごい損失なんですよ。その間に。

B できなくなる。探せば。

C どんどん人と差がついていく。自分はだめなんだという劣等感から、なんでそれが地域でインクルージョンがいいというふうな自分はしつこい苦の問題を初めて書いた。

E 以外で何かいい方法はありますか。インクージョン以外に何かいい方法はありますか。

C 僕はだからもしこれから特殊教育を本当にやるつもりなら、年間930万円かけて残るつもりならば、早く言って18で出すような教育をしてくれと。

B 自立のための教育をするということですね。

C はい。インクルージョンはしたいが、インクルージョンでいいんです。だから地域の学校でもその子が18で高等学校を出たら、本当に自立できるような教育をしてくれるなら、だけれどそれを地域の学校に求めたって、まずできひんやろうから僕は敢えて逆の用語で書いたら、早く入れてでも18で出すようなのが、出すために僕今是非お伺いしたいのですけど、札幌でこのような施設を作ったのですよ。作って、できた建物で、僕はそこに医者として入るかどうかがちょっとまだ難しいところなんですけど、だから出口は作る動きをしながら、教育もそっちにやって、出口は作れる、あるよと出れんことはないと、みんなじゃないけどね。だけど、その人たちじゃどういう教育が望ましいかというふうに、早くやらないと、僕は悪いけど、小学校まで地域の学校で高等学校は国療に近い養護学校、卒業してからずっと病棟で死んでいくというのは、もうやめないといけないかなというふうに、ある意味では思っている。

E 今ということでは、今統合失調症の何かは、収容後の支援だとかいろんな意味で、ほとんど自宅に戻している傾向はある。それは支援を受けてから。

C 国がやるのは、僕はよく分かりませんけど。1つは、筋ジスがやらないのは、先程言われたように、筋ジスを一応筋ジスの代表と言われる日本筋ジス協会が、それを望んでいないから。

E 日本筋ジス協会というのは、当事者ではなくて。

C ほとんど親御さんですよね。しかも子供さん亡くしてしまった。もう理事長以下みんな年をとった人、とうの昔から、今現在治っている筋ジス協会の、僕はだから筋ジス協会に関わっていますからあれですけど、やっぱりリアリティーを知られたというのですよね。今困っている親御さんたちは、正直言って、協会のようになっていないでしょう。そこはその辺は読ましているので、かなあと思います。彼もなんで就労とか形だけで就労支援の研究は1円ぽっきしましたけど、僕も知っていますけど、全然出てこないですね。その出てこないみたいなダイナミックに出口を作っている運動と、教育をそれに合わせて変えていくような運動というのは、全然出てこないですよね。だからこのまままだ続いちゃう。国療というか。

E 国療って、維持するのに一人当たりいくらかかるかという、そういう試算はあるのですか。

C 一人に重症心身障害と筋ジストロフィーで、1人1月100万円病院に行くお金がある。それが全く下がりませんので、だからさっき伊藤が言ったように一般病棟があるところは、そのあがりを一般病棟は赤字に使っています。それが堂々と使っています。これは人権侵害だと、僕は思っています。当然その子たちについたお金は、その子たちに使われるべきだと思っています。一般病棟の赤字はどうするかというならば、僕は簡単な解決策を持っていて、それが本当に一般病棟が必要な医療をきちっと、国立の医療機関がやっているならば、それで赤字になるならば、保険点数の付け方が間違っていると言うべきだと、僕は思っています。ただそっちがさぼっていて、筋ジス重視のこのお金をこっちに流しているというのは、それは犯罪行為だと思っています。どっちかしかありません。僕は思っています。こんなこと取られちゃったな。首が。僕はそう思っています。100万です。だから、逆にさっきの在宅の問題というのは、もっと年間1200万ですよね。悪いけど、入所させていると。それが在宅だともっとかかるのですよね。どうなんでしょうね。今度はお金がどっちがかかるの。

B 一人100万。

C 1人1月100万。だから1200万と見ていい。入る時。療養所に入ると。医療費と生活費。じゃないと、逆に国立療養所みたいな給与体系高いところみたいな。

D ここに特別支援が一人。 

C 特別支援費入れて1人930万円。

D 教育費だけでですよね。

C はい。一般学校で90万円です。一般人の10倍かかります。だからさっき言ったように、子供で筋ジス病棟の中に入っている子は、年間約2000人。2000万がどうのこうのというのじゃなくて、在宅だったらこのぐらいかなと思っているだけで、国はそういうことをお金で計算してくるかなあと思っている。

E 精神の外来をしているので、それで、国の場合、在宅になった場合、通称にして、通称にした場合、以前は1人は登録してあげると、1人に対して月にいくらという計算をしていたのを、今は通ってきた日数・時間まで計算して、それで事業書に書かれるようになったので、事業者は大変だと。

C 大変ですね。

E 今は改善しているけど、厳しいですね。

C 通称、僕だって、去年の9月に筋ジス病棟に復帰したのですけど、2年間前回あそこに書いてある某民間社会福祉法人である施設長やったり、重心やったり。本当は、もう分かるように、デイケアは大変でして、昔はだから1月単位くれたでしょ。今は実績でしょ。そしたら悲しむ人がいっぱい出ちゃったら、その日すぐ赤字出ちゃって、人件費も出ないという形で、ものすごい頭痛くて、デイケアでも年間2000万円以上赤字でしたよね。

E だからその3者だって、家族と事業者と国があるとすれば、今日は調子が悪いので、休みますと言うと、家族みんなが減るのですね。おかげで。そういうとき、家族が減る。事業者が減る。国も減る。一番損するのが事業者だけ。家族1割負担なんで。なんで?

B 生かせられなくてられなくなっちゃうわけで。

D 抑えるわけでは。なかなか国はいろいろ考えている。だからその支援制度自体がもう申請してこないだろうとしたものが、以外としてきたため、破綻しちゃったという経緯があるというわけで。

C でもそれが必要だということでしょ。本当はそれでその形で理由は必要だと思って、そっちに書いた。もう1回元にもらわなきゃいけなかったのかなと思っています。話と違ったけど、でも親御さんたちしか、僕は入所できていないと思う。ALSはどうなんですか。まあ不運ですよね。ALSは子供じゃないか本人が納得するしかないですよね。既にですね。

D そうじゃない違う問題があるのですけど、またそれは。

C 告知の問題で言えば、ALSは、僕は本人ですよね。

D 家族に先に言われちゃったりするのです。

C それは全くおかしいと言い切る。

D でも辛抱しても。

B 今ガンでもガンは本人ですか。どうなのかなあ。そうですよね。家族に。

C 僕もずっとすいません。ガンは当然本人だと思っていました。だって、そうしないと訴えられるんじゃないですか。だってなぜかと言うと、抗がん剤にしても、何にしてもメス入れることでも、それは傷害罪になっちゃう。本人に。正式に言えば。抗がん剤に副作用があるので、副作用が出た段階で、それは当然メリットデメリットを、本人に納得してもらわないのに抗がん剤の副作用が出るというのは、当然それは刑事罰じゃないですか。毒を入れた。

D 本人にという話になっているのですけど、やっぱりちょっと前の人たちだと、ガンというと、もう死ぬということ、イコール死ぬということでビックリしちゃって、ということがあって、パーソナリティはやっぱり右って話は聞きました。

C 見て承知なんですけど、医者の方が自分を守るために何がかんでも本人に言っていると、信じていました。

D そういうところはある。

C と思っていました。

D 子供のガンって、法的には告知の方向にある。そうですね。生命倫理学。

B いやいや。ちょっと。

C 本当にこう石川さんの話を聞くと、もう今の問題はあんな昔からやっていたというのは、すごい。それがなぜか解決していないのだという。一番悲しくなりますね。これだけ先にしごかれて△いたのでしょ。

B つなぐ話なんですけど、つなぐ話というか、これってつまり何というのかな、手探りのひとつは、石川さんのご夫婦にしても、正一君にしても、本当に実存的な人生論的なことに立ち向かうということに関して、基本的に進行がまずあって、そこにそこから来る強さみたいなものがあるというか、それは何というか外すことのできない非常に大きなものだなというふうに思わざるを得ない。でも、普通そういけるだろうかというところがやはりあって、もちろんそれがひとつと、それが原動力になっているんですが、やっぱり手探りな中で、こう新しい事業をというか、その新しい方とを次から次へとなさってこられたということが、見出してきたものを、そうではないというかな、ところの違いはものすごく大きいような気がするのですね。その何十年、30年の違いがあるにもかかわらず、どうしてこんなに違うのだろう。あのところはおそらくたぶんそういうところに関わっていて、既にあるものでスッと乗るだけであるか、ないものから作りだそうとしてきた人とあるいはその人の周りに集まってくる人が作りだすダイナミズムみたいなものの強さというのは、もう既にあるものに乗っかっていこうというのとは、明確に違う。有償か無償かとかそういう話でもなくて、たぶんそんな気がしてしまって、でもですね、親御さんに知りたくない、知ろうとしない。子供自身は知りたがっているのに、病院にいて知ることができない。それをまず知らせるとしたら、その親御さんだ。親御さんがどうやって告知をしていくか。親御さんがまず受け入れていくかということを教えるとしたら、患者会としたら、そこには素人は乗っかって流れている人に何か仕組みとして、もう少し違う方向みたいなものを作っていかなくちゃならないですよね。それって何なんだろうということを、すごくお話を伺いながら、ずっと考えてしまって、ハタッとその先それが何なのかというのが、やっぱりまだお話をうかがって、これってきっとたぶん石川正一君と石川さんご夫婦だからできることでというふうに、心の中でどうしてもこう。

C 気持ちは全然ソリューションにならないわけで。

B その先にいかないからね。それがどうすればいい。何なんだろうなということをすごく感じているんです。

石川左門氏 全ての運動というのは、エゴイズムとの戦いですよ。結局は。

B それを戦いながらどういうふうに、どういうふうに戦ってこられたのかなというまさにそこですね。伺いたいのは。

A 医者がね。

C エゴイズムってどういう意味。自分の子どもさえよければという意味ですか。それか自分を満足するためって意味ですか。

石川左門氏 それもあります。それから今度自分を刺激しておきたいけど、刺激性を訴えることでいくらかの社会が注目してくれるならば、そっちの方向に向かう。自分中心に必ずなってしまう。

