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片山 知哉・山田 裕一「ふたつの構造的抑圧――専門家支配と能力主義に抗して自閉文化の存在意義を擁護する」

障害学会第6回大会・報告要旨 於:立命館大学
20090926


◆報告要旨
 片山 知哉(立命館大学大学院先端総合学術研究科・横浜市総合リハビリテーションセンター)・山田 裕一(熊本学園大学大学院・障害学生パートナーシップネットワーク)
 「ふたつの構造的抑圧――専門家支配と能力主義に抗して自閉文化の存在意義を擁護する」

 我々はこの報告で、自閉文化の存在意義の擁護に必要な、規範理論的議論図式の提出を試みる。
 無論、自閉者という自己規定を持たない我々報告者が、自閉文化の内実を規定しようと考えているのでは毛頭ない。その文化のあるべき姿を示すのは、現にそこに集う自閉者であるべきなのは明白である。そうではなく我々が企図するのは、自閉文化を巡って生じているふたつの構造的抑圧を指摘し、そこにある不正義を批判するというものである。
 第一の構造的抑圧は、「専門家支配」である。医療や教育の専門家は、「真理」を操作することで自閉文化の自律性を阻害している。現存する専門家による「診断偏重主義」以外に、学術的領域に於ける二種類の抑圧様式を見てみよう。
 1)自閉症は「文化継承の能力障害」を持つとする議論。つまり、自閉者が独自の文化を創出し、維持し、共有することを生物学的議論を用いて否認する立場である。Tomaselloに見い出せるこの主張を、我々は文化継承及び文化内容についての「定型発達者中心主義」によるバイアスであることを論証する。
 2)自閉文化を「認知特性へと還元」する議論。TEACCHに見い出せるこの立場は、自閉文化の実在を承認する点で評価できるようにも思えるが、彼らの議論では自閉文化は継承されるものではなく、自閉者が生得的に有する身体状況へと自閉文化概念を矮小化している。換言すれば、「自閉者同士の関係性を軽視」した立場であり、その点を批判すべきと考える。
 第二の構造的抑圧は、「能力主義」である。多様性を称揚し、複数の文化の共存を唱える多文化主義は、現代を生きる我々にとって既に馴染んだものであろう。しかしこれは時に、しかも容易に、周囲に対して独自の文化集団であるとする存在証明や承認の要請に掛かる負担を、本人の側に求めることに堕する。例えばそこには、定型発達者の側が理解しやすく、感情を害さず、つまりは消費しやすい自閉文化像とその提示のされ方が、ごく当然のこととして求められることも含まれよう。
 我々はこの傾向に対して、「匡正的正義論」によって反論する。近代国家は一貫して、国家内の多様性を抑圧し均一な文化集団を作り上げようとするネイション形成に従事してきた。その一機構が既述した専門家支配であった。現時点に於いてもこの過程は続いており、表面上は多様性包摂を重んじていても、実際には明らかな地位のヒエラルキーがあり、定型発達者中心主義を人々は内面化してしまっている。こうした歪んだ力場に於いて、「文化に於ける自助努力の要請」を公正なものと認めることはできず、その歪みを匡せという主張こそ公正と呼びうる。
 我々の報告は、ふたつの動機によって成立している。
 ひとつは、医療や教育の専門家による診断に必ずしも拠らない、定型発達者中心主義への違和と、各々の感受性や行動様式への相互承認を軸とした現にある集いの様式への単純な驚きである。本報告で用いた自閉文化という語彙には、そのような生の様式を排除しない意味を込めている。
 そしてもうひとつは、現在尚も続く障害文化を巡る議論の混乱への不満である。その意味で本報告は部分的に、報告者の一人が行った昨年の障害学会大会における口頭報告(「文化をめぐる分配的正義――特にデフ・ナショナリズムの正当化とその制約条件について」)との連続線上でも捉えられる。
 我々のこの試みが、この国家と社会における不正義の打開に少しでも寄与できることを願っている。

◆報告原稿

ふたつの構造的抑圧――専門家支配と能力主義に抗して自閉文化の存在意義を擁護する

報告者:

山田裕一(熊本学園大学大学院・障害学生パートナーシップネットワーク)
片山知哉(立命館大学大学院先端総合学術研究科・横浜市総合リハビリテーションセンター)

