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堀 智久「自らの専門性のもつ抑圧性の気づきと臨床心理業務の総点検――日本臨床心理学会の1960/70」

障害学会第6回大会・報告要旨 於:立命館大学
20090926


◆報告要旨
 堀 智久(筑波大学人文社会科学研究科)
 「自らの専門性のもつ抑圧性の気づきと臨床心理業務の総点検――日本臨床心理学会の1960/70」

  われわれは、専門家批判というと、1970年代以降の障害者解放運動や自立生活運動による専門家批判を想起しがちだが、専門家自身による専門家批判がなかったのではない。1969年5月の日本精神神経学会金沢大会を契機として、いくつかの精神医学関連学会では学会改革運動が展開される。本報告では、とりわけ、自らの専門性に対してきわめて自己批判的な実践を行ってきた日本臨床心理学会の学会改革運動に光を当てる。
  本稿の目的は、日本臨床心理学会の学会改革運動から、これに関わってきたクリニカルサイコロジストが、いかにして自らの専門性のもつ抑圧性に気づき、臨床心理業務の総点検を行ってきたのかを明らかにすることである。具体的には、1970年代を中心に、文献調査や聞き取り調査から、日本臨床心理学会の学会改革運動のなかでなされた議論の展開を追う。本報告では、日本臨床心理学会の学会改革運動の展開から、彼らが、いかにして自らの営為を批判的に捉え直してきたのか、クライエントである患者や障害児者の立場に立つ実践を行ってきたのかを明らかにしていく。
  日本臨床心理学会の学会改革運動は、臨床心理士資格制度の根本的な見直しを契機として開始される。彼らが、自らの専門性のもつ抑圧性に気づく契機や過程は、けっして一様ではない。たとえば、日本で最初の就学運動団体である「がっこの会」を結成した渡部淳の場合には、勤務する病院が小児科であり、知能テストを多く行わざるを得なかったことが、きわめて早い時期に、自らの加害性を認識させられる契機になっている。
  また、彼らは、臨床心理業務の総点検を開始する。臨床心理業務のなかでも、まず総点検の対象になったのが心理テスト、とりわけ知能テストである。これに対して、臨床心理業務のもうひとつの柱である心理治療は、1970年代後半以降、本格的に総点検の対象になっている。彼らは、臨床心理業務の総点検を行うなかで、障害をもつ子どもを選別すること、あるいは障害をなくすことそれ自体を、批判・懐疑の対象にしていく。

◆報告原稿

 時間もありませんので、早速、本題に入らせていただきます。なお、本報告原稿の原文を、立岩真也さんのHPに載せてもらっています(「原文」というファイル)。詳細は、そちらを参考にしてもらえると幸いです。

1 はじめに
1.1 研究目的
 われわれは、専門家批判というと、1970年代以降の障害者解放運動や自立生活運動による専門家批判を想起しがちだが、当の専門家による専門家批判がなかったわけではありません。1969年5月の日本精神神経学会金沢大会を契機として、いくつかの精神医学関連学会では学会改革運動が展開されます。
 とりわけ、本報告では、精神医学関連学会の学会改革運動のなかでも、日本臨床心理学会の学会改革運動に光を当てたいと思います。筆者が日本臨床心理学会の学会改革運動に注目するのは、たとえば、日本精神神経学会の学会改革運動では、精神病院が医療の場になっていないという点から問題にされたのに対して、つまり、医療という専門性それ自体は批判されていないのに対して、日本臨床心理学会の場合には、臨床心理学あるいは臨床心理業務それ自体が患者にとって抑圧的であると捉えられたからです。
 本報告の目的は、日本臨床心理学会の学会改革運動から、これに関わってきたクリニカルサイコロジスト(clinical psychologist、現在は臨床心理士と訳されることが多い)が、いかにして自らの専門性のもつ抑圧性に気づき、臨床心理業務の総点検を行ってきたのかを明らかにすることです。具体的には、1970年代を中心に、文献調査や聞き取り調査から、日本臨床心理学会の学会改革運動のなかでなされた議論の展開を追っていきます。本報告では、日本臨床心理学会の学会改革運動の展開から、彼らが、いかにして自らの営為を批判的に捉え直してきたのか、クライエントである患者や障害児者の立場に立つ実践を行ってきたのかを明らかにしたいと思います。

1.2 研究対象
[省略]

1.3 研究方法
 本研究では、日本臨床心理学会の学会改革運動の展開を追うにあたって、1. 学会が毎月発行する会報『クリニカルサイコロジスト』、2. 学会が年4回発行する機関誌『臨床心理』『臨床心理学研究』、3. 学会編集の書籍等の資料を用いています。
 一方で、筆者は、こうした文献調査と並行して、1970年代に学会改革運動に関わってきたクリニカルサイコロジストに対して、聞き取り調査を行っています。とりわけ、筆者は、学会改革運動の開始以前から学会活動に参加し、その後も、学会改革運動に積極的に関わってきた医療心理職3名を対象に聞き取り調査を行いました。彼らが自らの専門性のもつ抑圧性に気づくようになった契機や過程について、お話を伺っています。

2 臨床心理士資格制定運動――1960年代
 1964年6月に、日本臨床心理学会が設立されます。理事会のもとに、事務局、研究局、編集局が置かれるほか、他に類を見ない組織として、就職の斡旋、会員の社会的地位・経済的地位の向上のための活動、臨床心理士資格問題への取り組み等を行う職能局が設置されます。すなわち、日本臨床心理学会は、科学としての臨床心理学の発展を目指す学術的機能と、クリニカルサイコロジストの身分保障を目指すギルド的機能をともに含む、学術兼職能団体として結成されたのです。
 その後、日本臨床心理学会は、1965年5月に開かれた職能局の委員会で、「心理技術者資格認定機関設立準備会の推進力になる方針を確認」(CP紙 1965.7.25: 1)するなど、次第に臨床心理士資格制定運動の中心を担っていきます。

3 学会改革運動のはじまり――1970年代・1
3.1 名古屋大会から学会改革委員会成立まで
3.1.1 臨床心理士資格制度の見直し
 1960年代後半、精神医学関連学会では学会改革運動の気運が高まっていました。一方で、日本臨床心理学会では、1969年10月の日本臨床心理学会名古屋大会で、臨床心理士資格制度を根本的に見直す動きを契機として、学会改革運動が開始されます。とりわけ、臨床心理士資格の制度化に批判的であったのが、医療心理職の会員でした。
 第1に、心理技術者資格認定委員会の発行する臨床心理士資格は、現場で働くクリニカルサイコロジストの待遇改善になんら寄与しないことが問題にされます。たとえば、医療心理職の岩佐京子さんは、臨床心理士資格の取得要件として、修士課程修了は非現実的であるとして、「1. 大学卒業、2. 臨床経験2〜3年、3. 国家試験」(CP紙 1966.11.25: 4)を要求し、また法律上の根拠のない民間資格では、社会的な通用力も強制力ももたないことを指摘しています。
 第2に、心理技術者資格認定委員会の発行する臨床心理士資格が、クリニカルサイコロジストの身分保障につながらないばかりか、クライエントである患者や障害児者の人権を守ることにもつながらないことが問題にされます。たとえば、「元来、資格とは、専門家がその業務を遂行するにあたって必要な条件――能力と責任――を満しているということの『しるし』であり、……自分達自身のそれら[=社会的地位や身分の保障、業務の独占]のために資格が存在するのではない」(CP紙 1969.9.25: 4)といった批判がなされます。

3.1.2 討論集会グループによる批判
 その後、若い会員を中心とする集まりである討論集会グループは、全国各地で討論集会運動を展開し、理事や理事会に対する批判を行っていきます。彼らは、名古屋大会の問題意識を継承し、より突き詰めた自己批判の議論を展開します。
具体的には、彼らの一部は、理事の多くが、臨床心理学あるいは臨床心理業務がそれ自体として、クライエントにとって抑圧的なものであることを十分に認識していないことを批判します。たとえば、「Cl[=クライエント]のためと称しながら実のところClをうら切ることによってのみ[クリニカルサイコロジストの]専門性が保証されている」(CP紙 1970.1.25: 4)といったように、理事や理事会が主張する「クリニカルサイコロジストの資質の向上および身分の保障」と「クライエントの人間性の回復」とが、両立しないことが指摘されます。
 こうして討論集会グループによって、理事や理事会に対するさらなる追及が行われ、1971年11月の東京家政学院大会では、全理事に対する不信任案が可決され、学会内に学会改革委員会が成立します。

3.2 自らの専門性のもつ抑圧性の気づき
 では、個々の医療心理職は、いかにして自らの専門性のもつ抑圧性に気づいていくのでしょうか。時間がありませんので、聞き取りデータは読み上げず、要点のみを確認します。

3.2.1 渡部淳氏の場合

[以下、渡辺淳さんの聞き取りデータ、読み上げません]
狭い部屋のなかでテストをやったり、[診断に必要な]資料を作るのが仕事。外に子どもを連れて出て行くのは仕事としてではなく、こちらの勝手としてやった。そんなことをやるよりは、新宿御苑に行こう、公園に行こうとやりだしたから、好き放題。そういうなかで、自閉症というのは自分のことしか関心がないということなんだけど、どんどん違った部分が見えてきたのはほんとね。ところが親の話を聞くと、学校に行ったら、入学時の名前のなかに子どもの名前が書いてあったのに白い紙が貼ってあって消されていたとか、そういう話をどんどん聞くにつれて、社会に何が起きていて僕は何をすることを要請されていたのかということに気づいていくわけですよ。親の話を聞いてというのがひとつだし、知能テストの話に象徴されるみたいに、病院の側から心理の仕事として出されるものというのは、結局分けることなんだよね。・・・・・・心理職の仕事につこうとすると、どうしてもこのくらいの部屋ひとつと、あそこらにあるようなおもちゃと、上司としての医者からのオーダー、「テストしてください」とか、そういうものから抜けられない。だから、俺がどんなに善意をもっていようと、その評価が資料になる。そういうなかで、こういった実感が強くなったんだろうね。

 渡部淳さんは、日本ではじめての就学運動団体である「教育を考える会(がっこの会)」を結成した人です。彼は、当時、国立小児病院の心理検査室に勤務し、自閉症児の治療や親の相談業務に携わっていました。
 渡部さんの場合には、「たまたま上司である医師が自分の仕事を縛らなかった」ことから、自分の仕事の延長上で、自閉症児を病院の外に連れ出して遊ぶ実践を行っています。渡部さんは、この実践を通して、「心理室のなかでは見られなかった側面が見えてきた」「自閉症児は特別な子どもではない」ことを実感したと言います。
また、渡部さんの場合には、勤務する病院が小児科であり、心理テスト、とりわけ知能テストを多く行わざるを得なかったことが、きわめて早い時期に自らの臨床心理業務が障害をもつ子どもの選別に寄与していることを認識させられる契機になっています。

3.2.2 赤松晶子氏の場合
[省略]

