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パネルディスカッション「日本における健康権保障の課題」

2009/12/04
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20091204
松田 亮三棟居 徳子 『健康権の再検討――近年の国際的議論から日本の課題を探る』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告9,99p. ISSN 1882-6539 pp.82-96


 
 パネル・ディスカッション
日本における健康権保障の課題 1)

    司   会:松田亮三(立命館大学大学院社会学研究科教授)
          棟居徳子(立命館大学人間科学研究所ポストドクトラルフェロー)
    パネリスト:ポール・ハント(エセックス大学ロースクール教授)
          井上英夫(金沢大学大学院人間社会環境研究科教授)
          藤原精吾(弁護士、日本弁護士連合会元副会長)
          垣田さち子(医師、京都府保険医協会副理事長)


1 パネル・ディスカッションの趣旨説明と進行について

(松田)それではパネル・ディスカッションを始めます。先程、基調講演においてポール・ハント教授から「健康権とは何か」ということについてお話を伺い、特に「政策アプローチについて、どのような課題があるか」ということを中心にお話をいただきました。続いて棟居さんの方から「日本の現状をどう見るか」ということで「健康権の視点から見た分析」の一部をご紹介したということになります。このパネル・ディスカッションのテーマは「日本における健康権保障の課題」ということでありますが、大きく3つの課題を考えております。
 第一に、健康権を日本でどう受け止めるのかという問題です。国際人権法の体系のもとで具体化していくならば、日本においても必然的にそれらを受け止めていく必要が出てきます。しかし、日本の現行の法体系にとって、ハント氏がご紹介された健康権概念はどういう意味を持つのでしょうか。ここで指摘しておく必要があるのは、健康権の議論はこれまで日本でなかったわけではないということです。日弁連は1980年、「健康権の確立に関する宣言」を人権擁護大会でも決議しています。ご出席の井上英夫教授は同じく四半世紀以上健康権の重要性を唱えられてきました。こうしたことも振り返りながら今、国際社会で展開している健康権の概念が、日本において、すでにあるものを確認するにすぎないのか、あるいは人権にかかわる現行の日本の法体系にないものを追加しうるのか、そういう点を考えてみたいというのが一つ目の論点です。
 2つ目の論点は、日本において健康権概念を実際に効力のある影響を及ぼすものにしていくためにはどのようなことが必要なのか。政策アプローチで言われましたベンチマーキング、指標、アセスメントの手法を、どのように考えていくか。裁判という問題も、どのように考えていくのか。あるいは健康権という言葉、概念が日本に伝わっている過程で間違った使われ方をする可能性はないのか。矮小化される可能性はないのかという問題に関して避けるべきことは何か。そういう問題を議論してみたいと思っております。
 3つ目の課題は、そういうことを受けまして日本において健康権を実現していく、健康権概念を活用していこうという時、研究者、法曹実務に携わっている方、市民社会、医療の専門家などの関係する人々や組織が、どのような取り組みを進めていけばいいのか。そのことを最後に考えてみたいと思っております。
 以上のような3つの問題意識を必ずしも整理された形ではありませんが、日本からのパネリストにお伝えしておりまして、その3人の方のご報告を受けましてポール・ハント教授にコメントをいただき、全体で議論していこうと思います。まずパネリストの間で議論した上で、フロアの方にもご参加いただきたいと思っております。
(※垣田さち子氏、藤原精吾氏、井上英夫氏の各個別報告については、本報告書の他のページに掲載しているので、ここでは省略する)

2 ポール・ハント氏からのコメント

(棟居)3人の先生方からそれぞれのお立場でご報告いただきました。司法の面、医療現場の面、法律研究の面からいろいろな問題点・課題を挙げていただきました。このような日本の課題が挙がったところで、ハント氏からコメントをいただきたいと思います。

