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「戦後日本における盲教育の変容過程――システム維持をめぐる言説構成に注目して」

佐藤 貴宣 2009 『関西教育学会研究紀要』9: 18-31.

last update: 20120912

  1 はじめに

 本稿の目的は戦後日本における盲教育システムの変容過程を1970年代の状況を中心に考察することにある。その際、盲教育の動向に影響を与え、それを規定し変化させてきた歴史的・社会的諸現実を特定化し、その状況に対して教育実践システムとしての盲教育がいかに応答してきたのかをシステム存続をめぐる言説構成のあり方に注目し明らかにしていく。
 日本における近代公教育の創始とされるのは、1872年の学制である。その第21章には「小学校」と並んで障害児のための学校として「廃人学校」が規定されていた。だが当初その実施を見ることはなく、実際に障害児教育が開始されるのは1878年の京都府立盲唖院および1880年の東京の楽善会訓盲院の開設以降であった。その後、明治20年前後から盲・聾教育の義務制化、公教育化、国庫補助の配分などを要求し民間運動が高揚する。当時の文部省もこの状況に積極的に対応し、大正12年には「盲学校及び聾唖学校令」が公布され、ここに盲・聾教育の義務化・公教育化が実現を見る。「盲学校及び聾唖学校令」においては、盲学校と聾唖学校の分立が規定され、「盲人、聾唖者に普通教育を施し、その生活に須要な特殊な知識・技能を授けること」を教育目的として位置づけた(文部省 1981)。すなわち、学制の国民皆学の理念のもと、小学校、中学校に準じたカリキュラムを教育方法上の特別な配慮を用いて盲唖児に教授すると同時に、個人の職業的自立を可能にするための「特殊な知識・技能を授ける」ことを盲・聾教育の第一義的な課題としたのである。盲教育の場合、その理念は点字や触覚教材を用いる教育方法、ならびに鍼灸マッサージを中心とする職業技術教育として具現化する。
 こうした経緯を経て戦前に確立した障害児教育における教育思想や教育制度、方法論は教育改革を通過した戦後の障害児教育パラダイムにおいても基本的に継承され、全面展開されていく(堀 1997)。このことは、学制における義務教育制度の創設以来、非障害児の教育と障害のある子供の教育との間に「分業体制」が確立し、障害児のための学校教育が一貫して非障害児の教育から切断され、別トラックにおいて行われてきたことを意味する。加えて、障害児教育内部においても、盲学校及聾唖学校令の公布により、盲教育・聾教育がそれぞれ独立した教育システムとして制度化されて以来、相互に有機的連関を欠いたまま戦後の新学制を踏まえた盲・聾学校の義務制実施以降もなお長期にわたり併存してきた。障害児教育内部のこうした状況に変化が生じるのは養護学校の義務制に向けた動きが活発化する1970年前後のことである。

