※ pdfファイルはこちらからダウンロードできます。「途上国における手話言語集団としての生計獲得」
※ 参考 AJF・DPI日本会議・GCOE生存学合同学習会プレゼン「ケニア・首都ナイロビにおけるろう者の経済活動領域に関する報告」
目次
第1章 ろう者という手話言語集団
第1節 障害観の転換
第2節 聴覚障害者とろう者
第3節 ろう文化と手話
第4節 ろう教育における手話と口話
第2章 ケニアのろう者を取り巻く社会環境
第1節 ケニアの概要
第2節 ろう者の社会的立場
第3節 ケニア手話と外国手話
第4節 ろう教育における手話の普及と課題
第5節 ろう者の教育機会
第6節 ろう者の就労機会と学歴偏重主義の影響
第3章 ろう者の生計手段〜ナイロビにおけるフィールドワークから〜
第1節 調査概要
第2節 経済活動への参加過程(ろう教育の諸問題との因果関係)
第3節 経済活動における問題と工夫(事例に基づいて)
第4章 手話言語集団としての生計獲得
第1節 文化性を保持した状態での経済活動参加へ
第2節 経営基盤の強化と教育
第3節 低所得層への零細ビジネス支援の効用とろう者への適用
第4節 ろう者の生計確立が及ぼすであろうろう社会への影響
2008年1月に開催された第62回国連総会にて、国連ミレニアム開発目標(MDGs)に障害者を含める旨の決議が行われたように、近年では開発途上国の障害者問題を、開発の中心課題のひとつとして捉えられるようになった。かつて、近代化や経済成長を優先する開発のなかで障害者はそれに貢献しない人々として捉えられ、まず国家全体の開発が優先され、障害者をはじめとするマイノリティの問題は国家の成長に付随して、もしくは成長後に取り組む問題として扱われてきた(1)。つまり、それは国家の開発におけるあらゆる取り組みにおいて障害者が排除された形で進められるということを示し、開発の達成の後に障害者問題に取り組もうとする形態は日本を含めた先進国の事例と同様の形態である。
果たしてそのような先進国の先例は適切なアプローチであったのだろうか。その成長過程において障害者は国家の低い関心とともにつねに社会の周辺に追いやられてきたという事実がある。車いすを利用する肢体障害者はどこへでも行けるだろうか。視覚障害者は必要なときに点字資料を得られるだろうか。聴覚障害者はどこへ行っても手話通訳、要約筆記等の情報保障を得られるだろうか。障害者はこのような問題によりその生活において社会的に弱い立場におかれやすく、平等と社会参加を制限されてしまっている状況にある。そして彼らの周辺化は、障害者制度の策定においても彼らの参加を認めず、障害者の権利を無視した制度策定がまかり通ってきてしまった。以上のような先進国の先例を反面的に捉えることができるならば、途上国の開発において障害者問題をその中心課題に据えることは当然のことといえるだろう。
近年の国際的な障害者問題への取り組みとして「国連・障害者の10年(1983-1992)」という枠組みが策定されたことから、その後、地域レベルで「第1-2次アジア太平洋障害者の10年(1992-2012)」、「アフリカ障害者の10年(2002-2009)」、「アラブ障害者の10年(2003-2012)」といった枠組みへと引き継がれている。アジア太平洋地域では第3次への延長に向けた議論が進められ、アフリカ障害者の10年はすでに2019年までの延長が決まっている。2006年12月には「障害者条約」が採択され、障害者の基本的人権保障の促進と固有の尊厳の尊重が取り決められた。権利条約は2008年4月に批准国が20か国を超え、すでに発効している。
世界の人口の1割、貧困層の3割が障害者といわれていることを考えると、障害者の問題解決を抜きに貧困の解決をはかることはできないという議論が障害者権利条約の決議に至るなかで進められ、2008年1月の国連総会においては「障害者にかかわる世界行動計画の実施−−障害者のためのミレニアム開発目標を実現するために」という決議において、正式に障害者問題を開発目標のための行動計画に含めることへと至った(2)。
このように国際社会において障害と開発への関心が高まるなかで、独自の文化をもつろう者たちはどのように捉えられるのだろうか。そして、障害者権利条約にいう「固有の尊厳の尊重」を促進するうえで、ろう者たちの文化性は法制度による保障のみならず、実生活レベルでどのように捉えられるのだろうか。しばしば、途上国における国勢調査は「障害者」という包括的な枠組みで捉えられ、各国の統計データから障害種別ごとの状況を推し量ることは難しく、そのデータによって当事者の実生活までを推し測ることには限界がある。そこで本稿では筆者自らが現地に赴き、当事者に対する直接観察や調査票に基づく聞き取り、自由会話や資料収集を実施し、障害者としてだけでなく少数言語集団としてろう者の実態の把握に挑んだ。
後述するが、ろう者たちは長らく国際的な手話排除の風潮、差別といった社会的抑圧の歴史を歩んできた。しかし、そのような社会的風潮に屈することなく自らの第一言語である手話を守り、現在へと継承してきた。開発途上国において障害者、手話言語集団という側面をもつろう者たちが様々な問題から社会的に弱い立場に追いやられ、結果的に低所得層に陥りやすい状況にあるといわれているなかで如何にして生計を立て、手話言語集団として社会参加をはかろうとしているのかを明らかにしていくことで、彼らの生計獲得が単なる貧困削減という問題の解決だけにはとどまらないことを提起していく。
開発途上国、とりわけケニアのろう者について論じるにあたっていくつかの点を明確にしておかなければならない。そのひとつが「ろう者」と呼ばれる人々である。彼らを理解しようとする際にはまず次の2点に留意しなければならないだろう。第1に、彼らが手話という音声言語とは異なる言語を第一言語とする人々であるということ。そして第2に、彼らが一般に聴覚障害者と呼ばれる障害者であるということである。手話という少数言語集団に属し、聴覚障害者であるというニ面性をそれぞれ整理していきたい。その後に開発途上国における障害者、そして、そのなかで少数言語集団としてのろう者のおかれている状況について論じていくこととする。
また「障害者」という言葉の概念についても言及しなければならないものの、その概念を規定することは非常に難しいものといえる。それは、各国で「障害」という言葉のもつ意味やその範疇が異なるからである。たとえば、日本では高齢による難聴や視力低下などの機能低下は障害者問題としてではなく、高齢者問題として扱われるが、そのような高齢による機能低下をも「障害」の範疇に捉える国もあるのである。そこで、途上国の障害の問題を考察する際に、先進国の一般的な障害概念をそのまま適用するか否かといった問題も出てくるが、先行研究(3)においてもそれらの問題は今後の問題として捉えており、本稿においても先進国の障害概念のもとに、途上国の障害者問題を扱っていく。
障害者とはどのような人なのかを考えたときに、「身体もしくは知的、精神的に何かしらの損傷をもつ人」と考えられることが多い。そして、彼らが社会参加を果たそうとする際、周囲は彼らの損傷の治療、リハビリ等の改善を求めてきた。つまりそれは、障害をもつ人を社会から逸脱した人と捉え、個人から損傷を取り除くことによって社会へ“復帰”させようという思想が根底にある。しかし、当然のことながらあらゆる障害が治療によって改善されるということはなく、その場合には、障害者は家庭のなかに留められる、医療施設、福祉施設に居住するなど、社会と一線を画した生活を余儀なくされてきた事例も数多い。それが、障害をもっている人の機会の平等と社会参加を阻んできた要因ともなってきた。
日本では単に「障害」という単語で示されるが、英語はインペアメント(Impairment)とディスアビリティ(Disability)という2つの概念を有する。本稿では主に後者のディスアビリティの概念に基づいて論じていくこととする。前者のインペアメントとは見えないこと、聞こえないこと、動けないことなどによって生じる身体的制約のことを指し、後者のディスアビリティは社会に内在する障壁や差別といった社会的制約を指している。たとえば、車いすの利用者が階段で立ち往生している際の問題を捉えるときに、インペアメントに基づくならば、その問題は階段を上がれない体であると考えられる。それに対して、ディスアビリティの概念に基づくならば、階段しか手段がないために自由な行動を制限され、日常生活にも影響を及ぼし、不利益を被ると考えられる(4)。
このようなディスアビリティの概念に基づいて生まれてきたのが障害の「社会モデル」という新たなモデルである。それは障害の克服、解消を個人に転嫁するのではなく、障害は個人と社会とのかかわりのなかから生まれるものと捉えるモデルである。既述されたように、かつて障害は「医療モデル」として捉えられてきた。それは障害を個人のなんらかの身体的損傷によるものと考え、個人が治療や訓練によって社会参加することを求めるものであった。それに対して「社会モデル」は、障害は身体の損傷によるものではなく、個人が社会活動をする際に、その目的の達成を妨げる社会的要因にあるという考えであり、医療モデルにみられる治療や訓練による解決ではなく、社会環境の改善によって解決を図ろうとするものである。たとえば、ろう者を例にすると、彼らの障害は聞こえないという身体的な損傷ではなく、彼らが社会のなかでコミュニケーションを円滑に進めること、聞こえる人と同様の十分な情報獲得を妨げている要因を障害と捉え、ろう者に対して口話法の習得を強いることや、人工内耳手術を強いることで解決するのではなく、手話通訳の普及や要約筆記、ノートテイクへの柔軟な対応によって解決を図ろうとするものである。
ここでは聴覚障害を明確にしたうえで、ろう者がどのように位置づけられるのかについて論じていくこととする。その他の障害にもいえることだが、聴覚障害においてもその聴力の程度や聴力を失った時期、さらには生活環境によってもその特徴は異なったものとなってくる。大まかに聴覚障害においては「ろう」「難聴」「中途失聴」と大別することができる。一般に「ろう者」とは音声言語の習得以前に失聴する人、難聴者は聞こえの程度は様々だが聴力を残している人、中途失聴者は音声言語の習得後に失聴した人のことを指している。
