ケアワークにおける諸問題の再検討――ケアの倫理を手がかりに
○佐藤 靜(東京大学大学院教育学研究科博士課程)
有馬 斉(東京大学大学院医学系研究科特任助教)
安部 彰(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)
本セッションを貫く主たるテーマである「ケアの分配」という考え方の前提にあるのは、「ケアワークは負担である」という理解である。「ケアは負担であるから分配しなければならない」というわけである。しかし、ケアが負担であるとはどういうことか。これは決して自明ではない。ケアに関わる仕事のすべてが負担だということか。そうでないとすれば、どのような行為がどのような意味において負担とされるのか。また、ケアの分配によって、その負担は本当に解消されうるのか。さらには、それらのケアに関わる活動/行為において、「ケアの倫理」はどのような影響を及ぼしているのか。本報告では、こうした問いを考察していく。
はじめに、ケアが負担であるとされる理由をその具体的な行為に即して考察する。子育てや看護、介護(介助)といったケアが負担とされるとき、多くの場合、そこには次の二つの要素があるとみなされているようである。@無償の仕事に大きな時間と手間を割くよう強要されることの負担と、Aケアという行為自体に内在する負担である。
@について。これが負担なのは明らかだろう。まず、これまでケアは、それを行なうことを好むと好まざるとに関わらず、たとえば家族だから、あるいは嫁だから、女だからといった理由で、特定の人―つまり女性―に半ば強要されてきた。こうした状況の下では、当人がケア以外のことをしたい―たとえばまとまった時間を趣味に費やしたい、家庭の外に出て仕事に就きたい等―と思っても、そうすることができない。このこと自体が負担になりえる。さらに、ケアに関わる仕事は無償であった。そのため、当人が経済的に満たされていない場合に、対価を得られるような他の仕事をしたいと思ってもそうすることができない。このことが負担をさらに増す。
Aについて。まず確認されるべきは、同じ「負担」であってもこれは@とは性格を異にするということである。つまり@は、ケアという行為特有の負担というわけではない。本人が望まず、かつそれ相応の対価もなしにある行為を強要されるとすれば、それは何も「ケア」でなくとも―たとえば「運転」や「研究」であっても―負担になるにちがいない。それに対してAは、いわばケアという行為の特性に由来するものである。ケアには、他人とのごく親密な関係の中で営まれる、一定の決まりきった作業内容をもたない、身体を動かすだけではなく愛情や共感といった感情の動きまで要求される、等の特徴がある。これらがケアワークに従事する人に大きな負担と感じられたり、しばしばバーンアウトを引き起こしたりするといった事実も存在するため、ケアワークはときに非人間的な仕事とみなされることもある。
さて、ケアの分配が推奨される背景には、ケアに、概して上記@Aのような負担が付きまとうことがあろう。ケアの分配は、まず、ケアに対価を付す(ケアを有償労働化する)ことを目的のひとつとする。その上で、ケアの担い手を労働市場において調達しようとする。分配が実現すれば、確かに@は大部分、解消するはずである(もちろん、「ケアを分配するべきだ」という主張に対する批判もある。たとえば、分配すると「肉親によるケア」や「愛あるケア」が失われ、子や被介護者といったケアを享受する側の人が精神的身体的に不利益を被るといった指摘がありえる。また、ケアの分配は理念としては正しくても、それを実施する上で困難や不都合が避けられないという批判もあるだろう。しかしこれらの批判には本発表では立ち入らない)。
しかしAについては、いくつかの留意すべき問題点が存在する。第一に、このようなケアの特性に由来する負担は、ケアの分配によっては解消されないと考えるのが妥当であろう。たとえ分配が何らかのかたちで成功したとしても、誰かがこの「非人間的」とされる大変な仕事を担わなければならないことに変わりはないからである。第二に、様々な論者がこの負担の第二の要素に言及しはするものの、その内実はこれまであまり明確に概念化されてきたとはいい難い。これまで、多くの論者がこれらの負担を必然的に伴うケアという行為の特性を、「感情労働」という概念を用いて説明しようと試みてきた。例えば、齋藤純一はケアに固有の特徴を「感情労働」の他に、「間身体性」、「非限定性」、「他者指向性」という概念を用いて説明しようとしている。しかし、これらに関する説明は検討の余地がある。第一に、ケアする者に課される負担や困難はこれら四つの特性が複雑に絡み合ったかたちであらわれる。そのため、具体的な場面に即し、これらの特性の相互関係を明らかにすることが求められよう。また、それら負担/困難を「ケアの倫理」が増幅させるという主張の妥当性を吟味する必要もあるだろう。第二に、ケアワークが無償/有償であるか、それが誰によって担われるかによっても、その負担の意味合いが違ってくると考えられる。特にこの二点目は、非常に重要な論点である。そもそもケアという行為に固有とされる特徴は、これまで明確に概念化されてきたといえるだろうか。もし、そうでないとすれば、ケアに固有の負担に関して提起されてきたさまざまな主張―「ケアには、他の仕事にはない、それに固有の負担が伴う」、「その負担は、分担/分配によっても解消しない」等――の妥当性も当然、再吟味される必要があろう。
よって、本報告は二部構成をとる。前半で「ケアの負担」とされるものをさまざまな視座から分析し、後半ではケアを「感情労働」としてとらえる見解に焦点を絞り、ケアに固有とされる負担の内実を考察する。
*作成:佐藤 靜・有馬 斉・安部 彰