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「医療行為の「囲い込み」に関する構築主義的研究」

2009年度第2回ケア研究会 於:立命館大学衣笠キャンパス創思館414
2009/07/19
仲口 路子

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last update: 20160120


2009年度第2回ケア研究会(2009/07/19)報告資料(仲口)

医療行為の「囲い込み」に関する構築主義的研究
2009/07/19(日)14:00〜18:00
立命館大学大学院先端総合学術研究科 公共領域5回生
仲口 路子

■ はじめに
 池田が『社会文化的「ぼけ」から社会医療的「認知症」へ』(※1)と述べるように,またそのような例は枚挙に暇がないのではあるが,さまざまなモノ・コトが「本質」と「構成」といった観点から問題にされてきた.医療に関していえば,『「病気」が社会的に構成されることについて,社会学者は医療化論として展開した.「医療化」(medicalization)とは,かつては病気とみなされていなかった現象が病気とみなされるようになり,医療の管轄下で統制されるようになる過程を指す.コンラッドとシュナイダー[1980]は,自らの理論的立場を,historical social constructionismと名乗るが,その背景には,ベッカーの「ラベリング論」と,バーガーとルックマンの「知識社会学」がある.それは,ラベリング論がミクロな対人状況で展開したロジックをマクロな社会過程に応用したものである.つまり,「病気」という社会的カテゴリーが定義され一般化していくマクロな社会的歴史的過程を論じた.その際,そうしたカテゴリーが制度化され,ひとびとの日常世界のなかに定着していく過程について,知識社会学の視点を援用した.』(※2) という整理がなされている.もっと分かりやすく説明するならば,例えば日本人の死因で現在のところ第一位(※3)と「されている」悪性新生物の「発生要因」は,「生活習慣」「病因微生物」「遺伝的要因」などが考えられているが,ようするに環境要因説と個体要因説がさまざまに複合した結果である,というような説明しかなされておらず,はっきりした原因は「分からない」ということができる.そこで本稿ではとくに「医療技術/医業・医(療)行為」に照準して『どのような現実もある特定の視角から問題化されたものに過ぎないという主張,つまり,どのような叙述もなんらかの「パラダイム」(T・クーン)に属している.スペクターとキツセ流の構築主義的アプローチを選択するならば,特定の「歴史の真実」がどのような動きの中で構築されてきたのか,その権力配置をあきらかにすることこそが,構築主義の課題である.』(※4) という論説に依拠し,ひとまずこれをどのように考えることが可能なのか,そうではないのか,といったことについて,しかし「どのような動きの中で構築されてきたのか,その権力配置をあきらかにすること」まで歴史を紐解くことは今回はでき得ないので,あっさりと考察することを試みることとする.

