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ポリオ生ワクチン獲得運動に見いだされる社会的な意義

西沢 いづみ 2009/12/04
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20091204
櫻井 浩子堀田 義太郎 『出生をめぐる倫理――「生存」への選択』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告10,194p. ISSN 1882-6539 pp.83-112


ポリオ生ワクチン獲得運動に見いだされる社会的な意義

西沢いづみ

はじめに──本稿の目的

 ポリオは、ポリオウィルスが中枢神経組織へ感染することによって生じる急性ウィルス感染症である。ポリオウィルスに対する治療薬は現在も実用化されておらず、発症を防ぐ唯一の手段は、ポリオワクチンの予防接種である。1988年、世界保健機関(World Health Orgnization, 以下、WHO)により世界ポリオ根絶計画が提唱されて以来、ポリオワクチンの推奨によって、ポリオ発症数が激減した。2000年、西太平洋地域ポリオ根絶京都会議が開催され、日本・中国など37カ国・地域が含まれる西大西洋地域から野生型ポリオウィルスが根絶されたとWHOから宣言された(京都宣言)。2006年度時点におけるポリオ流行国はインド、パキスタンなど4カ国にまで減少している(庵原 2001)。
 さて、日本においては、1960年に5000人を超える発症がみられ、翌年に生ワクチンが一斉投与された後その数は激減した。1970年以降、野生株ポリオウィルスによる患者は、1980年の一例に留まり、野生株ポリオウィルスは国内では根絶された状態である(杉下 1994)(表 1)。その後に確認されているポリオ患者というのは、生ワクチンの副作用によるワクチン由来麻痺症例である(1)。
 生ワクチン一斉投与に至るまでには、生ワクチン輸入に消極的であった政府の方針を転換させる契機となった全国的な運動があった。医療者として運動に関わった久保全雄(2)は、この運動を大衆の力と知恵が医学史をつくりあげたという点で、歴史的意義があると評している(久保 1962)。
 ポリオ生ワクチン獲得運動は、ポリオという一つの疾患を通して、母親、医療者、マスコミによる報道などが合流し、全国的に拡大していった運動であるといえる。さらに運動が拡大した要因には、「疾患」という一つの事項だけでなく、自分たちの健康と暮らしを守るという、生活に根ざした共通の目標があったからだと思われる。
 本稿では、当時の社会的背景とともに運動の形成過程と特徴を分析し、その上で、この運動がもつ社会的な意義を見いだすことを目的とする。まず、母親の運動に焦点を当て、生ワクチン獲得への過程を確認する。次いで、地域で起こった運動が全国へと広がった経緯と運動団体の陳情に対する厚生省や日本ウィルス学会の対応を述べる。最後に、生ワクチン獲得運動の含意を再考し、社会的な意義を検証する。なお本稿では、ポリオ生ワクチン接種の実施に致るおよそ1959年から1961年までを主な検討の対象とする。

【表1】年次別ポリオ患者数・死者数・罹患率(1947?1975年)(省略)
【表2】伝染病罹患率の年次比較(1950年?1961年)(省略)

2.ワクチン開発時期における日本の予防対策

 ポリオの予防ワクチンは、1953年にアメリカのJonas Salk博士によって開発された不活化ワクチン(以下、ソークワクチン)が最初である。1955年にアメリカで許可され、接種が開始されると罹患率が減少した。(今村 1958; 松田ほか 1961)。しかしソークワクチンは、接種者本人の発病は予防できるが、腸内のウィルスの増殖が押さえられないため流行を完全に断ち切ることができないという欠点をもっていた。一方、これとほぼ平行して、1956年にアメリカのAlbert B. Sabin博士がOPV経口生ワクチン(以下、生ワクチン)を開発した。生ワクチンには、病原性を再び活性化させるという懸念があったが(3)(実川 1961)、自然の感染経路で免疫ができるためソークワクチンよりも流行の阻止には適していた(川喜田 1961; 平山 1989)。1957年、ソ連はアメリカから生ワクチンを導入し、アメリカとの共同研究によって投与を実施している。野外試験が積み重ねられた結果、1958年には、ソ連、アメリカ、カナダで有効性が実証されている(川喜田 1961; 春日 1961)。
 日本では、1947年にポリオは届出伝染病となり、1949年から毎年1500例から3000例の罹患数が記録されている。しかし、日本脳炎、麻疹、赤痢などの感染症に比べポリオの罹患率が低かったため(表 2)、国民の関心も強くはなかった。小児科医師の今村栄一は、「ポリオは感染しても必ず発病するとは限らない。むしろ発病する方が少ない」(今村 1958: 5)と述べている。しかし、1955年以降ソークワクチンを導入したアメリカやカナダ、ソ連では罹患数が減少し始めた。逆にワクチン導入が進まない日本での罹患数は、増加の傾向をみせた(小林 1961; 実川 1961)。
 1957年10月、厚生省諮問機関である伝染病予防調査会は小児麻痺防疫対策として、家庭での手洗い、食器洗浄励行など環境衛生対策の強化を勧告した。1958年6月、厚生省は国立予防衛生研究所(以下、国立予研)においてソークワクチンの国産化を急ぐとともに、国産品ができるまでのつなぎとして、1959年1月から3万人分のソークワクチンをアメリカから緊急輸入することを決定した。当時は第二次世界大戦後の緊迫した冷戦体制下で、日本政府はアメリカを中心とした資本主義体制の傘下にあり、ソークワクチンもアメリカやカナダから少量に輸入するだけであった。また材料不足や高度な技術面が必要なことなどから、国産ワクチンの製造も困難な段階にあった(伊藤 1962)。そのためアメリカでポリオが流行すれば、日本はとたんにワクチン不足に追い込まれる切迫した状態であった。
 生ワクチンに関しては、1959年3月に国立予研の北岡正見部長がその効果を認めており、7月に読売新聞に「小児マヒに新薬」と題してコメントをし、ウィルス学界に研究の急務性を提案している(読売新聞 1959年7月24日)。しかし、1960年度のウィルス性疾患の研究予算は25万円にすぎなかった(上田 1967)。当時、日本脳炎に関してはアメリカから1億数千万円の補助金が充てられ研究されていたが、それと比較すると非常に少ない金額である。伝染病の中でも罹患率の低いポリオを専門に研究する学者も少なく、生ワクチンはこの時点で研究対象としても取り上げられていなかった。医療者たちの中には、ワクチン獲得運動に対して毒性復帰や人種差違による副作用の相違を唱え反対の意見を主張する者も少なくはなかった。久保は、運動を進める際に、反対派の医者の意見に対し次のように反論している。

