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「『「反戦」のメディア史――戦後日本における世論と輿論の拮抗』を読む」

松枝 亜希子 20090821 第8回歴史社会学研究会レジュメ


歴史社会学研究会
2009年8月21日 松枝亜希子

◆書誌情報:福間良明,2006,『「反戦」のメディア史――戦後日本における世論と輿論の拮抗』,世界思想社,386p

目次:
序章 「反戦」のナショナリティ
第一章 「前線」と「銃後」に映る自己像
第二章 「学徒出陣」の語りと戦争体験――『きけわだつみのこえ』
第三章 「沖縄戦」を語る欲望の交錯――『ひめゆりの塔』
第四章 国民のアイデンティティと「被爆」――『長崎の鐘』『原爆の子』『黒い雨』
終章 「反戦」の世論と輿論――その限界と可能性

序章 「反戦」のナショナリティ

本書の目的
「反戦の語りは通時的にどのように変容したのか」と「反戦の語りにいかなる共時的な位相差があったのか」を考察すべく、言わば正典化された「反戦文学」を取り上げ、その受容プロセスを分析する。そのうえで、「反戦」の語りに込められた欲望とそこに映る戦後日本のナショナリティを検証していく。p6

作品分析と受容分析
(…)テクストの可能性や限界を内在的に捉えるうえでは作品批評は重要ではあるものの、その読みや受容から浮かび上がる世論/輿論を考えるうえでは、そうしたアプローチに限界がある。そこで、分析・検証が必要になるのは、「テクストの内容」ではなく、「テクストをめぐる語り」である。当然ながら、本書が考察対象にするのも、その後者、すなわち「人はテクストをどのように読みこんだのか」「それは原作者の意図と何が同じで何が違うのか」という点である。(…)
本書の主たる分析対象は、「反戦文学」について書かれた批評群である。むろん、それは、一般国民大衆の読みであるというよりは、自らの文章を公にできる層のそれでしかない。だが、そうした「テクストをめぐる語り」を収集し、読み解いていくことで、そのテクストをめぐる言説空間の時系列的変容やその内部の時的な位相差を浮き上がらせることができるだろう。p7-8

比較メディア論のアプローチ
むろん、そのテクストの受容は、その時々の社会状況に大きく左右される側面があるわけだが、同時に、そのテクストを入れた器=メディアによって影響されることも見落とすべきではない。社会背景とメディアの相互作用を通じて、そのテクストの受容は編み出されていく。本書はそうした比較メディア論の観点も取り入れながら、「反戦文学」の受容を読み解いていく。p9-10
戦争を語る心情と論理
本書でも「反戦」の「ヨロン」を見ていくうえで、「論理や事実に依拠した公的な意見・政治理論」としての輿論public opinionと「私的な領域にとどまる大衆的な叙情・情念」としての世論popular sentimentsとを区別して考えたい。p12

分析対象
本書では、書籍としてもヒットし、かつ映画化を通じ、全国民に広く知られるようになったテクストについて、重点的に分析を行う。P16

資料の収集作業としては、まず、各章で取り上げる作品の書評論文・記事を悉皆的に集め、新聞や読書紙での書評も可能な限り集めた。また、その点では映画評についても同様の作業を行っているが、それに加えて、『キネマ旬報』『映画評論』『映画芸術』といった主要映画誌については、戦後のバックナンバーを総当たりし、本書で取り上げる映画作品に関連する記事を収集した。P18

第一章 「前線」と「銃後」に映る自己像

戦後、「反戦」が論じられるなかでは、当然ながら「前線」と「銃後」は多く語られてきた。だが、やや結論を先取りすると、その両者に読み込まれてきたものは同じであったわけではなく、また戦後の社会変容に伴い、その読まれ方も変わっていった。そこから、いかなる「反戦」のポリティクスやナショナルな欲望が浮かび上がってくるのか。これが、本章のテーマである。
 それを考えるうえで取り上げたいのが、竹山道雄『ビルマの竪琴』と壷井栄『二十四の瞳』という二つの「健全で正典的な戦争の物語」の社会的な受容のプロセスである。p25

