HOME > 全文掲載生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

[インタビュー]八〇年代京都におけるリブ運動の模索――〈とおからじ舎〉へ、そして、それから。

滝川 マリ[Takigawa, Mari]・冬木 花衣[Fuyuki, Kai]・ぶんた[Bunta]
(聞き手:村上 潔[Murakami, Kiyoshi]/写真撮影:宇野 善幸[Uno, Yoshiyuki])
収録:2007年6月18日 於:ぶんたさん宅(京都市)
20070731 『PACE』Vol.3 (2007 Summer) pp.36-49

Tweet
last update: 20201025


◆Takigawa, Mari; Fuyuki, Kai; Bunta (Interviewer: Murakami, Kiyoshi), 2007, "[Interview] Practices to Search for Women's Liberation Movement in 1980s Kyoto: Toward Tōkarajisha, and Then", Pace, 3 (2007 Summer): 36-49

*Web掲載:2020/09/27
【Web掲載にあたって(村上潔)】
●Web掲載にあたり、写真は割愛した。また、@読みやすさを向上させるために表記上の修正を、A正確性を高めるためにいくつかの注釈において内容の修正を、それぞれ必要最低限の範囲で行なった。
‐ 文中の“〔 〕”は村上による補記。
‐ 文中の“△**/**▽”は、ページの境目を示す。
●末尾の《参考/関連》文献リスト(Web掲載にあたって作成)もあわせて参照されたい。とりわけ、村上による2014年の連載「京都の女性運動と「文化」(全3回)」は、本インタビューで語られた内容の詳細を具体的に展開した成果となるので、理解を深めるのに役立つはずである。

〔【写真】左から、ぶんたさん、滝川マリさん、冬木花衣さん〕

―― このインタビューでは、京都におけるウーマンリブ運動(その実態とその後への影響)に焦点を当てます。リブ運動においては、北海道から九州まで各地域で自律的なスペース/グループ/ネットワークが運営され、それが全国的にゆるやかに「連帯」している状況にありました(ときには激しい対立や分裂も経験しながら……)。そうした中で、場所や組織の固有名詞以外に、京都の運動から「独自性/特異性」を見つけ出すことは難しいかもしれません。しかしそれは、同時代に、同じような状況を抱えた全国の「女たち」が、「地域」にこだわるより先に「とにかく多くの女たちと出会いたい、つながりたい」と強く望んでいて、同じように運動のやりかたを試行錯誤していた結果であるとも言えるでしょう。リブ運動とは、飛び抜けた特徴が必要なのではないのです。京都のリブ運動は、すなわち日本のリブ運動であり、それは問題意識としては(限界はあったとしても)「世界」ともつながるものでした。それを確認しておきたいと思います。
 お話を伺ったのは、リブの時代をまるごとそのただ中で歩んでこられた滝川マリさん、そして「リブの最後にぎりぎり間に合った(?)」世代で、現在も精力的に運動を展開されている冬木花衣さん・ぶんたさんです。読者のみなさんには、これを通して、「リブの視点から見た(同時代的/現在的)問題認識のありよう」というものを感じとっていただければ、幸いです。[村上]

■〈とおからじ舎〉前史

村上:今号の『PACE[パーチェ]』は京都の運動を特集するということで、ここでは女性による運動を歴史的なことを含めてとりあげようと思います。それほど遠くなく近くない過去ということで、1980年代のリブ運動に焦点を当てて、お話をお訊きしたいと思います。△36/37▽
 まず、花衣さんとマリさんは、〈とおからじ舎〉★01で出会っているんですよね?

マリ・花衣:そうやね。

村上:まずお訊きしたいのは、その前の時代の話です。京都のリブっていうのは、〈シャンバラ〉★02から、ですよね?

マリ:んー、リブっていうよりも、〈門前小僧〉っていって、子どもを共同保育していくところを京都大学の辺りでやってはった人がいるのね。共同保育っていうのは、東京でも「こむうぬ」★03っていうのがあったけれども、その前くらいかな?、かなり前からやってはった。私は直接知らないし、彼女たち自身がリブだって言ってたかどうかも知らないんだけど……。〈シャンバラ〉自体も、リブって言っていたわけではないのね。「女のスペース」って言ってたから。
 ……っていうのも、80年に入ると、70年当初のリブってものとつながってないのね。つながってないという意識から80年代の運動はできているから。
 私は、鹿児島の大学にいたときに、はじめは大学の中の問題、それから水俣、そういう地域の闘争のなかで集まった女の人たちと『NEW 便所からの解放』のパンフレット★04を見て、それに共鳴して大学の中で動き出したんだけど、その意識とはかなり違ったかたちで80年代のリブは現われているんだよね。

村上:ただ系譜としては、〈とおからじ舎〉も〈シャンバラ〉の系譜を継いでいるとは言えるんですよね?

マリ:継いでないね。メンバー的には、当初の70年代の意識に共鳴した者がそれを継いでいる〔という〕部分が〔〈とおからじ舎〉には〕多い。多いけれども、70年当初にしたって、意識というのはかなり千差万別で同じものではない。それがいい面でもあるんだけど、そういうところがあるから、非常にわかりにくいんだけれども、どっちかというと、〈シャンバラ〉の意識というよりも70年代〔当初〕の意識のありようのほうが強い。〈とおからじ舎〉にはね。
 というのは、70年代の運動っていうのは、おおざっぱな言い方だけど、全共闘運動、新左翼の中から生まれているわけよ。だから、社会をどうするかというところから生まれているから。そうじゃなくて私は女としてこうしたい、という80年代以降の個人主義的・自己実現的なものとはちょっと違うのよね。
 わかりにくいと思うんだけど……。今日もね、ラジオで、井上陽水の“傘がない”をやってたのよ。その“傘がない”の歌詞をラジオのキャスターが解体するんだけれども、ああそうだな、男はこう考えるだろうな、っていうことを言ったわけよ。社会に気になることもあるけれども、でも僕は身近な人も大切にしたいんだ、という歌だ、というのね。でもあの歌はすごく悲壮感が漂っているわけよ。そんなに明るくないわけ。それはその時代の男の人の背景とすごく似ている。だから高倉健を見てかっこいいと思った全共闘世代、その挫折した俺の行き場っていうのは……、いまは社会の問題よりも、僕は僕の愛する人を見たい。そういうある程度悲壮感が漂ったかたちで選択する、それが表れている歌だと思うわけよ。
 ただそれはリブから言わせると「違う」のよ。リブが言ってたことをやっぱり理解できてないんだなあ、と思うわけ。リブは、自分の身近なことも大切じゃないかって言ってたわけよ。それは社会のことと二者択一じゃなくて。個々〔の〕自分の問題も大切だろうって、それは社会を変える要でもあるんだって言い続けてきたリブの要点を理解しないで、「僕は今まで社会で戦ってきたけど疲れちまったよ」と、挫折した「僕」に陶酔するかの如く目の前の傘が大切なんだよとつぶやいていく。そういうイ△37/38▽メージ、ある意味わかるわよ、私も。それをかっこいいというのもわかるし、それに惹かれる部分もあるわけ。だけども、それは、全共闘、学生運動の限界ですよ、と。〔この歌は〕その限界をそのまま歌ってるじゃない、って。その背景あってのリブなわけ。
 70年代に社会の問題と自分の問題を同時並行的に下からやろうとしたリブの視点の真っ当さって、これを飲み込んでもらわないとわからない。まあ、学生運動の中では、いくら言っても〔男たちは〕それがわからなかったから、リブが出て来たんだろうけどね。

