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エチオピア、ケニア調査
25年目の検証『飢え』『援助』『エイズ』
アフリカ日本協議会代表・立命館大学 衣笠総合研究機構教授林 達雄


調査概要 2009年11月
報告会 2010年1月13日 恵泉女学園大学1月14日 明治学院大学1月28日 足立区エル・ソフィア

はじめに

いま青ナイル川の支流を形成する大峡谷を見おろし、地平線のかなたにアムハラ州の州都を望んでいる。グランドキャニオンのような壮大な風景である。この先のない最果ての地域である。

干ばつが来るたびに実に多くの人が命を失った。アマルティア・センの本『貧困と飢饉』にも1974年の飢饉の際の記載がある。私自身も1984年〜85年の飢饉に立ち会った。「どっから来たのか?」とたずねると、弱りはてた被災者たちは答える「コレブからだ。」「何時間かけて歩いてきたのか?」「一週間。」欧米の団体の多くは自分たちが活動しやすい幹線道路沿いで救援活動を行っていた。私たちは自分たちの都合で活動地を選ぶつもりはなかった。被災者にとって、少しでも近い地点、車両が入れるぎりぎりの地点を選んで活動をはじめた。それでも、最悪の被災地コレブからは3日3晩歩かねばならなかった。体力の残った者だけしかたどり着けなかっただろう。私たちの仮設病院で亡くなった者だけでも、500人以上の人が共同墓地に葬られた。

あれから25年、何回もの干ばつがエチオピアを襲った。エイズ、マラリア、結核という感染症がおいうちをかけるように辺境を襲った。アフリカの政府の多くは周辺地域の面倒をあまり見ない。都市での栄養失調や感染症には対応しても地方は置き去りにされやすい。今回、実際にこの最果ての地に来るまで、コレブは2つの災厄の被害を受けているに違いないと内心覚悟を決めていた。ところが幸運なことに私の心配は裏切られた。

ここに少女の写真がある。ちょうど今日は世界エイズデイなのでコレブの村でも催しがあった。その催しの後、私たちのあとをついてきた少女である。保健センターの看護師によると彼女はHIV陽性である。両親をエイズで失い、いまは親戚の家で養われている。彼女は毎日薬を飲むことができ、その結果彼女は生きながらえている。私は、このような辺境で「治療」が可能になっているは思っていなかった。いくつもの奇跡がつらなって、一年半前に治療が可能になり、彼女は今日ここに生きている。

第一にエチオピアという国家の努力、特にDecentralization(地方分権)の努力である。アフリカの普通の国々では国外への頭脳流出もあり、医療従事者、特に医者は不足している。医者がいなければ治療ができない。特に地方に医者が足りないために、地方での治療は困難である。ところがエチオピア政府はアフリカの普通の国とは異なっていた。「医者が足りないなら育てれば良い。」「地方にいなければ、地方に配置すればよい。」そう考え、それを実行に移した。郡レベルのヘルスセンターには医師に準ずる、ヘルスオフィサーを配置した。県には検査(CD4)の機械が設置され、ヘルスオフィサーは検査の結果にしたがって、治療を始めるかどうか決定できる。世界でもっとも貧しい田舎のひとつに人材を投入したのだ。

もう一つの奇跡は世界基金である。エイズ・結核・マラリアという3大感染症に対して、しっかりとしたプロポーザルをだす国やNGOに対して、お金を出す仕組みが国際的に存在する。エチオピア政府がいくらやる気でもお金がなければできない。必要なところに必要なお金がまわる仕組みが存在していた。世界基金はHIV陽性者やNGOにも理事の席が与えられているユニークで民主的な機関である。

