カトリックにおいて「人間」とは特別な存在である。人は他の動物と同じように土からつくられはしたが、そのかたちは神に似せてつくられた存在である(『創世記』1・26、2・7、2・19)とされており、「神は……命の息を吹き入れ」た(1)(『創世記』2・7)としている唯一の存在だからである。人間は神の似姿として存在している唯一の生物であり、地球上のものはすべて神が人に与えたもので、統治するものである(2)(International Theological Commission 2004=2006 n.60-61: 49-50)。また、カトリックの教説では、神聖な存在の人間の生命をコントロールすることが許されているのは創造主である神のみであり、神が定めた法則に反してはならない(Pope John Poul U 1995=1996 n.52-55: 106-118 ; Congregation for the Doctrine of the Faith 1987 Introduction・T, Introduction・W-X: 7-9, 14-17)。人間の生命は神聖で不可侵であり、地球上の他のどの生物よりも尊いものと考えられているがゆえに、「人間」は特段の注意を払われる必要がある。現行のカトリックの教説は、人間は受精した瞬間から人間である、つまり受精卵も人間であるという考えを示している。しかも生まれていない人間は罪のない人間である。中絶を行なうことは殺人であり、十戒の中の一つ、人間を「殺してはならない」という教えを犯すことになるとされる。特に、何の抵抗も出来ない罪のない人間を殺すことは、生まれている人間を殺すこと以上に許されるものではない(Pope John PoulU 1995=1996 n.58-61: 119-124 ; Pope John PoulU1994a=2005: 310)。さらに、中絶が市民法において認められていても、神の法を守らなければならないと教えており(3)(Pope John PoulU 1995=1996 n.20: 39-40)、そのため、両親(あるいは母親)も医療関係者も、中絶を行なった場合には破門に処せられる(4)(Pope John PoulU 1995=1996 n.62: 126-127)。当然、決して優生学的理由や経済的理由、あるいは両親やその周囲の人間の都合によって、中絶がなされてはならない。胎児診断技術は認められていないわけではなく、胎児が出生に至るのに役立つ場合にのみ限られる。
胎児に異常がありそうな場合、早期発見を可能にする胎児診断技術に対する道徳的な評価には、格別の注意が払われなければなりません。このような種々の技術が持つ複雑性を考慮して、正確で一貫した道徳的判断が必要です。子どもと母親の双方を傷つけるような不釣り合いな危険をもたらすことがなく、また早期治療を可能にし、あるいは心を落ち着けて、しかるべき情報を知らされたうえで出産できるように意図される場合、これらの技術は道徳的に合法となります。(Pope John PoulU 1995=1996 n. 63: 128-130)
カトリックの教説は、もし経済的理由で中絶を考えるのならば、その子供は養子縁組をすればよいし、母体の体調的な理由で出産することが出来ない場合は胎児を出来るだけ安全な形で取り出して育てればよいと説く(Pope John PoulU 1995=1996 n.93: 189 ; Pope Pius XI 1930 n.64)。どうしてもやむをえない場合においても、胎児の生命を出来得る限りの策を講じて救おうとしなければならず、胎児を救う努力をしないのであれば他の中絶と同じように殺人になるという見解も示されている(Pope John PoulU 1995=1996 n.58: 120)。加えて、避妊を目的として用いられることもある、通経剤を用いて人工的に月経を起こすことは、着床している胚を中絶するという限りにおいて、避妊ではなく中絶の罪に陥ると教える(Congregation for the Doctrine of the Faith 2008 n.23)。
このように、カトリックの教説はどのようなことがあろうとも、胎児を救おうとしなければならないと教える。胎児が人生を歩まずに終えるよりも、胎児が人生を歩んだ方が無条件に良いと考えているのである。さらに、教皇ピウス11世は1930年に回勅Casti Connubiiの中で、ユダの子のオナンの行ないと並列させて避妊や中絶を堕落した邪悪な行為であるとして、これらを正当化することを批判している(5)(Pope Pius XI 1930 n.53-55 n.64)。
しかし、母親の生命が危ぶまれている場合など、どうしても中絶を行なわなければならない場合もある。一方で、カトリックの教説からすれば行なう必要のない中絶でも、実際には行なわれてしまう中絶もある。すでに行なわれてしまった中絶に対しては、何をしたところで、中絶によって失われた人間の生命はどうすることも出来ない。行なわれてしまった中絶に対して教皇庁は、母親を行なわれた中絶と向きあわせて罪であることを認めさせ、その上で母親にその過ちを悔い改めさせている。そうすることで、中絶された子供に対しても許しを求めることが出来ると考えている。その上で、前教皇ヨハネ・パウロ2世は中絶をした女性に対して次のように述べている。