村上:〈とおからじ舎〉は、そういうリブの本分みたいなものを取り戻す、というか、そういう意気込みでやられていたんですよね?

マリ:だと思う。

村上:それと〈シャンバラ〉それから〈お解連〉★05は明確にどう違うのか?……。そうそう、まず〈お解連〉はどうやってできたんでしょう?

マリ:〈お解連〉は、〈門前小僧〉をずっとやってはった小堀〔恵美子〕さんっていう人がいたんだけれども、その周りの人たちと、各地で子育てに悩んではった人たちとか、共同保育をしたいと思ってはった人たちとか、〈シャンバラ〉とか、そういったばらばらになっていたのを、一つに集まって解決できることがあるんだったらやろうや、といって集まったもの★06
 で、勉強会とかいろいろやったんだけど、地域が離れているし、考え方がものすごいばらばらすぎて、結局継続できなかったわけ。〈お解連〉が縮小して誰がやり続けたのかは、よくわからない。
 でね、〈お解連〉やってはった人と、〈シャンバラ〉のときにある種のトラブルがあって、そのトラブルに対する反動みたいなのが出てきて、映画会とかやったんだわ。〈とおからじ舎〉で部屋を借りる前にね。映画会っていうのは、『ドイツ・青ざめた母』〔1980年/西ドイツ〕。そのチケットを売ってたときに、〈お解連〉をやってた人たちから、〈とおからじ舎〉のチケットは買えへんって拒絶されたことあるよ。

ぶんた:初耳だ。

マリ:そういう裏があるのよ。だからそれでムカッときてがんばってるって、すごい人がいた。もう街中に映画のポスター貼りまくって(笑)。……だから、そのへんの〈お解連〉のその後は、わかんない。

村上:いろんなグループの集合体ということで、〈お解連〉自体に、運動における統一的なポリシーっていうのはなかったんですね。

マリ:ないと思う。

村上:でも労基法改悪反対★07の時は……。

花衣:労基法の時は、一緒にやってたんじゃない? 勉強会とか。

マリ:あー、それはあったかも。労基法の時はね。

村上:エポックとしては、〈シャンバラ〉の中に「労基法改悪反対実行委員会」★08が組織されたことがありますよね。具体的な運動としていちばん盛り上がったのはその時ですね。

マリ:ああ、そうそう。合宿があったのよね、労基法の(★08参照)。あの時もたしか、いろいろぶつかった。
 ほかには、レズビアンのグループの人が講師になって来はった時とかあった。そういう、講師を呼んで話を聴いて質疑応答してっていうのを、〈お解連〉はずっとやってはったと思う。

■〈とおからじ舎〉での問題意識

村上:で、〈とおからじ舎〉ができるのが85年ですね。
 最初の時から〈とおからじ舎〉の方針として、部屋を借りる、つまりスペースをもちますよね。これは、〈シャンバラ〉のやりかたを受け継ぐという意識があったんですか?△38/39▽

マリ:スペースがないと、どこに集まるって話じゃない? リブの立場からすれば……、リブの場合は共同生活に入っちゃうわけじゃない。あれはなかなか大変なのよ。私も大学の時してたけど。そういう動きが終わって、でも共同のスペースがないと、広がらない、共有化できない、っていうのがあったから、ある意味当然のごとく、スペースみたいなのは作ろう、っていうのはあったのね。

村上:〈とおからじ舎〉結成の時点の状況を説明してくれますか?

マリ:〈シャンバラ〉に深く関わっていたメンバーが3人いたのね。私と、井上はねこ、山野辺歩。で、北山峰子も〈シャンバラ〉に出入りしていて、南銀子は労基法の関係で出入りしていた。年齢的に言うと、北山、私、ちょっとおいて、井上はねこ、若手で南、山野辺、雨谷。

村上:若手は、その時、学生ですか?

マリ:いや、卒業してた。

村上:じゃあ、みんな働きながら。

マリ:そうそう。

村上:結成前には、結成にむけた会合とかやってたんですよね。

マリ:そうそう、「からふね屋」(京都を中心とする喫茶チェーン店)でやってた。

一同:「からふね屋」で!(笑)

マリ:勉強会をいろいろ。

村上:それは6人揃ってですか?

マリ:そうそう。

村上:その時からスペース探しも?

マリ:そうそう。

村上:ちょっと気になるのは、3人、〈シャンバラ〉の内情を深く知っている人がいる、と。〈シャンバラ〉の時に、スペースの運営が相当大変だということをご存じだったはずです。その点で、今度自分たちがやるのに、不安とかありました?

マリ:〈シャンバラ〉はお店だったからね。こっちは違うから、そういう心配はなかったけど。ただ、みんな働いてたから、夜しか集まれなかったり、ハードはハードだった。当番制でローテーション組んで居るようにして。そこに来て欲しいっていうかたちでは言っていたし、知り合いに「おいで」って言ったりしてたから。で、学習会みたいなのやり始めたり。

村上:活動していく上で、〈シャンバラ〉や〈お解連〉といった従来の運動に対して、何か新しいことやる、という意識はなかったですか?