報告要旨:

 我々はこの報告で,自閉文化の存在意義の擁護に必要な,規範理論的議論図式の提出を試みる。
 無論,自閉者という自己規定を持たない我々報告者が,自閉文化の内実を規定しようと考えているのでは毛頭ない。その文化のあるべき姿を示すのは,現にそこに集う自閉者であるべきなのは明白である。そうではなく我々が企図するのは,自閉文化を巡って生じているふたつの構造的抑圧を指摘し,そこにある不正義を批判するというものである。

 第一の構造的抑圧は,「専門家支配」である。医療や教育の専門家は,「真理」を操作することで自閉文化の自律性を阻害している。現存する専門家による「診断偏重主義」以外に,学術的領域に於ける二種類の抑圧様式を見てみよう。
 1)自閉症は「文化継承の能力障害」を持つとする議論。つまり,自閉者が独自の文化を創出し,維持し,共有することを生物学的議論を用いて否認する立場である。Tomaselloに見い出せるこの主張を,我々は文化継承及び文化内容についての「定型発達者中心主義」によるバイアスであることを論証する。
 2)自閉文化を「認知特性へと還元」する議論。TEACCHに見い出せるこの立場は,自閉文化の実在を承認する点で評価できるようにも思えるが,彼らの議論では自閉文化は継承されるものではなく,自閉者が生得的に有する身体状況へと自閉文化概念を矮小化している。換言すれば,「自閉者同士の関係性を軽視」した立場であり,その点を批判すべきと考える。

 第二の構造的抑圧は,「能力主義」である。多様性を称揚し,複数の文化の共存を唱える多文化主義は,現代を生きる我々にとって既に馴染んだものであろう。しかしこれは時に,しかも容易に,周囲に対して独自の文化集団であるとする存在証明や承認の要請に掛かる負担を,本人の側に求めることに堕する。例えばそこには,定型発達者の側が理解しやすく,感情を害さず,つまりは消費しやすい自閉文化像とその提示のされ方が,ごく当然のこととして求められることも含まれよう。
 我々はこの傾向に対して,「匡正的正義論」によって反論する。近代国家は一貫して,国家内の多様性を抑圧し均一な文化集団を作り上げようとするネイション形成に従事してきた。その一機構が既述した専門家支配であった。現時点に於いてもこの過程は続いており,表面上は多様性包摂を重んじていても,実際には明らかな地位のヒエラルキーがあり,定型発達者中心主義を人々は内面化してしまっている。こうした歪んだ力場に於いて,「文化に於ける自助努力の要請」を公正なものと認めることはできず,その歪みを匡せという主張こそ公正と呼びうる。

 我々の報告は,ふたつの動機によって成立している。
 ひとつは,医療や教育の専門家による診断に必ずしも拠らない,定型発達者中心主義への違和と,各々の感受性や行動様式への相互承認を軸とした現にある集いの様式への単純な驚きである。本報告で用いた自閉文化という語彙には,そのような生の様式を排除しない意味を込めている。
 そしてもうひとつは,現在尚も続く障害文化を巡る議論の混乱への不満である。その意味で本報告は部分的に,報告者の一人が行った昨年の障害学会大会における口頭報告(「文化をめぐる分配的正義――特にデフ・ナショナリズムの正当化とその制約条件について」)との連続線上でも捉えられる。
 我々のこの試みが,この国家と社会における不正義の打開に少しでも寄与できることを願っている。


読み上げ原稿:

(山田担当部分)

 それでは始めさせていただきます。今日は,「ふたつの構造的抑圧――専門家支配と能力主義に抗して自閉文化の存在意義を擁護する」と題した報告を,隣にいる片山と共同で行います。私は,障害学生パートナーシップネットワークの代表をしております,山田といいます。どうぞよろしくお願いします。
 本報告の狙いとするところは,まさにタイトルにある通りのものです。すなわち,専門家支配と能力主義というふたつの構造的抑圧が,自閉文化に対して負の影響を及ぼしているのだという論証。そして,その抑圧に抗して擁護する価値が,自閉文化にはあるのであり,その擁護のための方向性を提出するという意図。このふたつが本報告の狙いであります。
 はじめに,報告の流れを説明します。前半では私,山田が「発達障害者」と関わる中で,とりわけ「発達障害者自助会」において抱いた問題意識について報告いたします。そして後半では片山の方から,その問題意識に対する理論的な検討を行うことになります。それでは始めさせていただきます。