(ハント)ありがとうございます。すでに私の方から多くのことをお伝えしていると思いますので、簡単にお答えしたいと思います。また、皆様方のご意見や考え方を聞きたいという気持ちが強いので、できるだけ時間をディスカッションに残したいと思っています。そこで、簡単にいくつか他の意見を挙げて、それが刺激となってパネル・ディスカッションの討論の発展につながればと思います。
 二点、一般的なコメントとして、このディスカッションをより広い文脈の中に繰り広げてみようかと思います。市民社会において、このような健康権をいかにすれば推進できるか。日本の市民社会が健康権を明示的に使うということができれば、その意味合いは非常に大きいと思います。日本は事実、この地域の大国であり、大きな影響力を持った国ですので、日本だけに止まることではないと思います。ぜひ日本の方々には健康権を使っていただきたい。その際、それは国境を超えた大きなつながりに広がり、他の国々に対するインスピレーションとなって力を発揮するだろうということであります。それが第一点。
 二点目は、日本は大きな人権制度上の問題を抱えているということがわかりました。今日、世界の多くの国々が国内の人権機関を持っています。その呼び名としては人権委員会や人権オンブズマン等、いろいろな組織があります。とにかくそれは議会によって設立され、人権の促進を図るというものです。人権委員会があって、それによって医療従事者、裁判官、弁護士、一般市民に対して啓蒙活動をする。しかし、日本にはそれがないのではないでしょうか。ないですね。となるとなかなか難しいのではないか。日本において人権を推進しようとする人たちにとって、それは問題だと思います。また、多くの国々が人権計画や行動計画を持っています。ただ日本には行動計画がない。このような行動計画があると、それが一つの要となって議論が進みます。たとえば今日の会も、その一つであります。ただ日本にはそれがない。全国の人権機関というものもない。藤原先生もお話になりましたが、国連の人権委員会から、日本は国内に人権機関をつくるべきだということ、また、日本が人権行動計画を持つようにという勧告が出ています。今、日本はその勧告に応えていないと思います。
 簡単にもう1点付け加えますと、垣田先生のご報告に大変興味を覚えました。特に医療制度自体が深刻な問題を抱えている。医師が不足している、医療へアクセスできない地理的環境のところもある。約500万件が公的保険にカバーされていない。患者負担が増加している。医薬品が3割患者負担になっていること。これらは健康権そのものの問題だと思います。健康権というのはツールとして、それらの問題に対応する一つの要になると思います。そして健康権というのは今、新しいスキル、新しいツール、新しい技法を必要としていること、その際、インパクトアセスメント(影響度評価)が一つのやり方ではないかと言いました。政府が新しい政策を導入しようと考えている時、3割負担とその部分を引き上げようとする場合に、政府の方に「シンプルなインパクトアセスメント(影響度評価)をしなさい」と言うべきだと思います。それによって「今後、こういう変化によってこういうことが起こりそうですよ」と健康権に対する影響、特に「貧困層にはこういう影響が出そうですよ」ということが評価できる。もう国によってはインパクトアセスメント(影響度評価)を始めているところがあります。インパクトアセスメントはその政策を導入できないということをいうものではありません。導入するかもしれないが、そのやり方として健康権に気を遣い、健康権に対応する政策に改定して導入できるということなのです。
 たとえば医療費負担、それは貧困層に対する影響がどうであるかをまず評価する。その後、政策の導入ということを考える。健康権については、新しいスキル、新しいテクニック、新しいやり方として影響度評価が広く用いられるようになってきています。
 さらに、藤原先生と井上先生の話を伺って考えたことですが、裁判制度について簡単に申し上げます。これは社会制度の中の要、中心となっていると皆が理解しています。裁判制度は人権を擁護する社会制度であって、重要な意味をもつものであると思います。そうであるならば、裁判所はある一定の特徴を備えねばならない。裁判制度は独立した裁判官を持っていないといけない。裁判制度は法的な支援があって、それによって重大な裁判例にあたれるようになる。裁判制度は自分たちを守るために使われるものだということ。証人を呼ぶことができること。さらに反対尋問ができる。反対尋問の証人に対することができる。そのような特徴を備えているのが裁判所であり、それは人権の考え方に基づいています。
 それは医療も同じことだと思います。医療制度も社会制度の中心にあります。だからこそ人権によって守られるべきものだということです。その中に健康権が入っています。医療制度はある一定の特徴がなくてはいけないと思います。たとえば、包括的な全国的プログラムでなければいけない。医療制度は、恵まれない人たちや地域に手を差し伸べなくてはいけない。医療制度は全国をカバーする必須医薬品を備えなければならない。医療制度があるから紹介制度が効果的になる。つまり、第一次医療レベル(GP:英国のかかりつけ医)から第二次医療レベル(基幹病院)に、そして第三次医療レベルにつながるように、ということです。
 このような医療制度の特徴があることは、人権という観点に基づいて、ただ単に健康だけではなく、人道主義ということだけではなく、また倫理上良いということだけでもなく、それは国際人権法が根拠になっているということであります。そして裁判所によって、社会制度を通じて、人権を促進、向上しなくてはいけないということです。そして21世紀はどういう世紀になるか。「健康権の100年になるべきだ」ということ、これはすばらしい考え方だと思います。先ほど、日本国憲法第25条の話が出ました。勇敢な裁判官、弁護士がいらっしゃいます。憲法第25条は大きな潜在能力を持つものだと考えます。どうもありがとうございました。

