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金 在根「障害者の「あきらめ」に関する一考察」

障害学会第6回大会・報告要旨 於:立命館大学
20090926


◆報告要旨
 金 在根(キム・ジェグン)(立教大学コミュニティ福祉学研究科)
 「障害者の「あきらめ」に関する一考察」

  アメリカのADAをはじめとする障害者差別禁止関連法の制定や、国連の「障害者権利条約」、バリアフリーなどを通して障害者差別の問題は社会の表舞台に登場しつつある。しかし、障害者差別の問題は、前述した社会制度的な面、これを「外面的なもの」とするなら、これより人と人の関係で生じる「内面的なもの」の解決がより重要であると言われている。そして、「内面的なもの」へのアプローチとしては、「ステレオタイプ」、「レッテル」、「スティグマ」等といった心理・社会・文化人類学的な視点に焦点を当てたものがある。しかし、このようなアプローチから障害者の内面的差別を見るには限界があるのではないか。なぜなら、これらのアプローチは障害当事者の視点よりは、社会が差別をどうとらえるかに重みを置いたものであるため、そこから見える障害者差別の実態は現実性に欠け、観念的な取り組みになりやすいからである。そこで社会ではなく、障害当事者が差別をどうとらえるかを考えるため「あきらめ」に焦点を当てることにした。それは、筆者が約10年間障害者とかかわる中で、障害者の「あきらめ」が自分の状況を明らかにする前に、強いられる「あきらめ」、または「あきらめるのが望ましい」という「暗黙の抑圧」が強いことに気付いたからである。なお、「あきらめ」は本来「明らめる」という意味から変化した言葉である。つまり「あきらめ」の行為には「物事を明らかにする」ことが前提として必要である。
  本研究は文献調査で進めている。研究の目的は障害当事者自身の「あきらめ」に焦点を当て、障害者差別の実態、さらに、障害者の生活の特殊性を明らかにすることである。すなわち、第一に、障害者の「あきらめ」を通して、見え隠れする障害者差別を明らかにすることである。第二に、障害者は様々な差別から「生きにくさ」を経験しながらも、それぞれ固有の生活を営んでおり、その生活に「あきらめ」がどのように関係しているかを明らかにすることである。

◆報告原稿 ワード

「第6回障害学会」発表原稿
立教大学 金在根

障害者差別に関する新たな視点としての「あきらめ」

1.はじめに(用語の説明と研究の動機)
 用語について、本稿では、障害者に属しない者のことを健常者ではなく、非障害者と表記する。もう一つ、漢字で表記した諦めと、ひらがなで表記した「あきらめ」を区分して用いる。漢字を使って表記する諦めの方は、我々が日常である意味無意識的に使う意味として用い、ひらがなで表記する「あきらめ」の方は、日常で使う諦めにおいて社会的側面を強調したものとして用いる。詳しくは後で説明したい。
 発表者については、来日してからの約9年の間、ホームヘルパーの仕事や障害者中心の活動などに参加するなかで、障害者が反障害者差別意識や、自分の権利意識が強い一方、自分のやりたいこと、または、欲したことを諦めている姿を目の当たりにしてきた。諦めるものには些細なことだけでなく、本当に望んでいるもの、自分の人生においてやりたい、或いは、手に入れたいものも少なくないと感じた。このような障害者の日常での諦めはそれまで個人の問題として扱われているように見えるが、果たして障害故の社会的差別の側面はないのかと疑問を持つようになった。