3.2.3 鈴木伸治氏の場合

[以下、鈴木伸治さんの聞き取りデータ、読み上げません]
[名古屋大会のときには、]自分のやっていることに対して自己批判をするというところまでいっていない。技術自体は役だつはずなんだけれども、活かされていないというか、技術そのものが患者に対してすごい抑圧的で差別的だということは思っていなかった。……はじめ病院臨床心理懇話会に集まってきた連中というのは、本当にさまざまな人がいて、渡部さんと、あと中井[茲朗]さんという人がいて、彼は赤レンガの一員として東大の若い精神科医と一緒にやっていた人で、医局解体闘争とかの直接的な影響を受けていたんです。ただね、私にとっては、それよりも学会改革委員会ができてから、患者集団を学会に呼んできて、その人たちの生きている世界というか、医者や専門家に対する抗議を聞くということをしてきたんですね。特に、大野[萌子]さんは、現場で触れ合っている患者が同じようなことを感じているんだろうけど言えないようなことを代弁してくれた。言えないんですよね、すぐ保護室という感じになっちゃうから。その影響の方が大きいです。赤松さんもそうでしょうね。渡部さんは[対象が]児童ですからね。大野さんみたいな患者に直接こう、現場で付き合うことはなかったと思う。……自分たちの置かれている状況に対する抗議に衝撃を受けたというよりは、一番は苦しみの深さですよね。われわれの関わりが支えになることもあるけれども、むしろ害になる方が多いという。単にわかってもらえないというのなら、益もないけど害もそれほどない。特に、苦しんでいる世界に生きる患者の世界が、常識とか心理学的な学問とかの理解をはるかに超えた深刻さをもっている。私たちがよく苦しんでいる人を支えてあげるみたいな、そういうレベルのものではないのですね。大野さんレベルの深刻な苦しみになると。だから、患者にとってよかれと思って言ったことが、ものすごい傷を負わせてしまうということがけっこうあるんですよね。それにわれわれは気がつかない。

 鈴木伸治さんは、当時、国立国府台病院の精神科に勤務し、精神病患者を対象とする臨床心理業務に携わっていました。赤松さんと同様に、患者の側からの告発が、自らの専門性のもつ抑圧性に気づくきっかけになっています。
 とりわけ、鈴木さんが、患者からの告発を受けて衝撃を受けたのは、患者が抱えている「苦しみの深さ」に対してだったと言います。鈴木さんは、「苦しんでいる世界に生きる患者の世界は、常識とか心理学的な学問とかの理解をはるかに超えた深刻さをもっている」。それゆえに、「患者にとってよかれと思って言ったこと」が、かえって患者に「ものすごい傷を負わせてしまうこと」が多いと指摘します。このことは、心理テストのみならず、心理治療もまた、患者にとって、容易に抑圧的なものになり得ることを示しています。

4 学会改革運動の展開――1970年代・2
4.1 臨床心理業務の総点検へ
 こうして彼らは、クリニカルサイコロジストの専門性が、クライエントに対して、いかなる機能・効果を発揮してきたのかを明らかにする点から、臨床心理業務の総点検を開始します。

4.2 心理テストの総点検――障害をもつ子どもを振り分けることをめぐって
 臨床心理業務のなかで、まず総点検の対象になったのが心理テスト、とりわけ知能テストでした。
 知能テストに対する批判としてもっとも中心的なものは、知能テストが障害をもつ子どもの選別のために用いられていることを問題にするものでした。彼らは、仮に知能テストによる評価、あるいは障害をもつ子どもが学校の授業に付いていけないという事実を認めざるを得ないとしても、その評価や事実は、障害をもつ子どもの生活の場を決める根拠にはならないと主張します。そして、彼らは、障害をもつ子どもの生活の場を決めるにあたって、発達やできるようになることを第一に置く必要はないと言います。むしろ、周りの子どもが障害をもつ子どもの存在を知ること、その経験を保障することが教育であると言います。

4.3 心理治療の総点検――障害をなくすことをめぐって
 心理テストが、1970年代前半から総点検の対象になったのに対して、臨床心理業務のもうひとつの柱である心理治療は、1970年代後半以降、本格的に総点検の対象になります。
 日本臨床心理学会の心理治療の総点検は、ロジャースの非指示療法など、狭義の心理治療の技術だけではなく、治療総体に及んでいます。ここでは議論を簡便にするために、障害の治療に限定します。

4.3.1 周囲・社会にとって障害はない方がよい場合
[省略]

4.3.2 障害者本人にとって障害はない方がよい場合
 障害者本人にとって障害はない方がよい場合についても、障害をなくすことの是非をめぐって議論がなされています。彼らは、障害の早期発見・治療をテーマとする議論のなかで、障害者本人が治療を望む場合であっても、その「『障害児・者』自身の願い」はそのまま受け入れられないと言います。
 理由はいくかあります。ここでは、ひとつだけ確認します。
 障害の治療の前提に置かれる「健常であった方がよい」「健常であるべき」という把握のもつ効果として、すでに生きている障害をもつ子どものありのままの姿が不可視化されること、また障害をもつ子どもの存在が否定的に捉えられることが問題にされます。たとえば、当時、母子療育通園施設で働いていた亀口公一さんは、早期療育の実践の場であるプレイルームをブラックボックスにたとえて、「早期療育では、あるべき姿は常に未来にあり、そうでない不完全で否定的な存在が、いつも療育者の目の前を走りまわっている……ブラックボックスのなかに彼らを放り込んだ『能力主義』や『発達観』は、そのなかで何が行なわれているのか、何が実現しているのか、まったく興味がない」(亀口 1981: 36-7)と言います。障害の早期発見・治療の危険性は、「そのひとりの子どもが今生きていることをどのように大切にするのか、そのありのままの生き方をどう認めるのかといったことがないがしろにされる」(川端 1981: 52)ことにあると言います。

5 おわりに
 本報告では、日本臨床心理学会の学会改革運動の展開から、クリニカルサイコロジストが、いかにして自らの専門性のもつ抑圧性に気づき、臨床心理業務の総点検を行ってきたのかを明らかにしてきました。
 彼らが、自らの専門性のもつ抑圧性に気づく契機や過程は、個々の医療心理職によって置かれている職場環境が異なることから、一様ではありません。だが、患者に寄り添い、患者の内面に深く関わるという職務特性が、彼らに自らの加害性や無力さを強く実感させる契機になっている点は共通しています。
 また、1960年代と1970年代の運動を比較すると、1960年代には、もっぱら自らの身分保障のために臨床心理士資格の制度化が目指されたのに対して、1970年代には、クライエントの立場にたつことから、自らの専門性に対する批判的な問い直しがなされています。1970年代以降、彼らは、自らの臨床心理業務を総点検することによって、少しでもクライエントにとって抑圧的ではない関わりを目指してきたのです。


◆報告原稿(原文) ワード


自らの専門性のもつ抑圧性の気づきと臨床心理業務の総点検
――日本臨床心理学会の1960/70――

堀 智久(筑波大学)
thori@social.tsukuba.ac.jp(@→@)


1 はじめに

 1.1 研究目的
 1970年代以降の障害者解放運動や自立生活運動が生みだした重要な思想のひとつに、専門家批判の思想がある。たとえば、定藤丈弘は障害者の自立生活について、「自立理念の共通の原動になっているのが、医療・福祉スタッフなどの専門家主導のこれまでのリハビリテーション施策が障害者の反福祉や依存性の助長につながったとする『反プロフェッショナリズム』の思想であることは指摘するまでもない」(定藤 1993: 19)と述べる。彼らは、専門家主導による施策の策定やサービスの提供を批判し、当事者は障害者であること、依存的で受動的な存在として扱われるのではなく、消費者としてサービスを受けることを主張してきた。こうした専門家批判の思想は、これまで過度の専門家への依存や服従が多くの害毒をまき散らしてきたことを明るみにし、障害者主体のサービスの構築を後押しした点で、重要な意義をもつものであった。
 一方で、1970年代以降の障害者解放運動や自立生活運動による専門家批判とは別に、当の専門家による専門家批判がなかったのではない。というよりも、むしろ、展開の順序から言えば、障害者解放運動や自立生活運動もその影響を受けている大学闘争、とりわけ、東大闘争は、1968年1月、東大医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対したことから始まる(註1)。1968年10月には、精神科医局の解体を主張する東大精神科医師連合が結成され、東大を含めたいくつかの大学での精神科闘争は、1969年1月の安田講堂陥落以後も一層熾烈を極めていく。東大精神科では、1969年9月から東大精神科医師連合による病棟の自主管理が開始され(註2)、これらの医学部闘争と並行して、精神医学関連学会でも学会改革運動が開始される。
 精神医学関連学会での学会改革運動は、1969年5月20日の第66回日本精神神経学会金沢大会を契機としている。だが、この日本精神神経学会に限ってみても、それ以前に、その前触れとなる動きがなかったのではない。ひとつに、「十分な訓練をうけ熟練した精神科医の育成」(日本精神神経学会 1968: 381)を目指す専門医制度をめぐる議論があり、この時期、医師臨床研修制度に対する批判の動きが高まりを見せるなかで、1968年3月、日本精神神経学会は、上の登録医制度とは別に、第65回長崎大会で専門医制度に相当する「学会認定医制度」の試案を理事長名で提出する。これに対して、主に若手の会員によって、「学会認定医制度」は、養成期間中の医師の身分をなんら保障するものではなく、むしろ医師の職階制につながるものでしかないとして批判が展開される。もうひとつに、刑法改正に伴う保安処分の導入をめぐる議論があり、1965年10月、日本精神神経学会法改正問題研究委員会は、学会誌上で「危険な常習犯人に対する保安処分……さらに労働嫌忌者に対する労働処分、保護観察などの非収容処分、去勢の措置なども考慮すべき」(日本精神神経学会 1965: 1054)とする「刑法改正に関する意見書案」を発表する。これに対して、会員から批判が出され、1966年には、3回にわたって「刑法改正問題に関する意見交換会」が開催され、討議が重ねられる(日本精神神経学会 1966: 928-30; 1967: 115-6)。すなわち、後に富田三樹生が、「[1969年の金沢大会は、]いわゆる医局講座制解体闘争[=医学部のヒエラルキー組織に対する批判]と、精神衛生法体制批判・解体闘争[=治安的収容政策に対する批判]の交わるところで闘われた」(富田 [1989] 2000: 17)と述べるように、日本精神神経学会の学会改革運動の起点には、医師の身分保障の問題と患者の人権の問題という2つの観点からの問題意識が存在している。
 こうして3日間にわたって開催された金沢大会では、大会の日程すべてを議事に費やし、研究報告はなされず、評議員会では旧理事に対する不信任案が可決される。また、その後も毎年、日本精神神経学会の大会ではシンポジウムに重点を置くことが定例化され、戦後の精神医療の問い直しが基本テーマに据えられる。たとえば、対外的活動として、問題を起こした精神病院に対する調査、危険な人体実験や精神外科に対する批判的な取り組み、保安処分新設に反対する総会決議等の活動がなされている。これら一連の活動は、「従来、せまい意味での研究に偏りがちであった学会のあり方から、いまだ不十分ながら社会の中で患者のおかれている現状に目を向け、患者の人権という観点から問題を見直」(吉田 1982: 101)そうとするものであったと言える。
 これに対して、本稿では、精神医学関連学会の学会改革運動のなかでも、とりわけ、自らの専門性に対してきわめて自己批判的な実践を行ってきた日本臨床心理学会の学会改革運動に光を当てる。たとえば、上の日本精神神経学会の学会改革運動のなかで、その運動の中心を担ってきた小沢勲は、「金沢総会以降の20年をふり返って」と題する特別シンポジウムの場で、「ここまでの私たちの運動は精神病院を収容所から医療の場にするという1点に集約されるものであった、それ以上でもそれ以下でもなかった」(小澤 1989: 919-20)と述べる。すなわち、ここでは「精神病院を医療の場にすること」こそが「患者の人権を守ること」につながるものであり、「本当に治していかなければならない患者さんたちから、低医療費政策という形で医療が完全に奪われて」(守屋 1999: 72-3)いることが問題にされている。別の見方をすれば、ここでは患者に対する医療的な関わりそれ自体は、否定されるべき対象としてあるのではない。一方で、日本臨床心理学会の学会改革運動の場合には、臨床心理学あるいは臨床心理業務それ自体が患者にとって抑圧的であると捉えられたのであり、したがって、彼らは、自らの臨床心理業務それ自体を批判的に点検する作業を行っていく。
 本稿の目的は、日本臨床心理学会の学会改革運動から、これに関わってきたクリニカルサイコロジスト(註3)が、いかにして自らの専門性のもつ抑圧性に気づき、臨床心理業務の総点検を行ってきたのかを明らかにすることである。具体的には、1970年代を中心に、文献調査や聞き取り調査から、日本臨床心理学会の学会改革運動のなかでなされた議論の展開を追う。本稿では、日本臨床心理学会の学会改革運動の展開から、彼らが、いかにして自らの営為を批判的に捉え直してきたのか、クライエントである患者や障害児者の立場に立つ実践を行ってきたのかを明らかにしていく。