マリ:新しいことっていうよりも、〈シャンバラ〉の中でも〈お解連〉の中でもそうだったけど、労基法と平等法の問題があるわけ★09。あと、個人と共同性の問題がある。たとえば一つ私が印象に残っているのは、〈お解連〉の中で、一級建築士の年配の女の人の話を聞こうってことになって、〈門前小僧〉の場所でやったんだけど。その時に、その人が「私らの頃はよかった、女中がいたから〔私が仕事に専念することができた〕」って言ったの。それに私はカチンときて、「女の解放の「女」の中に女中は入ってないのか」って言ったわけ。その時は「まあまあ」ってなったんだけど、その人はきょとんとしてるわけ、この人は何を文句を言ってるのって感じで。そりゃ一級建築士になるのが悪いとは言わないけれど、そうやって女の人ががんばってやっていく、それがいいんだ、それで解決するんだ、というような流れが80年代に出てきたわけ。だから労基法と平等法は問題として似てるのね。私からすれば、女の人はずっと《労働》してたってことよ、社会参加云々じゃなく。そのこと自体の解放が問題だろう、と。そういう話にいろんな場面でぶつかるわけ。「なんでそんなこと言って足を引っ張るわけ」となるのよ、《平等》の側の人からす△39/40▽るとね。「いつまでそんなこと言ってるのか」ってね。そういう問題意識が、メンバーの中でのベースになっている。

村上:労基法改悪と平等法が抱き合わせで問題になってたのは79年・80年あたりですから、〈とおからじ舎〉結成の頃はもう……。

マリ:そう、通っちゃったわけじゃない、労基法も平等法も★10。「今の状況を考えたら、自分たちの思うようになんてなるわけないじゃん。資本のいいようになるだけだぜ」っていうのがあったんだけど、「〔男女平等を〕掲げていけばなんとかなる」ってほうになっちゃった。〔私たちとしては〕「気持ちはわかるけど、そうはいかんよ」って。じゃあ「女解放」の「女」って一体何?って。それがベース。

村上:その考えは、労基法改悪反対の時にもっともよどみなく「平等法も反対」と主張した東京の〈主婦戦線〉とまったく同じですね(主婦戦線編[1980]等参照)。〈主婦戦線〉は東京の中ではもちろんマイナーな立場だったんですけど、京都の女性運動の中でも「平等法も反対」っていうのはマイナーでした?

マリ:そりゃあマイナーよ。

村上:労基法改悪反対実行委員会の一連の講座企画の中では、反対側の意見もかなり反映されていたのではないですか?

マリ:そりゃ私たちがいたからよ。

一同:(笑)

村上:〈お解連〉全体とかで見たら、もっと「私たちでつくる」側の人もいたってことですね。

マリ:そうですね。

村上:それでだいたいわかりました。ところで、その頃は運動方針とか、どう立てていたのですか?

マリ:労基法改悪反対実行委員会は〈シャンバラ〉で会議とかやってたけど。なんかね、ゲリラ的にやってたわけ。総評の婦人局長だった山野和子さんに直談判に行ったの。

花衣:労基法改悪反対実行委員会のメンバーは、大阪の人も入ってた?

マリ:入ってないよ。京都だけでこじんまりしてたよ。

花衣:大阪は大阪であった?

マリ:あったと思うよ。一緒にやった集会もあったと思うわ、合同で。

村上:大阪の〈group飛女[ひめ]〉★11が京都の労基法改悪反対の集会(1979年3月4日)や労基法改悪反対連続ティーチ・インの第3回(同年6月24日)に来た、という記録はありますね★12

■組織論

村上:〈とおからじ舎〉の様子について、もう少し話を伺おうと思います。
 本(とおからじ舎[1986])からは、いわゆる若い世代と前の世代とのギャップが窺えますよね。労基法のような大きな問題が一つ収束してしまうと、若い世代は次に何をやっていいかわからない、個別に分断されてしまう、というような状況とか。

とおからじ舎『あさってに虹を駆ける』(1986)表紙
【画像】とおからじ舎『あさってに虹を駆ける』(1986)表紙

マリ:何か物事に対する意見はぺらぺらっと言えたとしても、じゃああなたはそれ△40/41▽をどう思っているのかって、ずしっと「あなた」に来るかたちで問い詰めると、それが言葉にならないんだよ、若い世代が。いま何がやりたいのか、っていう問いが、責め言葉になっちゃうんだよ。いうたらそれは、グループがもつ問題なんだけど、問い詰めのかたちになるかもしれないけど、それは……。「ぼーっとしていたいんや、みんなの顔を見ていたいんや」でもいいんだけれども、そうでない何か、相手が「そりゃすごいね」って言ってくれるような発言をしないといけない、ってなっちゃうと言葉が出ないんだよね。運動をやっていると特にそうなっていく可能性があるんだけど、そうじゃなくて、もっと、あなたはいま何したい?って言ったときに、「んー、僕はちょっと寝ていたい」でもいいのにもかかわらず、そうじゃない方向に動いていくわけ。そのグループの「気」みたいなのが。相手が喜ぶ何かを出さないといけないんじゃないか、と。その中で言葉が出なくなっていく。

村上:それは若い人たちにとってはプレッシャーだったわけですね?

マリ:そうね、プレッシャーというか……。

花衣:やっぱり関係性が平らじゃなかったんじゃないの?

マリ:うん……。

花衣:お姉さまがたに対する尊敬というか、上に置いてる部分はあっただろうし……。まあ、私は別にプレッシャーには感じないタイプだったけど。

村上:でも花衣さんはこの中でいちばん年下だったんですよね?

花衣・マリ:うん。

村上:なるほど。

マリ:なるほどって。

一同:(笑)

村上:この本を86年6月に出してて、あとがきで「さあ本づくりもこれで終わったぞ。第2期のはじまりだ」と宣言されているのですが、いつ頃まで活動されたんですか?

マリ:そのへんがよくわからないのよ。

花衣:本出した次の年の春くらいまではあったんじゃない?

村上:閉じる原因になったのは?

マリ:結局、私たちは〈シャンバラ〉の閉じ方に憤っていて、それが原動力だった部分もあるんだけど、そういう初期衝動が過ぎたあとに、どうするかっていうことだったと思う。個人的に目指すものを見つけた人もいたし、見つけられない人もいたし。そのへんが意識の上でばらばらになった、ってことかな。個別に運動の支援をしていたメンバーは、現場である東京に行っちゃって。スペースのために毎月少ない給料の中から払ってるのに、一人減り二人減り、じゃあ持続できないじゃない。となるともう閉じるしかないかな、ってなった。

村上:実質3年ほどの活動ということですね。運動の持続としては、長いと思います?、短いと思います?