  2 先行研究と分析枠組み

 ところで戦前の障害児教育史における先行研究については、義務教育令の制定過程を対象とする制度史的研究や知的障害児の治療教育に関する歴史的研究に加え、盲教育史研究の文脈においても一定の蓄積を見て取ることができる。例えば、中野善達と加藤昭は明治前期の障害児教育成立の経過を欧米特殊教育との接触・交渉・導入の過程として把握し、盲教育との関連において詳細な分析を行っているし(中野・加藤 1967)、加藤康昭は障害者教育をめぐる民間運動と政策策定プロセスとの関係を、社会経済的条件を視野に修めながら盲教育を中心に考察している(加藤 1972)。また、資本主義的生産関係、とりわけ産業化に伴う工場労働が疾病、栄養不良に起因する失明等の障害の急増を結果し、盲教育の発展がそうした状況へのリハビリテーション的対応の一環であったことを明らかにした研究(芦田 1982)、あるいは昭和戦前期における盲教育界の職業教育要求・進路保障についてその特質を実証的に解明する取り組み(平田・久松 2003)もなされている。さらに、西田美昭は、国家のために「無用を転じて有用となす」という障害児教育観が、社会のために「有用」とはなり得ないと見なされた他の重度障害児の教育を著しく阻害する一方で明治期の盲・聾教育の形成と発展に大きく寄与したことを指摘している(西田 1985)。これら一連の調査研究により戦前・戦中を通じた盲教育近代史の全体的構図は、あらかた明らかにされたと言ってもよいだろう。
 その一方で、戦後盲教育に関する研究領域に目を転じてみると、社会科学的な視座やアプローチに立脚する研究は極端に立ち遅れている。史的背景からの考察を伴わない制度史や通史の編纂が行政の手により盛んに行われ、個別の学校からも記念誌などが豊富に公刊されてはいるものの、盲教育の現代史を対象とする学術研究はほとんど手つかずの状態にある(1)。盲教育史におけるこうした研究状況を念頭におきながら、本稿では1970年代を契機として障害児教育の領域に生じる変化の諸相を描出し、それに対する盲教育界の応答戦略を、盲教育シーンに現れる諸言説を手がかりとしながら明らかにしていく。こうした研究方針において諸事象の分析・記述を進めていくにあたり、本稿では盲学校教員の全国的な研究組織である「全日本盲学校教育研究大会」の機関誌『盲教育』(継続後誌『視覚障害教育』)の1971年から1980年までのバックナンバー(第34号〜第48号)並びに視覚障害者の福祉や教育に関する総合研究誌である『新時代』(継続後誌『視覚障害』)の1971年から1980年までのバックナンバー(第13号〜第50号)及び関連文献を基礎資料として採用する。この時期、養護学校の義務性に向けた動きと統合教育の進展を背景として、障害児教育の対象範囲が大幅に拡大し、それに応じて盲教育の対象もまた質・量ともに変化しはじめる。そうした事態は盲教育システムの本質を規定してきた伝統的教育実践のあり方に大きな影響を与え、個々の盲学校組織の活動方針に対しても一定の修正を求めるものとなった。こうした状況において盲教育をめぐる認識や実践がいかなる言説戦略によって構成されてきたのかを明らかにしたい。
 こうした作業を行っていく上で参考になるのが、高知県の「福祉教員制度」に関する分析において、倉石一郎(2005)が提起する「教育にとっての<外部>」という概念である。高知県の「福祉教員制度」とは戦後初期の同和教育の中で不就学問題対策を目的として確立した同県に固有の教員制度である。倉石によると、福祉教員たちは、「長欠」や「不就学問題」といった差別や貧困と深く結びついた教育の外部にある社会事象に立ち向かうとき、それに「何らかの手を加えて構成しなおすこと」を通じてそれを教育による取り扱いの可能な事象へと変換していくのだという。この着想は倉石も認めているようにニクラス・ルーマンのシステム論的社会学からの示唆による。ルーマンによると、社会システムには「意味のシステム(semantik)」が備わっており、各々のシステムはそれを用いて自らの環境としての他のシステムを解釈し意味付与することでその複雑性を縮減し、自他の間に境界を形成する。それにより自己を不断に再生産していこうとする。教育実践というシステムにも自らの環境を構成し自他の境界を明確化することによりシステム存続をはかろうとする営みが伴う(Luhmann,N.2002=2004)。このような社会システム理論の理論骨子を念頭に倉石は、教育実践システムのエージェントである福祉教員たちが外部の事象に働きかけ、それを自らの教育実践にとって理解可能で対処可能な環境へと構成していく営為を叙述している。
 これと同様に70年代の盲教育システムもまた、自己の外部である他の教育下位領域を自らの教育実践にとってレリバントで制御可能な環境へと編成し、自他の境界を明確化することを通じて自らの存在を正当化ないしは合理化しようと企図していた。すなわち、当時、統合教育や小学校内弱視学級という形態において、普通教育という外部で視覚障害児を対象として行われ始めていた教育を「不適切」かつ「不自然」な教育形態として、あるいは援助や介入を必要とする不十分な教育として表象/構成することを通じて、それら外部を盲教育による取り扱いの可能な領域へと変換する試みがなされていたのである。そうした営為はのちに見るように「盲学校の独自性」の喪失への危機意識を背景とする盲教育システムの存立を賭けたサバイバルのための営みに他ならなかった。まず70年代の盲教育システムの動向を考察していく前提として、60年代末までの障害児教育をめぐる制度的状況について概観しておこう。

