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出生前選別批判の可能性と限界

堀田 義太郎 2009/12/04
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 20091204
櫻井 浩子堀田 義太郎 『出生をめぐる倫理――「生存」への選択』
立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告10,194p. ISSN 1882-6539 pp.143-170


出生前選別批判の可能性と限界

堀田義太郎

はじめに

 障害を理由にした選択的中絶や着床前診断に基づく胚の選別に対する批判は多い。だが、選別批判の実質的な主張はそれほど明確ではない。批判が「選別しない方がよい」という主張を含むのは当然として、ではさらに「選別は悪い」と言っているのか、あるいは「選別は禁止すべきだ」と主張しているのか。その批判の対象となる選別行為・批判に含意されている要求内容・そしてそれらの理由は明確ではない。
 まず、「出生前」の決定と言っても幅がある。批判はどこまでを含むのか。たとえば、胎児の障害を避けるために風疹のときには避妊しよう、という決定も含むのか。生殖の時期の選択は、胚の選別とどう違うのか。また、それらと妊娠後の中絶とは違うのか。違うとすれば、どこにどんな違いがあるのか。これらに違いがあるとして、出生前選別批判は、どの決定に対していかなる批判を行うのか。
 批判に含意されている要求内容を、強度に応じて区別する必要もある。肯定するにしろ否定するにしろ、それには強度がある。たとえば、法的強制と禁止を両極として、少なくとも推奨、積極的許容、消極的許容、忌避勧告がある。そして、強制や禁止の要求には、相応の強い理由が必要になる。出生前の選別が「差別」だとして、しかしそれを理由にして、風疹を理由に妊娠を避ける人に妊娠を強制すべきだなどとは誰も言わない。では、胚の選別や妊娠後の選択的中絶はどうか。あるいは、選別の前提になる診断はどうか。禁止まではできないとして、「選別しない方がよい」として忌避勧告を行うのか。だが、忌避勧告だとして、それは「良くない」という否定的評価や道徳的非難を伴うのか。そうではなく、「選別は良いことだとは言えない」と主張するに留まるのか。これらは言うまでもないが異なる。ある行為に対する肯定的評価を否定することと、その行為自体に否定的評価を下すことは別だからである。肯定か否定かという枠組みではこの違いは看過される。これまで、出生前の選別をめぐる議論は多いが、こうした区別が明確になされてきたとは言い難い。

 以下では、選別をむしろ推奨する議論の検討を通して、生殖選別批判の射程を再確認する。選別推奨論としてとりあげるのは、2001年のJournal of Medical Ethics(JME)の第27号に掲載されたジョン・ハリス(John Harris)の論考である(Harris 2001)。JMEの同号370?392頁は、「平等と障害」と題されたシンポジウムにあてられている。冒頭の「導入」でボイドが述べるように、この特集の争点はハリスの主張にある。そして、この特集の直後にも、JME誌上では、ハリスとコッホとのあいだで短いやり取りが行われている(JME 2002: 203-4)。また、コッホはその後も、Journal of Medicine and Philosophyの2004年(26巻6号)と2006年(31巻)などに、障害学の観点から生命倫理学の議論を批判的に検討する論考を発表しており(Koch 2004, 2006)、エドワーズは、2004年にJMEに「障害、アイデンティティ、表現主義的反論」と題した論考を発表している(Edwards 2004)。以下ではこれらの議論も踏まえてハリスの議論を少し詳細に紹介検討した上で、出生前選別批判の射程を再確認する。

1.ハリスの議論──「障害=害された状態」モデル

 ハリスは、「障害学の一つの原理と三つの誤謬」というタイトルのとおり、障害をもつ胎児の中絶や胚の選別に反対する議論の「間違い」を指摘し、選別を擁護する。
 ハリスによれば、障害学の一つの原理とは、「全ての人間は平等であり、誰も他の人よりも劣ってはいない。些細であれ重度であれ、障害がないことは、道徳的、政治的あるいは倫理的な地位や価値、評価で劣っていることを含意しない。これは平等の原理の一種である」というものである。ハリスは、これが誰もが共有する原理であるということを確認する。別の表現をすればこの原理は、

「障害、ハンディキャップ、損傷をもつ人々は、完全で自由で平等な人間であり、それが含意するようなあらゆる権利と権限そして保護に値する市民である。障害者は差別から自由であるべきだし、諸個人と社会は、この自由で平等な地位が、他の誰とも同じく容易に享受できることを保障するために要求されるあらゆる手段を取らねばならない」(383-4)

 ということである。ハリスはこれを当然のこととして認めていると言う。
 その上で、この原理を受け入れるからといって、次のような議論は受け入れられない、と言う。

@被害や機能障害の回復や、機能増強を選択することは、従前の状態が耐え難いということを含意するか、そのような状態の人が価値において劣っているということを含意するか、あるいはそのような状態にある個人は価値のない生活を送っているか、完全にとは言わないとしても生きる価値がないということを意味する。
A損傷が少なく、病気もなく、あるいはより健康で、強化された能力をもつ子どもを産む目的で、出生における選別を行うことは、必然的に平等の原理を侵害する。
B障害ないし損傷は正常性、つまり「種に正常な機能」ないし「種に典型的な機能」のいずれかに相関的に定義されざるをえない。


 ハリスは、これら三つの議論はすべて間違っていると主張する。ハリスはまず、「障害」概念の捉え方について、障害学サイドの論者と自らとのあいだにある違いを確認する。ハリスによれば「障害」とはまずは何よりも「害された状態(harmed condition)」である。それに対して、障害学サイドからハリスを批判する論者たち、たとえばコッホやジョーンズ、エドワーズは別の捉え方をしている(383)。
 障害学では、「障害」は、disability、impairment、handicapというカテゴリーに分類される。障害学は、身体的機能の損傷を「impairment」と呼び、他方で、「disability」は、ある種の人びとを標準とした──建物等のハード面のみならず人々の行動の背景にある価値観等のソフト面も含む広い意味での──社会構造によってもたらされる生活上の不利益や制約を指す語として用いる。つまり、特定の「impairment」が「disability」になるかどうかは社会構造や価値観次第だということになる。他方で「handicap」という語は貶価する意味を含んでいるため、あまり用いられない。この、機能損傷そのものと社会生活や機会の制約とは別だという障害学の立場からは、エドワーズのように「障害があるということは、異なる能力がある」ということである、という主張も導かれる。
 しかし、ハリスにとって、こうした障害学の議論には説得力はない。ハリスは、障害があることと異なる能力をもつこととは「いかなる意味でも同じではない」(ibid.)と述べる。というのもハリスによれば、たとえば「聾者は彼らを取り巻く社会環境がどんなものであれ聞くことができないし、したがって、(聞こえることが種にとって典型的な能力であるか否かにかかわらず)聞こえる人々と比較して障害があるのであり、その環境に相関しているのではない」(ibid.)からである。もちろん、ここではまだハリスの「障害=害された状態」モデルの説明は十分ではない。ハリスはこのモデルを含む自らの主張内容を、次の三つの問いを通して明らかにしていく。三つの問いとは、

