last update: 20201025
資料は1970年代から1980年にかけて繰り広げられた女性解放運動、いわゆるリブ運動を中心に収集されている。
総点数は736点、地域としては、北海道から九州まで19都道府県にわたっている。
北海道 |
秋田 |
宮城 |
千葉 |
東京 |
神奈川 |
長野 |
愛知 |
京都 |
奈良 |
70 |
1 |
7 |
2 |
328 |
1 |
2 |
35 |
83 |
6 |
大阪 |
兵庫 |
香川 |
徳島 |
広島 |
山口 |
福岡 |
鹿児島 |
沖縄 |
その他 |
104 |
11 |
1 |
27 |
3 |
6 |
39 |
1 |
1 |
8 |
年代別構成は下記のとおりである。
1965〜1970 |
1971〜1975 |
1976〜1980 |
1981〜1986 |
その他 |
18 |
139 |
368 |
127 |
84 |
1976年から1980年までを一つの山として、資料を形成している。
1971〜1980年代の初期資料としては、リブの曙と称される〈ぐるーぷ闘う女〉による「NEW 便所からの解放」をはじめとして、〈リブ新宿センター〉会報『この道ひとすじ』を一つの核としながら、〈関西リブ連絡会議〉(大阪)・〈もんろお社+メトロパリチェン〉(北海道)・〈冴呂女〉(福岡)の資料も網羅している。また、それぞれのグループの女たちが北から南を横断的に旅しつつ、出会っている様子を知ることができる。闘いの大きなテーマとしては、1972年に国会上程された『優生保護法改正案』について、産む・産まないを決める自己決定権と障害者問題について深く考察を及ぼしながら、個人としての女をまさに「産む機械総体」としてまなざす国家/権力に対する激しい抵抗運動が繰り広げられた様相を知ることができる。法案は1974年に参議院で会期切れとなり、審議未了の廃案となることで運動はひとまず収束するが、優性思想に絡めとられることなく、また同時に自己の決定権も手放すことなく生きていくというテーマは、リブにとって、通奏低音のように現在にも引き継がれている。
1975年からはじまる「国連国際婦人の10年」は、女たちのグループにとっても、一つの画期となる。〈国際婦人年をきっかけに行動する女たちの会〉が結成され、「男女平等法」の制定が視野に入るなか、いわゆる《平等派》と《労基法改悪反対派》に女たち総体が二分する傾向が生じる。資料は、労基法改悪反対をメインとしながらも、平等法に関する会報・通信も網羅している。
75年(平等派の台頭の年)の特徴は、これまでリブが掲げていた「まるごとのわたし−女の解放」という視点が、《差別の原因》としての「性別役割分業論批判」という論点に△4/5▽より、局部化してしまったということ。そして、論点が絞られたことをもってして、インパクトをもった批判点が解消されれば女性差別がなくなるのだという雰囲気を社会が受容していったということであろう。「労基法改悪反対闘争」の方がさらに局部的な論点に自らを終始させているように見える現象は、実は、逆説的に「まるごとの解放」を指向したリブだからこその主張だったことを正確に読み取ることが必要だ。
しかし、《平等派》・《労基法改悪反対派》双方の思惑を超えて、歴史的事実としては、1985年に成立した「男女雇用機会均等法」は、企業論理が優先し、平等派が求めた「結果としての平等」にもいたることはなかった。80年代は一定キャリアウーマンが持ち上げられる一方で、「ガラスの天井」と称される昇進の壁に、多くのキャリア志向の女性たちもぶち当たり、さらに採用の時点で振り分けられる一般職の女性は、機会についても入り口から制限されることになった。そのような状況のなかで、早くからパート未組織労働者としての女性に視点をあわせた〈主婦戦線〉の文献も存在する。まさに、現代社会において火急の問題である、「非正規雇用」・「パート」・「ワーキング・プア」の諸問題は、70年代半ばから、女たちに課せられた問題であり、生き様としても主張としても格闘している姿を見ることができる。
したがって、(1)優生保護法改悪阻止関連闘争、(2)労基法改悪反対闘争については、以降に別立てで論ずることとする。
■リブの思想的核心
「まるごとのわたしの解放」はすなわち、「女として十全に生きる」という希求であり、「闘い」はそれを阻害するすべてを対象として繰り広げられることになる。
「おんな new 便所からの解放」(ぐるーぷ闘うおんな)の冒頭には以下の詩が載っている。
おんな
おんなってなんだ?
かあちゃん?二号さん?しょうふ?ホステス?オールドミス?
女ってなんだ?
子供をうむ人?
かあちゃん 女かー
二号さん 女かー
しょうふ 女かー
ホステス 女かー
オールドミス 女かー△5/6▽
かあちゃん 1/5女
二号さん 1/5女
しょうふ 1/5女
ホステス 1/5女
オールドミス 1/5女
1の女は じゃどこにいるんだ?