C でも、それは結局、正一君のためになるということはあるということですよね。

石川左門氏 これを含めて、正一のような生き方が許されることは、全ての人にとって住みよい社会の実現という話はある。だけれども、為というのじゃなくて。

C 個々の想像力と思っている。自分の子供で苦しいとか、自分の子供で何とかというのが、同じような可能性を持っているのじゃないかとか、そこで抵抗したことが、他の人のために役に立つという想像力を持てる人と持てない人を、いてるような気がして、世の中に。そこでそんなことができない人は、何か尻つぼみになっているというような気がしている。

D そいつが代わりに行くかといったら、1つの例ですよね。子供だからというのとか、筋ジス医療というのがやっぱり障害枠で地域でという捉え方よりもむしろ病院の先生の意見というのは、すごく重大だったらなあと思うのですよ。筋ジスの場合は、国立にいる先生が基本的には専門医なので、いろんな国立の病院から筋ジスはなるべく出さないといういろんなジレンマとかいろんなものを持ちつつ、先生たちの意見というのはすごく重大で、だから親としても誰に頼るかというと、お医者さんに訴えるというのが、すごくたまたま地域で、カウンセリングなどいろんなことを、今でも患者さんの負担を地獄めぐりをして、どうしたこうした、誰がお袋にレスポンスをして、押してとか、いろんな問題があって、地域に出てくるのもすごく大変になっているのですよね。だけど、そういうことも医療の枠から出して、教材の枠でやるということがなかなか筋ジスの場合、難しい医療になっている。置かれないというか何がこないというのが、そのような気がするのですけど。

C 証拠はあるんです。証拠はですね、国立療養所で入っているのは、筋ジス病棟と重症心身障害が入っているでしょ。重症人身障害の方は、民間というか社会福祉法人に、僕も2年間勤めましたけど、数が多いくらいあったわけでしょ。そしたらどこが違うかと言ったら、もう国療の官立が独占していますよね。長期の。やっぱり重心は今どうなっているのか見れば、重心は民間も長期もできるし、その差はどこで生じれば、やっぱり官立でずっと逆に保障してきたことの今は副作用というか後遺症に悩んでいるということは、僕は今自分のそこに勤めている人間として、それが嫌で一旦辞めた。それが松江病院を嫌で一回辞めて、民間の病院の重心の施設長になったわけでしょ。それもそしたらそこでの問題も見えてきたから、筋ジスやりたくて戻ったのだけれど、やっぱりそれも分かりますよ。やっぱりそれはその通りなんだけど、そう言ってても、何も変わらないでしょ。だから本当にあれなんだよ。ものすごいね。官立の専門病棟ができたというのは、ものすごいことだったのですけど、それが今は少し総括していると、後遺症を生じてきてしまっていて、そこでは僕はやっぱりあなたと同じ意見だと思うけど、国療の医者がさっき左門さんが言われたように、やっぱりおれら専門医が出ていかないといけないわけですよ。やっぱり地域に出ていって、やっぱり地域のお医者さんと接するのを増やすということがやっぱりまずソリューションだと思う。その機会をどうやって作るかということを議論しなくちゃいけないと思う。ALSも同じなのかもしれません。やっぱり僕らが出ていかないと、医者が向こうがあんたさっき言っていたような筋ジスの、在宅の専門でない先生が連絡してくれないというのは、それを返す僕らの方が出ていかなくちゃいけない。しょうがないから。僕らはどう出すか。その証拠に南九州病院というところは、院長自らが在宅でずっと出ていますよね。あそこは割とそこはスムーズに行っていますよ。

D 小さい頃昔在宅相談室みたいのがありました?

石川左門氏 今でもありますよ。

D 今でもある。今はもうなくなったと、近所の方が昔はあって、それによくやってもらったのだけれど。

石川左門氏 私のマイクロバスの。

D 責任感がなくなって、各区に必ず難病の保健師さんがいたのだけれど、それもなくなった。だから今レスパイスも受けれないし、どうしたらいいのだろう。東筋協もこれはまた。

石川左門氏 圧倒的には、診療報酬に問題がある。自分のお医者さんと専門医とが、どちらが太刀打ちできるかとかね。だからそれにはやっぱり社会的な環境条件というようなことは、やっぱり運動の中に目標として入れて、それから解決しようとしない限り、専門職だけで先生だけの問題に留まっちゃう。先生の担っている問題は市民の問題でもあるのだよという運動論的な理念を逆さっているというのは、日本人の場合には非常に苦手なんですよ。運動論がないんですよ。

A なくなっちゃったのですよ。

D なくなっちゃったのです。

C おそらく経営改善の中で一段かもしれんね。

D 治療法がないからもう全然。

石川左門氏 おそらく病院からの訪問診療が、これが伴うのだったね。医療サービスは残ります。だったらそういう運動を、患者会自身、しなければいけない。そこが大事なんですよ。それを専門の施設とか領域の中の専門医の先生方に任せておきたい気持ちであっても、解決する。そうするとその辺りにいる意識が、話になっている。
 それを自分のうちの問題として、そういうところの環境をとどめることによって、在宅診療の可能なような条件を社会的につくるということで、運動を患者会がやらないのですよ。支部もしっかりアピールすればいいわけです。こんなに困っているのだ。こんな言い方だけで運動やれたら、仮にも解決しない。私が国民春闘からこんなバカバカしい難病運動やるのはだめだって。市民と一緒に街づくりをどうするか、その中で個々の問題を位置付けていくか。しがみついていくしかないなあ。ということで、私は。

E 国連みたいなことも、地域運動もしっかりしていない。

B 疾病のね。

石川左門氏 ◆おそらくさっき言ったように神経病院の在宅診療は、これに結びつかなかった。先程△なくなっちゃった。

D 筋ジスが多いと、診療報酬がすごく高いわけですから、普通の民間医療にふんばるのがあったとして、しかも看護師の数も1.5倍いいよというシステムがあるのですよ。そうするとすごい少ない人数で高い診療報酬が得られるというと、在宅の支援というのはしたくないわけですよ。私たちこの前在宅に今30年別の病院から出る。だから別の病院に来て下さい。出張費は誰が払うのか。いろいろ話になるわけですよ。うちの本店の出張費を、毎度採用のために、お願いをして、引き払ってということがなければ、伺いはしません。伺いはしませんということだったので、なかなか降りてくてくれない。雲の上のような人たち。

C 雲の上にいるのだけれど、実力はないんだよ。

石川左門氏 これ、何でもかんでも医療領域にぶら下がるというのではなくて、地域の中でもって、自立して、ガン生活の思い出もある。地域のシステムを考えたら、病院に長くいるような段々なくなってくる。病院のベッドの回転率がもっと増えて、幅が広がっていく。そういう意味ではきちっと経済的に計算をして、こうなりますよ。このお得意でもありますよというような話をする。この者がこういう道を選択した方が、本人にとっても人間的な幸せの道につながりますよ。そういうきちっとした論理を分からなきゃだめなんですよ。日本の医者というのはほんとうにこうなんです。自分でも確かに。そういう問題があると思います。
 隣で高齢者のグループホームもやっているのです。そうすると、ちょっと在宅で帰るでしょ。こっちもまた御無礼△なんですよ。その分だけ経済は取られるかつ取れる。同じですよね。これはおかしいじゃないか。2009年のうちに帰ってからと言って、その間相手の誰か別の人が入るなら、衆議院の考え方はいいかもしれないけれど、そういうことはあり得ないけれども、参院にもその時に出しちゃってね。そんな話はできないと思っている。
 それは非常に目先だけで経済的な合理主義に合わせている。おかしいじゃないか。そういうのも納得できないということを市民としてやっぱり、市民の世論を背景にして、当事者の市民に不正行為をさせないようにしなければならないですよね。そういう運動論がないのですよ。私は当事者エゴ運動と呼んでいます。当事者エゴ運動。疾病運動という言い方をしましたけれど、自分たちの問題は自分たちだけのことであって、自分たちの問題は解決するということは、全ての人にとって潤う。プラスになるんだよということを、論理をきちっと分かりやすく、一般の市民にも分かるように言わなきゃいけない。

A・B エゴ。エゴ。

E エゴ運動。当事者エゴ運動。

石川左門氏 これは当事者エゴ運動とも言うし、疾病エゴ運動とも言うし。

E 疾病運動。エゴ運動。自分のことしか考えない。

石川左門氏 解決をするためには、その疾病問題あるいは難病問題の狭い分野でなくて、それを問題解決しない。仕組みそのものを考えていくべき。考えている。個別の不平や不満のはけ口で終わっちゃう。だから専門職も大事だけど、もう少し教育をあげると、交渉して生活の 恰好でもって、身分付けしてもらいたい。それを当事者だけには言っても、行政は知らん顔できるわけですよ。その後は両軍の配給が許さないよという環境が出来上がってくると、相当無視できない。

D でも、本当に起きるのですね。でもいろんな最初に傷になった。仕事の中で、視覚障害者関連の機器を作っている会社で、国が機器を障害者が使う機器で選別するかどうかというのは、やっぱり当事者からあちこちから声がかかると、入れる仕組みになっているのだけれど、その仕組みというのは当事者運動を誰も分かっていない。やっぱりいろんな厚生労働省やらいろんなところにおいて、話聞いているうちに結局、それ自体当事者の医療はいずれも単純な話だけど、当事者は、それは必要だと入ってきたら、行政というのはこういうのがあるのかというとして、まず勉強して、それで必要性を検討して、それで遺伝子というのがあるのかということで、そこを当事者にしないで、なかなかそれを言わないのですね。本当に必要なものであるにも関わらず、言うと。

C それは誰が教えるのですか。

E 学校で教える。

C 誰を教わっていないのですよね。

E 誰もそういうのは知らない。

C 教えている。知っている人が、それはどういう機会でということになるわけで、教育に入れるのかな。それか教育に入れるのか。

E 教育に入れるのかそうやって見ないのか。1つは視覚障害者で、全国的な組織というのがあって、そういう中でこういうのを言った方がいけるらしい。私は一時期そういう応募したりしなかったりという頃があったのですけど、当事者からすれば、言ってもできるものとできないものがある。言っても、すぐに反論が得られない。それでもって、国民というのはすごく考えた上で、本当に必要になってから、1・2年経ってから、やっとまわるので、そう思っています。そうなると、当事者から自分の運動がそれに結びついたからというのが、分からないようになっている。そうすると、1・2回研究されることはしないことになっている。結局はそれでも積極的に要望を出すということはあまりしない。結局誰かがやってくれれば、きちっとしていれば、何もない。