 1.障害とは何か?
 2.障害をもたない方がよいのか、あるいは障害をもつ人にならない方がよいのか?
 3.できるなら、障害をもつ人々を存在させることを避ける方がよいのか?
 である。これらは、先に見た「三つの誤謬」に、順番は異なるが──「誤謬」にまとめられた最後の論点がここでは最初の問いになっている──それぞれ対応している。これらの問いに即してハリスの議論を確認していこう。

1-1 障害とは何か、それは避けた方がよいのか?
 ハリスと障害学の議論との対立の根幹にあるのは、「障害」の定義の相違である。ハリスによれば、「障害」とは、「人びと(someone)がそうありたくないという強い合理的な選好(strong rational preference)をもつ状態であり、ある意味で、害された状態」である(384)。そして、「害された状態とは、一つには人びとの合理的選好に相関して、もう一つは、正常な種の機能ではなくて、可能的な選択肢との関係で、害あるものとして描写されうるような状態として定義される」。つまり、人びとが「そうありたくない」「そうなりたくない」という強い合理的な選好をもつ状態であり、かつ「可能的な選択肢」が削減された状態であること、この二つがハリスの「障害」の定義である。
 もちろん、「害された状態」と呼ばれうるもの、呼ぶべきものを正確に識別するのは難しい。だがハリスによれば、害はきわめてわずかなものでも害でありうる。「害」とは、私たちが「そうありたくない」と思う状態である。それがどんな状態であるかについてハリスは、次のような例を通して説明している。それは、「仮に一人の患者が事故に見舞われて、その状態で病院の救急室に無意識のまま運びこまれ、そしてその状態が回復ないし除去可能だったとして、医療スタッフが、その回復ないし除去に失敗した場合には、職務怠慢だと言われうるような状態」(384)である。ハリスによれば、ここで回復・除去されるべきだ、と誰もが思うような状態がすなわち「障害」である。
 「障害とは何か」という問いにこのように答えた上で、ハリスは「障害をもたない方がよいのか、あるいは障害をもつ人にならない方がよいのか?」という問いに議論を進める。ハリスはこの問いにもちろん「イエス」と答える。ハリスはまず、障害者は単に「異なった能力をもっている」のであって、なんら害されているのではない、という反論を検討する。ハリスを批判する論者──ここではコッホとエドワーズ──はしばしば、たとえば「聾(deaf)」を取り上げ、それが害でも欠損でもないかのように語っている。これに対してハリスは、医者が親に対して次のように述べたと考えてみよ、と言う。

「私はちょっとしたアクシデントであなたの子どもの耳を聞こえなくしてしまいましたが、それにはまったく苦痛を伴うことはなかったし、害を与えたわけでもないのだから、心配することもないし取り乱す必要もないですよ!」(384)

 ハリスは、このような発言を真面目に受け入れる人は誰もいないだろう、と指摘する。これらは誰が見ても単なる馬鹿げた冗談でしかないが、それはなぜか? と問うのである。ハリスによれば、それは、ここでもたらされる状態(聾)について、誰もができるならば避けたいと思っているからにほかならない。ハリスはこう述べた上で、次のようなコッホの議論は間違っていると指摘する。

「人は他の人々にもたらされるような喜びを、それらを知覚する能力が他人と比べて自分は害されているとか損失しているということを強調しなくても、知ることができる。結局のところ、多くの人びとはクラシック音楽を楽しむことについては「聾」なのだが、クラシックを聴解する能力の限界について、誰もそれを害ないし損失であるとは考えない」(ibid.)

 だが、ハリスによれば、「クラシックの楽しみについて「聾」だということは、聾をカッコに入れてはじめて言えることである。音楽の趣味は教育されうるが、深刻な聾の人にとって聞くことを教育することはできない」(ibid.)。ハリスは、障害をもつ人の人生も「十分に楽しいものになるだけでなく、むしろ真に素晴らしいものにもなりうる」、というコッホらの主張を認める。しかし、ハリスにとって問題は、当人の人生が主観的に素晴らしいかどうかではない。問題は、たとえそれが非常に些細なものであっても、たとえば「小指の第一関節を失うような場合でも、我々は、たとえわずかなものだったとしても不必要な不利をもって人生を開始しないことに対する理由をもつ」(ibid.)という点にある。
 「障害をもたない方がよい」と人が考えるかどうか、という問いに対するハリスの答えは、「障害」を〈人びとがそうなりたくないという強い合理的選好をもつ状態〉として定義する限り、あらかじめ決まっていたとも言える。とはいえ、この段階では、ハリスの議論が私たちの直観に訴える力をもっていることを認めないわけにはいかないだろう。
 このような地ならしをしてハリスは、出生前選別の問題に取り組む。問題は、「できるならば障害をもつ人々を存在させることを避ける方がよいのか?」である。

1-2 できるならば障害をもつ人々を存在させることを避ける方がよいのか?
 まず、ハリスによればこの問題は、どの程度の障害ならば出生前選別は「正当化」されるのか、といった問題ではない。ハリスによれば、重い障害ならば選別は正当だが軽い障害ならば正当化できないといった議論がしばしば展開されるが、それは中絶を念頭に置いているからである。とくに欧米では、中絶は一般に、それ自体で正当化を要する対象だと認識されている。つまり中絶は、「出生選択の倫理学(the ethics of reproductive choice)」を純粋に考察する上で邪魔な要素である。こうしてハリスは、出生前選別の妥当性の検討を、中絶をめぐる議論とは切り離す(385)。
 むしろハリスによれば、「胚の選別」を想定した方がよい。胚の選別においては、胎児の道徳的ステータス等は問われないし、女性には何の義務もない。胚の選別は既に妊娠している状態を終わらせるのではなく、むしろ病気のときには妊娠を避けるといった、生殖の時期の選択に近い。ハリスによれば、既に妊娠している状態を前提にした中絶を考察から外すことで、「何が出生選択を正当化するのか、そして間違っているとされるような出生選択があるとしてそれはどんなものか?」という問題の核心だけを考察できるようになる(ibid.)。
 ではハリスはこの問いにどのように答えるのか。これに答えるためにハリスは、次のようなコッホの議論を媒介する。

