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安楽死、本当に尊厳ある死だろうか?

LEE Saugwon(李 相原)* 20091102
*総神大学神学大学院教授、ソンサン生命倫理研究所副所長


 ※※ 仮仮訳&抄訳

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I. 安楽死の定義

  '良い死' または '安楽な死'という意味の安楽死(euthanasia)は回復が不可能で、疾病状態または他に非常な疾病状態に置かれた患者が苦痛から解放されることを目的もしくは、後見人を通じて自分の生命を終結してほしいと要求する時に、医者が直接患者の生命を終結させること(積極的な安楽死)、または患者が死に行くための装置や薬剤などを準備することで患者が自殺する行為を手伝う(消極的な安楽死)の行為を意味する。
  患者の立場からみると安楽死は医師の助けを受けて行為する自殺(physician-assisted suicide)になる。患者が自己生命を終結してほしいという意思だけを明らかにし、生命を終結する行動は医師が行う場合も患者は自殺を試した評価から自由にはなれない。医師の助けをもらってみずから命を絶つ場合は当然自殺の要件が成立できる。反面、医師の立場から見ると安楽死は殺人または、殺人幇助行為になる。
  医師が患者の意見を直接聞いて、直接患者の生命を終結したなら、殺人行為になる、また、患者が自殺するようになにかを提供したなら、それは、殺人幇助または、自殺幇助行為になる。
  
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  安楽死は故意の殺人とは違って、苦痛を受ける患者さんを助けようとする善な動機から、そして、患者または、患者の代理人の明確な要求があるからすることであることを背景に持ちながら、安楽死の非倫理性を緩和させ、より安楽死を倫理的に正当化させようとする意図として安楽死を慈悲殺(mercy killing)と称する。慈悲殺と称することで、安楽死の本質が変わることではない。だたし、このような称する変化の背景をみると安楽死を倫理的で、正当性問題をめぐって展開されている論争の核心が隠されている。
  論争の核心は人間を苦痛から自由にするために、死という手段を利用することは当然なことなのか?ということである。もし、苦痛から解放させるめに、死まで利用するなら慈悲死という名称は正当であるだろう。しかし、そうではなければ、慈悲死という. 名称は安楽死を正当化するための偽善的で戦略的に美化されてしまうだろう。

  安楽死を戦略的に美化するもうひとつの用語として尊厳死という名称がある。
  尊厳死とは、患者がコーマ状態になり、または類似の医学的状態になっており、自分の意思を明確に表現できない場合や、ただ人工飲食物投与装置や人工呼吸器と同じ人工延命装置に依存し、肉体的生命だけを維持することは人間としての品位を喪失する姿だと判断し、人間の品位と尊厳を守るために人工延命装置を除去し、生命を終結させる行為を意味する。尊厳死という名称もまた重要な争点を暗視する。本当に自己意思を表現できない患者は本当に人間としての生を終結し、ただ獣と違いない無意味な生命だけを維持しているのだろう。コーマ状態におかれている患者、脳死状態にいる患者は人格的主体的な魂がなく、病い体をもつ動物と同じ存在であるのだろうか?患者の家族や代理人が患者を代理し、決定することは、本当に患者自身のための決定だと見られるのか?もしこのような一連の質問に対して、肯定的な答えができれば、尊厳死は倫理的な正当化されるだろう。
  しかし、このような質問にたして否定的な答えをするなら、尊厳死は安楽死を美化するもう一つの戦略的な用語として判明されるだろう。
  
  安楽死と類似に見えるが、安楽死の範囲に含めない医療行為には2つがある。1つは、間接的な安楽死(indirect euthanasia)というあいまいな名前で誤って分類されている医療行為として二重効果の原理(the double effect theory)による道徳的批判から免罪てきな場合である。例えば、ある看護師しよると患者の苦痛を緩和させるための善なる目的をもち医療行為の手続きとその準則などを守り、患者にモルピン注射を投与したが、患者さんが死に至る場合がある。この場合に善の結果を意図したが、実際に表した結果が最悪の場合、その結果について看護師に責任を問うことはできない。この場合は行為の意図や過程が患者を死なせることではなかったので、安楽死という法後を使用することができない。
  もうひとつ、「診療中断」として知られている事例と尊厳死とを混沌する場合が多い。
  診療の中断は治療を通じての回復が不可能な末期的な疾患の状態にいるか、自然的な老化の過程に死を迎えることが不可避な患者が医学的に無意味な治療を中断することを要求する場合、医者が慎重な医学的な検討と病院倫理委員会などと協議し、患者の要求に応じ治療を中断することを意味する。診療の中断にはいくつかの理由を根拠にしなければならなく、安楽死とは区別される。
  一つ目は、死の原因が安楽死の場合は医師の治療行為が死の原因であることと比べて、治療の中断は患者自分の疾病がその死の原因である。
  2つ目は、死の速度から安楽死は施術後にすぐ死ぬことに反して、治療の中断は患者の全体的な身体条件にあわせ、死んでいく期間が決定する。
  3つ目は、安楽死はひどい苦痛を避け、苦痛がない状態で平穏に死んでいくような意図の反面、治療の中断は死の過程からくる苦痛を避けることではなく、平穏な死を人為的に試ししないことである。
  