石川左門氏 当事者を、日筋協の患者会にもったけど、運動の中に中国語△の発見、研究促進ということが問題になっているのですよ。だけれども、中でも筋ジス研究促進医療って意味がないのですよ。疾病の個別を閣内△で研究しても意味がない。むしろ今の研究体制は臨床医学に隣接している。様々な自然科学分野を総合化して、研究体制そのものをどう書いたかということを、例えば臨床研究だけではなくて、医学の研究だけでなくて、分子生物学・生化学だとか、そういうふうな遺伝子をやっている。そういったことの医学以外に隣接する総合的な科学分野をどう体系化して、双方向の研究をするかということの運動でなきゃいけないから、筋ジスは大変困っていますよ。是非治療をハッキリして下さいみたいな。そういう狭い立場からの運動する限りいつまでたっても、解決できないですよね。

C 今ももっとひどくなっていますよね。

石川左門氏 そうですか。

C もっとひどいですね。

石川左門氏 ◆だから府中のキャンパスの中に神経病院の隣に神経科学総合研究所という基礎医学を研究する研究所を作ったのは、その意味、それも都民の世論が段々今風化しちゃっている。さっきの在宅診療と同じなんです。

C 僕ももう一つ聞きたいのは、今流行り言葉で地方分権あるでしょ。地方分権というのは、簡単に言っちゃうと、例えば今は日野市のここに信号付けてくれというのを国会議員が出てきたりするらしいのですよ。日野市長とかに。平気でやるわけですよ。住民は。そういうことはなくなっているわけでしょ。国会議員は国のことをやりなさい。だから地方分権になってもう少し区議会議員だとか、市町村の首長たちにももう少し権限とお金がきたときに、私たちがその分まさに仕方が、最初からやられているときに、地域からあげていくというチャンスとみていいのかな。だから逆にここに準備をしておかないと、今までは国会議員ということは、その先に国から来るようなことをしたようにするけれど、逆にチャンスなのかな。地方分権とその地域の難病の人とかそういうハンディキャップの人たちが生きていくための、本当に役に立つのはチャンスなのかもしれないけれど、この準備はできていますかね。そうすると。

石川左門氏 国がそれをチャンスにしてね。今までトップダウンのあり方をボトムアップの流れのように変えるという動きに市民・国民乗っかれば、新しい時代が生まれてくるかもしれないけれど。

C そうしないと、本当に地域で住んでいるその人たちが、いい役に立つ政府にはならないというわけでしょ。簡単にいえば。

石川左門氏 それね。市民自身が手伝ったような、できるような能力を身につけなければならない。それにまず何が生まれたって、現在どこまでが公的サービスの手が届いて、届かない先はどんな領域なのか。その領域をどんなふうにそれと取り組んだら、解決するかということのまず全容をきちっと作って、清く正しく取って、それを総合して分析して、いろんな人たちの専門職と患者会との連動をしたけれど、4者組んでやらなきゃだめです。

C それは立命館大学かな。英知の塊、立命館。

B・D 公共で。

C 親切な提案。こうやったら、地域で。地方分権だったら地域で、こういうふうにやる。

石川左門氏 英知の塊よりも人の言えないことを言える。

D ちゃんとした細分化をしていますよね。研究が。


B 話は変わるのですけど、石川さんは死生学の方でも。死生学とは死に生きるという、有名な方だと伺って、『死と直面する』(※致知出版社、1992→注文しました)という石川さんが編者になられた物を読ませていただいて、他の執筆者の方たちと若干毛色が違うなと、すごく読んで感じたのですね。まずどちらかと言うと、他の方々はいかに看とるか、看とりの後いかに癒すかとか、あるいはどう良く死ぬかみたいな話が、割と多くて、石川さんが今日も最初からそうだったのですけど、息子さんを看とられた後も、高齢者のグループホームとかね、事業を展開されたりとか、やっぱりどう看取るかとか、残された人をどう癒すかとかではなくて、どう最期まで生き切るかということに、そちらのほうに向かっているということをひしひしと感じていて、その辺りが私も死生学と言うと、どう良く死なせるかみたいな話に行きがちなところに何となく、ずっと違和感があって、その辺りを伺えたらなあというふうに思って来たのですが。

石川左門氏 筋ジスの子供といろんな話をしていまして、本当に自分は6月に生まれてきた△。生まれる前にこういう目的を持つ男の子に生まれてくるとか、日本人に生まれてくる。全くない。極めて、気が付いたら日本人だった。気が付いたら石川家に生まれた。皆人間の存在というのは、自ら存在する存在ではなくて、存在をさせられているにしかすぎない。人間の自尊性、実存というか実感というのは、すごく子供は持っているのですよ。しかもなお子供は生まれてばかりの、最悪避けがたい筋ジスという宿命を自分で選択したわけではない。望んでいるわけでもない。求めずにしているわけでもない。しかも自分の友達が閣議△でもって接することは、自分は逆に死の問題に直面しなければならない。こんなになっても生きがい、納得のいかない人生はないという実感を持っているのです。
 その実感をどう周囲の人たちが人間としてどう受け止めるか。そこが分かるのだということなんです。うまく死なせるというのは、例えばモルヒネを使ってやるとか、そういうことのテクニックね、苦しまなかったりする。そうではなくて、生きる意味というのを基本に置いた上でもって、どんな生き方をしたら素直に終われるのか。それには人生哲学自身をそれぞれ趣味の人たちも、自分自身の問題として持っていないと言うと、単に言葉のあやだけでもって、それ相応に試されたり、ユーモアを入れて笑わされたりしないわけです。
 いくら気が楽になるのだみたいな介護のテクニックだけで考えるのは、今の専門職として考える方法なんです。そうじゃなくて、あなたはどういう人間として生きているなら、そういうふうな生きる態度を見せると、相方も同じ悩みなんだな。専門職対看護婦、患者さんとか、学校の先生対生徒という関係、人間はみんな同じ悩みを持っているのだなあ。そういった点で、さあ何みたいな。そういう水の中に生きている人間が、どんな生き方を貫いたら、受け入れにくい死を受け入れられるかということに、生き方が問われているのだなあということを、それで本当にそこら辺の所の自分の許容できるかどうか。人間の生きる態度として。だから態度を示さなくて、介護テクニックだけでもってやろうとするところに通じない問題があるのじゃないだろうか。私の場合には、それも納得させるだけの人生哲学を持っていないわけだから、とにかくあとの運動で見せる以外にないというようなことを言ったことが、親父はとにかく理屈を抜きにしても、お前のために自分の人生を賭けて、やってくれているのだなあということの生き方の共感があったから、これは親父の息子で生まれてよかった。親父の方もお前のような人間が子供として、自分の親となれたことが、親父として冥利に尽きる。お前のおかげで自身の人生が生き方になった。そういうような喜びを子供に通じると、子供自身もやっぱり僕も生まれてきた意味があったなあというふうなことの受けとめ方をしてくれたわけでしょ。

B 会話のテクニックって、今たぶん医療系の機関にお話しされていたようにして、何かそういうことを感じられることが多い。

石川左門氏 あのそうですね。そういうのも大事なんだけど、カウンセリングも必要だけど、それ以前に人間として自分はこう生きていますということの態度を通して相手の言い伝える物がないと、効果がない。

B カウンセリング的な形で患者、それに進んでいるような感じを受けておられる。

石川左門氏 さっきも言いましたけど、相手の生きる意欲を促すような人間関係をどう作るかということは、専門職というような立場を越えて、自分はどう生きているかということが同時に問われてくる。そういうところをこっちに置いといて、カウンセリング的な技術でもって何とかアプローチをすることに無理があるんじゃないか。

C これ誰がそういうふうに説明をしたのですか。この口先だけでカウンセリングが流行ってくるとしたら、誰かがそれを動かしているということでしょ。要するに、違いますか。

B 例えば。

C それは元を臭いというのか。元を絶たない。

B そうなんですよね。そこってすごく巡り会うべき誰かのためにとか、正一さんの本当に完全燃焼をしてます。最後の最後まで粘土作ったり、絵を描いたりというどんなにしんどくても、そういうふうに朝起きて、何かを何時間かけてもやるというような完全燃焼をして生きていくということと何か心理学的に今ガン専門病院なんかでも、臨床心理士とかそういう心理職を置いておけば、それで何となく死の苦しみも何となく緩和する役割を果たせるよという流れにどんどんなっていってて、今うちの大学とかでも臨床心理士というのが毎年何十人何十人って排出しているような状況があると思うのですけど。

C 儲けばかりしているようですけど、臨床心理士って。

D そうなんです。でも、それが政策として学校・教育現場とか医療現場とかにどんどん配置されていっちゃっていて、だからさっき仰っていたカウンセリング的なそういうのとは、正一さんたちの周りにあったものというのは、明らかに全然質が違うものだったというのを、本を読んでいると、凄く感じる。それが何となく心理学的なものに置き換わっちゃって今は、それでよしって、なっちゃっている。その辺も、私はどういうふうに話せばいいのでしょう。

E 心理学ですか。

D それが割と政策的とか、制度的に袖で当てがっていたら、学校にもスクールカウンセラーを置いておけば、何となくいいよとか、そういうふうになっちゃっているというのが、そういう病院の最期の死の受容のところは、心理学的に受容するみたいな。

B そういう感じになっちゃっていることが、ちょっとおかしく、この完全燃焼というのが全然異質。

D 筋ジス病棟で必ず臨床心理士がいて、臨床心理士が介護する。何も解決しない。

B 解決しないですよね。

D 病院出たいという悩み。聞いてあげても構わない。生きる力にもなる。延長してでも、それは国立の病院に移されて、私とこが配置してくれた方が助かると思うのですけど。

C お前は危険だ。

B 本当にカウンセリングと傾聴ですよね。

D そうなんですよね。ボランティアですら、傾聴だから。

B ボランティアもその2つに集中していく。

D 傾聴していて、パニックだなという話しで、精神病の薬がいいと処方されるという解決方法が、最期あって、冗談じゃないと、みんなは言っているわけですよ。

C 患者はできなくちゃね。薬が原因で。

D 信用しないですよ。困りますよ。だから向精神薬をもらう。悪循環ですね。

B 患者主体の医療といって、患者の声に耳を傾けるのだけれど、死にたいということにしか耳を傾けなくて。

D それもピクニックで。

B 病院を出て、生きたいという声は、耳を閉ざしているでしょうね。スルーするわけですよね。スルーするどころかそれこそ薬を飲ませたりとか。

D 飲ませたら解決すると思いますよ。これで解決みたいな。

E 今病院は儲かるのですか。

C もうウハウハ。だから月100万円。

B だからそれは別の診療体系なんですか。その筋ジスの場合。

D そうです。筋ジスが神経疾患以上の病院の中にいれば、診療報酬がよい。

C 療養介護病棟になったときに、筋ジス病棟だけはそれにしたんですよね。だから今はALSの人も入れるはずなんです。だけれど、筋ジスに出ていたほうが、点数が高くなる。

