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部落解放運動の過去・現在・未来(4)――山内政夫氏(柳原銀行記念資料館)に聞く

インタビュー記録/聞き手:山本 崇記


◇柳原銀行記念資料館
http://suujin.org/yanagihara/

【趣旨】
 これは、現在、柳原銀行資料館事務局長を務め、その他様々な地元の住民運動やまちづくりにかかわり続けてきた山内政夫氏に、今後の部落解放運動の展望がどうあるべきかというテーマについて関心に沿いながら行ったインタビュー記録の第四弾である。

【山内政夫氏・略歴】
 1950年、京都市東九条生まれ。小学5年生の時から丁稚として働き出す。陶化小学校・陶化中学校卒。17歳のときに自主映画『東九条』の制作に監督として参加。その直後に共産党から除名。工場などで働きながら、地域の青年たちと反差別の運動に取りくむ。30代になってから資格を取り鍼灸師として開業。1984年に部落解放同盟に加入。2003年〜2006年まで部落解放同盟京都市協議会議長を務め、辞任。現在は、柳原銀行記念資料館で地域史(部落史)を丹念に掘り起こしながら展示としても広く発信し、さらに、崇仁・東九条でまちづくりに携わっている。



■「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」の終了

山本:2007年から始めさせて頂きましたこのインタビュー企画も今回で四回目となりました[1]。2008年3月から2009年3月まで行われた「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」(以下、総点検委員会)から、最終の報告書が提出されました[2]。それを受けて、まず、報告書の評価についてお聞きしたいと思います。そして、総点検委員会以後の被差別部落の現状、特に崇仁地区の状況についてお聞きし、さらに、総点検委員会とも無関係ではない東九条の実践の状況についてもお聞きしていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 早速入っていきたいと思います。総点検委員会は計15回の会議が行われ、非常にハイペースに進みました。山内さんも総点検委員会にはほぼ毎回参加されていたと思います。第一印象のようなものからで結構ですので、感想をお聞かせください。

山内:15回のうちの12回から13回ぐらいには出席しました。出席といっても傍聴というか、裁判の傍聴のような印象があるんやけどね。裁かれているのが同和行政であり、解放運動であり、これまで経験したことのないような、そういう印象やったね。

山本:第1回目、第2回目と、傍聴席が抽選で参加できない人もでるぐらいの注目の高さだったと思います。裁かれる側であった解放運動の反応が、実際に崇仁にも関われている山内さんの目からどのように見えていたのかをお聞きしてみたいのですが。

山内:まずこの委員会が画期的であったのは、公開性というか非常にオープンなかたちで議論されるということで、そういうことが必要だったんだろうと思っています。それは大正解やなと。隠さなければならないことはないはずやから。各委員さんも、一部の委員を除いて、部落問題については素人だった。こういう組織やったけど、結局、どっぷりと運動に浸かったりね、地元のことをよく知っている人だけが、部落問題を客観的にみれるわけではないし、同和行政をみれるわけではないので、そういう意味では、一種部落問題は深く分からないけれども、市民的な目線で、そういうものを客観的にどうみるかというね、そういう人の意見がかなりあったことはちゃんと受け止めていくべきかなと思います。
 地元のことを知らなくても、客観的にみるということは、事実を突いているというような場面が多々あるだろうと。気の付かない点を、同和行政なり運動や地元がどう考えるのかという幅広い視点がないと、ダメなんじゃないかなという感じやね。

山本:当事者にとっては、部落問題を知らない素人によって、自分たちの生活が左右されるということに関しては苛立ちや批判もあったわけですが、議事録も報告書もすべてホームページに公開されています。関わりがなかった人たちによって委員会が構成されている方が、議論しやすい雰囲気を作れる、指摘できるという点で、この人選も委員会の公開性に繋がっているということですね。もちろん、一定の危うさがあるわけですが、評価できる部分だったということでしょうか。

山内:そうですね。必ずしも行政側の考えに沿ったものばかりではないのでね。かなり京都市にも厳しくいうこともあったのでね。その意味でも、客観的にみたうたえで評価しなければならんやろうね。

山本:委員会の事務局は人権文化推進課でした。基本的に資料や議事、方向性については事務局・京都市当局がリードしていた面もあると思います。コミュニティセンターの廃止をめぐる議論などでは、委員会と京都市での思惑のズレも露呈されました。行政側の進め方、方向性、あるいは、狙いなどについて思われたことはありますでしょうか?行政がこの委員会に、方針をしっかりもって臨めていたのかどうか、それとも、でたとこ勝負だったのか。施策の廃止が前提で、部落切り捨てのアリバイにしないようにというのは総点検委員会も警鐘を鳴らしていました。事務局の意図、京都市の意図が山内さんからはどのようにみえていたでしょうか?

