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障害者運動とまちづくり運動の展開(1)――矢吹文敏氏(日本自立生活センター)に聞く

インタビュー記録/聞き手:高橋 慎一


◇日本自立生活センター(JICL)
http://www.jcil.jp/

■東九条と障害者運動

高橋:
 「東九条のまちづくりと障害者運動」というテーマで矢吹さんに伺うということで、二日に分けて聞き取りさせていただきたいと思います。この聞き取りは、現在京都市東九条で進行しているまちづくり運動に連動して行うことになりました。
 2008年の春から、日本自立生活センター(JCIL)の土田五郎さんとDさんが住宅保障のための運動(「住まいの場づくり」)をしておられて、市営住宅を足で歩いて調査していたり、NPOまめもやしの事務局長であるMさんに話を聞きにいったり、住宅政策課や住宅供給公社と交渉を重ねたりしていました。この東九条地域で活動する人たちとコミュニケーションをとることで、ゆくゆくは「自立生活体験ホーム」を作りたいという思いが二人にはありました。
 その東九条のまちづくり運動は、京都市東九条という、在日韓国朝鮮人集住地域であり、同和対策事業の対象にもなった被差別部落地域とが隣接する街で行われています。かつては在日と部落の青年会やキリスト者の若者たちが担ってきた住環境・生活改善運動が、「多文化共生のまちづくり」という枠で、新しく展開しています。そこに関わるうちに、東九条のまちづくり運動に、障害当事者の視点を入れることはできないかという話になりました。
 そこで、この被差別者が集住する地域に自覚的に飛び込んできた障害者団体JCILに、ぜひとも障害者の視点からまちづくりを提案できないかと。ということで、あえて――僕自身もこの言葉には疑問があるのですが――「障害者のまちづくり」というテーマを設定して、矢吹さんにお話を伺いたいと思います。矢吹さんは、代表である長橋栄一さんと共に創生期からJCILを支えてこられました。
 まずは、矢吹さんの個人史と障害者運動への関わりを伺い、次に、JCILの歴史(前史)と京都市や東九条との関わりに関して整理していただき、最後に矢吹さんの「まちづくり」に関するお考えを聞けたらと思います。話の流れは、矢吹さんのお好きな形でともとは思うのですが、一応何もないところよりはということで、僕の方で流れを一度作らせてもらいます。僕自身の理解のためにも、まずは全体図をえるために、矢吹さんのお手元にもある年表(「障害者(運動)史のための年表」)を参照しながら話をさせていただきたいです。それではお願いします。



■矢吹文敏さんの個人史〜山形から京都へ

◆山形から「移動と交通」運動

矢吹:
 私が一番最初に自分達で活動をはじめたのは、超ローカルな「サークルきどう」という山形県で昭和47年、西暦で言うと1972年に発足した会があります。
高橋:
 1973年3月21日に「山形駅前地下歩道開通に伴う横断歩道廃止反対、エレベーター設置要求市民集会」と「車いすデモ150名参加」がありますね。「サークルきどう」の活動で。
矢吹:
 それ以前に、72年の段階でできているはずで、72年の後半に市民会館にスロープを付けさせるという運動があった。
高橋:
 1972年12月25日に山形でサークル・きどうが「建設中の市民会館にスロープ・トイレの設置等の改善要望書提出」がありました。
矢吹:
 その活動の前に「サークル・きどう」ができる。そのときに、私自身がそういう目覚めというか気づきの中で動き始めたのがその頃。
高橋:
 「きどう」というのはどのような意味なのでしょうか。
矢吹:
 命名した私らの間でもいろんな冗談込みの意見があって、「鬼の童」だとか、線路の「軌道」とか、無軌道の「軌道」だとか、いろいろ。
 それで、実は表向きは「山形社会保障研究会」という名称が付いていて、既成の「身体障害者団体連合会」という全国組織の下部組織が山形にも当然あり、その頃は福祉事務所に手帳を申請に行くと「この会に入りなさい」って言われていた時代なんですよ。
 何かよく分からないうちに、その「身体障害者団体連合会」に入ることになっていて、いつの間にか「体育会」や「旅行」の案内が来たりする。
 その頃は、今みたいに個人情報とかプライバシーの保護とかが言われてない時代なので、要するに、どこの家の誰々が障害者だというのは、名簿を見れば分かる状態だったわけだね。
 当時、入所施設の中から「施設改善」を求める内部告発があって、我々は、古い体制の身体障害者福祉協会という枠の中でしか動けないのはおかしいと思った。
 「もともと色んなことを改善させるためにあるわけだから、もっと動いてくれ」と組織役員に上に言ったんだが、「そんなことを言うなら出てってくれ」と言われて、そんなら自分達で外でやろうといって始まったのが「サークル・きどう」なのね。それは当初は、障害者と健常者関係なくやり始めたんですよ。
 で、結成するとほぼ同時期ぐらいに、山形市民会館が新築されるということで、設計図を見せてもらうと、スロープもトイレも何にもないということが分かって。それで、市町の親戚の方を介して急遽市長の家に押しかけて行ったり、議会に行ったりして何とかしてくれと言い始めた。そんときは怖いもの知らずというか、「市長誰か知ってるか?」「オレ知ってる。行こうか」みたい感じで。
高橋:
 ちょっと話が前後しちゃうんですけど、1971年に宮城県「仙台市で「福祉のまちづくり市民の集い」発足」とありますが、ここには参加しておられたのですか。
矢吹:
 それはどっちかというと「全障研」系だね。ただ、この頃は、どの組織がこうだというような先入観がほとんど無かったから、色んな集会があれば飛び込んでいった。
高橋:
 1969年12月に「仙台市の「生活圏拡張運動」始まる(後にまちづくり運動に発展)」とありますが、これは矢吹さんは関係しておられますか。
矢吹:
 直接は関係していないんだけど、そこに参加した村上さんという人が、村上さんというボランティアと一緒に、たまたま宮城県にある西多賀療養所、筋ジスの人などが多く入っているんだけど、そこの人たちが街に出たときに、車道の段差が多くて厳しい、トイレもどこも行けないというので、そのときに彼らが言った言葉は「ちょっとした配慮を」。
 お金をそんなにかける必要もなくて、トイレと言っても、まだ広いトイレを作るっていう発想もなかったから。ちょっとでも使えるようにしてくれたらいいんだということで、彼らは「遠慮がち」に二人でお願いに歩いたと。
 ここで時代の潮流というのか偶然というのか、筋ジスでカリスマ的なリーダーである山田冨也という人が、仙台で自分達の主張をするために、『ありのまま』という映画(現在の社会福祉法人「ありのまま舎」)を作る。彼らは「命」という問題を中心に訴えた。
 「自分たちは他の人たちよりも早く死んでしまう」ので、その命をみんなはどう考えるのかと。例えば「自分たちの命を少しでも長くするために、病気の原因解明と治療方法を1日も早く研究してほしい」というような要求をしていた。
 そのとき「ありのまま」と「ちょっとした配慮を」という運動とが繋がって、そこに着眼したのが朝日新聞厚生文化事業団。その頃の朝日事業団の功績というのは我々から見てもめまぐるしいものがある。好景気という時代背景もあって、厚生省に先駆けてさまざまな支援事業を展開した。
 それがこれ(朝日新聞大阪厚生文化事業団『先駆――55年の歩み』1984年発刊)を見たら分かるんだけど。そこから朝日新聞厚生文化事業団との関係で生まれたのが、「車いす全国市民集会」なんです。
高橋:
 第一回目は仙台で1973年9月20日「車椅子体験旅行と交流集会」という名前ですね。これが第2回から「車いす市民全国集会」として発展した。
矢吹:
 そうそう。そこのときは事業団としてはそれ一回で、イベントとして終わりのつもりだった。
 ところが、我々の要望で、自分達が実行委員会を結成してやるので、お金とバックアップをしてくれと。じゃあ、一緒にやりましょう。事業団と共催でやることになったのですね。
 それが二年に一回の開催でずーっと続いたわけだ。私らが全体的に「まちづくり」と言うとき、「車いす市民集会」を軸に動いてきたという自負があるんですよ。



