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平井 佑典「授業困難と相談と配慮依頼のやり取りにまつわる当事者の関係のエピソード」

障害学会第6回大会・報告原稿 於:立命館大学
20090926


◆報告原稿
シンポジウムT「障害学生支援を語る」

授業困難と相談と配慮依頼のやり取りにまつわる当事者の関係のエピソード

 はじめまして、私は和光大学発達学科4年生の平井佑典と申します。本日は、貴重なシンポジウムにお招きくださりまして、まことにありがとうございます。私は、大学一年生の後期頃に、発達障害の一つであるADHDを病院で診断されて、いくつかの困難や問題を現場ごとに抱えながら生活しております。
そこで本日は、当事者として学内の体験の中から、授業における困難と配慮依頼、そのプロセスに内包される困難とトラブル、具体的な配慮と支援についてのエピソードをご紹介いたします。

 また、その内容には、3つの立場の違う登場人物が出てきます。授業を受け困難を抱える私、授業を行い配慮を考えてくださる先生方、そして、両者の相互理解のための協力者となる発達障害に関する専門的な知識を持った先生です。つまり、話の中では、私自身の抱える問題のひとつに側面を当てながら、関係する周りの先生方、第三者的な立場の専門家とのやり取りを紹介していくことになります。

 それを本日、この場でお話しすることで、ぜひ皆様と当事者の問題や周りの協力者との関係について、さまざまな角度や視点から一緒に考えていけたらと思います。では、よろしくお願いいたします。

 さて、まずは、授業や先生とのやり取りで生じる困難についてお話しいたします。私は、学業においては90分の講義形式の授業を聞き続けることが大変であったり、課題やその時の内面の状況によっては成果を出せたり出せなかったり、また、日頃の生活的なコントロールも含めて、学校へ行けたり行けなかったりということがあります。

 そして、大学生活は、日々の授業が大きな割合を占めていると思うのですが、私は、特に困難を感じる授業においては、事前に先生方に、相談をするようにしています。たとえば、先生の研究室に行った際には「自分はADHDを診断されています。授業の履修条件を満たせるように課題をこなそうとしているのですが、どうも上手くいきません。それでも学習意欲はあります。そこで、何か履修条件を満たしつつ、形式を変えて学習ができるような課題をお願いします」というようなことを言います。

 しかし、このような相談では、先生方も困惑されることが多いように思います。どうしても困難や問題がつかみきれておらず、どのようなやり方を相手の先生に依頼しているのか、ということが不明瞭になってしまうからです。相談した先生によっては「じゃあ、代わりの課題を出すから、とりあえず、やってみますか?」など、個人的なご配慮をしてくださるようなことはありました。

 和光大学は、障害支援に対しての独自の歴史と伝統がある学校らしく、また、教職員も支援に対しての意識は非常に高いと聞きます。ですから、私に対しても、どの先生方も問題を蔑ろにすることは決してありませんでした。

 ただ、私としては、課題をいただいたことに関してのお礼を言うとともに、結局、それで上手くいくかどうかもわからないなぁ…と見通しの持てない不安な気持ちで研究室を後にすることが多いです。

 ちなみに、こうした相談は毎年、10科目前後繰り返します。これは、すべての授業ではなく、あくまでも困難と必要を感じる授業に厳選した結果の科目数です。和光大学内では、発達障害に関して、支援の枠組みや具体的な取り組みが確立されていない状況ですから、私の問題においてもそれぞれの職員方に個別の対応をお願いすることになります。それで相談、依頼、交渉をすることは、学内のあらゆる場面で必要になってきますが、先生方との授業に関する相談というのは難しく、またプレッシャーを感じるものです。

 私自身が、成果を出せる時、出せない時、できない理由などを把握しきれない部分もあり、また、周りの人にもそれらが、よくわからないことが理由のひとつにあると思います。実際、適切な相談が出来ない状況で、上手くいかない結果は残り、仕方ないことですがそれで評価されてしまうこともあります。たとえば、締め切りの遅れ、まとまりのないレポート、授業の欠席続き、連絡もよこさない…などの結果からの評価です。