3 フリーディスカッションと質疑応答

(松田)それでは、まずパネリストの間で議論しまして、その後フロアの方を交えた議論を行っていきます。それぞれコメントをいただきましたが、お互いにご質問があれば、ハント氏へのご意見もあれば、出していただきたいと思います。
(井上)先ほどお話しなかったのですが、私が課題の一つと考えているのは、ハントさんも「医療労働者が人権を保障する」という、それが仕事だと言われましたが、そのことです。私は「人権のにない手」という言い方をしているのですが、現在の健康権、それを具体化する医療保障制度の中で働いている人は、少なくとも、その健康権保障のにない手であるし、にない手でなければならないと考えています。そういう意味では医療従事者が人権のにない手として成長する、育っていくためには何が必要かということになると思うのですが、抽象的なレベルで人権教育というのは簡単ですが、具体的に国連やイギリスにおけるハントさんの経験から、どのようなことをしたらいいかということを少しご紹介いただけたらと思います。

(ハント)健康権を含む経済的、社会的及び文化的権利の課題の一つは、コンテクストにはまったものでなくてはならないということです。つまり、ある国でうまく機能することが必ずしも他の国でうまく機能するというわけではない。戦略的に行う必要があります。そしてどういうやり方が、ある特定の状況の中で、最も効果的なのかということを明らかにする必要があります。私は皆様方の状況をよく知りません。しかしながら、私の経験上の見識から申し上げますと、保健医療従事者の支援を得たいとするならば、よりシニア(年長者・先輩)の保健医療従事者がアドボケーションすることが重要です。裁判官は裁判官の言うことには耳を傾ける。また消防団員も警察官もそうです。それぞれの自分の職業のシニアの言うことには耳を傾けるわけです。保健医療に関しても、保健医療従事者のシニアがアドボケイトすれば他の人たちも耳を傾けるだろうと思います。私たちのような法律家が、保健医療従事者に話をするよりも、むしろ著名な保健医療従事者の方が、我々保健医療従事者の財産として健康権というものがある、そして我々の職業上の目標達成もこれでできる、これについて我々の学生たちを教育していこうと話をする方が、より効果的だろうと思います。他の国ではこのような方法が一つの方法として進められていますが、日本では果たしてどうかということについては、私よりも皆様の方がご判断できると思います。
(松田)今のハントさんの発言に関連して保健医療従事者の立場から垣田先生、弁護士の立場から藤原先生にコメントをいただければと思いますが。特に教育に関して。

(藤原)教育に関して質問ですが、ハントさんの先程のコメントでは「国内人権機関を設立しろ」ということで、日弁連もそういう提案をしているわけですけれども、もう少し具体的に、医療従事者が健康権について、はっきりした自覚を持つようにするために、世界で今言われたような、シニア(年長者・先輩)が自分と同じ職業のジュニア(後輩)に教育するというシステムが現に行われているような国があれば、ぜひ教えていただきたい。そしてどのようなやり方でやっているのかということを教えていただきたいと思います。

