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鄭 喜慶「変革運動と部分運動☆01としての障碍人☆02運動――1989年韓国障碍人雇用促進法制定と障碍人福祉法闘争運動をめぐって」

障害学会第6回大会・報告要旨 於:立命館大学
20090927


◆報告要旨
 鄭 喜慶(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
 「変革運動と部分運動☆01としての障碍人☆02運動――1989年韓国障碍人雇用促進法制定と障碍人福祉法闘争運動をめぐって」

  1989年、韓国で青年障碍人による激しい闘争運動が行われていたのが、障碍人雇用促進法制定と障碍人福祉法改正闘争運動である。当時その運動に関わった障碍人たちは自らの運動は「社会変革運動としての部分運動」であったと言う。それは、80年代の韓国で行われていた社会運動の影響があったと言える。  この闘争運動は、韓国初の障碍人中心で組織的、継続的に取り込まれて成功した運動として、障碍人運動史の中で高く評価されているものである。
  本報告では、下記の4点について整理する。1.当時の青年障碍人たちが自らの運動をなぜ「社会変革運動としての部分運動」であったと評価しているのかについて整理する。2.青年障碍人たちが最初に「ウリント 」という組織をつくり、「全国肢体不自由大学生連合会(以下、全肢大連)」という全国組織に加盟した狙いと、親陸団体であった「全肢大連」をどのように変革運動団体に換えていったかについて当時の資料と聞き取り調査を通じて記述する。3.2つの闘争運動が成功に至った経緯と成果、そして限界について書く。特に、障碍人団体との連帯、役割分担、戦略などをまとめる。4.最後にこの変革運動が90年代の障碍人運動への連続性と非連続性について整理する。
  韓国の当事者による障碍人運動の歴史は20年と短い。日本やアメリカにくらべて、はるかに短い歴史である。それにも関わらず、現在韓国障碍人運動は世界どこでも見られないほど大きく成長している。本報告では、この2つの法律闘争運動が大きな成長の源流であったことを考察する。
☆01 社会変革運動を基本においた部分運動とは、労働、学生、貧困、女性など、各部分で運動を行い、当時の政権を傷つけることで、結局は政権を倒して交替することを目的とする。
☆02 ここでは韓国の表記である障碍人(ジャン・エ・イン)をそのまま漢字で使う。 ☆03 「ウリント」の「ウリン」は純粋な韓国語として、物と物が衝突する時に鳴る音を意味する。また「ト」は物事の根拠となる場所を意味する。本報告での「ウリント」は衝突が始まる場所として描いている。

◆報告原稿

変革部分運動としての韓国障碍人運動の成果と限界
「ウリント」の活動を中心に(1986年ー1992年)

1.はじめに

 80年代後半において、韓国ではエリトで軽度の小児麻痺者による障碍人運動 が激しく行われた。その運動は、当時民主化運動が広がる韓国社会において、マルクス思想を理念とした社会変革から影響をうけて展開されていた。それは社会変革運動の複数の運動の一翼を担う「部分運動」とされる。
 この運動は、障害者の労働権や生存権を要求する法律闘争が、革命をおこし社会体制を完全に変化させる、社会変革の「部分運動」として展開されたことにその特徴がある 。
 本報告では、80年代後半の「韓国障害者運動」が、障害者だけの利害を要求する運動に留まらない、社会体制を変える変革に向かう運動であったと考え、「障碍人問題研究会ウリント(以下、ウリント)」という障害者青年組織を事例としてあげ、ウリントの結成と運動への展開そして解体までを実証的に論じる。また、1990年に入り、障碍人運動が縮小して行く中で、ウリントの解体を余儀なくされたことに対しての評価と考察を行う。 

2.障碍人運動と社会運動(変革運動)の接点

 韓国では、1950年から3年間起きた戦争で、多くの死傷者が発生し、いち早くから傷痍軍人に対する制度が整備された。また、1950年代末から流行っていた小児麻痺ウイルスによって、60年代まつまで10~12万人の小児麻痺障害者が発生した。ウイルスの流行と別にワクチンの不足と管理不注意によるものが多かったと当時の新聞は発表している。主に下半身の軽度障害者になった小児麻痺障害者たちは、福祉がほとんどなかった70年代から80年代まで中・高校そして、大学まで入学拒否されるケースが多かった。戦争から生活が貧しかったが、子供への教育に熱心だった韓国の中で歩ける軽度障害児への入学拒否事件は大きな社会問題になった。当時の障害者運動は、専門家や親が中心で、一回性のキャンペーンや糾弾大会が多く、制度を作るなど問題の本質を探ることはできなかった。一方、入学拒否事件が制度の整備で大学に入るのがそれほど厳しくなかったことで、80年代には多くの障害学生が大学に入るようになる。当時、小児麻痺協会で「ミルアル(小麦の種)」というグラブで活動していた高校生たちも、80年代に多く大学に入るようになる。このひとたちは、80年代後半の変革運動として障害者運動を展開していく「ウリント」のメンバーたちである。