D 筋ジスと同じ点数なんですけど、大変なエネルギーじゃないですか。大変な介護料の患者を入れるよりは、あんまり介護料はよくないけど、文句も言わない筋ジスにした方が楽なんです。

C ALSを外来に入れると、つぶれるじゃないですか。みんな。

D そうです。だから1人か2人の看護師を常時必要としているから、困るんです。

B あまりにもお金計算ですね。お金がうまく回りつつというような仕組みをということですか。

石川左門氏 しかも患者会はそれを既得権として、自分のことをずっと一緒にお世話してもらうことに継続するためには、やっぱり縁側△を動いてくれる立場だと、とにかく大きなシェアだから、見なおすというような機運は生まれないでしょうね。

C これは一番ショックなのは、筋ジス協会の悪口になっちゃうのだけれど、基本的に1.5人換算なんです。つまり国立療養だけは特例で、他のところは、要するに看護婦さんが、1.5人分介護人も入れて、看護の数にしちゃっているのですよ。それをなくす話はまた局△の論理ですよ。今年中になくなるのです。だから良心的な国立療養所は介護人を1対1にせないかん。もう破っちゃっているわけなんです。そしたら非良心的な国療のような圧力かけて、このままいくと言っちゃったから、良心的な国立療養所は雇っちゃった介護人をやめさすわけにはいかないから、また赤字を出しちゃうわけですよ。赤字というか苦しくなっちゃうわけですよ。
 それを僕は筋ジス協会に、それはおかしいからあんたたちもどの国療もみんな1.5人換算やめて、1対1にしろと言えばいいわけです。口つぐむんですよね。つまり、協会が自分の子供たちの環境をよくすることを反対する協会って、筋ジス協会以外ないですよね。日本で。言っちゃった。びっくりしましたよ。僕情報を入れたから、もしあれだったらけしからんと、1。5人換算やめるということで、人を増やさないかということで、頑張っている国療の人たちがおるわけだから、そこを救ってあげるのがあんたたちの協会でしょと言ったら、いやいやとか言うのですよ。くっついているのですよ。だからもう国療で手を出すなと言われていますね。もうべらべらしゃべったって、自立しようということもありましたよね。改定でヒアリングをしたのですけど、筋ジス協会も断りましたからね。

E へえ、ヒアリングを。

C こんなことを知っているのは、僕と一部の人ですけど、ヒアリングする側も筋ジス協会断りましたよ。もうちょっと強く言っちゃうと、オフレコにしたいのだけどね、使ってもいいけどね、いいけど、僕入れてもらいました。その時には良い知り合いがおったので、国の。筋ジス協会は入っていないけど、僕はいいのか。あかんあかん。その手をつなぐ親の会とか、民団が入っていますけど、筋ジスも当然入れてくれって、僕は頼んで入れてもらったのだけれど、骨を折ったのですよ。電話をしたら、いいですよと言われて、えーと言って、終わっちゃったのですよ。言っちゃった本当の話。僕もすごく腹が立ったし、僕にわざわざ情報をくれた人の顔もつぶれちゃったし、めちゃくちゃ怒ったのですよね。

石川左門氏 本当に大臣の顔を見たときに、自分とこの団体のパンフレットをやって、疾病PRをした。あの場面は、まともで本当に変わっていないですよね。

D がっかりしちゃいますね。

C がっかりしちゃいますよ。僕だから、電話くれた人がすごく意識の高い人だと思うのですね。委員になって、名前とかあえて言えないけど、すごいかっこいいですよ。どうやっているのかあ。なんで誤解があるのでしょうか。すいません。

D なんでカウンセリングの人が入れるのでしょうかね。

C 知らん。

D 臨床心理士はなぜ入れないのでしょう。力はあるのんだと思うのですが。

B 河合先生が。

C でも国家資格ではないんですよね。いつまでも。

D 河合先生?

B 河合先生。文化庁の長官


C 国家資格にまだなっていないでしょ。

D まだなっていない。臨床心理士協会がかなり絶大な力を持っている。

B あれも資格を維持するのに、家元制度のようにずっと講習を受け続けてというそういう仕組みになっているから。でもあれですか。死生学のああいう本を出されたのだから、付き合いとかはあって、そういう方面の活動をされていたのでしょうか。死生学とか生と死を考える会とかそういう方向の活動をされておられたのですか。

石川左門氏 ◆一時デーケン先生のあと、死生観で、2年間生と死の考える会の理事長をやったことがあるのですけど、ところが生と死を考える会の会計の担当をやっていた役員さんが、これで問題起こしちゃった。その責任はデーケン先生に行くでしょ。デーケン先生は神父であり、教授だから、責任の負担能力が全然ないわけ。だから、デーケン先生、神学者の先生は、代表をやめてもらって、具体的に責任の取れる人間を置こうじゃないかということでもって、声をかけたら、誰も出ないのですよ。私が一年間だけ面倒をみるよ、その後は皆さんが人材を考えておいて、一年間引き受けたのが、二年間になっちゃったのかな。その次に今度ね、デーケン先生が子供に死を教えるというテーマでもって、いろいろ研究会をやったときに、私が初めて行ったのですよ。デーケン先生に反応してみよう。あなたは死を経験したことがありますか。死を経験したことがない人に、なぜ死を教えるという言い方でできるのですか。

B どうデーケン先生に?

石川左門氏 ◆そうです。生と死を考えるというのは、分裂問題です。私も喧嘩を売っています。

C 私も喧嘩を売る自信はないけど、気に入らないと喧嘩を売っていきます。

石川左門氏 ◆ともに大人も子供もなくて、ともに人生に終わりがあるということで、ともに共有しあって、どうして言ったことを、上下関係でなくて、一生懸命勉強していきましょうというような呼びかけなら、まだいいですよ。死を見る癖から言っているのですよ。カソリックでは神父がイエス=キリストの代理人なんですよ。神の代理人ですよ。死ぬときには、宗儀と言って、最期のお導きの儀式があるんです。それはその時は、神父はキリストの代理になっちゃった。だから死を教えるという言い方が、彼の場合には、本当に問題にならなかった。我々にとっては、死を経験して生きてきた人は誰もいない。それを死を教えなかったら傲慢な話だと。下手したら、プロテスタントに行く。それで、私の方の立場に共有する人が多く残って、デーケン先生が出て行っちゃって、すなわち少数の人たち・グループが。

B 東京都で死を考える会と。核心に。


石川左門氏 日筋協と東筋協に分裂問題が出てきちゃって、話をしちゃって、宿命だから。

B そのね、ただけっこう死を教えるというかそれっていうのは、教育の世界にすごく入ってきていて、今度もまた臓器移植法の成立とともに随分またもめていて、それでクリスマスに臓器提供の授業をしました。愛の贈り物とかそんな話が出ちゃったりするので、困ったなあと正直言って、本当に正直言って、思っているものですから。

石川左門氏 死を共に考える。死に学ぶとか、そのようなやり方をすればいいですよ。ですから大人も子供もない。人間の誰でも生きるを迎えるし、死の問題というのは、そういう考え方で一緒に考えていく。こういう場面になったら、どう考えるのか。そのような選択を感じていることを共に学べる。それを書いていかないとまずい。生きているのが、経験を持たないで死の問題を教えるなんてという言い方は、とんでもない。傲慢だ。

C 仲間だけですよ。本当は。

B 中村ヒロシさんはまだやっていらっしゃるのかなあ。日本女子大ですよね。やっているのか。まだ。

C あれはどういう病気ですか。彼は僕のことを好きなんです。僕はあんまり。

B どうも死の教育というか死の準備教育が、問題で分裂したという話は、ずっと耳にしていたので。

C 臓器移植と結びつくって、結局。

石川左門氏 私の名前は出ていましたか?

B いえ。それが出てなくて、ひょっとしたら、なかったかなあと。きちっと今回。どう考えても、これを許したり、他の著書をもう一人ショックなので、これはきっとそうじゃないか。その辺りも、やっぱりすごい勢いで広まろうとして、広まろうとしている状況ではあるので、何かもうちょっと違う死なせるための死の準備じゃなくて、生きた後の、従前に生きた後、それが結果として死への準備に結果としてなっているということだと、私は思うので、死への準備を目的するようなことって、基本的にはあり得ないだろうと思うのです。ただ同じ言葉なんですが、同じ言葉が違う文脈で使われてしまうという気がすごくしていて、例えばどれだけ長く生きたかではなくて、いかに聞きいったかという言葉が、それは正一君が言うのと、全く全然生きることの何たるかも分かっていないようなのが言うのとでは、全然違うわけですね。

石川左門氏 生きる態度の、人間としての態度の問題なんですよね。

B そうなんです。でもフレーズだけが広まってしまうので、本当に18・19の私の学生の頃のチャランポランなのが、先生長く生きたとかじゃないですよね。どう生きたかですよね。あのね、君が言う言葉じゃないんだよ、それは。

C 長く生きた方がいいじゃないか。思いましたよね。とりあえず、Bの問題は、とりあえず長く生きたわけです。

B それも、小学校の教師になろうとしている子たちは、そんなことをそのことをすらっと言って、3年後には教壇に立って、そのことをこいつら言っちゃうのだと思うと、私は怖くて、何をどう何をどういうふうに言っていくべきなんだろうなって、言うことをずっと思いながら、今日もこれは正一君と正一君のご両親の言葉だから重いのだけれども、でも同じ言葉が違う文脈で全然違う文脈になっちゃうのだなあって、そこがずっとじっくりじたろうと思っているのですね。

