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田中 みわ子「イギリスにおけるディスアビリティ・アートと障害文化の政治的共同性――パフォーマンスの身体に着目して」

障害学会第6回大会・報告要旨 於:立命館大学
20090927


 田中 みわ子(東京家政大学)
 「イギリスにおけるディスアビリティ・アートと障害文化の政治的共同性――パフォーマンスの身体に着目して」

 本報告は、1970年代に生まれたイギリスのディスアビリティ・アートについて発行されている二つの雑誌Disability Arts Magazine (DAM, 1991-1995)及びDisability Arts in London Magazine (DAIL, 1986-2008)を主に分析することによって、イギリスにおけるディスアビリティ・アートの特徴を明らかにすることを目的とする。そして、ディスアビリティ・アートを実践する人々が、障害の文化的表象をどのように捉え、また変えようとしているのかを、パフォーマンスの身体に追究する。そこから、障害文化の政治的共同性と呼びうるものを描き出してみたい。
 ディスアビリティ・アートは、絵画、音楽、ダンス、演劇、詩などあらゆるジャンルにわたる総合的な芸術であり、1970年代以降の障害者運動の文脈において、障害のある人々の「誇りと怒りと強さ」から生まれた芸術運動である。それは、障害の社会的、文化的意味に挑戦し、文化的表象の形態を批判する実践であり、障害文化の可能性として位置づけられてきた。本報告では、その実践を、「障害のアファーマティヴ・モデル」、「アートセラピーからの断絶」、「障害文化」という三つの観点からみていく。
 ディスアビリティ・アートの実践は、障害者運動の中においても独自の特徴をもち、多分に政治的運動であり、政治的闘争の側面をもつものである。本報告では、パフォーマンスの身体に着目することによって、そこにみられる共同性を「政治的共同性」として捉え、それがどのような問題を孕み、どのような可能性に開かれているのかを、イギリスの現代アーティストであるマーク・クィン(Mark Quinn)の作品を事例として考察する。

◆報告原稿 参考資料 ワード パワーポイント

障害学会第6回大会(於立命館大学)報告原稿           2009/09/27

イギリスにおけるディスアビリティ・アートと障害文化の政治的共同性
―パフォーマンスの身体に着目して

 田中みわ子(東京家政大学助手)

 本発表では、1970年代に生まれたイギリスのディスアビリティ・アートについて発行されている二つの雑誌Disability Arts Magazine (DAM, 1991-1995)及びDisability Arts in London Magazine(DAIL, 1986-2008)を主に分析することによって、イギリスにおけるディスアビリティ・アートの特徴を明らかにすることを目的とします。そして、ディスアビリティ・アートを実践する人々が、障害の文化的表象をどのように捉え、また変えようとしているのかを、パフォーマンスの身体に追究します。そこから、障害文化の「政治的共同性」と呼びうるものを描き出してみたいと思います。
 発表は以下の順に進めていきます。まず、ディスアビリティ・アートの実践を三つの観点から考察します。次に、パフォーマンスの身体に着目します。そして最後に、イギリスの現代アーティストであるマーク・クィン(Mark Quinn)の作品を事例として考察していきます。

1.ディスアビリティ・アートの実践
 ディスアビリティ・アートは、絵画、音楽、ダンス、演劇、詩などあらゆるジャンルを含んだ総合的な芸術であり、1970年代以降の障害者運動の文脈において、障害のある人々の「誇りと怒りと強さ」から生まれた芸術運動です。ここでは、「誇りと怒りと強さ」が、どのようにディスアビリティ・アートの実践と結びついてきたのかを、「障害のアファーマティヴ・モデル」、「アートセラピーからの断絶」、「障害文化」という三つの特徴にみていくことにします。

1−1.障害のアファーマティヴ・モデル
 障害をもつ活動家であり障害学の研究者であるJ・スウェインとS・フレンチは、イギリスにおける障害学や障害者運動の芽生えと発展の流れの中で起こったディスアビリティ・アート・ムーブメントに見出される考え方を、障害のアファーマティヴ・モデルと呼んでいます。アファーマティヴ・モデルは、障害を個人の悲劇とみなす伝統的な「悲劇モデル」に対する直接的な挑戦であり(Swain and French, 2000, p.574; 2008, p.91)、障害のアイデンティティを積極的に肯定し、差異を称賛するものです(Swain et al., 2003, p.71)。アファーマティヴ・モデルは、アイデンティティ・ポリティクスの文脈に置き入れられ、複数のアイデンティティの中の一つとして障害のアイデンティティを個人的にも集団的にも強調するものです(ibid.)。障害のある人々の「誇りと怒りと強さ」(Swain and French, 2000, p.569)の表現として、アファーマティヴ・モデルはディスアビリティ・アートを推進する力となってきたのだといえます。