「優生学的選別の基盤としての将来の害という想定は、ALSやMS(多発性硬化症)、家族性アルツハイマーやハンチントン舞踏病のような状態に当てはめることも正当化することも困難である。……人生の後半にこれらの病気を得るかもしれない人を排除することは、物理学者ホーキングやロナルド・レーガン大統領、歌手のウッディ・ガスリーのような人々を社会から奪うことになるだろう」

 ハリスはまずこのコッホの議論を「ベートーベン中絶の誤謬」と呼んで斥ける。
 たとえば、ハリスの親がもし仮にハリスが生まれた1944年に妊娠するのを止めていたとして、しかしそれはそもそも「悪いことをした」とは言えないし、「ハリスに悪いことをした」とはさらに言えない。ハリスはその決定によってそもそも存在しなかったことになるからである(385)。そこには「悪を被ったあるいは害を受けた人間は誰ひとりとして存在しない」(ibid.)からである。
 つまり、「存在すべき人の選択(choosing who shall exist)」については、たとえどんな選択をしたとしても、誰もその選択から不利益を被る「人」は存在しない。したがって、「着床前の胚の中で選択することや、ある種の胚の妊娠を避けることが不公平な差別であると考えることは、単純に誤謬である」(386)。
 産まないことは、誰かに害を与えているわけではない。しかし、同時にハリスは、障害をもつ子を産まないことについて、「道徳的理由がある」と主張する。とはいえそれは障害者は「生きるに値しない」とか「生の質が低い」ということではない(ibid.)。

「たとえ些細な害であってもそれ生み出したり与えたりしない理由が我々にはあり、たとえ小さなものでも利益を与えることについて理由がある。しかし、他の点が等しければ、不必要な害を被る個人を産みださない方がよいだろうということは、この個人にとって、彼ないし彼女は決して生まれなかった方がよいだろうということとは異なるし、彼らが生まれなかった世界の方がよいということでもない。さらには、障害をもつ個人が他の人びとに比べて価値がないとか劣った人間であるということでもない」(ibid.)

 これは、出生前段階での選別は、既に存在する人びとに評価を下しているわけではない、という主張の論拠にもなっている。
 とはいえここで、誰を実在させるべきかの選択は、その選択がどんなものであれ誰にも害を与えていないというハリスの議論は、障害をもつ人は産まない方が「良い」という自説を掘り崩す可能性をもつ。障害をもつ人は産まない方が「良い」と言いたいハリスにとって、クリアしなければならないのは「非同一性問題」である。
 上の議論は、もし生まれたとしたら「良い」人生を送ったかもしれないとしても、その人を産まないことは「良くない」とか、生まれた方が「良い」とは言えない、ということである。生まれないことで、その人が「良さ」を失うことは──生まれないのだから──あり得ないからである。とすれば、他方、生まれたとしたらどんなに「悪い」人生を送る人であっても、生まれない方が「良い」とも言えなくなる。生まれないことで、その人が「悪を回避する」という「良さ」を享受することは──生まれないのだから──あり得ないからである。
 つまり、物事の良し悪しはその影響を受ける個体に即してしか意味をもたないとすれば、出生前の選択肢の先に存在するのは、別人である以上、出生前選別について「良し悪し」は言えない、ということになる。
 しかしハリスは、《障害をもつ人を産まない方がよい》と言いたいのだから、この問題をクリアする必要がある。
 この点に対応するのが、次の論点である。それは、エドワーズによるハリス批判に対する応答として展開されている。ハリスによれば、エドワーズの批判は誤解に基づくものである。エドワーズは、ハリスが〈障害者を生むことは「悪を為す」ことだ〉と主張しているかのように理解している。だが、ハリスによればこれは誤解である。ハリスによれば、このような誤解が生ずる原因は、エドワーズが「何か悪いことを行うこと」と「悪を為すこと」の区別を看過している点にある。エドワーズの批判に対して、ハリスは、自分は障害をもつ胎児を中絶しないことが「悪を為すこと」だなどとは論じていないと述べる。そこで導入されるのが「何か悪いことを行うこと(doing what’s wrong)」と「悪を為すこと(doing a wrong)」という区別である。

「『何か悪いことを行うこと(doing what’s wrong)』と『悪を為すこと(doing a wrong)』とのあいだには違いがある。後者は、誰かが悪を被るということを含意している。だから明確に言うならば私は、『もし母親が少し後の時期に、もっと健康な胚を妊娠できるとしても、現に障害のある子を妊娠し続けることは一つの道徳的な悪(a moral wrong)である』とは、考えていない。とはいえ、妊娠を続けることは悪い(wrong)とは考えている。しかし、その結果として生まれた子供が生きるに値する生を営むかぎり、その子供はそれによって不当な扱いを受けているわけではないし、それは『悪』を為していることにはならないだろう」(387)

 つまり、ハリスによれば、障害をもつ胎児を中絶しないことは「何か悪いこと」である。だが、その悪を被る個体が存在しない限り、「悪を為している」とまでは言えない。また、生まれてきた子が障害を持ちつつ、充実した人生を送ることもある以上、なおさら「悪を為している」などとは言えない。ただ、障害を持って生きる本人の主観的経験にかかわらず、もし可能ならば障害のない子を生む方が「何か良いこと」だ、と言うのである。この区別によってハリスは、障害をもつ子を生まない方が良い、というとき、その「良さ」を、生まれないはずの存在者──このような表現自体が意味をもたないのだが──に即して言うことはできない、という問題をクリアしようとするのである。
 これに加えてハリスは、「障害=害」というハリスの議論に対するエドワーズの批判についても、誤解があると指摘する。エドワーズは、「害(harm)」の定義には必然的に、そしてつねに「主観的に不快な経験(subjectively unpleasant experiences)」が含まれると理解している。エドワーズは「苦悩(suffering)」という語の意味についても、「主観的な不快の経験」として理解している。だが、ハリスによれば、「害」と「主観的な不快の経験」は別である。「害」には、必ずしも主観的な不快の経験としての「苦悩(suffering)」は含まれない。さらにハリスによれば、ハリス自身が「害を被る(suffer harm/ suffer disability)」という表現を使う場合があるとしても、そこで用いられる“suffering”や“suffer”という語には「主観的な不快の経験」は含まれない。だからたとえば、障害者が充実した人生を送っていることもある、というエドワーズの批判は、ハリスの「障害=害」という議論を否定する理由にはならない。

「私が「障害をもつ人は不可避的に〈害を被る(suffer)〉だろう」というとき、私が言いたいのは「害を被る──害を経験する、障害から害を被る」ということであり、必ずしも「苦痛や悲嘆を感じる」ということではない」(387)
「さらに、私の障害についての説明は、「苦悩(suffering)」の観念には言及してさえいない」(ibid.)