他の人々からの友情に満ちた専門的な助言によって、さらに皆さん自身が味わった痛ましい経験の結果、皆さんは、すべての人がいのちの権利をもつことのもっとも雄弁な擁護者となりうるのです。これから子供たちの誕生を受け入れることによって、あるいは身近にいてくれる人を必要とする多くの人々を迎え入れ、世話をすることによって、いのちとかかわることをとおして、皆さんは人間のいのちに対する新しい見方を推進する人となるでしょう。(Pope John PoulU 1995=1996 n.99: 202)
中絶された胎児の遺体の扱いに関しては、「胎児の遺体は、それが意図的に中絶されたか、あるいは自然の流産によるかにかかわらず、他の人間の遺体と同じように尊重されるべきである」(Congregation for the Doctrine of the Faith 1987 T・4: 26)として、中絶された胎児に他の人間の遺体と同等の尊厳を認めている(6)。
いのちがあるところでは、愛の奉仕は徹して首尾一貫したものでなければなりません。愛の奉仕は偏見や差別を許容することはできません。それは、人間のいのちはどのような段階にあり、またいかなる境遇にあろうとも、神聖で不可侵だからです。人間のいのちは分割できない善なのです。ですから、わたしたちはすべてのいのちに対して、まただれのいのちに対しても、「気遣いを示す」必要があります。実に、いっそう深いレベルで、わたしたちはいのちと愛の根源そのものへ分け入る必要があるのです。(Pope John PoulU 1995=1996 n.87: 177)
ヨハネ・パウロ2世はこのように述べた上で、「以上のことはすべて、一人ひとりが他人の重荷を担うよう励ます(ガラテヤ6・2参照)ことを目的とする」(Pope John PoulU 1995=1996 n.88: 178)と述べている。
以上にカトリックの中絶に関する主な教説の内容を代表させるとしよう。教説は、中絶をしないかわりに子どもを養子に出すことを教えていた。さらに、教説には、中絶をしない替わりに子どもを養子に出すよいう選択を肯定しているように読める箇所もある。この点で、「こうのとりのゆりかご」の設置の意図はカトリックの立場と整合する箇所があるかもしれない。「こうのとりのゆりかご」には、産みの親が子どもを育てない/育てられないことから起こる中絶を防ぐという目的があるためである。とはいえ、より詳細に検討すると、教説と「こうのとりのゆりかご」には微妙な差異もある。次章では養子に関わる教説を見ていく。
2.子どもへの愛
家庭については、1980年のシノドス(世界代表司教会議)が家庭のもつ四つの普遍的な使命(人間共同体を作ること、生命に仕えること、社会の発展に参加すること、教会の生命と使命を分かち合うこと)を強調したことが、ヨハネ・パウロ2世による使徒的勧告『家庭』で述べられている(Pope John PoulU 1981=2005 n.17: 35-36)。
神の計画では、結婚は家族というもっと広がった共同体の始まりです。なぜなら、結婚と夫婦の愛は、子どもの出産と教育に向けて定められており、この出産と教育の中に栄光と誉れを見いだしているからです。
愛はそのもっとも深いところで本質的にたまものです。そして夫婦愛は、二人が互いを「知り合うこと」によって「一つの肉」になるよう彼らを導きながらも、夫婦だけに終わるものではありません。なぜならそれは二人に、考えられる最大のたまもの、すなわち新しい生命を与えるための神の協力者となるたまものを与えてくださるからです。こうして夫婦は互いに自分を与え合いながらも、それのみにとどまらず子どもをも与え合うのです。子どもは愛の生きた実りであり、夫婦の一致が永遠であるしるしです。また父であり母であるという断ち切ることのできないきずなのしるしでもあります。
夫婦は親になるとき、神からのたまものとして新しい責任を引き受けます。親としての愛は、子どもにとって「天と地にあるすべての家族の源である」神の愛の、目に見えるしるしとなるのです。
しかし、たとえ子どもを産むことができなくても、そのために夫婦の生活の価値を失うものではないことも忘れてはなりません。事実、子宝に恵まれないということは、その夫婦にとって人間の生命への別の重要な奉仕の機会となることもできます。例えば養子をとること、さまざまな形での教育的な仕事、他の家族や貧しい人々、障害のある子どもを助けることなどができます。(Pope John PoulU 1981=2005 n.14: 29-30)
家族間を結ぶ連帯を非常に意義深いものとして表すのは、両親に見捨てられた子どもたち、あるいは深刻な虐待のうちにある子どもたちをすすんで養子縁組し、受け入れる態度です。親としての真の愛は、他の家族から子どもたちを受け入れるために血肉のきずなを喜んで超えようとし、子どもたちの幸福と従前な発育のために必要なら何でも与えようとします。(Pope John PoulU 1995=1996 n. 93: 189)