そうした対照性も有する二つの物語は映画化され、また文庫化されながら、いかなる層に向けてどのように提示され、また受容されたのか。そこに描かれる「前線」と「銃後」は、いかなる文脈で正当性を獲得あるいは喪失していったのか。p26

一 「前線」への視線の屈折
「義務」のもとに斃れた者の「鎮魂」の物語である「ビルマの竪琴」は、一面、戦争の原因や責任を追及しようとする当時の輿論public opinionに背を向け、あえて「逆コース」の心情popular sentimentsを確信犯的に提示したものであった。だが、そこで前面に出された叙情の背後には、竹山らオールド・リベラリストの「反共」の輿論public opinionも分かちがたく結びついていた。そして、そのような竹山の論理は、彼なりの「戦争の原因の追及」の延長に考えられたものであった。p31

では、そうした意図のもとに書かれた「ビルマの竪琴」の叙情は、どのように受容されたのだろうか。p32

 つまり、「ビルマの竪琴」は『赤とんぼ』や「ともだち文庫」シリーズという児童向けのメディアに載せられたことからもわかるように、それはあくまで「子ども向けの叙情的な物語」として受け止められており、竹山道雄がその背後に持っていた政治信条public opinionについて議論されることはなかった。p33

あくまで、市川による映画化(引用者注――1956年)において意図され、またその観客が期待したものは、童話としての「ビルマの竪琴」という物語ではなく、「大人」が見て「リアリティ」を感じる物語、「大人」が楽しめる物語であった。つまり、「大人」のための『ビルマの竪琴』が受容される素地が、そこに生起し始めていたのであった。P36

ビルマのような「前線」が語られるとき、一方で「弔い、肯定し得る自己」「平和建設への努力とその中での明るい生活」を見出そうとしつつ、他方では、たとえ書かれてはいなくとも、そこでなされた戦闘や侵略の行為、前線での「戦争の傷あと」も不可避的に想起されたのであった。その意味で、「戦後十年」は、あくまで「前線」と「弔い」の物語が、「批判の対象=逆コース」から「肯定的な評価の対象=順コース」へ移行しようとする「転回点」にあるにすぎなかった。そして、それゆえに、「前線」を思い起こさせない「戦争/反戦」の語りを人々は求め、それには何の躊躇もなく涙することができた。それが『二十四の瞳』であった。p41

二 「銃後」の賞賛

 占領者から「独立」とともに「平和」を与えられた日本は、必死にそれを守ろうとする。そこで模索されるのは、過去の徹底的な究明でもなく、かつて侵略した地域と「われわれ」の関係の再考でもない。そこにあるのは、戦時中の占領地域からの視線を拒絶して創られる「二度と戦禍を被りたくない罪なきわれわれ」という自閉的なナショナリティであった。逆に言えば、そうしたメンタリティに適合的であったがゆえに、「子ども」向けの童話であった『二十四の瞳』は、映画化を契機に「大人」の物語として受容されたのであった。p49

竹山においては「平和」の叙情popular sentimentsには、戦争を抑止するものとしての「反共」という政治主義public opinionが表裏一体に結びついており、そうした意志のもとで「ビルマの竪琴」も書かれたわけだが、それは、あくまで叙情の物語であったがゆえに、その発表当時の国民は、竹山の輿論までをも読み込むことはなかった。ベトナム反戦運動と原子力空母の寄港という国民的な輿論の盛り上がりに「ビルマの竪琴」が照らされるなかで初めて、人々は自分たちの読みと竹山の意図とのギャップを認識するに至った。竹山からすれば、そうした読みは「誤読」の道であっただろう。だが、人々はそうした「誤読」に立って、竹山道雄ではない「水島(上等兵)」を読み込んでいたのであった。p57