C 確実に臓器移植法と絡んでくるわけだ。

B いや絡んできますよ。

C 絡んできて。

B 完全に絡んできますよ。

C 相当向こうは、強力にやってくるわけだから、もう負ける。本当なんだけど。

B ものすごいですよ。

C この辺では臓器移植法を絡ませたら。

D かなり正攻法で来ますよね。論文読んでも臓器移植法、臓器移植と死の教育というのがセットになって。

B セット、セット。

D セットになって、発表したいと思う。

B そうそう。本当にそうですよ。それは、あるところで治療を停止して、尊厳ある死を迎えて、あとは臓器を提供してという話とも、一直線に続いていますから、本当に。

E 立派に向き合った人と。

B そのおかしさが良き市民として全うして生きたみたいな物語になってしまうので。

D 私が病院に勤めていたときに、病院に神父さんがご病気になっていて、僕は病院の食堂が許せない。こんな環境で死んでいくのは嫌だと言ったことが、安らかに死を受け入れましょう。その話は全く違う話をしている。それってないでしょ。でも何かそれがすごい神父さんが、そういうふうに言っていることが、ガンじゃ駄目よみたいな雰囲気みたいになってね、安らかな気持ちでと言っているのだけれど、それだとすごく違う話で、でもそっちが有名に思われちゃっていることがあって、僕は神様を信じて生きているけれど、これだけは譲れない。その話はたぶん違う話なんですよ。多分生きるという話と死ぬという話を、いきなりされても全然違う話をしているのに。

B ごちゃごちゃになっていますよね。ごちゃごちゃになって語られる。

D その話で適切な答えを、そう丸めるかというのは、そう恐ろしい話で。

B 数段階はすっ飛ばしているのですよね。

D すごく本意な気持ちで、絶対裏切りもなく、死を迎えてやるからなみたいな逆効果みたいな感じがしたのですけど、何か変な。

B そうなんですよね。

A 今度は在宅だけどね、何度も話してきましたから、病院で死についてどういうふうに考えているのだろう。呼吸器はないから、不安はないよね。だから不思議と。それから在宅で十分に生き切ったというのが、それが問題になったよね。その時に主治医の先生が、私には検査入院して、40歳で、私は話したのですけど、本人に話していない。先生からその話を聞きたいと、自分の患者なんだから、先生が言葉を選んだ時に、結局先生は逃げちゃった。信じていると言ったら、本当のことを言ってくれなかった。でも、こんなことどうでもいいことで死ぬこと、いろんな大勢の方と出会って、触れ合って、本当に僕は満足だ。在宅だから、今度やりたい時に何か面倒を見て、詩を書く・絵を描くって、私は思って、車いすのまま出て、それを抜け出てくる。在宅だからこそできた。すごく本人に会わせられる。自分の息子に合わせて、生き切った。晴れやかだったんやろうなあ。

C そうそう。最後逃げた人はまた逃げるよ。踏みとどまらないと、信じられない。僕辞職するというけど、きついって言っていますよ。私にとってきついからどんどん変わるのは、薬これ足してみるわとなるし、せざるを得ないですよね。僕は死ぬ時って、やっぱりこっちが試されているわけだから、こっち側がちゃんと言えばいいのですよ。この手は使うよ。やってみるよと。痛かったらやらないよと言ってあげるのが、いいですよね。そうやって逃げちゃうから、結局また次逃げる。結局、医者も怖くて、人の死ぬとき看とりたくないですよ。正直言って、そうやって死ぬとき喜ぶこともないわけで、だけどそこで逃げたら、逃げればずっと逃げますよ。

D 在宅で、地域の主治医の先生が、一番最後に回って、後半で、訪問で最後に回って、いらした。それでゆっくりと話できることを、ずっと先生は話をする。それは先生が訪問した時に、先生は一番辛いとき、困ったときというのは、どういう時ですかと言ったら、今僕は心臓が飛び出しそうになったときがあるという話をしたのですけど、そしたらそれはそれぞれの体は、心臓はみんな筋肉でできている。収縮してできるから、そういう教錬するのですけど、先生は本当のことを言ってくれた。先生が帰ったものですから、お母さんは、僕はね、涙が出るほど嬉しかった。先生は本当のことを言ってくれた。嬉しかった。在宅でなかったら、先生と触れ合って、本当に助かったと思う。障害者青年団体という集まりがあって、そこにも関わって、お金を得ている。その時にたくさん次世代で抱えきれないほどの祝いの言葉は、何を持って感謝を表すのか。今の涙出るほどでした。

C 実際にですね。手が、何でこんな強気なことができるのか、手を打てるようになってきたのです。今だったら、どきどきだったら少し逆に心臓を抑制するジゴシン今使わないですよ。まともな筋ジスでも全然使わないですよ。まともじゃない人は使っているのですけど、それ鞭打っちゃだめなんですよ。どちらかと言うと、心臓を抑制する薬ですよ。180度治療法を転換しているので、今のドキドキ難△も収めてあげればいい。だから要するに僕らも強気に僕だって25年でしょ、弱気の時期があったら、なんぼしてあげられない。してあげられることを含めて、強気になってきても、それでいいじゃないですかと思う。そうでいいですよね。患者さんにしてあげることも増えてきた。
 だからこれで、脳波で作る電動車いすが出来れば、ALSとしても強気でいって、いいわけでしょ。してあげることが増えてくることはいいことじゃないですか。それは製品を買っていることだと思っているわけですよ。だからちょっと違和感がある。確かに死に向かっていく話をどれだけしたって、結局何のソリューションにもなっていないわけでしょ。生に向かっていくから、こういうことをしてあげられるんじゃないかと、出てくるわけでしょ。それで、何の問題もない。単純的には、そう思っています。

B そうなんですよ。生きる方に向かって、何かできることをもっといっぱいあるのだけれど、死に向かう話ばっかりでこんなに一生懸命流行るのだろうというのが、すごく。

C 閉鎖的かな。臓器が欲しい人たちにとって閉鎖的かな。

B 臓器が欲しいだけじゃなくて、医療費抑制には貢献するよねという。でもその話を誰もしないですよね。そういう話は誰もしないですよ。死を準備するということを言う人たちは、日本ではしませんね。アメリカのカリキュラムの中に必ずセットで医療経済の話が入ってくるので。

E 安楽死だとか、韓国では簡単に決まっちゃったのですよ。

B 決まっちゃいましたよね。

E 法律が、あんまり社会的なコンセンサス論議は通らないとか、そういう深刻な部分を見たことがないうちに、法律にされて決まったのかなあ。だから日本に来た時に、1994年(平成4年)だけれど、あの時うるさかったのですね。死をどう考えるのかということで。この辺この問題を社会問題化して、コンセンサスのためにお互いにああだこうだとやっているのは20年になるけど、併用法案が決まった時に、日本人の場合、やっぱり死に対してもう少しこう感心している。

B 死のことを話題がすごく気になるのは、文化かもしれないですね。

E 韓国の文化が未熟なのか、分からないのですけれども、たぶん韓国は分からないので、家族が植物人間とか、韓国はそれを差別用語だとして使わない。何とか使えと言われても、植物人間みたいになったときに、要は家族はこれを人間として認めるかどうか、家族として認めるかどうか。知り合いが植物人間になって、病院に行ったことがあるのですけど、本当に衝撃だったのが、昨日も会ったのですけど、とある場所で、看護師さんが来て、お尻に注射を打って、それを見たときに、確かに厚労省で植物人間というのは、昨日まくればナチュラルな筋ですごく思ったのですね。そういう家族が看ているのは人間です。人間であれば生かせるだろうし、これはもう死んだと思えば、それは確かに。いろんな法律で申告ということになって、その後に韓国だと一般的な考えとして、それが人に役に立てればいいんじゃないのみたいな家族がみんな思ってしまう。キリストの考えというかクリスチャンみたいなのがやっぱり底辺にはあると思うのですね。

C 僕は専門家ではないけど、宗教の影響ってあると思うのですけど、今の話で聞けるのは、そういう状態でも生きれるような社会がちゃんと環境が整備されて、それで家族がそれでもこの人の尊厳を傷めない。尊厳という言葉を使いたくないけど、死なせてもいいという判断をするなら、それは判断。決定ですけど、それはそういう人たちがいづらく、病院でもいづらい。外泊でも大変だという状況を作っといて、それを判断させたというのは、それは嘘でしょ。わかります?明らかにアンフェアな状態に追い込んでおいて、判断させて、だから僕は植物状態を生かしておく話ではなくて、純粋に聞くと、結局そこは判断、それは判断じゃないんです。例えば、こっちに出たい。おいしいジュースがあるけど、こっちはまずいのはあるけど、どっちを選ぶと言われても、というように聞こえているのですよ。選んでもその人が欲しいと選んでも、家族はちゃんと看れるような社会のサポートもある。

E そのケースは深刻な問題で、医療費をある程度引かれて、地方でバスの事故で轢かれて亡くなって、バス会社がうまくやってくれるのだけれど、やっぱり家族のお父さんは仕事できない。

C それだったら選択じゃなくてそこに追い込んだということでしょ。

E そうなると、家族のパックになっちゃうので、家族のそれをもちろん、自分の奥さんとして信じるしかないですね。だけど、今現実を考えると、大変というのは。

C 現実の勢いじゃなくて、それは選択をしたと言ったらいけないというのであって、そこに追い込んだと言ってくれたら、追い込むのだな、韓国は。それは法的に認めたのだなと思うと、別によその国だから、文句言わないけど、選択じゃないんじゃないのと言いたいだけで、あたかも選択してあげたら、日本もそれがすごく感じられる。

B それは、その辺はだから制度が整ってなくて、結局お金の問題と介護の人手の問題というのは、これはたぶん世界共通の話になって、それは文化とは関係なくて、ただ臓器を提供することをその愛の行為というふうにみなすのは、それはたぶんキリスト教の教義には割と説明が割としやすかったと思うのですね。歴史的に見たときに、そもそもキリスト教がその権限をもっていたというよりも臓器提供というか臓器移植という技術が出てきた時に、それをキリスト教社会ではその理屈をつけやすいというか、それこそ納得しやすい考え方が基本的にはあった。日本はたぶんちょっと違ったというのと、それから議論そのものになっていった。韓国は知りませんけれども、アメリカは一般の議論にも全くしなかった。全くしなくて専門職、医者とかそれから神学者とか、大統領委員会というのが出来て、そこでそのような説明の中で、出来ていったという。それがだから国民自身が、アメリカ人自身が受け入れているかというと、けっこう一定程度脳死を人の死だとは受け入れられないパーセンテージは、日本と実はそれほど変わらないんですよ。実はね。だけど、要するに事実が先行しちゃっている。そういう話です。