◆山形、京都、同時多発性

高橋:
 これは第一回から長橋さん達は関係していたんですか。長橋さんと矢吹さんが出会ったのはいつだったのでしょうか。
矢吹:
 この仙台集会のときです。ただし、このときにはお互いに「京都の長橋さんって誰だったかな」「矢吹なんて覚えてないぞ」という程度の出会いだったんだよね。
高橋:
 くしくも1973年3月21日に山形で先ほどの「サークルきどう」の車いすデモがあり、その三日後の1973年3月24日に京都で「誰でも乗れる地下鉄にする運動」が20万名を目標にして署名運動を始めています。
矢吹:
 お互いに情報が交流されていたわけではなくて。いまだったらメールだのインターネットだので、今日のことは今日のうちに伝わる時代だけど。その頃は「京都で地下鉄にエレベーター? へー、山形なんて地下鉄なんか走ってないもんね、あんまりぴんと来ないなー」って受け止めていたような時代だから。
高橋:
 テレビニュースなどでの情報共有などもまだ…。
矢吹:
 私の家には64年くらいからテレビ置いたかな…。しかもまだ一日のうちに何時間しか放送してなかったからね。だから情報もない中で、同時多発的にそういう目覚めがあった。
高橋:
 同時多発的というのが面白いですね。メディアもなく連絡も緊密には取れない中で、地方自治体によって障害者に対する対応も違う中で、70年あたりを境にものすごい当事者運動が始まっていくじゃないですか。
 それ以前からもちろん親の会が活動していたり、国の施策があったりはしますが、70年から急に当事者が動き始めているように見えます。
矢吹:
 私もこの同時多発の直接の原因は分からないし、私自身もその頃は青い芝なんか知らなかったからね。
「何か変なのがオルグに来るでー」みたいな。脳性まひの人が大阪からだとか神奈川からだとかに来たり、面白がってやってた。
 京都の「ペンギンの会」の三宅さん(元関西青い芝事務局長)も山形に来ていた。あの頃は、私も三宅くんは知らなかったし、三宅くんも私のことは知らなかったし、関西の人ってくらいしか知らなかった。あの頃は、障害者同士の差別する構造の中にいたから、私自身もまだ脳性まひの人を偏見無く受け入れていたか疑問がある時期だった。
高橋:
 それと関連してお聞きしたいのですが、矢吹さんが活動を始めた頃の72年の「サークル・きどう」立ち上げのときの仲間には、どのような人たちがおられたのでしょうか。障害の種別であるとか、知り合った場所であるとか…。
矢吹:
 種別でいうと小児麻痺、脊損、脳性まひ、骨形。スモン患者の人もいました。
高橋:
 障害者運動の傍らには病者の運動がありますね。
矢吹:
 あと病者関係としては、その頃は運動という形態からは山場を越えた人たちではあったけど、コロニー印刷(現在の社会福祉法人コロニー印刷)という肺結核を中心としたリハビリ施設の人たち。彼らが全国組織で印刷業を始めた時代ですね。
高橋:
 あの施設の「コロニー」とは違いますね。
矢吹:
 そのコロニーについてのエピソードだけど。
 私もまだ何も知らない時代だから、山形県の身体障害者団体連合会の方から頼まれてコロニー建設のアピールをしてくれって言われて。私に頼んだ方もアホだけど、隔離収容施設を否定している私を施設建設の促進大会に出そうというんだから。
 私は原稿を予備チェックされずに喋ったのよ。「コロニーなんていりません」って。
そしたら大変な騒ぎになって。今度は県の方からは、県の障害者団体連合会が「なんで矢吹みたいなの出した」とか言われて、私としては何であんなところに行ったのか今でも悔しいんだよね。
高橋:
 それは何年くらいだったんですか。
矢吹:
 71年の福祉のまちづくり市民の集いよりも前だね。それで第一回の車いす市民集会の次の年か……。
 それとは別に、京都の市民集会の前後に「車いすで乗れる新幹線づくり」っていう、新幹線の沿線の人たちが集まった座談会もあったんですよ。その辺の「移動と交通」に関してはずーとその運動が続いているんだよね。



