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「戦争体験に執着することとナショナルな物語を内破することについて」

小川 浩史 20090918 「歴史社会学の方法論――福間良明氏の仕事を/から学ぶ」 指定質問 於:立命館大学衣笠キャンパス諒友館842教室


 著書『殉国と反逆―「特攻」の語りの戦後史』のエピローグで、福間先生は「あえてナショナルな戦争体験に執着しながら、ナショナルな物語を内破し、そこから自己への批判的な視座と他者との開かれた対話にいかに結びつけていくのか」(206頁)という立論の可能性を「特攻」のメディア史のなかに見出しています。この問題に関して、二つ質問させていただきます。
 まず、「ナショナルな物語を内破する」こととは、ナショナリティ(民族性/国民性)の境界をも内破するものであった(ある)のかどうか、ということについてです。渡辺清は、「忠節」を潜り抜けた先で天皇制を批判するとともに、「小さな天皇」としての自分の過去の罪をも問い返すことで、「自らを含む国民の責任を突き詰めようとして」いました(180頁)。また、松田政男はアジアの民衆の視点から戦争史観が相対化されていないことを批判しましたが、松田が「天皇制批判」は存在しても「国家批判」は欠落しているというとき、ここでいう「国家批判」とは「『加害責任』の問題」(186頁)を意味していました。福間先生はこれらの議論を「殉国」と「加害責任」の二項対立図式を脱構築する契機として捉えていますが、その契機には(例えば、戦争の語りがたさを述べることのなかに)ナショナリティの境界を破ることも含まれていたのでしょうか。また、福間先生が「自己への批判的な視座と他者との開かれた対話」について述べるとき、ナショナリティの境界に関する問題はどのように考えていらっしゃるのでしょうか。
 二つ目の質問は、歴史社会学における体験や記憶、物語の取り扱いについての問題です。福間先生は戦争の記憶がメディアを通してどのように受容されてきたのか、またそれがいかなる契機でどのように変容してきたのかを『殉国と反逆』で論述しています。もちろん戦争体験者たちの「語りがたい」議論も取り上げられてはいますが、基本的には当事者たちの体験や記憶、物語を直接に分析対象としたのではなく、それらが歴史的、社会的にどのように受容され、表象されてきたのかを論じたものだと思います。福間先生は「あえてナショナルな戦争体験に執着」することの可能性を強調されていますが、その観点をさらに一般的に押し広げて歴史社会学の問題として捉えたとき(これまでの歴史社会学は基本的に大きな歴史変動を分析したり説明したりするものだったと思いますが、体験や記憶、物語はそれらの大きな歴史記述に取り込まれず、逆にそれらを掘り崩していく可能性をもったものだと思います)、それら(体験や記憶、物語)を研究対象としてどのように取り扱うことができる(べきである)とお考えでしょうか。例えば、戦争を体験していない者の一人として、「あえてナショナルな体験に執着しながら」日本の近代史や太平洋戦争を論述(記述)するとき、さまざまな立場から語られた体験や記憶、物語をどのように汲み取ることで「ナショナルな物語を内破」することができるでしょうか(これは諸個人の戦争史観や歴史認識にも直接関わる問題だと思います)。あるいは、戦争体験の「語りがたさ」にその可能性が見出せるとしたら、それをどのように研究対象として扱いながら歴史論述(記述)を行うことができるでしょうか(もしくは、「ナショナルな物語を内破」することとは、歴史記述とは反対のベクトルを持ったものでしょうか)。いささか漠然とした質問ではありますが、ナショナルな戦争体験に(私たちが)執着することについて(ナショナルな物語を内破することと歴史を語ることについて)、福間先生の現在のお考えをお聞かせください。


*作成:櫻井 悟史
UP:20090922 REV:
全文掲載  ◇歴史社会学研究会
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