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安原 荘一「アフリカ(ケニア)における「伝統的精神医療」報告――近代精神医療に対する「オルターナティヴ療法」の可能性を探る」

障害学会第6回大会・報告要旨 於:立命館大学
20090927


◆報告要旨

 安原 荘一(一橋大学大学院博士課程単位取得退学)
 「アフリカ(ケニア)における「伝統的精神医療」報告――近代精神医療に対する「オルターナティヴ療法」の可能性を探る」

 現在、西欧近代精神医療システムに対して、特に欧米系の当事者運動から強い批判の声が上がっている。その論調は多様であり、いわゆる「全面否定派」「批判的利用者」「代替療法追求派」等におおまかに分類することが出来るように思われるが、いずれにせよ「代替療法」に関する関心は高く、様々な「代替療法」を公式に認めるよう(健康保険等の適応対象にすること)、ENUSP、WNUSP等の当事者団体はEU政府に対して現在公式に要求している。
 しかしながら一口に「代替療法」と言っても、当然のことながら、様々な「療法」が存在する。発表者は、ケニアで、現地の当事者団体の方のご支援で「ムスリム伝統的治療」「マサイ族の伝統的治療」を受ける機会を得ることができた。
 なお「代替治療」「伝統的治療」に関しては、WHO等も現在注目しており、詳しい調査も現在なされている。
 本報告では、アフリカにおける「代替治療」の本邦における研究、発表者自身の治療体験、現地調査団体による報告書等をふまえ、その現状をレポートすると共に、その宗教的側面において、いわゆる「主体―客体」図式(医師が患者を「対象化」して「病」を「診断」、「治療」する)ではなく、治療者も患者も原理的に「神の前では平等」である点、「伝統的治療」は広い意味での「宗教的実践」でもあることの意味を、「ケア」という観点からより積極的に考えてみたい。
 それは(近代)精神科医と患者の間にどうしても存在してしまう「非対称的権力性」(「当事者主権」「インフォームドコンセント」を強調すればするほど、逆に浮かび上がってきてしまう)を今後考えぬいていく上でも大きなヒントになるものと思われる。

◆報告原稿

障害学会第6回大会 発表(ポスター報告) 2009.9.25〜26 立命館大学
題目 アフリカ(ケニア)における「伝統的精神医療」報告―近代精神医療に対する「オルターナティヴ療法」の可能性を探る

    発表者  安原 荘一(一橋大学大学院 博士課程 単位取得退学)

 はじめに 本発表の「問題設定」および「代替的(オルターナティヴ)精神療法」を論じる「難しさ」等について。

 1 いわゆる「代替療法」と「近代的健康」についての社会学的「一般論」について。

 一般に「代替療法」といわれるものは、「近代西欧医療体系」が、受容されていく過程で、古くからの「民間療法」「伝統的療法」等を総称するカテゴリーと、とりあえずは想定しうる。
 しかし、たとえば「サプリメント」等の栄養補助剤や機能性健康食品、またエアロビクスやストレッチ体操等、近代的な栄養学的、生理学的な「知見」に基づくとされる各種「健康法」も含め、いわゆる正規の近代的医療システム以外から供給される財やサービス等も「代替療法」の一種とみなしうるかもしれない。
 後者の「広い定義」に立つならば、現代社会は「代替療法」全盛時代ともいいうるだろう。ビタミン剤ブームから始まり、各種栄養ドリンク、サプリメント等々。現在ドラッグストアに行き商品棚を眺めてもその多くはいわゆる健康・美容食品の類である。
 当然この手の「健康商法」は、相当程度に「胡散臭い代物」であり、これまで社会学者の絶好の「標的」となって論じられてきた。身体的健康、美容といったものの「近代イデオロギー性」が、前者は例えば「富国強兵」論的な側からが、後者は、例えばダイエット等「(女性に対する)美の規範性」といったかたちで「批判的」に論じられてきた。
 以上の観点に立てば、少なくとも、後者の系列の「代替療法」は「近代的医療(健康)イデオロギー」の「副産物」、「補完物」ともみなしうるかもしれない。
 しかし、今回、最初に「予防線」的に、「代替的精神療法を論じる難しさ」という章を立てたのは、これから「スピリチリアリティー(精神性)」、「ソウル(魂)」といった、少なくとも日本では、相当に、いまだ「胡散臭く」かつ、その「イデオロギー性」を、過去にも、現在も、そして将来も持ち続けるであろう「概念」を使って「代替的精神医療」を論じるにあたって、WHOやWNUSP(世界精神医療ユーザー・サバイバーネットワーク)といった「国際的権威も認めている」といった「論法」を使うことなく「自分自身の言葉」で充分に納得できるまで、考え抜いてみたいと思ったからである。