(ハント)この3、4年、ようやくスウェーデンの保健医療従事者が人権により真摯に取り組むようになってきました。長年スウェーデンには保健医療制度があったのですが、最近になって健康権の活用を始めたわけです。約2年前にスウェーデンでは法改正があり、現在スウェーデンの法律では医学生は人権教育を受けなくてはならないとなっています。なぜ最近5年間でこのようなことが起きてきたのかは、はっきりとはわかりません。いくつか要因があるかと思いますが、スウェーデンでは今そのような状況になっております。
 アメリカの公衆衛生協会も人権、健康権に関して年次大会を開いています。これも一つのステップだろうと思います。

(松田)垣田先生から、そもそも健康権をどう考えるかということも含めて、医師がどう関わるのかということでご発言いただければと思います。

(垣田)別の議論に持ちこむことになるのかなという気もするのですが、患者と医師の権利の問題というのが、ここのところ大変厳しいことになってきています。医師の労働基準が守られていない実態の中で、厳しい、苦しい状況になっています。その上で患者さんに対して、というよりも、とにかく自分の日々の業務と身を守ることに疲弊している実態があります。特に若い研修医の中で、そういうことがあります。加えて患者さんからの権利の主張、クレーマーと言うべきか、モンスターペイシェントと言うべきか。この間、相談を受けたのですが、ちょっとしたことで気に入らないということで、部屋に連れ込まれて殴られるということが珍しくない。患者側からの医師に対するそういう暴力や犯罪的なことが行われつつある中で、若い、なりたてのドクターたちはそういう厳しさの中て立ちすくんでしまう。立ち去っていく。メンタル面で潰れいく人たちも結構おります。それがなかなかカバーできないような実態が進んでいるかなと思います。
 これは新研修制度が始まったことによる過渡的な問題かもしれませんが、患者の側の権利の主張と医者の側の自分たちの権利というところで、もっともっと考えなければいけない、議論しなければいけないことが多くあると思います。医療者の労働権、時間の問題が守られていかないと、患者さんとの関係において、いい方向にいかないのではないかと思います。そういう問題はいかがでしょうか。

(ハント) そうですね。おっしゃると通りだと思います。非常に重要な点だと思います。人権というのは患者の権利を保障するのと同時に医療従事者の権利も保障するものであります。たとえば、労働条件や環境が安全かどうか、手術の有効性はどうか、医療従事者は患者をきちんと尊敬して扱っているか、同時に患者が医師を尊敬して扱っているかどうか。そのことは重要な点だと思います。

(松田)それではフロアの方から質問をいただきたいと思います。

(フロア)医師です。興味深い話をお伺いできたと思いますが、健康・保健の問題をしっかりとらえ直していくことは、今、日本においても意義があることだとよくわかりました。国際的にも意味があるということだと思います。二つだけ質問を兼ねて問題を投げかけたいのですが、一つはハントさんに。外国の調査の例を出されました。その中で触れられなかったことは、世界的には医療事故の問題、健康を保障するものであるべき医療行為の中で、実は私たちが思っていたよりたくさんの事故やトラブルが起こっている。それは大きな問題であって、健康権という点からも課題だと感じるのですが、そこについて、ハントさんの立場から見ると、どのようにお考えになっているか。
 もう一つは棟居さんに。健康権の定義ということで「最高水準の健康の実現のために必要なさまざまな条件を享受する権利だ」と。私どもは医療をやっている立場で考えておりますのは、医療安全にしても、診断して治療して患者さんが病気にならないという意味で成果を上げるにしても、患者さん自身が医療に参加をするというより、患者さん自身が中心になって取り組むという、そういうスタンスが大切だと常々感じていて取り組みをしているところです。表現で「享受できる権利」と考えますと、少し受け身になってしまうところが出てくるのではないか。患者さんが受け身で、国が保障して医療担当者が医療を提供する。それを消費するのが患者さんであるという文脈になりやすいと思います。特に日本においては権利の問題が明確に運動としても強くなっているとは言いがたい面もありますので、受け身の存在になってしまう、弱いところが生じるかなと思っておりまして、そのへんをどのように考えていらっしゃるか、ご意見をいただければと思います。