第3の奇跡はAJF(アフリカ日本協議会)を含めて、エイズ関係の「アドボカシー」を行う人やグループの存在である。2000年代の初頭、私は「世界の誰もにエイズ治療薬を」という運動に加わり、一定の役割を果たした。その後はAJFとともに世界基金等に関するアドボカシーを行った。民主的な基金が存在してもそこにお金が入らなければ、子供の命を助けることはできない。日本政府が基金に対する拠出を滞りなく行なうようAJFは働きかけた。この少女がいまここに生きているという奇跡の一端は、彼女のような弱い立場にある人を断固として助けようという意思表明がこの世界には存在し、その一角にAJFという日本の団体の存在があった。アドボカシーというと、迂遠な行動のようにように感ずるかもしれないが、条件が整えば、遠いアフリカの生命をも助けうる。やりがいのある仕事なのだ。

1)エチオピアへ
私がなぜ20数年間、NGOで活動しているかというと、25年前の大飢饉に遭遇したからだ。だから干ばつ飢饉の報道には今でも敏感だ。1984年10月、BBCは衝撃的な映像を映しだし、世界を震撼させた。そして今回2009年10月。BBCは一週間続けてアフリカの干ばつを報道した。かつての死にゆく人々の写真を持ち出し、最悪の事態を予感させた。「放置すれば84、85年の再来であること」をにおわせた。

「エチオピアの今回の干ばつは84年ほどは悪くない。しかし、極度に憂うべき事態である。」と、オクスファム・オーストラリアは警告した。東アフリカ地域全体で、2300万人が干ばつの被害者である。WFP(世界食糧計画)はアピールを出している。NGOsや国連の警告に比べると、エチオピア政府のアピールは控えめだ。BBCの干ばつ報道をエチオピア政府は無視している。本当のところはどうなのだろうか? AJFの友人たちの意見を仰いだ。

少なくとも84年の飢饉と比較するのは間違っている。これが共通の意見だった。なぜなら政府は食料不足を放置していない。ひどい干ばつが来ても、「飢饉」までいたらせない対策を、つまり人を殺させない対策をエチオピア政府は講じている。しかし、この目で見るまでは納得ができない。そこでエチオピアに実際に見にゆくことにした。

2)アディスアベバにて
1.干ばつを迎え撃つ
11月18日にドバイ経由でアディスアベバに入り、最初の休日を迎えている。乾燥していて砂埃に悩まされる。ある種の風邪がはやっているという。この街は25年前とそれほど変わっていない。たしかにビルは増えた。しかし。ビルの麓には昔ながらのトタン屋根が並んでいる。道路もそうだ。立体交差が見られたと思うと、裏道は凸凹で土埃がひどい。修理のために2メートルも掘り返している、そんな道の脇にわがグローバルホテルはある。インターネットが自由に使えるはずなのに、必要なときに限ってつながらない。近くには炭を売る店があり、わがドライバー氏も買って帰る。壮大な教会や市庁舎や警察所があり、コーヒー屋や菓子屋が繁盛している表通りを一歩出るとそこには昔ながらの生活がある。旅の疲れのためか、2600メートルという標高のせいか、頭がかすれる。

林報告書画像 林報告書画像

かすれた頭で、到着早々にJICAの中村さんから言われた言葉を噛みしめる。この国は一握りの人たちの「農業に対する強い決意」でなりたっている。この国では、800万人もの人たちが慢性的な食料不足に陥っている。農民なのに食料が自給できない人々だ。森林を失い、土が流れさり、干ばつが来ればすぐに飢えに直面する人々。25年前の大干ばつに際して、100万人以上が命を失った、そうした人々である。私自身もかつて緊急救援を行い、墓掘り人夫をやとい、多くの人たちをみとった。その後、100年ほど復興支援を試みたが、エチオピア政府との関係がうまくいかず継続が困難であった、そんな地域に暮らす人々である。エチオピアでいまはっきりとした方針を決めている、一握りの人たちは、この800万の人たちを決して見捨てないことを決意したのである。生産的セイフティネットプログラム(PSNP)である。この800万人に対して、土木事業をしてもらう。土と水が流れるのを防止するテラスをつくる。つまり段々畑のようなものを作る仕事をしてもらう。あるいは道をつくる。それらの代償として、お金あるいは食料を配る。こうしたプロジェクトを始めてから今年が5年目である。おかげで栄養失調は見られても、死にいたることはない。慢性的な食料不足に陥った人々を明日へと連れてゆく、そうした決意をしたのである。土壌保全を行っても、そう簡単に生産性があがるわけではない。そうした批判にさらされながらも断固として続投である。そのうえに6万人の農業普及員の育成を行っている。5年かかっても10年かかっても「人を育てる」。育てた人を農村に登用する。これも信念がなければできないことだ。