  しかし、治療の中断は「死に至るように放置する行為」と混沌してはいけない。例えば、老人ホームで、肺炎をおこした老人がいる場合、この老人が老人ホームに役に立てない患者と判断し、診療をさせずに死んでしまった。考えてみよう。肺炎そのものが致死にいたるまでの疾患ではないとしても老人の場合、治療をしないと致死に至る疾患になる可能性があるために、医師がこのようなことを分かった上で、治療を中断したのなら、殺人幇助という非難から自由になれないと思う。
  
II. 安楽死はなぜ認めてはいけないのか?
  
II-1. 殺人が苦痛の緩和になる手段にはなれない。

  安楽死を賛成するひとたちは苦痛におかれている患者を苦痛から解放させるために、死という手段を利用することを患者に対する心の表現である考える。
  例えば、安楽死賛成論者たちは自殺の手段について、よく知っている医師たちが、自分たちが末期疾患に状態に進入するまえに自殺の道を選択する場合多いという点に注目し、患者たちも同じ状態におかれたら同じような待遇をしなければならないと主張する。
  
  安楽死賛成論者たちは哀れみや恵むことを実践するために、医師は患者が自然に死んで行く過程に進入し、人為的に生命を終結させる行為はいけないと主張している。出産の過程で圧し者が医術をもって参与することが適合ではないとし、加入しなかった前例を破り、医師が出産の過程に加入し始まったことと同じように、今は死の過程にも医術が加入する時期だと考えている。
  
  また、安楽死賛成論者たちは安楽死が法的に認めれば、患者に我慢できない苦痛があったとしたら、いつでもこの苦痛から解放できる道が準備されているから患者の心が平静を失うことなく、対応できる有益があると主張している。
  M.P. Battinは、医師には2つの義務があると言っている。
  一つは、患者が感じている苦痛にまたの苦痛を追加しない義務がある。もう一つは、現存する苦痛を終結させる義務があると言っている。苦痛に対抗し、戦う闘争で安楽死が利用されても妨げのないことだとバティンは話している。患者の状態があまりにも酷く、生を維持することは苦痛だけを与えることだと思った時、または、その苦痛を軽減させる適切なほかの方法がない時に意図てきな生命を終結させることは必要であると言っている。
  
  苦痛を除去することや除去が不可能になった時に緩和させることは、医療行為の中で一番重要な目的である。Abraham Kuyperが話しているように、苦痛は美化され、高くされてはいけない。苦痛が深刻な痛みを感じる時には、痛み緩和剤を使用しなければならない。しかし、苦痛の除去は「殺人しないで」は普遍的な道徳率に打撃を与えることまでして施行してはいけない。
  
  苦痛の除去という複利的な価値は無効な生命の絶対的な価値が衝突する時に倫理的な判断の鏡は当然後者側に偏るしかないということは、倫理学の原則である。
  
  医術の目的が生命の誕生を助ける出産の過程で介入することは妥当であるが、死んでいく過程に加入し生命の終結をはやめにすることは正当化できない。
  
  したがって、出産の過程での加入が死の過程での加入も正当化するというケボルキアンの論理は成立させない。人間には生命延長のための努力は認めてもよいが、生終結への努力は認めてはいけない。
  
II-2. 除去できない苦痛がある場合は苦痛の意味を問わなければならない。
  
  人間の生の現実から苦痛を完全に除去することは現実的に不可能である。除去されなく、残っている苦痛にたいしてはその意味を問わなければならない。
  H.M. Kuitertは苦痛と人間が自発的に受け入れることに限って価値があり、強制的な賦課される場合はその価値を持たないと主張している。しかし、本人の意思とは無関係に訪ねてきた苦痛といっても人間には有益を与えることもある。例えば、顔に汗が流せるほど仕事をするのは苦痛であるが、この労働をすることで、人間の身体は健康あり、統一的な精神が維持できる。女性が出産の苦痛を感じるのは苦痛であるが、産苦があり、自然分娩をしたら、産母や子供の健康には一番有益であると言われている。体の疾病が何もない人より、ある程度疾病がありいっぱい病院に関わっているひとこそ長生きすることがある。病院には一回も訪問したことがない健康な人がむしろ急に大きな病気になり早く死ぬ場合が多いこともある。この世で苦痛がなく有益で美しい実はない。
  