 つまり、「戦後四十年」の時期に新たに見出されるのは、「歳月で明澄になった鎮魂の意義」であった。そして、それは「硝煙の匂い」が消え失せていなかった「戦後十年」には見出すことのできないものであった。もっとも、「戦後十年」を「戦後五年」や「戦後三年」の時期に照らして「硝煙の匂いが消え失せ」ていなかったかと言えるかどうかは微妙だが、少なくとも一九八〇年代は、占領者によって「独立」を与えられた一九五〇年代前半とはまったく異なる時代状況にあった。pp60-1

一九八〇年代半ばの時点で好まれたのは、一九五〇年代に受容されたような「無垢な子ども」としての自閉的なナショナリティではなかった。むしろ、「ビルマ」を取り込みながら「西洋」に対置し得る自己像が求められたのであった。必然的にそこでは、「侵略」や「略奪」の記憶は「ビルマ」との調和性のなかに霧消し、「前線」の兵士の「鎮魂」には何のためらいも感じられない。「前線」のメルヘンは「大人の物語」として賞賛され、「銃後」の物語は再び「子ども」の物語へと転じていく。それを規定したのは、当時のナショナルな欲望にほかならなかった。p68

第二章 「学徒出陣」の語りと戦争体験――『きけわだつみのこえ』

本章では、戦没学生の遺稿・手記を集めた『きけわだつみのこえ』を取り上げる。p71

本章では、『きけわだつみのこえ』の読みの変容を分析しながら、「戦没学徒」と「反戦」に映し出される戦後日本のナショナリティの変化を考察する。p72

一 世論と輿論の混濁

(…)戦没学生の手記が、大学生というインテリ層の記述として読まれているのではなく「学生ではなかった兵士たちの、平和な生活に対する挙げえなかつた渇望の声に通じるもの」とされていることである。たしかに『きけわだつみのこえ』は、大学生というある種特権的な階層に属する者たちの手記集ではあったが、それはむしろ、意に沿わない形で戦争に動員されたあらゆる階層の思いを代表するものとして、受け止められていた。pp73-4

 佐多の前記の引用が示しているのは、『きけわだつみのこえ』が、そうした国民の主体的な戦争賛美の過去を苦々しく思い出させるものでもあったことである。むろん、そこには涙による贖罪の契機が見え隠れしないではない。国民のかつての戦争への熱情は、学徒兵の「精神を無にし、頭を空虚にする痛ましい努力」「文化と平和に対する人間の希望のじゅうりんされてゆく犠牲」に重ね合わせられ、それにより、「われわれ」は戦争の「被害者」として表象される。だが、その一方で、「自分をまがらせるものにさえなつたこと」や「自分が泣くということ」への「別のおもい」をも、読者は突きつけられたのであった。pp75-6

 しかし、『きけわだつみのこえ』が感涙をもって読まれつつも、そこに違和感を抱く向きも少なくはなかった。とくに、敗戦を三〇歳前後で迎え、青年期には自由主義やマルキシズムの思想にもふれていた戦前は知識人やそれより上の世代には、そうした傾向が顕著に見られた。P76

「わだつみ」に批判的なスタンスをとった者たちに概ね共通していたのは、実効性のある戦争阻止の方策を模索しようとする政治的な公的意見=輿論public opinionであった。軍や聖戦への違和感を個人的な倫理に昇華させてしまった「わだつみ」、あるいはそれに涙する世論=大衆的感情popular sentimentsに一定程度は共感しつつも、彼らがそれに不足を感じたことには、そうした背景があった。P81

 しかしながら、戦没学徒の「眼界の狭さ」を指摘する議論のほかに、別の角度から戦没学生の責任を論じる議論も、一部ではあったが存在した。それは加害責任や積極的な戦争協力を問うものである。P81