  3 養護学校義務化以前

 戦後日本の特殊教育制度は1948年に公布される「盲学校及び聾学校の就学義務及び設置義務に関する政令」をもって始まる。これにより盲学校教育は聾教育と共に学年進行で義務制へと移行し、ここに分離別学を基本とする戦後の公教育体制が確立する。当初分離教育としての障害児教育の拡充・振興にいち早く取り組みそれを先導したのは聾唖学校職員聯盟や盲学校教員組合、あるいは盲・聾学校校長会など盲・聾教育現場の運動諸団体であった。これら民間運動諸団体の要請に対して文部行政サイドも柔軟に応答するという関係において障害児教育に対する政府や自治体の施策が打ち出され、分離教育としての盲学校・聾学校教育が制度化されていくのである(荒川 1992)。
 義務制の実施により、盲学校は増設され、就学者数も徐々に増加していく。それでも、就学率は1950年時点で盲・聾あわせて50%にさえ満たなかった。そのため文部省は1953年に「教育上特別な取り扱いを要する児童生徒の判別基準」を公表し、「盲学校・ろう学校及び養護学校への就学奨励に関する法律」(1954年)を交付するなどして就学率の向上に努めた。また、同省は1964年から全国の公立盲学校に5カ年計画で弱視学級の整備を進め、70年代には普通学校においても弱視学級の開設が推奨されるようになる。これを受け、各地の小中学校において弱視児童を対象とする教室が相次いで設置されたのであった(谷合 2005)。こうした特殊教育の整備拡充政策並びに「適正就学」に向けた措置や指導を背景として盲学校の就学率は上昇し、1959年には在籍者数がピークを迎え、実数で10,264名を数える(文部省 1978: 191)。しかしながら、図1に示したように、この年を頂点としてその後在籍者数は漸次減少を続け、それに応じて重複障害児の割合が16%から27%へと相対的に上昇していく。
図1 盲学校在籍者数、ならびに、重複障害の割合の推移
  図1 盲学校在籍者数、ならびに、重複障害の割合の推移 (柿澤・香川・鳥山ほか 2002: 165)
 一方、養護学校の義務制は、戦後の混乱期の中で見送られ、盲・聾以外の重度障害児や障害を併せ持つ重複障害児たちは戦後のおよそ30年の間、就学猶予、あるいは就学免除の対象とされ、在宅のまま放置されるか、もしくは児童福祉法に定められる各種施設に収容され、「療育」を受けるという状態に置かれていた(2)。このような状況のもとで1960年代の終わりごろから障害児の家族や日本教職員組合に集った教員などを中心として養護学校の義務制を求める運動が高揚し、1971年には中央教育審議会が養護学校における義務教育の実施を提言する。この答申を受け文部省は1973年に養護学校義務制実施の予告政令を公布し、1979年に養護学校は義務制へと移行したのである(3)。これをもって戦後公教育制度としての障害児教育体制は一応の確立をみる。つまり、当初、盲教育と、聾教育という二つのサブセクターによって構成されていた戦後公教育としての障害児教育システムは、その傘下に新たに成立した養護学校セクターを加えることで、より鮮明な輪郭を得るのである。