図 主な死因別にみた死亡率の年次推移


■ 介護職の医療行為 法規定,現場と隔たり(※5)
2008年10月04日
インスリンの自己注射に使う器具.家族には使用は許されるが,介護職では違法とされる

 甲府市内の介護施設で明らかになった,介護職による医療行為.関係者の証言でわかったずさんな実態には,同業者からも批判が聞かれるが,同時に法の不備を指摘する意見も少なくない.重度化が進む介護現場.介護職を一切の医療行為から排除することが適切なのか――.(吉田晋)
●「制限は患者に不利益」
 問題の短期入所施設で明らかになった,インスリン注射.県内で糖尿病患者を数多く診療しているある内科医師は「ヘルパー資格のある人に研修を義務づけた上で,認めるべきだ」と主張する.
 インスリン注射は,患者本人が自己注射器で打つのが一般化している.ただ,針の包装をはがして注射器に付け,目盛りを合わせ腹部に押しつけ,ボタンを押すなど「目盛りが読めて,両手が自由に使えるのが前提.要介護者は,手助けが必要だ」と言う.
 家族による注射は認められているが,介護職は禁止.このため,短期入所を施設に申し込んだ人が,「うちは注射ができないので」と利用を断られたケースもあるという.医師は「短期入所が使えなくて,在宅介護が続けられなくなったらどうするのか.法の不備だと思う」と指摘する.
●介護現場の悩み
 施設の中には,あえて手を貸すところもある.県内のある入所施設では,「インスリン注射は,看護師による実地指導を受けた介護職にやってもらっている」と明かす.腹部に穴を開けてチューブで流動食をとる「胃ろう」の入所者もいて,流動食のボトル交換も介護職が担当しているという.「これぐらいの人を介護施設が受け入れないと,病院がパンクしてしまう」
 一方で慎重な意見は根強い.国中地域のある特養ホームの施設長は「胃ろうのケアは看護師が交代でするが,5,6人が限界.入所者が入院先の病院で胃ろうを勧められた時,『うちには戻れなくなる』と伝えたことがある」と振り返る.特養より態勢が手厚い老健施設には医療依存度の高い人があふれ,高齢者が入る病院であっても,胃ろう程度では入院させてくれない.「県は,できるだけ特養で胃ろうの人をみてくれと言う.でも,今の介護報酬では看護師を増やせない」
 介護施設では,入所者の重度化が進んでいることから,介護職の研修など「備え」が必要だとする意見は多い.別の特養ホームの介護リーダーは「緊急時を想定し,痰(たん)の吸引や酸素ボンベの使い方などの研修をしている」と話す.
 特養ホームの経営者でつくる県老人福祉施設協議会の杉原初男会長によると,全国協議会でも,一部の医療行為について,施設の介護職にも認めるよう国に働きかけていこうという話になっているという.
 日本介護福祉士会県支部の中沢初枝・前会長は「看護師の配置に限界があるのであれば,介護職を教育して一部をゆだねるしかないのではないか.ただ安易に手を出すことには反対.何かあった場合,現場の職員を守ってあげられない.現状を踏まえ,ルールをはっきりさせるのが,最優先だと思う」と話している.
 介護職の医療行為は法で禁止されているが,例外もある.
 難病ALS患者が在宅療養している事例について,厚生労働省は03年,介護職による痰の吸引を認めた.ひんぱんに必要となる吸引が,介護 家族の過重負担になっているためだ.医師や看護師との連携のもと,患者・家族の同意を得て,十分な研修を受けたヘルパーが行うのがルールだ.
 厚労省は05年に,ALS以外の在宅患者の吸引についても同様の扱いとしている.さらに「現場で医行為の拡大解釈がみられる」として軽微な切り傷の処置,つめ切りなどを列挙し,「原則として医行為ではない」とする通知を出した.
 この通知にないものは医行為というのが厚労省の見解.家族については一部の医行為が法解釈上認められているが,介護職は「例外」を除いて医師法違反となる.在宅では可能な吸引も,施設の介護職には認められていない.
@褥創の処置.
A副作用などリスクの高い薬の使用.または出血などのリスクが高い薬.
B入院の必要性がある方への急性的な要素が高い処置.
C胃ろう
その他業務を行うにあたって,看護師的判断・観察が必要な行為.副作用が強い薬.
病的な部分に対する処置.(爪の化膿・炎症・褥創など)

■ 原則として医行為ではないと考えられる行為について(※6)
 かねてより高齢者介護・障害者介護等の現場などでは,たとえば,「"つめ切り"は医療行為になるため看護職員でしか行えないのか,それとも医療行為にはあたらずヘルパーでも可能なのか.」といったような疑問が発生していたかと思われます.
 このたび,厚生労働省医政局から「原則として医行為ではないと考えられる行為」についての通知が出されました.
 このページは,その全文を掲載する(PDF形式)ほか,その要点と主な注意事項について記載しています.

「医師法第17条,歯科医師法第17条及び保健師助産師看護師法第31条の解釈について」(添付資料1参照)

要点
 一定の条件を満たした下記の行為は,原則として医行為ではないとされています.
 ただし,これらすべての行為について,使用する器具,行為の対象となる者の健康状態,行為の範囲などの何らかの条件が定められています.条件の詳細については通知本文に記載されています.