 このように述べた上で、ハリスは、幸福な人生を送る障害者もいるという指摘を認めたとしても、障害は害であるという彼の議論の核心が揺らぐことはないと主張する。ハリスは、「不必要な害を防止することは正しいがゆえに、障害をもつ人々の誕生を防止することは倫理的である」と信じているというのである。つまり、「いかなる主観的な苦悩(suffering)がないとしても、そこには依然として害は存在するだろうし、他者に害を与えるような出来事をなくすことへの正当性も存在する」(387)。

1-3 まとめ
 以上のハリスの議論の骨子を、あらためて整理しておこう。
 まず、ハリスは障害を「害された状態」と定義する。そう定義する理由は、障害は「人がそうありたくないという強い合理的選好をもつ状態」であり、かつ「機会を制約する」からだとされている。ハリスはその上で、すでに存在する障害者に対する平等な処遇を追求することと、出生前に障害者を生まないようにすることは両立すると述べる。ハリスによれば、すでに存在する障害者がいない方がよいという差別的な態度と、未だ生まれていない段階で障害者を産まない方がよいと主張することはまったく別のことである。生まれる前の選別によって影響を受ける人は──生まれていないのだから──存在しないからである。別々の選択肢の先に生ずるのは、別人である。
 しかし、このように言ってしまうと、障害をもつ人を産まない方が「良い」という主張を支える観点も失われかねない。選別の結果として生ずるのは別人なので、障害者であれ健常者であれ、誰を産もうが産ままいが、それぞれの選択肢の先に生まれてくる当人に即して、どちらが「良い」とも「悪い」とも言えないはずだからである。したがって、障害者を産む方が何か「悪い」/障害者を産まない方が何か「良い」と主張するために、ハリスは──パーフィットやシンガーとともに──、選別の結果として生まれる(生まれない)人に即さずに、「何か悪い」と言えるように議論を組み立てる必要がある。
 ここで「何か悪いことを行うこと」と「悪を為すこと」の区別が導入される。たしかに、誰も悪を被る人がいないような行為について「悪を為している」とは言えない。したがって、障害者を出生させることが「悪を為している」とまでは言えないし、障害者の出生防止が「善を為している」とも言えない。しかし、ハリスは、誰も悪を被る人がいなくても「何か悪いこと」がある、と言う。そして、障害者を産むことは「何か悪いこと」を行うことであり、逆に、障害者の出生を防止することは「何か良いこと」をしていることになると主張する。これにさらに、何かが「害である」と言うためには、その何かを経験する人の主観的な不快感等を必ずしも含まなくてもよい、という議論が加わる。
 こうしてハリスによれば、実際の主観的な経験がなくても「害」があると言えるし、それが回避された状態を享受する人が存在しなくても「何か悪い」行為がある、と言える。このようにしてハリスは、人びとができるなら避けたいという強い合理的選好をもつ状態、すなわち「障害」をもつ人を出生させることは、「何か悪いこと」をしているのであり、できるならば出生を避けた方がよい、と主張する。

2.生前選別推奨論の検討

 ハリスの出生選別推奨論を支えているのは、私たちが自他に対して抱いている「直観」である。じっさい、たしかに、現にいま損傷を受けていない機能や能力について、私は、現状を前提にするならば〈できれば損傷を受けたくはない〉という選好をもっている。また、たとえば《胎児に(白内障や難聴その他の)障害が出る可能性があるから、妊娠中は風疹に罹らない方がよいだろう》と言われれば、私もそれに同意する。とはいえ、だからといって私は、生まれてくる子を性質によって選別してよい、とまでは思わない。たしかに、以下で見るように、選別するか否かの決定は、最終的には当人に委ねざるをえない。つまり、許容はせざるをえないだろう。だがそれは、ハリスが主張するように、選別は道徳的に「良い」ことだ、ということとは違う。
 選別は良いことであり、選別しないのは「何か悪いことをしている」ことになるというハリスの主張には検討の余地がある。まず、できれば胎児に損傷を与えない方がよいという判断と、障害児の出生そのものを妨げた方がよいという判断とは異なる。また、仮に障害児の出生を妨げる選別行為に干渉できず、つまりそれを許容せざるをえない(と消極的に言える)として、しかしそれは、選別が積極的に推奨されるということではない。

2-1 「障害をもつ人びとの出生を避けた方がよい」という主張
 まず「障害をもつ人びとの出生を避けた方がよい」という主張を検討しよう(以下ではハリスの議論に即すため、「損傷」と「障害」は区別しない)。
 この主張は、単に「胎児に障害を与えない方がよい」と言っているのではない。たとえば、妊娠中に風疹に罹らないように気を付けることなどは、「胎児に障害を与えない方がよい」といった価値観や態度を前提にしていると言えるだろう。「胎児に障害を与えない方がよい」ということは、当の胎児が産まれて存在することを前提にした上で、可能ならばその胎児に障害を与えない方がよい、ということである。それに対して、「障害をもつ人びとの出生を避けた方がよい」という主張は、胎児に障害があるならば、その胎児が生まれること自体を防止した方がよい、ということである。
 だが、ハリスももちろん分かっていることだが、この主張には問題がある。出生そのものを防止することは、誰にとって「良い」のか、が問われるからである。繰り返しになるが、いま妊娠されているが中絶される子と、後で妊娠されて生まれる子は別人である。いま生むことにした場合に生まれる障害児と、後に生まれる子は別の個体である。出生前の選別全般について、当の選択行為で存在可能性が左右される存在者に即して「良し悪し」を述べることはできない。とすれば、仮に出生前選別の「良し悪し」を言えるとしても、それは周囲の人間にとっての「よさ」でしかないということになる。
 だが、ハリスはそうは言わない。障害児の出生を避けることは良いことだ、と言うため、ハリスは「悪をなすこと(doing a wrong)」と「何か悪いことをすること(doing what’s wrong)」という区別を導入する。ハリスによれば、前者の表現は悪を被る個体が存在しなければ成立しないが、後者はその行為の影響を受ける個体が存在しなくても成立する。
 だが、害を被る者が存在しないような「悪」があると言えるだろうか。言えないだろう。これは、本人が主観的に苦悩を感じていなくても「害」を受けていると言える場合がある、という主張とは異なる。
 たしかに、この〈本人の主観に依拠せずに害があると言える〉という主張は正しい。本人の主観に依拠せずに害があると言えるケースがあるからだ。その人が劣悪な状況に適応してしまい、それを「悪い」と感じなくなってしまっているような場合である。だが、この〈本人の主観に依拠せずに害があると言える〉という主張は、〈本人の存在に依拠せずに害があると言える〉という主張とは異なる。〈本人の主観に依拠せずに害があると言える〉という主張は、〈本当はその人は害を被っている〉という主張である。これは、害を受けている当人が存在しているということが前提であり、害を被る人が存在しない悪がある、ということではない。
 たしかに、害を被る人が存在しない悪がある、という言い方に直観に訴える部分がないとは言えない。たとえば「水子供養」は、この世に生を享けなかった人(?)の「霊魂」のようなものの想定が、人々の直観に対して一定の訴求力をもつことを示している。肉体を離れた霊魂のようなものを想定できるならば、それが、ある種の肉体に宿ることの「悪」について語ることもできるだろう。だが、〈誰も害を受ける人がいなくても害悪がある〉という言い方がこの種の非反省的な直観に訴えるところがあるとして、しかしそれが妥当であるとは言えない。
 加藤秀一が指摘するように、仮に「極端なほど明らかに「悲惨」な状況」、たとえば「生まれて一時間以内に、外界からの一切の刺激に反応することなく、ただ苦しみ抜いて死んでゆくことがほぼ百パーセントの確率で予想されるような子どもを生むこと」(加藤115-116)についても、「生むこと」そのものが「危害である」とは言えない。ここで、仮に、いかなる人であろうが生むことは危害でも何でもない、という議論が「直観に反する」と思われたとしても──私は思わないが──、間違っているのは直観のほうだと言うべきだろう。