エチオピアの飢えを考えたとき、ベースとなるのがこの800万人である。それに加えて毎年の政府アピールがあるのだ。たとえば、今年のアピールは620万人だが、食料不足に陥る総人口は1420万人となる。干ばつが来ても、それがひどい栄養失調や死に結びつかなければ、「良し」である。現政権は少なくとも、無策ではない。干ばつの最中に革命10周年記念の式典をおこなっていた前政権とは明らかに異なる。

いまの政府はWFPのことを「Food Aid Indutry(食料援助屋)」と呼ぶ。WFPはエチオピアにとって最大のドナーのひとつであるが決して媚を売らない。そうした姿勢を貫いている。NGOにとっても手ごわい国である(JVCもプロジェクトを10年やったが、エチオピア政府との対応で疲れ果てた)。もちろん国連やNGOにも言い分はある。これから彼らの意見を聞く。そして800万の人々が住む地域を直接見にゆく。

近年はもうひとつの問題が加算されている。食料の国際価格の高騰である。もともとあるインフレに加算される形でこの価格上昇がある。一時期はWFPの在庫も不足したといわれる。「飢え」を話題にするとき、誰しもが持ち出す、「Global Food Crisis」である。

2.11月24日 やっぱり飢えている? 
今朝、オクスファム英国のカベデ・モラ氏を訪ねた。人道プログラムの担当者である。彼いわく、ひどい栄養失調はすでに存在するのだ。それはアチコチに点在している。そして、干ばつの程度は84年、85年に匹敵しうるのだ。人口は増え、ひとりあたりが使える土地は3分の1ぐらいまで減っている。

エチオピアには少雨期(2月〜4月)と大雨期(7月〜9月)の2回の雨期がある。政府の発表した食料を必要としている人口620万人は少雨期作の結果を反映した数字であり、大雨期作の結果をふまえていない。大雨期作の結果をふまえた数字は12月末に発表される。しかし、それでは遅過ぎるかもしれない。84年、85年の干ばつも、政府発表が遅すぎたからあのような惨事となった。

3.『飢え』との接近、しかし84年とは異なる。
セイブ・ザ・チルドレン(SCF)UKというNGOが栄養失調児にたいして補助給食を行っている地域がある。そしてその名前のひとつが、私たちが訪問を予定している地域と重なる。私たちは飢えつつある地域に行くことになるのだ。その地の名前はアジバール、85年に私たちが緊急医療を行い、500名以上の人の死をみとり埋葬した土地である。

エチオピア全土の85パーセントの収穫を可能にするはずの大雨期が今年は遅く、また早く止んでしまった。そうした意味で十分な収穫が見込めないことは確かである。子供の栄養失調は北および南ウォロ、ソマリ、アファなどで報告されている。特にソマリとアファではコレラが見られる。コレラという表現はセンシティブなので急性水様性下痢といわなくてはならない。

今年の食料不足と栄養失調がひどいことは確かだ。しかし、84年とは次の点で異なっている。
(1)早期警報が働いている。25年前の干ばつの後、早期警報の必要性は多くの人や機関により語られ、当時人道問題研究会の代表であった緒方貞子氏もその重要性を訴えていた。
(2)政府の対応が全くことなる。早期警報だけではなく、慢性的な飢えに対して現実的な対応を行なっている。
(3)国連による協力
(4)道路が格段によくなり、被災地へのアクセスが可能になった。

