近年、国際連合や国際条約機関は、世界各国の人権の状況を審査するためのツールとして、人権指標(Human Rights Indicators)を発展させてきた。健康権についても、主に世界保健機関(以下、「WHO」とする)や経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(以下、「A規約」とする)の人権委員会が、健康権の指標や指針(Guideposts)を発展させ、実際に各国の審査に際しこれらの指標や指針を活用している。
わが国も国連やWHOの加盟国であり、また多くの国際人権条約の締約国である。このような加盟国・締約国には、それぞれの国際機関や条約機関に対して、定期的に自国の状況について報告する義務が課せられている。そして、国際機関や条約機関が各国の報告書の審査を行う際に判断基準として用いられるのが、人権指標であり、健康権の指標である。
また、Paul Hunt教授をはじめとした海外の国際人権法学者たちは、以上のような国際機関が用いている指標をベースに、独自に健康権の指標を作成し、各国の健康権の遵守状況のモニタリング調査を行っている(1)。
アバディーン大学(スコットランド)のBrigit Toebes博士もその一人で、現在“Monitoring the Right to Health: a Multi-Country Study”(2)という研究プロジェクトにおいて、プロジェクト独自の健康権の指標を用いて、日本を含む16カ国(3)を対象にモニタリング調査を行っている。このプロジェクトでは、それぞれの国について調査担当者がおり、筆者は日本のモニタリング調査を担当しているのだが(4)、WHOやその他の国連機関、条約機関等、主に国際機関の統計データから調査対象国のデータを収集して、事前に設定されている調査項目に答えていくという方法で調査を行う。
調査項目には次のような事項が含まれている。@健康権に対する法的なコミットメント、A保健医療政策と財政、B健康関連情報、C意思決定への参加:重要な健康関連事項に関する意思決定のプロセス、D国民の健康に関する一般事項、E女性の健康、FHIV/AIDS、G結核、H子どもの健康、I被拘禁者の健康、J精神的健康、K障害のある人、L高齢者、Mマイノリティ、N職業上の健康、O環境上の健康、P保健医療従事者の利用可能性、Qその他(調査担当者の任意設定項目)である。これらは大枠であって、実際にはそれぞれの項目にさらに詳細な質問事項や分析の際の指針が指定されている。
本稿は、上記プロジェクトにおける日本のモニタリング調査の経過報告という位置づけであり、特に今回の国際シンポジウム企画の内容に即した事項を抽出しまとめたものである。つまり、国際レベルにおける健康権の指標ではどのような点に重点をおいているのか、また特に日本に焦点を当てた場合、健康権の指標の中のどの項目がとりわけ重要かという点について論じる。よって、本稿では、上記の調査項目のすべてについて言及することはせず、国際シンポジウムにおいて報告した限定された事項についてのみ論じることを先にお断りしておく。
A 日本における国際法と国内法の関係
以上のように、日本はこれまでに健康権を規定している国際人権条約をいくつか批准しており、条約の締約国として人々の健康権を保障する義務を負っている。では、そのような国際人権条約は日本国内においてどのような効力をもつものなのであろうか。
国際条約の国内的効果については、学説が分かれるところであるが、日本が批准した条約が法律以下の国内法よりも優位するということは一般的に認められている。ただし、批准した条約を直ちに裁判で直接適用できるかというと、これも学説が分かれるところであり、一般的に条約が直接適用できるか否かの判断は、当事国の意思・文言や内容の明確性・義務の性質・国内法制の状況などを総合的に考慮しなければならないとされている。
この点、日本では、締約国に「尊重及び確保する」即時(Immediate)義務を課すB規約は直接適用可能であるのに対し、権利の実現を「漸進的に(Progressively)達成」する義務を課すA規約については直接適用できないとする考え方が根強くある。判例もA規約は、「個人に対し即時に具体的権利を付与すべきことを定めたものではない」との立場をとるものが多い(12)。
B 日本国憲法・国内法と健康権
次に、日本国憲法および国内法において健康権はどのように位置付けられているのであろうか。
この点、日本国憲法第25条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(1項)、「国は、すべての生活部面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(2項)と定めており、この規定が日本国憲法における健康権の直接の根拠であるとする学説もある(13)。しかし、日本の裁判例では、これまでに健康権を日本国憲法第25条に規定された権利と認めたものはない。
また、日本の国内法において、健康権を明文規定したものはなく、また、人々の健康に関する法制度が日本には多数あるも、その中に人権としての健康権の保障や実現をその理念や目的として制定されたものはない。
◆註
1)Gunilla Backman, Paul Hunt, Rajat Khosla, Camila Jaramillo-Strouss, Belachew Mekuria Fikre, Caroline Rumble and others, Health systems and the right to health: an assessment of 194 countries, The Lancet, Vol. 372, No. 9655, pp 2047-2085, Dec 13 2008.
2)プロジェクトの詳細については、アバディーン大学HP http://www.abdn.ac.uk/law/hhr.shtmlを参照
3)イラン、エジプト、イスラエル、ヨルダン、レバノン、イラク、パレスチナ、サウジアラビア、シリア、ブラジル、ナイジェリア、南アフリカ、フィリピン、セリビア、中国及び日本の16カ国(2009年9月現在)
4)日本の調査報告書については、2009年度ないし2010年度中に上記のアバディーン大学のウェブサイトにおいて発表予定である。
5)厚生労働省大臣官房統計情報部「日本人の平均余命 平成19年簡易生命表」
6)OECD Health data 2008.なお、OECD平均は5.2人。
7)OECD Health data 2008.日本は人口1000人あたり8.2床であり、OECD平均3.2床。
8)OECD Health data 2008. 日本は人口100万人あたり40.1個であり、OECD平均10.2個。
9)OECD Health data 2008.なお、日本の一人当たりの医療費は2474米ドルであり、OECD平均は2824米ドル。
10)OECD Health data 2008.日本の医療費の伸び率は2.5%であり、OECD平均は5.0%。
11)OECD Health data 2008.日本の医師数は、人口1,000人あたり2.1人であり、OECD平均3.1人。看護師数は、人口1000人あたり9.3人で、OECD平均9.7人。
12)例えば、塩見訴訟最高裁判決(最判平元.3.2)、判例時報1363号68頁以下。
13)井上英夫、「総論 医療保障法・介護保障法の形成と展開」、社会保障法学会編、『講座 社会保障法 第4巻 医療保障法・介護保障法』、日本評論社、2001年、pp.4-5.
14)食品残留農薬基準の設定告示処分取消等請求事件(東京地判平9.4.23民三部判決)、判例時報1651号39頁以下。
15)UN Doc. E/C.12/1/Add.67, 24 September 2001.
16)WHO, Development of Indicators for Monitoring Progress Towards Health for All by the Year 2000, 1981, para.57.
17)UN Doc. E/C.12/1988/SR.13, para.25.
18)IMF, Report for Selected Countries and Subjects.
19)UNDP, Human Development Report 2007/2008.
20)Idem.
21)Stockholm International Peace Research Institute, SIPRI YEARBOOK 2008.