(ハント) ご意見とご質問をありがとうございました。約30の健康・保健に関する報告書を書いて国連に提出しました。ただ実際には300の報告を書く必要があったわけです。そのうちの一つはまだ今でも書いています。「医療事故について」ということで、まだ書かなくてはいけないものが残っている。これが大きな問題でありまして健康・保健に関するものであるとわかっております。おっしゃる通りのことであると私も同感しています。
 少し質問をねじ曲げてもよろしいでしょうか。ご存じの方もあるかと思いますが、毎年、約50万人の女性が妊娠・出産で死亡しています。50万人の女性たちが毎年命を失っていますが、妊娠・出産に伴う死亡のほとんどの場合が予防可能なのです。この点、次のような考え方があります。もし誰かがその存在を失った場合、それは人権の問題だと考える傾向があるかもしれません。また、もしそれが死刑であるならば、これは人権の問題だと考える傾向もあるかもしれません。一方で、実際には予防できたのに、妊娠・出産で死亡する人がいても、それは人権の問題としては考えられていない。しかし、これは実際には人権問題だと思うのです。人数の多さという点についていえば、世界で死刑になる人の数をはるかに超えています。しかもこの50万人というのは、防止できたはずなのです。人権による監視がされていないということです。このような視点からお答えしたいと思います。このような死亡が起こった場合、どのように対応するかということなのですが、それは審査されるべきだと考えます。司法的な審査でなくてもいいでしょう。非公式な実際的な短い形で、なぜこの女性は死亡したのか考える、何が間違っていたのか検討するということです。妊娠・出産に伴う死亡の大体は出血死です。そして、病院に間に合うように運んでもらえなかった、救急産科病棟に到達できなかったという場合が多いと思います。重要なのはその死を見るということ、その文脈です。なぜ病院にたどり着けなかったのか、搬送に問題があったのか、地域社会において彼女をきちんと搬送するようにしなかったのか。実際に事故だったのか、医療事故によって死んだのか。人権という観点からは、単に出血による死亡という判断で止まってはいけないと思うのです。社会、経済的な文脈の中で、死亡を考えるべきです。それによって妊娠、出産に伴う死亡に対する対応ができると思います。このように医療事故は重要な意味を持っていると思います。より広い文脈の中でとらえることが重要であり、そして人権はより広い文脈でとらえるように示唆していると思います。

(松田)今の話題はホットな問題で、いろいろおっしゃりたいことがあるかと思いますが、関連することで身近にありますか?

(垣田)反面から申しますと、日本においては、まともに生まれてあたりまえ、妊娠・出産による事故は許さないというような事件が起きまして警察沙汰になったことがあります。皆保険制度をもったがために、というのは言い過ぎなのかもわかりませんが、病気は治ってあたえまえ、障害は癒されてあたりまえという日本人の、これは権利、人権の問題とは少し違うところでの主張が強く出ているという気がします。むしろ消費者によるクレームというか、医療費を払った以上は治してもらって当然というような、おかしな権利が出てきているように思います。この点についても、本当の意味での健康権とは何なのか、それは人権においてどう守られるべきなのかということを議論していかなければいけないと思っています。