予想の段階で実際に何が起こるのかはわからない。しかし、アマルティア・センは次のようなことを指摘している。メディアや野党は飢饉を未然に防ぐセーフティネットとして機能する。現在ではNGOもこうした役割をになうだろう。この点において、エチオピア政府は過敏過ぎる。信念をもって飢えを防ごうとしている政府である。野党やメディア、NGOの言葉にも聞く耳を持ちつつ、確固たる姿勢を貫いてほしい。

首都のアディスアベバにいると干ばつや飢えの実感はほとんど感じられない。前回の飢饉の際も、首都の住民は農村で一体何が起きているのか全く知らなかった。紫色の花が咲き誇る美しい街だった。同じときに農村では飢饉がおきていた。今回はどうなのだろうか?私自身も含めて多くの関係者が、麻痺しているのか?

カベデ氏はかつてのウォロ州マクレダ郡でJVCが救援活動を行っていたことを知っていた。まずは行って見てこい。そう言われているようである。

84、85年の飢饉に対応したアーティスト集団の中心人物ボブ・ゲルドフがエチオピア入りしているそうだ。10月末には1週間続けてBBCは飢饉キャンペーンを行った。これらの動きがから騒ぎであることを祈っている。

3)フィールドトリップ
1.インジェラのかおり
窓を開けるとどこからともなく、インジェラの匂いがしてくる。正確には主食のインジェラに添えられるワットというシチュウの匂いである。ケベというバターと バルバレという調味料、肉や野菜からなる独特の匂い。お札や人やすべてのものにしみ込んだエチオピアの匂いだ。エチオピアを離れると懐かしくたまらない匂いである。一方、エチオピアの首都アディスアベバから地方に向かうと「インジェラ」漬けとなる。無論、まずくはない。さばきたての羊の肉は最高だ。しかし、毎日毎食となると耐えがたいところもある。

アディスアベバから北上すると、工事中の道路が続く。中国からの援助を受けたこの国は、国中が道路工事の真っ最中である。普段ならゾーンの中心地デシまで飛ばせば6時間で行く道を10時間もかけてしまった。途中リフトバレーの雄大な地形を望む。デシでは土曜日だというのに、エイズ関係者が待ってくれている。施設は暗く、入院したいとは思えない。しかし、中身は充実し、活気にみちている。HIV陽性者に対して、治療を始めるか否かを決定する機械が設置されている。ここは地方の基幹病院なのである。

2.アジバール
翌日早く、デシを出発してアジバールに向かう。途中の標高は高く、富士山の頂上を超える。かつての道は急峻で、両側の絶壁にトラックが落ちていた。アジバールは85年一年間JVCとSHAREというふたつのNGOが共同して緊急医療活動を行ったところである。今回同行してくれたかつてのスタッフ、イエットバラク氏とともにゼロから人を育て、ゼロから施設を作った。必要なモノのすべてを他団体から借り、必要な知識のすべてを他団体から習った。

アジバールにはいまだに当時の共同墓地が残されている。長い干ばつの終わりに雹が降ったのである。遅すぎた雨は人を生かすどころか人を殺す。翌日には遺体がトラック一杯積まれていた。

その墓地のとなりはいま、郡のヘルスセンターとなり、かつてのスタッフがナースとなっていた。おやじどうしの25年ぶりの抱擁である。ワールドビジョンがここを拠点に子供に対しての食料配給を行っていた。食料配給といっても、定期的に食料を配るのであって、余病を併発していないかぎり入院はさせない。入院は急性下痢症(コレラ)などの流行の危険があるため、入院はなるべくさせない。飢えはいまのところ地域全体を襲っているわけではない。散発的に栄養失調の子供が見え隠れする。

84、85年と今回との違いは、前回は政府が対応しようとしなかったのに対して,今回は予防措置をとってきた。それどころは迎え撃とうとしていると再三述べてきたが、「迎え撃とう」としているのは、政府ばかりではない。NGOもまた迎え撃とうとしているのだ、以前は問題がおきてから出かけてきていたのだが、いまはどっしりと腰をすえ、問題に対して先まわりして、プロジェクトをはじめている。このアジバール周辺だけでも3つのNGOが活動している。