 80年代に入り、多くの小児麻痺障碍人らが大学に入り、そこで韓国社会全般に行われている民主化運動について学習するようになる。特に、20年間続いてきた独裁政権が幕を閉じたと信じていた国民にとって、間もなくすぐ誕生していた軍事政権に対しての反政府運動は70年代の小市民的で自由主義的な社会運動とは違って、自然発生的で孤立分散的な運動を根本的な変革のために組織が必要であることなど社会的な合意がなされたたからである。これは「運動の科学科」ともいえた(キン, 1989)。 そして、80年代韓国社会全般における社会運動はマルクス主義を基盤とした社会主義運動で、労働者階級を通じた社会変革運動の部分運動を目指していた。それは、労働階級が社会変革運動主導する主導群になり、学生、農民、貧困、女性などは補助群として主導群を支え、主導群によって革命を行うことを言う。このような雰囲気の中で青年障碍人たちは学生運動や労働運動など様々な場で、社会変革運動に参加し、自然にマルクス主義、社会主義、唯物論、弁証論、金一成の主体思想などに触れ、運動の思想や理念、組織運営と闘争の方式を学んでいた。
 そして、青年障碍人たちも補助群(部分運動)として障碍人運動を展開していくことを決める「ウリント」という組織を作るのである。

 2.ウリントの展開(1)――結成と勢力拡張

 韓国の初の障碍人変革的運動団体と言われている「ウリント」は1986年9月14日に結成された。小児麻痺協会正立会館1)を利用する高校部クラブであった「ミルアル(小麦の芽)」出身の青年障害者たちで、当時学生運動が盛かんだ大学で学生運動に関わった者と、労働運動に深く関わっていた10人 が中心であった。85年10月から毎週、社会運動書籍や障碍人関連書籍を読みながら、先進国では障碍人問題が権利として問題を解決していくことや、責任が国にあることなどを勉強する 。そして、自分たちが学生運動や労働運動の場で学んだことをいかに障碍人運動の中で活かせるかについて計画的に取り組んだ。そして、ウリントは大学生と一般人とがともに人権向上と障碍人の福祉増進のために社会変革的な活動ができることを目指して結成した。そして、「障害人福祉の問題の原因は政府当局の無関心、社会の無関心であったと考え、根本的な解決策のために研究作業と実践作業を行う」(障碍問題研究会ウリント, 1993, p. 33)ことを目的とした。研究作業の一環として、86年11月15日に『喚声』誌一号を発行し、解体される92年までの間で計13号 が発行された。彼らが韓国の障碍人問題に正面から対峙し、問題の解決方法と障碍人の権利を勝ち取るための闘争の準備を行っていたことが伺える。

 ウリントは全国で社会変革運動を展開するために、全国組織への加入の必要性を感じ、1987年に親睦組織であった「全国肢体不自由大学生連合(以下、全肢大連)2」)に加入した。この加入は計画的なもので、障碍人の問題が社会構造の矛盾から生じていると考え、この加入により障碍人の運動を社会運動の一環とする理論的な根拠を確立する目的があった。そして、ウリントのメンバーたちは、全国を回りながら会員一人一人にあい、積極的に社会の矛盾とその解決方案として部分運動を勧めた。そして、88年にウリントのメンバーであるの申氏が全肢大連の常任委員長に選出されてから、その性格は大きく変わる。申は内的な条件として「全国障碍大学生の実態調査を通じて会員確保、障碍人主体の政治力確保の必要性を認識、全国次元の政治意識高揚のための合宿、進歩的な意識をもつ学生が必要」などをあげながら、合宿を通じて障碍人問題を社会構造の問題として取り上げ、政治意識の高揚を図った((障碍人問題研究会ウリント, 1993, p. 387)。
 それ以外にも手話クラブを発足し、手話公演を行うことで、そこのボランティアの青年たちと障碍人たちとの交流を図った。また劇団とバントを結成し、集会の直前には公演を行い、他の大学生との交流場を作りあげていく運動も行っていた。

