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「まとめ・リハビリテーション従事者とメンタルヘルス従事者 2」
リハビリテーションとメンタルヘルス(12)

『地域リハビリテーション』三輪書店 2009/08
片山 知哉


リハビリテーションとメンタルヘルス 第12回
「まとめ・リハビリテーション従事者とメンタルヘルス従事者 2」

片山知哉(横浜市総合リハビリテーションセンター発達精神科医師/立命館大学大学院先端総合学術研究科博士後期課程)

三輪書店『地域リハビリテーション』2009年8月号に掲載
https://ssl.miwapubl.com/index.php
https://ssl.miwapubl.com/products/list/27


■ 二次障害の“治療”?

 前回,僕がここで記したことを確認するところから始めよう。精神科臨床現場で僕らが相談を受けるものには,単純化してしまえば「病相性の疾患」と「発達性の問題」の二つに凡そ分類できる。そして,精神医療ができることとできないこととの境界線も,概ねこの分割線に重なっている。
 「病相性の疾患」とは,人生の途中から起こる「病気」のことであり,こちらは内科など他の医療分野と同様に治療に取り組むことが出来る。しかし「発達性の問題」は,生まれ持った特徴や育ってきた環境によって生じる「生き難さ」であり,その苦悩は現実の困難に由来し,その困難は医療では変えられない。
 ところで,病院内他科や院外他機関からの相談の中には,少なからず「発達性の問題」が含まれ,しかもその解決を求められることがある。例えば,二次障害としてメンタルヘルスの悪化が認められるので,精神科で治療して欲しい,といった依頼がある。その都度僕は,どのように説明し応じるべきか,考えあぐねてしまう。

■ 二次障害の/と歴史

 二次障害とは何か。それは,何らかの一次障害という身体状況を持つ人間が,現存する社会環境の中で生きていく間に,被ることになった様々な不利益が再度本人に身体化したものである。つまり,一次障害と環境との相互作用がその成因であり,その意味でこれは「発達性の問題」に属する。
 障害児医療そして障害児教育は,率直に言って二次障害に塗れた歴史であった。それは,障害の克服か受容かという相容れようも無い思想の両極の間を振動した。不適切な介入が為され,必要なものが与えられなかった結果は,二重の意味での二次障害を帰結した。脳性麻痺者が呈した生理的燃え尽きや,自閉症者が被った教育的ネグレクトは,現在を生きる彼らの姿を通じて我々に配達される歴史的真実である。
 なにが,間違っていたのだろう。医療や教育の専門家を,ただ非難すれば済むような問題でないことは確かだ。その背後に広がっていたのは,包摂型福祉国家と表裏一体となった国民形成国家であり,単一の社会・文化へと同化するか放逐されるかの二者択一しか存在しなかった時代だ。医療も教育も,そのメカニズムを批判できずに,与えられた枠内で思考し実践することで追随したのだ。

■ 本人の時代へ

 だが,現存するある社会や文化が,全ての人間にとって適切なものだとは限らない。また,この世界に社会や文化は複数存在する以上,将来所属する先は複数想定され,所属の前提となる文化習得である社会化も複数存在するはずだ。当然とも言えるこうした現実認識を開いたのは,専門家ではなく本人たちだった。
 専門家でも家族でもなく,本人の時代が展開する。その主張は一方で,この社会に多様性包摂とその具体的手立てを要請し,もう一方で,独自の文化伝承を保障する多民族共生の訴えを成した。前者が障害者運動であり,後者がろう者の運動であった。自身の身体状況に対する,承認の,あるいは多文化主義の二種類の様態がそこにあった。

