「野家啓一『物語の哲学』第一章「「物語る」ということ――物語行為論序説」 読解」
小川 浩史 20090709
野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫),岩波書店,2005年
第一章「物語る」ということ―物語行為論序説―
物語の衰退
◆「物語行為」=「出来事、コンテクスト、時間系列」という要件を備えた言語行為
「われわれは記憶によって洗い出された諸々の出来事を一定のコンテクストの中に再配置し、さらにそれらを時間系列に従って再配列することによって、ようやく『世界』や『歴史』について語り始めることができる。」(17)
◆「出来事」≠「知覚的体験」
「物語行為の射程は単なる『虚構』のみならず『事実』の領域にも及ぶのであり、それは歴史叙述をも包摂する」(17)「『知覚的体験』を『解釈学的経験』へと変容させるこのような解釈学的変形の操作こそ、『物語る』という原初的な言語行為」(18)
◆人間は「物語る動物」
「無慈悲な時間の流れをせき止め、記憶と歴史(共同体の記憶)の厚みの中で自己確認(identify)を行いつつ生きている動物」(18)「多種多様な経験を記憶にとどめ、それらを時間空間的に整序することによってさまざまな物語を紡ぎ出す」(19)
◆物語の衰退
柳田国男「口承の文芸」(⇔「手承眼承の本格文芸」)の衰退に対する嘆き
・印刷術の飛躍的発展による「口承」ジャンルの消滅と「常民」の歴史意識の変容
・「『日本の前代文化の跡が、必ず何らかの書いた物の中に、保存せられているものと考えることの誤りを立証』」,「『国の文芸の二つの流れ、文字ある者の間に限られた筆の文学と、言葉そのままで口から耳へ伝えていた芸術 と、二つのものの連絡交渉、というよりも一が他を育み養ってきた経過』が忘却」(21)
ワルター・ベンヤミン「物語るという芸術の終焉」に対する愛惜の念
・物語作者は(経験を)「彼の話に耳を傾ける人々の経験とする。小説は、それに対して、自己を切り離してきた。孤独の中にある個人こそ、小説の生まれる産屋」(22)
・近代市民社会の文芸形式としての小説(「自立した個人が自己の内面を赤裸々に吐露する『告白』という文体」)
※「内面」と「社会」の「写実」(バルザックに代表される「写実主義(リアリズム)」小説)について
・「口伝えの物語を衰亡に至らしめた外的条件が文字の普及と印刷技術の発達であったとすれば、その内的条件は『内面』の成立と『告白』の制度化であった」(24-5)
・「現実をたじろがずに直視し、悪徳であると美徳であるとを問わずあるがままの姿を一切の粉飾を加えずに描写する方法が『写実』であるとすれば、『内面の告白』もまた写実主義の重要な手段の一つ」(26)
・「『真実をありのままに描く』という格率ほど『物語』の精神から遠いものはないのである。科学による心理の占有を背景にして、『近代的自我』と『市民社会』とが手を携えてありのままの真実を至上の価値として称揚したとき、物語はその衰亡を余儀なくされたのであった。」(26)
※柳田による「日本型写実主義」「日本的近代」(「文壇」という「逃亡奴隷」たちの疑似市民社会)批判を評価
・「ありのまま」の真実を尊び「自然かつ自由なるウソ」を排撃する近代社会の風潮の不健康さ(私秘的な「内面」を持ってしまった近代的個人の不健康さ)
・「生活の真の姿」は(内面/外面の)「写実」にではなく、「常民の『眼ざめて見られる夢』の中にこそ映し出されているはずである。それゆえ、真実は『語る』ことと『騙る』ことの間にある」(29)
2.声と文字(文字表記によって経験の組織化はいかに変容したのか)
◆「音声言語(parole)」と「文字言語(criture)」、第三のカテゴリーとしての「口承言語」
「音声による口から耳への伝達であることにおいて『音声言語』により近く、他方、発話状況の共時性と文脈依存性とを超えた通時的伝達であることにおいて、『文字言語』により近い特徴を持っている」(「声の直接性と伝承の歴史性という双面神的性格」)(30)
「直接に触れて感ずる他のないもの」(柳田)→「音声言語」(「声で触れる」ことになぞらえられるべきもの)
◆音声と文字における経験の構成
