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楠敏雄氏インタビュー

楠 敏雄 記録作成:尾上 浩二

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※この記録は、
◆楠 敏雄 20010501 「私の障害者解放運動史」,全国自立生活センター協議会編[2001:313-321]*
*全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』全国自立生活センター協議会,発売:現代書館,480p.
にまとめられたインタビュー記録を、聞き手の一人であった尾上浩二さんがまとめたものです。 『自立生活運動と障害文化』はたいへん意義ある本です。まだ購入できますので、お買い求めください。


■隔絶された盲学校生活から大学へ

 私は1944年に北海道で生まれました。2才の時に結膜炎に罹ったのですが、医者が診断・治療ミスを犯して失明に至りました。今なら裁判闘争でも、起こせるのですが、敗戦の真っ只中でしたので何の補償もないまま泣き寝入りとなったわけです。
小学校は、1年間の就学猶予の後、北海道立小樽盲学校へ入りました。それからずっと盲学校の寄宿舎での生活でした。学校と寄宿舎は同じ敷地内にあったので、町に出るのは年に3、4回程度。あとは同じ敷地内にある学校と寮の往復という非常に隔絶された社会の中で生活をしていました。
 高校は、札幌盲学校高等部に進みました。その頃の進路というとごく一部の例を除いて
視覚障害者には三療しかなく、その勉強しか出来ませんでした。私も嫌々ながら、針灸の勉強を中心にした高校生活を送りました。しかし、好きだった英語を勉強したいという夢を捨て切れなかったのと、やはり晴眼者の世界へ飛び込みたいという思いがあり、大阪へ出てきたのです。
 大阪府立盲学校で2年ほど勉強しながら情報を集めました。最初は東京教育大学附属盲学校へ進んで、盲学校の教員になる道を目指しかけたのですが、途中で一般の大学への進学に変えました。当時、大学というのは非常に狭き門で、全国で5、6校しか点字受験を認めている大学はなく、あちこちで断られるという状況でしたが、京都の龍谷大学の門をこじ開けてなんとか入学したのです。
 入学に当たって大学から、「何も協力はしないということを条件に入学を認める」とい
われました。そういうことがまかり通る時代だったのです。しかし、専門課程に入ると教科書が増えボランティアの協力だけでは追いつかず、せめて点字のタイプライターとか点字の英語の辞書くらい設置して欲しいと要望しましたが、だめでした。本当にいろんな壁にぶつかりました。
 でも、なんとか改善を求めようということで、友人たちが点字を学ぶために作った学習
サークルで、障害者の学習条件を改善する要望書を大学に提出するという活動を展開していきました。しかし、結局、何も成果がなかった。それに、健常者に負けずに一生懸命ノートを取り、本を作って勉強したのですがしょうもない講義が多い。なんでこんな下らない話を一生懸命に聞かなきゃならないのか、と腹が立ちました。そのころから私自身の中に怒りが蓄積してきたのです。学生運動が盛んだった1967、68年頃のことでした。

※中核派、革マル派の抗争や、中核派との路線闘争の部分は、今回の本の読者層からは違和感を持って読まれるのではないかと思い、少し変えました。

■関西障害者解放委員会の結成と分裂

 その頃、狭山事件が、被差別部落出身の石川さんに対する差別・冤罪事件としての取り組みが高揚し始めました。その闘いに出会ったのがきっかけで、私も障害者に対する差別というのを問題にしようという自覚がやっと出来たのです。そして、1971年10月、関西障害者解放委員会(「関西障解委」)といういかめしい名前の組織を発足させたのです。
 関西障解委を結成した過程では、中核派という人たちの支援・協力が大きかったと思います。彼らに「楠さんは障害者なんだから、障害者の解放という問題をみずからの問題としてやるべきなんじゃないのか」と問いかけられ、一緒に勉強会をしたり狭山の闘いに学んだりしながら、関西障解委を作るに至ったのですから。
 その後、路線や運動の進め方の意見の違いで関西障解委は1972年9月に分裂しました。その後、両方とも関西障解委を名乗っていたので、同じ名前の組識が2つあるという状態でした。
 関西障解委の構成メンバーは、当初は施設の職員や学生、施設の障害者あるいは地域で孤立している障害者たちが中心で、介護を必要とする重度障害者が結集するという状況ではありませんでした。分裂以降は、解雇された障害者や国鉄の環状線から落ちて電車に両足はねられた視覚障害者を支援するなど、個別の課題を取り上げて運動をする中で、重度の障害者も参加してくるようになってきました。