2-2 「そうありたくない」という選好──その質量を規定する要素
 以上の問題点とは別に、このハリスの議論には、もうひとつの問題が指摘できる。上の批判が、選別を「良い」とする議論全般に妥当するのに対して、以下で確認する批判の射程は一部に絞られる。とはいえそれは「悪を為すこと」と「何か悪いことをすること」という区別に別の仕方で関わっている。この区別は、誰にとっての「良し悪し」かを曖昧にするからである。誰にとっての良し悪しかを曖昧にするという点は、ハリスの「障害」の定義にもあらわれている。
 ハリスは障害を、「人びとがそうありたくないという強い合理的選好をもつ」状態である、と定義している。この定義について確認できるのは、この語の主語が個人ではなく「人びと」とされている点、そして選好に「合理的」と「強い」という限定が付されている点である。
 ここで確認しておくべき点は、前項の議論(批判)は、たとえば「明らかに悲惨な状態」をはじめとして、いかなる状態についても当てはまるが、以下の批判はそうではない、ということである。以下では、「強い合理的選好」が、ある種の状態について当てはまらないことを示していく。それは逆に言えば、たとえば苦痛に塗れて死んでいくような状態については、誰もがそれを避けたいという「強い合理的選好をもつ」と言える、ということでもある。そして、前項で確認したのは、どんなに悲惨な状態でも、「生むことが危害である」とか「生むことは何か悪いことをしている」とは言えない、という点だった。それに対して、以下で確認するのは、選別対象を、肉体的苦痛がないような「障害」に限定したときに指摘できる論点である。したがって、以下の批判は、前項の批判とは違って、出生前選別擁護論全体への批判にはならない。とはいえ、ハリスは、いかなる障害であれ「ない方がよい」そして「生まない方がよい」と主張しているし、選別擁護論はしばしばそのように主張するので、批判の射程が限定されるとしても確認しておく意義がある。
 とくに苦痛がなく、状態の固定した「障害」に限定すると、「そうありたくないという強い合理的選好をもつ」というハリスの障害の定義のなかの、「人びと」の範囲と「強さ」の程度が問題になる。つまり、どれくらいの人びとが、どのような社会的状況下で、いかなる身体状態について「そうありたくない」という選好をもつのか。そしてその選好の強度はどの程度か。肉体的苦痛がないような障害──障害の多くがそうだが──については、「人びと」の範囲も思いの「強さ」も状況次第で変わりうる。
 〈社会的サポートがあればとくに「害」はない〉という障害当事者の主張の意味はここにある。これに対してハリスは、「障害」については、当事者の経験よりも「人びと」の認識の方が優先される、と主張している。個人が主観的に経験しなくても「障害=危害」だと言える、と。だが、ここでハリスが「障害=害悪」と述べる前提には、「障害は機会を制約する」という認識がある。この認識は──前項で確認したように、もし仮にそれが完全に正しくても〈生むことは何か悪いことをしていることになる〉とは言えないのだが──、それ自体として吟味の対象になるし、すべきである。
 しかし、障害が日常生活において多くの「機会の制約」をもたらすとすれば、多くの人が強く障害をもちたくないと思うだろう。だが、機会の制約の内容が些細なものになり、その程度も縮小されれば、この人びとの範囲と思いの強さは縮減されうる。
 ここで留意すべき点は、残念ながら依然として、社会的な状況が強いる制約と、純粋な「身体的限界とを切り分けることは難しい」という点である(Koch 2001: 374)。周囲のサポート次第で解消されうるような制約が、多く残されているからである。たとえばハリスがあげる「聾」に関しても、たしかにすべての情報アクセス手段が聴者を前提にしているような社会では(全ての連絡が電話で行われる社会を想像せよ)、聾者の生活に対する制約はきわめて大きくなる。だが他方、人びとにとって主要な情報が音声に依存せずに交信できるならば、聾であることによる制約は減る。同じことが様々な身体機能の損傷についても言える。
 この点に対して、障害学の批判の眼目は、もし十分な社会的サポートがあるならば、本人にとって多くの障害は「そうありたくない」とは思わずにすむようなものだ、という点にある。もちろん、能力をもつことで得られる経験もある。自分の足で歩いたり景色を見たり音楽を楽しむことなどは、ハリスが言うように、本質的に他者にサポートされ得ない経験である。能力の損傷がもたらす経験の制約はたしかに存在する。問題は、移動するとか情報を得るといった最終目的の実現を、自力で達成せずに他人のサポートを得て達成できるとして、両者が完全に等価な選択肢として設定されるならば、必ずしもつねに前者──自分の能力で達成すること──が望ましいとは言えない、という点にある。
 「障害=機会の制約」という図式は、経験へのアクセス機会に対する「本質的な制約」と、社会的サポート不足に起因する社会生活上の制約との区別に鈍感である。現に障害者が被っている不利益のなかには、依然として、周囲が負担を負うことで除去可能かつ除去すべき制約が含まれている。だが、「障害=機会の制約」という図式では、除去可能かつ除去すべきであると言えるような制約と、除去不可能な経験へのアクセス機会の制約は区別されない。つまり「障害=機会の制約」という図式を自明視する議論は、社会的サポート不足に起因する制約の原因を、身体の損傷に求める態度、たとえば「足が動かないならば、移動できなくても仕方がない」という態度を批判できない。障害をもつ人に対するサポートの差し控えに起因する不利益に対して、〈やっぱり障害がある人の生活は辛いよね(障害は不利益の原因になるから)〉と言うことも許容されてしまう。
 障害者に対する社会的サポートが不十分な状況を吟味せずに、「障害=害」とだけ主張することは、社会状況の変更・サポートを省略するための言い訳になる。サポート状況を吟味しないということは、サポートがあればトイレで排泄ができるのに、サポートを差し控えつつ「体を動かせないならオムツでも仕方ないだろう?」といった言い方を認めることになる。この点は、ハリスのようなタイプの議論と障害者の権利擁護の立場との根本的な対立点である。