 これら野元や森の議論は、「公的な政治の言葉=輿論public opinion」と「心情の問題=世論popular sentiments」を重ね合わせたものであった。学徒兵の責任や欠陥を一方的に指弾するのではなく、そうした「政治」の問題を、自身も含めた国民の心情・内面の問題としても、捉え直そうとする。また『わだつみ』に涙しつつ、自己の戦争協力の問題を想起した佐多稲子も、そうした志向につながるだろう。
その意味で、刊行当初の『きけわだつみのこえ』評は、輿論と世論が往々にして混然と入り組みがちであった。戦前派知識人やそれ以前の世代には、学徒兵の政治的な視野の狭さを問う輿論public opinionも存在したが、そうした議論の背後においても、荒正人などのように、学徒兵の悲哀に対する「涙」を伴うことも少なくなかった。また、他方で、学徒の悲劇を自らの過誤に重ねたり、学徒の戦争協力の熱狂や「加害」を自己の内部の問題として把握する向きもあった。つまり、この時期には、「反戦」「戦争」を政治のレベルで捉える輿論public opinion と感情のレベルで捉える世論popular sentimentsとは、必ずしも明確には分化されていなかった。終戦後四、五年の時期は、まだ、それらをくっきりと分かつには、戦争の記憶が生々しく、きれいに整理することは不可能であったのだろう。pp84-5

二 遺稿集の映画化

一九五〇年六月、東横映画はこのテクストを原作として、『きけ、わだつみの声』を公開した。P85

しかしながら、賞賛とは別に批判もこの映画には多く寄せられた。とくによく指摘されたのが、人物設定の類型化である。この映画では、前述のように、大学出の兵士はすべて良心的に描かれているのに対し、士官学校出身の大隊長・中隊長の描写は、粗野で滑稽なものとして一貫している。そうした二項対立図式では見えないものの存在が、多くの批評家によって指摘された。P88

そして、そのような状況は、書籍の『きけわだつみのこえ』の読みにも通じるものであった。一方では、学徒たちの「社会構造を見抜く力の弱さ」のようなものが議論されつつも、戦時期の自己との対比で、そうした議論への割り切れなさを感じる向きも多かった。そして、前述のように、そこには輿論public opinion と世論popular sentimentsが往々にして重なりがちであった。つまり、『きけわだつみのこえ』の書籍化・映画化がなされた一九五〇年前後の時期においては、「反戦」をめぐる輿論と世論は画然と分けられるものではなく、むしろ、両者が混然と入り混じりながら、戦争体験をわかりやすく語る輿論/世論とそれへの違和感とが拮抗していた。pp92-3

三 與論への拒否感と世論への執着

 書籍の好調な売れ行きをうけて、東大生協は、一九五〇年四月に日本戦没学生記念会(第一次わだつみ会)を発足。
第二次わだつみ会は一九五九年六月に発足。

『きけわだつみのこえ』は、一九五九年に光文社カッパ・ブックス・シリーズの一冊として再刊。
目新しくもない本の新たな読者層を掘り起こしつつ、それを長く読み継がれるべきものとしていったというのが、『きけわだつみのこえ』におけるカッパ・ブックスの機能であった。P101

 安田(―第二次わだつみ会の常任理事を務めた安田武)が戦中派として疑問に感じていたのは、戦前派、あるいはそれ以前の知識人が「大義名分」を振りかざしながら、そこに「共犯意識」や「気恥かしさ」や「ためらい」が欠如していたことであった。(…)安田は、彼らが戦争体験の感情popular sentimentsを捨象し、政治の言葉public opinionにこだわろうとするところに、ひとつのポリティクスを見ていたのであった。P110

そこで少なからず意識されているのは、理由はともあれ、結果的に戦争に加担した学徒兵の責任の問題である。つまり、学徒兵は、無垢な罪なき犠牲者では必ずしもなかった。たとえ学徒出陣を強制された者たちであれ、戦争に加担・協力したこと自体は、「反省」し、「恥辱」として捉えられるべきものであった。そして安田は、「共犯意識」や「気恥かしさ」「ためらい」といった鬱屈した感情popular sentimentsを起点にして、「恥」を感じることなく声高に「民主主義」を叫ぶ戦前派知識人の輿論public opinionの政治性を批判したのであった。p111