■青い芝の会との出会い

 関西障解委を結成して1年ほどして出会ったのが、青い芝の会でした。彼らも、私の思いと同じで、障害者に対する差別を許さない、障害者を人間として扱えと主張していました。さらに、障害者で何が悪いんだと障害を肯定し、その主張をラディカルに突き出していました。それは、自分たちは自分の障害を誇りに思い障害者としての生きざまをさらけだすという、当時としては非常に生々しい言葉でした。
 私は青い芝の会の運動に出会って、もう一段自分の意識改革をさせられたような気がしました。つまり、私は、差別を憎み大学を憎み社会の在り方を批判もしていましたが、自分の障害をさらけだして堂々と生きていたかというと、どこかに逃げ場を求めていたことに気がついたのです。たとえば、白杖を持って歩くのが嫌で仕方がなかったとか、見えない自分の目がどんな眼をしているのか、周りから見られていたら恥ずかしいとか、どこかにそういう思いがあった。そんな私にとって、青い芝の生きざまをさらけ出すという主張はまったく途方もないものだったのです。そして、それを実践している青い芝の会に出会い、漠然と社会を変えるとか差別を無くすとか言うのではなく、原点をしっかり見据えた障害者解放運動を全国の仲間たちと進めなければと思ったのです。
 関西障解委と青い芝の会のつながりの契機は、1974年から75年にかけての大阪の第8養護学校(現在の大阪府立寝屋川養護学校)の建設阻止闘争でした。それまで関西障解委と青い芝の会との日常的なつきあいはなかったのですが、青い芝の会の方から一緒にやらないかという話があったのです。それが契機になり、大阪で具体的なつながりができたので全国青い芝の会とも一緒にやっていくということで話をしようと、横塚さんと私が会談を行いました。

■全障連結成をめぐって

 1976年8月、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)を結成しました。関西障解委、東京の荒木裁判を闘ったグループ、東北の障害者解放研究会など30数団体だったと思います。
 当時、われわれより10年前に結成されていた全国障害者問題研究会(全障研)という組織がありましたが、われわれとは主張が違いました。その意見の相違は、施設を作って施設の中で障害者に治療と訓練を施すことが障害者の福祉として非常に大事なのだという考え方です。あと、全障研の運動の中心は、障害者自身ではなく学校の先生・施設の職員・親などいわば健常者が担っていて健常者の発想で発言が行われているところですね。いまでもはっきり憶えているですが、全障研のニュースなどで、全障連は暑い日照りの中で障害者をさらしものにする残酷な人たちだ、とか書かれていました。たしかに、暑いかもしれないけど、自分たちで進んでやっているわけで、誰かがさらしものにしているわけでもない。つまり、障害者を主体を持った人間と見れないわけです。だから、かわいそうな障害者を無理矢理日照りの中に放置してビラ巻しているとか、そういう発想になる。このあたりが決定的に違うため全障研の活動には参加できないと批判し、全障連の結成にこぎつけたわけです。
 全障連の結成は、社会から非常に驚きを持って受け止められたように思います。今まで立派な施設を作って障害者が安心して暮らせるようにしてあげるのが善だと思ってきた社会、それも、ほとんどの人たちは善意という名のもとに障害者の施設作りというのを進めてきた、あるいは、支持してきたのですから。それに対して私達は、施設はいやだ、隔離は反対だということで、闘いを挑んだわけです。当然、大きな衝撃と反論をもって受け止められました。だから、「あのグループは過激派だ」「とんでもない主張をしている」「あの連中には近づくな」と言われました。それと、もうひとつは、全障連の中心部分だった青い芝の会がバスの乗車闘争を展開しました。
 これに対しても、世間の非難が浴びせられたのです。そういう状況でしたが、われわれが叫んできた課題、方向性というのはいまの行政の文書にある程度近い主張となっています。これはいったいどういう現象なのか、と驚くほど時代の変化を感じます。
 青い芝の会は、私にとっても大きな存在でした。ただ、考え方が全面的に一緒だったわけではなかった。政治や社会に対する認識などで若干のずれはありましたし、障害児を持つ親に対するとらえ方でも、青い芝は「親は敵だ」という表現をしていましたが、私は敵と言うのは少し誤解を招く表現で、「親も差別意識を持っている存在であり意識を問う必要はあるが、敵あるいは罵倒する対象じゃない」と言っていました。また、健常者との関係でも、当時の青い芝は、健常者は障害者の手足に徹するべきだと主張していました。しかし、私は、障害者の手足ではなく健常者もいろんな差別を受け止めながら自分の意識を変えていくことを問われる存在なのであり、その中で連帯を目指すべきである。だから、単に障害者の言うことを聞いて手足になってればいいということではない、と主張していました。
 しかし、基本的な方向性としては共通しているので一緒にやっていこう、とくに、青い芝の中心的リーダーだった横塚さんは非常に柔軟な方でそのあたりをわきまえておられていましたので、彼が代表で私が事務局長というペアの体制で全障連を結成したのでした。