 また、私と教員とのやり取りにおいては、私特有の感覚的な説明、それを表現する言葉遣い、態度などから、伝えたいことが上手く伝わらずにトラブルが起きてしまうこともあります。端的に言うとやり取りによっては、「サボるな」「障害を逃げにするな」「自己中だ」「相談するくせに、偉そうだ」「無礼だ」などのことを直接、あるいはメールなどで言われてしまいます。

 私は、表面的には困難があるようには見えないのに成果が出せないことがあり、また、その背景が見えにくいことから、よく怠惰を指摘されてしまうのです。また、怠惰などを指摘される中にあっても、私は、問題を相対化して考える部分があります。自分のことを指摘されているのにも関わらず、どこかよそ事の風に見えてしまうようです。どうも、ADHDの認知特性と関連しているらしいですが、状況の中のいろいろな所にどうしても注意が向くので、進行中の碁盤を眺めるような物の見方で、自分と相手の先生や課題の取り組みを位置づけながら意見をいいます。そうした言動から、配慮をしている立場の先生を不快にしてしまうこともあるようです。すると、態度が「上から目線で偉そうだ」ということになってしまいます。

 これらの指摘を受けることは、ひどく私を精神的に消耗させてしまいます。どうしても、無力感、理解されない悲しさや悔しさ、あるいはそうした言葉に対する怒りなどの感情が止まらなくなってしまいます。切羽詰って努力をしているからこそ、なかなか許せない言葉があり、過敏に反応してしまうのです。

 そして場合によっては、その先生との相談を上手く継続することができなくなってしまいます。そうした時は、先生からすれば、私が一方的に音信不通になってしまうでしょう。もちろん、単位なども落とすことになります。

 このようにADHDの困難を有する私と、大学の先生の間でのやり取りや関係には、色々な問題が起きてしまうようです。そうした問題の対処や考察の着眼点は色々あると思います。まずは、私が実際的な相談スキルを訓練し向上することや、学校側の教職員も適切な理解や配慮、認識を持つこと、などの双方の取り組みが、相互理解のためには必須条件だと思います。

 とは言え、学校における当事者の立場としては、あるいは、学生と教員という関係においては、当然、私の方がいくつかの面で立場が弱く、基本的には、ひたすら自分で出来る努力や工夫を続けるしかありませんでした。ですが、3年生までの大学生活において、4年生での卒業がほとんど絶望的な単位しか取れなかったときには、途方にくれてしまいました。このような生活が何年も続くならば、いっそのこと、大学をあきらめて別の進路を選んだ方がよいのでは、とも考えました。

 そのことは、ゼミの臨床発達心理学の専門の先生に相談しました。私のこれまでの実践や困難、葛藤などを話しながら、4年生をどう過ごすかを一緒に考えていただきました。
 結果、大学の支援としては非公式でありながらも実践的な試みとして、私の授業ごとの先生方との相談を円滑にするためのご協力をいただけることになりました。私も、もう1年は頑張ろうと思いました。恐らくは、発達障害支援体系のない大学内において、研究的にコーディネータの役割を買って出ていただいているということかと思います。

 ゼミの先生にいただく具体的な協力は4つあります。相談のスケジュールや方針の調整、相談用メールの文面添削、相談の時に用いる障害の特徴などの文書作成、相談先の先生との間にトラブルが起きた際の仲裁、になります。

 なお、4つ目の仲裁というのは、つまり、先ほどお話したように、私はどうも相談先の先生とミスコミュニケーションからのトラブルを起こすことがあるので、適切な相互理解ができるように調整をしていただく、ということになります。実際に、今年、相談相手の先生に、私の感覚的な困難に関して、上手く伝わらなかった時に、説明の手助けしていただいたり、逆に、私にとってわかりにくい、相手の先生の立場や意見を、噛み砕いて説明していただいたり、ということがありました。その時には、大変助かりました。