3.出生前選別批判の射程

 出生前選別を推奨する議論に対する以上の二つの批判はそれぞれ独立しているが、いずれも妥当だろう。第一に、いかなる状態であれ、「生まない方がよい」とか「生むことは何か悪いことをしている、危害を加えていることになる」とは言えない。第二に、とくに肉体的苦痛がない障害については、生まない方がよいという議論は、誰にとっての良さなのかが問われる。選別推奨論ではこの点がつねに曖昧だが、それは障害者にとって差別的な社会構造を前提にしつつそれを温存する議論にほかならない。
 とはいえ、もちろんこれで解答が出たわけではない。ここではじめて冒頭の問いに立ち返ることができる。
 問題は、出生前選別は「良い」とか「望ましい」という議論を批判できるとして、逆にそれとは反対の主張は成立するかどうか、である。つまり、出生前選別は「良くない」あるいはさらに「悪い」と言えるか。もし仮に「悪い」と言えるとして、ではその「悪」はどの程度の悪なのか。
 この点、たとえば立岩(1997)は「禁止の是非」と「行為の是非」を区別し、禁止すべきだとは言えないが、選別行為自体は批判すべきだと述べている。最初に簡単に見たように、禁止要求はできなくても、行為を批判できる場合はある。とはいえ、立岩の議論は、選別の「動機」ないし「理由」の一部に対する批判である。だが、選別理由のなかに批判すべき内容が含まれているとして、しかし、選別行為そのものを批判すべきだと言えるかどうかは別である。また、批判するとして、その強度を区別すべきだろう。たとえばそれは、「非難に値する悪だ」ということなのか、あるいは「選別は望ましくない」ということなのか、「選別しない方が望ましい」ということに留まるのか。
 さらに、仮に同じ理由に基づく選別だとして、しかしたとえば、妊娠後の出産回避(中絶)と、妊娠自体の回避とでは異なる。同じ理由に基づいているとしても、両者は同列には並べられない。両者の違いは、胎児の存在の有無などにはない。中絶批判は、妊娠継続と出産に対する要求を含む。他方、妊娠回避に対する批判は、妊娠出産に加えて、生殖行為への要求をも含む。つまり、理由が同じだとしても、時期に応じて選択可能な行為の数が異なる。選択可能な行為の数が増せば、それらを制約/強制する理由にも、相応の重さが要求される。同じことが、恋愛の相手を能力や容姿で選ぶことと選択的中絶とを同列に並べて擁護/批判するような議論についても言える。
 以下では、これらの点に留意して、出生前選別批判の射程について検討する。

3-1 批判の射程と限界──負担について
 第二節で見たように、選別は「良い」とは言えないだろう。では、選別は望ましいとは言えないとして、妊娠している人に対して、妊娠し続けて産むことを要求できるだろうか。あるいは要求まではできないとして、推奨できるだろうか。さらに、生殖行為を差し控えようとする人に対して、生殖行為を推奨できるのだろうか。ある行為を「推奨」することが道徳的非難に値するとして、しかしだからといって、当の行為そのものが道徳的非難に値すると言えるとは限らない。では選別批判は選別行為について何をどこまで主張するのか。
 結論からいえば、「選別しない方がよい」という忌避勧告に留まるだろう。また、選別しない方がよいという主張には、生殖行為を推奨することまでは含まれない。では、選別を前提にした診断についてはどうか。それが「望ましくない」と言えるとして、診断を禁止すべきだと主張できるだろうか。たしかに、診断が「正当」だとも、患者の権利の対象に含まれるとも言えないだろう。だが、診断に対する要求を不当であるとも言えないだろう。診断については、医師はその良心に反した要求に答える必要はない、という程度に留まるだろう。たとえば、要求があった場合、それに応答する義務は医師にはない。だが、診断を希望する人が、診断を行う病院を訪れるのを妨げることはできない。
 なぜそう言えるのか。第一に、選別につねに差別的動機が含まれていると言えるとして、しかし選別にはそれ以外の理由もあり、そのなかには不当と呼べない理由があるからである。それは、産みの親に強いられる養育負担である。先に、2-2で問題にしたことは、周囲の負担回避(支援の差し控え)がもたらす制約を、障害があること自体が機会制約の原因になる、と述べることの欺瞞性だった。しかし、選別が「良いこと」だとは思わずに、さらには「差別的」だと知りながら、にもかかわらずなお、自らの養育負担を鑑みて選別せざるを得ない、と思う人もいるだろう。その人には差別批判は当てはまらない。では、負担回避しようと思うこと自体がよくない、と言えるだろうか。それほど単純ではない。負担回避と一言でいっても、負担のレベルに応じて「それくらいなら負って当然だ」と言える場合もあれば、「そこまでしなくてもよい」と言える場合もある。そして、現状では家族と家族以外では、課される負担は大きく異なる。
 さらに第二に、仮に差別的動機だけで選別する人がいたとして、その動機を批判することはできるが、その人に妊娠継続・出産を要求することはできない。これは、仮に産みの親に課されている養育負担が完全に解消されたとしても言える。仮に養育負担が解消されたとしても、選別を禁止すべきだとは言えないだろう。なぜか。
 出産者と養育者を切り離すことは物理的には可能である。また、自分が産んだ子がどんな子だったかを知らずに済むようにする(つまり分娩後に即座に両者を離別させる)ことも、不可能ではない。だが、生殖・妊娠・出産の負担は、代替も軽減もできない。禁止すべきだと言えないのは、妊娠出産の負担について、「それくらいの負担ならば負って当然だ」とは誰にも言えないからである。