3.マーシャ
アジバールで緊急医療救援を一年間やったあと、私たち(JVC)はエチオピアから撤退しなかった。アジバールからコレブに向けて道をつくりながら、前進した。その中ほどにある村で、「餓えない」村づくりを始めた。コレブに向けてのその時点での最前線であった。

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森林面積が2パーセントになった大地は地表を覆うものがない。そこに降る雨は容赦なく表土を押し流す。私たちはこの大地からこれ以上表土が流れ去らないために、土留めを作り、木の苗を植えた。作業をしてもらう代償として食料を配った(フード・フォア・ワーク)。また、料理教室や寸劇を通して、女性の生活を改善した。私たちは住民たちに新しい選択肢を示し、緑の大地を取り戻すことを促した。しかし、農民たちの意欲を高めたのだろうか?農民たちにとってみれば、単なる土木事業にすぎなかったのであろうか?

NGOの協議体で、いまでは350が加盟しているCRDAという団体がある。25年前にも存在し、私たちもJVCとして加盟していた。当時、エチオピアに殺到するドナーからお金や物資を受け取りながら、実際に活動するNGOをひき合わせる役割をになっていた。20年前のCRDAの話題は圧倒的にフード・フォア・ワークであった。いま政府が慢性的食料不全に対する対策と、土壌流出への対応として、現在行っている事業はは20年前、CRDAに属する数多くのNGOによって行なわれていた。

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4.若き指導者たち
昨晩は蚤に食われず安眠することができた。ときならぬ雨が降る。収穫を控えた時期なので心配である。

今日は週に一度、市がたつ日である。郡内のみならず周辺地域でもっとも大きな市である。主食のテフの値段は上昇していない。家畜の値段も下がっていない。つまり今日の市場を見るかぎり、「飢え」の兆候は見られない(正確には、定期的に調査する必要がある)。

今日は郡の長官と会う。左右に保健省の責任者と農業省の責任者を従えている。皆30歳前後の若さである。

保健省は様々な試みをHIVに対して行っている。数年前まで人々を脅かしていたというエイズはいまは笑顔で語れるようになっている。驚くべきことにこの遠隔地でも「治療」が行われているのだ。この町のヘルスセンターから120キロ離れた病院まで毎週血液検体が運ばれ、その結果次第では「治療」が始まる。このヘルスセンターにはヘルスオフィサーという医者に準じる医療従事者がいて、治療が可能なのだ。

コーヒーセレモニーを利用してカウンセリングをやっているのがエチオピアらしい。陽性者を抱える家族への支援や、孤児に対する仕事の供与も行っている。陽性者たちがガソリンや清涼飲料水を売っている。エチオピアは暗い土地柄だと思っていたが、そんなことはなく、陽性者も差別・スティグマにさらされることなく、普通に生きている。それどころか、陽性者自身が証言者となり自分の経験を皆に語ることにより、「予防」の役割を果たしている。問題は郡の中心地ではなく、周辺である。コレブを初めとする周辺の周辺こそが問題なのである。

農業省によるの支援PSNPを受けている人口は郡全体の3分の1、約5万人に上る。誰が支援の対象になるかは村人自身が選ぶ。そのうち6000人が「卒業」したという。「卒業」とは何かと聞くと、土壌流出からの卒業だという。しかし、土壌流出という悪夢からの「卒業」は容易ではない。そうかつての経験から感じた。

5.辺境の中の辺境
マーシャを過ぎると突然道が悪くなる。車が滑り落ちそうになり、恐怖が走る。辺境の地、コレブへの道である。斜面に農地があるため、土壌流出がひどい。それに加えて病虫害がある。家畜の病気もはやっている。マラリアや結核をはじめとする人間の病気も流行している。人々のHIVに対する理解も足りない。スーダン国境からの移民もいる。出稼ぎに出る人も多い。多数の異性間の性交も見られる。コレブの6つの村にも2人ずつの健康普及員が派遣され、エイズをはじめとする様々な病気と格闘している。