C 国が決めたということですか。

B 諮問委員会がそういう。

C これ皆さん知っていますよね。イギリスでは70歳以上の透析患者はいない。70歳以上は国が殺したというのですよ。透析患者を。国が命を決めているのです。医療費を抑制する。70歳以上は保険適応を認めない。でも日本で何が行われているかというと、透析って儲かるのですよ。ひと月の負担が一人一万円で済むんです。それで大体週2回か3回行ったら、一人300万くらい使うかな、一人が。年間2・3000万でしょ。これ一番深刻なのは、今何をやり始めたかと言ったら、北海道の田舎の地方病院は赤字で潰されると脅しをかけられたので、透析患者を増やすということを一生懸命やりました。バスを使って、ひょっとして一番怖いのは、ほとんどの糖尿病になったら、糖尿病のまま放置してから、透析をやっている。透析に適応じゃない人が透析している可能性が出てきます。

B でも病院としてはそれで助かるのだけれど、医療費全体としては困るから。

C 今医者として医療費というのは青天井にせざるを得ない。もう無理だと思うのです。だけど、それに関しては負担をみんなしましょうということで、堂々と言って下さい。世界の3分の1は日本が透析をしています。1兆3千億ぐらいかかっています。こんな大きいのですよ、透析の金額。だから34兆だったでしょ。30分の1以上が透析ですよ。

B 今どんどん糖尿病予備軍…

C 予備軍の人たちがやって、透析をこのままやっていれば。

B それを宣伝しているというのももっと。

C 分かるわけです。そんなことをしないと、でも違うので。

B だから、だから。

D 医療費を抑制しようと。

B だから移植で一生その後の免疫抑制剤でもそっちの方がお金かからないのでと言っても、必死でやっていく。

C 地方の病院はみんなそれ始めますよ。北海道とかすごいですよ。80・90でも透析するわけです。それ一度に1万ずつでしょ。それで、もうだからこれで医療をなんとかそういう言葉で絡んできちゃっているから、もう生命というかむちゃくちゃになっている。

B 全然、そういう話は全部しないで、愛の贈り物とかそういう部分だけが取りだして、教育の中で行われるという恐ろしさ。

C もっと言えば、日本がこないだの世界で一番寿命が延びたというのは、先進国も笑っているわけです。イギリスはトップになるわけではないです。70歳で死んじゃっているわけです。だから、日本はあれを指標にしてやる限り、青天井で行くということですから、どんどんやればいいのです。僕百姓ぐらい使えるのですから、どんどん行け!その代わり、消費税は二重・三重にどんどんなるわけです。もう無茶苦茶になるのは間違いない。すごい数ですからね。透析は本当に右肩上がりです。

E 脳に関しては、脳梗塞というのは、実は医者はよく分からないのだけれど、とにかく倒れて、聞いたら合っている△。それが一番分かるわけです。大したことがなかった。誰も分からなかった。危ない話だし。

C 出来高でやって、しかも患者負担も少なくて、レシート・レセプトですよね、レシートの回覧が自由であれば、そうなっているでしょう。

B だから、その辺がけっこう30年前・40年前の話と実はそんなに変わらなくて、つまり発達した医療で医者は儲けている、悪徳な医者が。本来だったら死ぬはずの人が、無理矢理生かされている、だから抑止しましょう。そういう理屈とセットに話されちゃうわけで、その時のセットの話が真っ先にどこに行くかというと、それこそ筋ジスとか重度障害者の人たちのところにしわ寄せが真っ先に行くのですよね。だから、この辺の話って、ある部分だけで話をすると、ものすごく危険なわけですよね。前後を話す。入り組んだ話を全部話そうとすると、やっぱりすごくややこしくて。

C 僕は、国が70歳で、イギリスは国が決めているのですね。国がこういうことを決めているとか先進国が増えてきているわけです。デンマークとかそれだけの重症心身障害はいませんよね、20歳以上の。どっかから知らないけど、それは同じことをしたわけです。重症心身障害の子は二十歳になったら保健医療から外したと、国が。聞いた話だけど、そうすると同じことで、国がこれ以上面倒を見ないことを決めたのですね。ダイを決めるということは、行われていくということも確かですよね。日本はそれを選ばないでいいと思うのだけれど、それがダイを決めるなんて、日本人はすごい苦手だから、違うオブラートにしているのだけれど、巧妙な作戦とっている。

B ものすごいソフトにやっている。

D ALSと筋ジスだと、筋ジスだと生きられるのですよ。病院があるから。でも病院、国療でさえALSは入れない。ALSは家族が介護できなかったり、2年間呼吸器をつけられないから、ある一定の介護の線引きをされて、死んでいく。

C 線引きというのか、形に見えない線引きでしょ。国が見える線引きをしていない。

B そうなんですよね。あのだからALSだって制度はあるけど、結局ヘルパーがいないとかそういうところで水際で認めてもらえないとか、そういうのはあるけれども、そのもっとソフトに行われているとか、制度が使えない。

D システムがあるわけですけど。

B 使えないシステムがある。

D 使えないシステムがあるわけだからそれで。

C 見えない線引きね。

B 責任をとらなくていいわけです。誰も。それがソフトだというわけです。

D そうですね。

B 誰も責任を感じないで済む。

D それで、尊厳の死で7割の人は動けないで、選択していく。

B 選択って言わないのですけど。

D そういう宿命を負っている。

C 鹿児島は43もあるのです。鹿児島県は43もあるのです。

B それしか選択肢がない。選択って言わないよね。

D 選択じゃないです。

B 絶対そうですよ。

C 鹿児島はと言ったのは、それは在宅で医者が出向いたわけですよね。もう一つは、要素であって。僕らの話であって、イギリスだって70歳で透析見込めないですよね。

E 死んじゃうのですか。

C 死んじゃう。だって、どんなことしても死んじゃう。すごい国でしょ。すごいなあと。逆にいえばすごい思い切りしたなあと思って。70だからけっこうですよ。けっこう日本だったら、患者さんいる。

B 70才だったらね。

C けっこうですよ。誰も日本だったら、医療費節約できますよ。そういう意味で、もしそれ日本がやったら1兆3000億くらい減らせるんじゃないですか。

E お金ってわからないと思うが、それの全体から見たときに、決まったお金に使うわけですよね。

C だから別に誰も文句言われない。損もしていない。

D だから、そこに経済が生まれてね。

C そうそう。みんな医療費抑制と言うからさ、誰も損していない。

B 働き口のない人が働いて。

E 小泉政権じゃないけど、患者さんは中小企業かもしれない。

B そうそうそう。事業主。

E いろんな色を、仕事を与えているのだから、医者もだから、医者は患者さんに金を払うわけだから。

B 介護だともっとお給料を出せば、ちゃんと人集まるしね。

C 国の予算の中に占める割合を少なくしたいというだけのことで、言っているわけでしょ。額を減らしたいということは、そういうことでしょ。誰も損していないけど、国の予算の中に占めるのが減らしたいとしているだけ。

E 国の予算というのは、勝手に毎年10パーセント減っていくみたいなそういう法則みたいなのがあるということで、それでいかに減らしていくかという。ちょうど朝まで生テレビという、飲み屋で飲んでいた時に、これ見て帰ろうというので、家に帰って、朝まで見ていたけど、なかなか面白かった。いろんな話で、貧困層の話で、信じられない話もありましたけどね。

C 世間話をしてすいません。

B ALSの告知をした人に、生きがいは何ですかということを聞いて、この先やりたいことがなければ、死ぬというのは告知の仕方なんですけど。

C ほんまによくないよという。

B 本当にやることがない時には、三割しか選択していない。

C ALSを告知する時に、医者が言うのは、あなたは…

B 生きがいは何ですか。

C ない。あまりないですね。

B そうですね。

C じゃ、死にますかと言うの?

B テレビで言いにくいわけですよ。生きがいは何ですかと言われると。

C 川口見て、テレビをずっと見ていたい。川口さん映っていますから、ずっとテレビ見ている。

E 生きがいは何ですかと言って。

C 答えられると、損しちゃう。

D 答えられなかったら、死にましょうという感じになるわけ?

B・D 生きがいがないと。

D 生きがいがないと、生きがいを探しながら、呼吸器をつける。まず生きがいがなければ、呼吸器をつけてはいけないという話になっていくわけですよ。それってすごい怖いことで、何か本当に怖いことなので、会議でどっちに呼吸器をつけるのですかつけないのですかみたいになって、そういうことを言われちゃったら、生きにくくなっちゃう。労力がなくて、生きがいがない人は生きちゃいけないみたいな話になっていくというか。

E 韓国で流行った何とか宗教。

B それはケアプランを立てた人に、あなたこの人にあなたの生きがいは何ですかと逆に聞いたら。

D お医者さんに聞きたいですよね。お医者さんに生きがいってそんなにあるの。何もないですよ。生きがいなんて。

B 幸福って何ですかという質問に答えられないじゃないですか。不幸って何ですかと言われて、これは嫌というのは言えますよね。何となく。でも幸福って何ですかと言われて、即答なかなかあまりできないですよね。生きがいもたぶん。

D 呼吸器をつけてから、要するに生きがいを見つけることがあるわけで、病気になって初めて生きがいを見つけたこともできるわけですし、そういう話はなくて、病気になったら伴っていく。呼吸器をつけると、最期苦しくて1回許せないし、すごく迷われる。

C 今そういう話を聞くと、常軌を逸しているわけですよ。僕からすると。要するに、全然違う。何かもっと黒い大きな圧力がかかっていると考えるべきなのか。それが一番東の病院の人が常軌を逸したら、気の違った人が集まりということにならないんじゃないの、だから。僕はもっと違うものを感じる。

B 呼吸器装着率をいち早く減らすとか。

C 分からないです。知らないです。

D とりあえず、モルヒネを保険点数化しようみたいな話が出たときに、一番東なんですけど。

E 保険点数になっていないのですか。

C なっていないです。

E 知らなかったなあ。

C でもそれは認めたら。

BとD 怖いね。

C モルヒネというのは、一番の副作用が呼吸抑制なんですよ。だから呼吸の管理がきちっと出来ていない人に使うのは、それは殺すということなんですよ。安楽死の方法なんです。

D 介護でみんなモルヒネを入れられるのですよ。呼吸器も苦しくなって、僕はつけないのでと言ったら、じゃモルヒネを注射しましょうと言って、その10年間ALSの患者がいて、自分がモルヒネで全身殺してもらって、すごく怖い。尊厳死したことを。