1−2.「誇りと怒りと強さ」から―アートセラピーとの断絶
 イギリスにおけるディスアビリティ・アートは、アートセラピーとは明確に区別されている実践です。障害のある人々の芸術がセラピーの場に限られているのは、障害のない人々の芸術と明らかに異なる事態であると、ディスアビリティ・アートを実践する人々は論及してきました(Crow, 1992, p.4; Pick, 1992, p.18)。DAM誌上には、セラピーに対する批判の声がしばしば取り上げられており、例えば、ディスアビリティ・アートを実践するある画家は、「アートはかつて誰も治してなどおらず、またセラピーはアートではない」と痛烈に批判を投げかけています(Kelly, 1993, p.5)。
 C・バーンズやL・クロウは、セラピーは医学的な規定であり、医学的な規定は、セラピー的な目標と繋がり、そしてそれは社会的な排除であると指摘しています(Barnes, et al., 1999, p.209 = 2004, p.273; Crow, 1992, p.4)。ディスアビリティ・アートがアートセラピーとの違いを訴える背景には、この社会的な排除に対する「怒り」があります。イギリスのナショナル・ディスアビリティ・アート・フォーラム(NDAF)の会長を務め、ディスアビリティ・アート・ムーブメントに大きく貢献してきたSian Vaseyは、インタビューに答えて、「自分が障害の中にいるという強い感覚をもっている」と述べ、さらに「なぜなら私には選択肢などなかったし、それが障害者であるということ、つまり、それはメインストリームから排除されているということなのだ」(Davies, 1992, p.35)と述べています。障害者であるという強い感覚から生み出されるディスアビリティ・アートは、社会的な排除として捉えられたアートセラピーの場から離れて、障害文化を形づくることへと至るのです。

1−3.障害文化の可能性―抑圧された経験からアートへ
 ディスアビリティ・アートは障害文化の一形態であり、その可能性として位置づけられてきました。C・バーンズらは、障害文化の領域として、「抑圧の共有された経験」「ろう文化」「ディスアビリティ・アート」の三つがあると論じています(Barnes and Mercer, 2001, pp.522-524)。障害文化は、抑圧された文化としてのサブカルチャーに位置づけられ(ibid.)、無力化させる文化(disabling culture)、つまり、障害に対する社会的差別、排除、隔離や、障害をもつ身体を、逸脱した身体とみなす価値観を反映する文化、に対する対抗的な文化として形成されてきたといえます。
 障害文化の軸となっているのは、共有された社会的な障害の経験と、アファーマティヴ・モデルに基づく障害のアイデンティティです(ibid., p.517)。バーンズらの指摘を引用して言えば、「ディスアビリティ・アートは共有された文化的意味の発展と障害の経験や闘争の集団的な表現」なのであり、「その結果、障害者が直面する差別や偏見を暴きだし、集団意識や連帯を生み出すために芸術を用いる」ことになり(Barnes, et al., 1999, pp.205-206 = 2004, p.267)、「文化的表象や生産の主な形態を批判するもの」となります(ibid., p.210 = p.274)。それゆえ、ディスアビリティ・アートは、集団的な運動として最も顕著な障害文化の可能性となるのだと考えられます。

2.表象される身体からパフォーマンスの身体へ
 では、次に進みます。ディスアビリティ・アートを実践する人々は、文化的表象やその過程をどのように捉え、また変えようとしているのかを、パフォーマンスの身体に着目して考察します。
 イギリスにおいては、メディアにおける障害の身体の表象が、ディスアビリティ・アートの実践の直接的な問題としても批判の矛先としても取り上げられてきました。伝統的なステレオタイプやイメージの中において診断され、描き出され、表象されてきた身体とは異なり、パフォーマンスは、身体それ自身の感覚、アイデンティティを表現し、社会的文化的意味を映し出しながら意味をもつ行為を生み出すものです。それゆえ、障害のある人々のパフォーマンスは、自らに付与される意味の変容を求めて、最もラディカルな効果を生み出すものとなります。
 図1をご覧ください。1994年、DAIL(vol.4, no.3)に掲載されたGioya Steinkeによる“Viva”と題されたこの一枚の絵画に、「闘争、喜び、探究、賛美」の表現であるとのコメントが述べられています(Silverwood, 1994, p.3)。この作品を描いたGioya Steinkeは、19歳の時から重度の視覚障害をもち、実際に見えないことにより、見えないものを見ることを主題として活動したといいます。このVivaの図像は、見えないものとしての身体を見ることによる自画像です。Steinkeが彼女の視覚で捉えている、とぎれとぎれですがはっきりとした鋭い線と、そのまわりを占める影によって、ぼやけた輪郭であるにもかかわらず、そこに描き出された姿は、上体をそらして両腕を高く天に掲げています(Collison, 1993, pp.42-43)。この作品に見られるような力強さと美のイメージが、ディスアビリティ・アートにおいて追求されてきたといえるでしょう。パフォーマンスにおいて障害の身体は、機能の制限としてではなく、表現の源であり且つ経験の媒体となります。ここではさらに、描き出された身体が、そうしたパフォーマンスの身体そのものとなって障害の身体のイメージを生み出していると捉えられます。