  苦痛の除去が不可能で死が不可避な末期疾患者の場合は患者が死に至るまでの過程を助けることも患者に対して良いという表現として医療行為の重要な目的のひとつである。
  死に至ることを防ぐことは的ない場合でも適切な投薬や看護を通じて苦痛を最少化し、可能であれば、元気なひとと同じ生を送るように手伝う緩和医学 (palliative medicine)が必要である。今は、そんなに大きなお金をかけなくても適切な緩和医学処方を通じて大部分の苦痛の調節が可能であると知らされている。だから苦痛の解決方法がないから安楽死を要求する状況はもうなくなっている。
  緩和医学と同じく死に近い末期疾患者たちが適切な緩和医学の助けをもらいながら、より平穏で家庭的な環境の中で臨終を迎えることを手伝うホスピス制度も段々増えている。問題はお金である。緩和医学はホスピスシステムをすべての国民が経済的な負担を感じないように自由的に得をえるように国家的な次元の医療保険体系を強化していくのがこれからの課題である。
  
II-3. 患者の自己決定権は患者の意思を正しく反映的ないことが多い。
  
  現代医療界では医師の一方的な医術を行い、患者はその医術を収納すると見られる後見主議的なモデルからではなく、医者は患者の病気、診療そして診療の結果に対して説明し、患者はその説明を聞き自発的な同意した上で、診療に応じると見る契約論的なものによる患者は医者との関係を設定する。契約論的なモデルからは患者の要求権(claim rights)が強化される。
  要求権は天賦的な人権内では自分の生に対して自らの価値を賦与し、自分の生きる道をみずから決定できる権利だけではなく、自分の生命を自ら終結させる権利まで含んでいるものとして理解される。そして要求権は、末期疾患に病んでいる患者がこのような天賦的な要請に根拠し、自分の生命を終結することを医者に要求する場合その要求が患者自身の自由的で、合理的な決定によりかなえるもんあら、医者は患者の要求を医者は叶える要求を受け入れるべきだと判断する.
  もちろん患者に死の自己決定権を賦与しようとすることを試図する自己決定擁護論者たちの意図が苦痛に悩む患者たちに対する哀れみの実践にあることだけではなく、安楽死を実行する医者が単純に利主議に依り、行動することではないのは確かである。
  
  それだけではなく、患者たちはいくら深刻な苦痛の中にあったとしたら自分が願っているものが何かを良く知る場合が多いことと患者の自律性を軽率に看過してはいけない。しかし、苦痛の中で自分の生を終結させてほしいと叫ぶ患者の声をそのまま受け入れることこそが人間に対する理解が深くない証拠でもあることもある。患者は怖い苦痛、家族たちに及ぶ経済的な圧迫、医療財源の公正な分配を願う社会の政策などに強く押され、自暴自棄な心で死を要請するようになるが、この場合患者の本音はひととの接触や愛情がある心で激励すること要請していると見なければならない。死んでゆくなかでも人と会いたがるし、絶望に対抗している自分に励ましいの言葉と行為を願っている。この場合医者は患者の苦痛を止めてあげるという哀れみ(humaneness)の実践の次元を超えて、死んでゆくが生きているひと (living-while-dying)の人間性(humanness)に注目しなければならない。多くの末期疾患患者たちは苦痛の中で他の人たちに依存し生きていく場合と自分の生を意味ある生だと考え、苦痛を感じながらもその中で価値を発見し、家族の中で起きることを見る不変の要求を持ちながら、死を早くする行為を罪と考える。
  