 政府の無策に加えて、日本では大部分の学者も、小児マヒの問題はあまりとりあげませんでした。私たちが運動を進める際、ずいぶん反対されました。「たかが1,000人か2,000人じゃないか。そんな問題を騒ぐとは何事だ。それよりハシカの合併症による死亡とか、交通事故による災害死亡の問題をとりあげるべきで、小児マヒの問題をとりあげるのは国民を不安におとしいれる行動じゃないか」という意見をぶつけられました。一方こんな例もあります。二歳十ヶ月の男児が発熱し、足や腰を痛がって泣くのです。母親はポリオではないかと心配して、かかりつけの医者にうったえたところ、「お母さんは神経質になりすぎるから」といって一笑されてしまいました。その間、病気はどんどん進行して両親の不安は高まるばかりなので、医者を変えてみたところ、「小児麻痺の疑いがあるので、すぐに大きい病院で調べなければだめだ」と言われました。県立中央病院で検査したところ、両親の不安どおりの小児マヒだったということです(久保 1983: 21)。

ポリオの初期症状は風邪に似ており、マヒが発症して初めて確定診断がつく状況でもあったが(久保 1961)、不安をもつ母親に対する医者の対応は、ポリオ疾患に対する知識不足と、事の重大さの認識不足から来ていると考えられる。母親が医療者に不信感をもったことも運動の発端といえる。ウィルス学会の会員であったウィルス学者の川喜田愛郎は「ワクチン騒動時に、生とソークの違いがわからない医者も一割はいた」(『朝日新聞』1961年7月8日)と述べ、また著書『小児マヒ』では、研究者、医学者の責任について以下のように言及している。

 ソークから生ワクチンへの切り替えの過程は学問的にもたしかに大層むずかしい問題である。……だが、もし海外の先進諸国で行なわれていたように、あのソークワクチンによる予防接種が何年か前から励行されていたら、事態はこれほどまでに混乱しなかったろう。……ソークワクチンの遅れに対する責任が直接には行政当局にあることはいうまでもない。だが、それは当然、研究者、医学者の分担すべきものでもあった。われわれはポリオ対策の世界の体制がどうなっているか、たとえば、勤勉で公平なWHOがどういう見解をもっているか、を知っていたはずだし、少なくとも知っていなければならなかったから、行政の怠慢を見送っていたことに大きな責任を感じなければならないのである。もとよりそれについては厚生省と直結し、国際的にもさまざまな便宜に恵まれている一部の学者たち、とくにポリオの専門家たちの態度が批判されなければならないだろう。(川喜田 1961: 184)

 川喜田は、生ワクチン導入の混乱理由が、ポリオウィルスがもつ病原性、感染力など学問的な難しさにあるとしながらも、医療者の無責任さを追求している。ひとつの疾患が流行するという現象は、人々の最大の関心事であり大きな社会的現象である。にもかかわらず、研究費の少なさや、見かえりのなさを理由に基礎研究体制がとれなかったのである。医学的な研究の立ち遅れが、小児マヒに対する一般的な理解の普及を送らせ、混乱を招いた一因であると推測される。このように、ポリオ流行対策が行政面でも学術面でも共に遅滞していたことが、逆に住民運動を躍起させた誘因となった。
 次章では、各地で発生した住民運動について、それぞれの特徴を抽出しながら検討していきたい。

3.ワクチン獲得運動のはじまり──青森県八戸市

 1959年6月、厚生省はポリオを指定伝染病としたが(厚生省五十年史編集委員会編 1989)、国産ワクチンの製造も実現が困難なままの状態であり、依然としてワクチン量は不足していた。同年6月までのポリオ発生数は590人前後で、全国各地に発症していたが、7月に青森県八戸市内の小さな町で24人の集団発生がみられた。一カ所で発生する数としては異例であった。厚生省は急場しのぎの方法として、1人分(1回1cc、3回接種)のワクチンを30人に分けて接種するよう指示し、現場の医師たちによって行なわれた。子どもをポリオから守りたい母親たちは、同市の医師岩渕謙一(4)に当時ワクチンを大量生産していたソ連からの入手を嘆願した。岩渕は所属していた新日本医師会協会(以下、新医協)に依頼し、日ソ協会(現、日本ユーラシア協会)、全日本民主医療機関連合会(以下、全日本民医連)の協力を得た結果、ソ連医学アカデミー協会からソークワクチン2万人分が新医協に寄贈された。これに対し厚生省は、ソ連のワクチンが有効かつ無害かを検査する設備がないこと、ソ連のワクチンを扱ったことがないことを理由にその使用を許可しなかった。しかしその判断を公表した3日後、アメリカから有効期限切れ間近のワクチンが送られると、アメリカのワクチンに対してはすぐ検定を実施し、商業ベースにのせて市販を許可した(毛利 1972)。
 新医協・全日本民医連・青森県母親大会連絡会を中心にした県民は、国のこの対応に不信と怒りを抱いた。当時の渡辺良夫厚生大臣にソ連のソークワクチン導入とワクチン輸入処置に対する抗議の手紙を送った(毛利 1972)。また、新医協・青森県医師会・日ソ協会らを中心に9月にポリオ対策委員会が設置された。さらにソークワクチンの無料接種や、県医師会・弘前医大(現、弘前大学医学部)などによる接種後の追跡調査、地域への結果報告などを決議した。同時に青森県議会も、ワクチン検定料やその保管料を負担することを決定した(久保 1983)。この結果、厚生省は12月になってソ連製品の検定と使用を許可し、1才半までの幼児に無料接種を実施した。無料接種の通知を受けた3万人のうち90%の2万7千人が接種を受け、その結果翌年の流行時には、八戸市内でのワクチン接種者からは1名の発病者も出なかったのである(久保 1961)。
 この運動の特徴は、子どもをポリオから守りたいという母親の要求が、短い期間で、青森県全体の問題として捉えられたことにある。青森県のポリオ対策委員会での決議項目には、全国各地のワクチン対象者に、国の責任で無料実施することが要求されている。短い期間に県全体の問題として拡大した要因には、当時、「患者の立場にたった医療を」というスローガンを掲げ、医療保険充実や反公害闘争などの民主化医療運動が全国的に起こっていたこともあげられる。青森においても、ワクチン運動のキーパーソンであり当時無産者診療を実施していた岩淵謙一医師が、民医連を核にした運動とともにワクチン運動を展開してきた経緯がある。患児と患児の母親及び農民や労働者の立場にたった医療者との信頼関係が基盤になり、運動が拡大していったと考えられる。