@「理念性(イデア性)」の獲得について
・「意味するもの(signifiant)」と「意味されるもの(signifi)」……音声と文字は前者。両者は表裏一体。
記号表現(言葉・表現) 記号内容(意味・内容)
・「意味するもの」による伝達過程で「意味されるもの」は無限に反復可能な「同一の意味内容」として理念化あるいは物象化される(「理念性(イデア性)」の獲得)
・「このような理念性は、一般にアプリオリで自己同一的な『超越的意味』として特権的身分を与えられてきた」→「意味するもの」に対する「意味されるもの」の事実的・論理的先行性を主張することは誤り(32)
A個人主観から「理念的客観性」の獲得について(フッサール『幾何学の起源』,幾何学が万人に妥当する真理として「理念的客観性」をいかに獲得するのかを問う)
・「『それがいわばその言語身体(Sprachleib)を受け取る言語を媒介にすることによって』」(35)
・主観的明証性から客観的明証性に至る段階(間主観化)を『言語共同体』、『伝達共同体』という概念を使用して説明(音声言語による共時的伝達)
B間主観性(客観性)の歴史化について(何が間主観性に通時的客観性の構成を可能にするのか)
・「『直接間接の個人的語りかけなしにも伝達を可能に』するもの、すなわち「文字による表現、記録された言語表現」の働き」(38)
「意味形成体」→「理念的対象」の完成→「再活性化」(原理的な無限反復可能性として)
↑
文字表記(を通じて「沈殿する(sedimentieren)」)
・しかし、無限の反復過程において「意味形成体」はその自己同一性を脅かす「不断の危険」に晒される。「同一性の危機」(学問の危機)はどうすれば克服できるか→「共通の責任の統一のうちに生きる認識の共同体としての学者たち」の自負と確信」(39),「『本源的明証性の回復』を学問共同体の名において要請した」(40)
◆口承言語における経験の構成とその意義
・「客観的で絶対的に確固たる真理の認識」を第一目標に掲げる(近代自然科学と近代哲学の)根深いオブセッションから解放されれば、あるいはそのような目標が意味をなさない地点(柳田とベンヤミンの地点)に立つことができるならば、「同一性の危機」をプラスの契機として捉え返すことができる。
・「口承言語」は「真理の専制支配」を離脱し、「同一性の危機」を「同一性の戯れ」に転化する一つの異化装置
・それは文字と真理との共犯関係の上に成立した「近代」文化の存立根拠を掘り崩す手がかりを与えてくれる
3.「話者の死」から「作者の死」へ
◆文字言語に対する音声言語の優位性
・「ルソーはここで、言語の起源を『幾何学者の言語』にではなく『詩人の言語』に、『ロゴス』ではなく『パトス』の中に捉えようとしている。喜怒哀楽の情念こそが、人間に最初の言語的音声を発せしめたのである。言葉はまず思考の媒体として成立したわけではない。最初の言葉は情念の直接的で透明な表白であった。」(43)
※「直接性への欲望」(に支えられたルソーによる歴史的仮説)と文字言語の媒介性に対する嫌悪
「情念」「感情」「表現」⇔「正確」「観念」「理性」
音声言語⇔文字言語
※しかし、プラトン以来の「現前の形而上学」の系譜に連なっている。「直接的で透明なコミュニケーションを求める欲望は、言語論の文脈においては、しばしば意味作用を支配する『話者の特権性』を暗黙のうちに前提し、意味理解の基準を『話者の意図の現前』に還元する構図を採用することにつながる」(46)
◆「話者の死」(デリダ「著名・出来事・コンテクスト」によるオースティンの「言語行為論」批判)
@オースティンの「言語行為論」(言語行為が適切に遂行されるための六つの条件)
(A1)一般に受け入れられた慣習的手続きの存在 (A2)発動された手続きに対する人物および状況の適切性
(B1)手続きの正しい実行 (B2)手続きの完全な実行 (Γ1)手続きの参与者は、それに応じた思考、感情、意図を実際にもたねばならない (Γ2)参与者は引続きそのように行動せねばならない
・(A)(B)条項は「慣習」の存在とその実行に関わり、(Γ)条項は話者の「意図」とその誠実性に関わる