  4 重複障害児への対応

 こうして79年度に養護学校は義務化されるわけだが、その実現に向けた60年代後半の運動の中で発達保障の理念と結びついた「権利としての障害児教育」論が展開されていく。それまで「教育不可能」と見なされ、学校教育の埒外に置かれていた重度障害児や「盲精薄」「聾精薄」と呼ばれた重複障害児への教育実践が各地で行われるようになるのである(荒川 2003)。そして、1970年代には盲教育界において、在学者の障害の重度重複化・多様化をめぐる議論が興隆し、彼らへの対応は、全国の盲学校に共通の課題として広く認知されるようになる。すなわち、当時、就学猶予や就学免除という形で事実上就学の機会から阻害されていた障害児の内、視覚障害を併せ持つ重複障害児が教育へのアクセスを求めて盲学校への就学を希望するようになった結果、彼らへの対応が新たな課題として顕在化したのである。加えて、養護学校の義務制実施という事態はこの問題を巡る盲学校関係者の間でのさらなる議論を喚起した。養護学校の義務制と盲教育の関係を議論するなかで国立特殊教育総合研究所の盲教育研究室長であった木塚泰弘は「54年のこと〈養護学校の義務化〉とからんで、他の精神薄弱や肢体不自由の養護学校の生徒が急激にふえ過密状態になれば、当然盲をあわせもっていれば、盲学校へということになりますからね」(木塚 1976: 9)と語っている。すなわち、義務制が実施されることにより、養護学校に修学する障害児が急激に増加し、従来知的障害や肢体障害を併せ持つという理由から各種の養護学校に在学を認められていた視覚障害児がそれらの養護学校から押し出され、盲学校へと大量に流入することが懸念されたのである。
 それでは、こうした事態を当時の盲学校現場の教師たちはどのように理解していたのであろうか。例えば、昭和50年代の盲教育を展望する座談会において当時東京都立文京盲学校の教諭であった直居鉄は「盲学校の高等部に単に視覚障害だけでない生徒が入ってくるようになったということで、本当の盲教育ということから考えてこれまでの盲学校がそのままでやってゆけるのか、あるいはやってゆくべきなのかということなのだと思います」(直居 1975: 4)と戸惑いながら語っていた。また、70年代後期に重複障害児を抱えるいくつかの盲学校の現状を丹念に取材してきた藤田真一は「ある盲学校のベテラン校長」の以下のような発言に言及している。「盲学校の養護学校化です。先生と生徒が一対一でないと世話しきれない子が、どんどんふえてきました。うちの子の半数は、将来も職業的自立は望めません」(藤田 1982: 322)。教師たちもまた、「養護学校化がこれ以上すすんでは、盲教育の独自性をたもつこともできなくなります」(同上: 324)と述べていた。このように、盲学校における重複障害児の在籍率の上昇は「盲学校の養護学校化」という事態を招来すると考えられており、それは盲学校の独自性を損ないかねない重大な危機として認識されていたのである。それでは、具体的に盲学校の独自性を奪いかねない「盲学校の養護学校化」とはいかなる事態を意味していたのであろうか。
 そもそも、知的障害者や重複障害者に対しては、学校教育法施行規則、ならびに学習指導要領における特例規定に基づき、「教科領域を合わせた指導」という教育課程を編成することが可能とされてきた(4)。そして、盲重複障害児もまたこの「教科領域を合わせた指導」によって教育することが適切であるとされる子ども達であり、盲学校に在籍する重複障害児もまたそのほとんどが「教科領域を合わせた指導」を中心とするカリキュラムを受講する状況にある(全国盲学校長会 2000)。だがそれは、必ずしも盲学校に固有の教育課程として位置づけられているわけではない。従来の盲学校が提供してきた教育サービスはその主要な顧客として視覚の単一障害児を想定してきた。知的障害や肢体障害を伴わない視覚障害の単一障害児童・生徒を対象とし、点字や視覚補助具、触覚教材などを用いて「普通学校に準ずる教育」を行うと共に「障害に基づく種々の困難を改善・克服」するための知識や技能を授けることを目的として三療(指圧・鍼・灸)等の職業訓練を行ってきたのである。むしろ教科や領域を合わせて「日常生活指導」や「生活単元学習」、あるいは「作業学習」といった形態のカリキュラムを編成し、重複障害児に対する教育指導の実践とノウハウを蓄積してきたのは本来的に養護学校セクターである。それゆえ、盲重複障害児を受け入れることは同時に、生活単元学習に象徴される養護学校の伝統的教育形態を盲学校に移入することを意味した。すなわち、「盲学校の養護学校化」とは、盲学校セクターにおける重複障害児の在籍率の上昇を通じて、そうした児童・生徒の教育に適したものとして養護学校で実践されてきたカリキュラムや教育方法、用いられてきた教材や教具、あるいはそれらを規定する認知構造や価値規範といった養護学校独自の学校文化が盲教育セクターへと浸透していく過程に他ならない。そのことにより盲学校独自の教育形態や教育実践を維持することが困難となり、職業的自立を一つの到達点とする既存の教育的価値が根底において掘り崩されてしまうことが危惧されたのである。
 確かに、生徒集団に占める盲重複障害児の割合は年々増加傾向にあり、彼等もまた、盲学校にとって軽視しがたい重要な顧客であることには相違ない。だが、彼等の存在は盲学校の内部に養護学校を象徴する教育課程の編成を要請するがゆえに、結果として盲学校と養護学校との境界を不分明にし、両者の間の整合性や機能分担を不明確にしかねない。その意味で、彼等は常に盲学校のアイデンティティを脅かしかねないアンビバレントな存在としてあったのである。

