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渡邉 あい子「障害者とパフォーミングアーツの生成と展開――1970年代から現在まで」

障害学会第6回大会・報告要旨 於:立命館大学
20090927


 渡邉あい子(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
 「障害者とパフォーミングアーツの生成と展開――1970年代から現在まで」

 近年、障害者の/とのパフォーミングアーツが盛んである。本報告では1970年代から2009年までの障害者の/とのパフォーミングアーツ関連年表を作成し、このムーブメントが具体的にどのように生成され展開を見せたのか、障害者自立運動との関係性、文化的背景などを念頭に分析を試みる。
 まず、従来の健常者のみを前提とする文化への異議および援助を受ける「弱者」としての存在からの解放があった。75年からスタートしたわたぼうしコンサートを嚆矢として、「ろう者劇団」、「デフ・パペットシアターひとみ」の80年代における発足、83年に大阪青い芝の会で重度障害者自立運動に参加した金満里が旗揚げした劇団「態変」がここには含まれる。90年代に入るとボディワークを取り入れたカウンセリングの学習会グループ「仙台からだとこころの会」で障害者とのダンス・ワークショップ(以下WS)が開かれ、のちに「みやぎダンス心体表現の会」(98)「みやぎダンス」(2005)と団体名称変更をし、理念も「inclusive dance for all」を掲げている。また90年代後半にはコンテンポラリー・ダンスの出現・浸透とともに、各地で様々なダンスWSが展開されている。これらは健常者による障害者のための療法的・効果的変容を狙ったものではなく、参加者のあるがままの状態、いわば異なる身体性を活かしてパフォーマンスを創造することに力点が置かれた動きの台頭といえる。ここではWSという、すべての参加者が主体となり、ひとつの価値や方向性におさまらない多文化的存在のあり方とやりとりによって成立する場が重要になってくる。
 2000年代に入ると展開も多様になり、特に2004年からは5年間のプログラムで「エイブルアート・オンステージ」が始まり現在のムーブメントを牽引・波及を見せている。
 このような流れから、障害者文化を主張するパフォーミングアーツや療法として効果変容を目的とするものから、すべての人に異なる文化と表現性があること、その相互作用から生まれるパフォーマンス自体を目的とするものへ、という変化を見てとることできる。またそのことからも障害者の社会参加として語られるにはとどまらない可能性を示していることがわかる。

◆報告原稿

「障害者とパフォーミングアーツの生成と展開――1970年代から現在まで」
立命館大学大学院先端総合学術研究科 渡邉あい子

0.報告の目的
 近年、障害者の/とのパフォーミングアーツが盛んになっている。本報告では1970年代から2009年までの障害者の/とのパフォーミングアーツ関連年表を作成し、このムーブメントが具体的にどのように生成され展開を見せたのか、障害者自立運動との関係性、文化的背景などを念頭に分析を試みる。なお、詳細な年表については生存学創成拠点ホームページ上(http://www.arsvi.com/d/d00ah2.htm,http://www.arsvi.com/d/d00ah.htm,)に掲載した「障害者とパフォーミングアーツ関連年表1974-1994/1995-2009」を、ここでは別刷りの資料を参照していただきたい。
まず、障害とパフォーマンスの変遷を年代順に、注目する団体に沿って概観する。

1.障害とパフォーマンスの変遷──時代背景とともに
 障害、障害者をめぐる表象には歴史上さまざまな存在する。ここではパフォーマンスの当事者性に重点を置き、障害者運動が活発化した1970年代からみていくこととする。

1. 1960・1970年代の福祉と運動
 戦後から70年は福祉法制度や年金制度が整備されていった時代だった。60年代後半には重度障害児・者を抱える家族の問題が出はじめ、嘆願によって国が入所施設を作り始める。高度経済成長で財源もあったため各地で大型収容施設〈コロニー〉の建設が進められたが、施設での劣悪な処遇、管理体制に入所者からの抗議が70年頃から始まっていく。70年には横浜で障害を持った子どもを殺した母親に対し同情が集まり、減刑嘆願運動が起こったことに対して、神奈川青い芝の会は母親の障害児殺しに厳正裁判要求を行う。さらに、優生保護法の胎児条項新設、養護学校義務化、障害者実態調査への反対などの障害者運動のように、声をあげていく/いかざるをえない当事者による異議申し立てがはじめて繰り広げられ、自立運動へと繋がって表出されたのが70年代である(市野川・立岩1998)。