しかし、本稿における「ろう者」はあくまで手話を第一言語とする人々という前提のもとに論じていくこととし、聞こえの程度や失聴の時期などにはよらないものとする。日本などでは、難聴者は補聴器などの補助器具によって、その使用言語も音声言語である場合が多く、また、中途失聴者も完全に聴力を失った人も音声言語を主たるコミュニケーション手段として用いるケースが多いが、ケニアの場合にはその様相が少し異なる。
筆者がフィールドワークを行った際に対象としたのは「手話を第一言語とする人々」としてのろう者であったが、なかには手話を第一言語としつつも、かなり軽度の難聴と思われ、聴者とのコミュニケーションにおいても補聴器を用いずに音声言語のみによる会話を実践しているろう者に出会うこともあった。読話に長けているのかもしれないという見方もできるが、遠方から聴者に大きな声で呼ばれた際にも応答している姿を見る限りでは読話だけでコミュニケーションを図っているとは考え難い。ケニアのろう社会全体としても先天、後天に関わらず、聴覚障害をもった際には比較的容易に音声言語から手話言語へと使用言語をシフトしていく傾向が見られる。それは補聴器が市場に十分に出回っていないことや、メンテナンスに困難があること、人工内耳手術が一般的でないことなどにより、補助器具や治療によって聴力を回復する機会が先進国より限られていることによるのかもしれない。
ただし、少なからず「社会モデル」に基づいて障害を捉えるならば、聞こえの程度などの身体機能によって「ろう」「難聴」「中途失聴」と分類するよりも、社会生活のなかでどの言語を主要言語とし、各種別のなかでどのような問題を抱えているかという視点で捉えることが有効であろう。そして、既述した通り、本稿において論じられる「ろう者」とは聴覚障害の程度にはよらず、「手話を第一言語とする人々」として捉えていくものとする。
以上、ここまではろう者の障害者としての側面を主に論じてきたが、次節からは彼らを手話を第一言語とする少数言語集団としての側面を、社会とのかかわりを踏まえて論じていく。
これまで本稿のなかでは、ろう者と呼ばれる人々を手話言語集団として扱っていくと述べてきたが、それはろう者の聴覚障害者という側面を踏まえつつも、主として手話という独自の言語、文化を有する人々として捉えていくということである。聞こえない人どうしのコミュニケーション手段として「手話」という方法があることは一般的に認知されているといえるだろう。しかし、手話とそれが属する国の音声言語や筆記言語との関係、さらには手話に関する歴史や社会での扱いについて理解している人は少ない。ここでは彼らの第一言語である手話がどのような言語なのか、また手話によってどのように社会を形成し、歴史を歩んできたのか、その概観を述べていく。
まず、手話とジェスチャーの基本的な違いを整理しておきたい。近年ではテレビ番組等でも手話を目にする機会が増えてきているが、実際に話されている手話を見るだけでは理解することができないことも多い。たとえば、日本において音声日本語と日本の手話とは同一の文法で、各単語に対応するジェスチャーをもつコミュニケーション手段と考えられるかもしれない。しかし、実際のところはそのどれもが事実とは異なってくるのである。手話は独自の文法をもつ自然言語である。日本の手話を例に具体的に述べていきたい。日本のろう者どうしが会話する際に主に用いるのが「日本手話」と呼ばれるものであり、これは日本語とも文法を異にするものである。日本手話には日本語とは異なる独自の音韻構造、文法構造、語彙の体系が備わっており、近年の言語学的研究によっても証明されているものである。「日本語対応手話」と呼ばれるものもあるが、それは日本語の文法に則して日本手話の単語を並べたものであり、先に述べた手話本来の音韻構造や独自の文法構造、語彙の体系を無視したものとして、手話の基本要素を具備していないために手話といえるか否かという議論も多い。ただし、ここではそのような対応手話に関する議論は本稿の要旨とも関わらないため、割愛させていただく。
このように日本以外の国であっても、その国の音声言語とは独立した手話が言語として成立しており、それは本稿でも論じるケニアにも見られることである。ケニアを例に整理するならば、ケニアには音声言語の英語やスワヒリ語とも異なるケニア手話(以下、KSL)という独立した手話が存在するということであり、ケニアのろう者たちはKSLを第一言語とし、1つの手話言語集団を形成しているといえる。
手話はろう者どうしの接触、集合によって音声言語の成立と同等に彼らの歴史のなかで形成されてきた自然言語であり、単なるコミュニケーション手段としてのみだけでなくその歴史において多くの歴史を蓄積してきた知的資源であり、ろう児たちの教育においても有用な教育手段であり欠くことのできないものとなっている。このような手話の形成は、聞こえない人たちの集まりによってしか達成しえないものだった(5)。
このようにろう者たちは少数ではあるものの、社会のなかで手話言語集団といえるものを形成してきた。そして、その集団のなかで、手話によって「ろう文化」という独自の文化を形成し、ろう社会の価値や規範、伝統などを継承してきたのである。先に述べた「社会モデル」に基づき、ろう文化を概観すると、彼らを聴覚障害者であるとすることにすら消極的な姿勢となる。かつての医療モデルが彼らを耳の聞こえる人に近づけようとしたのに対し、社会モデルにおける彼らのもつ障害の本質は、社会生活において周囲の「手話」に対する受容が整っていないことにある。医療モデルによって聞こえる人を普通の状態とすれば、ろう者たちは聴覚障害という身体機能に“損傷”をもった人々というこということになるだろう。しかし、社会モデルという概念とともに、当事者たちの多くは自分たちを上記のようにではなく、共通の歴史と言語を有する集団としての尊厳をもってきた。そのようなろう者どうしの結びつき抜きに彼らを論じることはできないのである。
ここまでろう者と手話の関係、ろう者どうしの結びつきとその重要性について述べてきた。本節では、これらの前提を踏まえた上で、彼らがたどってきた歴史とともに、現在も議論されている手話と口話の論争について少し触れていく。ろう教育とはろう者を対象とする教育のことで、いわゆるろう学校において実施されている。ろう運動の高まりと、社会モデルへの転換により手話教育が広まりつつあるが、現在も多くのろう学校では口話教育が実施されている。
口話(法)とは聴覚障害者の教育において、普通教育と併せて音声言語の発語を習得させ、また、相手の口の形や動きからそれを読み取ることをできるようにすることであり、先の医療モデルの発想によって、障害を個人に転嫁し、個人による克服によって社会参加させようとする教育法のことである。
18世紀半ば、フランス・パリにて世界最初の公的なろう学校がシャルル=ミシェル・ド・レペという牧師によって設立されたといわれている。レペは聴者であったが、自らろう者たちに手話を習い、指文字によるアルファベットを加え、手話によるろう教育を創設した。つまり、世界で最初のろう学校では手話教育が実践されていたことになる。しかし、19世紀半ばから徐々に口話教育が台頭し、1880年イタリア・ミラノで開催された第2回世界ろう教育者会議にて純粋口話法をろう教育に採用することが決議された。
この純粋口話法の採用は、手話教育に並んで選択肢として口話を採用するのではなく、手話教育を完全に排除した形での口話教育の採用であった。それは、先に述べた口話法の目的達成を徹底するために、手話はろう者の発語習得の妨げとみなされ、手話による教育の有効性を否定し、授業における教師の手話使用のみならず、児童たちの日常会話においても手話の禁止を求めるものだった。
ろう教育の場から居場所を失った手話は、学校外の日常生活においても蔑視の対象とされるようになり、ろう者たちは自身の第1言語を話す場を失ってしまったのである。手話の禁止は、すなわちろう者たちの尊厳の否定ともいえるだろう。さらに、すべてのろう者が発語を獲得できるというわけではなく、発語にも読話にも個人差があった。つまり、口話教育の採用は口話の習得が不十分な者は社会参加の機会もまた制限されてしまうということであった。
そのような口話教育の限界を受けて、近年では口話教育を見直す動きが各国で見られるようになってきた。手話とはろう者たちの集まりのなかで生まれてきた自然言語であり、それは様々な情報を蓄積する知識資源であり、ろう教育において欠かすことのできない言語といえるだろう。アメリカや北欧では手話をろう者の第一言語として認め、それとともに書き言葉を学ぶという「バイリンガルろう教育」が採用されるようになってきた(6)。依然として、ろう教育における使用言語については論争がある一方で、口話教育の限界に省みて教育の場に手話を戻そうとする傾向が見えつつある。
ここまで、ケニアのろう者事情に言及するにあたって、その対象となるろう者がどのような人々なのかということについて主に言及してきた。本章からはケニアの概要を解説しつつ、そのなかでろう者がどのような状況におかれているのかを、社会の障害者に対する視線とろう者の立場、手話事情、ろう教育、就労について論じ、ケニアという国においてろう者が経済活動に参加しようとする際にどのような課題を抱えているのか提起していく。
これまでケニアには障害者に対する医療費減免の生活支援、外国の団体によるろう教育支援などをみることができた。一方で、そうした支援策がケニアにおけるろう者たちの貧困削減にどのように影響しているのか、生計手段としてどのように経済活動に参加しているのかといった資料を得ることは難しく、実際に当事国であるケニアへ赴いてフィールドワークを実施することにも至った。従来、障害者の生活水準向上に向けた方策としてその権利の拡大、差別の撤廃に注目を集めてきた(7)。しかし、アフリカのろう教育で手話教育が普及していることの要因として社会の無関心がかえってろう者たちに自らの教育法に高い自由度をもたらしたこと(8)を踏まえ、現在、限られた方策のなかでろう者たちが自分たちでどのように生計手段として経済活動を行ってきたのかということにも注目していく。併せて、開発途上国にみられる統計データの未整備はケニアにおいても見ることができるため、全体として必要な統計を用いつつも事例に基づく分析に重きを置いていく。