  5 地域校への接近戦略

 このような「盲教育の独自性」の喪失に対する懸念を背景として、1970年代以降、盲学校を地域に暮らす視覚障害者を支援するためのセンターへと再編すべきだという主張が何度となく繰り返される。閉鎖的性格から脱却し、地域に開放された盲学校を目指すべきである、と言われ、近隣の小・中学校との交流教育(5)や地域校に在学する弱視児への巡回指導(6)が精力的に行われたのである。つまり、組織的アイデンティティの存立基盤を危うくしかねない重度重複障害児の増加という事態に直面した当時の盲教育システムはこれらの活動を通じて、外部へと働きかけ、それを自らにとって有意味な環境へと構成することにより、自らの存在を合理化し、どうにか自己維持をはかろうとしていたのである。
 そのころ障害児教育界の外側では、インテグレーションやノーマライゼーションの思想を背景として、あるいは解放教育の文脈と連動する形で、統合教育を求める運動が高まりを見せていた。「共生共学」や「校区保障」といったスローガンを掲げ、障害児を地域の学校に就学させることを目標とする市民運動が近畿地方と関東地方を中心として同時多発的に勃興したのである。視覚障害児の教育にあっても、各地の小・中学校に相次いで弱視学級が設置され、在籍児童も増加傾向にあった。また、1975年には関東地方の小学校に5人の全盲児童が入学し、その後盲児統合教育の実践は1980年代を通じて中学・高校へと拡大し、全国へと波及していくことになる。それでは、こうした情勢において盲教育の実践者達は具体的にどのような論理を構成し、いかにして外部を自らにとって制御可能な環境へと編成し自らの実践を外部へと開いていこうとしたのであろうか。以下、典型的な言説戦略について見ていこう。
 当初、盲教育界では統合教育や弱視学級制度を批判し、それに代わるものとして自らの教育実践を位置づけ、その必要性、有効性を主張するという類の言説が優勢であった。特に、巡回指導並びに交流教育双方の実践において当時先導的な役割を果たしていた、大阪に所在する二つの盲学校(市立盲学校・府立盲学校)は統合教育慎重論の立場から熱心なキャンペーンを展開していた。まず、地域校に在学する弱視児童に対して巡回指導を試行的に実施していた大阪府立盲学校の浅野仁一郎は当時多くの小・中学校において推進されようとしていた弱視学級設置の取り組みについて「財政的にも児童の分布の状況からもおのずと限度があ」り、「府下の弱視児童の教育対策として効果的な方法であるとはいい難い」と述べ、「弱視教育の設備と経験を持ち、寄宿舎、弱視学級を有する、盲学校が弱視教育センターの機能を果たすべきだ」と強調していた。つまり当時の行政サイドが意図したように、普通校に弱視学級を設置し弱視児童を通常学級から摘出し、そこに集め一般的な教授法によって教育するだけでは十分でなく、弱視児童の視覚特性を踏まえた専門的な教育を行うことができる盲学校が弱視教育において中心的な役割を果たすことが望ましいと主張したのである。その上で、巡回指導を中心とした弱視系教育センターの方式は「小学校弱視学級構想よりも現実的であり効果を上げ得るのではないか」と結論している(浅野 1971 12-19)。