1-2. 70年代の「歌」
 このような時代のなか、75年に「奈良たんぽぽの会」が中心となり「わたぼうしコンサート」が開催される。これは脳性マヒの子どもが書いた詩にアマチュア音楽グループ「奈良フォーク村」のメンバーが出会ったことが契機となった。LPレコード発売もされ「わたぼうし」の存在は飛躍的に障害のある人たちに浸透していくことになった。コンサートの趣旨はいわば「生きる強さ」「心のやさしさ」「いのちの尊さ」などの“愛と正義”を謳うものであり、先の過激な運動体である青い芝の方向性とは真逆といってもよい。「障害があっても人を愛し、まちを愛し、世界を愛することは人間としてあたりまえのことだとして共感が人々の心を動かし」という記述からも“共生の視点”における主張、表現であることがわかる。また「わたぼうしコンサート」が全国で開催され浸透するとともに、障害者と健常者の、親の会などによる音楽、合唱などのサークル活動が広がっていった。

1-3.80年代の「劇団」化──プロとして
 80年代初めには「ろう者劇団」、「デフ・パペットシアターひとみ」が発足する。
 ろう者の運動は60年代から全ろう連(全日本聾唖連盟)を中心に公的な手話通訳制度設立への働きかけ、ろう者の権利獲得運動として現れ、70年には国による手話奉仕員養成事業に結実させていった経緯がある(植村2002)
 「ろう者劇団」はろう者である米内山明宏が、同時期の寺山修司の演劇やアメリカのプロろう者劇団「ナショナルシアター・オブ・ザ・デフ(NTD)」の手話演劇に影響を受け、演劇の好きな仲間を集め「東京ろう演劇サークル」を設立した。“障害の有無に関わらず、視覚的に誰もが楽しめる演劇創り”を目指して活動を開始し、その後黒柳徹子・トット基金の付帯劇団となり、日本ろう者劇団と改称して活動を続けている。「デフ・パペットシアターひとみ」は、結成当初からろう者と聴者が協同して公演活動を行っているプロの人形劇団で、ろう者劇団と同じように“障害の有無に関わらず誰もが楽しめる人形劇、ろう者と聴者の感性を活かして新しい人形劇を作る”ことを目指している。
 ほとんど時を同じく、しかし趣をまったく異にして出現したのが劇団「態変」である。81年に「国際障害者年をブッ飛ばせ!」公演を行い、83年に「態変」の旗揚げとなった。主宰の金満里は大阪青い芝の運動にも関わっていたが、言葉に対しての行き詰まり、運動の中で培われた論理では語れないものがあるとして「直感的に舞台表現ということになった」と語る(金1998:50)。旗揚げ芝居は〈障害者の日常を超えるドラマはない〉という考えに基づき、障害者の視点からストレートにぶつける挑発芝居として創られ(金2006:148)「さらなる障害者性への回帰」(倉本1999:238)を主張した。ここには青い芝の「脳性麻痺者固有の文化を創り出す」と同質の趣旨が見いだせよう。それを映すように、初期の作品群の中心的テーマは毒づくように障害者問題に目を向けさせるものだったが、87年の作品「天」からは障害者身体への新たなる解釈の可能性に転じていった(倉本1999:242)。
 「態変」の演者は脳性マヒやポリオなど重度の障害があるため常に身辺介護を必要とする。そこで黒子が、舞台上に役者を抱えて舞台上に登場させ、袖に連れて帰るなど、演技をするサポートを行い、稽古の段階から一緒に作り上げていく役割を担っている。つまり、社会のメインストリームから周縁に追いやられていた身体を中心に据える場所をつくり、健常者の身体を前提とすること、身体障害者の身体と一括りにすることに異議を示した(渡邉2009)。