・言語行為からの逸脱例(「実質のない」「無効」なもの)として「役者の台詞」や「詩の朗読」を差別しているのは(Γ)条項に違反している(「真面目な意図」に裏打ちされていない)から→遂行的発言(言語行為)の成立条件における「話者の意図」の特権的地位
・遂行的発言は「今・ここ・私」という指標語によって特徴づけられている→「話者の直接的現前」
・文字言語による遂行的発言においては「話者の意図の現前」を確保するために著名がなされる
※話者の真面目な意図の裏打ちを必要としない「物語る」という行為は「逸脱例」に含まれる→「話者の意図の現前」から解放する必要
Aデリダによるオースティン批判
・音声言語と文字言語の根本的差異を発信者(話者)と受信者(聴者)の「現前(presence)」と「不在(absence)」にみる
→文字言語における受信者の「根源的不在」。「『受信者の〈死〉ないしは〈死〉の可能性』の中で成立する『遠隔装置(telecommunication)』」(51)
→文字言語における発信者の「不在」や「死」。「発信者の死を超えてその意味作用を持続し続けるのであり、また『話者の意図の現前』からは独立に一定の効力と帰結とを時間空間的な広がりの中で生み出しうる」(52)
・「著名の効力は、特定の意図の裏打ちによってではなく、意図とは独立にその『同一性』を模倣し、反復できるという『形式性』にこそ由来している」(54) →(言語行為一般にまで拡張)→「遂行的発言が効力をもつのは、それが約束や要求の意図によって裏打ちされているからではなく、反復可能な言語形式を通じて遂行されているから」→「役者の台詞や詩の朗読は、むしろ言語行為の中で中心的な位置を占めるべき」(54) →「『話者の意図の現前』を中心的位置から追放し、遂行的発言における『話者の特権性』を剥奪」(55) =「話者の死」を宣告
◆「作者の死」
@「作者」の近代性と物語
「作品を独占的に支配する作者(author)の権威(authority)、これが文字言語による言語活動を制約している基本的構図」(55)「『作者』の概念が確立し、その作品に対する固有の権利が認められるのは『近代』のこと」「それはちょうど、ベンヤミンが『物語』から『小説』への移行として跡づけた時期」「作品は『作者の意図』の外在化であり、作品の解釈は『作者の意図』の忠実な再現に尽きる」(56) ⇔ 伝承された物語の読解において「作者の特権性」(「作者の意図」に還元すること)は有害でこそあれ何の有効性ももたない →「作者の死」を宣告
A「作品」と「作者」から「テクスト」と「読者」への転換(ロラン・バルト「作者の死」)
・「テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが結びつき、意義を唱えあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。……彼が〈翻訳する〉つもりでいる内面的な〈もの〉とは、それ自体、完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないということ。」(57)
※「一回的、個別的、私秘的な『意図』は、一般的、普遍的、公共的な「語彙」の反復的、模倣的、引用的な使用によって外在化されるほかない」(58)「引用された作品は、そこで新たな意味作用を発言する。その意味作用は作者の本来の『意図』を乗り越え、裏切り、さらには解体する」(59) → 意味作用の「ずれ」と「ゆらぎ」、意味の無限増殖 → 多元的な意味作用が収斂する場としての「読者」
・「読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。」(60)
※「『作品』と『作者』との特権的関係を『テクスト』と『読者』との匿名的関係で置き換えることによって、『内面的意図』に意味作用を求める言語論の構図を根底から覆そうと企てた」(60)
4.「起源」と「テロス」の不在
◆口承言語(口承文芸)の特異性(柳田の口承文芸論と物語論を手がかりに)
・「口承による伝達は音声を媒体としながらも、特定の発話状況において完結するものではなく、『伝聞』の連鎖を通じて時間空間的に無数の読者(聴者)に開かれている」(62)(文字言語の特質である「通時性」「歴史性」)