山内:人権文化推進課の方は熟知して、運動の限界なり、地元の各種団体の限界みたいなものもね、ちゃんと分かっていて、そのうえで戦略戦術を練ったんだろうと思います。打ち切りということがありきということもないわけではないけれども、この間何回も京都市も、痛い目にあっているんでね。何年か前の家賃の値上げに関する不祥事件。それから、補助金をめぐる問題に現れているように、京都市としては非常に誠意をもってやってきたにもかかわらず、結果的に巻き込まれたという思いを持っている人もおるやろう。別に解放運動に反発したわけではないやろうけども、そういうことを熟知したうえでの方向性やと思う。人権文化推進課の方がより多くのことを考えた結果やろね。
 しかし、分かり切っていたわけで、こういう事態になることは。部落解放同盟京都市協議会でも何回も議論したし、それではあかんからNPOを作って、しっかりした路線でやろうということは、わたしが解放同盟のなかに残してきたものなんでね。実際はそれはそうならへんかったということやから、行政を責めるということよりも、自分たちの運動の限界とか在り様に目を向けることがこの際いいのではないかと思っていますね。人権文化推進課の担当者も同和行政についていろいろ考えてきた経緯があるのだから、一気に切るということではないと思うし、そのあたりは信用している。この間の人権文化推進課のトップを務めてきた人は、長年、被差別部落をずっと見てきた人。わしら側がこの人を「なめて」しまった。人を見る目がないのや。

山本:そう考えると、総点検委員会というものを解放運動がどのように受け止めるのか。あるいは、委員会の過程で、運動の再構築を図るのかという課題が投げかけられていたとも考えられるわけですが、どういう対応がなされたのか。例えば、部落解放同盟であれば実態調査の責任が行政にあるのではないかということでしたし、地域・人権連であれば部落差別は解消しているという年来の主張があります。市民ウォッチャーとしては奨学金等に関して、厳格な返還基準を設定すべきという主張などがあったと思います。ただ、この1年間での運動の再構築という点からすると、厳しい評価になるのでしょうか。

山内:そもそも議論してきた中身というのは、何回も組織のなかで議論してきた結果やから、そういう改革をしていくということに関しては反対やったわけで、だから、反対の考え方が潰され、悪しきものが遺されたのであって。本来の運動が潰されたのではないと思っていて。これから同和行政に頼らないでも、自分たちで方針・方向を示して、社会運動として自立していくということを考えればいい。前みたいにお金が入ってくる、行政が手助けしてくれる、社会全般も部落問題を特別扱いしているという状況のなかで成立する運動なんていうのは面白くないし、決して、社会を変えることにはなっていかない。むしろ今の状況の方が、運動を立て直すという意味ではいいのではないかと思う。
 わたしは最近、初期の水平社と柳原銀行、大和同志会を中心とする自主的な改善運動の比較研究をしています。その点からすると、初期の水平社の宣言にあるような、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」というね、そこに返っただけであって、そういうものだろうという実感やね。水平社も含めての解放運動といわれたものより、それ以来の差別撤廃運動と呼ばれたものの方が質的には優れていたように思う。それはぼちぼち述べていくことと思う。

山本:社会運動が本来権力から独立、自立していくという方向性を取り戻すチャンスでもあるという意味でも、行政ありきという部分での対応が目立ったという感じですかね。

山内:やっぱり、行政闘争至上主義という点からみる限りは、総点検委員会に対して効果的な対応はしようがない。水道の蛇口じゃないけれど、お金の流れが閉まったわけで、それでうまくいかないという運動ならね、終わっても仕方がない。むしろ、終わるべきやというふうに思うね。ただ、実感としては、痒いところに手が届かないような思いはずっとあって、なんというか、やっぱり部落問題のことを(各委員が)ご存知ないという方が多かった。

山本:そんななかで、委員のなかにはリムボンさんという部落問題に最も精通している方がいました。崇仁地区のまちづくりにも10年以上関わってこられていると思います。総点検委員会では、戦前・戦後と部落問題に取り組んできたことを京都市の積極的なアイデンティティにすべきことを提案されたり、部落問題は存在しないという響きをもつ「一般行政」という言葉ではなく、あらゆる意味でオーディナリーな施策として同和行政を位置付けるべきだといった意見を出されていました。崇仁のまちづくりに関わっては、木の文化を生かした住宅建設なども提案されていました。これらの興味深い提案も含めて、「痒いところに手が届かない」というのは具体的にはどのあたりのことを指しているのでしょうか?

山内:やっぱりまちづくりやね。まちづくりに関しては、ほんとんどリムボンさんに任すという格好で終始したなと。その部分はリム教授に任せればいいというスタンスで、それで他の委員さんはいいのかと思う。ただ、最初にリム教授がこの委員会に参加するということを聞いて、他の委員さんの名前もみてね、バランスを取るということもあったのだろうと思います。リム教授に門川市長が頼ったのかなと思います。
 旧の同和事業の内、民・住・教とあったもののなかで、教育が一番、部落や運動に近くて熱心であった。門川市長はその中心人物の一人。裏も表もよくわかっていると思う。だから、リムボン教授の「価値」がよく理解できた人だろうと思う。この20年間の推移を見れば、誰にでも分かることだよ。リム教授というのはご存じの通り、部落解放同盟と一緒にまちづくりに取り組んできて、というよりはわたしと一緒に取り組んできたというね。
 各地区のまちづくりの診断、それから崇仁のまちづくり推進委員会の設立のときやNPO(崇仁まちづくりの会・ネットからすま)を作るときね。あらゆる場面で、この20年間の部落の運動のなかで新しい提案はことごとくその辺りから提案されてきた。それを結局組織の方がちゃんと咀嚼できなかったのだろうと思います。特にわたしがKBS(「どうなる京都21」)などでも、彼(リム氏)といろいろ議論したうえでやってきたわけで、そういう意味でいうと、(同盟から)わたしが抜け、継承してやるというのが消えたわけだから、こういう状況になってしまったのは仕方がなかったのかなと思います。そのリム教授が、総点検委員会で提案したのは画期的。これでしか同和行政も運動も救われないよ。たぶん、市長はこれに「惚れた」のだと思うよ。