1-4. 80年代前半の考察
 この3つの劇団における共通項は1.プロとしての公演2.障害を活かすというポジティブな観点、である。しかし2においてあらわれ方は同じでも初期の態変が根本的に違うのは、障害者のネガティブなイメージをいったん引き受けた上で、戦略として誰もが楽しめる舞台を目指さないことにあった。観るという距離を保つ観客の守られた立場や障害者に対するイメージの前提を剥がし、そこに居合わせて体験しまうような場面の共有を舞台上で行ったといえる。これは60年代からの「舞踏」が障害を持った人の身体に憧れて行っていたことが、当事者によって更に具現化されたともいえよう。また、先だって舞踏やアングラ演劇の興隆があったことにより表現の「毒性」受け入れの土壌ができていたとも考えられる。

1-5. 80年代後半・90年代──ワークショップの始まり
 以上のながれを引き継いで、80年代の後半には新たな身体表現が市民性を得始める。86年には勅使川原三郎のバニョレ国際振付コンクールでの受賞やディスコミュニケーションや軋轢を描き出したピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団初来日公演に当時のダンスシーンが大きな衝撃を受けたことも契機となって、モダンダンスでも舞踏でもない、新しいダンスの時代が始まろうとしていた(渡邉2009)。また同時期には、舞踏家である岩下徹による精神科病院でのダンスセラピーの試みも開始されている。
 90年代に入ると、ダンスなどのワークショップ(以下WS)が各地で始まる。例えば、ボディワークを取り入れたカウンセリングの学習会グループ「仙台からだとこころの会」(のちに「みやぎダンス心体表現の会」(98)「みやぎダンス」(2005)と団体名称変更をし、理念も「inclusive dance for all」を掲げている)では重度障害者とのダンス・WSが継続的に開かれた。これは91年に、英国で健常者と障害者で構成するカンパニーを立ち上げ,公演を行ってきたヴォルフガング・シュタンゲ が来日し公演・WS開催したことによる影響が大きい。この招聘を行ったミューズ・カンパニーは設立より毎年、国内外から様々なダンサーや振付家を招き、聴覚障害や自閉症、身体障害者、また高齢者、子どもなど、広い層を対象にWSを行っている。
 しかし、このような先進的なWSの展開はまだごく一部で、障害者の演劇や身体表現は福祉施設の余暇活動やボランティアによるサークル活動で健常者側から提供されたかたちのものが多かったのも事実である。そして公演などのイベントもほとんどが関係者で埋め尽くされてしまい、「がんばっている障害者」に拍手を送るというものであった。生々しい現実の障害者の姿をもっと広い層に、つまり無関心な健常者に見せつけるべく、既存の状況に対するアンチテーゼとして取り組まれたのが、障害者プロレス「ドッグレッグス」である(倉本1999:230)。主宰の北島行徳の狙いどおり、福祉・ボランティア関係者ではない、障害者から遠い健常者の動員、「後味の悪い面白さ」を残すことに成功した。倉本は「障害者プロレスとは、障害者という存在について深く考えることなしでも充分に成り立ってしまう大多数の健常者の日常に楔を打ち込み、異化する装置にほかならない」(倉本1999:232)と指摘している。ドッグレッグスが行ったのは、健常者にとって都合のよい障害者像を打ち破り、眼前に突きつけ、さらには格闘技としてエンターテインメント化していったことにあるだろう。
 90年代後半には、前半からのダンスの流れがさらにコンテンポラリー・ダンスというジャンルの浸透とともに強化され、各地で障害者を/も対象にしたダンスWSが展開されていく。これらのWSは健常者による障害者のための療法的・効果的変容を狙ったものではなく、参加者のあるがままの状態、いわば異なる身体性を活かしてパフォーマンスを創造することに力点が置かれた。すべての参加者が主体となり、ひとつの価値や方向性におさまらない多文化的存在のあり方とやりとりによって成立する場が志向されたといえる。
 また95年には日本障害者芸術文化協会(現エイブルアート・ジャパン)とたんぽぽの家で協働する、エイブルアート・ムーブメント(可能性の芸術運動)がスタートし、障害者のアート活動を中心に支援や啓発活動が行われていくこととなった。