 1.2 研究対象
 日本臨床心理学会は、1964年6月に設立される。1970年代当時、日本臨床心理学会は、臨床心理学を専門とする唯一の国内学会であった。現在、心理学関連学会のなかでももっとも会員数の多い日本心理臨床学会は、1982年に設立されており、これはかつて日本臨床心理学会で活動していた会員のうち、臨床心理士資格の制定に積極的であったものが新しく結成したものである。日本臨床心理学会は、設立当初、主に臨床心理学を専門とする研究者、および現場で働くクリニカルサイコロジストを中心に構成されており、学会改革委員会成立以降は、現場で働くクリニカルサイコロジストを中心に学会の運営がなされている。日本臨床心理学会の会員数は、1964年時点で513名、1967年時点で1202名、1969年時点で1430名、1970年時点で1646名、1975年時点で847名であり、学会改革委員会成立以降、激減している(日本臨床心理学会運営委員会 1975: 12)。
 言うまでもなく、クリニカルサイコロジストとは、臨床心理学を学問的基盤に、クライエントの心理的問題に対処することを職業とするものである。たとえば、病院に勤務する医療心理職の場合には、一般に医師の指示を受けて心理テストや心理治療を行い、診断に必要な資料を作成することが、その中心的な業務となる。1966年6月に日本臨床心理学会研究局が会員に対して行った調査によれば、クリニカルサイコロジストが日常的にもっともよく行う臨床心理業務として、心理テストでは知能テストや投映法テスト(とりわけ、ロールシャッハ)が、また心理治療では来談者中心療法や遊戯療法が、その上位を占めている(日本臨床心理学会研究局 1969: 56-7)。また、クリニカルサイコロジストの活動領域は、医療、福祉、司法矯正等と広範囲に及んでいるが、玉井によれば、1966年時点で、全国に存在するクリニカルサイコロジストのうち、児童相談所心理判定員300名余り、少年鑑別所・刑務所技官200名以上、医療心理職100名以上(ただし非常勤を含む)と推定されている(玉井 1967: 384-5)。さらに、1968年12月に藤土らが会員に対して行った調査では、精神科に勤務する医療心理職のうち、全体の約30%が非常勤職であることが明らかにされている(藤土ら 1970: 43-4)。
 
 1.3 研究方法
 本研究では、日本臨床心理学会の学会改革運動の展開を追うにあたって、1. 学会が毎月発行する会報『クリニカルサイコロジスト』、2. 学会が年4回発行する機関誌『臨床心理』『臨床心理学研究』、3. 学会編集の書籍、4. 病院臨床心理懇話会が発行する『病臨心ニュース』等の歴史的資料を用いている。このうち、1. 会報『クリニカルサイコロジスト』は、日本臨床心理学会の活動の展開がもっとも詳細に記録された資料であり、学会事務所からそのすべての号の複写を入手した。また、2. 機関誌『臨床心理』『臨床心理学研究』および3. 学会編集の書籍は、学会改革運動での議論の展開を把握できる資料であり、大学図書館に所蔵されたものを用いている。4. 『病臨心ニュース』は、1969年から1971年までのあいだ、病院臨床心理懇話会が発行したガリ版刷の小冊子であり、当時の医療心理職が置かれていた職場状況や理事会に対する不満・批判が記録されている。この『病臨心ニュース』は、当時病院臨床心理懇話会のメンバーであった会員から入手した。筆者は、これらの資料を、各時代において、学会がもっとも力を注いでいた活動を中心に、具体的には、1960年代には臨床心理士資格制定運動、1970年代には心理テスト・心理治療の総点検の議論を中心に読み込んでいった。
 一方で、筆者は、こうした文献調査と並行して、1970年代に学会改革運動に関わってきたクリニカルサイコロジストに対して、聞き取り調査を行っている。なぜなら、1970年代における日本臨床心理学会は、自らの専門性を批判すること、臨床心理業務を総点検することに多くの労力を費やしており、個々のクリニカルサイコロジストがいかにして自らの専門性の抑圧性に気づくようになったのか、その具体的な契機や過程については、ほとんど記録として残されていないからである。
 したがって、筆者は、学会改革運動の開始以前から学会活動に参加し、その後も、学会改革運動に積極的に関わってきた医療心理職3名を対象に聞き取り調査を行った。聞き取り調査を行うにあたって医療心理職を被調査者としているのは、学会内での医療心理職の問題意識こそが理事会に対する突き上げの発端になり、学会改革運動の原動になっているからである。筆者は、ある会員から、当時学会改革運動に関わってきた会員のなかで、今回の調査にふさわしい人を紹介してもらい、その後個別にインタビュー協力の打診を行った。彼らの全員が、筆者の調査活動に協力的であり、好意的であった。実際に調査を行うにあたっては、事前に被調査者がこれまで残してきた資料を読み込み、そのうえで2時間程度、自らの専門性を批判するようになった契機や過程について、話を伺った。聞き取り調査の実施時期は、2008年7月から2008年10月までである。

2 臨床心理士資格制定運動――1960年代

 日本では、臨床心理士資格の検討は、日本応用心理学会の先導のもと、1950年代から始められている。その後、1960年に日本教育心理学会が、「心理技術者資格認定機関に関する規定案」を発表し、日本応用心理学会、日本精神神経学会等と協力体制を作って、心理技術者資格認定機関の設立を目指す。1962年には、日本応用心理学会、日本教育心理学会に日本心理学会を加えた3学会が、心理技術者資格認定機関設立準備会の創設を呼びかけ、1963年12月14日に17学会24委員の参加を得た第1回心理技術者資格認定機関設立準備協議会(後に協議が取れて準備会)を開催する。上の3学会が発表した「認定機関に関する規定要綱(案)及び認定に関する規定要綱(案)」によれば、この心理技術者資格認定機関の目的は、心理技術者の資格を定めることによって、「各種領域において利用されるべき心理学的知識・技術を進歩させ、それらの業務にあたるものの資質の向上、職場の開拓、地位の確保、待遇の向上をはかる」(日本心理学会 1962: 51)ことであった。また、心理技術者資格認定機関設立準備会を設立するにあたって、他の精神医学関連学会との折衝も同時に行われていった。
 心理技術者資格認定機関設立準備会は、1966年7月に最終報告を発表し、資格名称を「臨床心理士」として独自の認定機関の設立を提案する。この臨床心理士資格は、医療、福祉、教育等の領域で、臨床心理業務に従事しているものに共通な資格であり、申請のための資格要件を、「修士課程修了プラス1年の臨床経験(経過規定では学部卒プラス3年の臨床経験)」とした(CP紙 1966.8.25: 1)(註4)。また、1967年11月25日には、最終報告を踏まえて、心理技術者資格認定委員会設立総会が開催され、1969年10月1日の同委員会の業務開始と1969年12月1日の臨床心理士資格認定の受付開始が計画される。
 一方で、1964年6月に関西臨床心理学者協会と病院臨床心理協議会が発展解消し、日本臨床心理学会が設立される。日本臨床心理学会会則によれば、学会の目的は、「臨床心理学にたずさわる人々の協同と連けいにより、その資質の向上と利益を図り、科学としての臨床心理学を進歩発展させること」(第3条)であった。理事会のもとに、事務局、研究局、編集局が置かれるほか、とりわけ、他に類を見ない組織として、就職の斡旋、会員の社会的地位・経済的地位の向上のための活動、臨床心理士資格問題への取り組み等を行う職能局が設置される。すなわち、日本臨床心理学会は、科学としての臨床心理学の発展を目指す学術的機能と、クリニカルサイコロジストの身分保障を目指すギルド的機能をともに含む、学術兼職能団体として結成される。
 その後、日本臨床心理学会は、1965年5月に開かれた職能局の委員会で、「心理技術者資格認定機関設立準備会の推進力になる方針を確認」(CP紙 1965.7.25: 1)するなど、次第に臨床心理士資格制定運動の中心を担っていく。たとえば、臨床心理士の研修制度の具体化については、学会内で「まず臨床心理学会自体として、研修、現場実習の制度を確立し・・・・・・必要な時期にはいつでも準備会の要請にこたえられる中核となるようにする」(CP紙 1965.7.25: 1)という方針が確立される。事実、日本臨床心理学会は、その第一歩として、1966年7月から、学会公認のスーパーバイザーを認定し研修するスーパーヴィジョン研修を実施している。また、全国各地での研修会、米国留学の斡旋、クリニカルサイコロジストの現状調査を行うなど、臨床心理士資格制定のためのキャンペーン的な活動を展開していく。