・「口承言語は出現するそばから消滅する一回的な『音声』を媒体にすることによって、文字言語のもつ物質的固定性ないしはテクストの自立性から能う限り自由である。口承によって伝達される物語は、その都度の話者の身体を通過することによって一種の『解釈学的変形』を被る。」(62)(「作者の死」→「読者(聴者)」)
・「文芸の発生と享受の基盤を『作者の意図』にではなく、作者と読者(聴衆)とが形作る共同の『場』あるいは『コンテクスト』の中に求めている」(64)(「作者」とは「場の機能」の別名)
・「小説(novel)が常に『新しさ』と『独創性』とを追及するとすれば、物語の本質はむしろ聞き古されたこと、すなわち『伝聞』と『反復性』の中にこそある。」(67)(「反独創性」)
・「独創性(originality)がその起源(origin)を作者の中に特定せずにはおかないのに対し、物語においては『起源の不在』こそがその特質にほかならない。」(67)(「起源の不在」と「無名性」「匿名性」)
・「物語の享受は聴き手や読者の想像力を梃子にした『ずれ』や『ゆらぎ』を無限に増殖させつつ進行するのである。それゆえ、物語の理解には『正解』も『誤解』もありえない。」(67)
・「文芸は個人の才能に還元されるものでもなければ、特定の生産様式に還元されるものでもない。」「文芸の成立と展開を支える基盤は……歴史的伝統を背負った『匿名の話者』であり『通時的読者』だからである。」(70)(ロマン主義的天才美学とマルクス主義的社会美学に対する反措定)
◆「テクストの死」と「解釈学的同一性」
・「物語は『話者』と『読者』との相互転化のプロセスあるいは歴史的連鎖を母体として生成され、語り継がれるものであり、それが文字化された『テクスト』として固定化され自律化してしまえば、『手承眼承の文芸』へと移行する」「解釈学的とも呼べるこのような伝承のプロセスにおいては、『テクストの同一性』はおよそ保証の限りではない。」(71)(「テクストの死」)
・「記憶と忘却との拮抗によって洗い出された細部は話者の想像力によって補完され、さらには聴衆の興味関心の方向に沿って膨らんで行く。それゆえ、物語は『話者』の作用と『場』の反作用とのせめぎあいとその止揚を通じて生成されて行くのである。」(73)(「取捨選択」と「場」や「コンテクスト」の作用)
・「叙述の省略や敷衍」、「誇張」「単純化」「転倒」「換骨奪胎」「寓話化」「引用」といった「操作を介して削除されまた増殖し、『リゾーム状の生成』を続けつつ伝承されていく」(73-4)(物語は一種の「編集作業」)
・「そこで行われているのは『同一性の反復』ではなく、『差異を伴った反復』あるいは『解釈学的反復』」「永遠不変の『無時間的同一性』ではなく、時間に侵犯され、歴史的履歴を身に帯び、さらには差異を孕んだ『解釈学的同一性』にほかならない」(76)(絶えざる「同一性」の解体と更新)
◆起源とテロスの二重の不在
「『作者』がいなければ、『作品』概念もまた、その特権的意味を失うであろう。物語は『作品』となることを欲しない。つまり、それはいかなる意味でも『完成への意思』をもたないのである。」(76-7)「リゾーム状の物語生成は、それが到達すべき目標を始めから欠いているのである。あるいは、物語の伝承は自らの同一性を絶えず解体し更新し続けることそれ自体を目的としている」(77) ⇔「西欧近代は『起源』と『テロス』とを結ぶ直線的時間の中に自らを位置づける歴史意識を座標軸に、絶えざる『進歩』を追い求め、『完成への意思』に貫かれたファウスト的人間像をその理念として掲げてきた。」(77)(「メタ物語」「大きな物語」)
※「彼はひたすら常民の生活文化の藪の中へ分け入ることによって、そこに蓄積された重層的な歴史的経験の構造の中に『西欧化』とは異なる『近代化』の可能性を見いだし、その潜勢力を新たな価値意識の形成に転化しようと試みた」(80)(「伝統」を再生する教育装置,「世代間コミュニケーション」の手段,「近代」の歪みを映し出す「鏡」,活字文化を越えた別個の伝達方法の探究)
5.解釈装置としての「物語文」
◆経験について
・「カタル(語る)」=「経験」を「カタドル(象る)」