3-2 妊娠出産負担
 この〈妊娠出産の負担〉の重要性を、山本理奈(2009)の議論を媒介にしてあらためて確認しておこう。山本は、出産者と養育者の切断可能性という観点から従来の人工妊娠中絶をめぐる議論を相対化しようとしており、この点は、家族/家族外の養育義務の格差を平等化することで選別にかかる圧力を弱めよう、という選別批判論の立場からも、一定の意義を認めることができるからである。だが、養育負担を家族内外で平等化したとしても、〈妊娠出産の負担〉は残る。この点を山本の議論は典型的に示している。
 山本によれば、これまでの中絶をめぐる議論は「女性と胎児の相克性」という枠組みをとってきた。その前提には「中絶=〔胎児の〕死」という図式がある。女性の選択権と胎児の生命との相克という形式である。しかしこの「選択の思考」こそが、「「女性と胎児の相克性」というアポリアを自明のものとする要因」となっている(194)。それに対して問題は、中絶を「させられる」と言わざるをえない客観的な状況である(199)。そして、「産む」という選択の余裕のない状況での中絶を「産まないという選択をした」とみなすとすれば、それは「『産む』と『産まない』を同位対立をなす二項とみなす選択の思考」の産物にほかならない(199)。そして、「産む/産まない」という選択を中立的な状況に設定した上で、産まないという選択肢のなかで「女性の選択権/胎児」を対立させるような議論──従来の中絶論──には問題がある。それは「事前にあった微妙な可能性」(203)を抹消したところに成り立っているからである。その理由を山本は二つあげている。第一に、法的に設定された中絶可能期間内でも「医療技術の高度化」によって、母体外生存可能性があるような事例がある。また第二に、中絶を望む女性を「胎児の生死を分かつ〈選択の主体〉」(203)であるかのようにみなす議論は、中絶を望む女性の「真意」を見過ごしてしまう。
 このように述べて山本は、1970年代の「実子あっせん事件」の医師、菊田昇の発言を再評価する必要があると主張する。それによれば、中絶を望む「女性たちの真意は「子を殺すことにあるのではなくて、実は子を産まなかったことにしたいということなのだ」」ということになる。山本によれば、この菊田の言葉には、匿名出産のような形で、「女性 対 胎児という相克の可能性を抜け出る可能性」(204)が含まれている。こうして山本は、この可能性を除去してしまうような「女性 対 胎児」の相克論を批判し、さらに「妊娠の経験を特権化する言説」もまた「女性と胎児の相克性」という「アポリアの構図」を反復強化する機能をもつ、と批判する。
 この山本の議論は、たしかに、中絶をめぐる従来の議論が注目してこなかった点を指摘していると言えるだろう。「子を産まなかったことにしたい」という女性の意向(それをすべての女性の「真意」と呼べるとは思えないが)を実現する可能性は、従来の議論ではたしかにそれとして追求されてはこなかった。そして山本が言うように、この意向には必ずしも胎児の死への望みは含まれていない。山本の主張は、仮に匿名出産的な制度が実現すれば、人工妊娠中絶を選ぶ人は減るのではないか/減るはずだ、ということになる。このように期待したい気持ちも理解できなくはない。しかしもちろんこの山本の議論には限界がある。
 この議論の射程は、中絶が「失敗」して誕生してしまうような可能性のあるケース、つまり妊娠後期の中絶に限定されているからである。たしかに、養育負担さえなくなれば母体外生存可能性が生ずるまで妊娠し出産してもよい、とほとんどの女性が思っているならば、この議論は中絶をめぐる従来の議論を相対化することに成功していると言えるだろう。もちろん養育と出産が切り離されれば、中絶ではなく出産を選ぶ人も一定数は出てくるかもしれない。だが、「妊娠する」こと、「妊娠している」こと、そして「出産すること」自体を望まない人は、山本の議論からは除外される。
 そして、妊娠すること自体、妊娠を継続して出産すること自体を回避したいという思いはそれ自体として正当である。妊娠・出産自体には大きな負担──身体の自由の制約──が伴うからである。この「女性の身体の自由」は、従来の人工妊娠中絶をめぐる議論の大前提である。まず、妊娠していること自体の負担がある。また、中絶と出産とでは、リスクと負担が大きく異なる。この負担とリスクを考量すれば、仮に養育と出産が切り離されたとしても、「自分で育てたくない子を産みたくない/自分で育てたい子しか産みたくない」という思いを批判できないだろう。山本の議論では、この理由で妊娠・出産を回避する人は除外されている。だが、妊娠・出産に固有の負担は、妊娠出産回避の決定の妥当性を評価する際の重要な考量の対象であり、その重みは小さくはない。この負担を考慮すれば、妊娠出産後の養育負担が仮になくなったとしても、人工妊娠中絶を選ぶことを非難できないだろう(1)。

3-3 マターナリズム(母性主義)への期待──その限界と不可避性
 仮に自分で育てたくない子/自分が産んだことにしたくない子でも産める、という選択肢が保障されたとしても、〈自分で育てたいと思える子しか産みたくない/自分で育てたいと思えない子は産みたくない〉という願望は残るだろう。そしてこの願望を批判することはできないだろう。
 ここで、出産した人間に養育責任が負わされる現状では、「自分で育てたい子しか産みたくない」という意向を強調すると、出産と養育を結合させる規範を肯定していると思われるかもしれない。だが、ここで述べているのは、産んだ者に育てる義務・責務はないということを認めた上で、つまり育てることも育てないこともできる状況を前提としてなお、育てたいと思う子しか産みたくないという意向も認められるべきだ、ということである。「育てたいと思えない子を産むべきではない」とか「育てる義務を果たせない者は子を産むべきでない」といった規範とは独立して、「育てたいと思う子しか産みたくないという意向を認めるべきだ」と言える。その根拠は妊娠出産の負担である。「育てたいと思えない子でも産みたい者は産める」という状況が実現したとしても、その上でしかしなお、「育てたいと思えない子を産みたくない」という意向を否定することはできないだろう。
 言うまでもないことだが、仮に自分で育てずに済む社会状況が実現したとしても、妊娠出産の負担を回避したい人にこれを要求することはできない。つまり、この負担を負うか否かは最終的には個々の女性の自発性に委ねるしかない。
 この点を、自分で産んだ子を育てるのが「親というものだ」と主張し、「母性」に期待する「母性主義(maternalism)」の議論を介して明らかにしておこう。母性主義もまたある種の「自発性」に期待する。だが母性主義では、出産と養育の結合は自明の前提である。出産者に養育責任がある、というこの母性主義はむしろ、選別への圧力になっている。パレンスとアッシュによる紹介に従えば、「母性主義」は次のように想定する。

