「生存学」創成拠点の目的である「障老病異と共に暮らす世界の創造」、さらに「人々のこれからの生き方を構想し、あるべき社会・世界を実現する手立てを示す」ことを目指す人類・社会学研究は可能なのか?
私がこれまで取り組んできた日本に住む外国人たち、また、出身国と日本を往来することそのものを生活基盤とする人々は、身体の「異」なりではなく、制度上の市民から排除、除外されてきたことにより、「異」を背負ってしまった人々だと言える。ゆえに、人々は自身の生存のため、また、時には出身国で待つ家族に仕送りをするために、安定して住み、移動し、働くためのビザを、そして、時には受入国の国籍や市民権を獲得し、トランスナショナルな生き方を展開している。
冒頭の自問への解答として、人類・社会学、そして、生存学における今日的課題は、様々なトランスナショナルなる戦術を展開する人々と向き合い、時に、戦術に参画しながらも、人々の生き方そのものに意味を与えて行くことが可能かという新たな問いを生み出すだろう。その様なことを思いながら、研究を進めることこそ「生存学」の意義なのではないだろうか。
*作成:永田 貴聖