3.障害文化の政治的共同性とアンビヴァレントの身体
 それでは最後に、ディスアビリティ・アートの実践にどのような共同性がみられるのかを探り、その共同性が創出する場を障害文化や政治的運動との関連の中に見出していきたいと思います。

3−1.ディスアビリティ・アートにみる政治的共同性
 ディスアビリティ・アートが政治的運動として発展する過程には、障害をめぐる国際的な情勢や、イギリス政府及びイングランド芸術協会(Arts Council England)による取り組みが深く関わっています(Sutherland, 2003, pp.0-1; Arts Council England, 2004)。ディスアビリティ・アート・ムーブメントが、障害学が提唱した社会モデルに基づいた実践であることもまた、イングランド芸術協会の取り組みに明確に位置づけられてきました。
 このような背景に支えられて、ディスアビリティ・アートを実践するアーティストは、「芸術に取り組む障害者」ではなく、障害のあるアーティスト(disabled artist)として、ディスアビリティ・アート・ムーブメントを担ってきました。そして本発表がこれまで辿ってきたように、ディスアビリティ・アートは、障害をめぐる意味や表象やアイデンティティの政治(Pick, 1992, p.20)としての特徴を示してきたのです。
こうした政治的運動としてのディスアビリティ・アートが実現する共同性をここに認めることができます。それを<政治的共同性>と呼ぶことにします。
 この政治的共同性は、まさに障害のアイデンティティを軸とする障害文化を支え、立ち上げるものです。そして、ディスアビリティ・アートの実践にみられる政治的な取り組みの意志や目的が共有されうるところに見出されるものです。これは、ディスアビリティ・アートや障害者運動以前には、医療の場や個々の経験に「閉じられた」身体においては、見出せなかった共同性であると捉えられます。それゆえ、政治的共同性は、医療化/個別化された身体を解き放ち、障害文化を構成する集団として政治的団結へと導いていく共同性です。このことは同時に、政治的共同性が、障害の抑圧的な経験を共有する者たちの間にしか共有されないことも含意しています。
 なぜなら、政治的共同性は、ディスアビリティ・アートを生み出してきた「誇りと怒りと強さ」の共感不可能性―あくまでも個別化された感覚―にこそ基礎付けられているからです。この共感不可能性は、障害者と非障害者の間の共感不可能な感覚を表すと同時に、その個別化された感覚ゆえに、障害のある者同士においても見出されるものです。ディスアビリティ・アートを実践する人々の政治的共同性と、「誇りと怒りと強さ」の共感不可能な感覚とは一体をなすものであり、一方で障害文化を立ち上げてはいるのですが、同時に障害文化の境界をも出現させています。

3−2.アンビヴァレントの身体
 政治的共同性は、ディスアビリティ・アートが政治的運動として力を発揮し、障害文化を創り出していく過程では不可欠ですが、同時に、身体をアンビヴァレントな位置に置くことになります。とりわけ、C・バーンズとG・マーサーが指摘しているように (Barnes and Mercer, 2001, pp.530-531)、アファーマティヴ・モデルに対する戸惑いの声は、身体の損傷が、身体の痛みや疲れなどをもたらす場合に、称賛も否定もできない身体の位置をよく示しています。
 痛みや疲れといった身体の脆弱性は、あらゆる身体の存在が孕んでいる、消し去ることも否定することもできない身体のありようです(Shakespeare and Watson, 2002)。「誇りと怒りと強さ」の感覚を身体に帯びる政治的共同性から、そうした身体の脆弱性は零れ落ちてしまいます。アンビヴァレントの身体とは、一方で、ディスアビリティ・アートや障害文化の政治的共同性を志向しながら、他方でそれが共感不可能であるという感覚の中で脆弱性を曝しだしてしまう身体なのです。

3−3.政治的共同性の共振する場
 ディスアビリティ・アートの年譜をまとめ、作家としてもパフォーマーとしても中心的な役割を果たしてきたアラン・サザランドは2006年に次のように述べています。