笑いたい 泣きたい 怒りたい
1/5女は
笑えない 泣けない 怒れない
おまえ ほんとに女か?
あなた ほんとにおんな?
わたしゃ“女”になりたいよー
[…]
わたしという“女”は存在 し・な・か・っ・た。
“女”を主張できない「革命」の中で
男になるか 闘争妻になるかを
女は、私は 選択し
選択させられてきた。
“人間解放”とは
男のもの 女を退けた−
女は「解放してやる」と『やさしく』包まれて…
女たちを分断するのは、「権力」だけではなかった。同じ闘いをになう男たちもまた、権力と同質の視線を女たちに向け、分断し、支配しようとした。それを、拒否して「一人前」になるということは「男」になるという手段しかない。
ただシンプルに「わたしは女」と言い切ることで、わたしという個人の解放と同時に、女(たち)の解放を、自らの手でつかみとっていきたい。しかし、その表明それ自体が、男たちにとって、権力にとって、すさまじい戦慄を与えることとなる。
「「私はおんな!」と叫んだとき、私は女でないばけものとして男の世界で位置づけられる」(冒頭詩最終行)。
しかし、このような女たちに向けられた視線――女は「誰かの娘」であり「誰かの妻」△6/7▽であり「誰かの愛人」でなければならず、そうなりたくなければ「男並みに働け」――は、今現在もまだ払拭されていないと思われる。「私はわたし(女)」「私(おんな)の存在は私(おんな)自身のもの」「私(おんな)の決定は私(おんな)自身が行う」という女たちの自己決定権は確立されているとは言いがたい。
■リブにとっての運動的テーマ
さて、上記のように、「全体としての私(たち)」の解放は、リブにとって思想的核心であるが、実際上の運動においては、そのテーマは仕分けされ、細分化される。
◆性(体の自己管理)
a)「産む産まない」にかかわること
i)女を産む道具と規定する、男の視線/国家の視線に対する反撃。
→優生保護法改悪法案反対運動
堕胎罪(刑法)の問題
ii)「産む産まない」に関わって見つめざるを得ない、障害者との関わり。
障害を持った子どもを産むことをめぐる考察
b)男との関係(sexと避妊に関して)
c)自分の体を知ること・女の体を知ること
◆婚姻制度=戸籍(家)
a)女たちの分断――未婚と既婚(貞女と娼婦)
b)婚外子差別(民法900条及び772条問題)
c)母子家庭(児童扶養手当改悪阻止闘争)
d)銃後の守り――軍隊慰安婦問題
e)女が女を愛すること(レズビアン)
◆仕事・労働・食い扶持(経済的自立)
a)労基法改悪阻止闘争
b)平等法制定運動
◆女との共同性・生活(コミューン、スペース論)
a)共同保育・子育て
b)環境問題・食の安全性・反原発運動
資料から屹立する問題群は、まさに、現実の諸問題であることが知れよう。実際リブの運動を担った人々は、その後、それぞれのテーマごとの運動に関わっていく。しかし、個々のテーマに細分化され、専門化された「運動」は、「まるごとの私の解放」というリブの思想性からは、遠のいていく傾向を持つ。そのときに、リブの思想性を生かすものが「スペース」であった。△7/8▽
■スペース論
今回の調査資料の主たる出所である〈シャンバラ〉を中心に、リブたちにとっての「スペース」に論点を絞り、以下に述べてみたい。
〈シャンバラ〉は「京都市中京区西の京円町30 円丸市場地下」に位置した。
『あんなぁへ No.4 シャンバラのいままで−これから』によると、1976年4月頃、女のスペースではなく、スナック・喫茶〈シャンバラ〉として開店した。男の客が中心だったが、店主のMさんは、経営のことや接客のことで心身共に疲労していた様子を文章から知ることができる。そんな折、若い人たちが集まる喫茶店をやっている人たちの間でソフトボールの試合が行われた。女の子が入ったチームは弱いから負ける、という男の言葉にカチンと来て「ソフトボールチームを作ろう」と呼びかけた。もっと女たちと出会い、やれることを見つけたいと、女たち中心の店に変わっていった。
●『あんなぁへ』【京都:〈シャンバラ〉】
◇創刊号(1978年3月1日創刊)
*タイトルは「自分がくらしの中で使ってきたことばで、隣にいる女になにげなく『あんなぁ、へ』と話しかけていければ…」という願いに基づく。
〈見出し〉
- 強姦は正当化できない!――される側からポルノを斬る
- 出産を自然で豊かな体験に!――京都でも出産準備クラス
- 女と子どもの共同体(ベロ亭)が助っ人募集
- 刑法改悪阻止――堕胎罪撤廃を女の闘いで克ちとろう!