■全障連の3つの基本的原則

 我々の運動の基本的な原則は3点ありました。
 一点めは、運動の主人公はあくまでも障害者自身である、という思想です。私達はそれを障害者の自立と表現しました。それは、自分でなんでもするということではなく、自分のことを自分で主張する、という考えです。これは、現在の自立生活運動、JILの主張とも相通じるものがあったと思うのです。いまほど近代的な表現ではなかったけども、そういう自立の思想というものを掲げていた。
 二点めは、我々は障害を治療することで解放されるのではなく、どんな障害があっても
ひとりの人間として認められ、そういう存在として解放されなければならない、ということ。つまり、障害からの解放ではなくて差別からの解放という思想です。
 そして、三点めは、我々は隔離を拒否して地域で生き続ける、という思想。当時はノー
マライゼーションという横文字は使っていませんでしたが、これはそのさきがけだと思うのです。そして、地域で生きるという原点の達成のため具体的な保障を獲得する、という
ことを掲げた。
 この三点が全障連の基本的な主張であり、これらに基づいていろんな運動を始めたわけ
です。その中でも、一番大きかったのは、文部省が打ち出してきた養護学校義務化に対する阻止闘争。隔離を拒否して地域の学校で共に学ぶ教育を実現させるということで、養護学校義務化阻止の闘いを最重要課題として掲げたのです。
 その他に、知的障害者に対する差別冤罪事件で囚われの身になっていた赤堀さんの無実を勝ち取るための裁判闘争というのを展開しました。その他、行政に対して地域で障害者が生きていくための介護保障の確立等の課題を掲げて、全障連の闘いを進めていきました。
 また、義務化実施以降も、東京の金井君や梅谷くんの闘いなどの就学闘争で、義務化を
問うという運動を展開していました。それらは、われわれの「共に生きる」という主張を社会に訴えるということでは非常に大きな成果を上げたのではないかと思っています。
さらに、富山市が障害者の主体性を踏みにじるような文書を出した事件では、富山市やそれを受け取って間違った答えを出していた地方自治体に対する闘いも繰り広げました。
 そういう闘いを通して、文部省とか厚生省とか中央も大事だけども、各自治体レベルで
もっと地に足のついた当事者による運動を展開すべきだということを実感したのです。

■地域拠点としての作業所づくり

 そこで、私達はそのための拠点づくりのため作業所を作りました。それまでは、作業所という場は障害者を囲い込む傾向が強く、指導員という人たちが障害者に訓練をさせたり発達をさせたりする、と批判していたわけです。しかし、発想を変えて、むしろ作業所というのは作業をする場ではなく、障害者が勉強をしたり地域と交流をしたりする、いわば地域拠点なのだと捉え返したのです。そこから行政に交渉をしたり地域の住民と交流をしたり障害者同士の交流をしていくことで運動に広がりが生まれるのではないかと考え、全障連の運動スタイルも少しずつ変わっていきました。
 そういう闘いのなかで、いろんな地域毎の組織ができ、ネットワークが出来てきたとい
うのが1980年代。ちょうど「国際障害年」や「国連・障害者の10年」もあり、我々の主張が社会的に認められるようになった時期だったと思います。