ケニア共和国は人口約3860万人(9)、国土面積は58万3000km2の共和国である。1963年にイギリス領植民地から独立し、非同盟外交を標榜しているが、イギリスをはじめとする欧米諸国との関係が深い(10)。産業においてはコーヒーや茶、園芸作物を中心とし、農業がGDPの約25%、労働人口の約60%を占めているといわれている。その他には豊かな自然資源を活用した観光業が目立った産業となっ ている。
近年では2007年12月の大統領選挙の際に、選挙結果をめぐる候補者の対立が火種となって大規模な暴動が発生し、その被害は死者1000人、国内避難民30万人を超え、2007年の実質GDP成長率は7.0%であったものが、翌2008年には1.6%にまで落ち込んでしまった。その要因としては大量の避難民が出たことにより農産業の作付けが遅れたこと、天候不順にも見舞われ、ケニアのイメージの悪化によって観光業もまた大きな打撃を受けたことが挙げられる(11)。
2007年大統領選挙後の混乱の原因の一つとして部族間の対立を表面化させたものとして捉えられることもあるが、現在、ケニアには40以上の民族と各民族固有の言語をもつとされ、国語としてスワヒリ語を、公用語として英語を採用している。さらに2010年の新憲法制定によってKSLが議会の公用語として、加えて教育において重視されるべき言語として公認された(12)。
ナイロビは以上のようなケニアの首都であり、人口約314万人(13)を擁する東アフリカ最大の人口都市でもあり、ケニア国内だけでなく周辺諸国からの移民や出稼ぎ労働者も多い。イギリス植民地時代から陸運、空運の中継地としての役割を担い、現在も東アフリカの入り口としてナイロビを経由してアフリカ諸国への国際線が多く展開している。
本節ではまずケニアの障害者に対する態度を論じた上で、ろう者のおかれている立場について言及していく。2009年に実施された国勢調査によれば、ケニア国内の障害者人口は約133万人とされ、人口の3.5%が障害者ということになる。2005年に内閣府から発表されている日本の障害者の人口比5%と単純比較するならば、ケニアの方が障害者の割合が低いということになるが、地理的要因、医療アクセスの問題などを踏まえると、日本に比較してケニアの方が障害をもつ可能性が低いとはいえないだろう。1998年に西アフリカのコートジボワールにて行われた調査研究では、当該国の国勢調査に用いられた調査票の不備を指摘している。それは、障害種別に関する項目が「盲/聾/唖/下肢障害/上肢障害/ほかの障害/非障害」と簡素なものであったために、軽度の障害を把握することができなかったのではないだろうかというものである(14)。また2009年の上記国勢調査の際には筆者もケニアに滞在しており、自身の経験や周囲の人の声からも実施方法の煩雑さが指摘されている。
ケニアの場合、依然として医療へのアクセスが十分であるとはいえない状況にあり、地方では人口の15%程度の人しか医療アクセスがなく、ケニア全体でも57%の世帯がもっとも近い医療施設まで4km以上離れており、保健所については人口12万人から15万人に1か所という割合でしか整備されていない(15)。こうした問題だけでなく、近隣に病院があったとしても家計の問題から治療を受けられないケースなど医療アクセスを妨げる要因は様々である。こうした状況下では、妊娠中の女性や産後間もない子どもが病気を患った際、すぐに十分な治療を受けられず、子どもになんらかの障害が発生するということも珍しくなく、障害をもつ可能性は先進諸国に比較して必然的に高いものとなってくる。
以上の要因から比較的多くの障害者が暮らしているケニアであるが、ケニアには古くから障害者を地域や社会の重荷と考える風潮があり、それはこれまで多くの障害者の自尊心の育成にとって障害となってきた。たとえば、障害児は両親がその子を家庭やコミュニティから外に出すのを拒むことで、一種の隔離された生活環境下での生活を強いられるという場合や、障害が要因となる虐待など差別的待遇を受けることもある。また、家庭やコミュニティ内で隔離されることはなくとも、交通手段がバスしかないにもかかわらず、バスのステップが高い、狭いなどの理由によって利用できない人、道路の未整備によってバス停までも行くことが難しい人など、障害者の社会参加の機会は著しく制限されてしまっている。
同様の状況はろう者にも見てとれるが、ときにそれは手話という言語を共有するろう者にとって致命的な問題をはらんでいる。ケニアの農村部では今でも先天的な聴覚障害を呪いによるものだと考える風潮があり、差別的慣習も相まって幼いころから家庭やコミュニティ内で隔離された生活環境下におかれてしまうことがある。他の音声言語は家庭や地域社会のなかで伝承されるが、ろう者たちが共有する手話という言語は他のろう者との接触によって初めて伝承されるものである(16)。疫学的に1000人に1人といわれているろう者たちにとって、彼らが初めて他のろう者と接触するのは多くの場合ろう学校であり、家庭やコミュニティの外の社会に出ることが手話の獲得には必要不可欠なのである。なかには成人するまで他のろう者との接触を一切もてなかった人もおり、手話を習得することができなかったためにろう者とコミュニケーションをとることができなかった。
このような障害者を隔離するような社会態度はかつての日本にもみられたことである。そして、それは障害者の社会参加の機会を損なわせてきた。ろう者が共有する手話という言語が、ろう学校というろう者が一堂に会する場所によって伝承され、それによって学習し、個々の生活を改善していく術を身につけていくのである。その上で、社会との接触を阻まれることはろう者にとって大きな障害となっている。
手話とはろう者どうしの接触によってはじめて形成され、伝承されてきた自然言語である。そして多くの場合、その伝承はろう学校という媒体のなかで行われてきたのである。ろうは遺伝によって継承されることもあり、ろうの両親のもとに生まれたろう児は家庭内においても手話を習得することが可能だろう。しかし、多くのろう者は聞こえる両親のもとに生まれ、周囲にろう者がいなければ、家庭や地域で手話を獲得することは困難である。また、聞こえる両親のもとでは、医療モデルに基づいた発想のもとになんとか聞こえる人の社会に復帰させようと発話の訓練に注力されることも珍しいことではない。 このように手話とは音声言語とは異なり、その習得機会には一定の環境が必要となり、医療モデルのもとに周辺化され、長らく弱い立場におかれてきた言語である。しかし、開発途上国の場合には音声言語との関わりという問題だけではなく、手話と手話との間にも問題を見ることができる。それが自国の手話と外国手話との関係である。
グローバル化が進む現代においては、音声言語の世界でも外国の音声言語の影響は少なからず受けているといえるだろう。しかし、自国の音声言語の発音や文法にまで外国が影響を及ぼすことは稀である。ところが、開発途上国のろう社会においては単に外国手話の単語表現を取り入れるだけでなく、その文法までが外国手話に塗り替えられてしまうという事態が発生しているのである。そのような自国手話の危機を揶揄して、当事国のろう者たちは「手話が壊れる」と表現することもある。これは音声言語の外国語による自然な変容とは性格を異にし、この手話の変容は人為的な作用ともいえるのである。本節では、その一例をKSLと外国手話との関係からみていく。
アジア諸国、アフリカ諸国で教育開発が進められた1960〜1970年代には途上国のろう教育に外国手話がもたらされ、教育の際に使用するということが一般的であった(17)。外国手話をもちこむアクターは主に宗教団体、外国の援助団体、先進国への留学経験者などである。ケニアの場合にはこうしたアクターたちの手によってアメリカ手話、イギリス手話、ベルギー手話、韓国手話がもちこまれたことが確認されている(18)。これらのうちアメリカ手話(以下、ASL)を除く3つの手話はケニア国内に広く伝播するということはなく、たとえば教会のなか、団体、関わる施設内など比較的限定された空間で使用されるにとどまっている。ここで注目したいのがケニアではASLが影響力の大小はあっても広く導入されているということである。
その一例が、K.I.E.手話である。かつて、ケニアろう社会のリーダー的存在であった博士(ろう者)がアメリカ留学から帰国した際にKSLの語彙数の少なさを補うために自身の知るASLで補おうとKSLの再構築を行ったという。それが教育省の管轄するK.I.E.(Kenya Institute of Education)のもとで辞書として編纂され、一般にK.I.E.手話と呼ばれ、各ろう学校の教育言語として使用が奨励された(19)。このことについては、筆者の出会ったろう者の多くが同様の語りをしてくれた。ただし、これはKSLの語彙不足をASLの語彙によって補おうとしたものであり、KSLをASLに塗り替えようとしたものではなく、「ケニアではASLが話されている」という認識には至るものではない。
他には教育の場でもASLが用いられている。教育現場での手話の概要をろう者たちの語りから調べていくと、多くのろう者が明確に「〜の学校ではASLを使って授業をしている」や「私はASLを話すこともできる」と話すろう者も多く、彼らの語るASLの言語体系が実際に北米で使用されているASLと同一のものであるかは定かではないものの、彼らのなかで「KSLとは別種の手話」として区別している手話が存在していることがうかがえる。その別種の手話がどれほどASLに類似しているか否かについて言語学的検証は本稿の論じるところではないため言及を避けるが、KSLとともにASLといわれるものがろう教育の現場にも広がっているといえる。
こうした状況のなか、近年、国際的には途上国に欧米の手話をもちこむことに対して消極的な態度をとり、多くの研究者らからも外国手話のもちこみについては批判的に言及している。世界ろう連盟(WFD)は外国の手話ではなく、各国の手話言語を尊重することを主張している(20)。こうした態度はすでに国際的な倫理として定着しつつあるといえるだろう。しかし、それは外国手話を拒絶、排除しようとするのではなく、ケニアの場合にはろう者たちが自身の手話のなかに自然に外国手話を許容し、多様なコミュニケーション手段を柔軟に使い分けている様子も観察されている(21)。