「本人にのみ接近可能な私秘的『体験』は、言葉を通じて語られることによって公共的な『経験』となり、伝承可能あるいは蓄積可能な知識として生成される。『語る』という行為は、人と人との間に張り巡らされた言語的ネットワークを介して『経験』を象り、それを共同化する運動にほかならない。」(80-1)
・経験主義の哲学者に対する批判
「経験を瞬間的な『感覚的知覚』あるいは五官による『感覚与件の受容』とのみ解してきた。」(81)「経験を経験たらしめている時間的広がりあるいは文脈的契機に対する理解」と「経験を構成するに当たって不可欠の役割を演じている言語的契機に対する認識」が欠落(81)。
※「経験とは瞬間的な感覚や知覚ではなく、『自己の行為とその結果との非可逆的な因果関係を通り抜ける』という時間的広がりの中で獲得されるものであり、それは『関係了解』という文脈的理解に支えられている」(81)「経験は物語られることによって初めて経験へと転生を遂げる」(83)「経験を伝承し共同化する言語装置をわれわれは『物語』と呼ぶことができる。」(83)(因果関係、言語の参与、文脈的理解、「生活形式(Lebensform)」や規範への転化)
◆経験を物語るとは
「経験の記述は基本的に物語文という形式に則してなされる」(84)
時間を隔てた二つの出来事を指示するAそれは過去時制で語られるBそれは行為を記述する文一般の特徴)
例:「私が提案した奇襲作戦は味方の部隊を勝利に導いた」(典型的物語文)
「奇襲作戦」の提案は「『味方の勝利』というもう一つの出来事と関連づけられることによって、優れた提案としての評価を受け、『物語る』に値する経験となる」(85)
※「物語文は複数の出来事の間に因果関係のコンテクストを設定する役割を果たす」,「有意味性は後続する時間的コンテクストの中で生じるのであり、時間を通じて熟成する」,「経験が因果の関係了解である以上、経験は『物語』を語る言語行為、すなわち物語行為を離れては存在しないのであり、逆に物語行為こそが『経験』を構成するのである」(85) ⇔「理想的年代記(Ideal Chronicle)」(「すべての出来事をそれが起こった瞬間に記録する膨大な歴史年表」であり、「一定のコンテクストの中に位置づけ、関連づけることができない」)(86)「経験はある時点で完結することは決してない。彼らの意に反して、経験は生成し、増殖し、変容し続ける」「それは、過去は決して完結することなく変化し続ける、ということにほかならない。」(87-8)「『事実そのもの』を同定するためにも、われわれはコンテクストを必要とするのであり、物語文を語らなければならない」,「物語文は現在のパースペクティブから過去を再解釈することによって歴史的伝統を変容させる『経験の解釈装置』」(89) →物語文と同様に、(口承としての)物語も「経験の解釈装置」
◆柳田國男の民俗学(「生活世界の解釈学」へ)
・口承文芸は共同体の記憶と経験を伝承する不可欠のメディア
「教育装置」,「世代間コミュニケーション」≒「経験の解釈装置」(絶えざる解釈→規範、生活形式)
・「物語の衰退」(「経験の衰退」)=「生活の等質化と平板化」→「柳田は物語の伝承を発掘することによって、『近代』が強いる『歴史意識の断絶』に抵抗しようとしたのであり、物語行為の潜勢力を顕在化させることによって、ベンヤミンの言う『経験の伝播能力』あるいは『経験を交換する能力』を再活性化しようと試みた」(94)(ベンヤミンは写真や映画などの複製技術時代の芸術の中に「大衆参加の回路」を見いだそうとした)
・「近代」という価値意識に対する「イデオロギー批判」……『「合理性」「効率」「新しさ」「進歩」といった価値理念に導かれて衛生無害化し、ハレとケの区別を見失って平準化した近代人の多忙で単調な生活』=「経験能力の衰退」と「歴史意識の喪失」(「悪の芸術」の衰微、「ウソの鑑賞法の退歩」)→「大きな物語」を撃つ橋頭堡として「小さな物語」を対置
・柳田とベンヤミンを二つの焦点とした「情報資本主義社会における『生活世界の解釈学』」……「物語」は政治支配の「イデオロギー装置」に転化するものだが、「物語」概念が近代資本制社会に対するイデオロギー批判の装置としても機能しうることを両者から学ぶべき
*作成:櫻井 悟史