マリ:んー、なんとも言えない。でもいろんなことはやってきたんだよ。

花衣:もともと、みんな自分の活動の場をもっていたから、そこに戻っていった、って感じかな。

■〈とおからじ舎〉その後

村上:では、〈とおからじ舎〉「その後」について。

花衣:〈とおからじ舎〉がうまくいかなったことを総括していったのが、『いま、何時?』★13につながるきっかけ。
 そこでは、〈とおからじ舎〉にはいなかったけれど〈シャンバラ〉にびっちり関わっていた、かんぺい(=高野未生)さんが入ってきた。〈とおからじ舎〉を閉じて、乱ちゃん(=マリさん)の家に集まるようになっ△41/42▽て……、そのときから会合は毎週月曜日、になった。

『いま、何時?』6:00A.M.号(1992-02)表紙
【画像】『いま、何時?』6:00A.M.号(1992-02)表紙

村上:具体的には、どう総括したんですか?

マリ:グループの軋轢みたいな問題、それは必ず出てくる。〈とおからじ舎〉のことも話しながらもっと全体的に、組織の問題点とはなんだろう、ってことをずーっと話してた。

花衣:どんなふうに自分を対象化していくのかってことだよね、抽象的に言えば。

マリ:それは、あったはずなのに崩れてきたというのか……。難しいなって。
 たとえば東京の場合で、〈阻止連〉★14米津(知子)さんとずっと話したんだけども、あの人は〈リブセン〉★15の住人で、ほら、モナリザ・スプレー事件★16の。〈リブセン〉も大変だったでしょ。いい悪いの問題じゃなくて、田中美津がいちばん年上で、たくさん言葉を出して、正論を吐くわけでしょ。だからほかのメンバーはその中で大変だったって。結局、彼女色にバーッて染まっていって……、それを受ける側も問題だと思うんだけれども。しかも共同生活をしているっていう。それはもう、弊害のほうが多いんじゃないか、って思ったって。だから〈阻止連〉は、「優生保護法改悪反対」っていう、一つのものを軸にして、それで集まると。それでひとりひとりの思想性を問うわけじゃない、そういうつながりかたをするほうがベターだと。そうやって〈阻止連〉はずっと動いてきて、それはそれである程度すっきりしていて、運動体として持続しかつ広がりをもつような感じで成功しているなと思うけど。
 相手〔組織のメンバー〕に向かうということが相手を追い詰めることもありうるような状況がどうしても出てくる中で、運動体としてはそうしたほうがいい、というのがつまり〈阻止連〉の結論。ベストとは言わないけどベターだろう、という。

村上:京都でも労基法反対のときはそうしていたわけですもんね。でも〈とおからじ舎〉以降、そうした大きなシングルイシューはなくなるわけですよね。そうした中でみんなの結束なりモチベーションのようなものをどう持続させていくか……、というようなことは『いま、何時?』の前に話し合ったんですか?

マリ:いや、組織を持続するためじゃなくて……。

花衣:もうその時点では、運動体ではないから。

村上:〈とおからじ舎〉は運動という意識でやってたわけですよね?

花衣:そうそう。でも『いま、何時?』は総括を含んだ思想獲得……。

マリ:そう、次に紡ぐ思想は何なのか、という。

花衣:時代をどう受け取っているのかという表明と、あと私だったらフェミニズム批判的なことがテーマだったりもしたけど。
 東京の〈阻止連〉だったり、大阪の反原発、死刑廃止……、私には、女のグループっていうのは、そうやって一つのテーマごとに分散して活動が持続しているふうに見えた。〈LEMON+C〉★17もそのひとつ。

村上:それは全国的に見てそうなっていくわけですね。

花衣:うん。あと婚外子差別の問題もね。

マリ:婚外子差別の問題もリブの流れだしね。

村上:80年代の半ば以降、リブの思想を受け継いでさらに思想を詰めていくかたちの女のコミュニティ・運動体が成立しづらくなってきて、つながりかたとしてはシングルイシューで呼びかけて活動していくようになる、ということですね。

マリ:そうね。

ぶんた:あと、お店を開いたり、ね。

マリ:あ、〈びお亭〉★18とかね。〈びお亭〉の吉田さんもちょっと〈お解連〉に関わってた。△42/43▽

ぶんた:そういう流れのほうがやりやすい、っていうのはあるよね。

■いまの「つながりかた」

村上:(『PACE』のバックナンバーを読んでもらいながら)〈PACE〉については、どういう印象をもたれました?

花衣:「ことば」をもっている人たちの集まりのように思えるから、「ことば」で理解しあえるというのは良い点だと思う。誰にでもできることじゃないと思うよ。
 MLの書き込みは、情報提供とかだけ?

村上:そうですね、あとは活動の呼びかけとか。そこで議論とかはないですね。

花衣:議論もないし、内面の吐露もないわけでしょ?

マリ:それはなんでそうなったんやろうね? 私らは、問い詰めるのは問題だと思う反面、ちょっと問い詰めが足りないかなあ、って(笑)。

花衣:いまの若い子って、いいとか悪いとかじゃなくて、適度な距離感のとりかたみたいなのができてる、というか。慎重だし、失礼がないように振る舞える、という。

村上:まあ、伝説的になっている昔のリブ合宿★19のような、みんなであぐらをかいて車座になって……、みたいなのは、想像し難いものがありますよね。

一同:(笑)

花衣:私の印象では、結局、上の世代が熱くぶつかりあってはじけたものを、なんとかまたいま距離をとりながら一緒にやっていく時に、そういうやりかたを見つけたのかなあっていうか。そういう部分もあるのかな、って見える。それは全然いいんじゃないかなって。

■女たちとつながりたい――

ぶんた:私は、〈とおからじ舎〉のスペース、一回だけ行ったの。すてきなスペースだったわ。みんながこう、力いっぱい維持してるっていうのがすごくよくわかって。でもあれは終わりかけの時だったけど。