■「行動綱領」議論と青い芝の会の全障連脱会

 1979年、全障連から全国青い芝が抜けます。これにはいろいろないきさつがあるのですが、青い芝の行動綱領を全障連も持つべきかどうかということも原因のひとつでした。
 青い芝の会の行動綱領は、障害者が絶対だという強烈な自己主張を押し出しています。
 それは私にも支持できたのですが、「愛と正義を否定する」は格調は高いが運動論としてどういうことなのかよく理解できない。それから、「問題解決の道を選ばない」、つまり、告発するだけでいい、答えを求めてはいけない、答えを求めると妥協主義になってしまうという主張。これは、典型的に告発型の運動だと思いますが、青い芝はこの行動綱領を全障連も持つべきだと主張したのです。
 事務局長をしていた私は、青い芝の思いは入れてかつ他の団体も納得できるような妥協案をということで少し表現を緩やかに、たとえば、「既成の愛と正義の観念を問い直す」とか、青い芝の思想を生かしながら、全障連の全体に認められるような妥協案を作ったりしました。青い芝の存在というのは全障連の中で大きかったので、彼らが脱会するのは避けたかったのです。基本的に、全障連は採決をとらない、満場一致を原則とするという決まりを作っていたので、なんとか一致をみようといろいろ妥協案を作ったのですが、結局、朝の4時まで、採決をするか採決をするということも話しあいました。結局、採決になり、たしか1、2票差で行動綱領は否決されて全国青い芝は脱会するとことになったのです。
 ただ、青い芝の中でもずいぶんもめていましたから、全国青い芝は脱会したが支部として全障連に残るというところもいくつかありました。

■ゆるやかな組識と幅広い運動へ

 1980年代に入って、中央の省庁との直接的な対決だけでは不十分であるということで、
地域に根の張った草の根の運動を展開するということになってきますと、全障連というスタイルだけでは運動の広がりが弱いということで、障害者の作業所とか自立を求める運動が各地ででてくる時代に入ってきるとともに、ノーマライゼーションというか考え方がマスコミを通して広がってくる。それから、いまのJILの中心メンバーの人たちですが、ミスタードーナツの支援によるアメリカ留学で自立生活運動を学んできた人たちが草の根の活動をはじめた。
 そういうのがあちこちで起きてくるようになってくると、全障連のような反差別とか強
烈な主張や政治性というのを持った団体には加入しないが、個別的には一緒にやれるというような集まりがあちこちで出来てくるです。
 そんな中、全障連よりももう一段ゆるやかな組識として、1981年にシンガポールで結成された障害者インターナショナル(DPI)が日本にも作られました。世界的にもリハビリテーションインターナショナルなどの専門家が中心であった国際組織に疑問を抱いた障害者が結成したのがDPIという組識です。その日本会議結成の準備会が1985年からはじめられました。全障連は当初、オブザーバー参加でしたが、1990年くらいから交通アクセスやまちづくりの課題などを一緒に取り組むようになってきました。それから、我々と同じ方向を持つ作業所の連合体である「差別と戦う共同体連合」という集まりにも一緒に関わったり、地域毎にJILに関わるメンバーがいたりということで、全障連時代より幅広く、草の根運動を展開していく時代に入ってきたわけです。
 それがひとつの大きな変化だったと思います。それは、逆に行政をよりわれわれに近づける方向に変えさせる役割を果たしてきたと思ってます、とくに、当事者参加ということですね。それまで行政が耳を傾ける当事者の声というと、旧来の保守的な障害者の声、たとえば、国鉄の料金を割引してくれとか、年金をあげてくれとか、ややもすると物取り的な要求ばかりする運動やいわゆるお願い運動をする団体の方ばかりでした。いまでもそういう傾向が強いのですが。それに対して、大阪や東京を中心とした大都市部では、差別や人権を問題にする当事者の意見をきっちりと聞いて施策に反映させようという方向も、徐々にでてきています。そのような中で、我々も政策決定に障害者自身が参加をして影響を与えようと、当事者参加と政策提案能力をつけようという方向を付加してきた。さらに、中央の段階でも、1993年にできた障害者基本法に対案を作り、たんに法律が不十分だと批判するだけではなく、具体的な案を対置させたのです。
 現在は、そういう法制度を変えるための働きかけというものを、中央レベルでも地方レベルでも積極的に行うと同時に、当事者が発言力をつける。そして、社会的な影響力をつけるという状況に変化してきていると思います。ですから、私も、反差別・反隔離・自己決定という原点を持ちながら、まちづくり、介護保障などのより具体性を持った地域で生きるための課題というものを提起していく取り組みが必要なのだ、いう考え方に変わってきました。それがDPIでありさまざまな政策研究集会の取り組みなのです。