カトリックの家庭像は、「血肉のきずな」に縛られてはおらず、「家族間を結ぶ連帯」によって結び付けられているものとされる。だが、「ただ経済上の貧しさから子どもの養育を断念する」場合には、「一定の距離を置いた養子縁組」を考慮すべきであり、必要な援助が与えられることで、両親は親子の「自然な状態」から引き離されることなく、自分達の子どもたちを支え、養育できるともしている(Pope John PoulU 1995=1996 n.93: 189)。この場合、「親子の自然な状態」は血のつながりがある親子と考えられるだろう。つまり、血縁のない家族よりは血縁のある家族の方が望ましいということになる。
しかし、全ての子どもが家庭で育てられるわけではない。ヨハネ・パウロ2世は、「生まれたばかりのいのちは、援助センター、および新しいいのちを歓迎する家庭やセンターにおいても世話を受けています」と述べている。さらに続けて、「このようなセンターの活動のおかげで、多数の未婚の母と困窮のうちにある夫婦は、新しい希望を見いだし、身ごもったばかりのいのち、あるいは生まれたばかりのいのちを受け入れる困難や恐れに打ち勝つための助けや支えを得」ることが出来ているのだと述べている(Pope John PoulU 1995=1996 n.88: 179)。加えて、カトリックの家庭像を築かせるための手助けをすることを家庭以外にも求めている。
いのちの最初の段階については、受胎調節の自然的な方法を扱うセンターが設立され、責任ある親となることができるよう価値ある手助けが提供されるべきです。そこでは、すべての人が、また何よりも子どもたちがその権利において認められ、尊ばれ、さらにあらゆる決断が、自己を心からの贈り物とするという理想によって導かれるのです。結婚・家庭相談所は、人間、夫婦、そして性に関するキリスト教的な見方に立脚した人間学に基づいて実行される指導と予防という特有の働きによって、愛といのちの意味を再発見することにおいて、また「いのちの聖域」としてその使命を担うあらゆる家族を支援し、家族とともに歩むことにおいて、大いに貢献しています。(Pope John PoulU 1995=1996 n.88: 178-179)
悲しいことに、今、世界中のあちこちで、多くの子どもたちが、苦しみおびえているのです。この子どもたちは、貧しくておなかをすかしていたり、病気や栄養失調でいのちをおとしてしまったり、戦争の犠牲になったりしています。両親に捨てられ、帰る家もなく、あたたかな家庭もないままです。おとなたちのさまざまな暴力とおどしにあっています。多くの子どもたちの苦しみ、とくにおとなたちから受ける苦しみを知ったとき、知らない顔をしていることができるでしょうか?(Pope John PoulU1994b=2005: 16)
「夫婦行為」の結果として子どもが生まれるようにする科学技術であれば、人間の生命を人為的に操作していることにはならないとされる。そのため、原則として「配偶者間の人工授精(artificial inseminate)は認められない。ただし、その方法が夫婦行為の代わりとしてではなく、夫婦行為の自然な目的の達成のためになされる場合は違う」(Congregation for the Doctrine of the Faith 1987U・B・6: 46)とされ、また「夫婦の行為を助けるかまたはその自然な目的を助けるためのものでれば、倫理的に認められる」(Congregation for the Doctrine of the Faith 1987U・B・6: 47)とされている。人工授精には、夫の精子を使うAIH(artificial inseminate with husbands semes)と、夫以外の精子を使うAID(artificial inseminate with donr's semes)がある。AIHは夫婦の子どもを授かることになり、「夫婦行為の自然な目的の達成」ために行なわれることが出来るが、AIDは生物学的には夫ではない男性の子どもを授かるため、夫婦行為の自然な目的は達成されない。そのため、カトリックの教説においてはAIHのみが人工授精で許され得る技術である。さらに体外受精(IVF : in vitro fertilization)に関しては、カトリックの教説において一切認められていない。
14. 体外受精はとても頻繁に胚の故意の破壊(destruction)を必然的に含むという現実が『生命のはじまりに関する教書』においてすでに示されている。体外受精がまだやや不完全な技術であるためであるという主張もある。しかしながら、後に体験したことは、すべての体外受精の技術が、まるで人間の胚が使用され、選択され、廃棄されるための単なる細胞のかたまりであるかのように進行するということを明らかにした。(Congregation for the Doctrine of the Faith 2008 n.14)