3 学会改革運動のはじまり――1970年代・1

3.1 名古屋大会から学会改革委員会成立まで

3.1.1 臨床心理士資格制度の見直し
 心理学関連学会を中心に臨床心理士資格の制度化が進められていた1960年代後半、精神医学関連学会では学会改革運動の気運が高まっていた。日本精神神経学会での学会改革運動の発端については、1.1ですでに見たが、一方で、日本臨床心理学会では、臨床心理士資格制度を根本的に見直す動きを契機として、学会改革運動が開始される(註5)。1969年10月12日、第5回日本臨床心理学会名古屋大会の前日、常任理事会の席上で「第5回大会討論集会準備会一同」の署名で討論集会開催要望書が提出され、「[名古屋大会を、]臨床心理士の資格制度に関する問題について、会員の深い論議と相互理解の場にする」ために、「全大会期間を参加者一同による討論集会に切り換えること」が提案される(CP紙 1969.11.25: 1)。1969年10月13日から2日間にわたって開催された名古屋大会では、日程の大半を議事に費やし、2日目の研究報告はなされず、心理技術者資格認定委員会に対して認定業務の停止を求める「心理技術者資格認定に関する要望書」の提出が決議されている(註6)。
 では、この名古屋大会の討議のなかで、臨床心理士資格制度は、いかなる点で根本的な見直しを迫られたのであろうか。とりわけ、討議に参加した会員のなかでも、臨床心理士資格の制度化に批判的であったのが、医療心理職の会員であった。
 ひとつに、すでに名古屋大会以前から指摘されてこなかったのではないが、心理技術者資格認定委員会の発行する臨床心理士資格は、現場で働くクリニカルサイコロジストの待遇改善になんら寄与しないことが問題にされる。たとえば、医療心理職の岩佐京子は、臨床心理士資格の取得要件として、「1. 大学卒業、2. 臨床経験2〜3年、3. 国家試験」(CP紙 1966.11.25: 4)を要求し、法律上の根拠のない民間資格では、社会的な通用力も強制力ももたないことを指摘している。また、資格の発行にあたって、審査基準や研修制度のビジョンが明確ではなく、「これからも十分な教育訓練の場がなく、現場の中での自己研修を強いられる」(CP紙 1970.1.25: 4)だろうことが問題にされる。たとえば、研修制度については、スーパーバイザーを誰にするかさえも、心理技術者資格認定委員会内で統一の見解には至ってはおらず、「結局、実習という名目のただ働きをさせるしかない」「医学部闘争の発端であったインターン制度をわざわざこれからつくることになる」(CP紙 1966.11.25: 4)のではないかといった疑問が投げかけられている。そして、多くの理事はすでに安定した地位や身分が与えられており、「資格認定を一番必要としているのは、私立の施設・病院等で働き、飯を喰っている者たちではない[か]」(CP紙 1969.2.25: 1)として、むしろ現状では、臨床心理士資格制度は、「[臨床心理学講座・臨床心理学科の新設をねらう]理事者層の権益拡大のため」(日本臨床心理学会運営委員会 1975: 6)のものでしかないことが批判される(註7)。
 もうひとつに、心理技術者資格認定委員会の発行する臨床心理士資格が、クリニカルサイコロジストの身分保障につながらないばかりか、クライエントである患者や障害児者の人権を守ることにもつながらないことが問題にされる。「元来、資格とは、専門家がその業務を遂行するにあたって必要な条件――能力と責任――を満しているということの『しるし』であり、資格を与える主体は、専門家自身ではなく、まさに『クライエント』の側にある。資格を与えられることによって生じる一定の地位、身分の保障、業務の独占などは、あくまでも結果であって、自分達自身のそれらのために資格が存在するのではない」(CP紙 1969.9.25: 4)。したがって、臨床心理士資格を制定するにあたっては、まず「クライエントのための資格」という原点に立ち戻って、クリニカルサイコロジストがクライエントに対して果たすべき役割や責任を明確にすべきであると主張される。すなわち、日本臨床心理学会の学会改革運動の起点には、日本精神神経学会と同様、クリニカルサイコロジストの身分保障の問題とクライエントである患者や障害児者の人権の問題という2つの観点からの問題意識が存在している。

3.1.2 討論集会グループによる批判
 その後、若い会員を中心とする集まりである病院臨床心理懇話会や心理臨床家会議等の討論集会グループは、全国各地で討論集会運動を展開し、理事や理事会に対する批判を展開する。たとえば、病院臨床心理懇話会は、医療心理職を中心とする集まりであり、名古屋大会を契機に発足する。彼らは、現場の声に耳を傾けない理事や理事会に対して不信を表明しながら、自らの抱える問題について、具体的に語りあえる学会にしていこうと呼びかけていく。月1回の例会をもち、医療心理職が日々直面している問題について、具体的に検討しあうなかで、自らの臨床心理業務に対する見直しを行っている。一方で、心理臨床家会議は、名古屋大会の討論集会準備会が発展したものであり、他の精神医学関連学会での学会改革運動にも参加するなかで、現場の声をより具体的に学会に反映させていくための活動を行っていく。関西では、関西地区討論集会が名古屋大会の問題提起を継承し、独自の活動を展開している。
 一方で、名古屋大会での問題提起やその後の批判を受けて、理事や理事会側にこれまでの学会活動の有り様を見直そうとする動きがなかったのではない。たとえば、理事会が作成した昭和45年度事業計画案には、「クリニカルサイコロジストの研修、養成委員会」や「クライエントの権利を守るための委員会」等、クリニカルサイコロジストの身分保障やクライエントの人権の問題に取り組むための諸委員会の設置が盛り込まれている。また、当時日本臨床心理学会の会長であった戸川行男は、1970年12月13日の理事会で、「若い会員はみずからCl[=クライエント]の側に立って理事を批判しているの[であり、]・・・・・・あらゆる職場でClの疎外という問題が起きているのかどうかを学会の全体の中で討論することを、当面の事業とするべき」と述べている(CP紙 1971.1.25: 1)。
だが、こうした理事や理事会側の対応は、結果的には、上の討論集会グループによって、受け入れられることはなかった。彼らは、医療心理職の職務特性にも関わり、名古屋大会の問題意識を継承しながらも、より突き詰めた自己批判の議論を展開していく。
 ひとつに、彼らは、理事の多くが、精神病院の非人間的な環境を十分に認識していないこと、またパラメディカル(註8)でしかない医療心理職の置かれた状況を十分に認識していないことを批判する。たとえば、保護室への隔離や過剰な薬物投与など、精神病院という閉鎖的な空間のなかで、患者の人権無視が日常的に行われていることが理解されていないことを問題にする。また、こうした環境を医療心理職が改善しようとしたとしても、「[フロイトやロジャースが前提にするような]1人の患者やクライエントを、1人の臨床家が責任をもって引き受け、それ以外の対人関係がほとんどはいってこないような・・・・・・単純な古典的な場にいられるのは、相談関係や大学のある一部、あるいはクリニックの医師のなかのごく一部の人たちであり、・・・・・・大部分の臨床家はもっと複雑な構造をもった場の中におかれている。・・・・・・こういう場では、患者の問題をなんとかしようと、直接彼に働きかけられる範囲はせばめられ、・・・・・・患者に奉仕する前に、医師や看護者などに奉仕せざるを得ないことが多い」(鈴木 1971: 11)。ここでは臨床心理学あるいは臨床心理業務それ自体が批判の対象になっているのではないが、医療心理職は、医師や看護者とは異なり、患者に対する具体的な処遇の権限をもたないがゆえに無力であることが指摘されている。
 もうひとつに、彼らは(精確には、彼らの一部は)、理事の多くが、臨床心理学あるいは臨床心理業務がそれ自体として、クライエントにとって抑圧的なものであることを十分に認識していないことを批判する。たとえば、病院臨床心理懇話会は、1971年11月27日の第7回臨床心理学会東京家政学院大会で予定されていたシンポジウムのテーマについて、「『心身障害児の療育』と『教育状況における障害と差別』というテーマが全く独立し、併行して行いうる課題として設定されてい」(CP紙 1971.9.25: 5)ることに対して、疑問を投げかけている。すなわち、心身障害児の療育の場面において、すでに心身障害児に対する隔離や差別の可能性が含まれているのであり、「そこを抜きにした課題設定の枠の中で話しあうことを強制され」(CP紙 1971.9.25: 5)ていることを問題にする。また、大学闘争の影響を受けていた渡部淳は、「[クリニカルサイコロジストは、]教育投資に価しない児童を可能な限り早期に発見し、登録管理し市民権をハク奪して収容所へと送りこむための選別を行なう専門職として期待されて」おり、この点で、「Clのためと称しながら実のところClをうら切ることによってのみ専門性が保証されている」(CP紙 1970.1.25: 4)と述べる。ここでは理事や理事会が主張する「クリニカルサイコロジストの資質の向上および身分の保障」と「クライエントの人間性の回復」とが、両立し得ないことが指摘されている。
 こうして討論集会グループによって、理事や理事会に対するさらなる追及が行われ、東京家政学院大会の直前には、病院臨床心理懇話会の呼びかけによって、学会改革委員会準備会が結成される。学会改革委員会準備会は、会長及び全理事に「緊急常任理事会、理事会開催要望書」を提出し、「1. 今大会を総会にし、そこで2. 全理事は辞任表明を行い、3. 学会再建のために改革委員会を設立すること」(CP紙 1972.1.10: 1)を提案する。また、他の討論集会グループも、同様の趣旨の要望書を理事会に提出している。1971年11月27から2日間にわたって開催された東京家政学院大会では、全理事に対する不信任案が可決され、「心理臨床にたずさわる各自の置かれている現場の状況や、そこで直面している諸問題をほりさげ、かつそれに如何に対処していくかを模索する」(CP紙 1972.1.10: 5)学会改革委員会が成立する。

3.2 自らの専門性のもつ抑圧性の気づき
 では、彼らは、いかにして自らの専門性のもつ抑圧性、すなわち、臨床心理学あるいは臨床心理業務それ自体がもつ抑圧性に気づいていくのだろうか。結論を先取りすれば、個々の医療心理職によって、置かれている職場環境や中心に行っている臨床心理業務は異なっており、したがって、彼らが、自らの臨床心理業務について自己批判するようになる契機や過程もまた、一様ではない。3.2では、医療心理職3名を対象とする聞き取り調査の結果から、彼らが、いかにして自らの患者に対する関わりの有り様を内省するようになったのかを明らかにしていく。

3.2.1 渡部淳氏の場合
 渡部淳(註9)は、当時、国立小児病院の心理検査室に勤務し、自閉症児の治療や親の相談業務に携わっていた。渡部は、名古屋大会の契機となった討論集会準備会の発起人の1人であり、きわめて早い時期から、臨床心理士資格がクライエントのためにならないこと、「[臨床心理士資格は、クライエントを裏切る]うらぎりのライセンス」(CP紙 1970.1.25: 4)であることを主張している。渡部は、臨床心理士資格やクリニカルサイコロジストの専門性のもつ抑圧性に気づいたきっかけについて、次のように語っている。

 狭い部屋のなかでテストをやったり、[診断に必要な]資料を作るのが仕事。外に子どもを連れて出て行くのは仕事としてではなく、こちらの勝手としてやった。そんなことをやるよりは、新宿御苑に行こう、公園に行こうとやりだしたから、好き放題。そういうなかで、自閉症というのは自分のことしか関心がないということなんだけど、どんどん違った部分が見えてきたのはほんとね。ところが親の話を聞くと、学校に行ったら、入学時の名前のなかに子どもの名前が書いてあったのに白い紙が貼ってあって消されていたとか、そういう話をどんどん聞くにつれて、社会に何が起きていて僕は何をすることを要請されていたのかということに気づいていくわけですよ。親の話を聞いてというのがひとつだし、知能テストの話に象徴されるみたいに、病院の側から心理の仕事として出されるものというのは、結局分けることなんだよね。・・・・・・心理職の仕事につこうとすると、どうしてもこのくらいの部屋ひとつと、あそこらにあるようなおもちゃと、上司としての医者からのオーダー、「テストしてください」とか、そういうものから抜けられない。だから、俺がどんなに善意をもっていようと、その評価が資料になる。そういうなかで、こういった実感が強くなったんだろうね。(註10)