行為条件
一般的な方法による体温測定水銀体温計・電子体温計による腋下での計測
耳式電子体温計による外耳道での測定
自動血圧測定器による血圧測定
パルスオキシメータの装着新生児以外のものであって入院治療の必要がないもの
動脈血酸素飽和度の測定を目的とするもの
軽微な切り傷・擦り傷・やけど等の処置専門的な判断や技術を必要としない処置であること
医薬品の使用の介助
皮膚への軟膏の塗布(褥瘡の処置を除く.)
皮膚への湿布の貼付
点眼薬の点眼
一包化された内用薬の内服
肛門からの座薬挿入
鼻腔粘膜への薬剤噴霧
医師等が以下の3条件を満たしていることを確認していること
入院・入所の必要がなく容態が安定している
副作用の危険性・投薬量の調整等のため,医師等による連続的な容態の経過観察が必要でない
誤嚥・出血など医薬品の使用にあたり医師等の専門的な配慮が必要でない.
家族・本人に対し無資格者による介助を行うことを説明したうえで,委任状等の具体的な依頼を受けていること
医薬品が医師の処方によるものであること
医師・歯科医師の処方,薬剤師の服薬指導,看護職員の保健指導を遵守すること
つめ切り・やすりがけ爪に異常がないこと
爪周辺の皮膚に化膿・炎症がないこと
糖尿病等の疾患で専門的管理が必要でないこと
日常的なオーラルケア重度の歯周病等にかかっていないこと
耳垢の除去耳垢塞栓の除去を除く
ストマ装具のパウチにたまった排泄物を捨てること肌に接着したパウチの取り替えを除く
カテーテルの準備,体位の保持
市販の使い捨て浣腸器による浣腸 使用する浣腸器は下記の条件を満たしていること
挿入部の長さが5〜6cm程度以内
グリセリン濃度50%
成人用では40グラム以下
小児用では20グラム以下
幼児用では10グラム以下


注意すべき事項
 これらの行為でも,病状が不安定である等で専門的な管理が必要な場合には医行為とされる(医師・歯科医師又は看護職員が行う必要がある)場合があります.
 このため,必要に応じて,行為を受ける者が専門的な管理が必要な状態にあるかどうかを医師・歯科医師又は看護職員に確認することが考えられます.また,病状の急変が生じたなどの場合は医師・歯科医師又は看護職員に連絡を行う等の必要な処置を速やかに講じる必要があります.
 体温測定・血圧測定の結果により投薬の要否などの医学的判断をすることは医行為にあたります.また,測定結果が事前に示された数値の範囲を超える異常値である場合は,そのことを速やかに医師等に報告する等の処置が必要です.
 介護サービス等の事業者等は事業遂行上,安全にこれらの行為が行われるよう監督することが求められています.またこれらの行為を業として実施する者に対しては一定の研修や訓練が行われることが望ましいとされています.
 これらの行為について,看護職員による実施計画が立てられている場合は具体的な手技・方法をその計画に基づいて行うとともに,その結果について報告,相談することにより密接な連携を図って下さい.

■ 厚労省:特養介護職員の一部医療行為容認 たん吸引など
(添付資料2参照)
● 定例記者会見
「特別養護老人ホームにおける介護職員の医行為に関する問題について」
―――三上常任理事
三上裕司常任理事は,6月10日の記者会見で,「特別養護老人ホームにおける介護職員の『医行為』に関する問題」について,日医の見解を述べた.
 同常任理事は,「第2回特別養護老人ホームにおける看護職員と介護職員の連携によるケアの在り方に関する検討会」(6月10日開催)の審議内容について,特養において看護・介護職員の連携により,「口腔内吸引」及び「経管栄養に関する実施準備,経過の観察,終了後の片づけ等」を行うことに ついては,日医としては,これらの行為が「医行為」として定義されているかどうかが問題であると指摘し,「医行為」ではないことが,厚生労働省通知等によ り,明確に示されれば,特養利用者の安全を担保するために必要な研修を行ったうえで,介護職が実施することに問題はないとの考えを示した.
 そして,そうした定義がきちんと示されないまま,厚労省が提案したモデル事業が実施され,その後,なし崩し的に,その他の「医行為」も,定義が曖昧なまま,介護職により医療・介護現場において実施されることは,利用者・従事者の安全を守る側面から反対すると主張した.
 また,6月6日付読売新聞夕刊で,本検討会において検討した後に,公表されるべき情報が事前に報道されたことに触れ,「情報の事前漏洩 は,これまでも再三指摘してきたが,いまだに改善が見られない.このような事態は,情報の操作及び検討内容がミスリードされる恐れがある」として,厚労省担当部局に厳重に抗議したことも明らかにした .(※7)