山本:六本木ヒルズではなく、京都らしい開発の仕方があるという大胆な提案や発想の転換というリムさんの意見に関しては、他の委員は拝聴するという感じでした。行政の側も予算の関係があるでしょうが、リムさんに頼りつつも、その意見を十分に受け止めきることはできなかったといえるのでしょうか?

山内:リム教授がいっているのは税金をかけずに、部落の人が主体性を持って、あるいは、京都市が主体性を持ってすべきやということでした。特に、京都市の東側やから、京都の玄関、世界に冠たる京都の玄関にふさわしいものを作っていこうと。それは、単に部落だけが良くなったらいいという話ではなくて、この間の蓄積を、部落につぎ込まれてきた資源を、今度は運動なり、まちづくりを通して市民に還元するとか、貢献するとかが必要だろうというね。リム教授がせっかくそういうことを委員会で話しているにもかかわらず、やっぱり、運動体も行政も同じようなレベルでね、主体性を発揮することはなかったのかなという非常に残念な結果やね。

山本:社会的資源とは、たとえば、公営住宅もそうですし、行政の総合的な対応の仕方、市立浴場、保健所分室もそうでしょう。部落のなかにニーズが少なくなっているし、利用する人も少なくなっているので、とにかく撤退していく、廃止していくという対応が行政には目立ったと思います。それが特別扱いを払しょくするというものだという理解があったように思います。保育施設に関しては部落以外の人の利用も多いという数字も出てますから、リムさんはこれらの資源を積極的に活用していくなかで、一般地区との交流やまちづくりに、部落の側から打って出ることで取り組んでいくという意見として受け止めるべきだったのかなと思います。

山内:この話はまだ決着したわけではないし、現在進行形の側面があるんやけども、結局京都市は、従来のことをまだしたいんだろうと思う。いったんやりかけたわけだから、これをなんとか終結しようと考えていると思う。

山本:崇仁北部の地区開発などはその一つでしょうか?

山内:そうやね。基本的な問題はもう解決しているので、違う視点を出していかないと。世界に通用するね。これは実現するか分からないけど、京都のど真ん中に京風の、町屋風のマンションをどかんと建て、新しい名所を京都に築く。こういう発想が必要なんであってね、それだけ思い切ってやらないと変わっていかない。ただ、それにしても、やっぱりスーパーバイザーというかたちで、コンサルタント、資本、行政、市民、地元を繋いで、崇仁の過去・現在・未来を見通してやっていくという思想がないとダメやね。
 京都市はその辺りを四角四面で考えて、業務委託をすることができるだろうかというそんな議論をしているからね。そういうかたちではなくて、京都市の諸君はよく聞いて欲しいんやけども、そういうことではなくて、いままでの方向で間違ったことをして、こんだけお金をつぎ込んだけども、崇仁も人口が減って、最初に考えたまちになってないやんけ。もちろん、行政だけに問題があるわけではないけれども、運動もよくないけれども、こういう結果を招いているわけだから、正しいことをして、これまでのイメージを払しょくして変えていくということが求められているのにね、そういうことにはならなかった。
 けどね、そういうことを進めている京都市のメンバーはね、悪い人間ばかりじゃなくて、考えている人間がね、非常に良心的で情熱的で地元をなんとかしなくてはと思う奴ほど、そういうことをやっちゃう。これが深刻。これは繰り返し、繰り返しいうのやけど、やっぱり自分たちの手でしたい。最短でも、10年、15年かかるという話がある。今のまちづくりのメンバーも死んでおらんかもしれん。そういうことをやりたいと考えている。そういうことをこちらがやることはもちろんないけどもね。ただ、そういう行政であるにもかかわらず、リム教授に関わってくれと話しに市は行くのだろうか。リム教授は丁寧にしかも断ったというようなことを聞いた。その通りなら、リムボンというのは筋が通っているなと思う。いわゆる「ザ・マン」。男のなかの男。普通やったら、京都市にそういわれたら関わったりするんやけど、それを蹴って、別に京都市とやらんでもね。そういうふうに断ったという話をちらっと聞いたんやけど。



■崇仁地区のまちづくり運動の現況について

山本:そうすると、崇仁の話をして頂いたんですけれども、総点検委員会の議論がなされていた渦中で、それが終わってから3か月ぐらいが経ったわけですが、まちづくり団体の関わりであったり、行政の関わりであったり、住民の反応だったりというのは大変気になるのですが、具体的に崇仁まちづくり推進委員会の状況というのはどのようなものだったのでしょうか?

