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「「一九五〇年代における「戦争体験」を語る場」」

西嶋 一泰 20090918 「歴史社会学の方法論――福間良明氏の仕事を/から学ぶ」 指定質問 於:立命館大学衣笠キャンパス諒友館842教室


 私の質問は、福間先生が『「戦争体験」の戦後史』で扱われている「わだつみ会」の活動と、一九五〇年代におけるその他の「戦争体験」を語る場がどのような関係性にあったのか、ということです。私の関心によりひきつけていえば、その他の「戦争体験」を語る場とは、歴史学からのアプローチである国民的歴史学運動の場であり、そしてあるいは『山びこ学校』を端緒とする生活記録運動の場です。
 福間先生は、プロローグにおいて、「反戦運動団体や平和運動団体は多く存在するが、戦争体験の伝承を前面に出した団体は、必ずしも多くはない。やや重なるものとしては、農村文化サークル「山脈の会」があるが、規模や知名度、社会的インパクトの面では、わだつみ会に代表性が認められよう。」(p.6)と書かれておられます。しかしながら「戦争体験」の戦後史を捉えるときに、ある団体にその代表性を認めるとはいかなることであるのか、というのが私の問いです。たとえば、一九五〇年代においては、多様なサークル活動がなされており、そのなかにも戦争体験を語る場はあったはずです(「山脈の会」というのもその一つではないでしょうか)。つまりそれらはたしかに個々の知名度こそ高くはなかったものの、それぞれが戦争体験の伝承を実践する多様性を帯びた「場」であった。とすれば、重要なのはむしろそれらの「場」の社会的――階層的・ジェンダー的――位置や関係――同化や差異化――であり、特定の集団にのみ「代表性」を認めるという視座は、そのような位置や関係(への視座)をかえって隠蔽してしまう機能をもってしまうのではないか、という点が気になります。
 例えば、鬼嶋淳「一九五〇年代の歴史叙述と学習方法――『昭和史』・歴史教育・生活記録」(大門正克編『昭和史論争を問う』日本経済評論社、二〇〇六年)では、「生活をつづる会」の「ひなたグループ」でおこなわれた、「母の戦争体験」の記録運動について触れています。母たちは、戦争を「苦しく」「つらい」ものとして語ろうとするも、戦争体験を共有しない世代からは戦争責任の問題への追及ができていないと批判します。また反省会の場で、戦後生まれの中学生が「戦争になるまで、どうして、ぼんやりしていたの。」という感想を口にし、ある主婦が国家権力の統制を口にするが、別の主婦が当時は国家権力なんて意識せず、商売が黒字になって嬉しかったという面もあり、それを書かなければ戦争を書いたとはいえない、と思ったといいます。戦争を知らない世代からの批判は、母たちに学習して「ほんのすこしずつ考える母になりたい」という思いをもたせるまでいたります。
 またこの鬼嶋論文の前半では、国民的歴史学運動に参加した加藤文三および鈴木亮の親たちの「戦争体験」を題材にした昭和史教育について述べられています。また、この論文が収録されている『昭和史論争を問う』では、一九五五年に岩波新書から出版された『昭和史』をめぐる歴史学の論争を扱っています。一九五〇年代において、歴史学は社会との接点を積極的に(ある意味では過剰に)見出して、「戦争体験」についても問いかけを行っておりました。また、国民的歴史学運動や昭和史論争の当事者である遠山茂樹は「わだつみ会」に参加しております。
 少しまとまりのないものとなってしまいましたが、一九五〇年代という場において、「戦争体験」の戦後史を考えるとすれば、「わだつみ会」とこれらの活動は、はどのような配置、関係性になるのでしょうか。お答えいただければ幸いです。


*作成:櫻井 悟史
UP:20090922 REV:
全文掲載  ◇歴史社会学研究会
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