 国立小児病院では、当時、自閉症児を対象とする昼間外来治療(デイケア)を行っており、渡部は、この昼間外来治療の延長上で、自閉症児を病院の外に連れ出して遊ぶ実践を行っている。渡部によれば、それが可能であったのは、「たまたま上司である医師が自分の仕事を縛らなかった」からであり、また「[当時、]国立小児病院ができたばかりで、わりと自由にやれる雰囲気があった」(註11)からだという。また、別のところで、渡部は、これまで自閉症児と週に1回1時間程度会うだけであったのに対して、昼間外来治療を通して週に2回計10時間程度、「しかも食事や排泄や散歩やさまざまな働きかけのなかで、いっしょに過ごしてみると、・・・・・・自閉症児とはこんな子どもとして自分のなかにつくり上げてきたそれまでの概念が、ガラガラと崩れてしまった」(渡部 1971: 193)と述べている。渡部の場合には、まず、自閉症児を病院の外に連れ出して遊ぶ実践を通して、「心理室のなかでは見られなかった側面が見えてきた」「自閉症児は特別な子どもではない」(註12)ことを実感したことが、障害を理由に分けることへの問題意識につながっている。
 もうひとつに、渡部の場合には、勤務する病院が小児科であり、心理テスト、とりわけ知能テストを多く行わざるを得なかったことが、きわめて早い時期に自らの臨床心理業務が障害をもつ子どもの選別に寄与していることを認識させられる契機になっている。4.2で見るように、臨床心理業務の総点検のなかで、まず批判の対象になったのが心理テスト、とりわけ知能テストであり、このことからもわかるように、渡部は、自らの臨床心理業務のもつ抑圧性について、きわめて敏感にならざるを得ない立場にいたと言える。その後、渡部は、病院内でのみ患者と関わるのでは、病院側から求められる役割・機能から抜けられないという理由から、1971年3月に就学運動団体「教育を考える会(がっこの会)」を結成し、そのなかで親たちに就学時健診の拒否を呼びかけていく。

3.2.2 赤松晶子氏の場合
 赤松晶子(註13)は、東京足立病院の精神科に勤務し、これまで病院独自の精神医療の改善に取り組んできた。赤松は、学会改革委員会成立前から病院臨床心理懇話会の活動に関わり、その後も学会改革運動の中心を担っていく。赤松は、3.2.1で見た渡部淳にも言及しながら、自らの臨床心理業務のもつ抑圧性に気づいた時期やきっかけについて、次のように語っている。

 名古屋大会のときにはまだ、自分は患者さんに対していいことをしていると思い続けていて。それで大会のときに「[自分の研究]発表の機会はないんですか」と言ったら、渡部淳さんに睨まれて。「こいつ、何を言っているんだ」なんていう感じで[笑い]。大学でお勉強をしている人たちはだんだん気づかされていくというのはあったと思うけれども、私なんかは気づかされ方がかなり遅くて。確かに、名古屋大会で告発されたことは、精神病院がどんなに暗いか、患者さんが電パチといって電気ショックを受けてどんなに大変な思いをしているか、その大変な状況のなかで心理屋が何をできるかって、そのことはよくわかった。……それから、1973年11月の大会で、[精神病者の]大野萌子さんが、「これから心理テストをします」と、フロアの後ろの方からやって来て、[手製の]テストの紙をみんなに配った。心理屋さんがダーッといる教室で。篠原睦治さんが「拒否します」と言って。そしたら大野さんは、「私たちは拒否できないところで受けてきたんですよ」って。「なんて失礼なことを言うんですか」と。私なんかはうつむいたまま何も言えないという場面があった。「専門家がこうやって私たちを痛めつけてきたのがわからないのか」って。それがショックでした。心理テスト批判というのはわりに早くできたけど、心理治療は少しはいいことをしているんじゃないかって、私なんかはね。でも、[大野さんに言わせれば、]「心理治療も同じですよ」と、勝手に人の心の中に泥靴で入ってきて、人を操作する。……病院に戻ってきても、[病室の]鍵を持ち歩いて、患者さんの前で鍵を出してガシャガシャするのが辛くなるくらい、自分が戸惑って動けなくなる。(註14)

 上の語りに見るように、赤松は、名古屋大会の時点では、精神病院の非人間的な環境やクリニカルサイコロジストの無力さについては十分に認識していたが、他方で、まだ「自分は患者さんに対していいことをしていると思い続けて」いたという。また、別のところで、赤松は、「パラメディカルスタッフとして位置し、管理上やや自由さを持っていたので、心理担当の人間はより患者の気持ちを受けとめ、理解できるところにいるという自己肯定観を捨て切れずにいた」(赤松 1985: 32)と述べている。赤松の場合には、大学闘争の影響をほとんど受けておらず、また小児科に勤務していた渡部とは異なり、知能テストを多くは行っていなかったことが、自らの臨床心理業務のもつ抑圧性について、「気づかされ方がかなり遅かった」ことにつながっている。
 一方で、赤松が、自らの臨床心理業務のもつ抑圧性に気づく直接的なきっかけとなったのは、大野萌子による臨床心理業務への批判であった。この時期、全国各地では、1974年に結成された全国「精神病者」集団をはじめとして、さまざまな精神病患者集団が結成され、彼らは、日本臨床心理学会や日本児童精神医学会等の大会に参加するなど、精神医療に関わる専門家に対して糾弾や問題提起を行っていく。また、1974年3月には、大野を囲んでの討論集会が開催され、そのなかで大野は、「インタビューもテストも支配管理以外のなにものでもな」(大野 1974: 8)いこと、心理治療もまた、「勝手に人の心の中に泥靴で入ってきて、人を操作する」ものであることを指摘している。赤松は、こうした患者の側からの告発を受けて、自らの患者に対する関わりの有り様を内省するとともに、足立病院独自の精神医療の改善に取り組んでいく。

3.2.3 鈴木伸治氏の場合
 鈴木伸治(註15)は、当時、国立国府台病院の精神科に勤務し、精神病患者を対象とする臨床心理業務に携わっていた。鈴木は、学会改革委員会成立前から病院臨床心理懇話会の活動に関わり、その後も学会改革運動の中心を担っていく。鈴木は、3.2.1で見た渡部淳や3.2.2で見た赤松晶子にも言及しながら、自らの臨床心理業務のもつ抑圧性に気づいたきっかけについて、次のように語っている。

 [名古屋大会のときには、]自分のやっていることに対して自己批判をするというところまでいっていない。技術自体は役だつはずなんだけれども、活かされていないというか、技術そのものが患者に対してすごい抑圧的で差別的だということは思っていなかった。……はじめ病院臨床心理懇話会に集まってきた連中というのは、本当にさまざまな人がいて、渡部さんと、あと中井[茲朗]さんという人がいて、彼は赤レンガの一員として東大の若い精神科医と一緒にやっていた人で、医局解体闘争とかの直接的な影響を受けていたんです。ただね、私にとっては、それよりも学会改革委員会ができてから、患者集団を学会に呼んできて、その人たちの生きている世界というか、医者や専門家に対する抗議を聞くということをしてきたんですね。特に、大野さんは、現場で触れ合っている患者が同じようなことを感じているんだろうけど言えないようなことを代弁してくれた。言えないんですよね、すぐ保護室という感じになっちゃうから。その影響の方が大きいです。赤松さんもそうでしょうね。渡部さんは[対象が]児童ですからね。大野さんみたいな患者に直接こう、現場で付き合うことはなかったと思う。……自分たちの置かれている状況に対する抗議に衝撃を受けたというよりは、一番は苦しみの深さですよね。われわれの関わりが支えになることもあるけれども、むしろ害になる方が多いという。単にわかってもらえないというのなら、益もないけど害もそれほどない。特に、苦しんでいる世界に生きる患者の世界が、常識とか心理学的な学問とかの理解をはるかに超えた深刻さをもっている。私たちがよく苦しんでいる人を支えてあげるみたいな、そういうレベルのものではないのですね。大野さんレベルの深刻な苦しみになると。だから、患者にとってよかれと思って言ったことが、ものすごい傷を負わせてしまうということがけっこうあるんですよね。それにわれわれは気がつかない。(註16)

 上の語りに見るように、鈴木は、名古屋大会の時点では、「技術そのものが患者に対して抑圧的で差別的であるとは思っていなかった」という。そして、赤松と同様、患者の側からの告発が、自らの専門性のもつ抑圧性に気づくきっかけとなったと述べている。すでに精神病院の現場にいた彼らにとって、普段接している精神病患者の語る「生きている世界」や「医者や専門家に対する抗議」は、けっして無視し得ないものであったと言える。
 とりわけ、鈴木が、患者からの告発を受けて衝撃を受けたのは、「患者の置かれている状況に対する抗議」に対してというよりは、むしろ患者が抱えている「苦しみの深さ」に対してであった。鈴木によれば、「苦しんでいる世界に生きる患者の世界は、常識とか心理学的な学問とかの理解をはるかに超えた深刻さをもっている」。「私たちがよく苦しんでいる人を支えてあげるみたいな、そういうレベルのものではない」。それゆえに、「患者にとってよかれと思って言ったこと」が、かえって患者に「ものすごい傷を負わせてしまうこと」が多い。このことは、心理テストのみならず、心理治療もまた、患者にとって、容易に抑圧的なものになり得ることを示している。