山内:地元で議論して、結果的に、総点検委員会への抗議文を出すということになったけれども、その結果としてね、京都市も抗議をされるんだったら、パートナーシップでまちづくりなんてできへんやろ、と考えている節がある。だから3月までと4月からでは対応が全然違ってきている。現在進行形やけどね。週にいっぺん、行政が13,4人もきて、議論することはこれでなくなった。月に1回にするとか2回にするとか、3回にするとか4回にするとか、当面のことで終始しているという感じで、再開されているということも全然ないので、おそらくこのままいけば、従来と違った格好で進んでいく線が濃厚やね。
 ただ、地区のなかで議論するというわけにはいかへん。周辺の人たちとどのような関係性を持つのか。菊浜、稚松、皆山の人たち。もっといえば、鴨川よりも東の人、南の人。つまり東九条とどういう連携をしていくのかという話がないと、おそらく京都市は、たぶんのってこれないだろう。これは推測やけどね。地元のまちづくり推進委員会が、これからそのような方針を持てるかどうかということが、大きく方向を決めるだろうね。別にそれをやらなくても、ここまできたわけだから、住環境が以前ほどに悪いわけではないから、まちづくり推進委員会の役割は一定済んだのかなと。13、4年してね。窓口を一つにして、遅れている事業に関してはやると。
 課題はまだあるけれども。旧来いわれてきたような、基本的人権にかかわるような住環境という状況はおそらくもうないだろう。むしろ一番問題なのは、高齢者の問題ね。その問題でいったら、崇仁のデイサービスセンター、地域包括、うるおい館があるので、そこを中心にいろいろと進んでいくし、高齢者の組織や運動が進んでいくかもしれない。ただ、それをもって解放運動といえるかどうかかという話になる。

山本:昨年、うるおい館が開館してから1年ちょっとが経ちました。館を建てるまでにも7年近い議論をされたと聞いています。それにもかかわらず、コミュニティセンターからの職員撤退があり、館も寂しい状況になっています。一方で、デイサービスでは、菊浜・稚松にまで拡がりをもち、事業主体であるカリタス会としては東九条にも展開しているのが先進的だと思います。ただ、崇仁の解放団体や住民主体にそれらがどのように生きていくのか。その点も課題になっていると思いますが、コミュセン廃止によって地元が混乱するということが危惧されたものの、実態は非常に異なったものになったようなのですが……

山内:門川市長が、市会でコミュセンの廃止ということを発言した。その1週間後に、地元で自治連合会の役員さんを中心にして会議が持たれました。ええか悪いかは別にしても、4月以降コミュセンがなくなるということであるならば、早く事務引き継ぎを各団体がコミュセンとやってくれという話が自治連の会長からあって、わたしもその場におったんやけども。議論も若干出たけれども、概ね、早く手を打って、地元の人ががんばって、会議も、レジュメをつくるのもやっていく。春祭りもね、自治連合会中心にやられて、若干縮小はしたものの、なんとか無事にやりきった。この方向で、たぶん行くんだろうと思う。他の地区でもそんなに混乱しているという話は聞いていない。もちろん問題がないわけではないのやけれども。多くの税金を使っていままで何をやっていたのという点に関して、きちっと総括されていくべきやろうと思います。

山本:同じ崇仁のなかには山内さんがずっと関わってこられた柳原銀行記念資料館がありますが、21回目の特別展を準備されていると聞いています。まちづくり団体が厳しい状況に置かれているなかで、積極的な調査・研究活動もされ、地域に還していくような展示がされていっているということも聞いています。銀行の創設者である明石民蔵とその家族の肖像をテーマにする予定だということなのですが、総点検委員会でも人権施設として柳原銀行記念資料館のことも論点にあがり、影響を受けてきたと思います。総点検委員会前後で、資料館としてどのような状況にあったのでしょうか?

山内:総点検委員会もすべての事業をやめるという話ではなくて、無駄なものをやめようと、そこをきちっと点検しようということなので、部落問題、部落差別がなくなったわけではないので、そこの歴史を掘り起こして、部落の実像に関して発信して、社会全般に理解してもらおうとしていくことは必要だし、そういうことに関しては予算をつけないとあかんということだと思うのね。
 これは従来からわたしが主張してきたことなんだけども、たとえば、なぜに京都部落史研究所をなぜ潰したのか。一番は、部落解放同盟京都府連に問題があったんだけども、京都府も京都市もね。それはやっぱりよくなかった。基礎資料を集めてそれをきっちりと残していく。それは我々の時代だけではなくてね、今後も、これだけ社会運動として成果を生んだわけやから、それはどういうことなのかということを後世に残していく。そういう意味で、調査・研究、必要なことはする。そういうことを京都市はしないんだよね。いままでね。ハード面で、余計なことばかりやってしまい、多くの税金を使ってしまった。だから、そういうことよりも、ソフトのことを、これからも続くだろうし、柳原銀行の事業が残ったのはそういう評価があったのだろうと思う。もちろん、京都市とそういう話をしたわけではないけれどね。
 むしろ、わたしはなくなっても仕方がないとも思っていたので、なくす方がよかったこともあるので、ただ、やっぱりあと1,2年は続けて、少なくとも明石民蔵が何を考えたのか、思ったのか、これはきっちりと、彼の家族の消息も含めて、ちゃんと明らかにしたいなと考えて、まだ関わっているということがあります。他はあまり関わるということは考えていないという状況やね。