 ひとつめにお伝えしたいのは,「発達障害者」と「定型発達者」との間に起こる事態についてのものです。発達障害者の認知,感性,行動様式,言動は,定型発達者のそれと対等な地位を持つとはみなされていません。ここから生じる事態には,二種類あります。
 第一は,発達障害者に直接,定型発達者が望ましいと考えるありようへと変容するように圧力がかけられるというものです。具体的なエピソードを一つ挙げましょう。ある発達障害者の大学生Aは,自動販売機に10円玉を投入し,返却を繰り返していました。Aは10円玉のコレクターで,少しでも多様な製造年代の10円玉を収集するために,自動販売機に10円玉を投入し,返却を繰り返していたのです。
 しかし,多数派である定型発達者の説明体系では,自動販売機は商品を購入する機械であり,お金はその対価として投入するものです。その観点からすれば,Aの行動は明らかに逸脱しており,理解しがたく,仮にAの意図を知っていたとしても同様に,奇妙で異質なものとして忌避や排除の対象となるでしょう。このようにして,発達障害者は定型発達者が望ましいと考えるありようへと変容するように圧力がかけられるのです。
 第二は,発達障害者に医学モデルの受容を迫るというものです。発達障害者は医学モデルを採用することで,「障害者」として定型発達者の説明体系に収まることで,周囲に対して一時的にいま述べたような忌避や排除を留保させることができる。しかしそれは同時に,定型発達者に理解しやすいように自己を変容させる努力を引き受けることでもあります。現在,「発達障害者の支援」と名付けられる医療・福祉が暗黙のうちに,発達障害者に対して,たとえばソーシャル・スキルズ・トレーニングなど定型発達者が理解しやすい提示の仕方を訓練させていることがその具体例です。
 ここで重要な点は,発達障害者が定型発達者に対して,定型発達者の説明体系に合致した提示をする責任を,一方的に求めているという構図があるということです。「みんなちがってみんないい」とか,「自分らしく生きる」「オンリーワンを目指す」といったキャッチフレーズが交わされる中,その根底にはこうした「定型発達者中心主義」が,それも無自覚のうちに認められるのです。

 ふたつめにお伝えしたいのは,発達障害者同士の間で起こる事態についてのものです。それは,近年少しずつ増えてきている「発達障害者自助会」に参与観察した際に抱いた問題意識ですが,ここでも二つ挙げたいと思います。
 第一は,そこは定型発達者中心主義を前提とせず,自身の認知,感性,行動様式,言動への抑圧を大幅に減らすことが可能である,というものです。自助会に参加していたBは,次のように私に語ったことがあります。「自助会に参加する前,他の発達障害当事者に接する前は,[発達障害に関する話題を]オープンに聞く機会がなかったから,[発達障害に関する話題を]安心して喋り合える場があると全然違いますよ。自分だけじゃないんだって,本当にそう思いました」。
 自助会では,定型発達者の説明体系に合わせるという抑圧から解放され,自分らしさを比較的表出しやすい。それは,定型発達者中心主義の中で,排除・忌避されまいとして疲弊している発達障害者自身にとって精神的安息の場となるだけでなく,自らの創造性の表現を展開する可能性も残してくれるのです。参加者Cは次のように語っていました。「たぶん,社会に少しでも適応するためには,創造とかそういったことを捨てざるを得なかったんだと今にして思います」。
 第二は,若干矛盾するようですが,そこにおいても定型発達者を中心とする価値体系,ヘゲモニーがあるというものです。確かに自助会においては,定型発達者の説明体系とは異なった多様な物語が語られ,クロスすることによって,ある程度価値体系の撹乱が生じ,それが参加者にとって否定的自己像の生成を防ぐ力になることがある。
 しかし,やはりそこでも価値のヒエラルキーは生じてしまう。ある参加者はこう言いました。「ADHDとは付き合えるけど,アスペの人とは付き合えない」。その参加者にとっては,アスペとは自らの感性や生活を脅かす存在であり,不快感の対象だったのです。自助会においても能力主義は存在し,自閉者・アスペルガーはそのヒエラルキーにおいて下位に位置付けられるわけです。
 また,自助会に参加する意義を疑問視する参加者もいます。Dはこう語ります。「自助会に来て,確かに面白い人はたくさんいました。でも,そんなことに時間を使うくらいなら,定型発達者の中で生きていくためのコミュニケーションの仕方を学んだり,仕事をうまくやっていくための訓練をした方がましだと思うんです」。発達障害者は,一部の特殊な能力を持つひとは別にすれば,結局のところ定型発達者の中で仕事をして生きていく他はないという構造があります。それゆえ,発達障害者コミュニティから離脱する人も少なくないのです。