 3.ウリントの展開(2)――部分運動3)と解体
 
 81年9月30日にソウルオリンピックの誘致が決定し、88年10月15日に障碍人オリンピックが開催された。 韓国の障碍界4) はこのオリンピックを反対5)した。そして、本格的に「全肢大連」の名前でウリントが、オリンピック反対の現場闘争の契機となったのは、88年3月28日にソウル市にある江洞区ハイル洞「ボ−ラムの家」障碍人20人が障碍人生存権を要求しながらヨンドン教会6)を占拠しハンストを始めたことである。その動きを知った「全肢大連」は、4月8日の声明書出しながら、デモに合流した。4月9日には、より具体的な声明を発表し、障碍人雇用促進法の制定と心身障害者福祉法の改正を要求し、闘争はオリンピック反対と2つの法案争取の方向で展開されるようになる。そして、4月19日には「障碍人権益促進範国民決議大会」を、17日からは三育再活園(韓国の代表的な障碍人入所施設)を占拠し、10日間の断髪闘争と10回のデモ集会を開くなど15日間の闘争を行った。 以後、7月2日から3日にかけて「障碍人オリンピック組織委員会」を占拠する。これは展示的なオリンピックを準備している政府に致命的なインパクトを与えった。そして、10月9日には「欺瞞的な障碍人オリンピック暴露及び障碍人人権争取決議大会」という大きなデモが行われた。また、障碍人オリンピックが 開催された10月15日から10月24日の間、ウリントの5人が明洞聖堂の路上で、障碍人オリンピックの開催拒否と両法案の制定を要求しながら徹夜ハンストを展開した。しかし、障碍人オリンピックは250億ウォンの予算を使って開催された。
 障碍人オリンピック反対運動と一緒に展開してきた法案闘争は、社会的・政治的に関心が高くなった。当時まで、法案制定に対する障害人運動は組織的ではなく、連帯することなくそれぞれ独自に活動していたので、この頃から、闘争のために障碍界を代表するような運動組織を必要とし、8月11日に「障碍人総連盟」が結成された。
 10月9日に「開運寺(韓国で代表的な仏教宗派の本部)」で、大規模な集会を開いた。 以後、法律や政策への運動をやってきた「障害友権益問題研究所」が具体的な法案の草案作りの作業を始め、11月には法案の改正作業を行っている。
 このように、各障碍人団体が、各自の役割をはっきり区分していくようになった。まずは、ウリントが加入している「全肢大連」はいつも闘争の先頭で、そして、各政党(野党)の党事務室の占拠に、「障碍権益問題研究所」は案の作成、そして障碍界を代表する「障碍人総連盟」が各自の役割を果たしながら闘争はますます激しく展開していた。以後、「心身障害人福祉法改正と障碍人雇用促進法制定のための共同対策委員会以下、共対委)が結成され、すぐに31団体が参加して、11月11日には1000人が集まり、共対委の主催で「心身障害者福祉法改正と障碍人雇用促進法制定のための40万障碍人総決議大会」が国会議事等の前で開催された。これらの運動の結果、12月11日「障碍人福祉法」が国会を通過し、16日に「障碍人雇用促進法」が通過した。
 この2つの法案闘争は、障碍人に労働権を獲得し、障碍人の問題が社会にあることを認識させたことで大きな意義がある。

 90年の初頭からウリントの活動は縮小していた。その原因と言われるのは、まず、より運動性が強い、新しい青年組織の設立の必要性、他の運動団体との連帯の必要性を感じたことがある。これは、大学生組織である全肢大連の名前を持ちつつ、社会変革の運動を展開していくことに限界を感じたウリントの中心メンバーが、「ソウル青年障碍者連合(以下、ソ障青)」という新しい連合組織に移り活動をしていたことである。
 また、変革運動として障碍人運動を展開していくことに対して内部で論争が生じたことである。これは、韓国全体の社会運動が変革運動から市民社会運動へ変化7)していく中で、変革運動の理念をもちつづけるウリント内部での論争と新人メンバーを確保することが困難なこともその原因であった。このように、既存メンバーの逸脱と新人メンバーの確保ができず、人が中心となるウリントは再建のために内部で様々な議論が行われるが、結局92年12月に解体の道を選んだのである。「もしウリントが、それ以上変革運動ができない時がきたらその時には、ただの組織の存続だけを考えずに解体する8」」と考えていたので、ある意味でその時期がきたとも言える。