4.ポリオ感染のさらなる広がり──北海道夕張市

 1960年に入って、患者数はさらに増加した。5月には北海道夕張炭坑地区から急速に道内各地に感染が広がり、12月31日統計では北海道全体で1650名、死者106名となった。石川、富山、愛知、岐阜、三重県でも集団発生が起こり、全国の届出患者数は5606名になった(小林 1961)。その8割が5歳未満の小児であった。最も多発した夕張地区に対して政府は、環境衛生対策として自衛隊によるDDTや石灰の散布を行なった。下水道普及率の低さなど環境衛生が問題であることも指摘されていたが(松田ほか 1961)、当時北海道衛生部長であった小林治人は、「流行が始まってから環境衛生対策をおこなったのでは遅すぎる」と指摘している(小林 1961)。朝日新聞の社説では、「道内45万人の幼児に対して3万人分のワクチンしかなく、道対策本部は環境衛生対策でお茶をにごしたのではないか」と指摘している(『朝日新聞』1960年8月25日)。伝染の恐怖を抱く流行地の住民は他の町村へ疎開を始め、そこでまた流行するという事態が続いた。指定伝染病になっていたポリオ患者は、強制隔離され、患者の発生した家には「小児マヒ患者の家」の紙がはられた。公共の乗り物、浴場の使用などが制約され、差別意識が生じた(川喜田 1961)。
 流行の兆しがみえた1960年7月に、札幌医科大学・北海道大学医学部・北海道医師会・道議会・自民党・社会党などが参加した小児マヒ対策本部が発足した。しかしDDT散布に地方予算を支出するなど、厚生省通達にもとづく施策はあったが、民意を反映した具体的なワクチン確保への姿勢はみられなかった。また日本労働組合総評議会(以下、総評)・共産党北海道委員会らが「ソ連の生ワクチン緊急輸入と厚生省の予防対策の不備についての抗議」の署名を始めたが、それは個々の運動にとどまり、地域へは広がらなかった(『アカハタ』1961年6月25日)。しかし、1961年3月になって、被害を蒙った親たちを中心に「小児マヒから子どもを守る父母の会」が道内7地域で発足し、それらが連絡協議会として発展し、運動が拡大した(久保 1983: 124)。運動の中心が、官製の組織から流行地の母親へと移っていく。
 「ポリオ罹患は運が悪かったのであろう」という母親たちの諦観と不安は、連帯することによって「なぜワクチンが不足しているのか」という社会問題として捉えられ、自らが主体となって行動を起こし始めたのである。このことは久保が『小児マヒ』(1961)のなかで紹介している、流行期に静岡で長男が小児マヒに冒された西沢光子の「長男が小児マヒにかかった」という日記に垣間見ることができる。

 N先生から冗談まじりでこんなことを言われた。「こどもの病気は親の責任なんだからね。良く面倒をみてやり、よいお医者さんにかけ、早くなおすようにしなけりゃだめだよ。」と。その時の親の責任ということばが、みょうに私の頭にこびりついて離れない。一体、敏朗が小児マヒにかかったということに対して、親である私はどんな責任をとればいいのだろうか。──しかしワクチンを買えなかったという原因の一つは、私たちの経済の貧しさである。全国には、私たちばかりでなく、まだまだ、たくさんの親たちが経済的な貧しさのために、かわいい子どもたちに、ワクチンの予防注射をさせてやれないでいるのが現状である。たとえ金があったにしても、ワクチンの絶対量が不足している今日、どうしてもワクチン注射を受けられない子どもがでてくるのは当然である。──そうなるともう親の個人的責任に期するには問題があまりにも大きすぎる。私は決して自分の責任を回避しようとは思わないが、これは日本の子どもたちに対して、おとなたちの社会的責任の問題として考えてみることも必要だと思う。一体、小児マヒのワクチンが安く大量に生産されないのはなぜだろう。国内の生産が間に合わないとすれば、なぜ外国から大量に輸入することはできないのであろうか。こういう問題について私はあまりにも無関心で、無知であったようだ(久保 1961: 6)。

 子どもの疾患と直面した母親の思いが運動を突き動かす原動力になっていることは確かである。しかし運動の主体が母親だから広がったのではない。病気の発症を、自分たちも含めた社会的責任と捉え、社会共通の課題としていたところに運動が拡大した原因があるとみることができる。「我が子にワクチンを飲ませたい」ではなく、「全国の子どもにワクチンを飲ませたい」と視野を拡げたときに、個人から社会に問題は移行する。共存社会にいる以上、自分のいのちを自分だけで守ることは難しい。社会的問題となって初めて、自分たちの健康と暮らしが守れる運動となる。運動の中心である母親たちが、社会に対して問題定義を行なったことが重要である。
 次章ではワクチン獲得運動が全国へ広がった経過を分析しながら、その特徴を明らかにしていきたい。

5.地域から全国へ──第6回母親大会

 新医協は、生ワクチン実施予測調査のために地方衛生研究所の増強の必要性を、医療・労働団体・母親大会、その他多くの団体に呼びかけることを重視し、それと平行して行政関係者や専門家たちとの交渉にあたった。政治的イデオロギーにこだわることなく、ワクチン研究に関する資料を収集しその効果や問題点をとりあげて運動を拡大して行く方針をとっている(久保 1983)。予防や治療を含めた医療情報を得ることは、自分たちの健康を守るために必要であり、またその情報が運動の広がりにつながる。新医協が1960年8月に厚生省に要請した内容には、ワクチンや治療薬についての科学的なデータを送付し要請するという方法をとった。しかしその時の厚生省の回答は、当面のソークワクチンは検定能力がないこと、全国3歳以下の幼児160万人を対象に、国産ソークワクチンを任意接種出来る見込みであること、生ワクチンは研究段階であることなどを理由に、その生産を見送ることにした(厚生省五十年史編集委員会編 1989)。多くの団体に呼びかけた運動であったが、ワクチンはソークワクチンでいくという厚生省の姿勢は変わらなかった。
 1960年8月21日、東京で開催された第6回母親大会の分科会「身体の不自由なこども」では、新医協の提案でポリオの問題がとりあげられた。「米ソいずれのワクチンも大量輸入し無料接種を行なうこと、後療法施設の拡充、ガランタミン(5)の早期輸入」を要請するという内容が、翌日の1万5千人の全体集会の中で確認され、大会決議となった(『母親しんぶん』1960年10月5日)。これを機に各地に「小児マヒから子どもを守る協議会」(以下、マヒ協)や「小児マヒから子どもを守る父母の会」がつくられ、署名、陳情運動が展開された。10月に東京母親大会連絡会が中心となって、厚生大臣中山マサに要請する署名用紙を作成、署名活動と請願運動を始めた。同年11月、全ソ労働組合中央審議会から総評に、生ワクチン10万人分、ガランタミン3万人分の寄贈があったが、輸入についての厚生省の回答は以下のようであった。

日本ではまだ全く研究ができていないのに、大量に一般国民に配布、使用することは問題がある。
ガランタミンは実験用として認める。来年にはソークワクチンの国産品200万人分が生産されるのだから、生ワクチンについてさわぐ必要はない。(久保 1983: 119)


