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「障害者と政治」

長瀬修 200103 『障害・障害学の散歩道』No.13(2001年3月号)

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last update:20200512


■障害者と政治

父と1週間、スペインに出かけた。定年退職し、再就職してすでに10数年の父が今年になったらついに引退するということだったので持ち上がった話である。父親と二人だけで旅行した記憶はないから、これが多分初めてだったに違いない。JTBのツアーに参加したが、観光のツアーに参加したのは、両親と妹と初めての海外家族旅行で中国、香港に出かけた88年以来、13年ぶりだ。

そのスペインから3月中旬に帰国すると全国自立生活センター協議会(JIL/http://www.d1.dion.ne.jp/~jil/)代表の樋口恵子さんから留守電が入っていた。樋口恵子さんは今夏の参議院選挙に民主党比例代表から立候補が決定している。早速、電話をすると選挙の事務局長を依頼したいという話だった。樋口さんの選挙については3月上旬に一度、樋口さんの支援者の会合があり、それに一度顔を出したことがあっただけなので驚いたが、即座にお引き受けすることにした。

樋口恵子さんは脊椎カリエスで身長136センチの障害女性である。中学時代に施設で寝たきりの生活を送った後、大学に進学、結婚してからミスタードーナッツの奨学金を得て、米国に渡り自立生活運動に触れ、衝撃を受けて帰国。86年に八王子市で中西正司さん、安積遊歩さんたちと日本初の米国型自立生活センターであるヒューマンケア協会を立ち上げている。89年には地元の町田市で町田ヒューマンネットワークをスタートさせ、事務局長に就任し、91年には自立生活センターの全国的ネットワークである全国自立生活センター協議会(JIL)を設立し、95年からは代表を務めている。こうした障害者運動に加えて、政治にも積極的に身を投じ、94年から98年まで町田市議会議員としても活躍した。

私と樋口さんの最初の接点はいつだったのか、思い起こしてみると86年だった。協力隊員として3年間、ケニアのジョモケニアッタ農工大学で日本語講師として活動し、帰国した年だった。上智大学時代に「わかたけサークル」という障害児関係の活動に携わっていたため、日本に戻って、国際協力事業団関連の財団法人で契約の通訳・コーディネーターの仕事をしていた際に、障害者リーダーの研修事業があると聞いた時、是非自分がやりたいと手を挙げた。ケニアで日本のODA(政府開発援助)の悪い面にも目が行っていたこともあり、途上国の障害者リーダーを日本に招いての研修コースがあると知った時は新鮮な驚きだった。この研修コースの実施機関は日本障害者リハビリテーション協会で、同協会の契約コーディネーターは当時ハワイから帰国まもなく、現在は国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)でアジア太平洋障害者の10年実施にバンコクをベースに活躍している高嶺豊さんだった。研修の一環として、できたてのホヤホヤだった八王子のヒューマンケア協会に主に東南アジアの研修員を案内して行くと、事務局長の中西さんほか、樋口さん、安積さんなど、今考えると錚々たるメンバーが顔をそろえていたのである。これが樋口さんとの最初の出会いだった。

不思議なことに、八代英太衆議院議員(当時は参議院議員)との出会いもこの研修コースだった。たまたま英語ができるスタッフを探していた同議員が研修の講師として参加していたのである。八代議員から声をかけていただいて、同議員の公設第2秘書を私は5年間、87年から92年まで務め、それから国連事務局障害者班(ウィーン、ニューヨーク)に勤務した。

その後、94年秋に留学したオランダで障害学との出会いがあり、95年末に日本に戻ってからは、主夫らしいことを少々しながら、主に障害学関係の執筆、翻訳、通訳、教育をしてきた。そうして5年が過ぎた。そこに樋口さんからの依頼が晴天の霹靂のようにやってきた。

樋口さんの選挙の仕事を引き受けた理由はいくつかある。まず、人柄である。これは既に15年の付き合いで信頼できる。そして最も重要な政策面。樋口さんが掲げている障害者・高齢者政策、教育政策、女性政策、分煙政策(『エンジョイ自立生活:障害を最高の恵みとして』1998年、現代書館、http://www.gendaishokan.co.jp/)のどれにも共鳴している。

私が個人的に特に関心があるのは、障害と分煙である。障害については言うまでもないが、分煙については最近、富に気になっている。タバコは吸わないが、それまではさほど煙も気にならなかったのがここ数年、だいぶ悩まされるようになった。だから分煙の推進には大賛成である。昨年から国際的にはWHOのタバコ規制枠組み条約の審議が始まっているが、日本では財務省がJTの株の7割を握り、税収源としてのタバコという位置付けが強いため、タバコを規制する公的動きは非常に弱い実情がある。分煙を政策として掲げている候補者を私は寡聞にして他に知らない。

そしてもう一点、現在の政治状況に対する無力感である。テレビや新聞を見て嘆くことはたやすい。しかし、日本のように軍事独裁政権でない国では、有権者の責任は重い。民主主義の国であればあるほど、政治の貧困を他人のせいにはしづらいのである。そこに、自分が信頼できる人を国政の場に送り出す仕事ができるチャンスがめぐってきた。

忘れられない光景がある。93年のカンボジア総選挙である。日本では国連ボランティアの中田厚仁さん、文民警官として派遣された高田警視が亡くなったこともあり特に注目度が高かった選挙だった。私は当時、ウィーンで国連事務局員として勤務していた。情勢が不穏なこともあって、選挙直前になって要員の不足が判明し、カンボジア行きを希望する職員の募集があった。中田さんが既に亡くなっていたこともあり、志願した。ネパール人の課長は「それは君の特権だ」と言って、直ちに了承してくれた。火曜日に申し込んで、金曜日に参加がOKとなり、次の月曜日には説明会のあるタイに向け出発というあわただしい日程で、予防注射も間に合わないほどだった。

カンボジアの各地で国連職員や各国から派遣されたスタッフは投票所責任者を務めた。ポルポト派がどのような対応を取るか、世界中が固唾を飲んで注目する中、私はプノンペンからベトナム国境に向かったプレイヴェン州の小さな村の投票所にいた。暑さで汗が滝のように流れていた。食料は米軍の野戦食だった。守ってくれるのはバングラデシュの文民警官(丸腰)と、数時間おきに巡回してくれるインド兵(武装)だった。

投票初日の朝、投票所は異様な雰囲気だった。数百人の有権者が小学校の教室を借りた投票所を早朝から取り囲んでいた。老若男女で熱気があふれていた。乳飲み子を抱えた母親がいた。その人出には、そば屋やタバコ屋の屋台が出るほどだった。長年のポルポト派による支配、戦乱の日々を経てやっと投票という平和な手段で政治に参加できるカンボジア人の幸せが感じられた。ひるがえって日本の私たちはどうだろうか。





*作成:安田 智博
UP: 202000512 REV: 20200513
障害学(Disability Studies)  ◇全文掲載  ◇全文掲載・2001
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