 ディスアビリティ・アートがいまだかつて誰がその一員であるのかを正確に定義していないということを私は嬉しく思う。なぜなら、そのことは新しい人々のグループが扉を開けて押し進めるよう開かれているということであり、今のところ他のどんな運動よりもディスアビリティ・アートにおいてよりうまくいっている。(Sutherland, 2006, p.8)

 この言葉は、現在のイギリスにおけるディスアビリティ・アートの実践の拡がりと多様性を言い当てています。一方で、ディスアビリティ・アートが、障害者とごく少数の関係する非障害者からなる孤立したゲットーを造り出してしまうのではないかという危惧の声もあります(Hunter, 2002, p.10)。
 図2をご覧ください。これは、イギリスの現代アートを代表すると評されてきたマーク・クィンの作品です。クィンは、しばしば障害のある人をモデルとしており、それらの芸術作品もまた、イギリスでは一般によく知られています。少なくともイギリスのディスアビリティ・アートの文脈において、クィンのような障害をもたないアーティストの作品が、ディスアビリティ・アートの範疇に取り入れられることは非常に例外的なことです。2002年のDAILの記事には、2001年のクィンの作品や続く2002年のテート・リバプールでのクィン展での作品についての批評が取り上げられています。記事には、クィンの作品は「〔ディスアビリティ・アートを実践する〕我々の美の理解に基づく」ものであり、障害者の生に共鳴するものであると述べられています(Shamash, 2002, p.10)。このことは、障害の経験を探究し、作品としてきたディスアビリティ・アートとは別のかたちであるにも関わらず、クィンの作品そのものが、まさにパフォーマンスの身体として政治的共同性を獲得していることの証であると考えられます。
 図2のモデルとなったアリソン・ラパーは、自らの身体を絵画や写真において用いることによって、障害のある女性であり母親である経験や感情を作品化している人物です。ディスアビリティ・アートを実践する彼女自身が、「身体の概念を再定義し再考察すること」(Hambrook, 2000,p.24)を通して、「声高に、誇り高い」身体のイメージを作品とすることによって、障害の身体への認識に挑んできた経験と(ibid., p.25)、このクィンの作品のイメージとは重なり合うものです(Lucas, 2002, p.9)。ラパーは、DAILのインタビューの中で、クィンの試みに一方で敬意を表しながらも、クィンではなくて、もし自分や他の障害のあるアーティストが、クィンのように障害者をモデルとしたならば、それが真剣に受け止められなかっただろうと吐露し、次のように述べています。

 マークの意図は充分なものだし、それを尊敬しているけれども、それが私の身体であるのに、私が自分で大理石像を造ることができないのは残念なことである。私は彼がする以前にそのような彫像を造ろうと考えたけれど、ティッシュペーパーやビニール袋で作らなければならない。でも、彼は有名なアーティストだから、人々は彼を真剣に取り上げる。でも、彼は健常者だ。障害のあるアーティストとして私は、障害の問題を扱う健常者のアーティストの裏口を通って、自分たちが演壇を与えられたことをもどかしく思うのだ。(Lucus, 2002, p.9)

 ラパーの言葉には、ディスアビリティ・アートの政治的共同性と、そこに生じるアンビヴァレンスが同時にみられます。クィンの作品の身体は、ラパーの共感不可能な感情や経験をも作品化することによって、障害文化の政治的共同性を立ち上げ、他の人々にも共振する場を開いているのです。
 生の多様性と脆さを讃えるクィンの作品には、政治的共同性として描き出したものがひっそりと「障害文化との共通の縒り糸」(Shamash, 2002, p.11)として孕まれています。図2のラパーの大理石像に、力強くて官能的であるけれども、ナルシスティックでも窃視的でもない、肉体的な感覚を認めるとき(ibid., p.12)、本発表で描き出したアンビヴァレントの身体が、作品となってそこにあり、政治的共同性を共振する場を出現させているのです。

おわりに
 本発表は、イギリスのディスアビリティ・アートの実践の特徴について論じながら、そこにみられる政治的共同性を描き出してきました。この政治的共同性は、政治的運動としてのディスアビリティ・アートや障害文化にとって不可欠なものであると同時に、「誇りと怒りと強さ」の共感不可能性の中で、アンビヴァレントな身体を生み出してきたといえます。
 イギリスにおけるディスアビリティ・アートの実践は、その政治的闘争の側面からも、障害者運動や障害学との結びつきにおいても、独自の特徴をもつものです。本発表は、そうした側面に光を当てて論じてきましたが、さらに具体的な事例から、パフォーマンスの身体について追究することを次の課題として発表を終わります。

*作成:
UP:20090904 REV:20090921
全文掲載  ◇障害学会第6回大会  ◇障害学会第6回大会・報告要旨

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