4 学会改革運動の展開――1970年代・2

4.1 臨床心理業務の総点検へ
 3.1.2で見たように、討論集会グループの一部は、臨床心理学あるいは臨床心理業務が、それ自体として、クライエントにとって抑圧的であることを主張してきた。だが、その後、クリニカルサイコロジストの専門性それ自体が抑圧的であるとする見方に対しては、学会改革委員会内でも意見の対立が見られる。
 ひとつに、臨床心理学あるいは臨床心理業務それ自体が抑圧的であるという見方は、「あまりにもCP[=クリニカルサイコロジスト]の専門性の否定的な一面だけを強調しすぎて」(CP紙 1972.6.1: 12)おり、臨床心理士資格やクリニカルサイコロジストの専門性を全否定していることが問題にされる。たとえば、「単に[クリニカルサイコロジストを]体制の手先としてのみ規定するのであればCPの主体性を無視することにな」(CP紙 1972.6.1: 13)る。あるいは、そもそも「体制側がCPに期待するものの中にも『Clのために』という部分が多少なりとも含まれており」(CP紙 1972.6.1: 10)、すなわち、患者にとって役だつ専門性もあり得ることが指摘される。
 もうひとつに、仮にクライエントにとってクリニカルサイコロジストの専門性が抑圧的なものであるとしても、それを現実に放棄することはできないことが問題にされる。たとえば、「クライエントは現実に体制の中で適応できないで、どう云われようと、そこで食っていけないという切実な現実に直面して」おり、「[われわれは、]『偽適応でもなんでもよいから生きていけるようにしてほしい』というClの要求」(CP紙 1972.6.1: 13)を無視できない。また、名古屋大会以前から問題にされているクリニカルサイコロジストの身分保障の問題は何ら解決されておらず、「そうした層[=身分保障を求める層]の人々を説得するには国家が支える資格の幻想性を知らせるだけでは不充分である」。「改革委員会の云っていることは、正しいと思うけれども、現実には食っていかなくてはならない・・・・・・とかいう形で、あいまいに反撥されたり、けむたがられたりしがちであ」(CP紙 1972.6.1: 11)る。
 だが、その後、1970年代を通して、こうした学会改革委員会内に見られた対立は後退し(註17)、学会全体の動きとしては、臨床心理業務のもつ抑圧性を強調する立場へと傾いていく。その契機として、まず、彼らが批判する立場、すなわち、他団体における臨床心理士資格やクリニカルサイコロジストの専門性を積極的に肯定する立場との対立がある。
 ひとつに、日本心理学会連合の発足を目指す心理学諸学会間連絡会(註18)の動きがあり、心理学諸学会間連絡会は、1969年に日本心理学会による日本心理学会連合規約の検討の依頼を受けて、連絡会内に日本心理学会連合設立準備検討委員会を設置する。この検討委員会が作成した日本心理学会連合規約案によれば、日本心理学会連合は、「心理学関係の諸学会の協力によってその研究活動および実際活動を容易にし、心理学の進歩を図り、社会の福祉に貢献する」(CP紙 1972.9.1: 4)ことを目的とし、その事業として、たとえば、「わが国心理学者の養成、社会的向上および福祉に関する活動」や「標準心理テストの作成、実施、販領等の統制に関する活動」(CP紙 1972.9.1: 4)等を掲げている。これに対して、日本臨床心理学会は、「社会の諸状況の中で心理学の果たしている役割・機能の問題点を、従ってまた既存の心理学体系そのものを問い直すことが緊要の課題」であるとして、「心理技術者の社会的地位を高め、生活の安定を得るため、かつテストの使用者を規制するという目的のため、資格をつくること」(CP紙 1972.9.1: 4)に対して、疑問を投げかけている。
 もうひとつに、国内テスト委員会の発足を目指す日本応用心理学会の動きがあり、1971年7月に国際応用心理学会大会で採択された「心理テストの作成、頒布並びに使用に関する勧告」(註19)を契機として、日本応用心理学会を中心に「国内テスト委員会設立のための準備委員会」の活動が開始される。この勧告は、「1. 心理テストの『適切な』使用、2. 『不適切な』テスト配布の禁止、3. 『社会的に価値のある』テストの開発、保護、などが目的であるとして、そのために、関係専門組織・学会組織の代表からなる『国内テスト委員会』を結成せよというものであった」(篠原 1979: 371)。日本臨床心理学会は、日本応用心理学会から「国内委員会(仮称)結成および国内被害実態調査に関する提案申し入れ書」を受け取り、その後、日本応用心理学会に「国内テスト委員会設立に関する公開質問状」を提出する。この公開質問状では、たとえば、「『申し入れ書』に云われている国内被害実態調査は、文脈から推察するに、適当なテストが不適当に使われている実態及び不適当なテストが出まわって人権無視がおこっている実態を明らかにして行くためのもののようです[が、]・・・・・・適当なテストの適当な使用がなされる限り、なんら被害が生じないと言い得るでしょうか」(CP紙 1973.2.15: 5)といった疑問の指摘がなされている。その後、日本応用心理学会は、この公開質問状に回答して、日本臨床心理学会にテスト問題懇談会への参加を要請する。
 このテスト問題懇談会では、日本応用心理学会と日本臨床心理学会とのあいだで、とりわけ、心理テストの善用の可能性をめぐって、激しい議論が展開されている。たとえば、1974年2月2日に開催された第6回テスト問題懇談会のなかで、日本応用心理学会の清宮栄一は、心理テストの善用の例として、国鉄で運転事故を減らすために心理テストを導入し、一定の成果をあげてきたことを指摘する。これに対して、日本臨床心理学会側は、「クライエントに利益をもたらす場合が、たまたまあったとしても」(CP紙 1974.4.20: 10)例外でしかなく、「[教育行政や]福祉行政における『障害児切り捨て』業務の中に『判定』『心理テスト』がばっちりくりこまれていて、テストを善用するというオプティミズム(楽観主義)は成立しえなくなっている」(CP紙 1973.8.6: 6)と主張する。また、歴史的に見ても、心理テストの開発は、教育の場での選別と不可分であり、「心理テストは、ビネー以来、差別・選別を目的としており、普通の人と比較して著しく劣った人かどうか判別し、その人たちにふさわしい処遇をする事が望ましいとする見方を前提としており、それ故にテストが発達して来た」(CP紙 1974.4.20: 10)と述べている。
 こうして彼らは、クリニカルサイコロジストの専門性が、現実にクライエントに対して発揮してきた機能・効果を明らかにする点から、臨床心理業務の総点検を開始する。たとえば、1973年10月には、会則「目的」が改正され、「本学会は臨床心理学にたずさわる人々、及び、それに関連する人々の協同と連けいにより、人間尊重の理念に基づいて現状の矛盾をみきわめ、自らがいかにあるべきかを志向しながら、真の臨床心理学を探求することを目的とする」(第3条)とした。この会則「目的」文中では、「[クリニカルサイコロジストの]『資質の向上と利益をはかる』ことを標榜することより先んじて、むしろ『人間尊重の理念に基づいて、現状の矛盾をみきわめ、自らがいかにあるべきかを志向』すること」(CP紙 1973.10.11: 3)が掲げられている。彼らは、「私達CP自身がクライエントに心理テストをしたり、心理治療をしたりしてその疎外状況を補完しているという現実をも直視し・・・・・・それを打開する為に、臨床心理学、心理臨床に関する諸課題を発見し、実践的・理論的に取り組み続ける」(CP紙 1973.10.11: 3)ことを、学会が取り組むべき課題とした。

4.2 心理テストの総点検――障害をもつ子どもを振り分けることをめぐって
 学会改革委員会成立後、臨床心理業務のなかで、まず総点検の対象になったのが心理テスト、とりわけ知能テストである。心理テストがまず問題にされた契機として、ひとつに、4.1で見た心理テストの善用の可能性を主張する立場の動きがあり、もうひとつに、この時期、全国各地で障害をもつ子どもの地域の普通学校への就学を目指す就学運動が展開され始めたこと、とりわけ知能テストが子どもの就学先を決める就学時健診や就学相談のなかで重要な位置を占めていたことがある。とりわけ、心理テストは、臨床心理業務のもうひとつの柱である心理治療と比較しても、クライエントのためというよりは、むしろ周囲・社会の都合でなされることが多く、このことが、まず彼らが心理テストの見直しに着手する重要な契機になっている。1973年2月には、学会内に心理テスト問題検討小委員会が設置され、心理テストの総点検が本格的に開始される。
 では、心理テストの総点検の議論のなかで、心理テストは、いかなる点で批判の対象になったのだろうか(註21)。以下、そこでの批判を、1. 心理テストが依拠する評価の尺度・基準の一面性を問題にするもの、2. 心理テストによる評価が人に対して及ぼす効果を問題にするもの、3. 心理テストによる評価と選別との結びつきを問題にするもの、という点から整理し、順に列挙する。
 第1に、心理テストが依拠する評価の尺度・基準の一面性、すなわち、心理テストが保証する評価の科学性・客観性の恣意性が問題にされる。
ひとつに、心理テストを行うこと、判定を行うことの作為性が問題にされる。「人身御供選びにすぎないこの選別という作業に段階を設け、観察項目を作り、時に数字をあげて、科学的、客観的、実証的なものであることを粧う、つまりは19世紀以来の私たちの科学信仰を利用して、ごまかしている」。「知能検査で成績が悪い子……で、学業成績<1>を取る子……を選び出」(渡部 1972: 34)しているだけである。彼らは、障害をもつ子どもの障害は所与としてあるのではなく、選別を行うものによって見出されるものであることを示し、なぜ心理テストを行うのかを問うとともに、その手続きはかくかくしかじかのようなものに過ぎないことを指摘する。心理テストを行うことの作為性を指摘することの意義として、たとえば、渡部淳は、これまで「CPは非公開という形で専門的技術や知識を独占することによって専門性を守って来た。・・・・・・クライエントや母親に[判定の手続きを]公開してい」(CP紙 1972.6.1: 16)くことで、専門家の判定に囚われる必要がないことを伝えることができるとしている。
 もうひとつに、臨床心理学あるいは心理テストが保証する科学性・客観性は、クライエントの異常が誰にとって不都合であるのかを明らかにする視点をもたないことが問題にされる。たとえば、戸川行男は、「症状とか異常とか欠陥とか不適応というのは、その反対の正常とか優秀とか適応とかいうことと同時に、世の中の何等かの<都合>から決められたのであって、その<都合>がどんな人々の<都合>であるかを査問する必要がある」。「客観性ということも、人間の<都合>とか、または操作し統制する側での<都合>とかがかくされており、それが実は<客観性>なるものの本体なのではないか」(戸川 1975: 7)と述べている。そして、彼らは、むしろ「心理テストこそ(親や教師―文部省―国家権力―資本主義社会体制)の側から見たできる子―できない子、良い子―悪い子という評価規準や評価原理をより一層科学的に―洗練して結晶化したものであ」(CP紙 1973.2.15: 3)り、心理テストによって明らかにされるクライエントの異常とは、周囲・社会にとって不都合であることを示しているに過ぎないことを指摘する。
 第2に、心理テストによる評価が、その評価を知る人に対して及ぼす効果が問題にされる。たとえば、山下恒男は、「人間関係における理解とは一方的に成立するものではなく、相互交渉の中でしかも時間をかけて成立するもの」であり、「そのような[心理テストの]『情報』はいたずらに予断と偏見を育てるだけ」である。「[日常]の体験的理解がテストによる情報より少なく『主観的』であるなどとは……ありえない」(山下 1979: 402)と述べている。すなわち、心理テストによる評価に対して日常の体験的理解が対置され、前者は、クライエントに対する予断や偏見を生むだけであることが指摘される。また、たとえば、1974年3月に開かれた精神病者の大野萌子を囲む討論集会のなかで、大野は、「その[心理テストを受けるときの]重圧感というものは比喩のしようがない」。「専門家に言われてみると、信じはしないという気持はあっても、人間というのは呪縛される」(大野 1974: 4)と語っている。すなわち、心理テストによる評価によって自己が否定されること、あるいは自己が否定されるのではないかと不安にさせられること、またその評価を気にしないように努めても気にさせられてしまうことが指摘される。
 第3に、心理テストによる評価と障害をもつ子どもの選別との結びつき、すなわち、心理テストが障害をもつ子どもの選別のために用いられていることが問題にされる。そして、彼らは、仮に心理テストによる評価、あるいは障害をもつ子どもが学校の授業に付いていけないという事実を認めざるを得ないとしても、その評価や事実は、障害をもつ子どもの生活の場を決める根拠にはならないことを主張する。たとえば、1973年2月に開かれたクライエントを交えての座談会のなかで、ある障害をもつ子どもの親は、障害をもつ子どもの選別について、次のように語っている。

 受け入れる教育行政の側からみると、IQだとか、能力だとか、知識、体力とかいろいろ考え合わせた中でベースを決めて行くようなんだけど、本来の教育というものは、子どもが学ぼうとするもので、その子にあったものをやればいいんじゃないかと思うんです。この子を産業人にするための教育ではないんだと。だから普通クラスの中に、そういう訳のわからない(うちの子どもなんて特にわかりませんからね)子どもがいても、その子どもをみて、囲りの子どもがどうあるべきかというものを大きくなった時にわかってもらえることも、一つその子どもに対しての教育でもあるだろう。(日本臨床心理学会 1973: 2)

 上の語りに見るように、この親は、自らの子どもが障害をもっていること、また学校の授業にも付いていけないことを認めていないのではない。むしろ、IQ、能力、知識、体力等の状態如何に関わらず、どの子どもも普通学校に行くべきであることを主張する。また、子どもの生活の場を決めるにあたって、「この子を産業人にするための教育ではない」、すなわち、できるようになることを第一に置く必要はないのだという。「普通クラスの中に訳のわからない子どもがいて」、周りの子どもが障害をもつ子どもの存在を知ること、その経験を保障することが周りの子どもに対する教育であると述べている。
 その後、1970年代後半には、1979年度の養護学校義務制化を数年後に控えて、心理テスト、とりわけ知能テストに対する批判を行うとともに、養護学校義務制化の反対運動に重点が置かれていく。この時期、政府のみならず、全国障害者問題研究会等の発達保障論者の多くが、障害をもつ子どもの教育権を保障する点から養護学校義務制化を推進する運動を展開する一方で、他方では、全国障害者解放運動連絡会議等の多くの障害者運動団体や就学運動団体が、養護学校義務制化は障害をもつ子どもの選別を強めるものであるとして、養護学校義務制化の反対運動を展開する。日本臨床心理学会もまた、養護学校義務制化の前年1978年に全体集会「54年度義務化とは何か――歴史と現実に学ぶ」を開催し、養護学校義務制化の反対決議を行っている。

