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死の安楽について

長岡 紘司 2009/11/26
English / Korean


『死の安楽について』

 なぜ誰も挑戦しようとしないのでしょう。ALSと聞いただけで初めから匙を投げる医に洗脳されたからなのでしょうか。
 椿先生は言いました、若い医師が果敢にALSに挑むが高い壁に阻まれ皆途中で挫折してしまう。また、こうもおっしゃっています、治す薬がないのなら私達は精一杯のお世話をし、後は人間の持つ自然治癒力に期待する。
 人は神秘の生き物です、あらゆることに挑戦しここまできました。難病中の難病と言われるALSに闘いを挑むのも患者冥利に尽きるというものです。良い意味での話題性のある癌の治療に対する医学の進歩は目覚ましいもので、神経の難病と言われるALSも画期的な発明によるIPS細胞の開発により失われた神経細胞の再生もあと一歩のところです。その一歩は数年か十数年か数十年か確かに今ではないが医学の進歩は目覚ましくひょっとしたら明日かもしれません。
 コミュニケーションがとれなくなったら人工呼吸器をはずしてくれと千葉の患者氏は要望し、家族もそれに同意、担当病院の倫理委員会も容認したそうです。私はこれを聞いて胸を撫で下ろしました。なぜならば、良い意味での条件付きの死の要望だからです。少なくとも生きる可能性は大いにあり、しかし、四重苦のALS、はたまた五重苦のALSでは本人にどれ程の挑戦の心があろうとも高過ぎる壁の病、食えず臭わず語れず動けずでは死の要望書も書かざるを得ないかも。それでも、身近の者や周りの者は愛する者に生きていて欲しいなら、愛する者に天寿を全うして欲しいなら、患者に代わりALSに挑戦して欲しいものです。難病は訳がわからないから難病で、しかし、ALSは運動神経の侵される病、一度死んだ細胞は蘇らないとは言え人の自然治癒力は失われたものまで補ってきたのです。医が匙を投げたなら患者本人と身近な者と周りの者がやるしかなく、それは人として当然のことではないでしょうか。
 安楽死を声高に叫ぶ者達は生きる権利があるなら死ぬ権利もあると言うが、言わせてもらえば人は生まれてくる時その人の意思で生まれてくるのではないように死ぬ時もその人の意思であってはならないのです。
 不治を病み三十と二年、食えず臭わず語れず動けず辛い辛い四重苦の中何度も死ぬ目に遭いました。歯の水にしみるような痛さ、目の角膜にへばりつく瞼の痛さ、第三の痛さ、そして痩せこけた褥瘡の痛み。それらが今目も歯も第三も褥瘡の痛みも消え失せ、更にだらしなく垂れ下がっていた下唇も治り今は実に安泰な日々を過ごしています。
 安楽死も必要な状況も時にはあります。しかし、ALSにはそれはきっと後悔する日が必ずくるのでしょう。
 私は自ら命を絶つつもりはありません。もし自ら殺したなら今も健気に働き続ける五臓六腑や六十兆の細胞も殺すことになります、私はそんな傲慢で残酷なことはできないのです。

長岡紘司



UP:20100216 REV:20100729
長岡 紘司  ◇ALS  ◇難病/神経難病/特定疾患 2009  ◇全文掲載
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