 厚生省は生ワクチンの使用は研究段階であるとして、さらに税関でストップさせたのである。総評、母親大会はこれらの輸入許可を求め、署名運動を展開した。
 各地のマヒ協の先駆的役割を担ったのが、1960年8月に発足した石川県の「小児マヒ対策促進協議会」(以下、促進協議会)である。石川県の1960年のポリオ罹患率は、北海道、岩手、山口、愛知、佐賀についで7.7%と多く、全国平均6.0%を上回っていた(厚生省五十年史編集委員会編 1989)。促進協議会は、日ソ協会の石川県支部・県医師会・日本赤十字社・金沢大学・県議会・婦人団体・日本共産党・自由民主党・民主社会党など22団体から構成されていた。促進協議会の財政補助は県が任った(久保 1961)。促進協議会は、予防ワクチンの検定能力の促進や、ガランタミンの早期輸入の内容を決議し、署名運動や厚生省・米ソ大使館への陳情活動を行なっている。署名用紙には、県下各市、郡の月別患者発生数、ワクチンの入荷量、接種対象者人数などが詳細に記載されていた(『アカハタ』1961年6月25日)。この統計数字は県内各町村の婦人会が地道に調べた結果である。
 一方、日ソ協会、共産党、総評などがソ連のガランタミンを要求していたことに対して、「共産党が赤いインチキ薬を持ち歩いている」(久保 1961: 71)との噂も広がった。運動内部には政治的イデオロギーの対立もみられたことが窺える。石川県の促進協議会では、ガランタミン治療対策専門委員会をつくり、日赤や大学の協力を得ながら、薬効の検証法を実施し、データの蓄積をした。医師会、日赤病院、金沢大学、自治体、婦人団体など、行政から市民団体まで共通の意識をもつようになり、全国規模の団体である「子どもを小児マヒから守る中央協議会」(以下、中央マヒ協)の結成につながることとなった(毛利 1972)。
 以上の経緯から、新医協、総評、母親大会連絡会などの活動が相乗効果を生み、運動が全国に拡大したといえる。相乗効果には三つの要素が考えられる。一つ目は、母親大会での決議が大きな力となったことである。ポリオに直面する子どもたちがいることは母親たちにとって現実的な問題であった。ポリオに罹らせたくないという信念をもちつつ、直接運動に携わる母親たちの存在は、運動拡大にとって重要な位置を占めていたと考えられる。二つ目は新医協などの医療者が政治的立場よりも科学的根拠を求めてワクチン問題に取り組んだことである。その情報をもとに母親たち自らが勉強会をもった。それは運動の方向性をみいだすために重要な役割を果たした。三つ目は、石川県での運動にみられるような行政と母親達の組織が一体となった組織形態である。新医協、母親を軸とした運動に行政が同じ課題をもって参加したことは、拡大の大きな要素と考えられる。

6.政府とワクチン輸入業者との関係

 1960年8月の母親大会での決議に対して、厚生省は同年11月閣議了解により「ポリオ緊急対策要綱」を定めた。その内容は、臨時措置として、生後6ヶ月から1歳半の小児を対象にした定期予防接種の実施(約90万人分)とそのための1億3千万円の支出である(毛利 1972)。さらに厚生省は、1961年1月から15ヶ月間のポリオ予算として2億8000万円を大蔵省から引き出している(上田 1967)。予算の増額から、厚生省のポリオワクチン体制確立の意思が明確になったといえる。1961年3月には予防接種法が改正され、ポリオは定期および臨時に予防接種を行なうべき疾病に加えられた(厚生省五十年史編集委員会編 1989)。しかし、厚生省薬務局は、ソ連から総評に送られていた生ワクチン10万人分をソークワクチンに変更して欲しいと、ソ連大使館に申し入れをしている。引き続きソークワクチンで対応するという厚生省の姿勢は変わらなかった。
 厚生省は、なぜ生ワクチン導入に踏み切らなかったのか。その理由の一つにワクチン輸入業者および国産化を進めている製薬会社との関わりがあった。
 伊藤によれば、厚生省がソークワクチンの輸入を初めて許可した1959年に、厚生省から許可を受け輸入に当たったのは、千葉血清研究所、塩野義製薬、新日本実業の三社であった(伊藤 1962)。1960年になるとポリオが各地に発生し、社会的関心も高くなると接種者の数も多くなった。原価約60円前後のものが国産ワクチン保護政策のため厚生省の指示で小売価格400円まで価格調整され、業者にとっては大きな利潤となった。その後、メーカ輸入希望業者が増え、輸入権を巡る業者の争奪戦の結果、山ノ内製薬、台糖ファイザー、日商の三社に入れ替わったという経過がある。国産化は、厚生省の許可を得た武田製薬や千葉血清研究所など6社が多額の資金を投じて生産を開始した(伊藤 1962)。しかし1960年9月、千葉血清研究所が生産した初の国産ソークワクチンは抗体量が低く、検定で不合格とされた(上田 1967)。このように国産製造がなかなか軌道に乗らない間に、諸外国では、着々と生ワクチンの有効性が立証され、日本においても生ワクチンの要望が広く出されるようになった。しかし、生ワクチン導入は、ソークワクチン輸入で利潤をあげていた業者には多大な損失となり、一方多額を投資してソークワクチンの生産を始めた業者には、その生産のストップを意味した。医薬品の輸入許可は、厚生省の薬務局企業課で決定されるが、厚生省としても、ソークワクチンの国内生産が本格化するまでの緊急措置としての輸入であったため、輸入業者、国内生産業者ともに思惑が一致していたと推測される。しかしソークワクチンの輸入量は殺到する接種希望者に対応できる量ではなく、その結果ワクチンの値段は、病院によっては2000円から5000円という高値がつけられたようだ(『母親しんぶん』1960年10月5日)。価格の高騰に対して、1960年9月、全国主婦連合会はワクチンの値下げを求め、以下のように牛丸薬務局長宛に抗議を行なった。

 今の輸入ワクチンの値段はわずかに一回70円程度しかしていないはずです。ところが厚生省は、やがて国産ワクチンが売り出されるのでその価格維持のために、この安い輸入ワクチンを450円で病院にわたすように指示しているというじゃありませんか。輸入業者ばかりが莫大な利益をあげるこのような価格制度をすぐ撤廃してください!(上田 1967: 49)

 主婦連の値下げ要望の内容には、業者に対する指摘がある。これらの要求に対して厚生省は、業者との交渉の結果、1回350円まで値下げをした(上田 1967: 50)。
 1960年4月から6月にかけて、新潟県長岡市で、国立予防衛生研究所部長の北岡正見博士が全国初の生ワクチン集団服用実験を行なっている(『朝日新聞』 1960年8月25日)。服用した子どもは罹患しなかったという結果も出たが、厚生省はワクチン国産業者との利害関係からこれをとりあげず、1960年10月に、生ワクチンの安全性未確認のために正式な使用許可には時間を要すると公表した(厚生省五十年史編集委員会編 1989)。この公表に対して国産保護と製薬会社との利害関係があったからではないかとの憶測もされた(伊藤 1962)。同年8月25日の朝日新聞では、「ソ連で甘いボンボン」として、ソ連での生ワクチン投与効果を掲載している。生ワクチンの存在と効果の情報は、医療者やマスメディアなどを通じ一般に知られるようになり、生ワクチン要求の声は増々大きくなった。母親大会だけでなく、社会的な関心事として全国に広がりを呈した運動となり、組織的な国民運動として、「子どもを小児マヒから守る中央協議会」が結成される。