◆青い芝、CILとの距離

高橋:
 あえて対比させて考えたいのですが、「移動と交通」に関して、青い芝も77年の川崎バスジャック事件などで移動の運動をやっていっているなと思ったのですけども。ただ、車いす市民集会やCILとはやはり毛色が違うと感じます。そこらへんが同時に流れていっているんですよね。
矢吹:
 お互いにけん制しながら、仲良くしながら、ときには批判しながら、別の道を同じ方向に向かっていったということだろうね。ただ、青い芝の場合は具体的な「ああしろこうしろ」がないから。
高橋:
 差別糾弾型でより直接人に向かっている感じはしますね。
矢吹:
 それもそうだし。例えば地下鉄の運動というのは具体的な提案をしているわけだ。「エレベーターを付けろ」と。あるいは「駅のホームの幅や地下街の構造をこういうふうにしろ」と言うわけよ。
 青い芝の場合は、ただひたすらに「乗せろ、乗せろ、乗せる方法はそちらで考えろ」と言うように。「何がなんでも人の手を使ってでもいいから俺達をのせろ」という運動なわけ。ちょっと乱暴に言えばね。
高橋:
 青い芝の流れでは、マハラバ村が終わって、青い芝に合流して転換があり、70年になって横浜の障害児殺しがあり、府中療養センターの闘争などもあり、脱施設の運動を中心に立てて、障害者同士が一緒に住んだりして自立生活を求めていた。その主義主張の流れにバスジャックなどもあるように感じます。他方で、仙台ではずっと「移動と交通」のことをやり続けている流れがあるわけですよね。
矢吹:
 青い芝は「交通問題」というふうに捉えてはいない。
高橋:
 それに対して、「移動と交通」の運動側は、山形も京都も、行政交渉をやって署名活動をやって、民生局と話し合いをして、というある意味で地道な運動の立て方で繋がっていく。もちろんCILができる前からも、このような運動はありますね。
矢吹:
 今のCILは微妙で、ちょっと上品ぶっている(笑)。アメリカ型でいい面、悪い面が両方ある。障害者同士の差別観が鮮明になるところがある。能力のある障害者と能力のない障害者がこのCIL活動で明確になってくるんですよ。だから、「あんたの相談にオレがのるよ」って姿勢だから。上下で見るか先輩後輩でみるか。仲間っていうよりも「オレはお前よりも先に経験してるんだからオレの話聞けよ」っていう感じになっている気はする。
高橋:
 僕の勝手な印象かもしれませんが、東京のCILとかはもっと会社っぽいイメージがあって、もしそうだとしたら、障害者間の能力差が出やすいのかなという気がします。先ほど矢吹さんが言われていた、運動内における脳性まひ者との関係性とも繋がってくる気がします…。ちなみに72年に「サークル・きどう」ができた年に、アメリカのバークレーでCILができていますね。これから10年後に日本にCILが入ってきます。
矢吹:
 エド・ロバーツが、1981年に大阪の第五回車いす全国市民集会での講演のために、初めて日本を訪問した。そのときにエド・ロバーツが京都にも来て、その辺の世話を長橋さんたちがしたわけだ。
高橋:
 そこから京都にもCILができるわけですね。JCILはヒューマンケア協会(1986年)よりも前に設立していますね。
矢吹:
 そうだね。エド・ロバーツの事務局長であるマイケル・ウィンターからもらった、「CILという名前を使ってもよろしい」「ジャパンCILという名称を使ってよろしい」という契約書があるのよ。1984年です。
 一応、彼らはCILは固有名詞という認識だった。ILは抽象的な自立生活、消費者運動という概念だけど、CIL、センターという名前になったときに固有名詞だということになっているんだけどね。センターというのをどう捉えるのかというのは、また、CILがはたして本当に固有名なのかどうかというのは難しい問題だけどね。



◆障害者運動における「まちづくり」の人脈

高橋:
 やはり、身体障害者の運動の中では目立ってしまう青い芝の歴史とは重なりつつも別の文脈で、「障害者のまちづくり」運動は展開してきたのかなという印象を受けます。いまあらためてお話を伺って、CILや行政交渉に長けた人たち、具体的に政策制度実現に向けた運動を作る人たちの系譜があるのかな、というふうに思いました。「まちづくり」に関わった人たちの人脈というのは、矢吹さんの中でどういうふうに整理されていますか。
矢吹:
 そういうものがある種共有できる人たちの集まりとして発展してきたんじゃないかなと思う。
高橋:
 それと同時にCILに違和感をもたれていることが興味深かったです。
矢吹:
 CILへの違和感や共鳴感というのは、(JCILの中でも)代表の長橋さんと私ともちょっと違うのかも知れない。
 長橋さんの場合は、能力ある障害者に能力を活かせる場を、リーダーシップをとって、どんどんやるべきだと、そこに違和感はない。そこの能力のない者は、擁護していくべきだというスタンスだった。
 私の場合は、そこに情緒的な感情を入れ込んでしまって、仕事や契約という概念からやや日本的になってしまっている。
高橋:
 その擁護の内容に関心があります。関西圏では、能力主義や健全者幻想を否定すると言っている青い芝とは、どのような関係にあったのでしょうか。後のCILの流れを生み出し合流していく長橋さんや矢吹さんはどのように考えておられたのでしょうか。
矢吹:
 そこが難しくて、アメリカ型の能力主義、個人主義を共通の考え方、思想性としてどこを選んでいったかという違いだと思うね。青い芝はただひたすら仲間意識でやってはきたけれども、ヤクザの親分みたいに子分の役目?をみたかっていうとオレはまた疑問がありますよ。
 電動くるまいすをわざと階段の上から落っことして「俺達はこんなのいらん」と言ってみたりね。文明を否定するなら否定するでその人の考えなりだからしょうがないとしても。どうも青い芝という組織的な考え方と、一人ひとりやっていることが青い芝だと見られてしまうところに齟齬もある。
 当時の関西の状況も個人的には分かり切れないところがある。
 田舎の山形では東京くらいがぎりぎりで関西となると情報がぜんぜん違うからね。ゴリラも山形に来たのかな。関西の場合は姫路から出てきたゴリラの発想が大阪でも引き継がれて、「そよ風のように街に出よう」のリボン社なんかも当然そこの関わりだし。あそこは面白かったのは、当事者集団と介助者集団を明確に別々に組織して関わったのがよかったんだろうね。個人個人じゃなくてね。
高橋:
 僕は両方に多少関わっているので、やはり青い芝との対比で見ると面白い部分があります。
矢吹:
 やっぱり人間味はあるよね。お互いに理解していく関係になればある種の人間味はあるよね。ただもう一つ言えば、彼らがもしそれぞれ原則を守るという意味で言えば、我々は彼らの仲間にはなれない。障害が違うからね。彼らは脳性まひとはっきり言うわけだから。骨形も入れてって話にはならないわけだからね。でも、青い芝が解散していくあたりにはけっこういろんな人が入っていたからね。
高橋:
 78年に関西青い芝が解散していますね。
矢吹:
 そのへんなんかは尾上(浩二)くんなどに聞いてもらわないとわからない。あとは、全障連との動きもややこしかったんじゃないかな。
高橋:
 全障連は79年3月に脱退しています。
矢吹:
 お互いにそのへんはね。「被差別統一戦線」なんか言ってずいぶんそんな会議もあったらしいけど、それも長続きしなかったらしいし。あの頃は、新左翼の連中と付き合う人たち、セクトの争いもあって。障害者の介護を政治的に利用していたからね。
 障害者の分捕り合戦とか。赤ヘルがどうだ青ヘルがどうだっていう彼ら同士の競争があった。それに成田闘争だの戸村一作だのいろんなものに巻き込まれていくプロセスもあってね。
 世間からは「あの連中は障害者の過激派だ」とか言われて。オレもずいぶん私服に写真撮られているはずだけど(笑)。うちの甥っ子が警察官で「おっちゃん止めろよ」なんて言われて(笑)。
高橋:
 まちづくり運動に関わっていた人たちの層は、行政と向かい合って動かすことができる人たちだったのではないでしょうか。僕の勝手な印象かもしれませんけれども、後にCILに重なっていく人脈と一緒だったというのは納得できる感じもあります。
矢吹:
 ある意味逆に、基本的な今までの交渉の運動は、CILが全国的に充実してくると同時になくなっていった気がするんだよ。JILだのDPIだのに集約されつつ、やっぱりある意味での個性がなくなっているよね。
高橋:
 そんなに全国団体の集約力は高いんでしょうか。
矢吹:
 そのへんは微妙だね。さっきから言っている身体障害者団体連合会にも新しい会員が入らない。もう高齢化していて次がないくらいの話になっているから。あとは全国の種別団体がやっている。DPIにせよCILにせよ個人レベルの参加になってくるのではないのかな。本来ならDPIも組織参加ということになっているようだけど、私個人の考えでは個人参加もありなんだけども。二人以上の団体ということだよね。
高橋:
 それはかつてのような動員力を誇った運動基盤がなくなっていることとパラレルなのでしょうか。
矢吹:
 やはり社会を反映している。大きく連動しているよね。労働組合の活動をみても、その頃はストライキなんて当たり前のことで、その時代は国鉄が一週間止まったなんて別に珍しくもなかった。あそこの会社ストライキだ、こっちの会社ストライキだって言ってた頃だから。うちの兄貴も精神病院に勤めていたけど、病院もストライキやってたものね。