ケニアにおいてもろう者の全国組織であるケニア全国ろう者協会(KNAD)がケニア各地の手話を収集し、名実ともに“ケニア手話”と呼べる手話を載せた辞書を編纂することを目的に研究プロジェクト設立している。2010年にトヨタ財団の助成によりケニア全国ろう者協会をカウンターパートとして実施されたワークショップではケニア各地から選抜された参加者とともにKSLの言語的特性に関する分析が行われ、それに基づく『ケニア手話の言語構造分析序論』(22)においてはASLの普及によって、ASLの亜種のように見られていたKSLには不変のネイティビティが保存されている可能性があることを述べている。それはケニアのろう者たちがASLを受容しつつも、それはASLに染まるのではなく、独自の手話としてKSLを自然に尊重してきたことを示唆しているのではないだろうか。
一般的に「子ども、青年、成人を含み、すべての人々は基礎的な学習ニーズを満たすための教育の機会から恩恵を受けられなければならない」といわれている(23)。ここでいう基礎的学習ニーズとは、読み書き計算などの基礎的学習能力と、知識、技術など基礎的学習内容からなる。そして、多くの場合、ろう者たちはろう学校に入ることで他のろう者たちと出会い、手話を習得し、その手話によって基礎学習を享受していくのである。つまり、ろう学校はろう者にとって基礎的学習ニーズを満たすのみならず、言語習得においても欠くことのできない存在なのである。
現在ケニアの教育制度ではいわゆる8-4-4システムが採用され、これは初等教育8年、中等教育4年、大学教育4年という意味である。諸外国にはろう教育において個別の制度を採用している例もあるが、ケニアではろう教育においても同様のシステムを採用している。そして、2003年より初等教育8年間のみ無料化されたことで、初等教育の就学率は74.5%に、中等教育の就学率は24.5%に増加した(24)。
また、2003年の初等教育無料化以降、急激な生徒の増加に設備建設が追いつかず定員オーバーによって入学を待機している児童も多い。とくに農村部の学校の教室や教材、教員の不足は深刻で、1冊の教科書を数人、もしくは1クラスで共有しているケースや1人の教員が数クラスの授業を同時に受け持つといったことも発生している。こうした状況はろう教育の現場にも見られ、「農村部のろう学校は定員がいっぱいで、毎年多くのろう児が入学できずにいる」と語るろう者に出会うこともしばしばあった。こうした状況を補うかのように援助団体による学校建設、近年では私立学校の創立も増えてきているものの、その多くは都市部に集中し、農村部の児童たちの教育機会の不足は改善されていないという。
ケニアには約72のろう学校があるといわれ、それらは35の初等教育学校、4つの中等教育学校、33のユニット(ろう学校ではないが、ろう教室を併設している学校)からなる。ろう者の就学状況については約2万3000人のろう児のうち15%といわれており、聴者に比較して依然として教育機会が不足していることがみえてくる。その要因を施設の不足だけで推し量ることはできないだろう。
先述したように、ケニアにおいては古くから障害者に対して消極的な態度をとる場合が多い。それは教育にも影響を及ぼし、聴者に比べて教育に関心をもたれないことが多い。たとえば2人兄弟の兄が聴者で、弟がろう者であった場合に、聴者の兄は中等教育も修了し、大学や専門学校等へ進学しているのに対し、ろう者の弟は初等教育のみで家に帰ってきたというケースが少なくないのである。このような家庭内での教育に対する差別的態度は、慣習的に障害者を外に出すことに消極的であるということだけでなく、ろう児は勉強しても社会に出ることはできず、家事や家畜の世話をするしかないから高度な教育を受けても仕方がないと考えている人が多いことに起因する。こうした周囲の教育に対する消極的な態度は、ろう児が教育を受ける機会を損なわせ、もしくは遅らせてしまっている。筆者も12〜18歳になってからようやく学校に入学させてもらえたと語るろう者に出会うことがあったが、こうしたろう学校への入学の遅れは、地域でろう児が長い間孤立してしまうことを意味し、また教育を享受することだけでなく、手話習得の遅延にまで影響を及ぼしてしまう。
また、高等教育にあたる専門学校や短期大学、大学等への進学に際して、ろう学校として設置されている学校のほとんどが職業技術系の専門学校や短期大学である。ろう者が大学に進学する際にはインテグレートするしかないわけであるが、手話通訳の派遣を保障している大学はほとんどなく、多くの場合、友人や家族のノートテイクに頼りながら授業を受けることを求められる。こうした状況のなか、KNAD役員の1人がナイロビ大学の大学院に入学した際に大学側と交渉し、大学側の賃金負担によって彼に手話通訳をつけられることとなった。しかし、このような事例は他になく、ろう者たちが大学に進学しようとする際の大きな障害となっているのはいうまでもない。
教育機会を得ることだけでなく、先述の手話教育と口話教育の論争に見られるように、彼らは歴史的にその教育において時代に翻弄されてきた。ケニアのろう教育の歴史の概要としては、1960年代に最初のろう学校がヨーロッパの宣教師によって設立され、その学校の教員のほとんどは聴者で、口話による教育が中心に行われてきた。しかし、1983年にデンマークの支援によって先述のK.I.E.傘下にK.I.S.E.(Kenya Institute of Special Education)が設立されたことから手話教育がはじまり、現在では多くのろう学校で手話教育が実践されている(25)。この点において、ケニアのろう教育は依然として口話主義中心の先進諸国との比較において先進性を有しているようにもみえるが、各国が手話教育においても様々な議論を展開しているように、ケニアの手話教育においては以下のような問題がみてとれる。
それは、どのような手話によって授業を行うかという議論である。筆者がこれまで出会ったきたろう学校の教員(ろう者・聴者)はケニア手話によって授業をしている人もいれば、アメリカ手話を用いる人、シラバスに則してK.I.E.手話を実践する人、「英語対応手話」を用いる人など様々であった。その理由も様々で、単に他の手話の習得が困難であるという理由もあれば、ろうの教員であっても児童が英語の文章構造の理解を促すためにと英語対応手話を用いるなどである。
英語対応手話とは英語ではSigned Exact English(S.E.E.)と表記されるように、その国の手話単語を英語の文法に則して表現する方法のことである。日本においては日本手話とは区別して日本語対応手話と呼ばれる表現方法がある。日本語対応手話の場合にもやはり日本手話の単語を借用しながら、日本語(音声)の文法に則して表現する。本来、手話とは音声言語とは異なる言語体系をもっており、その構成要素を失する対応手話を“手話”といえるのかという議論もあり、実際のところ音声言語を話す聴者にとっては習得しやすいものの、ろう者にとっては第一言語の手話とは大きく異なるために理解が難しく、対応手話のみが教育の場に用いられることには疑問がある。
たとえば、ケニアの場合、公立ろう学校の教員の多くは前述のK.I.S.E.にてろう学校教員養成のプログラムを受講し、修了後に各地のろう学校に配属される。ただし、このプログラムにおいて受講者に手話を教える講師は聴者であり、また教授される手話も英語対応手話であることが職員への聞き取りからわかった。担当者の語りでは、各自が配属後に各々の学校で自力によってケニア手話を習得していくとのことであった。つまり、基本的にはこの英語対応手話によって授業を進められることになる。しかし、就学したばかりのろう児たちは当然のことながら英語やスワヒリ語への筆記の素養はなく、先輩のろう児たちとの出会いによってKSLを継承していく段階にある。英語対応手話は英語の素養なしに理解することは簡単ではないし、それを無視した状態で授業を進められることはろう児の学習において大きな障害となりかねないのである。
こうした状況を受け1990年代にはKNADのイニシアティブによって5名のろう者が教員となり、さらにはアメリカのNGOから奨学金を得たろう者が教育大学で学び、教師を目指すなどの取り組みがされてきた。近年ではKNADが中心となって各地のろう学校へろう者を手話講師として派遣する取り組みも始められた。ろう教育の現場に適切なKSLを定着させるためにこうした取り組みが積極的に進められている。
そもそも英語対応手話が要因となってろう児の学習を妨げているのであれば、K.I.S.E.の研修においてろう者の手話講師によってKSLを教授されることが望ましいと考えられるだろう。しかし、ここには大きく分けて2つの課題がある。1つが講師となるには「学士号」をもっていなければならないこと、もう1つはケニア手話に言語学的な分析が行き届いていないことである。K.I.S.E.に勤務するろう者の語りによれば、当該施設に講師として就職する場合には条件として「学士号の有無」が欠かせないという。前述のろう者たちの教育機会に照らして考えると、それがいかに狭き門であるかがわかるだろう。
そして、筆者自身も参加していたKSLの講座においても同様であったが、言語学的な分析が進んでいないことは文法を理解するにあたって受講者にとっては大きな困難となっている。受講前から筆者はKSLの素養を少なからずもっていたこともあり、履修することに大きな困難はなかったものの、初めて手話を学ぶ受講生たちには戸惑いが多かった。講師は全員ケニアのろう者たちであったが、講座の内容の多くは手話単語に注力され、文法に関わる講義は非常に少なかった。我々にしても同じであるが、日常会話として日本語を難なく話していたとしても、それを分解し、適切に他者に教えるには必要な参考書と特別な訓練が必要となるだろう。しかし、KSLに関しては言語学的な参考書もなく、これまで出版されてきた書物の多くも単語に関する辞書が中心であり、現状では「習うより慣れろ」的に学ぶことが聴者にとってKSLを学ぶ上で最良の方法となるだろう。