「良い親(Good parents)は、自らが授かった子がどんな子でも成長することを気遣う(care about) だろうし、子との関係性が織りなされることに関心をもつはずであり、その子が負っている特徴は気にしないものである」(Parens and Asch 2000: 18)

 そして選別について、「特定の特徴への注意は、親であること(parenthood)に関する道徳的に混乱した考え方を示している。つまり瑣末なものへの先入観をもって、重大な事柄を無視している」(ibid.)と主張する。この立場からすれば、「出生前の選択という考え方」は「不寛容で非歓迎的」だとして批判されることになる。つまり、「自らが懐胎した子ならどんな子でも受け入れ、歓迎すべきであり、子の成長する個体性を──それが女性の思いとは違ったとしても──承認する心構えをもつべきである」(Ruddick 2000: 102)という考え方である。だが、ルディックが指摘するように、このような想定は「パーフェクトベビー」ならぬ「パーフェクトマザー」を求めるロマン主義的理想でしかない。
 この種の母性主義の問題は、親は子を「無条件で歓迎すべき贈り物」(Kass 2003=2005: 44)として受容すべきだ、といった観念と結びつくことで、養育負担をとくに母親に負わせて支援の差し控えを正当化する機能をもつことにある。親は子を「無条件に受容」すべきだという見方は、文字通り「無条件」である以上、〈親はどんな子でも受容し、世話が大変でも引き受けるのが当然だ〉といった態度に直結する。この態度を前提にして障害に起因する負担を親に委ねること自体が、「選別」への圧力になる。
 たとえば、アメリカでも「子どもが肉体的・精神的に障害をもち自活できない場合」には子の成年後も親の扶養義務を認める判決がある(樋口 1988: 210)。そしてこれを参照して樋口憲雄は、「私たちの目から見れば、ハンディキャップを負った子どもについて親が成年後も扶養する義務があるのはあまりにも当然にみえる」(ibid. : 211)と言っている。だが、この類の価値観が、障害者の家族への過剰な負担を当然視して、家族をもつ障害者へのサポートを差し控える現状を肯定し、さらに選別への圧力になっているのである。
 この類の母性主義は「親は子をもつことを決定したのだから、その養育責任を負うのは当然だ」という一般的な観念に適合的ではある。この一般的な観念によれば、生殖の自由を行使した人間には──その自己決定に対応する自己責任として──、その決定結果として生まれた子の養育負担を負う責務がある、とされる。だが、この種の観念をそのまま受容することはできないだろう。まず、どこまでの負担を負う責務があるかは曖昧である。また、男女では負うべきと言える負担の重さに違いがあることも気づかれていない。むしろ、子をもつ決定をした女性が負うことになる〈妊娠出産の負担〉は、当初の決定に対する責務をある程度解消すると言うべきだろう(2)(男性の責務は解消されない)。
 ここまでを確認した上で、しかしより重要なことは、ロマン主義的な「母性主義」的観念を私たちは完全に斥けることはできない、ということである。というのも、妊娠出産の負担を負うか否かについては、当人の寛容や受容や承認などに委ねざるをえないからである。あらためて確認しておく必要があるのは、養育の負担を完全に除去したところで、妊娠出産の負担は残るということである。そして、たとえ選別の背景にある諸問題を批判し、負担等を解消できたとしても、選別批判は最終的には──上で見たような素朴な形態をとらないとしても──、女性の承認や受容や寛容等に期待せざるをえない。

おわりに

 以上の議論を簡単にまとめておこう。
 第一に、出生前選別をした方が良いとか選別は正当である、とは言えない。また選別をしないことは「何か悪いことをしている」とか、道徳的によくない、とも言えない。誰も害苦を被る人がいない「悪」、という表現そのものに意味がないからである。逆に、こうした出生前選別推奨論は、既存の差別的な社会構造と価値観を温存する機能があり、それに無自覚である点で批判されるべきである。また、出生前選別の動機にも批判すべき点──差別的動機──が含まれていることがある。
 第二に、しかし選別そのものについて、それは道徳的な非難に値するとまでは言えない。仮に前者の選択肢にある「育てたくない」という思いが差別や偏見、間違った思い込みに基づいているとして、この偏見を批判できるとしても、しかしだからといって、選別そのものを批判して妊娠出産を要求することはできない。そして、出生前選別批判は、出生前選別は「良いとは言えない」と指摘し、「選別しない方が望ましい」と述べるに留まる。つまり出生前選別批判は、その擁護論や推奨論を批判しつつ、選別理由に含まれる価値観や思い込みの問題点を指摘できるが、そのレベルに留まらざるを得ない。そして最終的には、自発的に妊娠出産の負担を引き受けようという人びとに「期待」するしかない。
 第三に、動機を批判する典型的な議論である「母性主義」は、家族への支援を差し控え、出産者と養育者を結合させる圧力として機能する。そしてそれ自体がむしろ選別に対する圧力になる。とはいえ、妊娠出産の負担そのものはいかに養育負担を解消しても残る。したがって最終的には、妊娠出産の負担を引き受ける人に「期待」せざるをえず、母性主義的な議論を全面的に否定することもできない。

◆註
(1)この点、山本は「妊娠の経験」を「特権化」する議論を批判しているが、妊娠出産の経験の重さ──それは負担の重さに比例する──は、これまでの中絶をめぐる議論の大前提であるし、それは今後も変わらないだろう。生殖妊娠出産は、身体の自由を制約するような大きな「負担」になる(身体と切り離せない)からこそ、その経験がとくに重視されるのであり、逆に、もしそれが全然取るに足らないような経験であるならば、生殖妊娠出産を「強制」してもよいということになるだろう。たとえば、生殖が薬を一錠飲む程度で済み、妊娠もなんら身体状態を変えず、出産も爪を切る程度の経験なのだとすれば、代理母契約にもとくに問題はなくなる。また、これが「義務」とされても、そのことについて、当人がそもそも悩むほどのことでもなくなる。仕事によっては、爪をできる限り短く切る程度の義務は普通である。だが、妊娠出産について誰もそうは思わないだろう。それは、妊娠出産は負担が大きく、長期間にわたって自由を大幅に制約するからにほかならない。
(2)この点はたとえば、代理母契約をした人の妊娠出産後の「心変わり」に基づく要求の評価にかかわる。実際の裁判では、当初の契約内容を超える権利が代理母に認められたのだが、それは、代理母の契約履行義務が〈妊娠出産の負担〉を通して一部否定されることが認められたということを意味する。この妊娠出産の負担は、通常のケースでも考量に入る。つまり、子をもつという当初の決定に対する(養育等の)責任は、女性についてだけは、すでに妊娠出産の負担を負ったことで一定程度以上は解消されている、と。

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