第3世界と先進国の境は、実は第3世界の都市と農村の間にあると感じてきた。この地域に当てはめてみると、マーシャとコレブの間に境がある。農業と環境の問題、医療の問題もまさに差が露骨にでている。しかし、「はじめに」で述べた、HIVの女の子を思い出して欲しい。「変わりうる」ということである。たとえばマーシャにおいて「エイズ」の問題は数年で劇変した。農業・環境・気候変動の問題も人と知恵が結集すれば「卒業」しうる。それに加えてNGOには経験とネットワークがある。この両者が緊張関係を持ちながら協力することができれば、辺境の問題も解決の可能性が見えてくる。

前政権の時代、政府の役人がやって来るとコレブの住民たちは、どこかに逃げていた。役人は税金を取りにくるか、兵役のために若者を連れてゆくかどちらかの目的でしか来なかったからだ。しかし、いまは違う。政府は地域の生存のためにやって来るのだ。健康普及員や農業普及員がよい例だ。彼らは辺境の村に思い出したように来るのではない。辺境の民とともに生きているのだ。

6.5つの飢えとエチオピア
エチオピアはいま、5種類の飢えにさらされている。
(1)土壌侵食による慢性的な食料不足である。これに対してはPSNP、あるいはMERETという形で、表土の流出を防ぐ活動をしてもらいつつ、その代償としてキャッシュまたは食料を配っている。これは干ばつがきても飢饉を未然に防ぐ行為である。エコ・セイフティネットとでも呼ぶべき行為である。800万人を対象にしたエチオピアの国家的事業であり、来年で最初の5年がおわる。
今回訪問したマクデラ郡は、このプログラムの真っただ中にある。全住民15万人のうち3分の1が対象となるが、誰が対象者となるかは住民自身が選ぶという。

(2)天候不順、気候変動による飢え
政府関係者は口をそろえて天候不順のことを「気候変動」と呼ぶ。エチオピアに首相のメレス氏がアフリカの代表として出席するコペンハーゲンの会議を意識しているのだろう。頻度を増す干ばつのことを「気候変動」と呼ぶのである。数年に一度だった干ばつが2年に一度となり、最近では数年に一度干ばつのない年がある。今年は、小雨期(2〜4月)に雨がふらず、政府は620万人分の食料が足りないことを国際社会にアピールした。しかし、それは控えめな数字であると、オクスファムなどのNGOが反論した。そしてその反論がほぼ正しいことが、今回のフィールドトリップでもあきらかになった。政府はこの11月から12月に収穫を迎える大雨期(7〜9月)の雨量の不足を加算していない。実際今年の大雨期は始まりが遅く、終わりが早かった。病虫害、家畜の病気なども起きている。そうすると1000万人が食料不足に陥ることとなる。
とくに子供に対しての食料配給センターが日増しに増えている。今回の訪問地でも2〜3か所のフィーディングセンターが始まりつつある。

(3)グローバル・フード・クライシス
07年、08年と国際的な食料および燃料価格の高騰の影響をエチオピアも真っ向から受けた。「グローバル・フード・クライシス」と呼ばれる現象で、都市を中心に大きな打撃を受け、今なおその余波が残っている。インフレも加わり、30%から50%の食料、価格の高騰があると人々は語る。

(4)家庭の中の子どもの飢え、慢性的な栄養失調、(UNICEF柴田さん);食料が足りないから必ずしも栄養失調になるわけではない。2才までの間に何を食べさせるかによってその後の成長が変わる。以下のようなことを母子手帳に書き留め、理解してもらうことが大切である。エチオピアの多くの家庭では大人が食事の8割を食べている。残ったものを子供が食べている。食料不足で一回の食事の量が減ったとき、大人から順に食べ物を減らすよう習慣を変えることが大切である。食料が最初に大人ではなく子供に与えられれば、「飢え」(栄養失調)は確実に減る。
(ア)母親の多忙
(イ)食べ物の質が悪い
(ウ)食事の回数が足りてない
(エ)感染症