7.「子どもを小児マヒから守る中央協議会」の結成

 1960年12月、日本母親大会、新医協、総評、日ソ協会、各道府県のマヒ協などが代表世話人となって、全国各地のポリオ運動に取り組んでいる諸団体に呼びかけ、東京麹町自治会館で「子どもを小児マヒから守る中央協議会(以下中央マヒ協)」が結成された(毛利 1972)。新医協や、総評、各地域自治体、各地域のマヒ協などの個々の活動を統一し、さらに強力な団体として政府に対して運動していこうというのが目的である。中央マヒ協の動きに対し、政府や学会はどのように対応したのだろうか。
 当時、厚生省は、1億2千万円で90万人の予防接種計画をつくっていたが、中央マヒ協は、「今年度冬期中に(1960年12月)に0歳から5歳までの子ども850万人に無料で生ワクチンを」をスローガンに、「医学に国境はない、米ソいずれを問わずソーク・生ワクチンの大量輸入、全ソ労働組合から既に送られてきている10万人分の生ワクチンとガランタミン3万人分の使用許可、小児マヒ治療薬の輸入と使用、後保護施設の強化」などを中心にした諸要求を盛り込んで運動を展開した。署名31万人分を集め、厚生省に集団陳情している(『母親しんぶん』1960年12月5日)。これに対して厚生省は、以下のように回答している。

 厚生省としては、冬期に一度にやる計画はない。当面、生後6ヶ月から1年6ヶ月の乳幼児を対象に、ソークワクチンの予防接種をおこなう。来年、5月までに350万人分のソークワクチンを国内生産及び輸入(米・ソ・加)で用意している。総評に送られたガランタミンは輸入税を無税とするよう努力するが、一般に使用するのは待ってもらいたい。当面生ワクチンを輸入する意志はない。(久保1983: 120-121)。

 一方当時の厚生省牛丸薬務局長は、「専門家の結論が出次第、ソークと兼用するか生ワクに切り替えるかする。いずれにしても1962年には生ワクチンの国産化までもっていきたい」(久保 1983: 122)と談話を発表している。しかし国産の生ワクチン推進のため、専門家の結論を待つという理由で、輸入決定に時間稼ぎをしているともいえる。一方ではポリオ予防接種の対象年齢3歳までの拡大(1961年4月より)や、ポリオ対策費として4億7千万円を厚生省が決定するなど中央マヒ協の発言の成果がみられる。
 1961年2月初旬、中央マヒ協は全国代表者会議を開き、生ワクチンの大量輸入、総評に寄贈されているソ連の生ワクチン10万人分の使用許可、ガランタミンの正規輸入と健康保険適用、850万人分の接種のための予算を組むなどの要求をもって、当時の古井喜美厚生大臣と会見している。古井厚相は以下のように談話を発表している。

「生ワクチンの予防法は一日でも早くしたい。しかし、この検定には高度の技術を必要とし、技術的に解決されない悩みがある。総評に送られた生ワクチンの使用も、以上の事情を理解されたい。ガランタミンの健保適応については考える。」(久保 1983: 123)。

 このように、2月の時点で、厚生省が生ワクチン導入の姿勢に傾いてきたことが窺える。3月初旬に厚生省が期待していた国産品のソークワクチンに検定不合格が相次いでいたこともあり、カナダから300万人分のソークワクチンを緊急輸入した。この背後には、2月に九州で集団発生が起こり、昨年と同様流行の兆しがあったからである。
 総評や社会保険協議会とともに、中央マヒ協は4月に春闘の一環として、専門家をソ連や他の諸外国に派遣することと、生ワクチン実施を要求した。5月には署名67万人を集め、13団体2,500人が厚生省陳情をおこなった。
 1961年4月末の時点で、全国のポリオ患者数は412人、死亡42人と昨年の同月の数を上回る事態となっていた。厚生省は、特に集団発生数の多い九州に防疫担当官を派遣し、臨時予防接種を実施した。しかし2回目以上のソークワクチン量はすぐに底をついた。ソークワクチンによる流行阻止態勢は、破綻していたことは明らかであった。古井厚生大臣は、5月の閣議で、今後の流行地区に対してソークワクチンの予防接種だけでなく生ワクチンの実験投与を考慮したいと述べ、当時の池田勇人首相もその投与に必要な予算は組むと答えている。6月1日、閣議の方針決定で、流行している九州でまず35万人分の実験投与計画が練られ、6月中にソ連へ専門家を派遣することも決定した。
 問題は「実験投与」を誰がやるかであった。科学的根拠の裏付けがないまま、政府がやるわけにはいかず、やはりウィルス学会の承諾が必要であった。次節では生ワクチンへの踏み切りの鍵を握る日本ウィルス学会と政府との関係、学会の対応をみてみる。

