たった1年間でいろいろなことが変わってしまう。1998年4月に開店した東京都中野区の手話喫茶店「デフトピア」が、ほぼ1年前の1999年1月末で「一時閉店」した際には、そのまま閉店になってしまうなどとは思っていなかった。結局、約9カ月の短い寿命だった。音声会話禁止をうたい、従業員はろう者で、手話ができない人間は筆談するしかないというユニークな店だった。私は中野のワールドパイオニアで日本手話を週に1度習っていたので、午前中のクラスが終わった後でお昼に寄ったりしていた。お昼時など混んでいて待たされることもあり、経営が不振だと耳にした時は意外な思いだった。
サッカーのW杯で日本チームの対アルゼンチン戦をデフトピアで観戦しようという企画があり、聞こえる友人と出かけたことがあった。手帳には6月14日とある。行ってみると、大ビデオスクリーンが準備されていた。しかし、考えてみれば当然ながら、音声はなく、その時は一瞬、唖然とした覚えがある。その時は、デフトピアがそんなに短命とは夢にも思わなかったが、やはり行ける時に行っておくものだ。
閉店はあくまで一時的なものと、復活を期待していたが、それもかなわず、現在はパキスタン料理屋となっている。
デフトピアは現在もホームページが残っていて、オーナーからのメッセージが読める。関心のある方はご覧頂きたい。アドレスは http://plaza28.mbn.or.jp/~deaf/index1.html
ワールドパイオニア(1)で私が日本手話を習っていた先生の一人が泉宜秀さんだった。泉さんはまた、デフトピアの開店当時の店長でもあった。米国のギャローデット大学という授業が米国手話で行われる大学の付属校で2年間勉強したことがあった泉さんは、また米国で勉強したいという話をしていたことがあって、冗談半分だろうか、泉さんが私に手話を教え、交換に私が泉さんに英語を教えようという話をしたことがあった。泉さんの授業は全く音声を使わない直接法と呼ばれるもので、私には難しいところもあったが、人を引きつける魅力ある授業だった。授業の後、自分が店長を務めていたデフトピアで、生徒の手話の練習のために、お昼に付き合ってくれていた。
その泉さんが昨年9月3日に立川市で、ひき逃げで亡くなった。まだ25才だった。私はワールドパイオニアからのファクスで知ったが、ショックだった。立川で開かれた通夜に出かけたが、参列者は数百人、その大多数はろう者だった。
朝日新聞の東京西部版が9月5日に、この事故を報じた記事は、立川署の見方として「生まれつき耳が聞こえないため」、泉さんは「後ろから来た車のエンジン音が聞こえず、避けられなかった」と報じた。この記事自体は「ろう文化の若き担い手
関係者ら惜しむ声」という見出しで、泉さんの業績やろう文化(2)を取り上げていて、非常に好感が持てるが、多くの反響が集まったのは立川署のろうを事故の原因と結び付ける見方だった。
ろう俳優であり、また最近では映画「アイラブユー」(http://member.nifty.ne.jp/kobushi-pro/)の共同監督を務めた米内山明宏、「ろう文化宣言」で知られる木村晴美の両氏を中心に「泉宜秀君を支援する会」が発足したのは9月7日と非常に出足が早かった。この会の事務局に私も入り、主に「全国事故遺族の会」(3)との連絡や、公判でのパソコン要約筆記の手配を担当した。
公判では20才の容疑者が飲酒、スピード違反(30キロ以上オーバー)という状態で、ひき逃げをしていたことが明らかになり、12月14日に東京地裁八王子支部で2年8カ月の実刑判決という交通事故としては重い刑となった。加害者は控訴せず、刑が確定した。聞こえなかったことが起訴、求刑、判決それぞれで不当に泉さんの不利になるのではないかという心配をしていたが、それは杞憂だった。
会の活動の成果として、法廷での手話通訳に加え、11月9日の初公判で異例のパソコン要約筆記(パソコン通訳)が認められた。支援する会のサイトはhttp://www.deaf.or.jp/izumi/。
泉さんは還らない。しかし、泉さんがしていたこと、しようとしていたことは残るし、大切にしていきたい。