(井上)今の話はお医者さんの立場から深刻な問題だと思います。ですが、あえて言いますけれども、そういう患者を育てたのもお医者さんなのだと思います。お互いに人権についての理解が不足している。権利というもの、特に権利行使についての理解が不足していると思います。憲法の条文でもいろいろ問題があるのだけど、公共の福祉に従う、つまり人権は万能ではなく、他の人の人権を侵害してはいけないというのはきちんと憲法でも言っています(日本国憲法12条、13条等)。そういうことの理解が大事だと思います。
 もう一つは、他方で日本の場合は医療過誤も実は人権問題としてはあまり意識されてないのではないかということです。医療現場では、それは損害賠償の問題であって、人権の問題ではないというようなことがいわれる。しかし、大事なのは、ハントさんが言われたように、人が死んでいるということがあったら、それは人権侵害の問題ではないか、あるいはいじめなども同じですが、実は人権問題なのではないかと考えること。日々行っている医療と人権は別ものだということが医療現場の人たちの人権感覚ではないかと思いますが、医療制度の枠内で働く人々は「人権のにない手」であるという認識が大切で、そのにない手は、最初に問題を、人権の問題、つまり人権が侵害されているか否か、ということでとらえるべきだと思います(拙著『患者の言い分と健康権』を御覧いただきたい)。そのような話をしているのですが、これもハントさんが言うように、シニア(年長者・先輩)からジュニア(後輩)に話を伝えるような仕組みを、我々も考えなければならないと思っています。
(松田)この話はいくらでも議論があると思いますので、一旦終わらせていただきまして、先程のご質問の続きに行きたいと思います。健康権の定義の問題、日本語の訳、「享受」という言葉に関する質問について棟居さんからお願いします。

(棟居)先程のご質問では、この定義が受け身的にとらえられるのではないかというお話だったと思いますが、確かに必要なサービス、物資を受けるということを受け身であると、恩恵であるととらえれば、そうだと思います。しかしここでは「享受する権利」と言っています。人権というものは保険料を払っている人だけにサービスが提供されるとか、納税をちゃんとしている人だけに、あるいは勤労の義務を果たしている人だけに保障するということではありません。これは人が人であるというだけで、すべての人に当然に保障されるという意味で受け取るということですから、決して恩恵的ではなくて、当然の権利として受け取るという解釈になります。
 日本でサービスを受けるということ、生活保護もそうですが、国からの恩恵であるというような価値観が長く日本にあった。そこで国際的な議論から、人権、健康権という権利を持ってくると、定義を見てもピンとこないのかなということがあります。これをどういうふうに今後、日本の中に定着させていくかということが今、人権教育というところにあるのだろうと思っております。議論の中では「医師と患者の権利の対立」のようなことが話されてきたかと思いますが、健康権という人権に関して、まず健康権を保障する名宛人、つまり保障する義務を第一に負っているのは国であるということを、きちんと押さえておく必要があると思います。今、入院に関しても制限等がありまして、もっと医療サービスを受けたいにもかわらず退院をしなければならない。そういう時に患者さんからすると「追い出した病院が悪い、医師が冷たく突き放した」と思うかもしれない。目の前にいる医師に対して悪い感情を持ってしまうかもしれないけれど、決して医師が悪いわけではなく,そのような医療制度が今日本にあるということ、大きな枠、大きな視点で見ていく必要がある。人権というものを語る時、個人間、私人間の権利の対立の視点ではなく、もっと大きな国の責任、義務をきちんと明確にしていくことが必要ではないかと思っています。
(松田)今のコメントに関して、「享受」という言葉の原語は「enjoy」ですね。受け取るという意味合いは、あまりないように思いますが、社会に言葉が受け取られる場合にはワーディング、つまり言葉の問題が大事ですので、法律家の方でも工夫の余地があれば考えていただきたいと思ったところです。

(フロア)大学教員です。私は生存権を勉強していますが、健康権の定義があり、権利はすべての人に当然にあると。これは当然のことですが、その時に平等概念の位置づけ、これが意外と難しいのではないかと、いつも思っていまして、基本的人権の性質からして「すべての人に当然に」となれば、あえて平等を持ち出す必要はないということもあるのではないかと。理論的なところからですが、これが一つ。
 もう一つは、最近の生存権論はどんどん自立とか参加とか抽象性を高めているように思います、理念的に。健康権も多義的なものである。そうすると裁判で争いにくくなるというのが、私の悩みです。朝日訴訟では最低限度の生活ラインが、ここで、その上か下かという争い方ができたのですが、だんだん健康で文化的な最低限度の生活というものの中身に幅が出てきているように思います。健康権の考え方は大賛成ですが、内容は抽象的な部分があるわけで、そういう場合、裁判においてはどのように争っていけばいいのかというのが、私の悩みなのですが、この2点についてお願い致します。