II-4. 滑り坂の傾斜面の論証の心配は現実である。
  
  安楽死が法的な許容されるようになると似ている状況に陥れている患者たちの生命を自意識的に終結させることが段々広くなり、患者の人権が一方的に侵害され、生命の尊厳性が深刻な危機状況を受け入れるようになる。ひとことで要約するとすべり坂の論争が現実登場するようになる。安楽死許容入法を指示する論争はすべり坂面の効果が実際に起きるとしても患者の自己決定権、患者家族たちの権益、医療財政の効率的な利用などを保障する善なる結果を算出するという楽観的な立場を堅持し、入法が可能になる場合予想される悪用への恐れはそんなに多く名ものではないが、追加的な補完入法装置を通じて制御することができると考える。しかし、このような考えはすべき坂面の論証が提示する恐れが安楽死許容入法を推進する理論的な構成の事例から実際的な現れことだけではなく、歴史的な現実で現れたという事実を無視できない総卒な判断である。
  D. Alan Shewmonが指摘したように法は法哲学に適用する方向に継続的に改正していく速性がある。これを考える際に安楽死が一回入法を通じて市民たちの正当な法的権利として認定され始まったらこの入法はその事態がもっている動力によりその範囲を拡大していくことで、これは理論的な可能性に留まるものではなく、一つの現実になる。
  傾斜面論証が心配する安楽死許容入法のための理論構成からも現れることができるという事実は状況倫理論者であるJoseph Fletscherの、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
  傾斜面論証への事例が続ぐ、、、、
  
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III. 尊厳死はなぜ許容されてならないのか?
  
  尊厳死が安楽死を美化するために偽総された呼称であることを考慮する時に安楽死を許容できる理由として提示された尊厳死へ適用する。しかし、尊厳死を安楽死と区別すると主張する人たちは2つの根拠を提示した。
  
  一つは、安楽死は精神機能が生きている人を対象に施行する反面、尊厳死は精神機能が消滅し、それ以上人間としてみることが難しい患者を対象に施行されるから殺人の範囲に入れることができないということである。
  他は、患者が自分の意志を表明できない場合は患者の権益を一番代弁できる代理人が患者の代わりに判断してはいけないが、この場合代理人が患者の生命の終結を要求する場合が多い。この場合はその要求を拒否できないことがある。そうするとこの2つの論拠に対してはどんな評価があるのか?
  
III-1. 植物人間状態にいるか脳死状態にいる患者も生きている人間である。

  苦痛から患者を解放させるために、生命を人為的に終結させることが倫理的に正当性を賦与されにくに安楽死に対する批判はコマ状態に陥れている患者または、脳死状態に落ちている患者にも適用されるのか?

  この質問に対する答えは意識不明の患者というのは大脳の機能は喪失されているが脳幹と脳幹反射機能は生きている患者として、血液循環、消化機能、腎腸機能、恒久機能は生きている患者をいう。脳死状態の患者は2つの類型に分けることができる。ひとつは、人間存在に必要ない要所を認知する能力は喪失したが、脳の機能の一部が残っている脳皮死の患者であり、もう一つは自己自身を組織し、統制する機能を完全に喪失したことを意味する脳幹死状態の患者だ。
  J. Rachelsは人間の生命を電気的生命the biographical Lifeと生物学的な生命the biological lifeとして区分する。 J. Rachelsはは欲求と熱望をもつこと、楽しさを感じ、苦痛を感じること、私物を理解しようとする心、友情の形成、決定を下し、気が国参与することなどを電気的生命としてみ、電気的生命がない
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  団純な肉体的な生命だけを維持しようとする生は価値がない生だと断定している。
  この話の意味は単純に生物学的な生命だけの、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、  、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
  
  III-2. 植物人間状態にいる患者の代理判断者は患者の考えを正しく反映されない場合が多い。
  
  植物状態にいる患者は自己意思を言葉で明確に表現できない。自己意思を表現するか、できないか患者の生命を人為的に許容してはならない。しかし、尊厳死を許容しようとするひとたちは、患者の代理判断が患者のために患者を意味ない生から解放しようとし、飲食物、酸素供給の中断を要請し、この要請を受け入れるように主張している。このように、痴呆や精神疾患またはコマ状態などで自己意思を表明ができない患者の場合後見人が患者を代わりに患者の生命を終結させる決定を下すならこれは妥当な決定なのか?
  まず、代理判断は患者の自己決定権を侵害する行為である。現代医療倫理では患者の同意はすべての医療行為の必須的な前提条件である。しかし、代理判断がいくら患者の意志に近接するものとしてもその判断をカン徐の明示的な考えと同一視できない。さらにその判断内容が絶対的な価値をもつ人間生命にかんするものならより患者自身の明示的な見解が確認されなければならない。
  