- 社教センター建設に女の声を!!
- 女たちの連帯の輪をひろげよう――東京ツアー報告
- ミニコミ紹介“ザ・ダイク”――レズビアンの解放は女の解放!
◇No.2(1978年5月1日)
- 特集=働き続けるために
- “子産み”を自分のモノにするとは?!
- 社教センターその後
- 女から女たちへ――シャンバラ新着ミニコミ
◇No.3(1978年7月25日)
△8/9▽
◇No.4(1978年9月19日発行)
*スナック・喫茶〈シャンバラ〉開店は1976年4月。〈おんな解放連絡会・京都〉発足の案内。
◇No.5(1978年12月11日発行)
- 〔2月に店を閉めることの報告がさりげなくされている〕
- “お解連”旗上げ集会 基調報告 要旨
- 大成功!! 女たちの映画祭
- シャンバラ再建者連絡協議会発足のお知らせ(北村明子)
- 保護撤廃が男女平等だってさ
- メンズリブってなに?
◇No.6(1979年2月14日発行)
- シャンバラ閉店宣言
- スペースへの万感の思い
- 女たちとの信頼関係
- おかねのこと
- お解連、今のうごき
- 女のスペースと「婦人会館」と
- 女だけのパーティ続けようよ!!
- 買っちゃおう!上映しちゃおう!『女ならやってみな!』
- スウェーデンの「女の家」を訪ねて
- 女はそれを許さない!――労基法改悪反対集会のおしらせ
- 独婦連関西支部――ひとり生きた女たちとの交流会
『あんなぁへ』は上記の6号をもって最終となり、実際〈シャンバラ〉は閉店した模様であるが、記事の内容を見ると、まだまだ元気いっぱいである。閉じるにあたって、またパワーが満タンになった女たちが、再び〈シャンバラ〉を「開店」させる。
背景には、「吉武選挙」によって、「行政」(京都であれば社教センターをつくる動き)に具体的に関わっていこうとする視座が芽生え、〈おんな解放連絡会・京都〉が発足したこと。様々なグループのつながりから、いつでも、誰でも、子連れでも、安心して集まれる女のスペースを求める気運が、高まっていったことなどがうかがえる。スペースの維持の仕方を、スタッフの生活を支えることから一旦解き放って、各々が仕事を別に持ちながら、10人余のスタッフによって運営し、シスターズという会員制を採用した。1980年10月号の『ミズ通信』には、シスターズが100名になったという記述がある。シスターズの会費は月500△9/10▽円、年間6000円であった。
再開後に発行されたのはその名も『スペース通信』第1号(1979年5月1日)。2ページ1枚ものであるが、「組織図」が掲載されている。それによると、〈シャンバラ〉は運営部と財務部に大きく分かれ、運営部は喫茶・貸しボックスと連絡所・貸し会場・資料収集と提供を担い、財務部は6つの部(出版部・教室運営のクラス部・イベント部・グループワーク部・シャンバラ文庫・販売部)の会計を全体的に把握することになっている。2号・3号の特集も「スペースのあり方」であった。
『スペース通信』は以来毎月発行で11号(1980年4月1日)まで続く。さらに、80年代という時代背景からか、「女の新聞」という特徴を全面に出すべく1980年5月1日からは『ミズ通信』と改名されている。残念ながら収集された資料としては、通算19号(1981年2月1日)までしかない。末尾に「シャンバラのこれから」として、もう一年続けることや、それにあたって、地下から地上へ出ることをめざし、現状の店を売りに出すことが検討されている。店舗が売れた時点でシスターズ臨時総会を開きみんなで話し合うことが記載されている。“その後”については、『資料日本ウーマンリブ史V』(松香堂)に『ミズ通信』第21号(1981年6月1日)の資料掲載があり、また、「女のスペースって何だったの?――シャンバラ閉店てんまつ記」(1982年12月)からの引用が2文書掲載されている。そこで知ることのできる経緯については以下のとおり。
1981年2月 臨時総会:名義人を含めたスタッフ3人が運営部を退くと表明
(名義人Mさんが室内装飾業を大阪で行うことになる)
1982年1月 Mさんが大工修行にアメリカ行きを決意。名義変更の提案。
1982年4月 説明会(スタッフの継続維持の意思、契約書の書き換え)
1982年5月 第4回シスターズ総会:スタッフ全員総辞職・シスターズ解散
問題として読み取ることができるのは、抱えていた借金の名義に関することであり、具体的には名義人がアメリカ行きを決意したことに伴う、名義変更、借用書の書き換えをめぐり、シャンバラの継続が議題にあがったこと、結果的に総会で解散が決定されたことなどを知ることができる。しかし、営業権利・保証金・家賃などについて不明な点が多く、文書が書かれた12月の時点でもまだ買い手がついていない模様が知れる。そして、81年2月にMさんと2人のスタッフが運営部を退いたあと、現スタッフたちとMさん(Mさんを支持する派)との間に大きな溝ができ、確執が続いた様子である。元スタッフにこの辺の経緯を聞いてみた。