 以上で私の報告部分を終えます。引き続き後半は,片山の方から理論的な検討を報告させていただきます。

(片山担当部分)

 片山です。私は立命館大学大学院先端研で,生存学の研究をしています。前半の山田の報告で提示された問題意識を基に,自閉文化の存在意義の擁護に必要な規範理論の議論図式の提出を行います。どうぞよろしくお願いします。
 山田の報告からもご理解いただけたように,定型発達者中心主義の社会の中で生きている発達障害者にとって,自身の身体状況,自身の認知,感性,行動様式,言動を否定されない場が存在することは大変重要な意味を持ちます。しかし発達障害,とりわけ自閉者の身体状況を肯定する文化枠組みすなわち自閉文化は,現存する構造的抑圧によって展開が阻まれています。その構造的抑圧とは何か。本報告では二つ挙げたいと思います。ひとつは「専門家支配」であり,もうひとつは「能力主義」です。

 ひとつめの構造的抑圧である「専門家支配」について検討してみましょう。医療や教育の専門家は,社会的に高い地位と権力が付与されており,彼らの発言は「真理」としてこの社会において強い影響力を持っています。彼らが自閉文化に対して干渉したり否認したりすれば,そのぶん自閉文化の自律性は損なわれるわけです。
 その例の一つに,「診断偏重主義」があります。彼らは,自分たちこそが誰が自閉症で,誰がそうでないか決める能力があると言うのです。そうだとすれば,自閉文化のメンバーシップは自閉者によっては決められないことになります。そのようにして彼らは自閉文化に干渉してくるわけです。しかしまた別の例として,彼らは「真理」を操作することによって直接,自閉者同士で共有する自閉文化の存在を否定します。学術的領域におけるその二つの例を,以下に見てみましょう。
 第一の例は,自閉症は「文化継承の能力障害」を持つという議論があります。換言すれば,自閉者が独自の文化を創出し,維持し,共有することを生物学的議論を用いて否認する立場です。進化心理学・発達心理学の重鎮であるマイケル・トマセロの議論に,その特徴をはっきりと認めることができる。
 トマセロはヒトと他の類人猿との相違を,他者を自己と同じく意図を持った主体として認知し,行動の背後にある意図性と因果的構造のスキーマを見出す能力,即ち「模倣能力・同調能力」に見出します。この能力によって,ヒトは他者によって作られた「文化」という環境を,その背後にある意図性とともに内在化でき,これによって文化継承が可能となる。そして,チンパンジーと同様にまさにこの能力に障害があるのが,自閉症なのだ。それがトマセロの説明です。
 第二の例は,自閉文化を概念として認めつつも,それを「認知特性へと還元」する議論があります。TEACCHのゲイリー・メジボフの議論が,その例です。
 そこでは,自閉文化を自閉者が生得的に有する身体状況へと還元しています。これはメジボフも指摘するように,個々の身体から離れて継承されるという意味での文化ではありません。メジボフは,教育における自閉者のフルインクルージョンに留保をかけ,自閉者同士の関係性を重視するタイプの専門家です。その彼が,どうして自閉者同士の関係性を軽視したこのような議論を行うのか,疑問が残ります。
 いずれにせよこの二つの例とも,自閉者同士で自閉文化を紡ぎ,共有している現状を自らの理論に組み入れようとせず,単に無視しているのです。そうした切り取りが可能なのは,彼らが専門家として「真理」を操作する権力を握っているからにほかなりません。つまりこの事態に対しては,専門家ではなく本人の側に,説明する権力を取り返す必要があるのです。