● 厚生労働省は10日,特別養護老人ホーム(特養)で介護職員による入所者へのたん吸引などの医療行為を初めて容認し,そのガイドラインを策定する方針を同省の有識者検討会に伝えた.同省は年内に各地の特養でモデル事業を実施し,安全性が確認できれば来年度の実施を目指す.
 医師や看護師の資格がない介護職員が,特養で入所する高齢者にたん吸引などの医療行為をするのは違法.しかし,特養には看護職員が少なく,実際に は看護職員がいない夜間などに介護職員が代行しているのが実態で,一定の条件下であれば介護職員にも認めるべきだとする声が現場などで強かった.
 厚労省は今回,介護職員が行う医療行為を口内のたん吸引と,チューブを通して流動食を注入する「経管栄養」の二つに限定.この日の検討会でガイドラインのたたき台を示した.経管栄養については流動食の注入などは認めず,その準備などに限るとした.
 モデル事業では特養の介護職員が研修を受け,一定の条件の下に各施設で実施する.
 たん吸引などの医療行為を巡って厚労省は04年10月,盲・ろう・養護学校(現特別支援学校)の教員については「一定条件下であればやむを得ない」との解釈を示している (※8).毎日新聞 2009年6月10日 22時36分

■ 医療技術/医業・医(療)行為について
「技術の交互性については,今,介護福祉士やホームヘルパー(訪問介護員)と看護師らの業務をめぐって"医療行為"であるか否かが争点となり,かなり紛糾している.ALS(筋萎縮性側策硬化症)の痰の吸引に限って,昨年厚生労働省が介護職員にもその実施について認めることにしたが,介護職員(福祉系職員)の医療行為については認められていないのが現状である.しかし実際には介護職員の殆んどが医療行為(この調査では投薬,外用薬の塗布,点眼,血圧測定,爪切りなど18項目)を行った経験があり,またその4人にひとりは誤薬などの医療事故(内訳は誤薬・配薬ミス,爪切り,摘便,痰の吸引,座薬,経管栄養,インシュリン注射,リハビリ,その他に関連した事故)をおこしていたとの報告がある.医療行為を行った介護職員のうち,それらの行為が医療行為であると知らなかった(違法であると知らなかった)としたのは1割以下であり,多くの介護職員は違法性を知りつつ,利用者本人や家族の要望,あるいは看護師の指示で実施したと答えている(2004/9/5日本経済新聞).吸引などの医療行為については教育現場でも"誰が行うか"について問題になっている.そこで吸引を例にとって考えてみる.「痰の吸引」といっても,気管切開を受けているかいないか,またディスポーザブルのカニューレか金属カニューレか,耳鼻科などの手術後で鼻からは全く空気が通らない状態かそうではないか,気管の変位の有無,鼻腔吸引の可否,あるいは痰の性状や喀出の状態,全身状態や薬の副作用などによる感染や出血しやすい状態(易感染性,出血傾向)であるか否かなど,かなり個性があり,一般的な解剖学的・生理学的知識だけでは十分な技術を得ることは困難であるといえる.それなのに,「吸引」とひとまとめにして,さあできるかできないか,といった議論は全く意味がない.何をどうすれば利用者が混乱せず,満足できるケアが可能になるのかといった視点で議論すべきである.ちなみに看護師たちがその個性溢れるそれぞれに対してどのように"注意し"技術を学んでいくかといえば,それは「情報の共有」にほかならない.記録や直接みんなで話し合うことによって経験を持ちより,コンセンサスを得るとともに新たな変化にも対処していけるように調整している.つまり経験の学びが共有されることで一年生の看護師も医療行為が単独で行えるのである.チームでかかわる,あるいはかかわりが重層的であるということは,具体的なレベルでは技術の相互性が実施されなければならない.「それは私の仕事ではない」という答えが,利用者を混乱させ,孤独にさせていることをまず考慮しなければならないであろう.
介護職員が経験したとする医療行為における事故は,違法行為であるとの認識から,やもすれば潜在化し隠蔽体質の温床にもなりかねない.そうすれば医療が歩んできた暗い歴史をまた繰り返すことになる.救命救急のABCをタクシー運転手らが学んでいるように,さらにもっと個別的なレベルで技術を学ぶプロセスが検討されなければならない.一方で,誰でもどこでも医療行為ができるようにするということはとても危険ではないかとの一般的な認識がある.たしかに医学的診断や薬の処方,手術など,「免許」のない人に許可することはとても危険である.しかしでは,「医療行為」とは何か.それは医療器具・薬物を処方しまた使う行為のこと(保助看法第37条の記載(※9)による)なのであろうか.清潔操作など少し配慮のいる手技が必要な行為のことなのであろうか.または医療上の必要性が専門的判断によって認められる行為のことなのであろうか.看護の専門職者は「私たちが伝統的に行ってきたことが看護であり,そこには医療行為が含まれている」とし,また「これまで医療行為は医療専門職が行うものであったし,これからもそうあり続ける」と主張するかもしれない.しかし医療専門職者がいくら頑張っても,『家族』に許される行為がその中に含まれる以上,医療行為は医療専門職者にのみ許されるのだという主張は意味をもたない.それは責任論であって技術論ではないからである.今後は職業としてその技術を行うことの責任について,「違法性」の枠を取り外すための研究が必要となる.」(※10)