人を殺すばかりでなく、大陸の経済的安定と社会的安定を深刻に脅かすAIDSウイルスと戦うための貴方たちの努力を今後とも継続するよう、私は強く主張します。カトリック教会はAIDSの予防と治療の両方において常に最先端にいます。教会の伝統的な教えはHIV/AIDSの広がりを防ぐ唯一絶対に安全な道筋であるとわかりました。この理由に対して、「キリスト教の結婚と貞節が備える交際、喜び、幸せ、平和、加えて純潔が与える予防手段は、忠実な信徒達、特に若者達に絶え間なくプレゼントされなければなりません」。(Pope Benedict XVI 2005 n.4)
トマス(Thomas Aquinas 1224/5-1274年)の思想を信奉する論者の中には、立論の基礎を遅延入魂説(theory of delayed animation)に置き、理性的霊魂(rational soul)を受容しうるために身体が十分に組織される瞬間について問いを提起する者もある。理性的霊魂は、精神的な活動(spiritual activities)を展開する準備ができた身体にのみ存在することができ、この機能を行使するために必要な条件は、ある説によれば、大脳皮質の存在である。このような立論の結果として、受精時に形成された生物学的な有機体(生物学的活動能力のみがあり、理性的活動能力はない)は、理性的霊魂を受け入れる準備ができていないことになる。
この立場は、トマス主義のいくつかの学派によって、一つ一つ批判されている。それによると、アリストテレスによって、のちに聖トマスによって支持された遅延入魂説は、質料形相論の諸原理から論理的に導かれた帰結ではなく、むしろこの二人の著者の時代に用いることのできた限られた生物学的知識に本質的に依拠していた。この諸原理を正しく適用すれば、改訂された現代版の科学的知識によって即時入魂説を支持し、したがって新たに形成された人の完全な人間性を断言するに至る。(Pontificia Academia Pro Vita 2006=2008: 38)
「こうのとりのゆりかご」は現在のカトリックの教説の考え方を背景に設立されたということが出来る。「こうのとりのゆりかご」は、子どもの生命を「守る」ということを目的として設立されたために、目的はある程度達成している。だが、預けられた子どもが家族を得ることが出来るかどうか分からない以上、子どもが家族の中で育つことを望んでいるカトリックの教説において最も望ましいものではない。とはいえ、最も望ましいものでないとしても望ましいことであるのだから、教説に反しているわけではない。さらに、「こうのとりのゆりかご」を設立し、運営している慈恵病院は「施設」である。「施設」は家庭を提供することは求められておらず、家庭を提供するための「手助け」をすることを教説で求められている。慈恵病院の実践は、看護を提供するだけではなく、子どもの生命を「守る」ことである。家庭を提供するための「手助け」をしているということは、「施設」としては教説に適っているのである。
本稿で見てきたように、カトリックの教説は現在においても、変化し続けており、必ずしも一貫した見解を示しているとは言いがたいかもしれない。4章で引用した生命アカデミーの言及(Pontificia Academia Pro Vita 2006=2008: 38)でもあったように、カトリックの教説の見解は、それぞれの時代に用いることの出来た科学知識に本質的に依拠することで成り立っている。
科学的な事実は反証可能である以上、現在の社会で科学的な事実として広く認知されていることは絶対的な論拠とはならない。教説を示す立場である教皇庁は、必要とあればなるべくこれまでの解釈に沿う形で今までにも変更した例はいくつもある。本稿で取り上げたものの中でも、「地球上のものは……統治するもの」であるという考えや、「人間の霊魂が成長のどの段階から宿るのかはともかくとして、受精した瞬間から一つの生命」であるという考えがそうである。さらに、絶対的なことであると信じられていることですら、コペルニクス的転回が起こらないとは限らないことを踏まえるならば、カトリックのこの姿勢は生き残り戦略としては有効な手段であっただろう。中絶という一つの問題を見ても、当事者や関係する事柄が、子ども、親、家族、法と実践、政治、「センター」、「施設」、「施設」で働く人々、他の医療実践と中絶など、多く複雑な関係図式をなしてしまう。それぞれに関わる科学的な学問研究だけを見ても多岐に渡り、膨大なものとなる。科学的な研究以外の諸学問を含めるとさらに一つの問題に関係する研究が多くなることは明らかである。そのような状況に対して、各アカデミーを設置し、様々な分野からの専門的見地を集めた上で、教説を発するのは有効な手段といえるかもしれない。
カトリックの教説は、それぞれの時代の科学的な論拠をもって論じられてきた。避妊をしなくなることでどれだけHIV/AIDS を含む性感染症の拡大を防ぐことができるのか実際のところは疑問も残るが、すでにみたKajubiほか(2005)が示そうとしたのは、カトリックの教説が示す道徳的な行動が理にかなっている一例であった。