(5)人口増加
人口増加の原因はCRDAの関係者によると以下のとおりである。
(ア)女性の教育の問題
(イ)早婚の風習
(ウ)乳児死亡率の高さ

■84、85年に匹敵する飢饉が来るのか?
12月の末から再びBBCによる報道が再開されている。しかし、大飢饉が再来する可能性はノーである。現場でかつての墓地をみてきたが、あの時は政府が十分な対応を取らなかった。その点で全く異なる。
NGOが警告するのは、(1)人々に分配させる土地はわずか0、5ヘクタールしかない。 (2)人口が増加 (3)干ばつの頻度が増している。(4)現実に栄養失調の頻度は高まりつつある。こうした理由に加え、政府の非常事態宣言が遅れていることを理由にしている。NGOによる警告はもっともである。

しかし、84年と決定的に違うのは、飢饉にたいする予防措置である。食料不足に陥りやすい800万人にすでに食料あるいはキャッシュを配っている。国民の飢えを全く顧みなかった政府(84年)と、飢えへの対策を国家事業としてやっている政府では結果が全く違ってくる。その一方で、今年の干ばつは干ばつの常連地域ではなく、南部諸州を中心で起きているめ、予防措置がゆきわたっていない。その意味である程度の「飢え」はおこりうる。しかし、「飢え」があるとしても、100万が死んだ25年前の大飢饉とは比較にならない。

■エチオピアからケニアへ、
農村の飢え、都市の飢え
ケニアの首都ナイロビは緑にあふれ、開放感がある。エチオピアはどこへ行っても道路工事ばかり、砂埃がきつい。また、標高が高いせいか、体に力がはいらない。アディスもビルが建ち始めているとはいえ、ナイロビに行くと別世界、街としての格が違う。しかし、この天国を装った外観こそが最悪なのだと、スラムで学校を運営する早川千晶さんはいう。汚いもの貧しい者たちが見えない。見えない中で死んでゆくのだ。エチオピアの飢えが周辺部、農村の飢えなら、ケニアの飢えはスラムの奥深くにある。

HIV陽性者の団体をひきいるアスンタ・ワグラさんは10年前「私たちはいま第3次世界大戦のなかにいる」と語った。闘いは終わったのだろうか?ノー。エイズの薬は手にはいっても食料が手に入らないために陽性者たちは死んでゆく。2年前からそんな状態は続いている。ナイロビからモンパサにいたる道筋で干ばつによって人も家畜も死んだ。ビクトリア湖周辺のエイズスポットでは、成人人口の3、4人に1人がHIVに感染し、干ばつと洪水の両方にやられ、孤児を抱え、キベラスラムに逃げ込んできている。

陽気で小奇麗な街は早川さんが言うように「最悪な状態」にあるかも知れない。国際的な不況の波はスラムにも押し寄せ、仕事がない。食料価格高騰の波により、食料価格は2年前と比べて3倍にもなり、ひっそりと人は死んでゆく。エチオピアは、とりたてた金持ちはいない。そのかわり町にスラムもない。無論、極貧層は町にも、農村にもいる。しかし、政府は極貧層と真剣に向かいあっている。

■エイズ 10年目の検証
陽性者の誰もに治療薬を。10年前、世界のあちこちで始まった運動がいま実りつつある。
25年前に飢饉にあった地域、コレブに住む母子感染の少女が薬をもらい、元気に生き延びていた。エチオピアは世界の貧しい国のひとつである。そしてコレブはその貧しいエチオピアのなかで最も貧しい地域である。エチオピアでのエイズ対策は劇的な進展があると国連は報告していた。しかし、世界で最も貧しい村においてまさか、薬が配られようとは思ってもいなかった。

地域の努力は目をみはるほどである。特に地方で活動する医療従事者の育成、人材をつくるところに力をいれたことは特筆すべきことだ。しかし、「世界の誰も治療薬を」という10年前の世界規模の運動が実らなければ少女はいま生きていない。その運動は南アフリアのザッキー・アハマットや国境なき医師団が中心となった活動であり、アフリカの感染者NGOs、たとえばケニアのアスンタ・ワグラさんたちも参加した運動だ。そして日本の私たちも沖縄国際感染症会議に参加して「治療」を訴えた。