山本:解放運動のあるべき姿というものを、自主改善運動のなかに見出すというのが、京都部落史研究所に関わられた山内さんの一貫した問題意識だと思います。いままさに厳しい状況に置かれた崇仁地区のなかで、明石民蔵に着目するなかで、主体的実践に折り返していくような思想があるという意味でも、今回の特別展の位置付けが繋がっているのかなとも推測してしまうのですが……

山内:明石民蔵は、大和同志会という融和団体の機関誌『明治之光』のスポンサー。全国的な地元中心の、部落民中心の自主的な改善運動をやろうとした。ここらの資料をめくってみると、水平社との違いについてね、かなり分かってきたことがあります。これは戦後の部落解放運動にも通じるんだけれども、すべてを社会、あるいは、差別する側が悪いんだという発想、主張で貫かれている。厳しい状況のときにそれが合理性をもったし、部落の人の心を打ったけども、それがこれだけの時間を経てどのように変化してきたのか。ここにメスを入れるべきで、今回の総点検委員会のように、社会全体から袋叩きにされる。
 こういう状況になったことについて、水平社の頃から説き起こすべきかなと思う。ついては、明石民蔵らの全国的な組織を目指したところがいきついたのが、帝国公道会なり、大日本平等会。これらの団体との、個々の骨がきしむような日常的な闘いを省いて水平運動が展開することはなかったということを阪本清一郎がいっている。そのことを具体的に実践したのが西光万吉。西光万吉のしたことは、大日本平等会に入り込んでチラシを撒く。あるいは、全国組織を目指した人のルートを使って、チラシなりビラを撒く。ここを敵視していく。それが妥当だったのかどうか。もちろん、階級闘争であるから、どういう結果を招いたかというと、ソヴィエト、中国、カンボジア、北朝鮮の例で明らか。そういう面での総括をするべきやということで、明石民蔵のことをもう一回研究したいなと思っている。その最初が、今度の(特別展のテーマ)「家族の肖像」。果たして明石民蔵が亡くなってから、どうなったのかということも含めて描いていくと、そのことがはっきりしてくるというふうには考えているんですね。

山本:大変スケールの大きな作業ですね。明石に関しては、山内さんご自身で文章を書いてまとめるという構想を持っていると聞いていますが、それが早く拝見できることを楽しみにしています。



■東九条から同和行政を乗り越える――「多文化共生」の内実とは

山本:先ほど話題になった崇仁地区との関わりで、周辺地区との関係ということがあったのですが、具体的に、東九条についてお伺いしていきたいと思います。

山内:崇仁と東九条は長い目でみれば別のものではないんでね。大きな被差別部落に、戦後、在日の人であるとか、社会的に厳しい状況にある人たちが入ってきた。そういう状況を書いたのが『オール・ロマンス』の小説であるということからすると、まったく無縁ではない。そこから問い直すことも必要かな。

山本:同和行政が終了したということになっているのが現在ですが、同和対策事業特別措置法ができる前から、東九条では、生活と健康を守る会、部落解放同盟七条支部、朝鮮総連や山内さんが関わられていた青年たちのグループ前進会だったりをトータルに捉えて、部落と在日、同和地区とスラムの問題というのは一緒なんだということで戦線を構築していたという歴史もあります。同和行政下でも東七条と東九条の連帯を、山内さんが自身が求められていきました。いままさに、同和行政が終わったという状況のなかで、同じように困難な状況を抱えつつも、行政としては区別されてきた崇仁と東九条を改めてどのように課題設定するのか。
 山内さんは生まれ育った東九条を運動の拠点とされ続けていると思いますが、特にそのなかでも、このインタビューで何度か話題にさせて頂いていのは北河原改良住宅の建替えの運動です。新幹線の敷設に際して、崇仁地区から東九条に移った人たちのために建設された市営住宅である北河原改良住宅が40年以上経って老朽化し建替えを住民が立ち上がって求めてきたというのがこの間の経過としてあります。7、8年の運動を通じて、ようやく建替えが現実味を帯びてきて、地域施設との合築というかたちでいよいよ実設計が本格化するという段階に来ています。同和行政が最終段階にきているのとは非常に対照的なかたちで行政の方もそれなりの位置付けをもって臨もうとしているようにみえます。その辺りのことについてお話を聞いていきたいと思いますが、合築をめぐる現況というのはどのようになっていますでしょうか?