花衣:あの時私が〈とおからじ舎〉にぎょっとすると同時に惹かれてたところは、「男女平等」っていうのはもう古いものだって位置づけていたところなんだよね。
 家父長制批判でもない、性別役割分業批判でもない、男女平等を目指すわけでもない。上野千鶴子が来たとき、「じゃあなんなの? まったくわからないわ」って言われたじゃない。その時直接上野千鶴子にそう答えたかどうか定かじゃないんだけど、「リブの女解放は権力奪取だ」っていうのがはねちゃん(井上はねこ)やってん。
 そうすると、ぎょっとするじゃん。なるほど、とも思うんだけど……(笑)。そのすごい勢いみたいなのがあって。

ぶんた:女自身の権力奪取って、やっぱり思想的・文化的なものだと思うしね。「女並み」って言葉があるけど……、「男並み」に働いて男に実力で勝つ、で、勝ってなんなの?っていう、そういう話だから。労基法改悪反対とか平等法もいらないっていうのは。「女並み」の生活というか、△43/44▽自分の生活を大事にしたうえで、世の中に、それの何が悪いのよって、無理やり生きる場でそれを広げて実現していくっていう。この生きかたでどこが悪いのよって主張していく、そういうことをもっと束になってしていければ、って思ってる。そういう女の声っていうのがどうしてこんなにばらばらになっているのかって、いつも悔しく思ってますけど。女性運動っていうのが、そういうシングルイシューっていうの?、ばらばらにしかありえないっていうのは、実は残念だと思ってるんだけど。でも、センター化っていうのは難しいよね。リブセンターはどうやって運営すればいいのかなんてイメージできないし。スペースもあればいいな、いつも誰かがいて、駆け込み寺的な機能ももったりとか★20、必要な支援ができて、いつもそこが開いているっていうのができたらどんなにいいだろうと思うけれども……、なかなか。難しいよね。公共のセンターとか、そんなふうにはなりきらないしね。

花衣:そうだね、法律が整備されてくのと同時に公共的なセンターにとって替わられたっていうのは大きいかな。
 女たちの本当の要求を積み上げていってセンターができるとか、男女共同参画基本法ができるとか、そういう状況を日本の女たちの運動が作れなかったんじゃない、結局。そういうのを作るっていう上からの意志と、リブとか女たちの運動にあった意識との間には、接点がないまま来ちゃったんじゃないかな。たぶん諸外国だったらそれがもうちょっと混ざったかたちできちっと積み上がったような法律なり行政の機構なりがあって、それならもっと力をもって内実をもって女たちの中に降りていくようなものとして機能するんだけど、〔日本は〕そういうのがすごく少ないから。
 日本のリブの思想性っていうのはすごくおもしろかったと思うんだよね。同時代的に見たらけっこういろんなところに目が行き届いていたし。一部の白人の上流階級なり中流の人の主張を飛び越えたような広がりとか深さをもっていたと思うんだけど、そういうのが力にならずに、生きにくい状況が改善されないっていうふうにも見えるし。まあ、どうしていくのかっていうのはいくつになっても課題だし、動いていったらいいんじゃないかと思うけど。
 結局、個別イシューって言うけれど……、たしかに(女性運動の)総合ビルも建ってないし★21、総合雑誌も出てないけど、私の頭の中では全部総合的なものを入れたいって欲求はあるんよ(笑)。パスポート問題、戸籍の問題っていうのは大きなテーマなんだけど、問題っていうのは全部つながってるから。労働問題も、シングルマザーの問題も。とにかく私がいままで出会った女たちとは、テーマにしようと思ったことを共有したいと思っているし、そのことを自分の中にちゃんと積み上げておきたいっていうのはある。それぞれの女たちだって、たとえば反原発のことをやっている人だって、それだけを考えているわけじゃないだろうし。ずっとやっているとどこかでお互いが何かでつながったりする。そういうゆるやかにつながりあっている何がしかの関係性みたいなものは日本全国にあるといえばあるし。そういったものがどういうかたちになっていくかはわからないけれども……。またさらにいろんな世代や性別を越えて交流できればいいなあ、とは思ってる。

村上:必ずしも空間的なスペースが手に入れられなくても、ってことですね。

花衣:いまは、ね。

*3人は毎週月曜、ぶんたさん宅で会合を続けている。興味ある人は編集部まで連絡を。紹介します。【[Web掲載版注記]現在は行なっていません。】△44/45▽

■注

★01 1984年4月1日、四条河原町近くのマンションの一室にオープンした、女解放の理論化と運動のための「場」。立ち上げメンバーは、雨谷点子・井上はねこ・北山峰子・滝川マリ・南銀子・山野辺歩(五十音順)の6名。のちに冬木花衣とタスカ・チヨ(海外駐在員)が加入する。映画の自主上映会、読書会・学習会、「女のからだから合宿」(1985年9月、〈'82優生保護法改悪阻止連絡会〉の呼びかけで開催)での分科会企画、「母子保健法改悪阻止全国同時大行動・京都編」(1985年11月23日)の主催、国勢調査反対運動に向けたアンケート、井上はねこの「ナイロビ国際婦人年世界会議NGOフォーラム」(1985年7月)参加(ワークショップ主催。なおそれに向けて、とおからじ舎[1985]を作成)など、多彩な活動を展開した。
 以下、とおからじ舎[1986]の「はじめに」より抜粋。
 とおからじ舎は、こんな場です。

 とおからじ舎では、女解放の理論化と運動の方向づけの土台づくりを、2年がかりでめざします。
 私たちは、それぞれがかかわってきた女たちの運動をふりかえるなかで、全体を見渡す視野が欠けていたこと、とりわけ、政治、権力、組織、軍事等の問題を、ほとんど考えてこなかったことを痛感しました。男たちの『闘争』の批判や点検も含めて、わたしたちの運動を模索していくつもりです。
 と同時に、映画の自主上映、ユニークなイベント等を企画し、世の中の動きにも敏感に反応し、活動していくつもりです。
 とおからじ舎は、はりきり女たちの拠点です。

運営 とおからじ舎はその維持のために毎月醵金している6人の女たちの話しあいによって、運営していきます。meetingは、週1回のペースで行っています。

会員 いわゆる会員制はとりません。企画への参加を希望される場合は、そのつど申し込んでいただきます。

企画 とおからじ舎としての企画と、メンバー有志による企画・活動があります。企画については別紙をごらん下さい。

販売 […]

会合 女を中心としたグループにかぎり、集まりの場として提供します。事前にご相談下さい。

宿泊 当面は、メンバーの知人に限り、その都度、相談のうえでということになります。お茶代等として、カンパをいただきます。[…]