2.研究の概要(仮説と目的)
 本研究は障害者差別を禁止するための新たな視点を用いた研究である。近年、障害者を取り巻く社会課題のなかで注目を浴びているのが障害者差別禁止であると考える。それまで慈恵、保護の対象として、社会的施しにより救済される存在と障害者を捉えてきたとしたら、障害者差別禁止は障害者が社会構成員としての必要なニーズを彼/彼女らの権利として認めるものと理解できる。
 しかし、灘本(1998)は「差別問題というのは思索の産物である。(中略)また、個人に対する外的条件の束縛の強さによって差別の度合いが『客観的に』決まるわけでもない(p.229)」と述べている。つまり、差別は人びとの心から出発したものであり、また、差別の度合いは外部条件によってはかられるものではなく、差別を受ける障害者本人を通してはかられるべきものであると言っている。それは現在制度化されたり、差別とされ、禁止されたりするものは、個々人の思いから出発した差別の中で、社会的に共有、あるいは合意されたものと言えるのではないか。そうなると、まだ共有あるいは合意されていない差別も存在していると考えられる。つまり、障害者差別の中には見えないもの、言い換えると、社会問題として表面化されていないものがあるということが考えられる≪仮説1≫
 さらに、灘本(1998)によると、障害者の受ける差別の度合いは時代や社会によってはかられる一律的なものではなく、個人によって違うということである≪仮説2≫。これは生活が多様化され、さらに個々人の生活が見えにくくなっている今の時代において、より説得力をもつものであろう。
 以上から本研究の目的は、@障害者差別の中で見えない差別、もしくは、見えないようにされている差別の存在を明らかにすることと、Aその見えない差別を検証し、それを可視化するための道具として「あきらめ」を用いることの有効性について考察を行うことである。

3.障害者への見えない差別の存在
 差別の定義は様々であるが、前提に≪平等≫があり、それに反する形で合理的でない、≪不利益≫が生じることは共通している点であろう。長い歴史の中で障害者は、神聖化されたり、劣等な労働力として、非人間的な扱いをされてきたり、ときには、生きることすら許されなかったり、社会の安全を損なう存在として隔離されたりしてきた。これらは、今もなくなってはいないが、北欧を中心に発展してきたノーマライゼーションの思想、そして、世界障害者年、アメリカのADA、国連の障害者権利条約などを通して、障害者の差別は表面的には減ってきているように捉える。しかし、以上の制度的な取り組みだけでは長い歴史のなかに深く根ざしてきた障害者差別を解決するには限界があろう。
 以下、現在の社会において見えない差別は何かについて論じ、そのような差別を見えるようにするための方法として「あきらめ」の有効性について論じたい。
 ここで言う見えない差別とは、「差別した者が差別したという自覚をほとんど持ちにくく、社会的に不可視化されている差別のことである(杉野、2007)」。そして、これは差別する者だけでなく、ときには差別された者もその差別性に自覚をもたないことがある。横塚(2007)は、障害者が一人前の人間として社会性を育むための教育、機会等を奪われることを『常識化した差別意識』と言いながら、障害者がこれを無批判的に従属してしまうことが問題であると指摘した(p.25参考)。
 以上のことから、社会的差別が『常識化』されることで、差別性が見えなくなり、その結果、差別する側もされる側も差別に対する自覚が持てないといえるのではないか。そうであるならば、社会的差別を『常識化』しないことで、差別は可視化され、差別する側やされる側が差別していること、されていることに自覚するのではないかと考える。
 それでは、差別を『常識化』しない方法とはどのようなものか。その前に、『常識化』とは何かを問う必要がある。横塚(2007)は、障害者は本来あるべき姿ではない、その不完全な存在という考え方から、普通とは違う待遇(横塚は赤ん坊扱いなどを例であげている)を受けることが当然視されることを『常識化』と言っている。つまり『常識化』は障害者に何らかの≪不利益≫が与えられることの原因を社会ではなく、障害者個人に還元するものと言える。従って、差別を『常識化』しない方法とは差別の原因を障害者個人ではなく、社会に還元する方法を言うと考える。それでは、どうすれば社会に還元することができるか。その方法を考えるためには、具体的に『常識化した差別意識』つまり、差別の原因を個人に還元することが障害者にどのような影響を与えるのかを見る必要がある。
 例えば「神様はいじわるよね。彼のような人にまで、性欲を与えるなんて(河合、2004、p.154)」
 一人では性欲の処理が出来ない障害者のため女性を派遣する団体を利用しているオランダのある障害者へのインタビューを終えた時に通訳者がつぶやいた言葉である。この言葉の裏には、「障害者は性的欲求がない」、また「障害者が性的欲求をもつことはつらいことであり、むしろない方がいい」という考えが常識化されていると思われる。障害者の性に対する上記のような『常識化』は障害者にどのような影響を与えるだろうか。
 「竹田さんにとって人生はじめてのキスだった。(中略)竹田さんはなぜ15年も交際しながら、セックスしなかったのだろう。(中略)『もっと したかった でも こんな からだ だから かのじょ の ふたん に なるから』竹田さんは15年間の交際の中で『好き』という言葉さえ口にしなかった (河合、pp.30-31) 。」
 河合によると、脳性まひのある竹田さんは30代のころ病院で出会った看護婦と付き合うようになった。しかし、15年の交際の間、一度のキスのみだった。セックスしたかと言う質問に「イエ・・ナカッタ」と答える。さらに、『好き』という言葉も一度も口にしなかったと言う。この発言を通して分かることは、『常識化した差別』は障害者に我慢すること、諦めることを身に付けさせる働きをするということである。
 以上から『常識化した差別』と諦めは何らかの関係があることが分かる。次は障害者の「あきらめ」を分析し、見えない障害者差別を可視化するための道具としての「あきらめ」の有効性を考えてみる。