以上のような要因から、聴者にとってKSLを学ぶことは容易ではなく、ろう児たちが教育の場でKSLによって学ぶ機会を得るためには、ろう者が教員となる機会を得ることと併せて、聴者がKSLを学ぶための機会が創出されることが必要であり、その根源としてKSLの言語学的研究の発展が望まれる。現在のところ、日本の研究者によりKNADをカウンターパートとしてKSLに対する手話研究が進められている(26)。
2008年のケニアにおける失業率は40%ともいわれている(27)。先述の通り、2007年まで毎年のGDP実質成長率は好調で、2007年には7.0%を記録していた。ところが、2007年末の大統領選挙の結果をめぐる混乱と国内各地で発生した暴動によって国民生活とともに国内産業は大打撃を受け、2008年のGDP実質成長率は1.7%へと大きく落ち込んだ。それにともなって国内では失業者が激増することとなった。ここまで述べてきたように社会のあらゆる面でマイノリティゆえに弱い立場にあるろう者たちは、聴者以上の不利益を被ったと推測するに難しくない。実際、フィールドワーク中にも2007年の暴動を機に失業、もしくは転職を余儀なくされたろう者に出会うことがたびたびあった。こうした人々の多くは現在に至っても暴動以前の生計を取り戻すことができずにいる。生活全般、教育において弱い立場にあったろう者たちは経済活動の場においてもまた弱い立場におかれてきた。そして、2007年に発生した暴動は彼らに追い打ちをかける結果となってしまったといえる。
社会が障害者の就労に対し消極的になる経緯の1つとしてイギリスの産業革命が挙げられる。産業革命以降、機械化と大量生産が推進され、同時にそれを可能にする安定的で均質な労働力を求めるようになった。それは一定程度の労働に耐えられる均質な身体を求めるということであり、それに適合しない生産能力の低い人間を障害者と捉え、社会は彼らの経済活動への参加に対して消極的な態度をとるようになった。このような原理は現在の社会にもみることができるだろう。たとえば、日本では56人以上の職員を抱える企業に対して、一定割合の障害者の雇用を求めているが(法定雇用率)、2009年の段階では法定雇用率1.8%に対して実雇用率は約1.6%、法定雇用率達成企業は全体の45.5%(28)と、前年度から増加傾向にあるものの、障害者の雇用、つまり経済活動への参加の機会は依然として消極的と言わざるを得えないのである。
そして、ケニアにおいてろう者たちの就労機会をさらに制限する要因として「学歴偏重主義」を無視することはできない。先述の通り、2003年に初等教育が無料化されたことにより、児童の就学率は大きく増加した。ろう者の教育に対して、周囲が消極的であるという事実を踏まえても、ろう児たちの教育機会も確かに増えた。しかし、この無料化はこれまで他の開発途上国にも見られたように、単純な機会の普及に留まってしまっていると見ることができる。つまり、就学者数ばかりが増えて、その質の保持、もしくは向上が後回しにされてしまっているということである。その結果として初等教育の社会的な価値は低下し、かつては初等教育の修了生であっても事務的な仕事に就けたのが、現在では中等教育以上でなければほとんど就労機会を得られないという状況になってきているのである(29)。
多くの児童が初等教育を修了するようになり、雇用側(企業等)がより優秀な人材を求めるようになったことで中等教育、高等教育のもつ価値が相対的に増したと考えることができる。そうした背景から、かつては未就学者に対して向けられていた“落伍者”的なイメージが、現在では中等教育以上に進学できなかった者に対して向けられるようになってきた。そして、中等、高等教育が有料であることはその進学にあたって学力だけでなく、家計が大きく影響を及ぼすことになり、2000年に人口の50%が貧困層にあるといわれていたケニア(30)においては多くの児童が就職するにあたって厳しい状況にあるといえる。さらに世界の貧困層のうち3割が障害者である(31)ということ、障害者に対する社会の消極的態度を踏まえると、ろう者たちにとって学歴偏重主義は聴者に比較しても経済活動への参加機会において非常に厳しい状況にあることがうかがえる。
このようにケニアのろう者の生計手段獲得の方法として経済活動を考察するにあたっては、ケニアの経済状況だけでなく、障害者の社会問題、教育の等を踏まえた包括的分析が必要となってくる。一概に景気の悪化だけがろう者たちの経済活動への参加を阻むわけではなく、障害者の社会参加の機会が不平等であること、そして教育の問題により一層就労機会を損なわれているということがみえてくる。
重複となるが、貧困と障害との間には密接な関係があり、世界の貧困層の3割が障害者であるといわれていることにもそれは表れているといえるだろう。途上国の特に農村部には貧しい世帯が多く、地理的要因に限らず金銭的にも、医療アクセスが不足している人々が多く、妊娠中の女性が直ちに病院へ行くことが難しく、不衛生な環境下での出産を余儀なくされ、その影響は母親だけではなく生まれてくる子にも及ぶ。ケニアろう児教会(KSDC)が1994-1998年に実施した調査によれば1000人の児童のうち63人に難聴があり、その難聴をもつ児童の80%が後天的な要因によるものだったという(32)。多くの児童が何かしらに障害をもつ可能性をもっているにも関わらず、その社会はあらゆる面で障害者に対して消極的な態度をとり、彼らの社会参加の機会を阻んできた。それは障害者が社会的に周辺化され、常に弱い立場に立たされてきたことを意味している。そのような社会の消極的態度は彼らが貧困から脱却しようと生計手段を獲得する際にも大きな障害となり、彼らを貧困に追いやってきた。
このような背景からも、途上国の貧困削減を考える上で障害者の抱える問題を抜きに進めることはできない。そして、手話という独自の言語をもち、ろう社会という独自の集団を形成しているろう者たちがケニアという国家の障害者問題のなかでどのように生計手段を獲得しているのかはこれまであまり研究されてこなかった。当然のことながらすべてのろう者が就労機会を得られないわけではなく、全体としては少ないながらも確かに定職に就いているろう者たちがおり、彼らがどのような経緯、方法で生計手段として仕事を得て、現在に至るまでどのような工夫をしながら継続してきたのかを知ることは、今後、多くのろう者が経済活動へ参加しようとする際の重要なロールモデルとなるであろう。したがって、本稿の執筆に向けたケニアでの調査は以上の理由から実施した。
調査は2009年11月29日〜2010年2月15日(79日間)、東アフリカのケニア共和国(以下、ケニア)の首都ナイロビと近郊の町(Ongata Rongai, Kiserian, Thika)で実施した。
首都ナイロビは人口約314万人(33)の東アフリカ最大の経済都市であり、ケニア国内からだけでなくウガンダやタンザニア、スーダン等の近隣諸国からの出稼ぎ労働者や移民の多い都市である。アフリカのろう者の生計手段の把握を最大の目的とすることから、労働者の流入が多く、経済活動の盛んなナイロビを選定した。また、筆者がボランティアとしてろう学級に1年間赴任していた町が近いこともあり、当時のネットワークを活かしカウンターパートを得やすいこと、ボランティアの際に学んだケニア手話を活かせることが選定の理由である。
調査対象としたのは、ろう者の生計手段としての就労機会獲得の過程と各人の実態の把握であることから、主に労働力人口に含まれるろう者個人を対象とし、とりわけ現在仕事に就いている人、仕事を探している人を対象に実施した。いわゆる就職率や失業率といった量的データによらず個人の事例収集に努めたことで、当該調査結果に量的な限界があることは否めない。その他、ろう者個人以外には障害者団体、キリスト教の教会、職業訓練施設、ろう学校、公的機関へ赴き、以下のように調査を実施した。
今回の調査はケニアのろう者個人の生計を把握することを最大の目的とし、その概要を包括的に捉えるために文献収集、調査票、参与観察、自由会話などの複数の調査法を併用した。尚、障害者団体、教育機関、公的機関等への訪問は資料収集という目的とあわせて、そこで働くろう者を個人の調査対象としても捉えている。各調査法は以下のように実施した。
このような方法を用いることによって、ろう者個人に対する調査票による聞き取りは35人分を回収し、実際に職場を訪問しての事例は25件(35名分)を収集することができた。事例収集に注力したため、文献収集については11件にとどまり、その内訳はKSLの辞書(書籍・DVD)、教育省の発行するKSL(KSL)のシラバス(初等教育・中等教育)、障害者団体のパンフレットや保有する文献資料、文書データ等である。
調査活動を実施するなかで次のような語りを耳にした。「ナイロビ大学の学生であっても満足に就職できなくなってきている。とくに専門技術をもたない文系の卒業生は就職が決まらないままに卒業して、田舎の学校で教員のアルバイトやボランティアをしながら就職先を探すことも珍しくない。」ナイロビ大学とはケニアの国立大学のなかでも最高学府に位置する大学である。失業率40%(35)というケニアの経済状況はこのような言葉となって現地の人々の意識に根付いていた。厳しい就職状況は、学生たちに激しい学力競争を促し、その競争を戦えるだけの経済的基盤をもつ者たちは発展を遂げ、脆弱な家計による生活苦を抱える者たちには競争に参加する機会すら与えられない状況となっており、それは今後のさらなる格差社会の肥大を示唆しているといえるだろう。
先述の通り、2003年に初等教育が無料化されて以降、初等教育の就学率は77.4%にまで増加した。しかし、実際に8年制の初等教育を修了するのはそのうちの40%程度に留まり、その後中等教育へと進学するのは24.5%であり、依然として教育が浸透しているとはいえない。これは初等教育無料化が単なる機会の増加にむけて実施され、国民にとっても「無料だから...」ということで児童を入学させ、教育のもつ本質的な重要性にまで理解が及んでいないことの表れである。単に初等教育が無料化されたことは就職における初等教育の価値を低下させ、家計に左右されやすい有料の中等以上の教育を受けることを必須条件として求めるようになってきた。それは、民間企業に就職しようとする際に学士号の有無を求められることが顕著になってきたことにも表れているといえるだろう。