C 尊厳死というのは、安楽死。

D 知らない人いますよ。家族で。最期モルヒネを一杯一杯して、安らかに眠ったと、家族は思っているのだけれど、それがそういう結末になると知らないで、という人もいると聞いたことがあります。

B それだから緩和ケアと名付けられるんじゃないですか。たぶん。

C 全然、安楽死と呼んでいる時は安楽死でなきゃいけないですよね。積極的消極的自殺幇助を入れた安楽死というのは、方法論の話であって。

B 呼吸、これとこだわるのだけれど、呼吸困難を緩和した緩和ケアだと思っていますよ。本人は絶対そうですよ。

D 家族もそう思いたい。

B 医者も家族もそう思いたいわけですから、思いたいと思っているうちにそうなるんですよ。言語って。

C それを崩すことはない。僕だったら、少し・もう少し呼吸器の条件だとか呼吸器のやり方はどうだったかとかということは、問われている。

D 絶対体験値にしといて、モルヒネを入れるのは、もっと呼吸量を増やせばいいと、私は思うのですけど、気がします。人殺しですよね。

C 人殺しですよね。すいません、僕だけ。石川君が考えたことが、まだ実現されていない母国。筋ジスの出口を作る話はいいですよね。若干、作ろう。今の筋ジス病棟を潰したって、それ困っちゃうからさ。とりあえず出口を作っていて、出ていける人を増やしながら、人は死なせたということを世間にアピールしていくという作戦が、一番分かりやすいですよね。

石川左門氏 それが地域の終わり方。

C それを支えられるかどうか。

B 告知をしないと本当に怖いことで、ご本人が助けて!助けて!と言うのですよ。カルテに器官切開をしない、心肺蘇生なしと書いてあるから。

C それは医者が勝手に決めたからでしょ。

B だめだめということで、医者と家族が、私は見て、怖いな。心肺蘇生なしと書いてあって、凄い怖いなというふうに、そのまま助けて!助けて!それはご本人に告知をしないわけだから、意思はそこには全く通らない。殺されちゃっているわけですよ。

C そうよ。あなた今言ったこと、偉いこと、刑事事件だよ。

B そうですよね。それは病院で当り前。

C それでやっていますよ。

B それは告知をしなければ。

C 告知の問題じゃなくて殺人じゃない。

E 告知したら、本人が意見を言ったら、それは通るよわけ。

B 告知して、病気でこれからどうしていこうかとか、今後の治療方針とか一緒に家族が対面に年2回ずつを絶対入らないですよ、本人は。家族だけど。

C おかしいですよ。

B それはなんで。

E 参加しない時点で。

D 子供の時からそうなので、例えば20歳を超えたらこんなにちゃんとしているのかと言うと、今も30過ぎてもなってしまうし、そういう。

C 親が差別してきたわけでしょ。そのこの子は一人前の人間じゃないという差別をずっとしているわけでしょ。それはやっちゃいけないことでしょ。

D だから全国じゃないと思うのですよ。京都と兵庫と三重でもそうですし。

C 三重は鈴鹿か。

B 鈴鹿ですね。あとは医療病院。

E そうすれば、その話というのは文書化されたのですか。

C とんでもなく大事件になって、文書化されれば。

E されますね。

B それはインタビューすると、私は事務資料のところに書いてあるのですけど、僕は治療のことについて意識を一緒に話したら、親と一緒に話をして、親からちゃんと聞いていますよと言っていますけど、本当か分からない。情報でこういうことも分からないし。

C 来いってことでしょ。

E ALSのことを初めて知って、その本人の意識が普通にあるのか。ある人の人工呼吸器の目の前で、何も反応ができないですよ。確かにアベリタスの話ですけど、僕は人工呼吸でこういう状態になったら、どうしますかということを、わざわざ大変ですよという話をしていたら、うちはもう言っている△意味ない。取って下さい。自分で回避しちゃっているので、目の前とられるということを、半分できなくなっている。それ考えると、こういうことを自分がもしそういう立場だったら、やっぱり命の問題だな。自分の人生として受け入れる可能性もあるわけです。そういうときに、自分が先程サインしちゃったものだから、半分をリスクされる。これってすごい怖い話だなあと思って、この前学会で話したけど、こういう現実を。

D 筋ジスは知的障害を持っている。助けて!助けて!と言っているのに、助けてもらえないで終わるというか、誰も本当に知的障害がなければ、本当に訴えられると思うのですけど、本当にかわいそうで、将来の。

E 出雲は出ているのでしたっけ。

B 多いですね。筋ジスの子は。

石川左門氏 10人に一人くらいは。知的障害者がいるんですよ。

C 実は違って、某デュシエンヌの施設はほとんど認知症があるだろう。今のヨーロッパでものすごい研究をしています。なぜかと言うと、自閉症に近いような認知症になっている。デュシエンヌの子供はホンダーをやっていて、検査してみると、そうすると単一遺伝子の異常と分かっていたわけでしょ。自閉症の原因が分かるかもしれないけど、ヨーロッパでものすごい研究をしていますね。僕らもデュシエンヌの子ってもちろん優秀な人もいるけど、自閉症的な何か変な認知症があるような感じは、長く見ていると感じますね。でも、怒られるかもしれないけど、お母様がデュシエンヌの場合保因者である場合、3分の2が保因者であるけど、お母さんもある患者だし、外国ではデータが出始めているのだけれど、日本では絶対来ない。
 そうすると、この論文を書いた裏に僕が言いたいのは、つまりお母様が3分の2ぐらい保因者でしょ、ちょっと認知的な障害があるお母さんが、認知障害の子供を家で育てるということに対して、社会的手を差し伸べていないということになるのですよ。地域の学校に言っているという形は、美談だけれども、それもひょっとしたら怖い話で、実はこれ長く教育をやっている人で、長く筋ジスの子を見ていると、みんな本当に気が付いている。やっぱそれは僕も言えないので、こういう形で必ずしも地域の学校に行った、高校まで行ってそれから養護学校に行くのがいいとは限らないというしか書けないのですけど、その裏はそういう話も実はありますね。直接変わってはこない。だから何かちょっとありますね。もちろんすごく優秀な人も持っているし、一杯いるんじゃないけど、10人に1人、もうちょっと多いかもしれませんね。半分は何かちょっと変わった考え方をしています。

B 病院に病棟で筋ジストロフィーの心理的研究班を出したのは、昭和60年代の研究だと、10年くらいの間にIQを見ていたら、病院に入院をしていることでIQが徐々に下がってきているというのがあって、刺激がないのでIQが下がってきているのだろうという話はある。書いていたのですよ。それで、その研究は終わっていて、だから何みたいな。

A それを受けて、今度は経緯に慎重にやって、認知障害の尺度をやった。やっぱり変な経緯が出てた。IQが難しいのは、どうせIQが下がる可能性もあるやろ。でもそれを逆に経年的に下がっていれば、それだけケアがしなくなったから、動作ができなくなったという考えもあるし、難しかったけどね。解釈は一番難しいですよね。結果が出るのだけど、やっぱり変な圧力団体が出てくるのですよ。生データで出すぞと言うと、怖いですよね。やっぱりちょっとディシェンド型の筋ジスのプロの医師とすると、ディシェンド型の家族に話をする時には、少し気をつけろとみんな思っていますよ。少し気をつけろと、いろんな意味で。違った意味で捉えちゃっている時もあるから、とりあえず確認してとか、カルテに細かく書けというのは、細かく指示を出している。だから少し脳機能の問題もはっきりしてきたのかもしれないですね。長生きするようになってきて、余計研究が進んだのかもしれませんね。昔亡くなっていた、20歳くらいで。そうすると、どうなんだという話で、育て方の問題なのか、育ち方の問題なのか、病気の問題なのか分からんままだったか、少しいろんな長生きするということは、ずっと病院でおることを在宅で長くいるのと差が出たりするじゃないですか。いろんなことが出てきたのかもしれないですね。本来宝庫なんですよね、研究の。官立の筋ジストロフィーの子と対立疾患△の子を入れといて、世界では日本だけですので、ものすごい宝庫なんですよね。いろんな研究としたら。
 残念ながら研究班が、6年幹事しましたけど、中途半端に終わっちゃうのですよね。中途半端に終わる理由は、言い訳がましいけど、それぞれの病院が筋ジス病棟に思いが違うのです。松江病院では外科の人たちが何の興味もなくて、こいつらはただお金を儲けてくれる不労所得みたいだとハッキリ言いましたけどね。だから僕たち何かほっとくわけですよ。僕はやめたんですよ。これだけやって収入もこれだけあげて、何でそうなの。だけど、福永先生みたいな自分が筋ジス育ちで院長をやっているところは、その子たちにそういうケアをしている。このことは大問題なんですよね。委員長たちが外科であるから、これを本当は官立の病院として許されることがおかしい話ですけどね。困ったものですよね。それがまた告発されたら、なくなる。出口を作ろう。ここは筋ジスの方は入れないですよね。

石川左門氏 いやバリアフリーです。

C 入所自体?

石川左門氏 短期ですけれども、過労から回復している間、肩代わりしているということで、お預かりする。

A 昔インドネシアの大使で、ALSになっちゃった。やっぱり倒れちゃった。

石川左門氏 5・6人で昼間は介護保健所でヘルパーをしている。夜中に年とった奥さんが年とった御主人の下の世話をしていたことがある。ベッドに体を起こしてから、持ちあがらないから持ちあがるようにしている。そういう分野が隣同士の市民運動の中の担当の役割であるだろうということで、愛隣舎がある。

B 何人ぐらいの?

石川左門氏 会員としては、40名から50名くらいのですけれども、人手不足ですよね。

B ヘルパーさんがやっぱり。

石川左門氏 みんなボランティアですよ。

E ヘルパーはみんなボランティア?

A ボランティアですよ。

石川左門氏 いろんなことに、いろんな社会伝授△を引き上げると、大きい役割があるんじゃないか。

B すごい話だな。

A それもいいけど、けっこうみんな年輩だね。

D 何人くらいのボランティアですか。

石川左門氏 ボランティアも40人くらい。

D 40人いるんですか?どなたとは担当でいろいろ?