四 「反戦」の象徴から「反動」の象徴へ

彼ら(元学徒兵の判沢弘、戦中派世代の平井啓之)の議論に共通していたのは、農民兵士の加害責任追及に比べて学徒兵のそれへの論及が少ない安田らの議論への違和感であった。p114

鶴見(鶴見俊輔)の認識からすれば、学徒たちの知識の有無ではなく、「優等生」たらんと欲する性向やそこから敷衍される「順法精神」こそが、彼らに「カウンター・クライム」ではなく「原犯罪への加担」を選択せしめたのであった。P117

声なき「死者」の声、容易に言い表せない心情―そうしたものに謙虚に耳を澄ます真摯さがなければ戦争体験の本質は伝承できないことを、安田は語ろうとしていたのであった。
 その意味で、戦中派と以降の世代間の戦争体験をめぐるディスコミュニケーションには、根深いものがあった。P126

高橋らは、戦後世代派の議論は「現代の立場」からの戦争体験の解釈を可能にするものであり、その意味で「記憶の相対主義」に立っていた。p127

1969年 わだつみ像破壊事件

「わだつみ」は「反戦」の象徴などではなく、むしろ「権力に迎合する大人たち」「何の抵抗もできなかった無気力な大人たち」を映しだすものであり、ひいては、そうした「大人たち」のよって作りだされた「戦後民主主義」の閉塞を象徴するものであった。P135

五 古典化と「伝承」の問題

一九九五年 岩波文庫に採録
一九九五年二度目の映画化

安田武が固執したような戦争体験の世論popular sentimentsを抑制し、「加害」の輿論public opinionに比重を置いたこの映画は、「加害責任」そのものを若い世代に感じとらせることはできたかもしれないが、そこでの「伝承」は、問いを自らと切り離すことで成り立つものであった。そこでは、戦争体験につきまとうさまざまな矛盾含みの心情や侮恨popular sentimentsは「加害」の輿論public opinionの影にかすみ、若いオーディエンスにはほとんど届かなかった。若者たちの知識を配慮して「わかりやすさ」と「おもしろさ」を追求しようとすればするほど、「戦争体験」そのものの伝承が不可能になっていく――そのような逆説が映画『きけ、わだつみのこえ』にはつきまとっていたのであった。p151

第三章 「沖縄戦」を語る欲望の交錯

「反戦の語り」において、「沖縄」はいかに位置づけられてきたのか――これが本章のテーマである。p155

本書では、そうした『ひめゆりの塔』の社会的な受容状況やその変容プロセスを検証し、そこにあらわれる政治性について、考察する。p155

一 『沖縄の悲劇』と戦場体験の複数性

仲宗根政善は、映画『ひめゆりの塔』の原作となる『沖縄の悲劇』を一九五一年にまとめた。p155

だが、仲宗根が『沖縄の悲劇』を刊行した動機は、その戦争体験のみにあったわけではなかった。むしろ、そうした戦争体験が当事者の思いを超えて「殉国美談化」されることへの違和感が、刊行動機の根底にあった。P157

二 映画化と「リアリティ」

『沖縄の悲劇』が一九五三年に『ひめゆりの塔』として映画化 今井正監督 p162

このことは『わだつみ』と『ひめゆり』に読み込まれたものの質的な相違を浮き彫りにする。両者はともに国民の「反戦」に対する共感を映したものであったとしても、『きけ、わだつみの声』は「戦争批判」という輿論public opinion(政治的な公的な意見)を強く印象づけたのに対し、『ひめゆりの塔』では「健気さ」「純真さ」といった世論popular sentiments(大衆的な感情)が読み込まれた。逆に言えば、そうした受容も、「インテリの男」ではなく、「無垢な少女」を扱ったがゆえに可能となったのであった。pp164-5