 ふたつめの構造的抑圧である「能力主義」の検討に移ります。多文化主義と能力主義は,現代を語る上で必須のキーワードですが,ここでいう「能力主義」は実は文化的に中立なものではない。「能力主義」の能力とは,社会におけるマジョリティの枠組みで測られる能力に限られます。
 多文化主義は,多様性を称揚し,複数の文化の共存を唱えます。しかし,周囲から独自の文化集団であるという承認を得るには,本人の側の能力と努力が一方的に求められるのです。さらにこの「能力」がマジョリティ,自閉者にとっては定型発達者の基準で測られるとすると次のような事態が生じます。つまり交渉においては,定型発達者の側が理解しやすく,感情を害さず,つまりは消費しやすい自閉文化像とその提示のされ方が,ごく当然のこととして求められるのです。
 多文化主義は,かつての同化型抑圧と比べて,確かにある種の解放感を我々に与えました。しかしその裏では,能力主義という蝶番を通じて,実は極めて強い同化型抑圧を強いているのです。その意味で,この多様性を享受できる人間は,マジョリティの側の基準で高い能力があると認められた人間に限られるのです。
 この事態をより深く,展望ある形で理解するには,私が昨年障害学会大会においてそうしたように国民形成,あるいはナショナリズムを参照図式とするのが有益と思います。その内容を少し振り返っておきましょう。国家は文化的に中立ではない。近代以降国家は一貫して,国家内の多様性を抑圧し,均一な文化集団を作り上げようとする国民形成,あるいはナショナリズムと呼ばれる過程に従事してきました。これは実際には,国家を担う支配的ネイションへの同化という形をとり,現在にいたるまでこの過程は続いています。
 昨年の私の報告ではその一側面を挙げて議論しました。即ちそこで問題としたのは,聴者によるナショナリズムによって,ろう者ナショナリズムが抑圧されているという事態でした。この図式を援用すれば,現在起こっているのは定型発達者ナショナリズムである,とも表現できるでしょう。そこでは,定型発達を上位とする地位のヒエラルキーが再生産され,定型発達者のありようへと自発的に同化しようとするヘゲモニーを生産しているのです。ニート対策と発達障害者施策が限りなく接近している現状も,この反映でしょう。
 こうした歪んだ力場において,承認における自助努力を求めるというのは単にこのナショナリズムに追随することでしかなく,到底公正とは言い難いと思われます。キムリッカが明確に喝破したように,国家のナショナリズムに内在的に伴う不正を最小化するために,マイノリティへの権利付与を行う必要がある。それによってこの歪みをできるだけ正す必要がある。こうした「匡正的正義論」こそが,我々が為すべき議論なのであり,また現在の多文化主義論の一つの到達点でもあるのです。

 最後に,こうした構造的抑圧への抵抗の場である自閉文化の伝承・継承の様式をめぐって一点指摘することで,この報告を終えたいと思います。
 自閉者は,ゲイやろう者と同様,身体的マイノリティであり,出生家族との間で必ずしも属性の共有が為されないという特徴があります。ゲイやろう者の場合は従って,自らの身体状況を肯定する文化に出会うためにゲイやろう者のコミュニティへと移動する必要がありました。逆にいえばそこでは,ゲイ同士,ろう者同士の関係性にめぐり合えればその後はうまくいくだろう,という暗黙の期待が周囲にはあった。
 しかし自閉者の場合は,若干事情が異なるかもしれません。リアン・ホリデー・ウィリーの著作にみられるように,自閉という身体状況は時に家族の間で共有されることがまれではないようです。しかしにもかかわらず,自らの身体状況を肯定する自閉文化へのアクセスが滞っているのだとすれば,それはなぜなのか。もしかすると,非身体的マイノリティである移民集団の場合のように,親の側に強い同化意識が組み込まれてしまっているからでしょうか。そしてそれが,そのままの形でこどもにも受け継がれてしまうリスクはないのでしょうか。
 構造的抑圧を解除するための戦略に加え,自閉者同士の関係性を保障し,自閉文化の伝承・継承を保障できる制度的取り組みが今後は必要です。しかし現在は残念なことに,それには何を為すべきなのかさえはっきりしていない,という段階のように思われます。更なる検討に向けて,今日の報告の結論を開いておこうと思います。ご清聴ありがとうございました。


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■この報告への言及

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※


*作成:
UP:20090905 REV:20090921, 20140824
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