 4.「ウリント」の限界とそれが残したもの

 当時、変革運動をやっていたウリントのメンバーたちに、89年の法闘争での勝利経験が彼らに気付かせたのは、より強い運動を全国に展開していくためには、質が高い組織が必要であるということであった。全国組織の結成と当時拡がっていた施設横領事件や他の運動にも連帯しながら変革運動を展開した。
 このようにウリントの核心メンバーは対外的な活動に傾いたせいで、内部の活動をほとんどできなくなっていた。 88年と89年の新規会員加入が30人〜40人以上と組織的に大きくなっていたウリントは、91年からは新規加入者の数が激減し、91年には6人、92年には8人にまで落ちた。生計問題で脱退していく会員を含めると、実際にウリント内で活動するメンバーは減る一方であった。このように先進グル―プが現れなかったことによる指導力の不在と新人会員の減少により、次の世代の再生産が困難となった。(障碍人問題研究会ウリント, 1993, pp. 103-166)。
 ウリントは次の指導部への再生産、つまり、社会意識が高く、社会主義の思想や理念をもつ人材を探すことができなかったのである。それは、変革運動組織として継続的に維持しようとしていたウリントの危機でもあった。
 また、指導力不足の批判から、会員全体の結束力の不在、メンバー同士の意見の不一致と、不信、そして会員の主体意識低下による責任の欠如をもたらし、ウリントが解体していく大きな原因のひとつになったと言える。

 また、このようなウリント内部の環境から、ウリントの正式な名称である「障碍人問題研究会ウリント」から分かるように、障碍人問題に関する研究活動を行おうのに十分ではない環境でもあった。結成したその年から機関紙『喚声』を発刊したこと、ウリント研究部があったことからも分かる。ウリントは『喚声』発刊に際して、「障碍人運動の理論的な土台を作り、既存の障碍人に対する認識を変えるために継続的に努力し、研究作業を通じて障碍人問題は南韓(韓国)がもっている資本主義の社会から生まれてものであることを社会に知らしめる」と宣言している(障碍人問題研究会ウリント, 1993, p. 37)。しかし、社会主義の理念や思想をもって変革的な運動を行うのは十分であったことで89年までは、変革運動を展開していくにはそれほど問題が生じなかった。しかしながら、90年以後ウリント内部の人材不足と新しい社会運動へ応じるような障碍人運動への理念を作りあげる力の不足でウリントは解体の道を選んだのである。

 これは、変革運動の限界である。そして、変革運動から得た2つ法案闘争味わった勝利への経験とその信頼から、ウリントの運動を展開する確信があったと考えられる。以後にも、ウリントのメンバーたちは、社会運動の思想と理念を捨てることができず、戦闘的な運動を展開しよう努力するが、全国青年組織結成を失敗することで、彼らの運動は縮小していく一方になる。さらに、新しい政府の下で反政府闘争の課題と新しい理念と思想を作ることができず、彼らの運動は限界を迎え、80年代後半のような運動は再現されることなく、活動家たちは90年代を生きることになる。そして、98年に韓国DPIと統合することによって、ようやく社会変革的な部分運動という戦略を手放すにいたったのである。

 おわりに

 これまで、ウリントを中心とした80年代後半の韓国障碍人運動について確認してきた。
 ウリントは80年代後半の体制変革的な部分運動であり、当事者による韓国初の運動として、障碍人問題を表面化したことと、その責任が個人ではなく国にあったことを明確に提示し、社会の認識を転換させるきっかけを作ったのだと言える。
しかし、変革運動を目指していたウリントの強い社会運動への意識は新しい時代への対応できる運動の思想と理念を作ることができなかった。それは、自分独自のものをつくれなかったとも言える。それは、後の韓国障碍人運動の縮小への大きな原因であったと考えられる。
 以後、運動の経験と法案闘争での成功体験は、2000年以後重度障碍人の自立生活運動と障碍人差別禁止法制正運動に大きく活かされた。当時ウリントの核心メンバーの一人は韓国に自立生活運動を広めた。また、青年障碍人たちが変革運動とは異なる「韓国DPI」に統合されたときに、それに反対して変革運動を最後まで主張し続けていた当事者は、2000年以後、移動権運動の中心人物になった。また、他の青年障碍人たちも各団体の中心となって重度障碍人運動が韓国に定着していく支えとなった。80年代後半の運動は2000年以降に続く現在の重度障碍人運動の源流となったのである。
 今後の課題としては、ウリントの解体後、障碍人運動が変革運動を維持するために行った全国組織の統合と分離の経緯について、そして、変革運動を断念して新しい運動方式を選んで、98年に韓国DPIが成立するまでの経緯を障害学の視点から引き続き調査したい。