このような状況は学生や労働者間の競争を促し、社会発展につながると考えることもできるが、それはすべての国民に一定程度の教育機会、就労機会を得るだけの社会基盤が整っていることが前提といえる。現在のケニアはある程度の家計収入がなければ中等以上の教育は受けられないばかりか、設備や人材の整備が追いついておらず、初等教育機会も限定的な状況にある。しかし、これらの教育を最後まで享受しなければ安定的な就職は望めず、低賃金の職を転々とするようになり、貧困から脱却する機会をも失してしまうのである。
そのような構造は、既存の教育機会が聴者に比較して乏しいろう者たちにとってはさらに厳しい状況であるといえる。教育機会が乏しい要因は聴者と同様のものだけでなく、社会のろう者に対する消極的態度が大きく影響していることは既に述べてきた。学校へ入学するどころか家庭や地域から外へ出ることも難しい児童は農村部には依然として多く、彼らの多くは他のろう者との接触が少ないためにろう社会との関係も薄いまま家族の仕事を手伝う機会しか得られないなど自立が困難な状況にある。また、ろう社会との関係が薄いことは、彼らへの有用な情報が届かないばかりか、ろう運動などによるエンパワメントも行き届かない状況を生み出してしまう。そして、障害者に対する消極的態度は農村部ほどではないがナイロビなどの都市部でも見られ、社会全体の問題として捉えられなければならない。
政府の生活保護等の制度もなく、コートジボワールにみられる障害者の公務員無試験採用制度(36)といった行政による雇用機会創出に向けた取り組みもないケニアにおいて、ろう者たちはどのように生計を立てているのであろうか。自由会話による聞き取りのなかで、ろう者たちが主に次のような場所で仕事を得ていることが見えてきた。それがろう者の教会、職業訓練校や専門学校等、家庭や近隣のコミュニティである。
筆者が毎日のように訪れていたろう者の教会には日々多くのろう者が各々の時間を過ごすために集まってきた。学校の放課後に立ち寄る人、家事をひと段落させて談笑にふける人、ナイロビを立ち寄ったついでに訪問してくる人、仕事の合間に立ち寄るなど、その訪問目的は様々であった。そこには求人情報の収集にやってくるろう者も少なくない。ろう教育の諸問題から筆記英語を苦手とするろう者に対しては、誰かが英字新聞を読み、それをKSLに通訳して伝えるという形をよくみかけた。ときには履歴書を英語の得意な人に代筆してもらうということもみられ、ろう教育の諸問題によって生じる困難を自分たちで解決していこうとする姿を見ることができた。このように教会は、数人で新聞をめくりながら求人情報を探したり会話のなかで求人情報を共有し合う場を提供し、ろう者の生計に関わる重要な情報交換の場としての役割も担っていた。
専門学校や職業訓練校では主に縫製や土木、機械、調理、接客、事務、コンピューターといったコースを提供しており、卒業生の多くもそれらのコースに準じた職業に就くことが多い。大半は学校による斡旋や卒業生の紹介によって機会を獲得している。しかし、縫製や機械等の技術職に従事するろう者は比較的多いものの、事務やコンピューターコースを修了したろう者の就職は非常に厳しいものとなっている。その要因として、技術系の職業は社会から単純な指示とコミュニケーションでも働けるものと捉えられているが、事務などのオフィスワークは従業員間の細かいコミュニケーションが欠かせず、聴者の職員にとってろう者と一緒に働くことは難しいと捉えられていることによる。
近年、ケニアではコンピューターの普及とともにIT企業の興隆が盛んになったことで学生のITへの関心も高まってきた。ろう社会においてもIT産業への関心は高まり、ITコースを設置するろう学校へ進学した者、進学を希望する者が多い。しかし、上記の理由によってろう者がIT技術を活かして就職する機会は少なく、当該調査においてはIT業界に就職しているろう者に出会うことはなかった。これらの学校を卒業した者たちは、教会や障害者団体等の事務職員として就職することもあるが、多くは技術を活かした就職ができずにいる。
その他に就労機会を得る方法として親族や周辺の人々による紹介が多い。なかには情報通の知人に求人情報を探すことを任せて、その結果を待つという人も見受けられたほどである。このようなことはろう者に限ったことではないが、比較的縁故の強いケニアにおいては一般的な方法となっている。
以上のように、ろう者たちは社会的に少数の弱い立場におかれながらも手話のという言語によって情報収集に励み、自らの生計を立てる手段として就労機会を模索している。そのような取り組みそのものが、手話だけでは仕事をできない、口話なしに如何に働くことができるのかといった社会の視線に対する彼らの運動のようにもみてとれる。このような動きは障害者権利条約にいう「−−あらゆる形態のコミュニケーションであって自ら選択するものにより、表現及び意見の自由(情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。)」(37)を体現しようとしているものといえるだろう。
教会やろう学校、地域コミュニティになどを介して就労機会を得たろう者たちを取り巻く環境を他の聴者との環境と同様に解することは、これまで述べてきた社会の消極的態度、コミュニケーション手段の違いなどからも同様に捉えることは難しい。
ろう者に対する消極的な態度はその参加過程だけでなく、就職後にも差別的待遇として問題を生じさせている。代表的なものとして、ろう者と聴者の従業員間の給与差が挙げられる。同じ階級で同質・同量の仕事をしている場合に、おおむね3000〜4000Ksh(ケニアシリング)の給与差がみられ、10000Kshあまり差が生じている場合もあった。その背景には雇用している側が「障害者でも雇用しているのだから」や「何も仕事がないよりは良い」といった意識や、コミュニケーションの困難を周囲の聴者に負担として転嫁しているためといった考えが要因として考えられる。
そして、職場の同僚や上司とコミュニケーションが難しいことは、本来、自己決定されるべきことを他者によって決定されるということにつながっている。たとえば、給与の増減に関する交渉など、他の聴者である同僚たちは上司と交渉することで定められていくが、ろう者に関しては交渉の機会もないままに一方的に決定される場合も少なくない。また、筆談によるコミュニケーションの限界からろう者にはつねに単純な作業ばかりが配分され、自身のスキルアップやキャリアアップに対する機会も限定的な状況になっている。以上のような状況もまたろう者と聴者との給与差になって表れていることだろう。
当然のことながら、このような問題はろう者たちの就業意欲を低下させる要因となるとともに、上司や同僚の人間関係においてもトラブルの原因となってしまう。それは彼らの転職にも表れており、調査票の結果からも半数を超える54.3%のろう者が転職経験をもち、その平均値は2.7回であった。また被雇用者の47.8%が一時雇用もしくは日雇いという立場にあることからも、ろう者が不安定な雇用形態にあることがみえてくる。
こうした問題がありながらも一部のろう者たちは自らの工夫や周囲の聴者の協力によってコミュニケーションや給与の問題を解消し、長い勤続年数を誇っている。さらには調査票による聞き取りから、約20%のろう者が自営していることが明らかになり、雇用機会に恵まれないことで自らその機会を創出しようとするろう者の活動にも注目したい。以下に、彼らがどのような工夫によって問題を解消しているのかを事例ごとにまとめていく。
以上の事例のなかで、従業員として勤務している者は周囲の協力とともに自身も周囲に対して手話への関心とその必要性を喚起することで情報の円滑な授受を可能とし、良好な人間関係を構築することで自らの就労機会を安定的なものへと変えてきた。またろう者自らが起業した事業においては、給与差や窓際扱いといった差別的待遇がないばかりでなく、聴者を事業のなかに巻き込みながらうまく役割分担を果たしている様子は、本来あるべき平等な関係を体現しているものといえるだろう。
さらに、こうしたろうの企業家たちは、ろう者が就労機会を得る過程で弱い立場にあることに対して強い問題意識をもち、他のろう者への雇用創出に向けた積極的行動をとろうとしている姿勢を観察することができた。これはろう者たちが教育過程だけでなく、就労機会を得る過程においても同じ言語を共有する人々を尊重し、集団として行動していることの表れではないだろうか。
このように就労機会が限られているなかでも、ろう者たちは各々の工夫によって自身を職場に適応させるだけでなく、職場の環境を適宜自身に適応させることで自然に手話言語集団としての社会参加を果たしてきた。聴者とともに働いている場合には当然のことながら、周囲の理解と配慮の受容がろう者の安定した就労機会をつくる上で重要なものとなってくるが、彼らのこうした取り組みはケニア社会が手話言語集団を平等な存在として受容しようとする際の貴重なロールモデルとなるだろう。
参与観察の事例として挙げたもの以外にも、周囲の従業員に対して手話を教えようとする姿は多く見られた。そして、多くの職場では数名が手話を学ぶことに積極的な姿勢を示しており、手話を言語として認識している様子も観察できた。ろう者が職場の聴者に対して手話を教えようとすること、また、周囲の聴者がそれを受容しようとすることはケニアや他のアフリカ諸国に限ったことではなく、日本などでもよく見られることであるが、ケニアに見られる周囲の受容については、その地域性が少なからず影響していると考えられる。国内に40以上の民族固有言語が使用されているというケニアにおいては、母語としての民族言語、英語、スワヒリ語と3つの言語を自在に操ることが一般的で、他の民族語まで流暢に話す人も珍しくない。そのような地域性にあって、ケニアには他言語を学ぶことにさほど抵抗感がなく、単一言語が主流となっている先進諸国以上にろう者の手話に対する受容力を内在しているのではないだろうか。2010年の憲法改正においてKSLをケニアの公的言語として認めたことが手話の言語としての普及に対して追い風となることはいうまでもないだろう。そして、それは多言語国家というケニアの地域性との結びつきによって、ケニアにおいてKSLが社会に浸透していくことになるのではないだろうか。