■ ロック『統治論』(1690)―私的所有がもたらす自由とその限界(※11)
『「人が耕し,改良し,栽培し,そしてその作物を利用しうるかぎりで,それだけの土地がその人の所有権に属する.彼はその労働によって,それだけの土地を共有地からいわば囲い込むのである.また彼以外のすべての人が同じようにその土地に対して権利を持っているのであって,したがって,仲間のすべての共有権者の同意がなければ,彼はその土地を所有することも囲い込むこともできない,といっても,彼の権利は無効とはならないであろう.」(第二篇第五章)』
『こうして生産要素の所有者が誰であるかが封建時代のように身分で決まらなくなると,代わりに生産要素に対する私的所有権が誰に属するかが分配のあり方を決定することになる.』
←ロックの経済哲学―六つの原理
「人身所有権の原理」「財産所有権の原理」「所有権の結合の原理」
「同意と服従の原理」「正義の原理」「公共善の原理」

(ようするにロックの主張は,)土地の所有権は開発した者に所属する.フロンティアをいち早く占有することを勧める論理を与えていた.(しかし,)「他人にも資源を十分に残す」という但し書きつきであった.

■ 医療技術のフロンティア
『ロックに対する批判は,「他人にも資源を十分に残す」という但し書きにより機会均等原則が守られるというのは果たして本当か,という点に集中している.彼は先んじて資本蓄積することを推奨しているが,それだと独占が固定されてしまう,資本家と労働者との間の対等な同意などありえず,見えざる搾取が資本主義システムにより隠蔽されている,といった疑問である.これらは現在でも,ロックを引き継いだとする新自由主義に対して投げかけられている.土地や資本も含め資源を先取することの問題は,リカードが想定したように,資源のフロンティアに限りがある場合に生じる.これに対してロックの「但し書き」は,手つかずのフロンティアが発見され,それがごく一部しか独占されてはいない段階,資源の限りが見えてこない状態を論じたと見ることもできる.』 (※12)
ex)インターネット

『むしろロックが提示した私的所有権の配分問題は,手つかずのフロンティアや有限であれ分割所有が妥当な自然資源ではなく,私有を否定すべき公共物が私的に占有される時に紛糾を呼ぶ.』(※13)
ex)富士山の視界

『生きていることで意味を感受する人間の人格は,何を食べ,どこに住み,どんな景色を眺めどういう仕事をするか等々で構成されている.都市の景観や山地の自然,広い空などは,共有されることを前提に個人の自律を可能ならしめている.それを物理的に切断するのは,公共性を毀損するとともに,個人の自律を揺るがせてしまう.ポラニーが述べるように,土地.資本という生産要素は,労働とともに,選択の対象であるよりも,主体が選択以前に生活の拠り所とするものなのだ.ロックならば,それらに対する私的所有権は,自然法の制約を受けると述べたかもしれない.』(※14)

■ 『私的所有論』
次に立岩の議論を参照する.
『何がある人のもとにあるものとして,決定できるものとして,取得できるものとして,譲渡できるもの,交換できるものとしてあるのか,またないのか.そしてそれはなぜか.これに対して与えられるのが,私が作る,私が制御するものが私のものであり,その能力が私である,という答えなのだが,この答えはどんな答えなのか.つまり私はこの本で「私的所有」という,いかにも古色蒼然としたものについて考えようとする.けれども私は,所有,私的所有は,依然として,あるいは一層,この社会について考える時に基本的な主題だと考えている.』(※15)

『例えば社会(科)学者は,事実を記述し,属性原理から業績原理への移行を「近代化の特徴」として捉える.しかしなぜ,属性原理より業績原理が優越するのか.業績は自分で動かせるが属性は動かせないからだろうか.』(※16)