開閉 月曜から金曜までの午後7時〜10時の間は、一人(以上)のメンバーが当番としてつめています。企画等も、原則としてこの時間帯に行います。日曜はお休みです。
(とおからじ舎[1986:3-4])

★02 「〈シャンバラ〉は、「京都市中京区西の京円町30 円丸市場地下」に位置した。〔改段落〕『あんなぁへ No.4 シャンバラのいままで‐これから』によると、1976年4月頃、女のスペースではなく、スナック・喫茶〈シャンバラ〉として開店した。男の客が中心だったが、店主のMさんは、経営のことや接客のことで心身共に疲労していた様子を文章から知ることができる。そんな折、若い人たちが集まる喫茶店をやっている人たちの間でソフトボールの試合が行われた。女の子が入ったチームは弱いから負ける、という男の言葉にカチンと来て「ソフトボールチー△45/46▽ムを作ろう」と呼びかけた。もっと女たちと出会い、やれることを見つけたいと、女たち中心の店に変わっていった」(栄井[2007:8])。
 こうしてスナック〈シャンバラ〉は、1977年9月、女のスペースとして生まれ変わる。1979年に一度閉店するも、すぐに新体制で再開。維持会員「シャンバラ・シスターズ」を組織する会員制を採用する。発行したミニコミは、開店当初『あんなぁへ』→再開後『スペース通信』→1980年5月から『ミズ通信』と変遷。1980年10月前後には、シスターズの数が100名にまでなる。しかし1981年2月、名義人Mさん等が運営部を退くと表明したことから、当時のスタッフとMさん(ならびにMさんの支持者)との間に確執が生じ、借金の名義の問題や〈シャンバラ〉の継続に関して激しく対立。結局、1982年5月の第4回シスターズ総会で、スタッフ全員総辞職、シスターズ解散。〈シャンバラ〉は閉店となる。栄井[2007:8-11]、溝口・佐伯・三木編[1995:382-389]参照。

★03 〈東京こむうぬ〉。「子どもを産んだけれど、男と暮らすよりも、女どうしで共同生活するほうが、展望がひらかれると感じた3組の母子(共に20代前半)が祖師谷に「オレンジハウス」を誕生させる。(72・8)1年後高井戸に、子産みとコミューンをもじった「東京こむうぬ」を開設。3組の母子だけでなく、子どもや子育てに関心ある独身女や、男性にも呼びかけて、共同保育所をオープンさせた。[…]〔活動としては〕乗り物やデパートでのベビーカー禁止にたいし、消防庁へ働きかけ撤回させた。(74・7)優生保護法改悪阻止にとりくむ、出産の手助けをするなど対社会的問題に積極的にかかわった」(溝口・佐伯・三木編[1994:26])。1975年解体。無認可保育所〈あのね保育所〉に引き継がれる。記録として、東京こむうぬ[1975]などが残されている。西村[2006b]参照。

★04 ぐるーぷ闘うおんな[1970]。ガリ版刷りのパンフレット。田中[2004:333-347]に収録。なお、「NEW」以前の「便所からの解放」は、溝口・佐伯・三木編[1992:201-207]、井上・江原・上野編[1994:39-57]に収録されている。いずれも文責は田中美津。

★05 〈おんな解放連絡会・京都〉。略称〈お解連(OKAIREN)〉。

★06 「1977年の吉武選挙を支援したさまざまな女たちのグループが、1978年1月、新築される京都市の社会教育総合センターに保育室なしの「婦人ホール」が予定されていることを知り、行政と交渉をはじめる。同年10月にグループ名称を「おんな解放連絡会・京都」にして、市の国際女性年の行動計画作成に要望書を提出したり、労基法改悪反対、優生保護法改悪反対、雇用平等法推進などの運動をする。自主講座「明日をひらく教室」開催、分科会活動など、学習活動も活発におこなった。お解連の当初の参加グループは、「おんな・自立の会」「シャンバラ」「ぐるうぷポッポ館」「サークルえがりて」「ぐるーぷクレーオ」「あごら京都」「国内行動計画を考える会」「サハラ・グループ」「社会主義婦人会議」「婦人民主クラブ京都協議会」の10グループ。参加グループは減ったが、現在もOKAIRENは存在している。)」(溝口・佐伯・三木編[1995:100])。

★07 1975年の「国際婦人年」以降――「国連婦人の10年」にともなう国内行動計画に連関するかたちで――日本国内では女性労働に関する様々な制度上の画策がなされたが、その目玉となったのが労働基準法「改正」である。労働大臣の諮問機関として1969年に設置されていた労働基準法研究会は、1978年11月20日に、産前産後休暇と育児時間を除く就労女性への保護規定の廃止を盛り込んだ報告書を提出する。これに対して、既存の労働組合・女性団体、そして全国のリブ運動は総じて反対の声をあげた。△46/47▽

★08 1979年3月、〈お解連〉が母体となり女150名により結成。〈シャンバラ〉に拠点を置く。1978年「11月末に開かれた弁護士中島通子さんの講演会(婦人民主クラブ主催)で、「労基法改悪をくい止めよう」という中島さんのよびかけがきっかけとなった」(溝口・佐伯・三木編[1995:102])とされる。1979年3月4日、「女はそれを許さない!3月4日労基法改悪反対集会」(京都会館会議場)とデモを行なう(溝口・佐伯・三木編[1995:102-103]に呼びかけビラの文面が収録)。4月から「労基法改悪反対連続ティーチ・イン」を3回開催したのち、8月に「やりますぇ女の合宿'79夏」を左京区八瀬の里にて開催。中島通子・駒野陽子・小西綾・藤枝澪子を講師に招き、100人を超える女たちが参加した――『スペース通信』第5号(1979年9月1日)には、「参加人数131人」ならびに「延べ115名の参加」という2つの異なる記載がある。

★09 先述(★07)の「労基研報告」では、「男女雇用平等法」の立法化が謳われており、その文脈において「保護撤廃」が打ち出されていた。つまり、《保護》から《平等》へ、というロジックが示されたのである。これに対し、リブを含む女性運動側はその《平等》の欺瞞性を批判し、この策動の内実が政府・資本による労働力搾取強化の方針にほかならないことを指摘した。しかし、その後の反応は二分化する。一つは、働く女たち自身で理想的な「男女雇用平等法」を策定しようという動き(新宿の中島通子法律事務所を中心に活動した〈私たちの男女雇用平等法をつくる会〉に代表される)、もう一方は、そうした発想・行動自体が「構造的《女の女差別・女の階層分化》を容認する女権拡張運動」であるとして強く批判する動き(東京・多摩の主婦たちによるネットワーク〈主婦戦線〉が代表的)である。