山内:北河原は、東九条にある部落民の集合地です。7,8年前から、部落解放同盟でまちづくりに取り組んでいるときに、北河原の若いメンバーに相談を受けて、ぼろくなっているから建替えをしようと。決して運動が強かったわけではない。しかし、気の遠くなるような(会議・集会・ワークショップ・意見交換)北河原のメンバーやともに取り組んできた先生方もよく頑張ったと思う。細かいことをずっと積み上げてきた。特に運動の強いところに先駆けて、ここで建替えがなされる。それはやっぱり、あそこが狭くて老朽していて、家族3人、4人では住めへんという状況があった。それを素直に京都市の方に訴えてきたし、そういうことを理解してくれる人がたくさんおった。むしろ、行政のなかに答えを出して協力してもらった。それは北河原のメンバーの姿が「共感」を呼んだのだろうと思う。ある部長さんなんかには、本当に世話になったということを、この場を借りて御礼をいいたいぐらい世話になった。
 特に、他の地区がストップして、東九条の北河原にだけ予算がついた。これがどのような意味を持っているのかということについて考える必要がある。トータルで相当の額。関連の工事を考えたらその倍ぐらいの予算が執行されるという状況やね。これは、東九条の最後のまちづくりの場面でもあるということも、もちろんあります。ただ、東九条の場合は、部落問題とは違う側面がある。同和地区に準ずるような施策をするということで出発している。多くの廃品回収(バタヤ)部落のほとんどが火事で焼けてしまった。当時の東九条改善対策委員会を通じて、整備が図られて現在に至っている。それを差別の問題として、多文化共生の問題として考えるという視点がなかった。
 特に在日のことに関しては、行政の施策としては考えられてこなかった。今回、そういうこともひっくるめて、生活館が多文化共生地域交流事業を行っていくということになってきて、地元の隣保事業だけではなくて、北河原にはたくさん留学生も入ってくるので、そういう人たちも一緒になってまちづくりをしよう、そういうものを作っていこうと考えているね。

山本:東九条では歴代、実態調査から計画が作られてきました。東九条のエリアでいうと、全部で三棟の市営住宅が建設され、それなりに住環境整備事業が進んできたということもあると思うのですが、最後の東九条のまちづくりの場面を迎えている状況にあって、最大の課題というのはどのようなところにあるのでしょうか?

山内:まず、隣保事業としての東九条対策は最後の画面。それが新しく生まれ変わるということがある。従来の地区指定、通称東九条の八ヶ町(山王学区)ではなくて、鴨川の東西、あるいは、陶化(学区)、崇仁の一部で、助けを必要としている高齢者、弱者が住んでいる。ここらに関して、なかには日本語がしゃべれずに著しく不利益を被っている人もいるので、障害を抱えている人もいるので、そういう人たちにとってどういうまちがいいのか。この辺で新たな挑戦をしたい。そういうことをやっているところはたぶんないので、そういうふうに生まれ変わっていく。
 一番の課題はあれだけ人口が減ったわけだから、どのようにして昼間の人口でもかまへんから、どうするのかということをずっとこの間京都市に問題提起してきた。もう一度、基本計画の策定をするということで、6月から東九条のまちづくりが始まる。それは従来のようなものだけではなくて、もっと幅広く、もっと深くせなあかん。そういう意味で多文化共生の地域交流センターと変わって、事業をする。いかに人を増やすか、活気のある町にするのか。これは、崇仁にも東九条にも関わって総括した結果として、こんだけ人口が減って、行政が軸になって主体的になってやるとこうなるんやと。地元の方にどう主導権を奪い返すか。これをずっとやってきたんやけども、結局うまくいかなかった。
 再度東九条で挑戦して、活気のある町に再生する。だいたいなんで崇仁にこんなに人がいなくなって、東九条から人がいなくなって、寂しい状況。そういうものを我々が目指したわけではない。もう一回そういうことをやり直す。それは夢のようやけども、もう一回そこに返っていく必要がある。総点検委員会で常にそこらが物足らんところ。そういう点で委員さんも指摘すべきであってね。おそらくその状況を理解していたのは、リム教授だけだっただろうというふうに思っているね。

山本:被差別部落、同和地区と似て、人口の減少や市営住宅の建設を通じて活気が失われ、高齢者が増え取り残されているという課題が同じようにあります。しかし、施策としてはさきほど触れられた「オール・ロマンス」以降、同和行政以降、準同和地区というかたちで、決して同和行政よりも先行して施策を打ち出せないというのが東九条であり、行政の言い訳でした。被差別部落だけでなく、あらゆる地区で課題になっていることを、逆に東九条から取り組んでいく。多文化共生というキーワードを通じて行っていくという現状にあるのかなと思いました。
 多文化共生という言葉はなかなか中身が伴わないキーワードとして独り歩きしているところがあると思うのですが、東九条のなかでいろいろな人が生きてきたし、社会的に困難な人たちがそれでもお互いの繋がりをつくり生き得てきた独特の良さがあると思います。多文化共生ということに内実を与えていく際に、東九条らしさ、東九条的な多文化共生というのが今後模索されていくと思います。山内さんのなかで、あえてそのような言葉で表現する際の中身というか、内実というのはどのようなものがイメージされているのでしょうか?