◆「車いす全国市民集会」から

高橋:
 りぼん社の『さよならCP』や『何色の空』など障害当事者の運動を撮影したフィルムを全国各地で上映するという運動が、ありました。まだ情報も行き渡らない中で、あちらの地方ではこんな動きがある、大阪ではこんなことやっているとか、オルグなどに使われると衝撃も大きかったと思うのですが、車いす全国市民集会も当時の映像がきっちり残っていますよね。
矢吹:
 それはもう大会用だね。山形でも作ったけど。
高橋:
 車いす全国市民集会の話に移っていきたいのですが、第一回をやるにいたった経緯を教えていただけませんか。
矢吹:
 それはオレは分からない。さっきも言った朝日新聞文化厚生事業団のからみだよね。じょくそう予防のベッドとか厚労省が整備する以前から全国で贈呈するキャンペーンをはったんですよ。電動くるま椅子を厚生省よりも先だって全国に贈呈していた。
 その先駆けのチャンスにもらっていたのが、IさんとかIくんとかだったわけです。その後追いで厚生省が制度化した。第三回名古屋集会で電動車いすっていいね、すごいねって言って、車いす市民集会のロビーでそれをかざって皆に見せて、見学していたという時代ですわ。
高橋:
 資料整理をしていて出てきましたが、長橋さんも電動車いすのパンフレットやリフト付きバスのパンフレットをアメリカからたくさんもちかえっておられましたね。あれは、こんなものもあるよという紹介だったのか、行政と交渉するときの材料として持ち帰っていたのでしょうか。
矢吹:
 そこの意味深さについては、長橋さんの構想は、私などにはでかすぎて、やらないのかなと思ったらやったり、やるのかなと思ったらやらなかったりで(笑)。いろんな思いがあったんでないかね。
 日本の車いすは全然違うしね。しかも時速6キロなんて日本のような制限なんてなくて時速15キロくらいで乗っているわけだし。車いす市民集会として行政に要求というのはなくて、アピールはあったけどね。
高橋:
 行政がバスや地下鉄のエレベーターで動き始めるのはもう少し後ですよね。1978年に運輸省が「車椅子利用者の乗合バス乗車について」という通達を出しています。地下鉄にエレベーターが設置されたのが80年代の初頭でしょうか。京都で地下鉄の運動をしていたのは、70年代前半から81年くらいまで(長橋栄一「誰でも乗れる地下鉄建設運動」『社会福祉研究』29:79-81)ですよね。
矢吹:
 そうね。大阪は京都の運動と名称も同じでつくっていて、あとは札幌から福岡から行政の人も見学に来て戻っていった。
高橋:
 「誰でも乗れる地下鉄をつくる会」。
矢吹:
 NHKの「きらっと生きる」に出演していたイラストレーターで車いすのおっちゃん、牧口さんとかがいた。行政自身が作った制度が次々に役に立たなくなっていく。最新のバリアフリー法になったのは最近のことだからね。
高橋:
 運動が地方自治体レベルで押して全国版が作られるというパターンと、全国レベルで法整備がされて地方自治体が変わるというパターンがありますね。京都市の福祉のまちづくり条例は平成7年・1995年で、改定は平成16年、18年と二回あります。こういうのって使われているんですかね。運用実績は書いてあるのですが…。
 車いす市民集会は報告集もまとまった形で残っていますが、あらためて説明するとどういうものなのでしょうか。
矢吹:
 私は「車いす市民集会」と「サークル・きどう」に自分自身を投げ出した感じになっているから。思い入れもあれば、意味もあると思う。今みたいなクールな付き合いではなくて、人間関係とか仲間意識とかが今よりももっと昔型っていうかね、そう思って付き合った感じなんだがな。
 途中からは、市民集会の委員同士の意見の違いや立場の違いが表面化して、いろんなことがゴタゴタになると派閥のような形ができてきて、最後には後味の良くない感じで別々の道を歩んでしまった。
高橋:
 派閥争いというのはどういうものだったのでしょうか。
矢吹:
 目だってややこしくなったのは、第8回の静岡くらいかね。
 DPI日本会議の動きや政治的な影響、福祉党だの自民党、社会党だの、世代交代の時期などとも重なり、厚生省や運輸省との正面突破的な運動から、ロビー活動が加わり、障害者自身の運動に関する意識の変化も大きかったと思う。
高橋:
 車いす市民集会の良かった部分というのはいつでしょうか。
矢吹:
 今のような裏話じゃなくて、もともとはもっと素直に今まで言えなかったことをどんどん喋る。新しいテーマを喋る。それぞれ地元に持ち帰って運動になった。
 それがあったからあの時に皆やったのだと思うんだけどね。優生保護法的な考え方に対してそれは差別なんだと皆が認識として共有したり。考え方の基礎を築いた。
 田中角栄総理時期に筋ジスの原因を突き止める研究所を建てるということになったけど、それも田中角栄から三木武夫に移るときに、車いす市民集会が念押ししたこと。
 あとは女性問題だろうね。今まで障害者と性というのはタブー視されていたけど大阪集会から女性問題を出していたしね。時代と言えば時代。
 要はそういうものが、新鮮なものとして取り入れられていく過渡期として。今は新しさが何かって言ってないもんね。
高橋:
 そんなことはないですけど…。今でも問題は変わっていない部分も多くて。聞いたらやっぱり面白いし重要だなというふうに思います。
矢吹:
 もともともっともっとそれぞれの課題を深めていかなきゃならんのよ。それが何となくCILというものの中でお上品になっちゃったという気がするんだよね。それぞれ言っていることは間違いではないんだけども、自分のところでCILをやり始めて言うのも変なんだけども。個人個人をピアカンで解放して自立していくんだというのは間違ってはいないんだろうけども、それじゃ、解放された人は次はどうすればいいの? 後は自分で考えなさいだけではまずいだろうし…、その次がなかなかないんだよね。
高橋:
 車いす市民集会のテーマがとても広くて、いわゆる「まちづくり」に限定されないで各地域に広がっていったということでしたけれども、「まちづくり」という枠に関しては。
矢吹:
 それはこの前も話をしたけど、「まちづくり」という概念設定をどこまで拡げるかだよね。ずーっとそういう議論が第二回集会の準備過程から話されたが、「まちづくり」って何なんだと。運営委員会の議事録に少しは残っているかも。どっちかっていうとハード面のことが「まちづくり」の方法だというふうに言っている人と、教育だ優生保護法だ就職だ男女差別だという全部「まちづくり」の概念の中に入っているという議論もずいぶんあったよね。そこらへんが難しいところで。
高橋:
 行政側から「まちづくり」というと主にハード面なのかなと。変化が分かりやすいようにも思います。第二回以降の議論は。
矢吹:
 車いす集会を運営する運営委員と地元の実行委員の調整が大変で、運営委員から「こんなことやってほしい」というのと、地元からは「それはちょっとできなくてこんなことやりたい」というのと。一つ一つ各地方でやり方のイメージが違っていて、それが運営委員の課題だった。その中で今のような話は、大会を進めるにあたっての議論にはなりにくいところだったね。あくまでも分科会のテーマとして持ち込むか持ち込まないかという中で。大阪の女性問題を扱う中で、担当者が「私たちは、男でない男と女でない女が結婚するところから始まったんだ」という書き出しで始めたんだよね。じゃあ男って何だ女って何だ、男らしさ女らしさって何だ、女性差別って何だというのが、障害者差別の話と一緒に語られるわけだ。比較的幅の広いものにはなっていた。
高橋:
 当時の女性運動と障害者運動の関係はどうだったのでしょうか。
矢吹:
 労働運動もそうだけど、学生運動もそうだけど、運動の中での女性差別ってひどいからね。世の中を批判するわりには、さっきまで「女性差別をやめろー」と言っていた人が、事務所に帰ってきて「おいお茶」というような話しが沢山ある。それが障害者にもあるわけよ。
 ただもう少し一人ひとりが深めた議論しているのかというのは、もちろん私が全部知っているわけではないし。型にはめられた男らしさ、女らしさはだんだんいいか悪いかいい加減になってきて、性別がわかんなくなってきている。男女差別うんぬんじゃなくて、男だか女だか分からんという話になってきている。そこでお互い男らしさや女らしさを求めているのか、分からない世界になりつつあるような気がするね。
 「オレは男だ」と言った瞬間に「何それ」とか言われて、ちゃんちゃんだよね。



◆「福祉のまちづくり」運動から

高橋:
 車いす市民集会にとっての「まちづくり」の枠ですよね。「福祉のまちづくり運動」。
矢吹:
 ずいぶん議論したけど、収拾つかなくなるんだよね。どんどん広がって。ここまでっていう人がいないと。
高橋:
 「福祉」という言葉は、今の運動の中ではしばしば「福祉施策の枠の中に障害者は置かれ続けるのか」というように、マイナスの意味で使われることがあるように思います。当時「福祉」という言葉はもっと別の意味合いだったということでしょうか。
矢吹:
 そうだね。それは私自身もその当時のボランティアの人たちと議論したんだけど、オレは「福祉のまちづくり」は嫌だ「まちづくり」だけでいいと言っていた。私としてはそこはぼかして曖昧にして使っていた。
 私の中ではあえて「福祉」を外していたり。
 今は私は、「障害者は福祉の世界から飛び出せ、外せ」と言っている。「福祉の枠から外してほしいな」と思っているけどね。人間が幸せになる言葉としては「公共の福祉」という言葉もあって、そこに障害者もいるんだから、そこまであえて否定する必要もないのかなとも思ったり。
高橋:
 「障害者の福祉」という言葉と、例えば健常者も含んだ生活保護の「福祉」という言葉とはまた違う意味のような気もします。
矢吹:
 ちがうだろうね。だって「福祉」という設定はみんなバラバラでしょ。定義があってないようなものだしね。
高橋:
 生活を成立させる糧を得る程には生産活動に従事できない人に対する扶助、という最低限の枠組みはあるんでしょうけれども。生産活動とは何かっていうと市場での賃労働ですよね。国は税金とってそこから福祉にもお金を回すので、行政としてはやはりそういう定義をしているかと。
矢吹:
 それは考え方の違いだろうね。ヨーロッパでは何がなんでもこの人を納税者にしちゃえと。そのためには納税できるような応援をしちゃえと言う考え方や方法を実践しているし。
高橋:
 所得保障もして納税者にする。
矢吹:
 その人が働いて納税者になれるなら国も得だし、そのためにもその人が働ける環境を作りましょうという。
高橋:
 しかし、どこかで線引きはできますよね。重度身体障害者で就労はどだい無理な時もあるじゃないですか。
矢吹:
 たとえヨーロッパと言えども、そこはどうしているんだろうね。アメリカの個人主義、能力主義というのも、そこは予め問題外だとするのか。そこはどうなんだろうね。今の中国みたいに「中国に障害者はいません」と言うみたいな分からないことを言っている所もあるし…。