途上国のもつ特性として社会のなかに伝統的な慣習が強く根付いていることで、障害者の社会参加が大きく阻まれていることが理解できるが、上記のように、アフリカの多言語国家としての地域性はろう者たちの社会参加を促進する上で重要な要素とも考えられ、そこにろう者の社会参加の可能性を見出すことができた。しかしながら、これまで述べてきたようにケニアのろう者たちが生計手段として経済活動へ参加する際に考えなければならない問題は単に手話によるコミュニケーションの確保にとどまらず、教育機会の不足とそれによって被る社会の学歴偏重主義によるところも踏まえなければならない。学校教育等の改善は現在の児童たちの将来のために必要不可欠な措置であるが、上記の根拠によって教育問題の解決にのみ結論を見出すことは、現在、生計手段を確保しなければならない状況にあるろうの成人たちに対する方策を見逃していることに他ならない。本章では、十分な教育機会と就労機会を得ることが困難な状況のなかで、ろう者たちが生計手段を獲得するために求められるであろう方策を提言していく。
これまで述べてきたようにろう者たちは周囲に認知されずとも互いの接触を通して手話を生み出し、継承し、その言語とともに独自の文化、社会を構築してきた。しかし、1880年のミラノ会議を契機に口話主義が世界各国に広まり、ろう社会は抑圧の歴史を歩むことになった。それは日本においても同様で、ミラノ会議の決議の直接の影響は受けなかったものの、当時の文部大臣の「口話を支持する訓示」により全国的な普及へとつながった。
こうした社会的抑圧のなか、世界各国のろう者たちは再び自らの尊厳と権利を取り戻そうと活発な運動を展開してきた。それは何か新しい尊厳、権利を生み出すことではなく、認知されなかっただけで元来、社会に内在していた権利を再確認し、取り戻そうとする動きとみることができよう。ろう運動をはじめとする障害者運動は2006年12月の国連総会で決議された「障害者権利条約」、2008年1月の国連総会において国連ミレニアム開発目標に障害者を含める決議がされたことに成果として表れてきた。今後、こうした枠組みの下に地域レベルで障害者の権利を保障する社会を築くことが求められるのではないだろうか。 ミラノ会議における口話主義の採択は障害者、ろう者を、健常者を中心とする社会から逸脱した者とする医療モデルに発する決定であった。一連の障害者運動、障害者権利条約において、こうした障害観は障害を個人に転嫁しようとする医療モデルから、社会の問題として捉えようとする社会モデルへと転換されてきた。しかし、地域レベル、障害者個人の実生活レベルでは依然として医療モデルに基づく障害観が強く存在し、ろう者においては口話を前提とする社会参加のみを評価しようとする風潮は消えてはいない。権利保障にとどまらず、口話主義優位の再興を防ぐ上でも、こうした状況を解決するにあたっては、地域レベル、個人レベルで彼らの権利保障を実践した事例をつくり、ボトムアップ式に制度策定へと結び付けていくことが重要となりうる。
ろう者において、彼らの尊厳と権利を保障する事例とは、本稿でも取り上げた事例のように、如何に手話言語集団としてろう者を社会が受容するか、教育、就労を含むあらゆる生活環境において手話を容認するかにかかっている。本稿で取り上げた事例はすべて、ろう者が中心となり、もしくは相互の協力によって構築されたものであり、そうした意味では、ろう者や周囲の聴者が個人レベルで試行錯誤の末に構築してきた事例は最良のロールモデルといえるであろう。そして、こうした地域、個人レベルの取り組みを分析し、その限界を補完することが政府の行動に求められるのではないだろうか。たとえば、本稿で取り上げた事例において被雇用のろう者たちが、その職場で手話を容認されている背景には周囲のろう者に対する理解があって成立している。それは当然、どの環境でもとられるべき態度ではあるが、周囲の聴者個人の手話を学習しようとする自発性に依るしかなく、社会問題の解決には至らないだろう。したがって、政府の障害者問題に向けた行動として、こうした不安定性を補完するような取り組みがなされることが重要である。
このような手話によるコミュニケーションの問題に関して、もっとも有効なのは手話通訳者という手話と音声言語を通訳する人材の派遣であるが、現在のところ、ケニアにおいて手話通訳者は人材不足だけでなく、その依頼について政府補助が得られないことから、ろう者や周囲の聴者が手話通訳を求めようとも、自己負担によって手配しなければならず、その賃金が高額なことからも通訳派遣に積極的とはいえない。また、手話通訳の必要性やその意義に対する理解が普及していないことは、ろう者の職場において彼らの意思決定や立場を著しく周辺化することになり、現在の社会状況では「口話ができないから」という結論に導かれることにバイアスがかかることが否めず、そのことは口話主義優位への回帰という発想の根源ともなりかねない。
以上のことから、ろう者の尊厳と権利を保障する行動として、法的枠組みによってトップダウンの行動と同時に、草の根レベルでの活動、諸問題を踏まえたボトムアップ型の行動を促進することが重要となる。
先述の事例にあるような、とくにろうの企業家たちの取り組みは単なる自身の生計を立てるための行動ではなく、他のろう者の雇用を創出しようという社会的な目的も併せもっていた。このようなろう者たちの取り組みは社会のろう者たちに対する消極的な態度を否定し、彼らが経済活動に参加することの可能性を証明するとともに、聴者と同様の人的資源としての価値を明示するものといえるだろう。こうした行動が増え、また個々の経済活動が強化されることは、社会がろう者の経済活動参加に対して積極的な姿勢へと転換する上で重要な根拠となる。そうした活動を活性化していく上で次のような問題の解消が求められるのではないだろうか。
第1に、筆記言語の習得、及び基礎教育の定着である。これまでアフリカ諸国の政策において障害者の問題は必ずしも重視されてこなかった。ケニアは他のアフリカ諸国に比べて教育に対する関心が強いといわれ、ろう学校も他国に比較して多く点在しているが、すべてのろう児に量的、質的な教育機会が行き届いているとはいえない。これまでの教育政策は初等教育無料化にみられるような量的成果を目的とするものが多く、質の改善には貢献してこなかった。現在、成人しているろう者のなかにも十分な教育機会を得られなかったために彼らのもつ能力を発展させる機会が限られてきたことで高等教育の機会、就労機会の獲得を阻まれてきた者は少なくない。現在、KNADを中心としてケニアのろう教育において手話教育が単なる実践にとどまらないように各校に手話講師を派遣し、加えて、手話によって筆記言語を習得しようとするバイリンガル教育の推進が政府に対して働きかけられている。
しかし、このような筆記言語の十分な習得を必要とするのはろう児に限ったことではなく、その機会を必要としている成人のろう者も少なくないことは、教会において英語の得意な人が新聞を読み、それをKSLに置き換えて他のろう者たちに内容を解説している様子からも読み取ることができた。成人のろう者が十分な識字力を習得することは筆談によるコミュニケーションの問題の解消のみならず、事業を設立する際の必要書類の作成や手続き、情報収集といった経営上必要となる活動を円滑に進めることへも貢献することができるだろう。
第2に、経営にかかわる知識の習得機会である。ケニアの教育課程において経営は中等教育の選択科目から履修することができるが、先に述べた中等教育への進学率24.5%と聴者に比較して教育機会の乏しいというろう者の状況を踏まえると、ろう者が経営について学ぶ機会は非常に限られたものであるといえる。自由会話による聞き取りから、実際に起業しているろう者たちのなかに学校で経営について学んだ経験のある者はいなかった。労働経験のある者はその経験を活かし、経験のないものは周囲の様子をうかがいながら各々に試行錯誤を繰り返しながらの経営であった。
低所得層にとどまりやすい社会環境にあるろう者たちが聴者に比較して起業する機会が限定されているということもまた、彼らの生計手段としての就労機会獲得を促進する上で重要な要素といえるだろう。事例でも1例を取り上げたが、ろう者に限らず低所得層の人が起業する際には数人が集まって共同出資という形をとる場合が多いが、各人の資金が少なければ少ないほどに給与を配当する際の分母も大きくなり、所得向上を果たすことは困難になってくる。
教会で手話通訳者として、かつてはろう学校の教員として勤務した経験をもつE氏は現在、企業の経営者であり、個人的にろう者の起業支援として開業資金を融資してきた。彼との自由会話から、一部のろう者はなんとか起業し少ないながらも安定的に返済してきているが、多くのろう者は開業にもこぎつけることができずに返済も滞っているという。また、開業を果たしたろう者のなかにも経営不振から返済の滞っている者がいるという語りを得た。このように、彼らの事業はろう者の経済活動参加を促進する上で重要な要素である一方、その経営基盤には脆弱性があり、その解消なくして彼らの活動はその社会的役割を果たすことは難しいといえよう。 近年では途上国の貧困削減において民間セクター、とくに零細事業のもつ役割の重要性が注目され、NGOをはじめとする国際機関が中心となって零細事業の経営者を対象に経営に関するセミナーやワークショップを開催することがあるが、当該調査においてそのような研修に参加したことのあると話す者はいなかった。KNADの職員たちも、ろう者の貧困削減にむけて経営に関する研修を開く必要性を認識しているものの、現状の財政では困難であるのとの見解だった。
以上のように、ろう者による起業、ろう者がろう者を雇用して相互に生計手段を獲得していくことは、ろう者の貧困削減のための方策の1つとしてだけではなく、彼らに対する社会の認識を転換する上でも重要であるが、そうした企業家たちが安定した経営基盤をつくりあげるためにも成人のろう者を対象とした筆記言語等の基礎教育、経営に関する知識の獲得といった教育策が必要といえる。これまで、途上国のろう者支援を目的とする外国の援助団体の活動はろう児への教育支援がその中心を占めていた。しかし、これまでの政府のろう教育政策に対する問題を直視するのであれば、同時に成人への教育機会の提供も必要な策といえるのではないだろうか。