山内:京都駅のすぐ近所、そういう地の利を生かした京都らしさ&いろんな人がともに住んでいる。困ったことや相談ごとはセンターに行けばいい。そういうふうにして住んでいる人が自立していけるようなものをフォロー、ケア、支援するというか、そういうことやな。もちろんそのなかには、部落問題や在日の問題もあるし、社会的実験としていろんなことをしているのやから、問題は深刻ではない。やり方はみな分かっているわけだから。他の部落と違って、希望の家が市なんかよりもずっと地元にはりついて隣保事業をやってきた。あそこを中心にして、今の希望の家だけではなくて、それこそいろいろなNPOと繋げていって、いろいろな運動体と繋げていって、新しく生まれ変わっていく。(希望の家は)社会福祉法人やから、それはそれで事業をしてもらうにしても、それを取り囲む格好で、地元の人が力をつけていく。
 例えば、北河原のメンバーが経済的な力もつけていく。昔、明石民蔵がやったように、単に部落民が自立するということだけではなくて、金融の血液を隅々にまで流していくということで、崇仁でも「仁」という名前をとって地域通貨をやった。それを考えてくれたメンバーとも話したやんけれども、明石民蔵がやろうとしたことが単に自主的な改善運動、銀行を作ったということだけではなしに、また、町内が独立するということだけではなしに、金融の面での血液を隅々まで流して自分たちの力をつけようとした。自分たちで力をつけようということを、東九条の運動でも軸にしたいと考えている。
 みんな貧しいなかでピーピーということではなくて、行政に頼ることなく、自分たちの経済力でする。それがすなわち明石民蔵がやろうとしたこと。そういうことをしたい。だから、明石民蔵よりもわたしの方が年上になっているんやけども、しかし、まだ間に合う。

山本:そういう意味では自立のイメージというのは、自分たちの町を自分たちで経営していくというか、経済的な下部構造も含めて運営、自立していく。いってしまえば、働いて食っていくこともできるような地域として生まれ変わっていく。そういう意味では東九条は、被差別部落以上に厳しい状況に置かれてきた反面、自主的な団体が非常に多く存在しており、そのネットワークを生かしながら、同時に新しい自立のイメージというものを多文化共生に、実態に即しながら求めていくというのが、東九条からの新たなまちづくりの発信の在り方なのかなと思いました。

山内:経済の自立なくして、思想の自立はない。たとえば事業を展開する。NPOを各部落に作るという方針・方向を出したんやけど、それがうまくいかなかった。うまくいかなかったことの原因としてはやっぱり、行政依存がある。

山本:NPOという行政の方も自主的な取り組みであって、パートナーシップの相手でもあったりして、非常に安易に活用している部分もあると思うのですが、基本はやっぱり行政との関係のうえに成り立たなくてはならないということがあると思います。NPOを作ったものの行政依存から抜け出せなかったことなのでしょうか?

山内:そう。変わり切らすということでいろいろ策を練って協議したけれども、結局行政依存がある以上は、どうしようもなくなったからね。山内的にいうと、今の状況の方が運動はしやすい。

山本:それは被差別部落も含めてという意味でしょうか?

山内:含めて。もうちょっとわたしに時間があったらいろいろしたいなとは思うけども、人間そのへんは限られているので、まず東九条で自立の旗を挙げて、周辺部を見渡して、まだそんな行政依存やってんのという一言がいいたい。もちろん、その最大のターゲットは崇仁やね。それは別に単に追い抜くいう意味ではなくて、良い意味での刺激をしたいなと思っています。

山本:確かに、希望の家ももともと屋形町から東九条に移ったという経緯がありますし、山内さん自身も崇仁と東九条を行き来しながらやられていることなどをプラスに生かしながら、お互い刺激をし合う。行政も崇仁の南部と東九条を一体のものとして開発しようと考えているところもありますから、そういう意味では先手先手で、住民の側から積極的に連帯をしながら、互いに知恵を絞りながら、自立していくということができるのではないかという意味ではまだまだ悲観する必要はないということですね。