「抽象的に言ってしまえば、その対立は、女の解放をめぐって、2つの思想性・方向性が顕著にあらわれた結果だったと思います。《個人の自己実現》と《女たちの共同性》。この2つが、運動にとって別のベクトルだとは思いませんが、私たちスタッフは、女たちの共同性を担保する《スペース》に強い愛着があったのです。そのときの私たちは、80年代に△10/11▽女たちが向かっていく方向性において「共同性」という側面が急速に失われ、《資本》が能力のある女たちを一本釣りしつつ、持ち上げ、利用しようとしていこうとする方向性に、警戒心を持っていたということもあります。80年代は女の時代ともてはやされ、女の自己実現はその頃のキーワードでもありました。「閉じ方を考えるパンフ」が全国の私たちがよく知る仲間(グループ)に売られていったということも、私たちの神経を逆なでしました。反民主的で全体主義的だというレッテルを貼られたのですから。もっとも、その言葉をそのまま鵜呑みにする仲間はそう多くなかったと思います。けれども、やっかいごとには巻き込まれたくないという雰囲気は醸成したと思います。女たちの運動を広げていくという意味においては、困難さを曝け出したとも言えます。私たち残されたスタッフは、スペースをもう一度とりもどすべく、1984年4月に〈とおからじ舎〉というリブ・グループを立ち上げ、中京区にあるビルの1室を共有スペースとしました。しかし、そのスペースも4年後にはまた閉じることになります。私にとってはその後も、《個と共同性》がテーマとなり、何年にも渡って、総括を含んだ話し合いを継続してきました」。
■おわりに
スペース〈シャンバラ〉を閉じるにあたって生じた問題は、深く読み進めていくと、実は「借金」や「経営権」をめぐる、世俗的な問いではなく、リブが日本で「女解放」の直截的叫びを上げた瞬間から内包していた問題と通低するものだということに気づく。それは、リブが「反近代」であったとか、「母性主義に傾いた」などということとは、一切関係なく、「私」という個人に立脚した「近代個人主義」のその先を見通した指向性を当初から持っていたということに、逆に起因するのだと思われる。私という立脚点と「女」という立脚点を限りなくイコールに結び付けて、女たちという複数を個体に発見することによって、「私は」「あたしは」「わたしは」という自己主張が、決して女総体から脱却した私ではない地平をリブは思想として見出していた。しかし、その思想は現実社会においては常に未完の観念でしかあり得ないという側面も持つ。「私は○○がしたい」「私は○○になる」という場合の私が、近代主義的個人に回収される危機から免れるのは困難を極めるのだ。近代国家の理念である「自由・平等・友愛(=ブラザーフッド)」がシスターフッドに変容したときの国家観をリブの視点から読み取り、現実にある諸課題の解決と同時に、深く人類の半分である女性たちの解放につなげていきたいものである。
【注記】Web掲載にあたり、適宜、若干の表記上の修正ならびにリンク設定を行なった。[村上潔]
■関連/参考
◇村上潔 20070331 「労基法改定反対の動き」,栄井香代子・竹村正人・村上潔『「平成18年度京都市男女共同参画講座受講生参考資料(女性解放運動関係)収集調査」報告書』,NPO法人京都人権啓発センター・ネットからすま,12-20(第2章)
◇滝川マリ・冬木花衣・ぶんた(聞き手:村上潔) 20070731 「[インタビュー]八〇年代京都におけるリブ運動の模索――〈とおからじ舎〉へ、そして、それから。」,『PACE』03:36-49 【Web掲載:20200927】
◇村上潔 20090331 「「男女平等」を拒否する「女解放」運動の歴史的意義――「男女雇用平等法」に反対した京都のリブ運動の実践と主張から」,『Core Ethics』05: 327-338
◇村上潔 20120331 「労働基準法改定の動静における女性運動内部の相克とその意味――「保護」と「平等」をめぐる陥穽点を軸として」,『現代社会学理論研究』06: 89-101
◇村上潔 20140505 「[連載]京都の女性運動と「文化」(全3回)第1回:序論――女のスペース〈シャンバラ〉の活動から」,Webマガジン『AMeeT』(一般財団法人ニッシャ印刷文化振興財団)2014年5月5日更新
◇荻野美穂 20140320 『女のからだ――フェミニズム以後』,岩波書店(岩波新書新赤版1476),248p. ISBN-10:4004314763 ISBN-13:978-4004314769 780+ [amazon]/[kinokuniya] ※ f03
*作成:村上 潔(MURAKAMI Kiyoshi)