8.日本ウィルス学会による「弱毒性ポリオウィルスワクチン研究協議会」結成

 前述したように、当時ポリオを専門的に研究していた学者も少なく、また政府の予算も少なかったことから、ウィルス学会のなかでもポリオウイルス研究は立ち遅れていた。
 1960年10月の流行時に至って、新医協が日本医師会に協力を求めるかたちで会見を開いている。この時点での日本医師会は、「予防に関する問題は厚生省の問題で医師会として関与することではない。また生ワクチンについては、現在毒性復帰の点がひっかかるので実験をした上でないと国内的につかうことには問題がある」(久保 1971: 118, 1983: 付録8)と述べている。同年10月に、総評・母親大会・新医協・日ソ協会が、日本ウィルス学会に対し、医療者としての社会的責任に基づく意見の表明を申し入れた。これを受けて、日本ウィルス学会は、1960年12月に、ウィルス学者の川喜田愛郎、平山宗宏らを中心に「弱毒性ポリオウィルスワクチン研究協議会」(以下、生ワク協議会)を結成した。病理・小児科・伝染病・公衆衛生など各領域からなる協議会である。厚生省五十年史編集委員会編の「公衆衛生」の章には、「たまたま、昭和35年末から全国のウィルス研究者をもって組織された弱毒性ポリオウィルス研究協議会が発足した」と書かれ(厚生省五十年史編集委員会編: 1989: 1087)、発足に関しては厚生省、ウィルス学会、中央マヒ協との間に、温度差があったことが窺える。
 生ワクチンの安全性や有効性を検討するため、厚生省は研究費予算を600万円から1億円に引き上げた。1960年流行期の収束時期にようやく本格的な研究が始まったのである。翌年2月に生ワクチンの原液を輸入し研究に取りかかる計画が立案された。生ワク協議会は、毒性復帰や感染経路の研究後、5万人の幼児による人体実験を1962年に行い、本格的な実施は1963年になると発表した。諸外国の研究段階と比較し遅れていたものの、川喜田(1961)は、体制の不備は行政だけでなく、研究者、医療者も責任を分担すべきだと提言している。しかし、結成当初から生ワク協議会の意見は、生ワク推進派と慎重派に割れていた。NHK報道部の上田によれば、熊本大学の六反田藤吉は、熊本市小児マヒ対策本部の会議で、生ワクチンに他のウィルスが混入する可能性や、毒性復帰説などを主張した。
 また、生ワク協議会事務局長の柳沢謙は、生ワクチンがソ連や他の国では効くが、日本の国民に効果があるかはわからないと民族的差違を強調したという(上田 1967)。1961年2月、「6月までに、3歳までの子どもにソークワクチンを2回注射できるので、今年の流行はとめられる」(久保 1983: 122)と柳沢は述べている。柳沢は、ソークワクチンが効果的だと認める学者の一人でもあった。一方、京都大学の甲野礼作や平山は、他のウィルスの混入の有無は検定能力のレベルの問題で、生ワクチンは諸外国の例を見ても問題はないと主張する。川喜田は、推進しながらも、「生ワクチンへの切り替えの過程は、学問的にも難しい問題である。学者として納得出来るデータをみるまでは、一応の危険性を無視するわけにはいかない、といわれれば反発は難しい」(川喜田 1961: 184)とも指摘している。
 厚生省内でも、公衆衛生防疫課と薬務局細菌製剤課にはそれぞれの立場の違いがあった。防疫課は流行阻止が第一目的であり、生ワクチン肯定、輸入の際の検定省略も可能という考えをもっていた。しかし薬務局は、薬事法で認める薬品としてはソークワクチンしかないという建前をとっており、生ワクチンを取り扱うわけにはいかなかった。また国産化奨励の窓口でもあり、業者との関わりも直接あった。
 生ワク協議会内も厚生省内も意見の統一が出来ない状態のまま、一日平均15人の発生という緊急事態と、中央マヒ協の連日の陳情におされ、厚生省は九州地区に35万人分の実験投与の決定を政治判断でした。この判断は生ワク協議会には相談なしの決定であったから、生ワク協議会としては事後承諾という形になった。生ワク協議会は、35万人という数字はすでに実験ではないので公衆衛生局防疫課が責任を持って欲しいという旨を回答したが(上田 1967)、「疫学部会」を新たに設け、意見の調整を急いだ。結果、九州の35万人の生ワクチン投与の責任を生ワク協議会が引き受ける事になり、6月12日、英国製の生ワクチン30万人分と予研に貯蔵されていた5万人分と足して予定どおり「生ワクチン実験投与」が許可された。

9.医療の民主化運動の影響

 ここでポリオワクチン獲得運動に関与した母親大会・中央マヒ協と当時の医療民主化運動の影響をみてみる。前述したように、中央マヒ協は、各都道府県で活動してきた諸団体を統一した団体とみることができる。そのなかで母親大会は重要な位置にある。1960年に開かれた第6回の母親大会の決議を境に、署名や抗議運動が盛んになり、厚生省も、予防接種対象者の数や予算額などについて路線を変更しはじめた。ここで母親大会について簡単に述べる。
 1954年、戦争から「子どもを守る」ことを要求した各種婦人団体の運動が母親大会(6)であり、話し合いの場として始まったが、同時に女性の社会参加の一歩ともなった。ポリオワクチン獲得という成果は、わが子だけの「母親」からの飛躍であり、労働組合・医療団体と共通の課題をもち運動したという意味で社会的な位置を確立したことは確かである。
 1959年から1961年の安保闘争(7)時、医療労働者による安保改定阻止運動としても大規模な統一闘争(8)がおこなわれた。この動きと母親大会の運動は連動している。ワクチン獲得時における母親大会の決議内容が、罹患者の治療薬と保護施設を万全に期すこと、ワクチンの無料化など、医療の充実を社会問題として取り上げている。医療を人々の生活に密着して捉える視点は、医療の民主化運動そのものであると考えられる。
 厚生省はポリオウィルスやソ連の生ワクチンに対しては、「科学的にわからない」「輸入しない」の姿勢をくずさなかった。国内薬品業者との関わりという背景もあったが、日米安全保障条約の改定によって日米軍事協力体制を確立するという政治的背景の中、ソ連のワクチンと「野外実験」結果をそのまま受け入れないという法制度に従っていた。しかし、厚生省のワクチン予防計画が、中央マヒ協・母親運動の陳情ごとに変更されている。ポリオ予算が1959年では25万円だったのが、1960年には1億3千万円まで増額され、任意接種から予防接種法にはいり定期接種になったことは運動の大きい成果である。安保改定阻止全国統一闘争の国民的盛り上がりや母親大会・中央マヒ協の運動の圧力は大きかったと考えられる。

10.1961年6月22日ワクチン獲得

 1961年5月から6月にかけてポリオ発症数は増加し、流行阻止は緊急を要した。6月12日に九州で実験投与が開始されると、その翌日には全国知事会から、「他の地区にも投与せよ」という要望があった。厚生省は「状況によっては他の地区でも投与を実施する」と答え、各都道府県にワクチン必要量を問い合わせている(上田 1967: 133)。しかしこの時点での患者数は全国で1000人を超え、死者数も77人に達していた。東京でも発生が続き(『朝日新聞』1961年6月17日)、政府の対応の遅さがさらに運動に火をつけたと推測される。
 中央マヒ協は、生ワクチンの一斉投与と無料接種を掲げ、母親や労働団体、マヒ協の各県団体代表とともに、連日のように厚生省の防疫課、薬務課と交渉を重ねた。この社会情勢に、厚生省も何らかの措置を図らずにはおれない状態になっていた。ソークワクチンの350万人実施という政府の方針はそのままであったが、尾村公衆衛生局長は、この時点で以下のように談話を発表している。

生ワクチン以外に今夏の流行予防は不可であり、今までのソークのみの予防が不完全であることを認める。しかし事務当局の具体的な手が何らうたれていない。各地方自治体の突き上げも激しく、なんとかしなければとかんがえている。(上田 1967: 95)。