 「伝統療法」にせよ「民間療法」にせよ「胡散臭い」と思えば、確かにそうとうに「胡散臭い」とはいえるだろう。(「近代的科学教育(社会科学も含む)を受けた私自身、「最新の(自然)科学の『成果』が一番正しい、と心のどこかで一応『信じている』のだとも思う。」
 また「社会科学的」にも、いわゆる「伝統の創造論」を待つまでもなく、「伝統」というものは、現代社会が「創造」してきたものであるし、いわゆる「民間療法」等もその出自等に充分に留意する必要は当然あるではあろう。
 むろん「近代精神医学の知の系譜学」自体、フーコーがその出自も含めて、丁寧に調べたテーマではある。
 しかし、逆に、一般に「民間医療」といわれる「領域」において、様々な「可能性」の「地下水脈」が現在も流れて続けていると私は思う。
 また、いわゆる「民間療法」の「出自の(例えば)正統性」にこだわること自体、ある種の「権威主義的」な価値付けに加担してしまったり、新しい「創造性の芽」を否定してしまったりする危険性も大いにありえると思う。

 私自身は、長く続いてきた『伝統』にも、それなりの「存続理由」もあるものと「渋々認めざるを得ないこと」も現在率直なくもないが、人間の根っこが「ハイカラさん好き」なので、いわゆる「伝統」といっても、結構、その「創出者」は「その時代のハイカラさんではないか!」とかしぶとく抵抗し、「温故知新」の当然後者に、力点を置き、「伝統って結構ナウいじゃん!」みたいな感覚、みようによっては、もろ「オリエンタリズム」丸出し的「感性」も含めて、「僕って、近代日本社会向いてないんだよねー」的な感覚も率直ある。