4.3 心理治療の総点検――障害をなくすことをめぐって
 心理テストが、1970年代前半から総点検の対象になってきたのに対して、臨床心理業務のもうひとつの柱である心理治療は、1970年代後半以降、本格的に総点検の対象になる。確かに、それまでにも3.1.2で見た討論集会グループでの議論のように、学会内に心理治療をめぐる批判がなかったのではない。だが、そこでの批判は、たとえば、「社会状況を捨象した特殊な臨床場面において育成されてきた心理療法[は、]……病院の臨床場面においては、そのままの形では根を下ろすことができず、あまり患者の役に立たない」(鈴木 1972: 87)といったように、現状では心理治療を十分に行えていないことを問題にするものであり、心理治療それ自体がクライエントにとって抑圧的であると捉えられたのではなかった。とりわけ、「心理テストは、『切りすて』の道具であるけれども、心理治療は、『救い』の道具である。……心理治療を『是』とする考え方は、治療を求める人々が、げんにいる」(日本臨床心理学会運営委員会 1975: 28-9)ことからも、ほとんど疑われることはなかった。これに対して、心理治療それ自体が批判の対象になったのは、3.2.2の赤松晶子の語りや3.2.3の鈴木伸治の語りで見たように、精神病者の大野萌子による臨床心理業務への批判等、患者の側からの告発を直接的な契機としている。そして、そこでの心理治療の総点検は、ロジャースの非指示療法等、狭義の治療技術に対してというよりは、むしろ治療それ自体、すなわち、心理的な問題に関する不都合をなくすこと、あるいは障害をなくすことそれ自体に対してなされている。
 では、心理治療の総点検の議論のなかで、心理的な問題に関する不都合をなくすこと、あるいは障害をなくすことは、いかなる点で批判の対象になったのだろうか。以下、心理的な問題に関する不都合、あるいは障害が、周囲・社会にとって不都合である場合と本人にとって不都合である場合とに区分し、そこでなされた批判について、順に列挙する。なお、ここでは議論を簡便にするために、障害者の障害の治療に記述を限定する。

4.3.1 周囲・社会にとって障害はない方がよい場合
 大野萌子のほかに、日本臨床心理学会の学会改革運動のなかでなされた議論に大きな影響を与えた精神病者に、精神障害者解放運動の理論的旗手でもあった吉田おさみがいる。吉田は、1976年3月に日本臨床心理学会の学会誌に論文「“病識欠如”の意味するもの――患者の立場から」を発表して以降、学会誌やシンポジウム等で多くの発言・発題を行っていく。吉田は、1976年7月に発表された論文「“きちがい”にとって“なおる”とは――『される側』の論理」のなかで「きちがいの理論」を展開し、“きちがい”にとって“なおる”こと、また“きちがい”に関わる治療者に求められる役割について、次のように述べている。

 第一に、健常者社会の抑圧構造があり、それに対する抗議・反逆として“きちがい”が成立します。第二に、成立した“きちがい”に対して“きちがい”であることの故の新たな抑圧・差別が加えられます。そしてこの第二段階の抑圧・差別を突破することによって、狂気は貫徹され、ここに解放が実現される、つまり、なおるわけです。(吉田 1976: 29)

 もしあるべき心理臨床活動が存在するとすれば、それはこの患者の側からの変革に連帯し、協力するものでなければなりません。その場合変革の主体は患者であって、心理臨床家ではありません。……ただ、患者が狂気を貫徹することを助けるような形での心理臨床活動は果して可能でしょうか。現在の段階では少なくとも非常な困難があるようです。もし、それが不可能であるならば、患者の要請によるものは別として、心理臨床活動をひとつひとつやめていくこと以外に道はないのではないかと、私は思うのです。(吉田 1976: 31)

 吉田は、「もともと精神病といわれるものは、『正常』からの欠如態とみなすべきものでなく一つの生き方」(吉田 1977: 39)であるとして、「患者が主体的に本来の意味での狂気を貫く」こと、すなわち、狂気に居直ることが、真の意味で“なおる”ことであると主張する。また、治療者に求められる役割とは、「治療者が一方的に正しいと信じている価値観……を押しつけ[る]」(吉田 1977: 39)ことではなく、「患者が狂気を貫徹することを助ける」ことであるとしている。そして、それが不可能であるならば、「できるだけ“治療”しない治療者が最もよい治療者」(吉田 1979: 78)であると述べている。
 こうした吉田の主張は、「医療従事者が今までもっていた、『病気』は良くない状態で早急に『治療』すればするほど“良いことだ”という考え方を根底からくつがえす」(奥村 1985: 171)直接的な契機になっている。とりわけ、吉田が、「身体病の場合、主として本人にとって反価値であり具合(都合)がわるいのであり、これに対して精神病の場合は、主として社会(周囲の人)にとって反価値であり具合(都合)がわるい」。「精神病の場合は主として社会(周囲の人)がなおしたい」(吉田 1976: 114)と述べるように、精神障害の場合には、周囲・社会にとって障害はない方がよいのでしかないことが認識される。また、1977年11月に開かれた吉田の主張を受けてのシンポジウム「治療観の再検討――かかわりあいの現実をふまえて」では、治療者が患者に病識をもたせること、また患者の意思によらない強制治療の問題性について議論がなされている。

4.3.2 障害者本人にとって障害はない方がよい場合
 その後、学会内では障害者本人にとって障害はない方がよい場合についても、障害をなくすことの是非をめぐって議論がなされている。その直接的な契機となったのは、1980年12月に開かれたシンポジウム「『障害児』の早期発見・早期治療をめぐって」であり、そのなかで障害者本人によって、障害の治療は必ずしも否定できないことが語られたことからである。たとえば、このシンポジウムの司会を務めた山下栄一は、「“障害の早期発見・早期治療”という問題のむずかしさは、……『障害児・者』自身の願いにもこたえるものであるかのような雰囲気がつきまとっている」(山下 1981: 69)ことにあると述べる。だが、彼らは、周囲・社会にとって障害はない方がよい場合のみならず、障害者本人にとって障害はない方がよい場合であっても、その「『障害児・者』自身の願い」はそのまま受け入れられないことを主張する。
 第1に、「医療や心理臨床等にたずさわる『専門家』たちが、“障害の早期発見・早期治療”の効能を誇大に宣伝している」(山下 1981: 68)こと、また障害の治療に伴う損失を十分に把握していない、患者に説明していないことが問題にされる。たとえば、「多くの場合、治療にあたる医師たちは、親を失望させたくないという気持から、いく分でも改善の余地が見込める場合には、あたかも“なおせる”ような自信のある態度をみせてしまう。しかし現実には、とりわけ“重度”の場合、“なおす”ことなど無理」(山下 1981: 68)である。また、彼らは、多くの医療専門職が、得られるものと引き換えに被る損失、たとえば、薬物療法であれば、「薬物が『症状』を抑えると同時に、眠気、だるさなど生活をも抑えてゆく問題」(日本臨床心理学会運営委員会 1983: 16)を十分に理解していない、あるいは軽視していることを批判する。
 第2に、障害の治療の前提に置かれる「健常であった方がよい」「健常であるべき」という把握のもつ効果として、すでに生きている障害をもつ子どものありのままの姿が不可視化されること、また障害をもつ子どもの存在が否定的に捉えられることが問題にされる。障害をもつ子どもの障害をなくすことのみが目指されることによって、できるようになることが第一に置かれることによって、「そのひとりの子どもが今生きていることをどのように大切にするのか、そのありのままの生き方をどう認めるのかといったことがないがしろにされる危険がある」(川端 1981: 52)。たとえば、母子療育通園施設で働く亀口公一は、早期療育の実践の場であるプレイルームをブラックボックスにたとえて、「早期療育では、あるべき姿は常に未来にあり、そうでない不完全で否定的な存在が、いつも療育者の目の前を走りまわっている……ブラックボックスのなかに彼らを放り込んだ『能力主義』や『発達観』は、そのなかで何が行なわれているのか、何が実現しているのか、まったく興味がない」(亀口 1981: 36-7)と指摘する。
 第3に、現実に存在する障害者本人の障害はない方がよいという願いとは別に、障害者に障害の克服を求めることによって負担を免れている社会、すなわち、果たすべき義務を果たしていない社会の側が問われていないことが問題にされる。たとえば、小児科医の石川憲彦は、病と障害を区分し、「“生きるか死ぬか”と“歩けるか歩けないか”の間には、少なくとも今日の文化状況下では人間が乗りこえる事ができにくい溝が大きく横たわっている。『歩けなくても車椅子で動けるよ』というのと同次元で、命を代替的に語り得ない」(石川 1983: 52)として、病と障害の相違は、当人の不都合を別の人・方途(介助者、補装具等)によって補うことができるか否かであるとする。そして、石川は、障害の早期発見・治療について、「決して、患児の苦痛や訴えに応じて、止むを得ず治療するのではなく、社会の為に治療行為を行ってゆくのが、今日の医師が追いやられた状況」(石川 1983: 55)であると指摘する。

5 おわりに

 本研究では、日本臨床心理学会の学会改革運動から、クリニカルサイコロジストが、いかにして自らの専門性のもつ抑圧性に気づき、臨床心理業務の総点検を行ってきたのかを明らかにしてきた。
 日本臨床心理学会の学会改革運動は、臨床心理士資格制度の根本的な見直しを契機として開始される。その発端となった1969年10月の名古屋大会では、臨床心理士資格制度の問題点として、臨床心理士資格がクリニカルサイコロジストの待遇改善になんら寄与しないこと、またクライエントである患者や障害児者の人権を守ることにもつながらないことが指摘されている。また、その後、全国各地で討論集会グループによる討論集会運動が展開され、彼らは、名古屋大会で提起された問題意識を継承しながらも、より突き詰めた自己批判の議論を展開する。とりわけ、彼らの一部は、臨床心理学あるいは臨床心理業務それ自体が、クライエントにとって抑圧的であることを指摘している。
 彼らが、自らの専門性のもつ抑圧性に気づく契機や過程は、個々の医療心理職によって、置かれている職場環境や中心に行っている臨床心理業務が異なっていることから、けっして一様ではない。たとえば、渡部淳の場合には、勤務する病院が小児科であり、心理テスト、とりわけ知能テストを多く行わざるを得なかったことが、きわめて早い時期に自らの臨床心理業務が障害をもつ子どもの選別に寄与していることを認識させられる契機となっている。一方で、精神科に勤務する赤松晶子や鈴木伸治の場合には、自らの臨床心理業務のもつ抑圧性に気づく直接的な契機となったのは、大野萌子による臨床心理業務への批判であり、患者の側からの告発であった。とりわけ、医療専門職のなかでも医療心理職の場合には、患者に寄り添い、患者の内面に深く関わることをその職務としており、このことはむしろ、彼らに自らの加害性や無力さを強く実感させることにもつながっている。
 こうして彼らは、クリニカルサイコロジストの専門性が、現実にクライエントに対して発揮してきた機能・効果を明らかにする点から、臨床心理業務の総点検を開始する。学会改革委員会成立後、臨床心理業務のなかで、まず総点検の対象になったのが心理テスト、とりわけ知能テストである。彼らは、心理テストの総点検の議論のなかで、心理テストによる評価と障害をもつ子どもの選別との結びつき、すなわち、心理テストが障害をもつ子どもの選別のために用いられていることを問題にする。一方で、臨床心理業務のもうひとつの柱である心理治療は、1970年代後半以降、本格的に総点検の対象になる。そこでの心理治療の総点検は、狭義の治療技術に対してというよりは、むしろ治療それ自体、すなわち、心理的な問題に関する不都合をなくすこと、あるいは障害をなくすことそれ自体に対してなされている。彼らは、周囲・社会にとって障害はない方がよい場合のみならず、障害者本人にとって障害はない方がよい場合であっても、その障害者の障害はない方がよいという願いは、そのまま受け入れられないことを主張する。
 こうした彼らの実践は、クライエントの立場に立つことから、自らの臨床心理業務のもつ抑圧性に自覚的であろうとする実践であり、また自覚的であることを促す実践であったと言える。このことは、1960年代における日本臨床心理学会の臨床心理士資格制定運動と比較するならば、明瞭である。そこでは、もっぱらクリニカルサイコロジストの社会的地位・経済的地位の向上のために臨床心理士資格の制度化が目指されたのであり、クライエントのために臨床心理士資格が必要であると考えられたのではなかった。これに対して、1970年代における日本臨床心理学会の学会改革運動では、クライエントの立場に立つことによって、自らの営為に対する批判的な捉え直しがなされたのであり、クライエントにとって、少しでも抑圧的ではない関わりの有り様が目指されている。