◆京都JICLへ

高橋:
 JCILが東九条に来た経緯について教えていただけませんか。
矢吹:
 93年に北野白梅町から東九条に来た。長橋さんが「いわゆる被差別部落と言われるところで活動をやりたい」という方針の下で場所を選んだ。当時の長橋さんは、解放同盟にも呼ばれて講演したり、障害者ってある意味便利なこともあって、民団の人とも総連の人とも喋ったり、他の人がなかなかできない部分がやれたりすることもある。
高橋:
 矢吹さんが京都に来られたのは87年5月17日ということで何があったのでしょうか。
矢吹:
 私がちょうど一年くらい前に勤務していた会社の駐車場で、同僚が運転していた車に二度引きされて。荒引きじゃなくて二度引き(笑)。それで全身七箇所骨折して、「あの人実は生きているのが不思議なんですよ」とうちの兄妹が医者から聞かされた。
 退院してからも体の調子はよくならないし会社は休んで。だらだらしてたら、長橋さんから電話があって「お前なにしてんだー」って、「ぶらぶらしてますー」って。そしたら「お前2、3年手伝いにこいー」って。オレは「手伝い」だと思っていたんだけど、長橋さんはオレを弟子だと思ってたんだな。その行き違いがだいぶ大きくて。
高橋:
 矢吹さんと長橋さんの年齢差は。
矢吹:
 14年。「オレがお前に教えてやるから手伝え」って感じで。そこの違いは大きいよな。最初、どこの会議に言っても、長橋さんと矢吹さんはツーといえばカーという噂で、信頼は信頼なんだけど、やっぱり途中からはだいぶ怒り倒されてね。一回、二回ここを辞めますって出て行って一ヶ月帰ってこなかったりということもあって、仲間からの引き戻し作戦があって…。結局戻って来て。今はもう家出するエネルギーはないけどね(笑)。
高橋:
 それ以上のエネルギーを他の活動に使っておられる気はしますけれども(笑)。
矢吹:
 長橋さんは、もう一つ私には分からない禅問答的なところがあって。こっちがどう受け止めるか。オレは意外と要領よく単純にやる方だから。長橋さんは決めた道を行く、私はこっち近道だらかいいじゃんって。車の運転中は横に乗ってたら、たいへん、危ないとか、何でこっちの道を行くんだとか・・。
高橋:
 車いすと仲間の会で、長橋さんをサポートしてきた歴代の当事者というのはどなたがおられたのでしょうか。
矢吹:
 伊吹さんというのがいたらしい。あと当事者でという限定付きだと、谷口明弘さん。ここは辞めて、自立生活問題研究所を立ち上げた。何かというと京都府の講師で、淑徳大学の教授かな。脳性まひとしては彼なんかはずいぶん上り詰めている人だろうね。ただ、あまりにも厚労省側に立ってしまった感じがするけどね。
 あとは水谷さんというのがいる。京都市のスポーツセンターにいた。大崎さんは私の後。「行動する応援センター」とかをやっていた。
高橋:
 ずっと残っている人はいないでしょうか。当事者以外も含めると。
矢吹:
 中井さんとか、田島さん(ホットハウス)とか、もっとたくさんいますよ。
高橋:
 矢吹さんと長橋さんの緩衝材になってくれる人はいたんでしょうか。
矢吹:
 あまりいないね。一方的にやられっ放しという感じで。そういう関係になってしまって。人には色々言うくせに、長橋さんには順序よくパターンにはまって怒られる。今度はこれ言うだろうなと思ったら、その通りに同じようなパターンになる。今でこそ変わってはきているけどね。
高橋:
 それだけ長橋さんは、なんというか、力をもっていたんでしょうか。
矢吹:
 代表はある意味職人であり、芸術家であり。お父さんが映画監督でしょ。息子である代表も監督気質があるわけで、そこちょっと曲がってるから気に入らないというところがある。そこらへんは全部にあてはまる。右にも左にも解釈できることを言われて、右をやると「左だ!」と言われるようなことが多かった(笑)。「お前は分かっとらん。こんなに丁寧に言っているだろう」と(笑)。
(国際障害者年プレ国民会議の写真と矢吹さんの文章を見る)
矢吹:
 この時は長橋さんがDPIのアジア太平洋会議に出かけていたので、車いす市民集会の運営委員として私が喋ったんだったな。それがNHKの大ホールであったのよ。「ここで紅白だのやってんだ」って。国もこの頃は景気がいいから、金かけたよね。この本はモーターボート競争共益資金(今の日本財団)が出している。
高橋:
 この本には「まちづくり」っていう言葉は出てこないですね。「生活環境整備」の項目の中にあった。