本土の批評家たちは、ひとつの物語やその抑揚が見えにくいがゆえに「単調さ」を感じたのに対し、仲宗根は、むしろ「リアリティ」の前に複雑で多様な戦場体験が見えにくくされることを憂えた。仲宗根にとっては、今井が描こうとした「集団のなかの個々の体験」は、いかに技術的にすぐれた「リアリティ」によってであれ、表現できるものではなかったのである。P174

三 『あゝひめゆりの塔』と高度経済成長期

一九六八年に再映画化 『あゝひめゆりの塔』 舛田年男監督

こうした相反する二つの戦争認識(ナショナル・アイデンティティ論、加害責任論)が併存したなか、『あゝひめゆりの塔』はいずれの潮流にとっても、注目に値するものではなかった。当時に求められたのは、経済的には成長過程にあったとは言え、敗戦で失われた国民的な自信を取り戻させるようなものか、さもなくば、ベトナム戦争における米軍批判につながるような「加害」「侵略」を扱うもののいずれかであって、「純真な少女の悲劇」といったセンチメンタリズムではなかったのである。P179

一九七〇年の仲宗根の日記
もっとも、仲宗根の場合、じっさいに戦後派・戦無派との論争の渦中にあったわけではなく、したがって、「心情」という言葉を多用するわけではないが、戦場体験者固有の体験にこだわる姿勢は、明らかに「戦争体験の心情」に批判的な戦後派・戦無派の輿論とは対極的で、安田の世論=心情に近しいものがあった。P185

「平和な日本」による「加害」やコロニアルな欲望を焙りだし、また、ともすれば予定調和的に映る「国家」のなかの断層やヒエラルヒーを明るみにするだけではなく、それを突き崩し改変していく能動性や義務感をも「マイノリティ」たる自らに付与する――そのことが、仲宗根の戦場体験から想起されていたのであった。そこでは、戦場体験への固執という、言わば閉鎖的な心情=世論popular sentimentsを起点としながら、「加害」を問い質し、状況の改変を積極的に志向する開かれた輿論public opinionが紡がれていた。p187

四 「加害責任」という議題設定

一九八二年、『ひめゆりの塔』は一九五三年に続き、今井正によって再映画化

だが、「アジア諸国への加害責任」という政治的な正しさは、沖縄戦の映画に言及しているときですら、「沖縄への加害」を見えにくくさせる作用を有していた。(…)「加害責任」という政治の言葉public opinionは、センチメンタリズムpopular sentimentsを斬り捨てようとする「良識」を突き詰めるなかで、画面のなかで浮き上がっている「沖縄への加害」そのものから眼を背けさせることになったのである。P193

『ひめゆりの塔』は神山征二郎監督によって、一九九五年に三度目の映画化

それに対し、『ひめゆり』で描かれた「沖縄の健気な女子学徒」には、そのようなイメージを仮託することはできない。沖縄守備軍と米軍に翻弄されるだけの「健気」で「純真」な「少女」たちは、バブル崩壊で失われた国民的な自信を何ら埋め合わせるものではないし、かと言ってアジア諸国への加害責任論を満足させるものでもない。「沖縄の女子学徒」は、分裂した世論と輿論のいずれをも充足し得なかったのである。p198

第四章 国民のアイデンティティと「被爆」

本章では、「原爆」を扱った作品の受容を通じて、「国民(非被爆者)」と「被爆者」の関係性やその変容を考察する。

一 「祈りの長崎」の誕生

永井隆 『この子を残して』1948『長崎の鐘』1949

ここで強調されているのは、無条件降伏の決定と浦上の被爆の結びつきである。浦上の被爆死者は戦争を終結させるための尊い犠牲として神に召されたのであり、長崎原爆は「天主の妙なる摂理」であった。P205

つまり、永井が説く「神」の教義は、「神の摂理」として原爆投下を肯定する「祈りの心情」popular sentimentsへと人々を誘うのみならず、それにより原爆投下をめぐる政治的な輿論popular opinionを抑制するものでもあったのである。P208