また、大阪市立盲学校教諭の安岡良典は、「人的にも、施設面においても一般校の現状は必ずしも統合教育を実施するにふさわしい受け入れ態勢を整えているとはいえないであろう」と指摘した上で、専門の教員や十分な施設・設備をもった盲学校において教育しながら他方で普通校と交流してゆくというのが盲児の教育にとって自然の姿であると主張していた(安岡 1979: 5-22)。こうした言説編成を通じて盲教育の実践者達は外部で行われていた統合教育や弱視教育の限界性や非合理性を指摘し、それとの対比において自らを成立させることで自他の境界を明確化しようとした。そうした作業を通じて彼らは外部の教育領域における自己の実践を合理化ないしは正当化しようと企図していたのではないだろうか。
 加えて、統合教育を批判する文脈においては「犠牲のレトリック」とでも呼びうる道徳的な言説が多用されていた。例えば、福島県立福島盲学校の荒木榛一は、視覚障害児は「普通校にある時絶えず自己のハンディを意識させられ通しである」と述べる。「板書をはじめ、地図、グラフ、写真等の掲示、スライドや映画の上映、理科の実験等視覚を通して導入される手段に遭遇することで、『自分は見えないのだ』と痛感させられ、それがどれほど彼等のまだ、脆弱な心を傷つけるか計りしれないものがある」(荒木 1979: 182-183)という。すなわち、ここでは統合教育下にある視覚障害児は「絶えず自己のハンディを意識させられ」ることで「脆弱な心」を傷つけられているとする推論が提出されている。ホルスタインとミラー(Holstein and Miller, 1990)によると、子どもというカテゴリーは未発達で無垢な存在というイメージと強固に結びつく効果的な犠牲者累計である。ここでの推論活動の前提にもそのように未発達で脆弱な心をもつ子ども象がある。そうした前提に基づき、視覚教材を中心として編成される普通校のカリキュラムの犠牲者として「普通学級に学ぶ視覚障害児」を表象する言説実践が行われているといえるだろう。そうした「犠牲者」カテゴリーの構築過程を通じて、普通校で盲児に適切な指導を実施することの困難性を強調し、盲学校教育の正当性を弁証しようとしていたのである
 さらに、「条件」に言及することで現時点での統合教育に留保をつけ、交流教育の実践を保全し、それを基点としながら、外部の教育フィールドへと自らを定位しようとする言説も見られた。以下はその好例である。静岡県立盲学校長の三須淳は「統合教育が可能な場があれば、それをも否定するものではない」としながらも、「一般論として言えば、条件が整わないかぎり、現状では人的にも、施設面においても無理が多いと思う」と述べ、「現在では統合教育より、視覚障害者の場合は、盲学校で教育を受けさせ、普通校との交流教育等を盛んにすることにより、従来の盲教育の欠点を補足することがよい」と語っている(三須 1979)。すなわち、将来的に「条件」が整えば統合教育は可能であるが、現状では制度的にも施設・設備の面でも未整備な状況にあり、時期尚早である。従って、視覚障害児の場合、当面盲学校に籍を置き、近隣の普通校との間で交流教育を盛んにすることが望ましい。そこから盲学校教育の弊害として指摘される経験不足や社会性の欠如などの問題に対応すべきだと主張していたのである。