2004年にアメリカ・シーアイランドにて開催されたG8首脳会合のなかで「強い民間セクターは、成長、雇用及び貧困削減のための機会の源である」と強調されたように(38)、近年、アフリカの経済成長と貧困削減においてアフリカで自然発生的に形成されてきた零細事業の「産業集積」構造への関心が高まっている。アフリカの民間セクターは“missing middle”とも称されるように、一部の大企業と大多数を占める零細企業によって形成され、その中間にあたる中小企業が少ないことが特徴として見受けられる。そして、東南アジアの開発の事例にも見られるように、そうした零細企業が活性化、中小企業へと成長し、広く雇用を創出していくメカニズムの形成が求められている(39)。 産業集積のもつメリットは、集積していることによって多くの顧客が集まること、情報共有が進むことで優れた事例を模倣しやすい環境ができあがること、労働者を雇用しやすいこと、企業間の分業が発達することなどが考えられている。しかし、そのメカニズムをアフリカへ適用するにあたっての課題として、アフリカの零細企業は産業集積構造を形成しているものの、集積内での競争による成長、規模の拡大という段階に至っていないために中小企業へと成長していかないといったものが挙げられている(40)。その要因としては、零細企業の多くが公設市場のような場所に集積し、自らの土地をもたないために規模の拡大が困難な状況にあること、経営者の多くが経営に必要な知識を習得していないといった問題がある。
こうした課題はナイロビのろう者たちが経営する零細事業にもみられたものである。高密度の公設市場での営業により店舗の規模を拡大することができず、また経営知識の不足と共同出資の弊害により採算性が低下していることは先に述べたが、さらに産業集積のメリットである活発な情報共有も、手話言語集団であるろう者たちにとっては聴者の事業との競争において大きなハンデを背負うことになってしまう。こうした問題に対して、すでに聴者を雇用することで回避しようとする取り組みもみられるが、聴者を戦略的に雇用している事例は稀であり、そうした戦略をとることが所得低下を招いていることも否めない。つまり、産業集積におけるろう者の問題について、経営知識の習得とそれに基づく経営基盤の強化なしに解決することはできないといえるだろう。
産業集積の活性化に向けた実証研究がJICA(国際協力機構)やFASID(国際開発高等教育機構)などを中心に進められており、実験としてこうした零細企業の経営者を対象に経営に関するトレーニングを実施して一定の効果と、零細企業の規模拡大が確認されている(41)。今後、こうした取り組みが進められるにあたっては、ろう者のような少数言語集団がもつ特殊性を含めた包括的実施が求められるだろう。そして、この取り組みのなかでろうの企業家たちが現在抱えている経営上の課題を克服し、事業を成長させることは産業集積の目的である貧困削減にとどまらず、ろう者という少数言語集団の尊厳と権利の確立へも大きく寄与することができるのである。
アフリカのろう社会の歴史を概観すると、多くのアフリカ諸国では政府が障害者政策をはじめ、ろう教育等のろう者の課題に関して無関心であったことがかえって、ろう者の活動の自由度を増したという側面をみることができる。とくにろう教育に関しては、先進諸国のろう者たちが口話主義による抑圧のなかで困難な状況にあるにも関わらず、アメリカのろうの宣教師の手話教育活動とともに手話教育がアフリカに広く普及していった(42)。現在も手話教育と口話教育の対立が続く国際社会にあって、ケニアでも1983年から手話教育の普及に国家として取り組んだことに、アフリカろう社会の先進性を垣間見ることができる。
しかし、この先進性はアフリカのろう者たちの単独の活動によって成就したものではなく、アメリカのろう者による影響によって手話教育の重要性が認知されたこと、ケニアで国家としてろう教育において手話教育を奨励してきたことにも手話教育の先進国であるデンマークによる支援がきっかけとなっている(43)。つまり、アフリカのろう者たちはその歴史のなかで国家の無関心を上手に逆手に取りながら、諸外国の先進性を適宜、学習し巧みに運動を展開しながら自らの社会へと適応させていったのである。
当該調査において、彼らの巧みさは経済活動においても見ることができた。厳しい経済状況による就職難とコミュニケーション問題等の要因によって聴者に比較して著しく就労機会の限られているなかで、少ない機会を得た者は数々の工夫と長い時間をかけて周囲の聴者へろう者への理解を喚起し、被雇用の機会を得られなかった者は自ら起業することで生計手段を獲得し、それを他のろう者へ雇用機会を提供することへと発展させてきた。そして現在、アフリカの貧困削減を目的とした零細事業の活性化が注目を浴びるようになり、先進諸国がそのための支援に動き始めている。こうした産業集積のメリットを活かす形ですでに戦略的に聴者を雇用している事例を観察すこともできた。
こうした巧みなろう社会の形成と活動の歴史と同時に、社会との関わりのなかでろう者は周辺化され、社会的に弱い立場に立たされてきた。伝統的な慣習として先天的聴覚障害を呪いによるものと考え、ろう社会への理解や彼らの自立の可能性を見出せない家族は、ろう児に教育を受けさせることに消極的になり、それはろう児の基礎学力の習得や将来の就労機会を損なうだけでなく、ろう社会への参加をも阻んできた。こうしたなかで、教育、就労において社会参加を果たし様々な問題を抱えながらも巧みな工夫と努力によって生計を立てているろう者たちの事例は、そのようなろう児の家族の意識を転換する上でも貴重なモデルとなり、その事例の蓄積は社会のろう者に対する態度を転換する上で重要なモデルとなり、ろう者の社会参加が促進されることで彼らの貧困削減へと貢献することが可能となるだろう。
かつて医療モデルによってろう者の問題を捉えようと試みられていた時代、聴者はつねに如何にしてろう者を健聴の社会へと復帰させようかと考えてきた。しかし、当該調査の事例からもわかるように、社会に広く認知されずとも、ろう者たちは各々の方法で社会参加を果たしてきたのである。それは彼らの社会参加が“復帰”でないことの証明である。疫学的にろう者は1000人に1人といわれている。今、社会の大多数を占める聴者に求められるのはろう者が社会復帰するための方策を考えるのではなく、彼らの工夫に学び、ろう者という少数言語集団への理解が不足したままに形成してきてしまった社会を合理的配慮の下に再構築することではないだろうか。
【著書】
【資料】
【インターネット】
註
(1) 森壮也『障害と開発』 > 本文へ
(2) 「Resolution adopted by the General Assembly[on the report of the Third Committee (A/62/432)]」2008 > 本文へ
(3) 森壮也『障害と開発』 > 本文へ
(4) 松波めぐみ「障害学入門・本編(2003)」 『みちくさ20号』 > 本文へ
(5) 森壮也『障害と開発』 > 本文へ
(6) 森壮也『障害と開発』 > 本文へ
(7) 森壮也『途上国障害者の貧困削減』 > 本文へ
(8) 亀井伸孝『アフリカのろう者と手話の歴史』 > 本文へ
(9) 「KENYA CENSUS 2009」 > 本文へ
(10) 日本国外務省 HP「各国・地域情報」 > 本文へ
(11) JETRO(日本貿易振興機構)HP > 本文へ
(12) 「Kenya Constitution 2010」 > 本文へ
(13) 「KENYA CENSUS 2009」 > 本文へ
(14) 森壮也『途上国障害者の貧困削減』 > 本文へ
(15) 田口順子「ケニアの障害者事情」『ノーマライゼーション 障害者の福祉』1996 年8月号(16巻 通巻 181 号)77 頁〜79 頁 > 本文へ
(16) 木村晴美・市田泰弘「ろう文化宣言」 『現代思想1996』ろう文化 > 本文へ
(17) 亀井伸孝『アフリカの手話とろう者の歴史』 > 本文へ
(18) 『Ethnologue2010』 > 本文へ
(19) 古川優貴『「一言語・一共同体」を超えて』 > 本文へ
(20) WFD(世界ろう連盟)HP > 本文へ(21) 古川優貴『「一言語・一共同体」を超えて』 > 本文へ
(22) 森壮也、宮本律子、ニクソン・カキリ「ケニア手話の言語構造分析序論(2010)」 > 本文へ
(23) 「万人のための教育世界宣言」 > 本文へ
(24) 宮本律子「東アフリカ 3 カ国(ウガンダ・ケニア・タンザニア)のろうコミュニティと手話教育(2008)」 > 本文へ
(25) 古川優貴『「一言語・一共同体」を超えて』 > 本文へ
(26) 宮本律子「人間開発のための手話研究」 > 本文へ
(27) 「CIA The World Factbook」 > 本文へ
(28) 厚生労働省 HP「平成 21 年度 6 月 1 日現在の障害者の雇用状況について」 > 本文へ
(29) 「受験中心主義の学校教育」澤村信英 > 本文へ
(30) 「CIA The World Factbook」 > 本文へ
(31) 森壮也『途上国障害者の貧困削減』 > 本文へ
(32) 宮本律子「東アフリカ 3 カ国(ウガンダ・ケニア・タンザニア)のろうコミュニティと手話教育(2008)」 > 本文へ
(33) 「KENYA CENSUS 2009」 > 本文へ
(34) 森壮也「Socio-Economic Survey of Persons with Disabilities」 > 本文へ
(35) 「CIA World Factbook」 > 本文へ
(36) 森壮也『途上国障害者の貧困削減』 > 本文へ
(37) 川島聡・長瀬修 仮訳(2008) 「障害のある人の権利に関する条約 仮訳」第21条 > 本文へ
(38) 「G8 行動計画:企業家能力の貧困削減への適用」 > 本文へ
(39) 「アフリカの産業集積と零細・小規模企業の成長」 > 本文へ
(40) 「アフリカ産業集積の実証研究」 > 本文へ
(41) 「アフリカの産業集積と零細・小規模企業の成長」 > 本文へ
(42) 亀井伸孝『アフリカのろう者と手話の歴史』 > 本文へ
(43) 古川優貴『「一言語・一共同体」を超えて』 > 本文へ