◆古くて新しい「まちづくり」運動

矢吹:
 んー、だから、基本的にはあまり変わってないんですよ。人間の信条とか根っこにあるものとか。だから高橋くんたちのような人たちが、もっといろんな視点から障害者と関わるっていう視点の広さはできた。かりん燈とかユニオンぼちぼちとか。もしかしたらこれ障害者の問題と一緒なんかなと思い始めたのは、広がりとしてある。
 今まではあるとしても括弧付きで、本当にあるとは思っていなかった。「被差別統一戦線」と言っても「オレは本当は違うぞ」とどこかで思っている。
 この間、反貧困京都準備会でも言ったけど、「オレたちにはそもそも就労の機会がない」わけで。
高橋:
 あの会議で矢吹さんの話の直後に、どなたかが「福祉的就労」という話をし始めて、うまく伝わっていないなと思いました。「福祉的就労」じゃないと。
矢吹:
 「社会福祉」って言っている以上は「社会福祉」になってしまうのよ。
高橋:
 もっと繊細に言っている人もいました。今の働き方全体が健全者でも壊れてしまうような水準が標準になっていて、実際にメンタルヘルスを壊している人もいるし、その働き方自体を変えていこう、という話をしている人もいました。
 僕がJCILで働いているときには、働いているのか存在しているのか分からないときがあり、その意味では楽な瞬間もあります。違法なスポット派遣の日雇バイトを以前やっていたときに、二重派遣や偽装請負で現場に回されて。安全衛生とかもぐちゃぐちゃで、「はいこの工具でこの鉄をカットしろ」って、あげく足の骨を折ったり。「あれとってこい」と言われて、「あれ」って何ですかと言うと、「お前なんであれが分からないんだ」と怒られる。そこと比べると障害者が存在する職場というのは、健常者に囲まれているよりも楽なんです。
矢吹:
 そこが障害者の側がもうちょっと厳しく、健常者の側がもうちょっとやさしくなればいいのに。今の話だと両方がはっきりと分かれている。
高橋:
 僕は最近こういう言葉を使っているのですが、「あの人は健常者性が低い」と。健常者に囲まれていても健常者性が低い人たちだと楽なんです。
矢吹:
 それは何なんだろう。頭がいいとか悪いとかではないわけだよね。
高橋:
 もちろんちがいます。障害者でも健常者性が高い人はいます。例えば、勝手な印象なのですが、中途障害の人には健常者性が高い人が多いような気がします。健常者性の高い低いというのは、障害者手帳をもっているか否か、年金をもらっているか否かとは直接には関係がないと思います。
矢吹:
 全体のありようがあまりにもスピード感があったり、労働者が消耗品だったりという部分と、障害者が提起していく社会のありようは何なのかが議論としてかみ合うと面白くなってくるよね。
高橋:
 確かに面白いですね。SMAPの草g剛が公園で全裸になって逮捕された後、僕の近くでは全裸くらいいいじゃないかという人ばかりで、むしろ全裸のパフォーマンスをしている人がいたりもするので。矢吹さんも、「公園で全裸くらいいいじゃないか」とおっしゃってましが、そういう健常者性の低い世界の方が障害者も僕も住みやすいんじゃないかと思うんです。僕が目指すところは、そういう猥雑な感じというか…。
矢吹:
 だから山内さんたちのまちづくり構想の中にそういう微妙に表現しきれない部分の感性がどうやって受け入れられるのかというのが重要なところで、ましてやそれが役所にまで届くのかというのがある。我々の時間のゆっくりさかげんというのと、健常者のちょっと待ってというのがうまくかみ合うと面白い街になるのではないか。それを街のつくりによって、人がそんなペースになるとしたらそれは面白い。例えば、ゆっくりとした時間になる場所をいたるところに置く。昔みたいに縁台で商売するとか、何となく人が集まる場所。散髪屋だったり銭湯だったりという場所。
高橋:
 うちは実家が床屋なんですけど、ああいう場所ってやっぱり時間の流れがゆっくりしていますよね…。いま京大の今の非正規雇用の人たちが楠の下でやっているストライキがカフェになっていますが、そこでこないだ施設の人の誕生日会をやったりしました。ああやって作っている場所は、健常者もあくせくしていないし。
矢吹:
 例えば、渡邉くん(かりん燈〜万人の所得保障を目指す介助者の会)なんかが、ぼえぼえ吹いているやつ。
高橋:
 ディジュリドゥですね。
矢吹:
 あれなんかは普通に吹いていたら近所迷惑なわけだ。それがここに行ったら吹いていいよという場所があったらいいわけだ。例えば。
高橋:
 あれを密集地域でやっても騒音にならないような空間の作りにするとか。
矢吹:
 いまは騒音を鳴らした隣の人を殺したりする。いまオレは仕事で帰ってきて寝ているのに、下手なピアノで起こされたくないというときには、両方ともが不幸なわけだ。だから、あのうるさい音消しちゃえと。今度はとっても静かな場所で寝泊りできると思うよね。仕事もしなくていいし(笑)。雑音も匂いもいろんなものがあったらいいんですよ。それが皆、以上に匂いを気にするし。清潔感がありすぎるよね。免疫体ができている人とできていない人が分かれている。
高橋:
 プライバシーの感覚とかもすごいですよね。電車の中なんかのエピソードを聞いていると、ほとんど「接触恐怖」じゃないかと思うような人も多いです。そうなってくると人と一緒に暮らすとか、街の中で自分とは異質な人と出会うという発想にはなりにくいですよね。コミュニケーション、対話、実際に会って喋る、もっと雑に会う、という感覚がなくなるのは怖いなという感じはあります。
矢吹:
 昔だったらこの時期に会うと、すごい汗臭い奴がいて、足もくさい。別に足がくさいのがいいことじゃないけども(笑)。
高橋:
 僕の中では「まちづくり」というと、新宿二丁目のような猥雑なところを東京都が馴らしてしまうとかということが思い浮かびます。どういう設定にしたら面白い場所になるでしょうね。場所作ろうというのは皆言うと思うんです。バリアフリーであるのはもちろん。
矢吹:
 個人の空間でありながらも他人が見える。ベンチでもばーっと置かないで、ぽつんぽつんと置くとか。個人の空間を大切にしながら、たくさんの個人が集まってくる。最近テレビで見たんだけど、全部自動販売機の店というのが流行っているらしい。でも完全に一人がいいっていうことにもなっていないらしくて。誰かやっぱりいながら、自分の空間がほしいという。
高橋:
 ネットカフェみたいですね。人はいるけど、誰とも会っていない。
矢吹:
 本来そこには群れたいという気持ちがある。でも苦手という。対人恐怖症という一歩手前。皆がそうなりかけているのかなと。
高橋:
 「まちづくり」で考えるなら、東京の歌舞伎町とかそうですが、街の安全のために監視体制が整備されて、犯罪防止のために監視しやすい空間になっているので、憩える場所ではない。それほど人が溜まれないようにして、移動させるとか、野宿者があえて座れないように椅子を変形させておくとか。それに逆行するような街のつくり方ですよね。