[註]

(註1) 戦後、日本の医師臨床研修制度は、1946年に創設された実地修練制度(インターン制度)に始まる。大学医学部卒業後、医師国家試験受験資格を得るための要件として、「卒業後1年以上の診療及び公衆に関する実地修練」が規定される。その後、1968年に実地修練制度が廃止され、臨床研修制度が創設される。この臨床研修制度では、大学医学部卒業直後、医師国家試験を受験し、医師免許取得後も2年以上の臨床研修を行うように努めるものとされている。そして、2004年には新医師臨床研修制度が創設される。新医師臨床研修制度に至るまでの経緯およびその概要については、厚生労働省「医師臨床研修制度のホームページ」(http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/rinsyo/index.html)を参照。
 東大闘争は、1968年3月に、臨床研修制度の反対運動を行っていた学生、具体的には医局長缶詰事件に関わったとされる学生に対して、大学側が不当処分を行ったことに端を発している。処分を受けた学生17名のうち1名は医局長缶詰事件に関わっていないことが後に判明し、処分撤回を要求する学生側の運動が東大全体の闘争に広がっていく。
(註2) 東大精神科医師連合は、病棟の自主管理と称して、反対派のスタッフや医師たちが、病棟に立ち入ることや病棟の患者にアクセスすることを拒否した。反対派(教室会議)は外来をテリトリーとし(ゆえに外来派と呼ばれることがある)、東大精神科は二分される。東大精神科医師連合の結成とその後の展開については、富田(2000)を参照。
(註3) クリニカルサイコロジスト(clinical psychologist)は、一般に臨床心理士と訳される。だが、現在、臨床心理士は、財団法人日本臨床心理士資格認定協会が認定する民間資格を指して用いられることが多く、また当時の日本臨床心理学会では、アメリカのクリニカルサイコロジストの現状や制度を紹介するなかで、クリニカルサイコロジストの語をそのまま用いることが多かった。そのため、本稿でもクリニカルサイコロジストの語を用いている。なお、本稿で言及されている臨床心理士資格は、上の日本臨床心理士資格認定協会が認定する民間資格とは別物である。
(註4) 本稿では、文献表記の簡略化のため、日本臨床心理学会の会報『クリニカルサイコロジスト』から引用を行う場合には、(CP紙 年.月.日: 頁)と表記する。
(註5) その他、1969年10月には日本精神分析学会で、同年11月には日本児童精神医学会で、学会改革運動が開始される。
(註6) この決議は、賛成216名、反対7名、白票3名、保留1名の圧倒的多数で採択されている(CP紙 1969.11.25: 2)。
(註7) これに関わって、学会のヒエラルキー組織が問題にされる。すなわち、1960年代には、日本臨床心理学会の会員は、普通会員と正会員とに分けられ、普通会員のうち、ある資格要件を満たす者が正会員になり、正会員の中から理事が選出され、その理事の中から常任理事が選出される仕組みになっていた。また、理事の大半は、大学・研究所に所属する会員によって占められ、「大学人が『臨床現場』の人達を支配し指導する構造をなしていた」(日本臨床心理学会運営委員会 1975: 14)。これに対して、学会改革委員会成立後は、これまでの普通会員、正会員、理事、常任理事といった会員間の序列が批判され、学歴・経験差等による区分が廃止される。
 なお、普通会員は、以下のいずれかの資格をもち、学会に入会した者である。「1. 大学学部または大学院において心理学を専攻し、臨床的分野に関心をもつ者。2. 3年以上の心理学的な臨床経験をもち、かつ前項と同等もしくはそれ以上の学識をもつ者。3. 隣接諸科学の分野において臨床心理学と密接な関連がある課題を研究している者」(会則第6条)。一方で、正会員は、普通会員のうち、以下のいずれかの資格をもつ者である。「1. 前条第1号に該当し、かつ3年以上の心理学的な臨床経験をもつ者。2. 前条第2号に該当し、かつ細則1に定める業績をもつと認められた者」(会則第7条)。
(註8) 「『パラ』に「……を補足する」「……に従属する」という意味があり、医師とその他の医療者の関係は、このような上下関係ではなく対等なものでなければならないという理念から「コメディカル」という用語の方が一部の人びとによって近年好んで使用されるようになっている」(黒田 1999: 62)。本稿では、理念としてではなく、事実の問題として、この「……を補足する」「……に従属する」という意味を強調する点から、パラメディカルという用語をあえて用いる。
(註9) 1935年生まれ。1971年3月に、国立小児病院心理検査室を拠点に、就学運動団体「教育を考える会(がっこの会)」を結成する。この教育を考える会は、日本の就学運動の組織的な取り組みとしてもっとも早いものである。教育を考える会の活動およびその主張については、渡部(1973)、がっこの会(1977)を参照。
(註10) 2008年7月12日。渡部淳氏からの聞き取りデータ。
(註11) 2008年7月12日。渡部淳氏からの聞き取りデータ。
(註12) 2008年7月12日。渡部淳氏からの聞き取りデータ。
(註13) 1933年生まれ。1967年に東京足立病院精神科に入職。
東京足立病院精神科では、医療心理職とソーシャルワーカーとが連携し、1971年に医局から独立して、心理福祉課を開設する。彼女らは、「医師の指示に限らず、私たちを必要とする人、部屋の片隅にうずくまる人、誰とでも話し、できることはしてゆこう、と、心理、ワーカーの別なく、当時8病棟あった病棟を一人ずつ分担し、時間のある限り病棟に居続ける」(赤松 1985: 347)実践を行っていく。また、病棟内に料理サークルや造形サークルを設置するなど、少しでも患者の入院生活を改善するための実践を展開する。心理福祉課の実践については、赤松(1985)(2008)を参照。
(註14) 2008年10月3日。赤松晶子氏からの聞き取りデータ。
(註15) 1938年生まれ。1968年から1973年までのあいだ、国立国府台病院精神科に勤務。その後、1973年から、精神障害者の社会復帰医療施設である都立世田谷リハビリテーションセンターに勤務。
 鈴木は、聞き取り調査のなかで、国府台病院時代には、患者の処遇に関する権限をほとんどもつことができなかったと述べている。心理福祉課を開設するなど、積極的に病院独自の精神医療改革に取り組んできた赤松とは異なり、国府台病院では、自らの臨床心理業務のもつ抑圧性について、つねに自覚的であろうとするところまでが限界であったという。
(註16) 2008年10月28日。鈴木伸治氏からの聞き取りデータ。
(註17) 1970年代を通して、学会改革委員会内に見られた対立、論点は、消失したのではなく、むしろ潜在化したと言うべきである。たとえば、当時、児童相談所に勤務していた松田昭臣は、1970年代前半になされた心理テストの総点検のなかで、「施設は子供を分類し差別するためのものになっているかもしれないが逆に子供たちの役に立っているという事実をどのように考えればよいのか。特殊学級にしても同じことが言える」(CP紙1974.12.18: 25)として、施設や特殊学級を一概に否定することはできないと述べている。また、本稿で詳しく論じることはしないが、1990年代に入って、学会として厚生省による臨床心理士資格の国家資格化に協力するか否かをめぐって、運営委員会内で議論が紛糾する(結果的には、反対派の多くが学会を退会し、1993年に日本社会臨床学会を結成する)。賛成派は、「[1970年代の]学会改革路線は原理的・非現実的過ぎて、日臨心[=日本臨床心理学会]に若い人が増えない」(日本臨床心理学会運営委員会 1991: 12)ことを問題にし、また新たな専門性の模索の必要性を主張する。そこでの対立、論点は、基本的に上の学会改革委員会内に見られた対立、論点を継承したものである。
(註18) 心理学諸学会間連絡会は、「各分野の横の連絡の必要性や心理学の全領域にわたる問題を処理する機構の必要性」(日本教育心理学会 1966: 60)から、日本教育心理学会の呼びかけによって発足する。日本教育心理学会、日本心理学会、日本応用心理学会、日本動物心理学会、日本社会心理学会、日本犯罪心理学会、日本臨床心理学会、日本グループ・ダイナミックス学会の8学会が参加し、1967年1月14日に第1回の会合が開かれている。
(註19) 「心理テストの作成、頒布並びに使用に関する勧告」の全文(日本語訳)については、日本応用心理学会(1972)を参照。
(註20) テスト問題懇談会は、国内テスト委員会を発足すべきか否かをも含めて、「テストの原点に返って基本的な問題を充分に検討」(CP紙1973.8.6: 6)することを目的に、1973年6月に発足する。日本心理学会、日本応用心理学会、日本教育心理学会、日本社会心理学会、日本臨床心理学会、日本犯罪心理学会、日本グループ・ダイナミックス学会の7学会が参加している。
(註21) 心理治療とは、「行動的な不適応、情緒的不適応、精神的な病気に対する処置で、治療者としての特殊な教育を受けた治療者と治療を求める患者(来談者)との対人関係によって心理的葛藤を解決したり、不安を除去したり、問題行動を軽減し、人格的発達を援助する方法のことをいう」(外林ほか 1981: 244)。すなわち、心理治療の目的は、心理的な問題に関する不都合をなくすことである。だが、他方で、心理治療をめぐる批判は、心理的な問題に関する不都合をなくすことというよりは、むしろクライエントとの関係性、あるいはわれわれの日常的な関係性それ自体に焦点化し、なされてきたことも事実である。たとえば、渡部淳は、「クライエントの人達がもちこんでくる社会的諸矛盾を見ないですませようとし」(渡部 1979: 32)、「[援助的関係の特質を]至るところでの人間関係の中に見ていこうとはせず、カウンセリング関係の中だけで求めようと[する]……『援助的諸関係』の見すぼらしさ」(渡部 1979: 35)を指摘する。また、山下恒男は、1985年12月9日に毎日新聞に掲載された河合隼雄の文章「『心』の専門家の必要性」を批判し、「『心の専門家』の権威づけは、人と人との日常的な関係を断ち切り、社会的無関心を増大させ、人間の全面的な管理へと向かうものである」(『毎日新聞』1986.2.14夕刊)と述べている。

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