それらの総体としての行動がなければ、「治療」という革命は起こらなかった。それだけではない。その後の国際機関の活発な動きがなければ、この少女は生きていない。いくつもの運動と努力が連なって、10年後の微笑みがある。世界基金に対するアドボカシーもその一つだ。私たちが何もしなければ、少なくとも「日本」が拠出すべき額のお金は入らなかったかもしれないない。そうした意味で小さいながらもスクラムを組んでやってきた日本の国際エイズ運動に誇りを感ずる。特にAJFを誇らしく思う。

アドボカシーとは、生身の一人の人間を生かすものなのである。

10年たち、エイズによる年間死亡者の数は300万人だったのが、200万にまで下がった。この変化に驚くべきことである。しかしながら、スラムを含む都市部では治療が始まっても、農村では難しいとおもってきた。世界の中でも貧しいこの地域では不可能であるとあきらめてきた。しかし、その思い込みは、私の自分勝手なものだった。中央および地方の努力、人材の育成、世界基金、アクティビストなどの一環したラインができるとき奇跡はおきる。この少女が生き延びるということは地方分権のおこした奇跡であり。同時にアドボカシーのおこした奇跡である。

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■ケニアにて エイズの薬が効きにくくなる。
7、8年前と比べて、HIVで亡くなる人の数は減った。いま問題なのはデフォルターの出現である。薬を飲み始めたが、途中で薬を取りに来なくなる。飲むのをやめてしまう陽性者の数が増えている。飲んだり、やめたりしていると、薬剤耐性ができ、薬が効きにくくなる。

今日訪ねたCentral州Thikaでも20%。結核では30%.特に結核はひとりからスラム全体に広がってしまう可能性がある。

Namza州の場合はさらにひどく、薬を飲み始めた人の50%が、どこにいるのかわからなくなるという。エイズ協力隊員の下元愛さんが報告してくれた。Defoulterになってしまう原因は
(1)交通費がねん出できない。
(2)病院に通うことで後ろ指をさされる。(Stigma)
(3)元気になったから。
(4)飲み始めて副作用に強さにびっくり。
(5)治療費が無料なのでありがたみがない。

結核とも共通するこのDefaulterの問題は最初のカウンセリングの強化。患者は薬を飲みたがらなくて当然なのだという認識にたちかえること、治療者のほうが陽性者に接近すべきこと、などこれまでの結核における経験を役立てるべきだろう。残念なことだが、来るべきときが来たのである。

以下の方々のお世話になりました。

エチオピア・コンタクト
出発前
・白鳥清志(アフリカ理解プロジェクト)
・西真如(京都大学研究員)

現地にて
・渡辺英樹(JICA,AJF) 
・中村貴弘(JICA)「農業と人材育成に対する並々ならぬ決意」
・Abebe Bwkele(CRDA)
・Melk Hailu(WCDO;Women and Chldren Development Org)
・Miyuki Koga (WFP)
・Desto Kebede(FAGE;Family Guidace Association)
・Kebede Molla(Oxfam GB)
・Teshome (Save the Chilen Fund UK)
・Kyoko Okamura Shibata(UNICEF)
・Dese hospital
・Masha wareda administration
・Masha Misitery of Agariculture
・Mash Health center
・Koreb Health Center
・Debrazait Health Center
・Ajibar Health Center
・Ajibarの墓地

コンタクト・パーソン ケニア
・12月11日Ms.Asunta Wagura(KENWA)
・12月11日 早川千晶
・12月12日 神戸俊平
・12月13日 キベラスラム、早川さんの学校
・12月14日 協力隊エイズ隊員、下元愛
・12月15日 Children’s home Mugandas(KENWA)
・12月15日 Thika Droping Center



UP:20100201 REV:20100425
林 達雄  ◇アフリカ日本協議会  ◇アフリカ
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