(棟居)健康権と平等の原則について。健康権を享受する際に無差別に享受をするという考え方ですが、放っておけば、人は皆、平等になるかというと、そうではないのが現実のところです。健康権、人権というものが、すべての人に保障されているといっても、実現の場面において必ず何かしらの差別があり、それは人類の歴史上ずっとあったわけです。人権の享受においてあえて大前提として無差別平等で人権を享受することを常に訴えていく必要があるのではないかと思います。
(ハント)どういうふうに答えたらいいでしょうか。何とか皆様方にわかりやすい、役に立つお答えを考えてはいるのですが。非常にいい質問を投げかけてくださいました。先程言ったことにもつながりますが、ちょっと思い出したことがあります。一般的な健康権の話をするとなりますと、おそらく目の前の問題の大きさに立ちすくんでしまうのではないかと思います。ただ、具体的なケースとなると、不正や正義が行われてないことが、かなり明確にクリアに見えるのではないかと思います。質問に対する答えにはなっていないかと思いますが、一つの具体的な例を出したいと思います。
 ペルーにおいて一つの裁判例がありました。若い女性が中絶を望んだのです。というのは妊娠しているが、胎児は生存できないような障害を負っている。病気の状態だった。したがって中絶を望んだのですが、かかりつけの医院では中絶が許されなかった。ペルーでは中絶を治療的な目的ではできないのです。そこで紹介された病院は、もし中絶を許可すれば法律違反になってしまうと判断し、その結果、中絶は許されなかった。そして出産しました。母乳を与えて約36時間育てました。しかし、36時間後にその生まれたばかりの新生児は亡くなってしまいました。それは起こるべくして起こったわけです。避けえなかったのです。それをジュネーブの国連に訴えました。そして勝訴したのです。ジュネーブの人権委員会の判断は「中絶することが合法であるならば、そのアクセスを損なってはならないのが医療従事者である。院長としてはそれをすべきではなかった」という判断が出ました。
 一般的な言い方をすれば、個人的な悲劇であるわけですが、こういう具体的な例から、かなり明確に、どの程度まで尊厳や正義が必要とされているかが見えてくるのではないかと思います。つまり、一般化するところに問題が潜んでいる。具体的なケースを見ることによって、健康権がかなりはっきり見えてくると思います。一般的、抽象的に健康権は何かということを論じているだけではわからないようなところが、具体的なものに目をあてることによって健康権がはっきりわかるようになるというふうに考えています。お答えになりましたでしょうか。

(松田)それでは時間がまいりましたので、ご質問等あるかと思いますが、一旦終わらせていただきたいと思います。私の方から一つだけ感想を申し上げたいと思いますが、その前にはるばる英国から来ていだたいたポール・ハント教授にもう一度お礼を申し上げたいと思います。またお忙しい中、ご出席いただきましたパネリストの先生方にも感謝申し上げます。通訳の方、スタッフの方、そして参加者の皆さま、ありがとうございました。
 最後に一つだけ感想ですが、私は医療政策を研究しています。健康が医療だけではなく、社会のあり方によって決まっていることが、この10年くらいずいぶん関心を呼びました。つまり健康自体も、コンテキストが大事になっていると思います。このコンテキスト、文脈という言葉が日本で健康権を考える時にも重要ではないか。それは何かと言えば、人権保障のコンテキストを強めることが大事だということです。健康権保障のためには、人権保障の全般的な体系を強めていくこと考えていかないと、おそらくうまくいかないだろうと思います。そういうことを今日のシンポジウムで考えまして「健康」「人権」、両方のコンテキストを、どう組み合わせていくか、それをどう見ていくかということを今後考えていきたいと思いました。今日のシンポジウムがきっかけになりまして日本と国際機関、他の国も含めて、健康権について活発に議論し、またさまざまな取り組みを進めていければと思っております。長時間、ありがとうございました。


◆註
1) 本稿は、シンポジウム当日のパネル・ディスカッションにおける発言をもとに、編者がまとめたものである。




UP:20100205 REV:
国際シンポジウム「健康権の再検討」  ◇生存学創成拠点の刊行物  ◇テキストデータ入手可能な本  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
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