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「生に対する歴史の功罪―ヘイドン・ホワイト「歴史への意志」を読む」

櫻井 悟史 20090625 第1回物語と歴史研究会レジュメ


◇書誌情報:White, Hayden, 1973, "Nietzsche: The Poetic Defense of History in the Metaphorical Mode" in Metahistory: the Imagination in Nineteenth-century Europe, The Johns Hopkins University Press(=1998, 田中祐介訳, 「歴史への意志」(『メタヒストリー』所収)『現代思想』青土社, 26(14):59-83)

関心:「私の直接の関心は、歴史をめぐる思考が新しい時代を先導する役割をどのように果たせるのかというニーチェの問題の立て方と、悲劇という芸術の解放する力を歴史に吹き込むことが必要であるという彼の確信にある」(74)

目的:ニーチェの歴史をめぐる思考の再評価(邦訳は半分までで終わっている)

方法:『悲劇の誕生』と「歴史の善用と悪用」(「生に対する歴史の功罪」)読解(邦訳部分限定)
ニーチェの歴史への見解:「歴史研究はそれだけで完結してしまうのではなく、つねに生に結びついた目的への手段としての役割を果たすべき」(60)
ニーチェの人間の歴史への見方:「生を否定する見方」と「生を肯定する見方」
ニーチェの関心:「歴史を悲劇の作劇法のようなものにいかにして変えることができるのかという問いに定見を下すこと」(60)

内容1:『悲劇の誕生』読解――神話と歴史
ニーチェの思想上の敵:(ア)イロニーとロマン主義
ホワイトの主張:「永劫回帰の説もディオニュソスとアポロンの二元論も、歴史存在、歴史の知識、歴史過程についてのニーチェの考えを理解するのには不足」(61-62)

ニーチェの哲学者としての主要目的:「想像された本体、実体、精神の作用主(=主体)といったものへの信仰を解体すること」(63)
→「生を台無しにする「概念」にイメージを凝り固めてしまうことなく、想像力は再び「イメージと戯れることができるようになるだろう」(63)→「歴史」と「歴史過程」がその典型である「幻影」から解放すること→「悲劇芸術は幻影によって単なる実在を乗り越えると同時に、自らのもつ幻影を創造のために破壊しもする」(66)

「想起」rememberingと「忘却」forgetting/「忘失」oblivion:ニーチェは「想起」を危険視
「忘却」の力:「完全に澄み渡った視界とあふれるばかりに強い意志」を与える(64)
「想起」の力:「人間を俗物に変える、いわば予測が可能な存在に貶める」(64)
美・芸術:「醜いものばかりがあるという意識への反動として美への衝動を定義することになるのである」(67)→ニーチェ「私たちに芸術があるのは、真実で死なないためである」(67)
ニーチェが示したかったこと:「人間が単なる存在である状態から疎外を経由して世界と再び融和する弁証法的な過程は、広い意味での美学的な衝動のみの関数であるということ」(67)
→間違った楽観主義(ヘーゲル)と間違った悲観主義(ショーペンハウアー)を断罪
ニーチェが擁護するもの:「ディオニュソスかアポロンのいずれかが覇を唱える芸術ではなく、両者の相互依存を認める芸術」(68)
ニーチェの考え:「必要なのは、その形而上的な目的を認識している芸術(≠「リアリズム」)であり、哲学でも科学でもなく芸術だけが、人間のために生を形而上において正当化することができる」(71)

○「彼(ニーチェ)が信じていたのは、経験の世界を隠喩によって変換する人間の能力だけが、生を蝕む効果を備える記憶と忘却を共に駆除することができるということである。そして今度は、隠喩の意識のパラダイムが、つまり差異の中に類似を見出し類似の中に差異を見出す能力が、悲劇精神の消長の「歴史」を貫く原理として用いられたディオニュソスとアポロンが融合したイメージのモデルを提供する」(73)

内容2:「歴史の善用と悪用」(「生に対する歴史の功罪」)読解)――記憶と歴史
「歴史の善用と悪用」の位置:「『悲劇の誕生』で提示された新しい歴史記述のための方法が練られている」(83)
「歴史の善用と悪用」の関心:想起と忘却の力学