  - p・28 -
  患者の代わりに代理判断するいくつかの場合があるが、いずれの判断も欠陥をもつ。代理判断の方法には3つの類型がある。
  
  一つ名、代理判断者が患者が残した文書、肉声、家族の口頭証言などの資料を土台に決定する主観的な判断の標準 (subjective standard)がある。しかし、その方式から代理判断者は患者が残した資料などを判断者自身の価値基準に合わせ選別する可能性があるという問題点がある。大体に「生きているひとでも平穏に生けなければならない」という言葉通り、患者自身の生命の尊厳性より、残っている家族たちの経済的・精神的な負担がより大きな判断に影響が与える可能性がある。それだけではなく、患者が残した記録にあらわれた患者の考えが、実際の場所でも同じであるということはどこにもない。ひとの考えは良く変わるので、資料を記録する時と患者の心は実際の状況でも同一という確認の方法はない。
  2つに、患者が残した資料がない場合は患者の家族や関連者たちの会話を通じて患者が願ったと予想できる内容を決定する代理的な判断の標準(substituted judgment standard)がある。この場合も代理判断者は、「患者ならどのように判断したか?という観点より、「患者のために私がか願っているものはなにか?」という観点からの判断への恐れがある。
  3つ目、代理判断者が患者の最善の利益をもってくる方向で反たんする最善の利益の標準(best-interests standard)がある。この場合も判断者は患者の生そのものの価値より、功利主義的な観点から判断する恐れがあることを排除できない。
  人間には生への本能的な要求はあるが死への本能的な要求はないという、キリストの人間学的な事実を考慮する場合、患者が自己生命を終結してほしいという要求していると言う代理判断は患者自身の明確な意思とは見にくい。
  
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  IV. 整理

  今までの論議の結論は安楽死だけではなく、安楽死に美化された形態の尊厳死とキリスト的な人間学とキリスト倫理の観点では許容されてはいけないことである。
  まず、安楽死が許容されてはいけない理由は次のようにである。
  一つ目は、苦痛から患者を自由にすることはいくら善なる医療行為であっても死という手段を通じることをしてはいけない。人間生命そのものの価値は他の価値より優先する価値である。
  苦痛から解放という価値と人間生命という価値の重さを量るとその重さは当然人間生命の価値に偏る。人間生命を目的ではなく手段として扱ってはいけない。安楽死は「殺人してはいけない」という神様の道徳法を犯す非倫理的な行為である。
  
  2つ目は、最善を尽くして患者の苦痛を除去するために努力するが、最後まで除去できない苦痛がある場合患者にその苦痛の意味を説明し、苦痛と一緒に生きて行く道を提示し、その道を行けるように助ける方法を積極的に模索しなければならない。
  緩和医学の拡大、ホスピス制度の拡充、全国的な医療制度の確立、宗教的な慰労の提供などの方法を通じて患者らも生の共同体の大切な一人であることを認識させ、一緒に手を繋いて歩ける道を模索しなければならない。
  
  3つ目は、患者が生命の終結を要請してもその要請をうけいれてはいけない。患者は生命への要求があるにも関わらず、家族たちに与える負担に対する「すまない気持ち」などの圧力に押され、本気と違う意思を表現する場合がある。
  
  4つ目に、身体的な苦痛がある患者に安楽死を法的に許容すると精神的な苦痛を含む、似ている苦痛をもつすべての患者に安楽死がだんだん拡大していく境界線上にある人間の生命の尊厳性が深刻な危機へ逢着するようになる。
  
  いわゆる、尊厳死と呼ばれる慣行も事実上安楽死の範囲に含まれるため、安楽死が許容されない理由は尊厳死を許容されない理由でもある。
  しかし、尊厳死が別途の主題に論議される場合もあるので、尊厳死が許容されてはいけない理由を別途に整理する必要がある。
  
  一つ目、尊厳死の対象になる、もしくは、コーマ状態になる脳死状態にある患者も魂が生きて体と一緒にいて、身体も生きている人間生命なので、人為的に終結させてはいけない。
  コーマ状態と脳死状態にいる患者が魂が消滅された獣と違いない生を送っていると尊厳死の賛成論者などの主張は植物人間状態から回復された患者や、その患者を看病した人たちの経験、そして哲学的な人間観と宗教的な人間観が配置される。
  
  2つ目、生に対する欲求はすべての人間には自然にある欲求だからコーマ状態や脳死状態にいる患者が死を願っているという代理判断者の判断は患者の意思とは違うので、大変危険な判断である。
  だから、コーマ状態にいる患者や脳死状態にいる患者からの飲食物、水液、酸素供給を中断してはいけない。しかし、老化や末期疾患状態に入り、それ以上治療をしても効果がない場合、患者自身が自然な老化の過程や死へ至る過程を迎えると決心し、診療の中断を要求する場合はその要求を受け入れることが正当である。


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