(※この項目は、運動団体の間ではデリケートな部分もありますので、削除でもいいかと思います)
「同盟」か「連合体」か

 私は、1982年に出版した『障害者解放とは何か』(柘植書店)の中で、どちらかというと全障連のような連合体ではなく障害者解放同盟のほうがいいということを書きました。個人的なことをいうと1990年代の初めまでずっとそれを目指していたのです。もっともっと地域に根差した活動をするためにも、障害者自身の同盟組織を作って運動を展開できるようにと、全障連の規約改正や支部作りについて論争し働きかけもしていました。
 しかし、1992、93年になって、全障連の運動がよく言えば広く受け入れられるようになった、悪く言えば全障連から同盟組織への移行という必然性がなくなってしまったというようなこともあり、全障連を軸とした同盟組識が有効性を持たなくなってきたと感じたのです。むしろ、各地域のJILや作業所などが連携するスタイルの方がより現実的だという状況の中で、「障害者解放同盟構想」は断念したのです。

■今後の障害者運動の課題

 今後の障害者運動の課題として、一つは障害者自身の力をもっとつけるということです。当事者として主張する力、自己決定の力をもっともっとつけて、いろんなところで発言し提案して力を発揮すること。たんに要求したり告発するだけでなく、勉強してきちんと論争できなければだめです。そういう力をつけることが大きなテーマだと思います。そのような力を持つことで、行政に対して影響力を行使できる存在になっていくことができ、行政を動かし変えていける。やがては行政の中枢に参加して発言権を行使する。たんに参加して喜んでいるだけでは意味がないのです。影響力を行使できなくてはいけないのです。また、一方で、行政に対してだけではなく市民に対して障害者の存在を強く訴えていく。よくいわれているように、バリアフリーというのはすべての人の課題である以上、当然、障害者の発言というのは重みを持ってくると思うのです。
 もう一つのテーマは、日本の法体系を変えていくことです。いま、福祉の基礎構造改革や介護保険など新しい福祉の体系が出来ています。しかし、これらがほんとうに当事者の立場を大事にしているかというと、相変わらず施設とか役人とかの発言が圧倒的に強く、せっかく措置制度から契約方式に変えるといいながら本当に当事者の選択権が大事にされるようなシステムになっていない、あるいはこれからもしばらくならないのではないか、という危機意識をわれわれは持っています。そうなると、やはり中央の行政機構に対して障害者自身が食い込んで力を行使するということも大きな課題だと思っています。
さらに、障害者運動団体の大同団結というのも大きな課題だと考えています。
 ノーマライゼーションだ、お互いの違いを認め合うといいながら、意外に障害者運動団
体同士というのは違いがあり、これが近親憎悪になる時があります。これを大同団結させていかないと、日本の障害者運動というのは力を持ちません。なぜなら、アメリカ以上に日本の官僚機構は大きいし、専門家の発言力はまだまだ強いのですから。
 この専門家と官僚の影響力から抜け出て障害者自身が影響力を発揮しようと思うと、もっと障害者自身が団結をしていかなければ。だから、たとえば、教育の問題とかでは全障研とは考え方は違うが、他の課題ではけっこう共通する部分もあるので、そういうところで団結するというようなことができれば、もっと力を発揮できると思うのです。残念ながらどちらかというと、政党の影響下にあったり、官僚や専門家を気にしすぎたりして障害者自身がまとまらないことが、日本の障害者運動を弱めている原因になっているという気がします。
 このように、今後の障害者運動の課題は、まだまだたくさんあるし、私自身もやり残し
ていることがたくさんあると思っています。
 2002年に札幌でDPI世界大会が開催されます。これを成功させること、それも、たん
なるイベントに終わらせるのではなく、より日本の障害者運動を大きなものにして行く、あるいは、行政にそれを認知させていけるような活動にして行くことが、私の当面の課題だと思っています。