★10 労基法「改正」と「男女雇用平等法」立法化の策動は、「男女雇用機会均等法」(正式名称は「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」)成立において現実化した(1985年第102国会で可決・成立、同年6月1日公布、翌86年施行)。この法律は、「勤労婦人福祉法」の改正部分と労基法の「改正」部分から成る。

★11 「75年、共同で学習塾を開いていた山崎明美さん、松井伸世さんの2人が女性史の読書会をはじめたのが出発。76年にはメンバーもふえ、グループとして活動を開始。女性史のまとめとしてパンフ「飛女」を発行し、機関誌「ひめっこ」(毎月)を出す。そのほか共同保育、プリントショップを開く。映画上映運動などの活動。他のグループとの交流、学習成果や情報交換に力をそそぐ」(溝口・佐伯・三木編[1995:208])。

★12 『ひめっこ』No.7(1979年4月1日)、同No.10(1979年7月1日)。

★13 『いま、何時?』は、1988年7月から1995年10月にかけて刊行された不定期刊のミニコミ誌。0:00A.M.号(1988年7月)、1:00A.M.号(1989年1月)、2:00A.M.号(1989年7月)、3:00A.M.号(1989年11月)、4:00A.M.号(1990年4月)、5:00A.M.号(1991年4月)、6:00A.M.号(1992年2月)、7:00A.M.号(1994年5月)、8:00A.M.号(1995年1月)、9:00A.M.号(1995年10月)、の計10号が残されている。執筆・編集にあたったメンバーは、当初、滝川マリ・高野未生・冬木花衣の3名、のちに、ぶんた・中尾映が加入。

★14 〈'82優生保護法改悪阻止連絡会〉。略称〈阻止連〉。1996年に〈SOSHIREN 女(わたし)のからだから〉に改称。
 Webサイト:http://www.soshiren.org/

★15 〈リブ新宿センター〉。1972年〜1977年。女たちのカンパを元手に新宿駅近くの2LDKマンションを借りてオープン。〈ぐるーぷ闘うおんな〉・〈エス・イー・エックス〉・〈東京こむうぬ〉等のメンバーや個人参加の女たちによって構成されていた。専従がセンターに住み込み、△47/48▽24時間体制で活動。リブニュース『この道ひとすじ』の発行、リブ合宿(1973年・式根島)、優生保護法改悪阻止運動、電車・バス・デパートでのベビーカー閉め出しへの抗議行動、ドテカボ一座によるミュー“ズ”カル「女の解放」の公演など、幅広く精力的な活動を展開した。西村[2006a]、溝口・佐伯・三木編[1994:58-80]参照。

★16 1974年4月、上野の東京国立博物館での「モナリザ展」開催に際し、文化庁は付き添いを要する人々の入場を断るという方針を発表した。これに対し障害者からの抗議の電話が殺到し、文化庁は急遽、開催期間内の一日を入場無料の「障害者デー」とする対応をとる。下肢に麻痺があり車いす使用者である米津知子は、この「締め出し」と欺瞞的な「配慮」に対する抗議行動として、期間初日にモナリザ画(を被う防弾ガラス)に向けて赤いスプレーペンキを吹きつけ、即逮捕、軽犯罪法違反で起訴された。東京高裁の判決は「科料3000円」だった。溝口・佐伯・三木編[1994:87-91]参照。

★17 「戸籍がなくてもパスポートを!!! おんな達が分けへだてられることなく生きる(時には)+子ども達と共に」を掲げて1995年から活動を続ける京都のネットワーク。会報『LEMON+C通信』は、1995年12月に1号が出て以来、現在〔2007年7月31日時点〕までに10号(+号外1)が発行されている。1995年から京都府に対して、子どもの戸籍がなくとも児童扶養手当の支給はなされるべき、との働きかけを行ない、2002年に支給を勝ち取る。以降は、戸籍のない子どもへのパスポート発給を求める運動を、現在〔2007年7月31日時点〕まで一貫して続けている。

★18 〈自然派レストラン びお亭〉。京都市中京区三条通東洞院西入ル梅忠町28 M&Iビル2F。1983年開店。無農薬、有機栽培の食材を使う自然食が味わえる。正木・吉田編[1988]参照。

★19 1971年8月21日〜24日、長野県信濃平にて開催。全国から約300人が参加。この合宿を契機として立ち上げられたリブ・グループも多い。ふつう「リブ合宿」といった場合これを指す。溝口・佐伯・三木編[1992:315-330]参照。
 その後、「九州リブ合宿」(1971年12月18日〜19日)・「北海道リブ合宿」(1972年8月17日〜21日)が、また1973年には〈リブ新宿センター〉主催で、伊豆・式根島にてリブ合宿(8月23日〜27日)が行なわれた。

★20 須藤[1977]では、夫の暴力から逃れて〈リブ新宿センター〉に駆け込んだ経験が記されている。

★21 2007年2月12日、大阪・日本橋西1丁目に、女性による女性のための自立支援ビルがオープンした。ビルの運営・管理は民間団体〈スペースここから〉が担当し、母子家庭の支援に取り組むNPO法人〈しんぐるまざあず・ふぉーらむ・関西〉や、家計やライフプランの相談役〈うえだライフマネジメントオフィス〉、市民から募った自由な映像表現を定期上映している〈映像発信てれれ〉など5つの団体が入居している。これを「総合ビル」と呼べるか/呼ぶべきかどうかは難しいが、今後の動向に注目したい。
 ビルの住所は「大阪市浪速区日本橋西1 カタオビル」。
【[Web掲載版注記]現在は上記のような状態ではありません。】