 厚生省は対生ワクチン政策が検討されていないことなどを認めており、ソークワクチンだけの対応はすでに破綻していることを語っている。
 1961年6月5日に開催された東京母親大会では、「今すぐソ連の生ワクチンを輸入せよ」との特別決議、17日に緊急常任理事会がもたれ、19日に厚生省へ陳情することを決定した。
 ここで、住民の要求がソ連の生ワクチンに焦点が絞られたことについて言及する。要因の一つとして挙げられるのは、1960年12月から1961年1月にかけて新医協の久保全雄がソ連を視察し、学術的な情報を得て、生ワクチンの優越性を確信し帰国したことである(久保 1983: 123)。ソ連には大量輸出能力もあり、価格も他国に比べ安いという情報も含め、中央マヒ協を中心に母親たちが勉強会を開いた(『母親しんぶん』 1961年4月5日)。川喜田も生ワクチンの研究について、「アメリカで発明された生ワクチンがすなおに社会主義国に導入されて、そこで大きな成果を収めた経緯、その逞しくまた整然とした実行力を自分の眼でみてきて深い感慨がある」(1961: 191)と述べている。ソ連や東欧諸国が国家的な規模で野外試験を繰り返し効果を得ているという事実は、生ワクチン推進学者を通じ、母親達にも影響を及ぼしたと考えられる。
 19日、中央マヒ協、統一陳情参加者1000人は、足立区・大田区の主婦を先頭に厚生省に入り、尾村公衆衛生局長と牛丸薬務局長に、生ワクチンの輸入の可否に対する回答を詰め寄った(『母親しんぶん』1961年7月5日)。

 母親は子どもを生むのに10ヶ月かかります。やっと子どもを産んだらまず手足があるかどうかと心配。五体健全だと聞いてはじめてホットするんですよ。それなのに、このごろはどうですか!せっかく無事に生んだ子を毎日手足が大丈夫かと心配して、おちおち眠れません!朝起きるとですよ、そっと子どもの手足をさわってみてほっとするんです。これわかりますか!五体満足に生まれたこどもが一晩で不具者になってしまう。これほど惨い病気はないでしょう。早く生ワクチンを出してください! こんな心配ってあるものですか!
子どもは毎日見えないウィルスに追いかけられているんですよ。/あなた方に子どもはないんですか!/外国ではとっくにすんでいる研究じゃないですか。/製薬会社から文句がつくからじゃないでしょうね!」(『アカハタ』1961年6月25日)


 ここでの母親たちの言葉は、およそ罹患者に対する配慮のない言葉であるが、予防に力を注ぐ母親たちの運動が政策転換の端緒となり、判断に迷っている厚生省に決断を迫ったと言えるだろう。19日のこの要請を受け、厚生省は、緊急輸入の協議をまとめて三日後に厚生大臣が発表すると答えた。厚生省は20日に生ワク協議会の幹事会を招集し、1000万人分の緊急輸入についての承認を得ている。22日、1300万人分の生ワクチンの緊急輸入の決定を「事態の緊急性から使用決意」として以下のように発表した(9)。

 今年から全国的にソークワクチンの予防接種を行なうほか、地域的に生ワクチンの試験投与などの 緊急対策を講じてきた。しかし流行の最盛期を前にして被害を最小限度にとどめるため、この際最後的な予防対策をとることに決意した。生ワクチンの使用は綿密な検定と実験を終えなければたやすく承認できないことであるが、事態の緊急性を思っていたところ21日の午後、専門家との会合で理解ある態度を示してくれたので、非常に勇気づけられた。責任はすべて私にある(『朝日新聞』1961年6月22日)

 1300万人分の一斉投与は世界的にも稀であった。日本においても防疫史上画期的な試みであり、行政としては一種の「賭け」であっただろう。日本には薬剤の安全基準も検定基準もない。実験投与が繰り返されたわけでもない。副作用の研究も不十分である。1300万人分の輸入方法、保存方法、また実施される各県衛生部や保健所の整備、過疎地への運搬方法など課題は残っていた。厚生省はこのような問題を抱えたまま、法律上の枠を犯してでも、生ワクチンに切り替えたのである。古井厚相は「すべての責任は私にある」と述べている。この決断を下す前日の21日に、古井厚相は、生ワク協議会に緊急召集をかけ、研究者たちが概ね厚生省の判断に反対ではないことを確認している。これが、古井厚相の「理解ある態度を示してくれた」という言葉につながる。学問的な答えを待っている時間的余裕がないことはいずれにしても明らかであり、世論に押される形で、生ワクチン一斉投与に踏み切ったと考えられる。
 一方、生ワクチン一斉投与は、希望者のみであったため、保護者の承諾書が必要であった。親たちや実施する保健所にも不安があったと推測される。
 1961年7 月21日、10歳以下の小児全員に一斉投与が行われ、初回の接種率は91%前後に達した。その効果は、1962年289人、1963年131人、1964年84人という患者数の減少に現れている。この中には、ソークワクチンを1回もしくは2回受けた後に生ワクチンを受けた者もおり、生ワクチンだけの効果とは言い切れない(春日 1961)。また接種後による死亡や罹患は、自然感染なのか、生ワクチン由来性の伝播(10)なのかの判断は難しい。
 1961年7月から国立予防研究所においてサーベイランスが実施され、患者発生状況やワクチン接種後のポリオ抗体保有状況を調べた。これらの追跡確認により、生ワクチンの有効性と安全性が実証され、1964年4月16日予防接種法の一部改正により、ポリオの予防接種は経口生ポリオワクチンを用いることとなった(厚生事務次官通達 1964年4月16日)。