1-6. 2000年以降
 2000年以降になると表現の展開もさらに多様となる。特筆すべきは「こわれ者の祭典」(2002?)である。前述までのパフォーマンス当事者には精神障害者はほとんど含まれていない。さまざまな病を抱え生きづらいと感じている人々が、自らを「こわれ者」と呼び、病気自慢を繰り広げ、その病気に関するユーモアを交えたトークとパフォーマンスで盛り上げるものである。あるがままの自分を認め肯定し、分かち合う場として反響を呼んだ。
 2004年からはエイブル・アート・ジャパン5年間のプログラムで「エイブルアート・オンステージ」が始まり、全国からパフォーマンス団体が公募し公演までの資金・運営面で支援を受ける取組が行われた。毎年5組程度の団体が選出され、前述のみやぎダンス、こわれものの祭典も含め、見えない人とのダンスや、実験的パフォーマンスでマイノリティとマジョリティの境界線を揺らがせようとするもの、障害者の性や労働などを歌にしたもの、65歳以上の女性高齢者のみが出演する演劇など、その趣旨・方法は多岐にわたる。しかしどれにも共通して見いだせるのは、語られてこなかったことの表出、試みてこられなかった形式での表現である。声高に権利主張や啓蒙運動を行うのではなく、あくまでアートやパフォーマンスを中心に据え、その表現自体の質も問われていくこのエイブルアート・オンステージは障害者の/とのパフォーマンスを波及し牽引してきている。

2.分析と考察
 以上、70年代からの障害者運動との関係性、文化的背景を参照しながら障害者の/とのパフォーミングアーツの流れを見てきた。ここで倉本(1999)の考察も参照しつつポイント整理をおこなってみたい。これまでの障害者の/とのパフォーミングアーツをあえて分類すると以下のようになると考える。

【障害者の/とのパフォーミングアーツ分類】
 1. 共生への願望としての表現と共感(平等派)わたぼうしコンサート
 2. 障害者の特性を活かす表現(フラット)ろう者劇団、デフ・パペットシアターひとみ
 3. 障害者の特性を活かす表現(ラディカル)初期劇団態変
 4. 新しい芸術性、価値の創造(オルタナティブ)劇団態変
 5. 福祉、ボランティア関係者による余暇支援(ケア)
 6. 反ノーマライゼーション(差異派)ドッグレッグス
 7. ワークショップによる相互作用による表現の生成(交感)コンテンポラリーダンスなど

3.まとめ
 ワークショップというかたちが浸透し始めてから、必ずしも公演を目指す団体ばかりではなくなっている。パフォーマンスがワークショップの相互作用のなかで立ちあがってくる場を楽しむ在り方も存在していることからも、パフォーミングアーツがケアや支援下におかれない身体のコミュニケーションとして介在していると考えられる。
 こうしたパフォーミングアーツに参加することは、福祉文脈では「社会参加」として捉えられ、障害者にとって効果的変容はあったのかどうかが問題にされることが多い。しかし現在進行形のパフォーミングアーツの現場はそれぞれの「いまここにある身体」を媒介にして成り立ち、その身体を不足のあるものや何か良くする必要があるものとは見なしていない。「効果的変容」というその視点こそがすでに与える者の立場からの、健常者の身体を前提にしたものであるといえる。

参考文献
市野川容孝・立岩真也1998「障害者運動から見えてくるもの」『現代思想』1998年2月号、青土社
金満里2006「舞う身体、這う身体」『身体をめぐるレッスン1夢見る身体』鷲田清一編 岩波書店
金満里・崎山政毅・細見和之1998「表現としての障害──瞬間のかたち 劇団「態変」の軌跡」『現代思想』1998年2月号、青土社
倉本智明1999「異形のパラドックス──青い芝・ドッグレッグス・劇団態変」石川准・長瀬修編『障害学への招待──社会・文化・ディスアビリティ』明石書店
渡邉 あい子「〈異なる身体〉の交感可能性??コンテンポラリー・ダンスを手がかりに」『コア・エシックス』Vol.5立命館大学大学院先端総合学術研究科2009年3月pp.415-425

*作成:
UP:20090904 REV:20090921
全文掲載  ◇障害学会第6回大会  ◇障害学会第6回大会・報告要旨
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