『例えば医療の世界,というより医療を巡る言葉の世界では「自己決定」が流行である.自己決定は良いものだ.私もそう思う.ではそれで終わり,あとはそれをどう実現していくかという主題が残るだけなのか.他方に「私的所有」という言葉がある.こちらは昨今ではあまり流行らない.しかし,近代的な意味での所有権は,単に所持する権利ではなく処分権であるから,その限りで「所有」と,あることをどのように扱うかという「決定」とは同じものである.だから「所有権」と「決定権」とは同じである.そして自己決定とは自己が決定することであり,私的所有とは私が所有することである.だからこの限りでは,自己決定(権)と私的所有(権)とは同じである.両者がいっしょに論じられることはあまりないが,論じられなければならないと思う.――そのように思ってこの本は書かれている.何が私のものなのか.「私の身体は私のものである.」当然のことのように思うが,処分権として所有権を捉えた場合にそう言い切れるのか.また「私が私の働きの結果を私のものにする」――「私的所有」という語は,本書では多くこのことを指す.これをそのまま肯定すべきなのか.』(※17)

■ 考察:開くための思想
 これまで参照してきたものをまとめると,医業・医(療)行為の行為者は(現状として,「法」的に)拡大されてきている.しかしそれは,専門性を含むさまざまな論点からの熟慮・考察を経た結果から導き出されてきたものなのではなく,「通知」(資料1)にあるように「近年の疾病構造の変化,国民の間の医療に関する知識の向上,医学・医療機器の進歩,医療・介護サービスの提供の在り方の変化などを背景に」という,とても違和感のある背景を持っている.
ここでいう違和感とは,すべての言葉の根拠と定義が曖昧であるのと同時に『供給に枠を設定しようとする動き』(※18)をひとまずそれを背後仮説として無条件に設定していることに起因する.
 「私の労働(学習)によって得られたものは,私のものである.」という「正論」はあり,こと医療に限らずとも,「手つかずのフロンティア」も残っている.しかし,じゃあそれでいきましょう,頑張ろう,なのではなく,「すでにあること=『技術』」についても「慣例」や「やむにやまれず」から行われる(行われてしまう)ことを「供給の枠」の中で後追い的に分散を承認していくのではなく,まさにこの,今,「現場に向き合う思考」が必要とされているのではないだろうか.
医療でいう「手つかずのフロンティア」は,開拓されるのをじっと待っているばかりではなく,むしろ常に生命や健康の問題となって時間の問題を抱えて早い対応を迫っている.
そこで私たちは常に「開拓」し「決定」することが求められているのではあるが,しかしそれにもまた困難が付きまとう.専門性・私的所有,すなわちここでいう,医業・医(療)行為・技術について常に「公共のものだという」こともできないし,また必ずしも「フロンティアを開発してその者の業績とする」ということもできない状況にある.
そこで,専門性・私的所有について,再度考えてみる.笹谷(※19)は『第一義的に,ケアニーズの決定は国・政府ではなく,ケアされる当事者がなすべきである.』とし,また『当事者の「声」を政策に反映させるためには,ケアリング現場においてケアワーカーが当事者の「声」に耳を傾け,ニーズを汲み取ることができる能力と時間の確保が必須である.』(中略)『必要なのは,深い共感力empathyと身体ケアと家事の双方のスキルに長け,TPOに応じて必要なタスクを実行できる「総合判断力」であろう.このような「判断力」はこれまで,個人の資質や女性性ととらえられ,教育の対象に意識的に取り上げられることは希薄であった.しかしこのような能力こそ,男女に限らずケア教育の根幹に据えられるべきである.「専門性」観のパラダイム転換が求められる.』と述べている.すなわちここで言う「専門性観のパラダイム転換」とは,医学モデルにどことなく・どこまでも準拠した細切れのケアの考え方ではなく「居続け」「感じ取る」事を専門性とすることを強調しているように見える.
また崎山ら(※20)は『概念や理論はあくまでも困難経験に接近するためのツールにすぎず,それ以上でも,それ以下でもない.このことは,しばしば忘れられがちだが,私たちが構想する<支援>の社会学の原点でもある.』とした上で,『私たちが意図する<支援>の社会学は,それらとはまったく別の方向にある.それは,困難経験を生きる人々の声をただ尊重するわけでもなく,また単に立ちつくすわけでもなく,困難経験に「寄り添い」続けるなかで,社会学的な「知」を立ち上げることだ.』という.
さらに補足するならば,山田(※21)は,『1980年頃から近代社会が構造転換のプロセスにあることは,様々な社会科学者が指摘している.そして,その原動力は,科学技術の進歩と自由化である.』とした上で,『人生の様々な領域における選択可能性の増大と実現可能性の低下というギャップの中で,どのようなリスクが個々人に発生し,ベックやバウマンが強調するようにそのリスクがいかに不平等に配分されているかを考察することが,リスク社会論,いや,社会学の大きな課題となっている.』という.
まず,「居続ける」「寄り添う」について言えば,「法」や「制度」的にその「可能性」が開かれることは,まず第一義的に議論されてしかるべき問題である.すなわちそれが,どのようにすれば(=再配分によって)可能となるのか.
しかし一方で,(臓器移植法に見られるように)「法」や「制度」的にその「可能性」が開かれることによって「そうあるべき」の方向へと即座に滑っていくことも考えておかねばなるまい.そうなると「リスクの不平等な配分」は解消されることなく,また別様に再生産されていくだけに終始してしまうことになる.
 本稿の結論としては,医業・医(療)行為・技術についての考察は,ひとまず「供給の枠」を括弧に閉じた上で,医療専門職者らが自らの「所有物」である医療技術のどれを切り売りしようかと考える「選択の対象」として捉え,その「手段的戦略」をこね回すのではなく,むしろ「主体が選択以前に生活の拠り所とするもの」(仮説的にロック流に言えばその私的所有権は,自然法の制約を受ける,という説明)を保障しうる方策とは何か,を考察することこそが重要なのではないか,という指摘となる.すなわちそれは「医療技術の目的と敷衍」の確認作業を行うことでありまた,「目的達成戦略」を考えることなのである.