カトリックの教説が議論を交えながら常に変化してきたことと、議論の蓄積があることを踏まえるならば、カトリックの教説の形成過程を見ることで、教説を把握する以外にも、どのような人々が対象となる問題であるのか、どのような事柄が関係してくる問題であるのか、これまで歴史の中でその時代ごとにどのように考えられて議論されてきた問題であるのかということなどを知ることが出来る。このように、カトリックがこれまでしてきた議論を省みることは、教説を正確に把握する以外にも学ぶところがあるだろう。
「自らをかけて共通善のために働くべきであるとする堅固な決断」の具現として、連帯も、社会生活と政治生活に参加することをとおして実践される必要があります。ですから、いのちの福音に奉仕することは、家族がとりわけ家族の団体の一員であることをとおして、国家の法律と機関が、妊娠から自然死へ至るまでの生存権を決して侵害することのないように、むしろいのちを守り育てるようにするために活動することを意味します。(Pope John PoulU 1995=1996 n. 93: 190)
また、ヨハネ・パウロ2世は、政治指導者に対しては以下のように言及をしている。
罪のない人の本性的権利である生存権を侵害する法律は不正であり、そのような法は法として無効なのです。それゆえわたしは、人間の尊厳を無視することによって社会の枠組みそのものをむしばむ法律を通過させてはならないと、すべての政治指導者たちに再び訴えます。(Pope John PoulU 1995=1996 n. 90: 183-184)
(4)旧教会法第2350条第1項では「堕胎をした者は、母を含めて、結果が発生したときは、裁治権者に留保される既定の破門制裁に処せられる。また、聖職者の場合は、さらに免職される」とされ、教会法第1398条では「堕胎を企てる者にして、既遂の場合は、判事的破門制裁を受ける」とされている。だが、以下の本文では、中絶をした母親について取り上げているように、必ずしも破門にされるわけではない。
(5)ここで非難されたオナンの行為については「オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入るたびに子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された」(『創世記』38・9-10)となっており、オナンは神によって殺されている。
(6) Harst(1989)は、胎児や死産で産まれた赤ん坊には洗礼や葬儀を行なわなず、実際には教会自身が尊重をしていないにもかかわらず、胎児や死産で産まれた赤ん坊が人間であると言うのは矛盾があると主張している。その後、同様の反論に対して、教説を示す立場である教皇庁はPope John PaulU(1995=1996)やInternational Theological Commission(2007)で回答を出したと言える。
◆文献
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Kajubi, Phoede, Moses R. Kamya, Sarah Kamya, Sanny Chen, Willi McFarland and Norman Hearst, 2005, ”Increasing Condom use withiout Reducing HIV Risk: Results of a Controlled Community Trial in Uganda,” Jounal of Acquir Immune Defic Syndr, 40(1): 77-82.
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(http://foster-family.jp/data-room/stock-file/20080908konotori-chukan.PDF 2009-09-06)
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────, 1994a, Litterae Familiis Datae, Libereria Editrice Vaticana.(=2005,糸永真一訳「家庭への手紙」『家庭──愛といのちのきずな』ペトロ文庫.)
────, 1994b, Letter of the Pope John Paul II to Children in the Year of the Family, Libereria Editrice Vaticana.(=2005,カトリック中央協議会出版部訳「子どもたちへの手紙」『子どもたちへの手紙』カトリック中央協議会.)
────, 1995, Evangelium Vitae, Libereria Editrice Vaticana. (=1996,裏辻洋二訳『いのちの福音』カトリック中央協議会.)
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