 また、ゼミの先生は、私に対して、ゼミの指導教員としての立場からだけではなく、支援を形作るための学内の実践研究の一環として、色々と提案や協力をしてくださいます。ですから、たとえば、このような私と相談相手の先生とのやり取りも、いったん現場を離れて、ゼミの先生と一緒に検討を加えることができます。その過程では、学生と教員という枠組みを離れ、学内での支援構築の観点から当事者の問題と対策として考えていけるので、精神的な意味でも余裕ができ、もう少し頑張ろう、という気持ちも出てくるのです。
これらは障害学生支援でありながらも、私に対しての一方的なサポートではなく、私とゼミの先生の間には、むしろ、学内に障害学生支援の形をつくるための実践的な共同研究のような位置づけもあるのではないか、と思っています。

 …と、実は、この内容を作ったときに、ゼミの先生にお互いの関係について部分のご確認をお願いしたところ、先生は、その場でいきなり笑い転げてしまいました。
先生曰く、「すでに、偉そうだ」とのことです。

 私には自覚がなくよくわからなかったのですが、なるほど、確かに先生にご協力をいただいている立場でありながらも「共同研究をしています」言う態度は、偉そうと捉えられても仕方が無いかも知れません。私は、先ほど、相談した先生には「相談の態度が偉そうだ」と言われて、落ち込んだりしてしまう、と言いながら、またも、無自覚にそうした態度を取ってしまっているらしいです。

 もちろん、私は偉そうにしているつもりはまったくなく、ゼミの先生にも、これまでの関係から、そうした私の内面もご理解いただいているので、今回は、幸いにも笑いごとで済みました。しかし、日常的に問題が起こるので、私としてはまるで地雷地帯を歩いているようなもので、困ったものです。

 さて、ゼミの先生との関係の話しに戻りますが、このように共同研究的に、あるいは「偉そうに」できることは私にとっては、とても嬉しいことがあります。

 なぜなら、私は困っていることを何とかしなければ、とまず自分の学生生活の問題に第一に取り組んでいるのですが、さらに、そうした自分の実践的な事例を、大学に残し環境を改善していくのに役立てたいとも考えているからです。私の身内や友人にも、同じような困難を持つ方もいるので、そうした人々の力になりたい、いずれにせよ困難を抱える大学生の力になりたい、といつも思うのです。また、学校全体に役立つことを考えることは、あちらこちらに人やモノに気を配る私の散漫的な性質に適していて、非常に行動しやすい部分もあります。つまり、自分の問題でありならも、俯瞰的な目線で、それを役に立つ形で扱うということが、自分の感性と良くあうということなのです。

 ですから、私には、支援をされている、という自覚もあまりなく、むしろお互いに協力し合っている、くらいの気持ちで気軽に、あるいは「偉そう」に、それ故に、積極的に現状の問題に対しての対処を続けていけるのです。
 なお、実際には、先生には大分、ご苦労をおかけしているのはわかりますし、いつも感謝はしております。

 さて、これで冒頭にお話したように、和光大学を舞台にした、私の授業の困難や相談様相、先生方との対応、コーディネータの役割、などの様相を紹介したことになると思います。これらの話は、まだまだ現在進行形の話ですから、今のところ結論というか、落としどころがありません。

 しかし、この場をお借りして発表することで、当事者の大学におけるドラマの一つが、具体的な支援の在り方、目指すべき方向性との関係などとどのように位置づいていくのか、また、当事者はどのような自覚を持ち、行動を取るべきなのか、などを、多様な側面や観点から考えていき、そして、出来れば、この場で共有したことを、大学に持ち帰って、再び役立てていきたいと考えておりますので、皆様方、どうか、よろしくお願いいたします。

私からの発表は以上になります。ありがとうございました。


*作成:
UP:20090921 REV:20090930
全文掲載  ◇障害学会第6回大会  ◇障害学会第6回大会・報告要旨

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