 なお、読まれる立場によっては、以上は「近代諸科学(信奉主義者)」に対する「魔よけの呪文」とみなして頂いてもらっても、いっこうに差し支えない。
 このレベルでの「呪術合戦」を挑まれれば、こと「精神医療」の「分野」で、「一当事者として」一応多少は「立って受けるべき立場」なのかもしれないが。
なお以上の「予防線」がすでに、もはや相当に「くどい」と思われる方は、このあとも含め、最初の章は完全に飛ばしてくださっても、まったく問題はないと思う。
 2.「精神代替(オルターナティヴ)療法」を論じる「難しさ」について。
 さて、今回、いわゆる「社会学の領域」での「現代社会の心理主義化」論、「社会の再呪術化」論等からの「赤子の手をひねるようなご批判」は、いくらなんでも「ストレート」には蒙りたくないとは思っている。
 各種「ご批判」は山のようにありうると充分に承知しているし、すでに「当事者も参加しているメーリングリスト」での私自身の投稿に関して、「七瀬(私の『運動名』)ついにスピリチュアル系突入か!」といったご意見も、実際直接頂いている(私は「神々の沈黙」「良寛の生き方」といった本を紹介しただけなのですが)。
 ただし「先手」をとって「(一応の)反批判」をしておくと、現代精神医学で例えば「統合失調症」の「原因」が「理論的」に解明されているわけではまったくない。
 むろん「仮説」は山のようにある。
 しかし長年、いわゆる「家族会」が否定し続けてきた「家族要因説(遺伝要因説等もまったく間違っているわけではないと私自身は思う。また例えば、幼児期における、親の「虐待」説等も、現在は例えばAC起因説という形で「形」を超えて存在している)。
 また、「祖先の呪い」「たたり」といった説等、「家族」や「祖先」といったものも「社会的に構築されたものである」という「現代社会学」の視点に立てば、まさに「迷信」に苦しんできた数多くの「当事者」等にとって、「近代精神医学的啓蒙」が、従来、救いの導きの手であったことは紛れもない「事実」である。
 反面、筆者の見解では、これらの「観点」は、「結果的」に現在まで続く「二極分化―棲み分け構造」をももたらしてきたのではないだろうか。両者の土壌は「近代精神医学」という観点にたてば一応『同一』ではある。
 一方の立場は、近代精神医学的な「クスリを飲めば『症状』も『再発』も抑えられるし、『社会復帰』も出来る」というような、一般的な「近代精神医学モデル」である。
他方「精神疾患」発生の『社会的要因』を重視する立場(この立場の精神科医の方々はフーコーから(反精神医学の)レイン、サズ、さらにはゴフマン,ラカン等にいたるまで、異様なほどまでに「脱領域的」に本当に『勉強熱心』でもある)もあり、この立場からは、例えば『社会病理』の『個人病理化』といった「スローガン」等も現在出されてはいる。
 後者の立場の場合「精神疾患」は「(社会的に)創られたもの」という観点が「ある程度共有」されている。
 (とはいえ「医者」と「(当事者)社会活動家」は目の前にある「問題」に対して、「(とりあえず)なんとか『対処』せざるを得ない」という共通しうる「課題」もあると思う。
 また、PSW等、いわゆる「(精神科)専門職」まで含めると、「専門」が一般に「福祉」と呼ばれる「世界」まで広がっていくので、結果的に職務の性質上、「一般にわかりやすい」ことが『社会復帰』等に直結しやすいといった、「業務上」の難点も実際はらんでんでいるように私には思われる。)
 現在の「問題点」は、「精神科医」だけではなく、それ以外の各種「精神医療専門職」でもあり、関係マスコミ、行政の人間でもあり、またある種の「当事者団体」のメンバーなのでもある。
 各種「専門職」の場合、医者の診断や処方は「絶対」である。それに対して「公式」どころか「非公式」にでさえ「異議申し立て」する「権限」も「機会」もないし、その根拠となりうる「充分な精神医学的知識」も現状まったくないといってもよいだろう。
 むろん、具体的に作業所やグループホームの運営にかかわっておられる方の話を聞いていると「病名なんかすぐに忘れてしまうからどうでも良い。そんなことよりその人が『どういう感じの人』で、どういうときに『トラブルを起こしやすいの人』なのかが大切」とも聞く。
 行政職の方の場合、「障害者差別は良くない」「啓蒙が大切」と「本音」でも思っている方も予想以上に多い。しかしながら、肝心の「当事者」の声がいまだ充分に「反映」される仕組みになっていないため、現状「現場」では相当な混乱も生じているようにも思う。
 さて、現在の私にとって、今後大きな「問題点」になりつづけうると思われる点は、「精神医療モデル」になじみが深い「当事者団体」のメンバーの方々である。
 私もとうてい人のことは言えないが、ある種の「病者」は自分の「病気」に関して、それこそ「病気の原因」「薬の(副)作用」さらには「代替療法」も含め、相当に「勉強」・「研究」してしまう人が結構多い。それこそそんじゅそこらの「専門家」より詳しくなってしまうケースも実際ざらではないのである
 むろん自分の「病名」「クスリの(副作用も含めた)効果」「発症の原因」等に詳しくなることは、「自己認識」・「自己防御」の面も含めて、大変重要なことだと思う。
しかしながらこの方式の最大の「問題点」は、自分の「病」を「近代精神医学の言葉」で「了解」・「説明」することに「慣れてしまう」ことだと思う。
 このことを、それだけを取り上げて「どうこう批判」できるような「立場」にも「境地」にも私自身は現在とうてい到していない。しかしながら、例えば「こころの商品化論争」(背後には、かつての「こころの専門職論争」も想定可能である)等、いまや「エコ」も「商品化」している現代社会において、「商品化」「専門化」等、その「弊害」は、それ自体は、大変わかりやすい論点ではあるが ,「キレイごと抜き」にいうならば「アフリカ(ケニア)の伝統的療法」自体も充分に「商品化」はしている)。
 後述の資料にもあるように、特に「伝統的治療者(民間医療従事者)」は、「宗教的治療者」以上に、所得や社会的地位が不安定で、「評判」や「価格競争」にも現在さらされているのである。

