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「社会福祉サービスとしての在宅介護――家庭奉仕員制度創設期の政策と実態」

第7回福祉社会学会要旨
於:日本福祉大学 2009/06/06
渋谷 光美


社会福祉サービスとしての在宅介護――家庭奉仕員制度創設期の政策と実態

 渋谷 光美(京都女子大学/立命館大学大学院)

【はじめに】
 今日の在宅介護の要であるホームヘルプサービスの源流は,1950年代後半に溯る。1956年に長野県下の上田市を始めとした市町村において家庭養護婦派遣事業が,また1958年には大阪市において,家庭奉仕員制度が創設されている。先行的な自治体における事業の成果が著しかったことから,1962年には国庫補助事業とされ,1963年の老人福祉法に位置付けられた。
 長野県や大阪市において,ともに1950年代後半に家庭奉仕員制度が創設されたのは何故だろうか。当時の日本は,高度経済成長期に向かって資本が蓄積される一方で,貧困化が深刻化していた。特に被保護老人世帯は生存権,生活権が危ぶまれる生活を余儀なくされていた。そのような生活実態に,加齢や疾病による生活行為の支障に対する私的扶養の困難性が重なり,「個々人の私生活に表れた社会問題としての生活問題」(以下,「生活問題」とする)が表出していたのである。その生活問題に対して,経済保障にとどまらない社会福祉サービスが政策化され,発展していったと考えられる。
 本報告では,1950年代後半から,根幹的な政策転換はなされずに家庭奉仕員制度が拡大された1970年代頃までの時期を,家庭奉仕員制度創設期として捉える。当時の被保護老人を中心とした低所得者層の老人の生活問題と,家庭奉仕員の援助実態に関して検討した内容を報告したい。

【研究方法】
 文献研究と,過去に行なわれた調査の結果,1960年代から1970年代の家庭奉仕員の手記等や1970年代に家庭奉仕員として従事されていた方へのインタビュー調査による。当時の家庭奉仕員制度に関わる資料がほとんど散逸してしまっている現状においては,稀少な手記やインタビュー調査の聴取内容そのものが,当時の家庭奉仕員の活動実態の一端を示す歴史的資料としての意味があると考え,取り扱った。