■インタビュー前日 尾上発

 連休中はたまっていた原稿を片づけることでほとんど過ぎてしまい、ご連絡遅くなりました。

 さて、いよいよ明日になりました楠さんのインタビューの件です。
 以下がJIL事務局で作成頂いたマニュアルの中での、個人史と団体史の質問項目の一覧です。(もちろん、あくまで例示なので、趣旨から外れない限り質問者が自由に質問してくださいとのことです)

Q1.最初に、いくつかの事項を確認させてくだい。
氏名、生年月日(年齢)、連絡先(住所、電話&ファックス、e-mailアドレス)所属団体、活動地域(途中で転居があれば複数)

★ ここら辺は、私の方の手元に情報があるのでバスか、倉本さん、草山さんとの自己紹介みたいな形で簡単にすませましょう。

Q2.あなたが、運動に関るようになったきっかけは何ですか?
いつ(年月日)、どこで(都道府県市区町村)、誰から(情報を得た、誘われたなど)、何で(集会、大会、イベントなど)
★ここも、すでに何らかの運動が成立している状況の中で参加した人への質問なので、楠さんに当てはまらない部分が多いですね。

 今まで何度かお話を聞いている(といっても、会議の合間の雑談が多いですが…)中で、運動へ関わるきっかけのポイントとして、以下のような点があると思います。
・盲学校から大学へ進学した時の大学の受け入れの状況
・学生運動の高揚と狭山差別裁判等の部落解放運動へ取り組み
・障害者としての自覚
・青い芝運動との出会いと影響
(後、関西障害者解放委員会での中核派との路線論争等もありますが…)


Q3.その後の経過をお話ししていただけますか?
影響を受けた人々・考え方、人間関係、運動に対する哲学、関わった集会・大会・イベントなど、運動の成果(制度、政策など)、目的、方向性

 ここから後は、後の団体史と重なりますが、私が知っている範囲のトピックスとすれば、以下のようになりますか…。(ほとんど個人史の部分はありませんが…)
★この点については、
・大阪府の第八養護学校(現在の藤井寺養護学校)建設阻止闘争での関西障害者解放委員会と関西青い芝との共闘から全障連結成に至る経過
・全障連運動の意義(=「障害からではなく差別からの解放」、「障害者の自立・主体性」「地域での生活」を掲げた潮流形成)と全国二大闘争(養護学校義務化阻止、赤堀阻止闘争)

※この辺りから、私の実体験と重なります
・各地域義務化阻止共闘の結成と文部省闘争?金井・梅谷等の就学闘争
・1981年国際障害者年と障大連(当時は国際障害者年連絡会)の結成
・全障連運動の中での障害者と健全者の共闘問題?全国青い芝の会・脱会をめぐって
・1980年代に入っての「地域福祉政策」への転換と、作業所・生きる場等の地域運動
・1986年DPI日本会議の設立と草の根当事者運動の広がり
・1990年代以降? 障害者基本法の成立?各種審議会への参加や政策提言
・障害者解放運動30年を振り返って
・運動の成果や他団体との関係、目的・方向性

Q4.現状と今後の課題をお話ししていただけますか?

★上記の通り、楠さんの場合は当初から運動のパイオニア的役割、まとめ役として活動されているので、個人史と団体史を分けて聞くのは難しいと思います(単に、私が個人的な部分をあまり知らないだけかも分かりませんが…)。それで、下記の団体史については、上の個人史の質問の中に組み込んでしまってもいいのではないかと考えています。

2000.3.15  資料1?2

3.団体史のインタビュー
Q1.最初に、いくつかの事項を確認させてくだい。
団体名、設立年月日、事務所(住所、電話&ファックス、e-mailアドレス)、活動地域(途中で転居があれば複数)
Q2.あなたが、この団体に関るようになったきっかけは何ですか?
いつ(年月日)、どこで(都道府県市区町村)、誰から(情報を得た、誘われたなど)、何で(集会、大会、イベントなど)


UP:20200813 REV:
楠 敏雄  ◇尾上 浩二  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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