HOME > 全文掲載 >

「「戦争体験」を「教養」とする論証についての質問――『「戦争体験」の戦後史』から」

大谷 通高 20090918 「歴史社会学の方法論――福間良明氏の仕事を/から学ぶ」 指定質問 於:立命館大学衣笠キャンパス諒友館842教室


 福間先生は、『戦争体験の戦後史』のなかで、戦前派、戦中派、戦後派・戦無派世代という3つの世代間関係を「教養」という視座から把握することを試みておられます。すなわち戦前派と戦中派の関係は、教養(=マルクス主義的・社会科学的知識など)の有無によって、戦中派と戦後・戦無派世代の関係は、教養(=「戦争体験」)の有無によって説明しておられます。
 私はとくに後者の関係についての説明を新奇かつ野心的なものであると思い、面白く読ませていただきました。しかし私の質問は、まさにその点にかかわっています。まず、戦前派と戦中派における教養はマルクス主義的・社会科学的知識であった。それを福間先生は戦前の知識人による戦中派の「教養の欠如」に関する言説を用いて論証しておられる。これに対し、しかし戦中派と戦後・戦無派の関係における教養が「戦争体験」であるということについての論証は、教養主義的な象徴暴力性――「正統な」知識/体験をもたざる者への跪拝効果――という観点からなされておられます(P162)。つまり戦前−戦中間の教養と戦中−戦後・戦無間の教養の論証のしかたが異なっている。いうなれば、前者は言説=資料にもとづく実証的な説明、後者は関係の構造=形式の同型性に慧眼にも注目した福間先生ごじしんの解釈にもとづく説明というかたちをとっている。すでに述べたように、私の質問はこの後者の論証の妥当性についてです。それは連続したひとつの問いでありつつも、あえて細分化すれば二点あります。
 一点目は、何かしらの概念(ここでは「教養」)を用いて、ある歴史(ここでは「戦争体験」の戦後史)を記述する場合、ある事象(ここでは「戦争体験」)を、そこで用いた概念に同定する(「戦争体験」を「教養」とすること)には、いかなる論証(の装置)が必要になってくるのか。その論証の妥当性は、先生が試みておられるように、「解釈」によるだけで果たして十分なものといえるのか。
 というのも先生は、教養主義がはらむ象徴暴力構造の点から「戦争体験」を教養と位置づける。ですが、そのように構造=形式から説明可能であるなら、多くの体験や経験が教養と同定されうるのではないか。そしてそこに問題はないか。つまり教養が有する構造=形式(ここでは「教養の象徴暴力性」)によって戦争体験を教養と同定すると、同じ構造=形式を有する事象は数多く存在するため、教養概念の外延が拡張し、かえってその概念を用いて歴史を記述する理由や意義が曖昧なものになりやしないか。だから第二に、(以上の)私の「読み」が正しいとすれば、それでも本書においてなお教養概念を用いることの必然性もしくは意義があったとすれば、それはいかなるものであったのか。あるいは教養の象徴暴力性のほかに「戦争体験」を「教養」とする論拠があれば、それもあわせてお教えいただければと思います。

参考文献
福間良明 2009『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー』、中公新書


*作成:櫻井 悟史
UP:20090922 REV:
全文掲載  ◇歴史社会学研究会
TOP HOME (http://www.arsvi.com)