4.「あきらめ」とは何か
 最初に述べたように本稿では諦めの社会的側面と「あきらめ」を区分して用いている。諦めは普通「欲望の達成を中途で断念する(言泉、1986)」の意味で使われるが、いくつかの文献によると以下のような特徴があることが分かった。遠藤(1984)によると、「『あきらめる』は(中略)それまでの『明らかにする』意味から、『断念する・思い切る』意味に変わるのである。」つまり、「あきらめ」には断念する前に(ものごとを)明らかにする意味が含まれていると言えよう。もう一つ、「あきらめ」には「はっきりして曇りない状態にすること」の意味もあるらしい。
@「あきらめ」の「主体−客体の程度」と「受容の程度」
 上記で「あきらめ」はものごとを明らかにする意味があると述べた。これは「あきらめ」る際に、自らが自分の状況を適切に判断することを指し、その後の下す「あきらめ」は主体的な「あきらめ」と言えよう。一方、自分の判断より家族や周囲の人びと、あるいはその他社会などが「あきらめ」の決定に影響する場合には客体的「あきらめ」と言えよう。そして、上記で述べたもう一つは、「あきらめ」は「あきらめ」を受け入れる気持ちの問題が重要ということである。ここでいう「あきらめ」を受け入れるとは、「あきらめ」の後、心が晴れ明け、「あきらめ」を受け入れながらもまた新しい何かを生み出す思いになるか、それとも、モヤモヤとした思いは消えず、簡単には心が晴れない状態になるかということである。これを図で表したものが次の図1である。
(作成者注:図1略)
 横線は主体の程度を、縦線は受容の程度を表している。この中Bが一番個人の問題としての差別の領域に近くて、Cは一番差別の社会的問題となる可能性が多い。そして、AとDは差別の社会的側面と個人的側面を両方もっていると言える。
しかし、これによる分析は不十分なところが多々ある。受容の程度においては、「あきらめ」の差別性だけでなく、対象の中身も深く関係しているからである。そして、それは主体の程度においても同じであろう。そのため、これを補うためには、具体的に障害者の「あきらめ」の中身について知る必要がある。
 障害者の行う「あきらめ」が個人の問題によるものなのか、社会の差別によるものなのかを判断することは難しい。もしかすると、個人と社会のどちらか一つの「あきらめ」はないかもしれない。しかし、以上からみると障害者の見えない差別を「あきらめ」のなかに存在する差別性から見ることは可能であると考える。