 さて、本章の終わりに「今発表の最大の『防御線』」をここで目一杯、せいぜい張ってみたいと思う。

 私自身、最初はまず(少なくとも私にとっては「大変貴重」な、伝統的療法の「体験」を、)私自身、ぜひ「学会発表」したいと思った。しかし「当事者」の視点という「立場」だけ「発表」するのであるならば、「当事者団体の集まり」等で発表すればそれで一応よいことである)。
 まして、「ネオリベ主義批判」・「(それを内面化した)自己責任論批判」・「社会の心理主義化批判」が、「それだけ」の「わかりやすい論理」で(ある種の「社会(科)学的な『業界内』で」流通)しているのも、それ自体「現実」だとも思う。
 自分の「言説」が「わかりやすく流通」してしまう「現実」。それに、ある種の「危機感」といものを、「社会学者」という存在は抱かないのであろうか?
私自身は、現状ある種の「社会(科)学的人間像」からの「わかりやすい 」「社会批判」は、「経済学的人間像(ホモ・エコノミクス)」からの「経済社会批判」同様、「個人のせいか社会のせいか」的な「図式化」の弊害も、相当に免れないのではないかと思っている。
 (「個人」も「社会」も、それは「現代社会学的」にみても、それはしょせん「社会の産物」にすぎないなわけなのだから…今後「障害の社会モデル」の議論が「本格化」するにつれて、この点は、法学的な「人権モデル」思考とのかなりの微妙な「すり合わせ作業」も「実践的」に必要になってくるのではと「個人的には」思っています)。

 さて、私に、文化人類学や医療人類学、あるいは宗教学や宗教人類学の充分な知見があれば、そのような発表の「場」において、各種人類学的な知見や先行研究等も踏まえたうえで、かくかくしかじかの「フィールド」において、このような「文化的・社会的背景」のもとで、ある種の「体験」をしたという「報告」「記述」をすればそれで充分よいのかもしれない。
 実際、「クレオール」や「ハイブリッド」等々各種「語彙」だけは、現在充分豊富にはなってはきている。

 いわゆる「アカデミズム」での「(客観的)報告」も「立場性」さえ「明示」さえすればもはや「不可能」な時代では決してないし、「当事者(といってもいろいろな「考え」や「立場」もあると思いますが)の『ご意見』」、「当事者にとって『有益(各種『専門家』の判断、意見等も当然混じってこざるを得ないとは思いますが)』な発表」といった「形式」ならば、今の時代、どこででも「発表」は出来る(はず)だと思いう。

 では、私が、今回、「障害学会」という、この場での「発表」で「一体全体」何が言いたいのか?

 以下、多少は(ある種の「権威」に頼った)「言い方」にもなるかもしれない。
 しかし、このような「表現刑」が「現状」一番良い(ピッタリくる)のではないかと思い記述する。

 かつて、『現代思想』のある対談の中で、市野川容孝 氏が、「安全学」の文脈のなかで、「ケアの『収奪』」という、私にとっては、大変興味深い『論点』を提示された(その後の『展開』までは不勉強ながら存じ上げませんが)。
 私自身現在「脱原発運動」とも、多少のかかわりを持っている点とは別に、今は亡き、あるドイツ中世社会史研究者(ご本人は「登山大マニア」)が主催する、大学1年生のゼミナール合宿で、「草木一本一本に天皇制は宿る(竹内 好さんが、「元ネタ」)」と相当大胆に(と今にしては思える)発言をしてみた。

 いま考えてみると、「ケアの『収奪』」にせよ、「草木一本一本に関する感性」の「(近代天皇制による)収奪」にせよ、あるいは「スピリチュアリティー」や「ソウル」の「(私から見た場合の)収奪の問題」にせよ、それ自体が「完全に収奪」されている「現状」から見れば、ストレートに「問題視」している「発言」等はそれこそ「非合理」な、場合によっては「笑ってしまう」ような「内容」も、実際多いのかもしれない。
しかし、私自身は、「社会学的啓蒙」とは「社会学的」に「迷信」から「解放」されるプロセスだと思っている。その「迷信」には、「近代(精神)医学」も含む「自然科学」的「迷信」の類も「当然含まれる」というのが、現在の私自身の「立場」である。

 アフリカ(ケニア)の『伝統的精神医療』体験について。
 (口述)(実践等)

 宗教的治療者と伝統的治療者の、社会的、経済的地位の「違い」について。
 (資料−BASICNEED)。

 日本における代替治療実践例
 神田林氏の「実践」について。(精神科養生のコツ)

 代替医療の今後の「展望」。

 終わり。

*作成:
UP:20090904 REV:20090921
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