1.池田光穂『社会文化的「ぼけ」から社会医療的「認知症」へ』
 http://133.1.255.37/~mikeda/070130dementia.htmlより.
2.2001/02/20 上野千鶴子 編「構築主義とは何か」勁草書房.:野口祐二「臨床のナラティヴ」
 http://www.arsvi.com/b2000/0102uc.htmlより.
3.厚生労働省ホームページより.
 http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai06/kekka3.html#2
4.北村健太郎作成ファイル:「上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0102uc.htmより.
5.2008/10/04 Asahi.com.マイタウン山梨
http://mytown.asahi.com/yamanashi/news.php?k_id=20000300810250001より.
6.2007/11/15 滋賀県ホームページ
 http://www.pref.shiga.jp/e/imuyakumu/infomation/ikoui/not_ikoui.html
7.2009/ 06/25 日医白クマ通信 No.1153
http://www.med.or.jp/shirokuma/no1148.htmlより.
8.2009/06/10 毎日jp
 http://mainichi.jp/life/today/news/20090611k0000m040131000c.htmlより.
9.保健師助産師看護師法より抜粋(昭23.7.30 法203)
(医療行為の禁止)
第37条 保健師,助産師,看護師又は准看護師は,主治の医師又は歯科医師の指示があつた場合を除くほか,診療機械を使用し,医薬品を授与し,医薬品について指示をしその他医師または歯科医師が行うのでなければ衛生上危害を生ずるおそれのある行為をしてはならない.ただし,臨時応急の手当てをし,又は助産師がへその緒を切り浣腸を施しその他助産師の業務に当然に付随する行為をする場合は,この限りではない.
10.2004/12/10仲口路子「福祉と医療・看護の融合・協働の試み〜臨床的ケアを考える〜」(卒業論文)より引用.
11.2009/05/10 松原隆一郎「経済学の名著30」ちくま新書.pp016-024.
12.ibid.p022.
13.ibid.p022.
14.ibid.pp023-024.
15.1997/09/05 立岩真也「私的所有論」勁草書房.pA
16.ibid.p4.
17.ibid.p2.
18.2008/10/01 上野千鶴子+中西正司 編「ニーズ中心の福祉社会へ―当事者主権の次世代福祉戦略」:立岩真也 「楽観してよいはずだ」p220.医学書院.
19.ibid.:笹谷春美「ケアサービスのシステムと当事者主権」pp062-064.
20.2008/11/22 崎山治男/伊藤智樹/佐藤恵/三井さよ 編「<支援>の社会学 現場に向き合う思考」青弓社.pp13-14.
21.2008/11 山田昌弘「リスク社会論の課題」学術の動向.pp35-38.

*作成:仲口路子
UP:20090723 REV: 20160120
ケア研究会  ◇仲口路子  ◇全文掲載
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