文献リスト
(韓国の文献は韓国語を報告者が日本語で翻訳したものであり、日本語でかかれたものではない)

鄭喜慶(ジョン・ヒギョン), 2009, 「大韓民国における障碍人運動の歴史―当事者主義に至るまでの歴歴史, 立命館大学先端総合学術研究科博士予備論文
ウリント活動記録集』障碍人問題研究会ウリント, pp. 144-146.
キン・ドヒョン, 2005, 『韓国社会障碍民衆運動の歴史−その闘争の記録と評価』ジョン・テス烈士偲ぶ会
キン・ドンチュン, 1990, 「南韓社会変革運動論研究の問題」『経済と社会』Vol, 7, No6 pp. 19-56.
キン・ジェギ, 1989, 「80年代の社会変革運動と主体思想」『哲学研究』Vol. 25 No1 pp. 85-132.
キン・キョンイル, 1995, 「韓国社会運動の歴史と展望:1945-1995年」 徳聖女子大学校社会科学研究所, pp. 179-202.
イ・インヨン, 2001, 「新社会運動としての障碍人運動に関する考察―障害人雇用促進などに関する法律と障碍人雇用及び職業リハビリ法 政策決定過程を中心に」、中央大学社会開発大学院修士論文 
イ・ジェウォン, 1993,「90年終え、ウリントの皆さんに贈る言葉」『障碍人問題研究会ウリント活動記録集』障碍人問題研究会ウリント, pp. 103-109.
李珍景(イ・ジンギョン), 2008, 「マルクス主義とコミューン主義――コミューン主義者はいかに思考するのか」金友子編訳, 2008, 『歩きながら問う――研究空間〈スユ+ノモ〉の実践』インパクト出版会, pp. 210-235.
李相鎬(イ・サンホ), 2003, 「韓国障害者解放運動の歴史」『ソウルDPI青年学校資料集』pp. 88-104.
ペン・ヒョンモ,1993,「第1共和国下の障碍人実態」 『韓国の障碍人 』 韓国障碍人福祉政策研究会:13-35
障碍問題研究会ウリント, 1993, 『障碍人問題研究会ウリント活動記録集』障碍問題研究会ウリント
ユ・ドンチョル, 2002, 「韓国障害運動の成果と課題」『社会福祉政策』pp. 56-62.
 

1) 韓国初の障碍人利用施設である。1966年に小児麻痺障碍人でありながら専門家である6人によって韓国小児麻痺協会として設立された。以後、多くの小児麻痺障碍児たちの活動場となった。小児麻痺障碍人たちからは「心の故郷」とも言える場所である。
2)全国肢体不自由大学生連合会は、78年に全国障碍人クラブ親睦体育大会で障碍大学生の全国組織の必要性が提起され、81年に正式に5団体が中心となり88年には済州島を除き、全国組織(全国10団体)が結成された。
3)障碍人オリンピック反対運動と2つの法案闘争運動(障碍人雇用促進法制定と障碍人福祉法改正)
4)障碍人福祉に関わっているすべてのことや人
5)障碍人の数すら把握してないのに、平等のオリンピックとか、参与のオリンピックなどの美辞句を使うのは障碍人に傷つけることだと反対した。また、当時の障碍人福祉の予算が50億ウォンだったのに、オリンピックへの投資される金額は250億ウォンであった。これに対して障碍界は猛反対したのである。
6)韓国で一番神者が多いと言われている教会である純福音教会が、献金を障碍人オリンピック組織委員会に寄付するという話を聞いてから、そのお金を障碍人に直接寄付することを要求しながらデモを行った。
7)国外では1989年から東欧の社会主義国家とソ連の没落と国内では1993年に軍事政権が幕を閉じ、民間人による政権誕生を迎え、韓国全般で行っていた反政府運動や民主化運動などの変革運動が市民社会運動に変化していく時期であった。
8)金漢培(キン・ハンべ)のインタビューによる発言、2009年8月16日

*作成:
UP:20090905 REV:20090921
全文掲載  ◇障害学会第6回大会  ◇障害学会第6回大会・報告要旨

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