■ ろう者の主張

 ろう者たちは,自らを言語文化的に,つまり独自の民族として規定し,他の民族と同様,文化の伝承・継承を権利として主張する。つまり,聞こえないという身体状況を持って生まれたこどもを,本来「ろう児」であり,「手話言語」と「ろう文化」を身につけて,将来は「ろう集団」へと所属するものと捉える。デフ・ナショナリズムとも呼び得るこうした認識は,決して極端なものでも一時の流行でもなくろう者の間ではごく自然なものとして受け継がれてきた。
 彼らが医療や教育を批判する語り口は,当然のことながら痛烈なものだった。ろう児から手話言語とろう文化を習得する機会を奪い,聴能主義の圧政の下で音声言語を押し付けていく権力作用を,「言語植民地政策」や「ジェノサイド」と呼んだ。確かにその場で生じている,聞こえない人間同士の分断そして相互反目や,内面化された聴能主義,低言語力あるいは少なくとも低リテラシー問題,それらは全て植民地支配の後遺症として捉えた時に最も良く理解することが出来る。
 つまりろう者の主張とは,端的に言って脱植民地化の主張であった。しかも聞こえないという身体状況は多くの場合に親子間で共有されないがために,その最初の戦場は家庭となった。自分に音声言語を強いる親,その背後には医療や教育の専門家,かつその背後には国民形成国家と,幾重にも取り囲まれた社会化装置の中で孤立するろう児を,どのようにしてろう者集団へと迎え入れるかが課題だった。
 聞こえないという身体状況を持って生まれながら,ろう者集団に辿り着けないままに成長し,結果として手話言語とろう文化を身に付けることができなかった難聴者たちの,言語力・思考力や,精神保健上の困難を指摘する報告は多い。それは,確かに二次障害である。しかしその二次障害を理解するとは,上記のようなろう者たちの被ってきた歴史と政治的状況を理解することに他ならない。

■ “専門家”の責任

 二次障害とはつまり,本来は避けられたはずの事態を名指す言葉であり,その概念の使用は不可避的に論者自身の倫理的かつ政治的立場を示すことになる。その立場とは,過去そして時には現在にまで続く不正義に,憤り批判するというものだ。言語的かつ非言語的な彼らの証言に,呼び掛けられてしまった僕らには,その責任がある。
 例えば難聴者の二次障害に向き合うとき,僕らはそこに二つの距離を見出してしまうだろう。障害者権利条約において,手話は音声言語と対等な言語として明記されている。それは,手話を言語と見做さなかった過去からの決別を象徴していると同時に,未だに手話言語を媒介言語とするろう教育の整備ができていない日本の現状との落差も明かし立てているのだ。
 そして二次障害は,二重の意味で現在の問題でもある。一つには,二次障害という困難は彼らの現在において持続しているという意味で。また一つには,新たな二次障害が現在も生産され続けているという意味において。つまり,二次障害の指摘を通じて為される不正義の告発は,再帰的に僕らのいまの実践にも向かわざるを得ないということだ。
 僕らは意識的あるいは無意識的に,直接対面を通じてあるいは間接的にメディアを介する形で,こどもの第一次集団である家族に望ましい社会化の方向と方法を提示し,そのことが家族が為す養育のありように大きく影響を与え続けている。とりわけこどもが障害という身体状況を持つ場合には,一般集団の場合に比して専門家による情報支配が大きいために,そのことがより妥当する。
 しかし,考えてみよう。障害のあるこどもにとって,適切な社会化とは何かという問いに,僕らは完全な解答など持っているだろうか。一方で同属性の成人の語りなどを通じ,可能な限り多くの情報を集める必要はあるだろうが,それは高々近似値に過ぎず眼前のこどもの将来の完全な予見には程遠いものであり,従ってこの作業には終わりが無い。だが一方で,僕らが迷い続けている間にもこどもの時間は過ぎていく以上,躊躇い続けることもまた無責任な態度と言わざるを得ず,この現在において応えていかねばならないことも確かなのだ。この狭間に踏み止まり続けることこそ,現場で仕事をする専門家の倫理なのだと僕は思う。

■ 政治へ

 「リハビリテーションとメンタルヘルス」と題したこのリレー連載も,これが最終回である。ここで僕は二次障害について語ることを選択し,冒頭に二次障害への精神科治療を依頼されることの当惑を記した。
 無論,精神医療の専門家に協力を依頼すること自体は,全く正しいことだ。当該一次障害による二次障害と,他の一次障害例えば新たに独立に生じた精神疾患とを混同してしまう誤りは臨床現場では頻繁に起こっているし,二次障害自体が更なる不利益をその個人に招くことも事実としてある。従って,心理的困難を認めるのであれば,正確なアセスメントと適切な介入をすべきであるし,その際必要なのであればどんどん僕らに声を掛けて貰いたいと思う。
 ただ,二次障害の理解とはむしろそこから始まるのであり,その深みと広がりを把握する作業は精神医療の専売特許ではあり得ない。僕ら人間はそれぞれに多様な身体を持って生きているのだが,現存するこの社会の不正義によってある者は幸福になる権利を奪われてしまっているという事態に向き合う責任は,専門家だけのものでさえないと言うべきだろう。

*作成:片山 知哉
UP: 20090804
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