11.おわりに──ポリオ獲得運動に見いだされる社会的意義

 ポリオ生ワクチン獲得運動の展開を概観してきた。その上で、この運動がもつ社会的意義を検討する。ポリオ生ワクチン獲得運動は、1960年代の冷戦下で展開され、未承認薬品の生ワクチン導入の困難さがあった事は確かである。しかし、厚生省の産業復興のための政治的経済的思惑による体制の遅れは、逆に要求運動を活性化させるのに充分な要因であった。疾病が科学的・社会的現象であるならば、社会問題になることは当然である。そういう意味で、医学と社会は切り離せない。学会の研究費不足や医療者の無関心に問題を投げかけるきっかけとなったのが、母親運動であり、安保闘争に相乗した医療者を含む産業別労働組合による医療民主化運動であったと考えられる。ポリオ生ワクチン獲得運動の社会的意義がここにみいだせる。
 医療の民主化を定義することは難しいが、本稿で検討したように、人々の生活に密着した医療と捉えるならば、ポリオ疾患から子どもを守ろうとする母親の活動は、生活や暮らしの場を起点とした民主化運動のひとつであった。生ワクチン獲得運動と時を同じくして各地でおこった労働組合運動も、自分たちの生活擁護を目的としており、これらが相乗したと考えられる。ポリオワクチン運動に様々な立場の人々が共感して参加できた起因でもある。運動の形態は地域により様々であったが、共通点は、その地域に暮らしている人たちが、自分たちの生活を守るための自発的な運動であったことである。
 他方で、ポリオ生ワクチン獲得運動は、ポリオ罹患者に対する視点を見逃す傾向にあった。ポリオを予防する生ワクチンの獲得という目標は、罹患していない人たちを中心に置き関心を惹き付けた。運動体制をつくりやすかったと考えられる。生ワクチンによる予防に主眼が置かれ、罹患者の対症療法を潜在化させたのである。ポリオ対策の問題点として、患者の収容をとりあげた小林は、単なる隔離病舎に収容されただけで、治療が困難な例があったと述べている(1961)。また今回調査した限りでは、治療指針や後遺症保護収容施設への要請は、第6回母親大会(1961年8月)の決議を基にした同年12月に出された中央マヒ協の決議内容のみにみられた(11)。
 さらに、厚生省が保護施設について回答したものはなく、治療薬(ガランタミン)の使用も引き延ばすか実験用として許可しただけであった。ポリオに感染した子どもたちや生ワクチンの副作用で罹患した子どもたちの医療福祉の展開はみられなかった。また運動に関わった母親たちの力が強調される中で、罹患者の親に対する配慮や政策がないがしろにされた。生活や暮らしの場を起点とした運動は、人々の暮らしが様々なだけに、落とし穴が多々ある。医療を受ける側と提供する側の間に、また運動を起こす側と運動の枠外にいる側との間に分断の楔が打ち込まれやすく、医療運動の困難さがみい出された獲得運動でもあった。

◆註
(1)生ポリオワクチン(Oral poliovirus vaccine, OPV)に含まれる弱毒ポリオウィルス株が神経毒性を復帰することがある。ワクチン関連性麻痺は、OPVによる副反応であり、ワクチン内服者が発症する以外に、糞便中に排泄されたウィルスが周囲の者に感染し、麻痺を来す場合もある。ワクチン関連性麻痺の発生頻度は、450万投与に一例とされている(2005年度感染症流行予測調査報告書)。決して高いわけではないが、麻痺は不可逆性で後遺症を残すため、軽視できない副反応とされている。
(2)久保全雄。1911年生。1936年日本医大卒業後、社会保健及び衛生・労働行政官を勤めた。1950年から新日本医師協会に参加して、社会医学を推進。新医協、日ソ教協会として1959年ポリオ予防に取り組み、1960年に設立された「子どもを小児マヒから守る中央協議会」の事務局長として先頭に立つ。1960年12月から翌年2月まで訪ソし、ソ連でのポリオワクチン事情を収集。生ワクチンを獲得するまでの運動の中心となった。その他ビキニ水爆被爆者の実態調査、諸伝染病撲滅、有害食品追放、新潟水俣行など「公害」防止運動などに取り組んだ。
(3)生ワクチンは、抗原かもっているが感染力を弱くした、または持っていない微生物(ウィルス)を利用したものであり、微生物は死んではいない。1)で記述したように低い確立ではあるが、この微生物が毒性を活性化させることがある。
(4)岩渕謙一。1896年生。日本医専(現日本医科大学)卒。青森県で労働者や農民の立場にたって活動した医師。1927年八戸市白銀(当時は水戸郡湊町)で無産者診療所を開設。戦後は日本社会党青森県本部委員長に推されたが、1958年離党。1959年没。
(5)治療薬ガランタミンは、ソ連のコーカサス高原に咲く植物を原料とした薬である。京都大学薬学部教授上尾庄次郎博士が1945年から研究を始め、神経外傷、筋無力症などに効果があるとされていたが、マヒした神経に活力を与える「つなぎ」役で、すべてのポリオ疾患者が完治する特効薬ではないという見方もあった(川喜田 1961: 95-97)。1961年4月、千葉大学鈴木次郎教授は、発病数ヶ月たった患者にも有効と発表している。同年6月に市販されたが、生ワクチン投与が始まり、あまり使用されなかった。
(6)母親大会。1947年に憲法の平和的・民主的条項を実質的なものとするため、日本民主婦人協議会(民婦協)が結成され、それを基に各政党婦人部、労働組合婦人部など40団体が集まり、翌年に婦人団体協議会が作られた。1952年平塚らいてうを会長とした日本婦人団体連合会(婦団連)が結成された。1954年、米国によるビキニ水爆実験実施を折りに、「生命を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみます」という世界母親大会のアピールを受けて、日本でも各種の婦人団体が集まれる母親大会が開催された。「すべての脅威から子どもをまもるために人類の名においてすべての母の力を一つにすること」、平和に勝るものはなく、その全面保障は、「憲法9条」である事を一貫して活動が続けられている(『日本母親大会50年のあゆみ』 2009)。
(7)安保闘争。日米安保保障条約反対の闘争。1959年?1961年全国規模で展開された。1959年3月「安保改定阻止国民会議」が確立され、労働者を中心に、女性、市民、学生など広範囲な階層が参加し、統一行動、ストライキ、集会、デモがおこなわれ、国会請願者は1千万人に達した。
(8)医療労働者の統一闘争。安保改定阻止運動は、医療労働者にとっては、医療の合理化反対運動であった。全日本国立医療労働組合(全医労)が中核となり、各地の医療労働組合連合会(医労協)、全日本赤十字組合連合会(全日赤)などが、最低賃金の引き上げや、医療法看護基準の引き上げ、国家と資本家との負担による医療費の大幅引き上げなどを要求し、病院の統一ストライキを実行した。
(9)1300万人の内訳・無料化とワクチン輸入内容は以下のように決定を下している。
  本年(1961年)7月1日現在において3歳以上六歳未満の者。463万4千人。
 本年7月1日現在において生後3ヶ月以上3歳未満の者。439万9千人。
  基準以外の流行地または流行の恐れがある地域の6歳以上10歳未満の者。245万3千人。
  流行地域の10歳以上のもので、特に必要と認めるもの189万4千人。
  6月24日、厚生省と大蔵省は、4億9千万円の予備費支出を決定し、ソ連からボンボン(あめ玉)1000万人分、カナダからシロップ300万人分のワクチン緊急輸入に備えた。ワクチン接種対象者のうち、6歳以下は無料とした(厚生省五十年史編集委員会編 1989)。
(10)生ワクチン由来株の伝播。
  神経毒性を復帰した生ワクチン由来株がヒトの間で流行伝播し、ある期間に一定の地域で生ワクチン由来株による感染がみられる。
(11)1960年12月中央マヒ協議会決議内容。
  すでに小児マヒに罹っている児童15万人を救うために、治療薬をただちに輸入せよ。
  そのため政府は特別国会および通常国会で、小児マヒ撲滅のための治療薬、予防ワクチンの輸入ならびにその使用、後保護施設等の万全を期するため国庫負担によって実施できるように法制化などの措置を講ずべきである(久保 1983: 120)。

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