人間の忘却と動物の忘失の違い:「人間は歴史的に生きている」(74)
→「ニーチェが考えていたのは人間に特有の忘れられるようになるという問題であり、それは動物には無縁である。忘れられるようになるに先立って人間だけのものである記憶する能力がなければならない」(75)
→歴史意識の存在が前提
問題:「記憶する能力が過度に発達して生を脅かすことはなかったか」(75)
→「強調すべきであるのは、ニーチェが歴史の(さらには記憶の)真価の問題をそれがどれほど必要とされているのかという価格(価値)の問題として設定したということである」(76)→「生は歴史の奉仕を必要としているのであり、歴史が過剰になれば生を損なうというだけのことなのである」(76)
歴史の三つの必要:「ニーチェが認めるのは、人間は歴史を必要としており、その必要は三つに分類されるということである。「行動と戦争(闘争)に結びつける」必要、いにしえに触れ恭しい心を保つ助けとする必要、苦悩と死の願望を鎮静させる必要、というのがその三つである」(76)

三種の歴史:「偉人伝としての歴史、古物研究としての歴史、批判としての歴史」(76)
→「この三つ全てが、人間に特有の能力を養い、そして脅かしてもいるのである」(76)
(1)偉人伝としての歴史:生産的な面「偉大なる過去への尊敬をもとに未来に人間を向かわせる」、有害な面「自らが偉大になろうとする衝動を阻喪させる」(77)
(2)古物研究としての歴史:生産的な面「起源を尊重する気持ちを植え付ける」(77)、有害な面「懐古趣味」(78)
→両者に反対するものとして、批判としての歴史がある。
(3)批判としての歴史:生産的な面「「過去を打ち破ると同時に生きるためにそれを利用する」衝動」(77)、有害な面「極限に至れば「イロニーとしての自意識」を産み出す」(77-78)
→「古物研究としての歴史、批判としての歴史、偉人伝としての歴史はそれぞれ懐古趣味、現世主義、来世信仰になってしまう。必要なのはこれら三つの過去の解釈の綜合といったことであり、過去からの遁走ではない、過去から逃れることはできないのだから」(78)

三種の歴史に対するニーチェの提起:「隠喩の様態において作用する歴史意識」(79)
→「隠喩の様態にある歴史とは、まさに「歴史の善用と悪用」の最後の部で彼が「超歴史的」及び「非歴史的」観点と呼ぶものを支持する背後にあるもの」(79)
歴史意識に関する避けられるべき普遍的図式:ヘーゲル主義、ダーウィニズム、ハルトマンの無意識の哲学
→「こうした普遍的な図式のいっさいが避けられなければならないというのが、ニーチェが繰り返すことであり、それは歴史が人間の生の要求に応じるものだとしたとしたら必要なことである」(81)

ニーチェの結論「「歴史の病弊(malady of history)」への処方はやはり歴史でなければならない」(82)
(a)非歴史的unhistoricalなもの:「芸術の力であり、忘却の力、自らの周囲を狭い視野で区切る力」(82)
(b)超歴史的superhistoricalなもの:「永遠で安定した性格を生じるものに専一になろうとする過程」から、ディオニュソスとアポロンの合一である「芸術と宗教へと目を転じさせる力」」(82)
「要するに「非歴史的なものと超歴史的なものとは歴史が生を圧倒してしまう症状を自然に解消する薬剤である。つまり歴史病(historical disease)への治療薬なのだ」」(82)

◆ここまでのまとめ:「「歴史の善用と悪用」でニーチェが語るのは、生に寄与する歴史が何でないかだけである。それが何であるのかを言うことはない」(83)
→「歴史家に禁じられているのは、現在を犠牲にして過去を、未来を犠牲にして現在を絶対視すること、批判精神を持たずに偉人伝としてあるいは古物研究として歴史を、逆に俗物的で傲慢な批判として歴史を書くことである」(83)


*作成:櫻井 悟史
UP:20090629 REV:
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