 その他、上記のように既存の実践を駆逐し、自らがそれに取って代わることを意図するような言説とは異なり、当時の盲教育界にあって統合教育を肯定しそれを支持するような言説も存在していた。千葉県立盲学校の山岸信義は「インテグレーションが論議されている教育には、従来の障害児教育が分離教育であったことへの批判がある」と述べ、「豊かな人格形成を目指すところに統合教育の第1の意義がある」とし、「現実には優秀な子ども[のみが普通校に学んでいる状態]であるが、理想的には全ての子どもが[普通校において教育を受けることが]のぞましい」と主張していた(山岸 1976: 94-101)。だが、こうした一見リベラルな言説であっても、その底流には普通校における視覚障害児教育の足りざるところを発見し、それを補完する役割を盲学校が担うべきだとする主張があった。例えば、札幌盲学校の岡田吉生は統合教育に賛意を示しながら、盲学校から高校や中学へ入学・転入した生徒への「アフターサービス」の必要性を強調する。つまり、「普通児と比して、劣っている面、問題点など、盲学校においてやっておかねばならない役割を見出し、本人の状況、学校側の体制ともあわせて」、「施設、教具の不十分」を補い、「技術家庭、美術、体育等の指導面での配慮」を行うよう、「可能な限り、必要に応じてアフターサービスにつとめる」ことが盲学校の役割であると主張するのである(岡田 1974: 66-68)。こうした言説からは、外部の教育領域における視覚障害児の教育を承認し、それを補完する役割を自らに割り当てることで、自らにとって応答/介入可能な環境として統合教育の実践を再構成しようとする戦略的意図を読み取ることができるだろう。
 ここまでにおいて確認したように、従来制度的な安定性を保ってきた盲教育システムであったが、70年代には対象児童の現象と障害の重度重複化が進行し、それを背景として教育のリストラクチャーが論じられ新たに自らの専門分野を拡充し、実践領域を拡大することの必要性が認識されるようになる。だが、実際に外部へと実践領域を拡大していこうとするとき、他の教育下位領域との間に不断の接触が生じ、教育実践の正当性をめぐるせめぎ合いに不可避に巻き込まれていく。このような次第で、70年代の盲教育の実践史はまさに外部との対峙の歴史であり、その外部との間にいかにして折り合いをつけ、盲教育実践システムにとって制御可能な環境を構成していくかが当時の教育実践者にとっての重大な関心事項となっていた。
 その後、1980年代後半以降、全盲児の統合教育の実践事例は大幅な増加をみせる。そうした状況に呼応する形で、地域の学校に在学する盲児を積極的に支援する盲学校も急増する(鳥山 1998)。また、筑波大学付属盲学校では1985年度から「視覚障害児教育センター」の志向という位置づけにおいて地域の小学校に就学した全盲児童に対する巡回指導を開始する(牟田口ほか 1995)。従来統合教育に関して概ね否定的な姿勢を見せていた盲学校関係者の間からも、現状維持ではなく統合教育を含め、教育体制そのものの再編成に着手すべき時期にきている(五十嵐 1986)との認識が示され、統合教育との関連において、視覚の単一障害児を対象とする教育方法の再構築の必要性が提起されるようになるのである。そして、1996年には盲学校教育の全国大会である全日本盲学校教育研究大会において、筑波大学付属盲学校から、今後盲学校は地域における視覚障害教育のセンターとして機能すべきであるという趣旨の提起がなされ(岩崎 1996)、これを契機として各地の盲学校において、地域の視覚障害教育における中核的機関としてのあり方の模索が一斉に開始されることになる。

