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「「私の中のあなた」レビュー」

児玉 真美 200911 介護保険情報 2009年11月号

last update: 20110517

ニック・カサヴェテス監督、キャメロン・ディアス主演のハリウッド映画「私の中のあなた」が日本でも10月9日に公開された。主人公の11歳の少女アナは、白血病の姉ケイトの治療に必要な臓器のドナーとして遺伝子診断と体外受精によって作られたデザイナー・ベビー。すなわち、左ページで簡単に紹介した“救済者兄弟”である。
 アナは出生時の臍帯血に始まり、姉の治療に必要な血液や骨髄を提供し続けてきた。が、ケイトの病状は悪化し、ついに腎臓移植が必要となる。これまで通りアナがドナーとなることを信じて疑わない両親に対して、アナは弁護士を雇い「自分の体のことは自分で決めたい」と訴訟を起こす。アナが弁護士を訪ねていく冒頭の場面で「この国では提供意思のない人間から臓器がとられることなどありえない」と原則論を述べる弁護士に、「でも誰も私に(意思を)尋ねてくれたことはない」というアナの答えは、ドナーとしての生を背負わされた“救済者兄弟”の倫理問題の核心をずばりと突いて、衝撃的である。
 物語は、アナの起こした訴訟の展開と、ケイトが急速に終末期に陥る過程とを平行して描いていく。その合間に織り込まれるのは、これまでの経緯と、娘の看病と介護に全身全霊を注ぎ込んできた母親サラの献身的な姿である。しかし、アナの訴訟をきっかけに、ケイトのために一丸となって闘ってきたと見えた家族の間には、いくつもの亀裂が生じていたことが明らかになっていく。それでもサラは諦めない。アナをドナーにして最後のチャンスにかけようと必死なのだ。「私が細胞2つになっても、ママは電気ショックをかけるわ」とケイトに言わせるほどに深い母親の愛情と、その愛情ゆえの偏狭さとを、キャメロン・ディアスが見事に演じてみせる。
 病気を美化せず、なるべくリアルに描こうとする監督の姿勢も清しい。ケイトの短く切ない恋のエピソードは、問題なのは彼女の“生”なのだと感じさせて光った。子どもたち3人が親にはできなかった深さで互いを理解しあっている姿が徐々に浮かび上がってくる展開にも妙味があった。サラはアナの意思だけでなく、自分が最も懸命に守ろうとしたケイトの意思をこそ、最も手ひどく踏みつけていたのだ。そのことに気づいてくず折れたサラを、幼子を抱く母親のようにケイトが抱いて横たわるシーンが印象的だった。
 話題作とあって、封切り前からこの映画を取り上げたメディアは多かった。しかし、なぜか、アナのようなドナー・ベビーが既に生まれている現実を語る記事はほとんどない。そのため、日本ではアナの生い立ち部分がSF的想像や映画的創作と捉えられ、「難病もの」、「美しい家族愛の物語」と理解して終わる人が多いようだ。しかし、この映画はやはり、生命の操作が可能になった時代性の中で「親と子の関係性」、「親であるということ」、「子の権利」を問う作品ではないだろうか。
 原作となったジョディ・ピコーの小説“My Sister’s Keeper”(邦訳は「わたしのなかのあなた」)の刊行は2004年。世界で初めての”救済者兄弟“は、その4年前にコロラド州で生まれている。ファンコニ病の姉の幹細胞移植ドナーとして30個の胚の中から選別された。
 ピコーの長編小説は、”姉の臓器庫“として生きてきたアナの肉体的、精神的な痛みや、親子、夫婦の間の亀裂や溝を、多くのエピソードを重ねつつ丁寧に描いている。弁護士や法定後見人など周辺的な人物の設定にもメッセージが多彩にこめられている。原作がアナの年齢を13歳(医療決定において”成熟した未成年“と見なされ本人意思が尊重される)に設定し、移植医療における子どもの自己決定権の問題として描こうとしたのに対して、映画ではアナの年齢を11歳に引き下げ、親権の問題に一般化したように思われる。その違いを象徴するように、映画は小説とはまったく逆の結末を用意する。ある意味、テーマをより一般化したことによって、映画は親と子の関係性の問題に、より深く迫ることに成功しているとも言えるのかもしれない。
 小説と映画の両方を通じて最も印象的だったのは、let go という表現だった。映画ではサラの妹がサラに向かって言う。「最後まで諦めまいと必死で、それ以外のことが見えなくなっているけど、今のあなたに必要なのは let go することよ」。ゆこうとするものを無理にも手元にとどめようと、しがみついていく手を緩め、放してやること。戸田奈津子さんは「受け入れること」と訳していた。科学とテクノロジーの力で生命のコントロールが可能となり、欲望を果てしなく満たせるかのような夢が描かれる時代において、この小説と映画が投げかける問いは重い。
 アナの訴訟が家族の亀裂を明らかにしたように、科学とテクノロジーの発展は、親と子の間に潜む「支配―被支配」の関係を浮き彫りにしている。欧米の生命倫理学者たちは、愛の名のもとに、テクノロジーによる親の支配を擁護してみせるが、本当にそれでいいのだろうか。それでは、アナの弁護士が言ったように、いったい誰が被支配の子どもの側に立つというのか──。


*作成:堀田 義太郎
UP:20100212 REV: 20110517
全文掲載  ◇児玉 真美
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