■文献

◇井上輝子・上野千鶴子・江原由美子編 1994 『リブとフェミニズム』,岩波書店,日本のフェミニズム1 *新編[2009]
◇ぐるーぷ闘うおんな 1970 『NEW 便所からの解放』,ぐるーぷ闘うおんな *パンフレット△48/49▽
◇栄井香代子 2007 「資料の概略」,栄井香代子・竹村正人・村上潔『「平成18年度京都市男女共同参画講座受講生参考資料(女性解放運動関係)収集調査」報告書』,NPO法人京都人権啓発センター・ネットからすま,4-11
◇主婦戦線編 1980 『女解放――80年代をひらく視座』,星火通信社
◇須藤昌子 1977 「別居から自立へ」,『あごら』16:69-71(特集=女と結婚)
◇田中美津 [1972] 2004 『いのちの女たちへ――とり乱しウーマン・リブ論』増補新装版,パンドラ *新版[2016]
◇とおからじ舎 1985 『世界の闘う女たちへ――'85年夏 KENYA NAIROBI 国際婦人年世界会議にむけて」,とおからじ舎 *パンフレット
◇とおからじ舎 1986 『あさってに虹を駆ける』,とおからじ舎
◇東京こむうぬ 1975 『生活写真集 「東京こむうぬ」の子供たち』,東京こむうぬ
◇西村光子 2006a 「女だけのコレクティブ・リブ新宿センター」,『女[リブ]たちの共同体[コレクティブ]――七〇年代ウーマンリブを再読する』,社会評論社,57-96
◇西村光子 2006b 「子育ての共有化をめざした「東京こむうぬ」」,『女[リブ]たちの共同体[コレクティブ]――七〇年代ウーマンリブを再読する』,社会評論社,97-124
◇正木美津子・吉田みゆき編 1988 『菜っぱのおいしい店へようこそ――自然派レストランびお亭』,ブレーンセンター
◇溝口明代・佐伯洋子・三木草子編 1992 『資料 日本ウーマン・リブ史I 1969〜1972』,松香堂
◇溝口明代・佐伯洋子・三木草子編 1994 『資料 日本ウーマン・リブ史II 1972〜1975』,松香堂
◇溝口明代・佐伯洋子・三木草子編 1995 『資料 日本ウーマン・リブ史III 1975〜1982』,松香堂

■参考/関連

◇村上潔 20070331 「労基法改定反対の動き」,栄井香代子・竹村正人・村上潔『「平成18年度京都市男女共同参画講座受講生参考資料(女性解放運動関係)収集調査」報告書』,NPO法人京都人権啓発センター・ネットからすま,12-20
◇村上潔 20090331 「「男女平等」を拒否する「女解放」運動の歴史的意義――「男女雇用平等法」に反対した京都のリブ運動の実践と主張から」,『Core Ethics』05: 327-338
◇村上潔 20101225 「いま、リブとしてあれることとは・覚書」,『アリーナ』10: 172-179(中部大学総合学術研究院〔発行〕/風媒社〔発売〕)
◇村上潔 20120331 「労働基準法改定の動静における女性運動内部の相克とその意味――「保護」と「平等」をめぐる陥穽点を軸として」,『現代社会学理論研究』06: 89-101
◇村上潔 20120331 『主婦と労働のもつれ――その争点と運動』,洛北出版
◇村上潔 20140505 「[連載]京都の女性運動と「文化」(全3回)第1回:序論――女のスペース〈シャンバラ〉の活動から」,Webマガジン『AMeeT』(一般財団法人ニッシャ印刷文化振興財団)2014年5月5日更新
◇村上潔 20140708 「[連載]京都の女性運動と「文化」(全3回)第2回――〈シャンバラ〉以後、1980年代のリブ運動」,Webマガジン『AMeeT』(一般財団法人ニッシャ印刷文化振興財団)2014年7月8日更新
◇村上潔 20140926 「[連載]京都の女性運動と「文化」(全3回)第3回――1990年代、リブとして生き続けることの模索」,Webマガジン『AMeeT』(一般財団法人ニッシャ印刷文化振興財団)2014年9月26日更新
◇2016/04/29 「原一男監督と考える 70年代の生の軌跡――障害・リブ・沖縄 〜初期ドキュメンタリー作品上映とトーク〜」(13:00〜18:30 於:立命館大学朱雀キャンパス5F大ホール)
・村上潔 20160429 「[報告]ウーマンリブと「性」――産む自由の追求(との距離)」
・村上潔 20160430 「『極私的エロス・恋歌1974』とリブについてのメモ」
◇立命館大学産業社会学部2018年度秋学期科目《比較家族論(S)》(担当:村上潔)
 「現代日本におけるオルタナティヴな「子産み・子育て」の思想と実践――「母」なるものをめぐって」
◇村上潔 20190425 「アナーカ・フェミニズム」,『現代思想』47(6): 170-173
 *2019年5月臨時増刊号《総特集=現代思想43のキーワード》
池田祥子 19990915 「全共闘・新左翼とウーマン・リブ――永田洋子、田中美津、その分岐点」,渡辺一衛・塩川喜信・大藪龍介編『新左翼運動40年の光と影』,新泉社,123-152
◇リブ新宿センター資料保存会編 20080420 『リブニュース この道ひとすじ――リブ新宿センター資料集成』,インパクト出版会
◇荻野美穂 20140320 『女のからだ――フェミニズム以後』,岩波書店(岩波新書新赤版1476)
◇松井久子編 20141015 『何を怖れる――フェミニズムを生きた女たち』,岩波書店
◇立岩真也 20100811‐0906 「障害者運動/学於日本」(1〜9)
◇立岩真也 20110125 「もらったものについて・6」,『そよ風のように街に出よう』79: 38-44
◇立岩真也・村上潔 20111205 『家族性分業論前哨』,生活書院
◇立岩真也 20120125 「もらったものについて・8」,『そよ風のように街に出よう』82: 36-40
◇立岩真也 [1997] 20130520 『私的所有論[第2版]』,生活書院
◇大野光明・小杉亮子・松井隆志編 20190215 『[社会運動史研究 1]運動史とは何か』,新曜社
◇大野光明・小杉亮子・松井隆志編 20200422 『[社会運動史研究 2]「1968」を編みなおす』,新曜社

■言及/反応

◆中村佑子 Yuko Nakamura(@yukonakamura108)[2020年10月20日12:22]
 https://twitter.com/yukonakamura108/status/1318392003667783683


*作成:村上 潔(MURAKAMI Kiyoshi)
UP: 20200927 REV: 20200929, 1022, 25
フェミニズム (feminism)/家族/性…  ◇女性の労働・家事労働・性別分業  ◇社会運動/社会運動史  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇全文掲載
TOP HOME (http://www.arsvi.com)