  6 おわりに

 1990年代には臨時教育審議会答申に始まる「教育改革」が断行され、さまざまな施策を通じて個々の学校現場に少なからぬインパクトを与えてきた。21世紀初頭には障害児の教育現場にも改革の波が大きなうねりとなって押し寄せ、障害児教育を規定していた制度的な枠組も変容していく。障害児教育はその対象に「発達障害児」を新たに加えることで、特殊教育から特別支援教育へと転換し、盲学校を含む障害児教育諸学校は個別の障害種別の学校体系から障害種別を超えた特別支援学校へと一元的に改組されていく。また、21世紀に入ると障害児教育に関わる法令や制度の改廃が断続的に行われる。就学基準の弾力的改訂、「認定就学者」カテゴリーの創設、普通校籍の視覚障害児への点字・拡大教科書の国費保障などが実施され、視覚障害児が地域の学校に就学する際のハードルは従来に比して確実に小さくなっていく。
 こうした情勢を背景に、盲学校界内部では、ミレニアムの頃から特別支援教育の内容を先取りする形で自らを視覚障害教育のセンターとして位置づけ、地域の普通教育諸学校に在籍する視覚障害児に対する支援に加え、センター的機能を多角化し、地域で生活する視覚障害者に対してもリハビリテーションの機会や福祉サービスを提供していこうという気運が高まっていく。こうした活動を通じて盲教育システムは視覚障害者の教育やリハビリテーションにとって欠くことのできない知識や技術を保有する視覚障害教育の専門機関として自らを地域社会へと積極的に提示しようと試みる。すなわち、盲教育に関する専門知の排他的所有を宣言することにより、公共空間における自らの存在をかろうじて保守せんとするのである。
 こうして盲教育システムは特別支援教育という新たなアリーナにおいて上演される自らの存在をかけた生存の争いへと否応なく巻き込まれていく。そうした状況においても盲教育システムは環境に動的に適応しそれを自らの一部として取り込みながらどうにか生き抜いていこうとする。ここに公教育システムとしての盲教育が持つしなやかさとしたたかさの一端を見て取ることができるのではないだろうか。

  【注】

(1)管見の限りでは、盲学校でのフィールドワークから盲者文化の三層構造について論じている杉野(1997)の研究を除いて戦後の盲教育を対象とする社会科学的研究は見あたらない。
(2)就学猶予・就学免除規定は学校教育法第23条に定められており、「学齢児童で、病弱、発育不完全その他やむを得ない事由のため、就学困難と認められる者の保護者に対して」就学義務(学校教育法第22条に規定)を猶予または免除することができるとする規定である。かつて、重度障害者たちは本人や保護者の意思に反して、学習環境の整備の遅延を理由に就学猶予や就学免除の適用がなされ、事実上学校教育から阻害されていた。
(3)だが、この義務化は必ずしも好意的に受け取られたわけではなかった。障害児の教育権を保障する場として、あるいは発達を保障するための場として肯定的に評価する動きがある一方、障害当事者の団体である全国障害者開放運動連絡会議(全障連)や地域校で障害児教育を実践していた教員、あるいは全国各地に結成された養護学校建設阻止共闘会議は、養護学校義務化は障害児を普通学校から排除することに繋がるとして大規模な反対運動を展開した。
(4)主として知的障害養護学校に特有のカリキュラム形態である。子どもの生活に即した形で組織した活動において、課題を設定し、その達成を通じて社会性や生活力を育成することを目的とする。目標別に「日常生活の指導」「遊びの指導」「生活単元学習」「作業学習」等に大別される。
(5)1971年(昭和46年)に改訂された盲・聾・養護学校の小・中学部学習指導要領の「特別活動」では、「児童または生徒の経験を広め、社会性を養い、好ましい人間関係を育てるため、小学校の児童または中学校の生徒と活動をともにする機会を積極的に設けるようにすることが望ましい」と規定された。この規定を受けて多くの盲学校が近隣の小・中学校との興隆教育へと乗り出しはじめる。中でも大阪市立盲学校はいち早く隣接する小学校との交流を展開していた。
(6)1970年代初頭に通常学校への弱視学級設置が推進され、それに伴い幾つかの盲学校が当該学級に教員を巡回させ、視覚補助具の使い方などの助言を行うようになる。大阪府立盲学校は全国でいち早く巡回指導に着手し、地域へと自らの実践領域を拡大しようとした。

  【引用文献】

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*作成:青木 千帆子
UP: 20120912 REV:
全文掲載  ◇障害者と教育 視覚障害 
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