石川左門氏 何となくそれはない。だいたい熱心な人が中心になりますね。

E 衝動SPS研究会というのがあって、ボランティアがやっている。

B おそらく、ボランティアだと確実じゃないからということで、どんどん制度化していくというところがあって、そこら辺のところをもうちょっと考えないと。

D 全部がね。

A 実働数があるもんね。

B そうでしょうね

石川左門氏 大体当てになるのはね。

B それですかね。ボランティアってそうなんでしょうね。

石川左門氏 ボランティアの人たちに片っ端から夜中に電話をしているのですよ。最初から普段動いている人が、大きいですよね。

B そうなんですよ。

D それがいつも手当てするのに非常に大変なんです。

B そうそうそう。本当にそうなのよね

C すいません。直接ここの運営とお金はどうなっているのですか。補助ですけど。

石川左門氏 東京の場合には、東京都の福祉大学から大体700万くらい。地元から100万くらい。それと会費、それから催し、ボランティアのバザーとか。

B そういうのでやっぱり稼がないと。

A 今の若い人はいない。

B そうでしょうね。

E ボランティアはやりたいと思うけれども、いろんなボランティアを専門に研究している先生がいる。発表で、なかなか面白いことを言っていたけれど。

A 有償じゃないと、いないんじゃないの。

石川左門氏 有償ボランティア。

E ボランティアというのは日本語では奉仕とか、奉仕という言葉の裏には無報酬という言葉があって、ボランティアも無報酬で雇うというのは、ボランティアなのかという定義に関する。なかなか日本列島のボランティアの貢献の中で、支援になる前に、家族がやらざるを得ないというのは、介護だとかそういうものを、ボランティアというものは何をもって、労働力として迎えていくかということが、一連のボランティアというのは、社会の視点では、非常にボランティアに実際にそういうイメージというのが、そういう研究をされている先生、そういう研究をされていて、その他社会福祉協議会で。

B 鶴見先生?

E 長妻さんあたりが。忘れましたけど。

石川左門氏 専門職の人の場合には、優秀なんです。例えば、本人がボランティア精神でやっていたにしても、問題が起きたときには、資格・社会的責任が問われるから、これは無償じゃいけない。もう一つは、この仕事は獣医師と委員ということでなくて、必ずやってこなければならないという制約条件が出てきた場合には、この時には有償になってくる。無償と有償の区別を。

B そこをちゃんと分けないと、病院の中とかでごちゃごちゃに労働力として使われちゃったりするからね。

E 大妻女子大学。若い先生でした。今度NPOで調査する。

A 月に1回喫茶をやっている。

B 左門

C ここに。街の人とコーヒーを飲む。そこで出会って、カーンとやってみよう。

石川左門氏 うろうろしているうちにふと出会うということで、出会いということが、それが今度在宅ケアにつながるという発想で。

A 有益というよりむしろ普通に出会うみたいな。生きたいと言うとかね。

C 結局人間って孤独が怖いのですよね。孤独が怖いですよね。

B 独り暮らしのお年寄りがいらっしゃる。月1回。

A 月2回。

B 月2回か。

C 全て孤独かというと。

石川左門氏 困った時には、四六時中顔出すなよとかね、

B 人間関係がそこでできてね。

石川左門氏 本番でなったときに、とんで怖いよ。声をかけてくるような人間関係ができたら。

B 最期は一人だから、あちこちにできると。どうかな。

A やっぱりできていると思いますね。

C 町のおせっかいなおばちゃんみたいないますよね。

石川左門氏 人間関係が豊かなところで、満足して終われるかどうか。人間関係が豊かな中で終われるかどうか。

B そうなんですよね。

C 病院でない方がいい。病院はそういうところがないから。

石川左門氏 全て地域、それから地域はこうあるべきだ。病院はこうあるべきだという。地域から。

C 地域を活かすために病院があるという形になれば。筋ジスの場合、先に患者会が出来ちゃったから、変になっている。そういうこともあったけど、今は僕もこうしろと言いますよね。

B 地域が壊れているから、そういうこともある。ある流れの問題の中だけで一方的に作られている。

*何人かが同時にディスカッションしているが、文字にできませんでした。

C 彼女がおるうちにこないだ初めて外に出て、お前きれいになったなと言ったのですね。女の人って綺麗になるのですよ。これは最大の褒め言葉だけど、ホントそう思った。お前綺麗になったから、これすごいことでしょ。国療に入っている時に、綺麗になっていたわけですよ。いろんな意味で、人を褒めて、表情を見る。これは全てですよね。

*何人かが同時にディスカッションしているが、文字にできませんでした。

石川左門氏 勉強させてもらいます。今後何かありましたら、是非教えて下さい。よろしくお願いします。

*何人かが同時にディスカッションしているが、文字にできませんでした。

B 私は筋ジスのことを研究していて、すごく日筋協の方がすごく怒られたことがあったので、病院のことを批判したのね。すごい怒られるのですよ。叱られる。

E そうですか。

D たぶん批判しているんじゃないかと。いろいろ考慮することないんじゃないかな。親の会というのはすごく難しい会だったので、それに立命館大学の先生がいたし、ALS協会の川口有美子さんなどに簡単に会わないで、筋ジスの研究をしている組織に入れないわよと言って、何とか勇気を振り絞って、もって学校のメーリングリストでインターネット・メールで、私は会いに行くのですけど、誰か一緒に行きませんかと、声かけをしたら、

B そしたら、そうなんですしょ。それはひょっとしたら生と死を考える会が、吐かせた時のではないだろうか。確証はないんだけれど、準備のために予習をして読んできた中に、デーケン先生の名前が出てこないので、私やっぱり間違ったかもしれないと思って、ドキドキしながら聞いたら。

石川左門氏 ◆デーケン先生を追い出した。あの時の生と死を考える会の準備を、この場所を使って、プシケという。

B 田端さんじゃなくて。そうですか。

石川左門氏 事務局長に上がって。

A 同じ2人が、デーケンさんがやりあった。

B でもその辺りのことを、私も少し勉強してからまたやって、これはどうやって死への準備を組み替えていくかということは、これは大きな課題なので、私を。

A どちらかと言えば、月1回日曜日にね、やっています。

B ああそうですか。

石川左門氏 ◆その時は来た人が亡くした後、癒しのためにお互いの自分の経験をもうちょっと話し合うことが、癒しにつながるということで、それが終わると今度は何をしたら次の役割を担うことができて、その癒しからさらにもう一歩前向きに、何のための社会でどんな役割を与えられるのかというのは、それに結びついたら、この仕事とドッキングできるんじゃないかということを、下心があったものですから、会合の場所を提供している。やっぱり出会いですよね。デーケン先生の出会い。大学での出会い。

C 僕は彼女と知り合いというか。

B 筋ジス病棟の先生で、私のインフォーマットになってくれる人がいなくて、本当のところ病院はどうなのというのがよく分からない。それを調べていたのですけど、割といろいろなところで、病院のことを任したなということがあって、河合先生の本をちょっと。東筋協も非難してくれるだろう。東筋協の佐藤セイジさんが伊藤さんの問題の関心が私からあって、たぶん病院の先生で話ができるのは患者の先生でということで、私も東筋協と話をするとき、とんちんかんなよく分からなくなっていく。日筋協にね。東筋協の伊藤さんとはいろいろとお話しさせていただいて、同じような気持ちだと思うのですけど、そこから伊藤さんからいろいろ石川さんのことを伺っている。

石川左門氏 パソコンは全然できないんでね。最近の私を私以上に知っている人たちから連絡があるのだけど、ワープロどまりなんですよ。思考回路が。

*何人かが同時にディスカッションしているが、文字にできませんでした。

石川左門氏 親になったおかげですよ。私は子供がいなかったら、商売に熱中でもって将来は上場に乗せたりしているとか、そんなふうな野心のことを思い立ったものですから、ちょうど本社が日本橋にあったものですから、銀座が近いからひやかしながら今晩君はということを言いながら、それはまじめに。

A 全くゼロから出発してそんな経歴があって順調だったら、こういうこともないと思う。今の委員をたてる筋ジスだった。そうですね。

B けっこう突然辞めてみたいなそういう話で書かれてましたよね。

石川左門氏 そうですね。子供が成長して、こんな質問をされたときに、一言も言えないという精神生活の貧しさをいやという程謳った△のですね。あとで残るのは、とにかく運動を一生懸命やって、運動を一生懸命する後姿を子供に見せたら、いくらかかる。子供ができると、育てるのにいくらかかると思ったことが不思議である。子供から子供の生き方を通して逆に教えられたということが、まだ少し80過ぎているけど間違いないけどね。

B 私、父も父母の会で、私ポリオなんですけど、父は運動をやってて、それからガランタミンという薬を入手するために、ご近所に赤とか言われながら、そういう時代なのでやっていたのですけど、娘はヘタレで全然。だからもう父亡くなりましたけど、ちょっと思い出したりなんかして。

石川左門氏 私は戦前の経験者ですから、あれなんですけど、こないだ△このタイプの人間というのは、醜い時代なんですよね。だから次世代のバトンタッチの意△を最大限の課題なんですけど。

D 申し訳ないけど、昭和2年生まれと書いてあったので、昭和の何団△という。そしたら電話の声の人が40代くらいの人だったのですよ。石川左門さんですよね。息子さんが思ったのですよ。仕事をしてて、電話を切ったから、昭和2年の人がデイサービスの仕事をしているのかと言ったら、私はアポイントを間違えて違う人にしたかもしれないと思って、電話をかけ直さないといけないと思ったわけ。

石川左門氏 よくあるんですよ。電話がかかってくるでしょ、そうすると話を聞くと、お父さん出して下さいと言うのですよ。

□◆重要だと思うところ

□なおした箇所の例
 党紀委員長→東筋協
 授産→デュシエンヌ
 重身→重心
 色々→いろいろ
 未だ(の一部)→いまだ
 低めの→宿命を
 継続審議→継続診療
 ショウイチ→正一

□関連情報

東筋協
http://www.to-kin-kyo.or.jp/
 「会のあゆみ
 当会は、1964年(昭和39年)に「筋ジス親の会」が結成された翌年、その東京支部として活動を始めました。1969年(昭和44年)に社団法人「東京進行性筋萎縮症協会」として法人化され、1971年(昭和46年〉より、都の事業委託団体として、巡回検診をはじめ各種医療検診・相談事業を実施してきました。
 23区・多摩地域の多くの自治体や医師会と連携して、神経筋疾患難病患者の地域医療・福祉の向上に取り組んできました。

Copyright(C)2000 To-Kin-Kyo, Corp.」


UP:20180325 REV:
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇一覧 
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