 それ(戦争の語り)に対し、原爆の語りにおいては、輿論は影にかすみ、「祈り」や「ヒューマニズム」といった叙情popular sentimentsばかりが前面に押し出された。むろん、これは先述のように、原爆に対するGHQの言論統制によるものではあるが、同じ「戦争」を扱うにしても、占領下では、原爆の語りとその他の戦争全般の語りとの間には、世論popular sentimentsと輿論public opinionのこうしたねじれが存在していたのであった。p213

二 「被爆」の語りの広がり

一九五二年映画『長崎の歌は忘れじ』田坂具隆監督

一九五一年 長田新編『原爆の子』 広島で被爆した児童・学生の手記集

その意味で、長田は、被爆者たちの心情popular sentimentsに向き合いながら、それを輿論public opinionに結びつけようとしていたと言えよう。長田は「原爆の子」らの手記に、政治的イデオロギーに染まっていない純粋な心情popular sentimentsを見出し、それをもって、再軍備問題や平和の運動の輿論public opinion の問題性を照らそうとした。だが、そうした志向は同時に、被爆者をとりまく状況を批判的に捉え、その転換を目指す公的な意見public opinionにも接合した。pp227-8

長田の被爆の捉え方は心情popular sentimentsと政治的主張public opinionが渾沌と入り混じったものだが、そこには心情=世論から現状の政治状況・社会状況に異議を唱える輿論を生み出そうとする意志が存在していた。pp228

桑原(武夫)や三好(達治)は『原爆の子』のなかに「大人」の輿論public opinionの澱みを批判し覆す可能性を持つものとしての「子ども」の世論popular sentimentsを見ていた。彼らは、「子ども」に投影された「純粋」な世論の「逞しさ」に、「憲法改正」や「再軍備」に傾きがちな世論を是正する契機を見いだそうとした。P233

三 占領終結と「反米」のアンビバレンス

一九五二年に『原爆の子』映画化 新藤兼人監督

新藤が原爆を描くうえで重きを置いたのは、明らかに、政治的主張public opinionではなく、叙情popular sentimentsであった。P240

一九五三年 映画『ひろしま』 関川秀雄監督

ここで評価されているのは、明らかに、惨状の描写のリアリティであった。叙情に重きが置かれた『原爆の子』とは異質な描写が、好意的に受け入れられたのであった。pp249-50

総じて、原爆をセンチメンタルに捉えようとする世論popular sentimentsよりも、惨禍の事実に重きを置いて思考しようとする輿論public opinionが際立つ傾向にあった。視覚的な「リアリティ」を表現可能な映画の場合、それはなおさらであった。P253

四 原水禁運動の分裂と『黒い雨』の賞賛

一九五四年 ビキニ島水爆実験

(原水爆禁止大会などの)こうした運動の展開に見ることができるのは、原水爆禁止の世論popular sentimentsではなく輿論public opinionの盛り上がりである。P257

一九五〇年代半ば以降、政治的な輿論public opinionを全国民的なレベルで喚起してきた原水禁運動は単なる政争の場としか映らなくなっていった。P260

一九六五年 井伏鱒二『黒い雨』

それはすなわち、原爆の輿論public opinionばかりが過剰になり、当事者の情念popular sentimentsが切り捨てられることへの憤りであった。『黒い雨』はそのような動きから距離をとり、当事者の日記に依拠しながら「庶民の平常心」を描こうとしたがゆえに、国民に熱烈に受け入れられたのであった。pp267-8

 このように、『黒い雨』にはさまざまな「平常心」popular sentimentsが読み込まれてきた。それは、被爆者―非被爆者の断層を覆い隠し、そのヒエラルヒーを見えにくくしながら、安定したナショナルな自己を見出すことにもつながれば、その逆に、「平常心」の緊張感から自己を問い質し、「本土」の外に目を向けた開かれた輿論の構想に接合することもあった。そして、そのことは『黒い雨』に限らず、『長崎の鐘』や『原爆の子』あるいは『ひろしま』にも通じるものであった。p288