おわりに
 ある日、発表者は仕事中に利用者のこうような話を耳にしたことがある。「子どもがほしいな」。彼は町で子どもを見かけたり、知り合いの人が子どもを連れて遊びにきたりすると、時々そのように言っていたが、私を含め、その話を真剣に受け止める人はいなかった。本人だってきっと本気で言っていることではないと思っていた。きっと発表者自身の無意識のなかでは障害者が子どもを持つことは子どもにとって不幸なことであるため障害者は子どもをもってはならないと思ったに違いない。障害者差別に関する研究をする者として恥ずかしいことであるとも思うが、一方、もっと自分の内面と向き合っていくことが大事であると感じるときであった。障害者の見えない差別を表面化する作業は決して簡単なことではない。それは自分の常識を一から問い直すことから始めないといけないかもしれない。
 ここで報告者は見えない差別の存在とそれを可視化するための道具として「あきらめ」の有効性を検討してみた。今回の発表は、これから博士論文を書く上でただ一段の石を積みあげたものにすぎない。この研究を通して障害者差別に関する議論がより拡大したものになることと、障害者の「あきらめ」がより学術的な研究の対象となることを期待している。

参考・引用文献
・安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩信也(1997)「生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学」、藤原書店
・アーヴィング・ゴッフマン(2003)「スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ」、せりか書房
・阿南あゆみ、山口雅子(2007)「親が子供の障害を受容して行く過程に関する文献的検討」、JUOEH(産業医科大学雑誌)29(1):73−85
・井上光一(1999)「自己許容における向上心とあきらめ」、京都大学大学院教育学研究科紀要
・遠藤好英(1984)「『あきらめる』の語史―古代における文章史的様相」、日本文学ノート(宮城学院女子・大学日本文学会)、No.19 、pp.181-201
・奥野英子・結城俊哉編著(2007)「生活支援の障害福祉学」、明石書店
・乙幡英剛(1999)「『病牀六尺』における創作意識―「あきらめる」の用法について」、二松学舎大学人文論叢 ?、No.63、pp.60-78
・河合香織(2004)「セックスボランティア」、新潮社
・佐藤裕(2005)「差別論―偏見理論批判」、明石書店
・斎藤茂太(2005)『あきらめ力』、新講社
・尚学図書・言語研究所編(1981)『国語大辞典』、小学館
・栗原彬(1997)「講座 差別の社会学第1巻 差別の社会理論」、弘文党
・新村出著、編(2008)『広辞苑』、岩波書店
・杉野昭博(2007)「障害学―理論形成と射程」、東京大学出版会
・杉村泰(2007)「複合動詞『−切る』との共起から見た日本語の心理動詞」、第2届中日韓日本言語文化研究国際フォーラム、出所:www.lang.nagoya-u.ac.jp/~sugimura/achivement/symposium.htm
・中央法規出版編集部(2008)『社会福祉用語辞典4訂』、中央法規
・中川英世(1991)「ゲーテの『諦念』の意味について」、高岡法科大学紀要第2号、pp.228-211
・横塚晃一(2007)「母よ!殺すな」、生活書院
・林監修、尚学図書編集(1986)『国語大辞典「言泉」』、小学館
・星三枝子(2001)「春は残酷である」、日本図書センター
・妙木浩之、北山修(2006)監修:北山修「日常臨床語辞典」、pp.19-22(「あきらめ」松岡裕子)
・山下恒男(2005)「差別の心的世界」、現代書館
・ユン・ミソン(2006)「『モシピルブリックの選択』に投影されたエミリ・ディッキンソンの諦念詩学」、人文学研究33巻第3号、pp201-225、忠南大学人文科学研究所
・吉野俊彦(1981)『あきらめの哲学「森鴎外」』、PHP研究所、p.18、19、21
・渡邉敏郎・E.R. Skrzypczak・P. Snowden(2003)『新和英大辞典・第5版』、研究社
・渡辺浪二(2001)「諦めると希望が見える?」、Science of Humanity Bensei(人文学と情報処理、No.37、
pp.77-81

*作成:
UP:20090905 REV:20090921
全文掲載  ◇障害学会第6回大会  ◇障害学会第6回大会・報告要旨

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