【結果・考察】
 厚生省(現厚生労働省)が1957年に調査した,日本社会福祉年鑑(1960度版)の資料によると, 65歳以上の高齢者5,083,000人の生活維持の方法は,私的扶養が76.6%の多数にのぼり,経済的にも自立できていない老人の現状は,何らかの経済的生活保障の政策を迫る結果として考えられた。社会的にも,戦前の「いえ」制度の崩壊による,私的扶養意識の変化による影響が大きくなるのではないかと予想されていたからである。
 当時の家庭奉仕員制度の対象者でもある被保護老人は,人間としての最低限の生活が脅かされる状態に陥っていた。生活扶助基準が,あまりにも劣悪な低水準であったからである。1960年の総評調査研究所の生活保護実態調査の結果では,エンゲル係数は53.5%(当時の勤労世帯の平均は,38.4%),1世帯当り8,998円(当時の勤労世帯の平均は,14,318円)という低さであり,エンゲル係数60%以上が,34%も占めていた。生活扶助だけで生活している老人世帯の例では,エンゲル係数が71%にもなっていた。老人の起居動作などに支障が出だせば,安い食材を売っている店を探すこともできなくなり,買物に行けたとしても近隣に限られ,また回数も減って,常備食の缶詰などで食事を済ますという,すさんだ食生活になってしまう可能性が高い。食欲の減退は,栄養状態の悪化を招くだけではなく,生活意欲の減退にもつながっていく生活問題である。だからこそ老人の生活に入り,一体となって援助ができる,社会福祉サービスが必要となるのである。
 また生活保護世帯の持家の実態は,戦後の応急バラックや,不法占拠による掘立小屋などであった。そのような持家でも,保護基準の住居費がでないため,補修もできず,老朽化を眺めているばかりの実態であったという。さらに極端に低い家賃で,滞納の多い世帯を収容する部屋借用世帯の住環境は,年々くずれるアパートの土台,壁,天井は放置されるなど,持家以上の衛生面の条件の悪さであったことがわかる。このような住環境の悪さは,単に住み心地の悪さに留まらない。衛生面からの心身への悪影響はもちろんだが,食事や排泄などの基本動作に長い移動が加わることによる障害として表出する。起居動作に支障のある老人にとっては,生活行為そのものが,不能になってしまうこともある。たとえ,自室のバケツに排泄できたとしても,その後始末ができないなどの生活問題となって現われる。
 以上のような生活問題に対する家庭奉仕員の活動実態について見ていきたい。
 家庭奉仕員の訪問先の被保護老人の中には,戦争の爪あとを残し,世間に背を向けながら暮している人も多かった。そのため,役所からの訪問に不信感を抱き,拒否的態度を示す老人に,家に上げてもらうまでの根気強い関わりが必要となった。家庭奉仕員が,老人の生活空間に身を置けた時点で,老人のかたくなに閉ざされた心に,風穴が開けられている。 また,対象となる老人の生活状態はもちろん,心身の状況など,何も情報がないまま援助に入ることが多かった。そのため,コミュニケーションをとりながら,家事援助を行う中で,何に困っているのかを察知することが求められた。滞在時間が長かったこともあり,老人の生活全体を見ながら,老人と一体となって援助ができたという。
 先述のように,劣悪な住環境により,衛生面の状態のひどさが際立っていた家が多かった。老人には,家事全般がやりづらい環境にあり,そのことが生活の支障になっている生活状況があった。衣食住の生活全般が,最低水準の生活を余儀なくされていた老人には,身の回りの生活環境が改善されていくこと自体が,人間的な感覚を取り戻せる契機であった。たとえば,毎日,缶詰ばかりの食生活である老人にとって,たとえ貧しくても,自分の家の食材と生活用品とを用いて出来上がった,自分のうちのご飯だからこそ,食べる楽しみや喜びが沸いてくる。家庭奉仕員は,老人の家にあるものを使いながら,老人の生活の質を高めていったのである。
 その後,住環境が改善された一方で,新しい生活様式に対応できない老人は,社会から完全に取り残されてしまっていた。ガスや電化製品の使い方指導など,新しい生活様式を獲得していけるための援助が求められた。また社会からの孤立を防止する共同電話の設置と使用の援助もなされていた。情報源がラジオだけの老人に,雑誌などを持ち込んで世間一般の情報を提供する役割も,家庭奉仕員は担っていた。
 基本的には,身の回りのことはできる老人が多かった一方では,いわゆる寝たきり老人の介護に携わることもあったという。当時は,急性期のリハビリテーションもなく,家族も介護の知識がないため,上下肢が拘縮していたり,褥瘡の状態がひどい老人も多かったという。家庭奉仕員は,研修制度もない中で,保健婦など,他の専門機関に協力を求めるなどして,自ら介護の技術を取得し,伝承していったのである。

【おわりに】
 在宅介護サービスの源流は,それまで家庭内や地域の相互扶助で行なわれていた生活行為に対する,単なる代替機能のための外部化ではなかった。被保護世帯に対する生存権や生活権保障を,公的責任のもとで行なうための社会福祉サービスとして,政策化されたのである。
 その点に関する更なる検討が,今日の社会福祉サービスのあり方を問う視点として,重要かつ不可欠であり,その意味での意義は大きいと考える。今後は,生活問題の解決に対する公的責任を明確にした社会福祉サービスの歴史的変遷を捉えることを通じて,今日の在宅介護政策とその実態に関する検討を行いたい。

*作成:渋谷 光美
UP: 20090611
全文掲載  ◇第7回日本福祉学会
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