矢吹:
 逆に、そのような街のデメリットというのは、ホームレスが集まってくるという人の意見をどうするのと。オレが考えたのは、集える場所の面積にもよるけど、そこに必ず障害者が一人や二人ぶらぶらしている仕事をつくる。「あんたここをずーっとぶらぶらして、誰かと喋ってください」という仕事。「危ないとかあったときにだけ教えてください」という仕事。
高橋:
 「障害者による見守りや夜回り」ですね。それは提案しましょう。
矢吹:
 「火の用心」をボランティアか仕事か分からないけど、障害者がするとか。意図的に人間が接触するのを演出する仕掛けが必要だと思うんだよ。
高橋:
 僕としては、やりようによっては、人と集まって喋っていたりだらだらしていたら、それだけで楽しいもんじゃないかと思うんですよ。たいそうな仕掛けじゃなくてもいいと思うんです。だらだら集まって、「何となく来てよかった」と思ってふらっと別れられるような。
矢吹:
 いまの公園はどうなんだろうね。
高橋:
 うーん、いま一番人と喋りやすい場所ってどこなんでしょうね。コンビニで横でおにぎり買っている人に話しかけないじゃないですか。用事があって道を聞くとか観光客としてバス経路を聞いたり聞かれるとか。コインランドリーで待っているときに原谷から来たおばあちゃんと喋るとか。あとはバーとかでしょうかね。飲食店にカウンターだけしかなくて、横の人の会話が聞こえたり、笑ったり、一緒に会話が始まったりするみたいな。
矢吹:
 昔だったら銭湯とか床屋とか。歯医者でも予約制がないからだらだら待っていた。飲食店なら、チボリ公園みたいに、儲けることよりも会話することを仕事にするような目的の飲食店。多少、飲食で赤字が出てもそれは大丈夫みたいな。
高橋:
 飲食屋さんでやたら話しかける人を雇うってことでしょうか。やたら話しかける人を雇用するっていうのはなかなか面白いですね(笑)。ヨーロッパやアメリカなんかの飲食店には一言二言多い人がいますけど、あんなイメージでしょうか。
矢吹:
 やりすぎっていうのはまずいから、ほどほどだね(笑)。あと、総合的な街のイメージをどうするのかだよね。差別の経験を「まちづくり」にどう活かすかだよなー。
高橋:
 そこらへんですよね。今日お話を伺っていて一番矢吹さんらしいスタンスだなと思ったのが、そのへんで。「障害者のまちづくり」という言い方を矢吹さんはしないですよね。そこをうまく言う必要があると思うんです。「障害者のまちづくり」を考えていくと、「障害者」が外れて、ただの「まちづくり」になる、というのを言わないといけない、と思います。
矢吹:
 そうなのよ。どこか私は障害者はどうだっていいのよ。年寄りから子供からどうして普通に付き合えないのと。そこに障害者もいるだけなわけよ。
高橋:
 それを「ユニバーサルデザイン」と言われるとちょっと違うような…。
矢吹:
 なんでもっと自然にならないのかという違和感がある。就労の機会を増やすとかももっと当たり前にあったらいいんだが…。
高橋:
 そこで障害者に就労の機会が増えると、今よりも不便にはなると思うんです。例えば、マクドナルドに行って、窓口で言語障害のある人が対応して、僕はぜんぜんありだと思うんです。そこで時間がかかったりするのも、障害者も僕らも一消費者として受け止めていくことになると思うんですよ。
矢吹:
 どこにもここにも障害者をっていう理想の話と、実際に障害者が窓口にもいるっていう話と。なかなかオレも想像つかないんだけど。買うほうもゆっくりしているけど、売る方はもっとゆっくりしていたみたいな(笑)。
高橋:
 ラテンアメリカの商店みたいな。ゆっくりした時間の流れで…。
矢吹:
 前にフィリピンのレストランに行ったときに、コックが出てきて歌い始めて、「あれこの注文はまだ?」と言っても、「ちょっとこの歌を歌い終わってから」みたいな感じで。まあ、歌もうまかったけど(笑)。
高橋:
 僕も上京区で行きつけの喫茶店があるんですけど、お店に入っても30分くらい注文に来てくれなくて、お店に入った瞬間に、マスターが僕の前を通り過ぎて、入り口のテレビの前に座ってアニメを見始めるんです。そして30分見終わってから注文に来るんです。で、厨房の中で何かあったのか「ああしんどい。ああしんどい」とか叫び声が聞こえて。作り終わったら新聞を読み始める。ほどほどにしっかり仕事はしているんですけど、頑なに自分のリズムでやっている。案外、僕はそういうのが好きなんです。
矢吹:
 一挙に江戸時代に戻るわけにはいかないけど、お互いが許していける場所だよね。
高橋:
 「まずいラーメン屋にあえて行くのか」という話があります。「まずいラーメン屋」はつぶれてしまう。能力主義をラディカルに批判する活動家も、消費者としては能力主義――上手に作れることや早く作れること――を否定し切れない瞬間があるように思います。
矢吹:
 その部分だよね。だからそれをきちっと自分で納得ずくで分かった上でその能力主義をどう活かすかという部分だよね。
高橋:
 能力主義は否定しきれず、否定しきれないと、できる人とできない人の違いは残るわけですよね。
矢吹:
 ここが私なんかは矛盾しつつもどうするかの課題なんだ。「オレはこいつよりも能力がある」と思うことがある。だけども「この人のことはほっとけない」と思うわけだ。ほっとけないという思い上がりもありつつ、自分が関わらないとどうなんだろう、しょうがないなあという思いがある。
 能力主義と別なものがうまくかみ合わないといけないという部分もある。やっぱりオレは能力あるんだという開き直りをしたりする。あなた方とこんなふうに付き合える能力もあるぞという能力。たまたまそういう能力をオレが持ち合わせた部分を有効に使いたい。それがないととってもいやらしい障害者になるだろうね。そう思わないと。(後半に続く)

【注記】
 本インタビューは、2009年7月11日に行った。ここに記されている内容は矢吹氏に確認して頂きご了承頂いたうえで、WEBでの公開を行っている。日本自立生活センター代表者としてではない、矢吹氏個人への聞き取りであることを注記しておきたい。

*作成:高橋 慎一
UP:20090811 REV:0812, 0814
声の記録(インタビュー記録他)  ◇全文掲載  ◇矢吹 文敏  ◇自立・自立生活(運動)  ◇バリアフリー/ユニバーサルデザイン/アクセス/まちづくり  ◇地域社会におけるマイノリティの生活/実践の動態と政策的介入の力学に関する社会学研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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