山内:悲観する必要はない。ただ、総括的にいうと、さきほどの総点検委員会の場面でも喋ったけども、結局、同和事業というものはなんやったのか。

山本:大きな問題ですね。

山内:大きな問題。それが崇仁、東九条、40番地(東松ノ木町)。この40年間、やってきたけども、結局、よくなかった。それはたとえば、東九条なんかでいうと、奨学金、自立支援金のことにも絡んでくるんやけど、わたしも東九条対策の一環として、京都市から三万円の金を借りて、車の免許を取りに行った。このときの前進会のメンバーの厳しさ。事前に何回も何回も学習したし、京都府の免許センターに一番最初に面接にいたっときに、ちょうどわたしの友達の件で、どうしてもということで30分行くのが遅れた。そのことをめぐって前進会の先輩から厳しい指摘を受け、自己批判を迫られた。「お前がそこでしっかりしたことをしんと、他の青年に繋がらへん」。
 車の免許取るときもそういう厳しさがずっと付きまとっていて、実地(試験)も一発。学科も一発でいかへんと許さないというね、そういう切迫感のなかで、免許を取りに行って、その結果として、それがわたしの人生を通して、職にもつけたしね。それを文字通り20年間ぐらい続けて、飯を食うてきたから、費用対効果としては物凄いあったと思うのね。ところが、奨学金の問題でいくと、崇仁でいうとね、行政もしっかりしたお金の配り方をしない。運動もちゃんとした指導ができていない。もらう方も全然分かってへん。この三者のね、枠組みで推移してきたから、よくないとみられて、しかも返さなあかん。こういう結果になった。
 運動の世界でいうと、行政の責任にしたらあかん。事業を受けた住民の責任にしたらあかん。すべて運動の問題や。そういう総括をしないとこれはみえてきぃひん。東九条ではそういう取り組みに関してほんまにめちゃめちゃ厳しかった。ほんでもうなんちゅうか、そういう環境におると自然に勉強するということが身についてしまう。おかげ実地も学科も全部一発。その間、一歩一歩進んでいくんやけども、それは一歩前進するについて、一歩前進しなかったら、まわりの先輩の青年からどんだけ厳しい指摘があったか。そういうことなんやね、結局。絶えずそういうことを意識しながら、しかも三万円のお金を利子もつけて三万三千円にして返さなあかん。十一回にして返さなあかん。これが一回でも遅れたら物凄く厳しくいわれる。もちろん、完全に返したけどね。わしらの先輩も金は返したけどね。そういうことが必要で、それが原点なのね。
 それがいつのまにか、高校、大学、こうなるとね、それはやり過ぎやろと。その結果として、それが当たり前みたいになってしまったということがね、やっぱり悲しいんで。そこで運動が立ち止まって、点検すべきやったんやね。ひどい例になると、親が金を取りにくる。それで、もっと悪い例はね、銀行振込みや。奨学金を受けるにあたって、そこに運動が介在して力をつけるなんてことは、もう入る余地がない。そんな制度にあって、こんな結果になるのはある意味みえていたのかなと思うね。しかも、法律が切れて、貸与が実際上は給与と、これはやっぱりあかんやろ。それにみられるようなことはたくさんあった。
 深刻なのはこれに取り組んだ人々(行政・運動)は皆「良い人」、差別をなんとかしようとした。これを忘れては、問題の本質を見失う。難しさがここにある。行政の方にはいい人間が多いし、それは否定しないけれども、あんたら、やったらあかん!この際すべてのことから手を引いてくれ!もうわしらがする。足らんところをあんたらが支援したらいいんちゃうか。そういうふうにもう一回構築せなあかん。だから、コミュセンから引き上げてくれておおきにと、むしろいいたいね。

山本:行政の主体性という言葉に行政自身が縛られていて、ある種手厚くやってしまうときと、一気に引いてしまうときと、それがうまく噛み合っていなくて、引き過ぎて困っている人に手が届かないほどに引き過ぎてしまうということがあるし、介入するときは介入し過ぎてしまって、住民の主体性を阻害してしまうような感じがあって、行政のなかでもたぶん主体性の発揮の在り方とか、住民の主体性が発揮され得るのはどういう場合のなのかということは、総点検委員会の報告書のなかでも十分に内実を伴えなかった一番大きな課題ではなかったのかなと思います。総点検委員会は終わったけれども、その点が残されているという意味では、まだまだ点検は必要なのかなと考えます。

山内:それは同感やね。東九条ではこの夏、秋、冬と画期的なまちづくりが準備されます。特に、東九条を活性化させるのと同時に、インターナショナルなかたちにするということで、大学の誘致をするとか、留学生が入ってくるとか、日本語教室をするとか、言語の学校をつくるとか、多文化共生の歴史の研究をするとか、住民が生活の事業をするとか、建築の関係の事業をするとか。リム教授がいうたように、今度、崇仁でやろうとしていた京風の町屋のマンションが東九条にあったって全然問題ないんでね。それがしかもインターナショナルに彩られている。そういう問題提起をこの夏、秋、冬にかけてやっていって一つのものにまとめていく。

山本:かなりハイペースなかたちで今度のまちづくり計画が練られていく2009年度ということになっているというのが現状でしょうか。

山内:そうです。その結論が出た段階で、再度、山本さんのインタビューを受けるということで今回は終わる感じで、ええのかな?

山本:……はい(笑)。きれいにまとめていただき、どうもありがとうございました。次回もぜひよろしくお願い致します。
(了)

【註】
 [1]これまでの三回にわたるインタビュー記録は、http://www.arsvi.com/w/yt02.htmから読めるようになっている。
 [2]報告書を含めて、前会議の議事録は、京都市文化市民局人権文化推進課のHP(http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/soshiki/6-2-3-0-0_7.html)から読めるようになっている。この点は、今回の総点検委員会の画期性の一つとして評価できる。

【注記】
 本インタビューは、2009年6月9日に行ったものである。ここに記されている内容は山内氏に確認して頂きご了承頂いたうえで、WEBでの公開を行っているものである。また、軽微な字句修正及び補足(括弧)、註は山本が加えた。

*作成:山本 崇記
UP:20090715 REV:20200129
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇全文掲載  ◇地域社会におけるマイノリティの生活/実践の動態と政策的介入の力学に関する社会学研究
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