終章 「反戦」の世論と輿論

一 占領終結前後の「反戦」

つまり、一九五〇年前後の時期に見られたのは、「反戦」の世論もしくは輿論のいずれか一方ではなく、その双方の交錯であった。戦争をめぐる心情popular sentimentsと政治的な思考public opinionは、この時期においては分かちがたいものであったのである。Pp292-3

必然的に、占領下の「原爆」の語りは、輿論public opinionではなく世論popular sentimentsの次元に偏重せざるを得なかった。そのことは、「原爆」以外の戦争の語りが占領統治下ではそれなりに輿論を意識していたのとは、対照的であった。原爆をめぐる占領下の言論統制は、戦争の語りにこうしたねじれを生起させていたのである。P298-9

二 反戦の世論と輿論の変質

ただ、このように六〇年代から八〇年代にかけて反戦ナショナリティが変容する一方で、反戦をめぐる世論popular sentimentsと輿論public opinionの乖離が露呈していくようになった。P306

その意味で安田は、政治的な輿論public opinionというよりはむしろ、戦争体験の情念popular sentimentsに可能性を見いだしていた。
しかしながら、戦後派・戦無派世代は、そうした安田の志向に反発した。(…)したがって、彼らは積極的に「死者の声」や「戦争体験」を「主体的」に読み替え、自らの政治的スタンスを流用することを主張した。彼らは明確に「反戦」の世論popular sentimentsを棄却し、輿論public opinionを選択したのであった。P307-8

三 メディア・正典化・リアリティ

むろん、「反戦」のテクストが受容されるうえでは、その時々の政治状況や社会状況が密に関わっていたわけだが、同時に、そのテクストをいかなる「器=メディア」に載せたのかということも、国民的な需要に少なからぬ影響を及ぼしていた。P315

ただ、映画化が共時的に国民的な話題性を生み出したとしても、それが通時的に受容されるとは限らない。ベストセラーは必ずしもロングセラーではない。にもかかわらず、それらが長らく読み継がれるうえでは、新書化や文庫化が果たした役割は大きかった。P317

結局、戦争体験を「わかりやす」く伝承しようとすればするほど、そこには伝承されないものが多く蓄積されていった。「わかりやすい伝承」は、むしろそこからこぼれ落ちるものを増大させ、それをブラックボックスのなかに封印する。そのような逆説を、「反戦」のメディア史は、如実に浮かび上がらせていた。P323

四 「被害―加害」「世論―輿論」の架橋

そうした輿論の過剰が含み持つ問題性は、一九六〇年代半ばに原水禁運動が被爆者を置き去りにして党派抗争を繰り返したことに見ることができるが、その構図は一九八〇年代半ば以降の「加害責任論」にも垣間見られた。「加害責任論」における「政治的正しさ」の過剰は、「被害者意識」の心情を遠ざけようと性急なあまりに、かえって自らの政治的ドグマに足元をすくわれかねない。それは、「被害」あるいは「戦争体験」の心情=世論へ徹底的に固執した末に見い出される「加害責任論」とは、およそ異質なものであった。P328

このように、「反戦」の語りや読みには、さまざまな限界と可能性とが絡み合っていた。「反戦」は、一見ナショナリズムとは対極にあるかのように見えるが、そこには、戦後日本のその時々に都合のよいナショナリティが読み込まれていた。その「反戦ナショナリティ」は時系列的にも一様であったわけではなく、「沖縄」「原爆」「前線/銃後」など、じっさいに語られる対象によっても、異なるものが見出されてきた。しかし、さまざまに矛盾を孕みながらも、それは本土/国民の欲望を「平和」に仮託して表出するものであったことは疑い得ない。p330


*作成:櫻井 悟史
UP:20090830 REV:
全文掲載  ◇歴史社会学研究会
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